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神の復活

●
イ・ラプセルは、紛う事なき侵略者である。
暴虐の神アクアディーネを奉戴する無法の軍勢……自由騎士団が、この聖なる理想郷シャンバラを侵し、我ら神民の平和な日々の営みを蹂躙し、我々から全てを奪い去ったのだ。
あの者どものせいで私はこうして、残された最後の宝まで手放さなければならなくなったのだ。
「あ、あなた! 一体何なの、この人たちは!」
我が家の庭で、私の愛する妻エレオノラが悲鳴に等しい声をあげた。
5歳になる息子のスバルが、母にすがりつき怯えている。
庭に押し入って来た男たちが、値踏みをしている。
「ほうほう……いいじゃねえの。この坊ちゃんは高く売れる」
「奥さんも。歳いっちまってんのはしょうがねえけど、なかなかの値が付くぜ」
「良かったなあ旦那。あんたの借金、全部返して釣りが来るぜ」
男たちが、野卑な笑い方をする。
エレオノラが、蒼白になった。
「あなた……借金って、何……?」
私は目をそらせた。エレオノラが、声を震わせる。
「ねえ、私……毎日、働いているのよ? 朝から晩まで……その、お金は……?」
「旦那さんが全部、溶かしちまったんだよーん。御愁傷様でしたあ」
男の1人が笑いながら、エレオノラを嫌らしく抱き寄せる。
「いっ、嫌! 放して! 子供に触らないで!」
「へっへへへ。神民ってのはよォー、働きもしねえでこんな綺麗な奥さん貰えたんだよなあ。けど残念そんな時代は終わっちまったのよ」
「かあちゃんを、いじめるなー!」
暴れようとするスバルを、別の男が捕えた。
「こ、この子カワイイなああ、お肌ツルツルしてんなあ。俺がもらっちゃダメっすかあああ」
「馬鹿野郎、商品に手ぇ付けてんじゃねえよ」
そんな会話をぼんやりと聞き流しながら、私は言った。
「なあエレオノラ……お前が一生懸命、働いてくれているのは嬉しい。だがな、それは間違いなのだよ……我ら神民が、亜人ども異端どもの如く、汚らしい汗にまみれて働くなど……」
「働け」
偉そうな言葉と共に、男が1人、庭に押し入って来た。
「全員、動くな。当方はイ・ラプセル総督府の徴税担当官である」
がっしりとした身体に軍装をまとった兵士。
この地を不法に武力支配している、イ・ラプセルの侵略者の一員だ。
「元神民セラム・トニッシュ……貴様の私財を、差し押さえる。本日が今期納税の最終期限である」
「何でえ、お役人かい」
男の1人が、徴税官に証文を見せ付ける。
「申し訳ありませんがねえ、こちらのトニッシュさんは俺ら預りの物件なんすよ。ほら正式な書類もある。官憲の出る幕じゃねえんだよ」
正式な証文を、徴税官は奪って破り捨てた。
「な……! 何しやがる、てめえ」
激昂しかけた男が、鼻血の飛沫を散らせて吹っ飛んだ。徴税官が、拳を叩き込んでいた。
他の男たちが剣を抜き、獣の如く怒り喚き、徴税官に斬りかかって行く。
その全員を、徴税官は素手で殴り倒した。
暴力を振るったばかりの剛腕が、呆然とするスバルをひょいと抱き運ぶ。
エレオノラが血相を変えた。
「何をなさるの……!」
「こやつ、ろくな私財を持っておらぬ。ゆえに子供を預かる。奥方、貴女も来なさい」
徴税官が、ギロリと私に眼光を投げる。
「この男を、支えようなどと思ってはならん。こやつの傍に、子供を居させてはならんのだ」
●
シャンバラ皇国滅亡後、それまでシャンバラであった地にはイ・ラプセルによって総督府が置かれた。
シャンバラの民……神が全てを与えてくれる、と信じきって生きてきた人々に、真っ当な労働をさせる。そして税を納めさせる。
