過去ログ
楽園の失墜を前に
[2019/04/02]

教皇ヨハネスが、顔を憤怒の色に染めて軍議室へと入ってきた。
「ゲオルグ! ゲオルグ・クラーマー!」
「おや、これはこれは教皇猊下、どうかなさいましたか?」
そこではゲオルグと数人の大司教が軍議を行なっていた。
しかしそれも目に入っていないのか、ヨハネスは大司教達の前でいきなりゲオルグの胸ぐらを鷲掴みにする。
「“獄層”の魔女を奪われたとはどういうことです!」
「そのままの意味ですが?」
「取り戻しなさい! 直ちに! 今すぐに! 何よりも最優先して――」
「まだそんなことをおっしゃられるのですか、教皇猊下」
ゲオルグが軽く片手を払う。
それだけで、ヨハネスの全力の締め上げは解かれてしまった。
周りの大司教達も、「何を今頃」という感じの眼差しを教皇へと向けている。
「軍議は休憩としましょう、皆、退室を。私は教皇猊下と少しお話をします」
そして全ての大司教が出ていき、軍議室には二人だけが残る。
開口一番、ゲオルグはヨハネスに告げた。
「“獄層”の魔女を追った場合シャンバラは亡びますが、よろしいので?」
「な……?」
「すでに我が国は聖央都と僅かな管区を残すのみとなっており、イ・ラプセル、ヴィスマルク、ヘルメリアも順次侵攻してきておりますので」
肩をすくめるゲオルグに、ヨハネスはさらに顔を真っ赤にして叫んだ。
「何とかしなさい! それが枢機卿に任ぜられたお前の責務でしょう!」
「無論、力は尽くします。ええ。――ですが、この現状では、さすがに敗れた際のことも考えなければなりますまい」
「敗れた際、だと……?」
そのゲオルグの言葉に、ヨハネスは絶句した。
枢機卿に任ぜられたこの男が今告げた言葉。それが何を意味しているのか。
「栄光のシャンバラに、枢機卿自らが泥を塗ろうというのか!」
「今も言いましたが、全力は尽くします。我が方には未だ聖堂騎士団の何割かが残っています。これをもって聖央都の防衛に当たりますが、しかし、絶対必勝とはなりますまい。敗戦も視野に入れておくべきで――」
しかし、ヨハネスがゲオルグの言葉を遮った。
「お前は、お前という男は! よくもそのような破廉恥な……! 我が神より枢機卿という立場を与えられながら、敗北を考えるとは……!」
「残念なことに、今回の決戦に間に合わない者達もおりますので」
「言い訳はよい! お前はそれでも枢機卿なのですか!」
「ふむ、では逆にお聞ききしますが、教皇猊下は今まで何をしていたので?」
「……何ですって?」
ゲオルグの顔から笑みが消えた。
「ヨハネス・グレナデン。ハイオラクルという神に最も近い立場にありながら、あんたがこの戦いでしてきたことは何だ?、何もしちゃいないよなぁ? 他の連中が国を守らんとして自らの血肉を捧げる中、あんたはただ神のお膝元でのうのうとお祈りしていただけだ。――なぁ、そんなあんたが俺に何か言う権利、あるのかい?」
「ぶ、無礼な……、この、神に選ばれし教皇たる私に……!」
「勘違いするな」
ヨハネスが怒りを爆発させるよりも先に、ゲオルグが伸ばした右手が彼の首を掴んで締め上げていた。
「あんたを教皇に選んだのはシャンバラの民だ。我らが主ミトラースはあんたを選んだのではない。神として、人が選んだあんたにハイオラクルという立場を与えたに過ぎない」
「ぐ、が……、ァ……」
「主ミトラースにとって、ハイオラクルが誰かなどさしたる問題じゃねぇんだよ。あの方は『神』だ。種族としての神ではない、その在り方からしてすでに『神』なんだよ」
「ぐげ……、は、離し……」
「愛するか、罰するか。それこそが我らが主ミトラースだ」
そしてゲオルグはおもむろに手を離す。
空中に吊り上げられていたヨハネスが床に崩れ落ちて何度も咳き込んだ。
その彼へ、ゲオルグは近づいて片膝を突くと、
「我らが主は二十年前の真実をとっくにご存じだぜ、ヨハネスよ」
「…………ッッ!!?」
そっと耳打ちすると、ヨハネスはその身を大きく震わせた。
顔色を蒼白にして見上げてくる彼に、ゲオルグは小さな声で通達する。
「アルス・マグナを発射するまでの時間は何としても稼いでやるさ。あんたは神を守る肉壁の一枚にでもなってろ。それくらいはできるだろう?」
言って、そしてゲオルグは軍議室を出ていく。
すると閉じたドアの向こうから男の悲痛な嘆きがうっすら聞こえてきたが、当然、彼はそれを無視して去っていった。