過去ログ

動き出すヘルメリア

[2019/04/02]

 全てを飲み込む闇のように夜空に星はなく、果てが無いかのように水平線は広い。凪いだ海は音もなく、ただ蒸気船の汽笛だけが響いていた。
 フローラル型蒸気船――ヘルメリアの海軍が保有する輸送艦だ。時速16ノットの高速船だが武装はなく、戦いになれば逃げるしかない船。昨今の事情を鑑みれば、ヴィスマルク海軍が近くに居てもおかしくない状況なので、この渡航は危険度は高い。

「つまりまあ、そうなったら諦めろという事ですか」

 その船室で溜息を突くように一人の男が呟いた。シルクハットにスーツ。ステッキにトランク。軍の賓客である事を示す腕章をつけており、それが一般人であっても軍船に乗っている理由でもあった。

「国外追放というわけではなさそうですが、この扱いは何かの意図を感じますね」
「どういうことです、先生?」

 問い返したのは同室にいるネズミのケモノビトだ。耳に六つ穴が開いており、奴隷の証明ともいえる首輪をつけている。『先生』と呼ばれたノウブルの奴隷である。

「死んでも構わないか、あるいはその危険を推してでも急いで私を移送したいか。あるいはその両方か。
 向かう先は戦争真っただ中のシャンバラでしょうね」
「ニクソンさんでしょうか? ……危ない事させられるってことですよね、これ。先生はもう軍人じゃないのに」
「いろいろ切羽詰まっているんでしょうね。今シャンバラはヘルメリアの他にヴィスマルクやイ・ラプセルがひしめき合っています。
 ここで聖王都を落とした国が実質上この戦争の勝者となる。その為に各国動いていると言った感じでしょう。ご苦労様です」

 他人事のように――軍人ではない男からすれば事実他人事だが――呟いて、椅子に座る。テーブルの上に置いてあったコップに注がれたお茶に口を付ける。……お世辞にも美味いとは言えないのは既に諦めていた。

「まあ、十中八九イ・ラプセルの牽制に当てられるんでしょうが」
「……? ヘルメリア以外にも三つも国があるんですよね? どうしてイ・ラプセルってわかるんですか?」
「ヴィスマルクは地理関係上、ニルヴァンも欲しい所でしょう。そうなればイ・ラプセルとの交戦は必須。せいぜい聖王都に派遣できるのは半分程度。
 シャンバラは防戦に徹するでしょう。アルス・マグナに逆転をかける形でしょうね。あえて『撃たない』事を選択し、引き延ばしにかかる可能性もありますが、そこは新しい枢機卿の性格次第。
 プロメテウスが十全に動けないヘルメリアは火力不足。あの『新型』が完成していたとしても、聖王都を攻め入るには二国がぶつかっている間に隙を縫うしかありません。
 そうなれば聖王都を狙いに行ける位置に居るのはイ・ラプセルです。敵襲を予測し、防衛戦を引いてからの聖王都攻撃といったところでしょうか」
「イ・ラプセルさんて水なんとかで私たちの動きを予知した国ですよね? なにしても動き読まれるとかしてくる相手にどうするんです?」
「そうでもありません。確かに情報戦では脅威ですが、一度見ました。対策はいくらでも考えれます」

 言って『先生』は口を閉じて右手を動かす。同時にステッキで何度か床を叩いた。
 ネズミのケモノビトも口を閉じ、左手で図を描くように動かしながら、不自然に瞬きを繰り返す。
 符牒――コミューン内における身振り手振りでの意思伝達。その内容を知らなければ、見られていてもどんな情報を伝達しているかわかりはしない。

「情報を得る事と情報を理解できることは別問題です。四六時中こうするわけにもいきませんが」
「さっきみたいに『シャンバラのメイドって魔術でホウキを操ると思いますか?』とか短文なら大丈夫というわけですね」
「夢が膨らむじゃないですか、魔導メイド」
「せんせーはもうすこしきんちょーかんをもったほうがいいとおもいます」

 ――そして蒸気船はシャンバラにたどり着く。
 戦争の空気がシャンバラを満たしているのを、『先生』は確かに感じていた。

???