それが総督府の仕事である、とネリオ・グラークは思っている。
25歳。名門貴族グラーク侯爵家の子息ではあるが、色々あって飛ばされた。今は、総督府に勤める一介の民政官である。
民に納税をさせねばならない民政官としてネリオは、ある1人の人材に前々から目を付けていた。
「あんたを引き抜いて本当に良かったよ、ガロム・ザグ隊長」
「……今の私は隊長ではない、1人の兵士だ」
総督府の一室。ひと仕事を済ませてきたばかりのガロムが言った。
「それに引き抜かれたわけではないぞ、ネリオ男爵。貴方が直々に頭を下げるから、一時的に」
「ここで得難い経験を積み、より仕事の出来る男になって、アラム侯爵のもとへ帰るといい」
ガロムの主君アラム・ヴィスケーノ侯爵のもとへネリオは赴き、低頭して頼み込んだのだ。兵隊長ガロム・ザグを、シャンバラ総督府に貸し出して欲しい、と。
「民衆から力ずくで物や人を奪い取る……それが出来る人材を、シャンバラ総督府は求めていたのさ。徴税官ガロム・ザグ、あんたには昔の嫌な仕事を思い出させる事になるだろうが」
「……民衆からは、奪い取らねばならぬ時もある。それは理解している」
そう言ってガロムが奪い連れて来た民間人の母子に、ネリオは言葉をかけた。
「エレオノラ・トニッシュさん。貴女とお子さんには、総督府が用意した住宅に住んでもらいます。そこから今まで通り働きに出て下さい」
「あの……夫は……」
「いらないものは捨ててしまいましょう。お子さんが最優先です」
徴税官ガロム・ザグの今回の仕事は、滞納者から税金を搾り取る事ではない。セラム・トニッシュは、もはや払えるものを何も持っていないのだ。
真面目な労働者である奥方と、将来の納税者たる子息。両名の保護も、徴税官の仕事である。
「同じ元神民でも、女性は現実を見て下さる方が多いんです。貴女のようにね……男は駄目。過去の栄光にすがりついて何もしない奴ばかりですな」
言いつつネリオは身を屈め、エレオノラの幼い息子と目の高さを合わせた。
「……我々はね、君たち家族にとても酷い事をしている。許せないと思うなら、考えて下さい。どうすれば幸せになれるのか、どうすれば君のお母さんを守る事が出来るのか。君には時間が沢山ある、ゆっくり考えてみましょう」
「……ぼくたちが、わるいんだね……」
スバル・トニッシュは、ぽつりと言った。
「……ヨウセイさんたちを、いじめたから……ばちが、あたったんだね…」
何も応えられぬままガロムが、スバルの頭をぎこちなく撫でた。
●
「妻と子供が、イ・ラプセルの無法者に連れ去られました……このような事、許されて良いのでしょうか」
セラム・トニッシュが祈りを捧げている。
彼だけではない。
皇国滅亡に伴い全ての特権を失った人々が、広い礼拝堂を満たしていた。
かつて神民と呼ばれていた人々である。
「神罰を……暴虐極まりしイ・ラプセルに、神罰を……」
「我ら神民に……忠実なる神の下僕に、再び栄光を……」
「我らが神……ミトラースよ……」
荒廃した礼拝堂の、最奥部に安置・放置された巨大なもの。
死せる神・ミトラースの石像。
全てを失った人々による一方的な祈りを日々、押し付けられ浴びせられてきたそれが今、異変を起こしつつあった。
礼拝堂が、ズシリと揺らぐ。神の、足音である。
「おお……偉大なるミトラースよ……」
かつて神民であった人々が、歓びどよめく。
「死せる神は、日々を経て復活なされる! 聖典に記されたる奇跡」
「さあ、その御力をもって! 我らに救いを」
「悪しきイ・ラプセルに神罰を」
どよめきが、潰れてゆく。
復活した神が、元神民らを叩き潰してゆく。鮮血と脳漿が噴出し、人体の破片が飛散する。
神が復活した、わけでは断じてない。
ミトラースの石像が、イブリースと化しただけである。
イ・ラプセルは、紛う事なき侵略者である。
暴虐の神アクアディーネを奉戴する無法の軍勢……自由騎士団が、この聖なる理想郷シャンバラを侵し、我ら神民の平和な日々の営みを蹂躙し、我々から全てを奪い去ったのだ。
あの者どものせいで私はこうして、残された最後の宝まで手放さなければならなくなったのだ。
「あ、あなた! 一体何なの、この人たちは!」
我が家の庭で、私の愛する妻エレオノラが悲鳴に等しい声をあげた。
5歳になる息子のスバルが、母にすがりつき怯えている。
庭に押し入って来た男たちが、値踏みをしている。
「ほうほう……いいじゃねえの。この坊ちゃんは高く売れる」
「奥さんも。歳いっちまってんのはしょうがねえけど、なかなかの値が付くぜ」
「良かったなあ旦那。あんたの借金、全部返して釣りが来るぜ」
男たちが、野卑な笑い方をする。
エレオノラが、蒼白になった。
「あなた……借金って、何……?」
私は目をそらせた。エレオノラが、声を震わせる。
「ねえ、私……毎日、働いているのよ? 朝から晩まで……その、お金は……?」
「旦那さんが全部、溶かしちまったんだよーん。御愁傷様でしたあ」
男の1人が笑いながら、エレオノラを嫌らしく抱き寄せる。
「いっ、嫌! 放して! 子供に触らないで!」
「へっへへへ。神民ってのはよォー、働きもしねえでこんな綺麗な奥さん貰えたんだよなあ。けど残念そんな時代は終わっちまったのよ」
「かあちゃんを、いじめるなー!」
暴れようとするスバルを、別の男が捕えた。
「こ、この子カワイイなああ、お肌ツルツルしてんなあ。俺がもらっちゃダメっすかあああ」
「馬鹿野郎、商品に手ぇ付けてんじゃねえよ」
そんな会話をぼんやりと聞き流しながら、私は言った。
「なあエレオノラ……お前が一生懸命、働いてくれているのは嬉しい。だがな、それは間違いなのだよ……我ら神民が、亜人ども異端どもの如く、汚らしい汗にまみれて働くなど……」
「働け」
偉そうな言葉と共に、男が1人、庭に押し入って来た。
「全員、動くな。当方はイ・ラプセル総督府の徴税担当官である」
がっしりとした身体に軍装をまとった兵士。
この地を不法に武力支配している、イ・ラプセルの侵略者の一員だ。
「元神民セラム・トニッシュ……貴様の私財を、差し押さえる。本日が今期納税の最終期限である」
「何でえ、お役人かい」
男の1人が、徴税官に証文を見せ付ける。
「申し訳ありませんがねえ、こちらのトニッシュさんは俺ら預りの物件なんすよ。ほら正式な書類もある。官憲の出る幕じゃねえんだよ」
正式な証文を、徴税官は奪って破り捨てた。
「な……! 何しやがる、てめえ」
激昂しかけた男が、鼻血の飛沫を散らせて吹っ飛んだ。徴税官が、拳を叩き込んでいた。
他の男たちが剣を抜き、獣の如く怒り喚き、徴税官に斬りかかって行く。
その全員を、徴税官は素手で殴り倒した。
暴力を振るったばかりの剛腕が、呆然とするスバルをひょいと抱き運ぶ。
エレオノラが血相を変えた。
「何をなさるの……!」
「こやつ、ろくな私財を持っておらぬ。ゆえに子供を預かる。奥方、貴女も来なさい」
徴税官が、ギロリと私に眼光を投げる。
「この男を、支えようなどと思ってはならん。こやつの傍に、子供を居させてはならんのだ」
●
シャンバラ皇国滅亡後、それまでシャンバラであった地にはイ・ラプセルによって総督府が置かれた。
シャンバラの民……神が全てを与えてくれる、と信じきって生きてきた人々に、真っ当な労働をさせる。そして税を納めさせる。
それが総督府の仕事である、とネリオ・グラークは思っている。
25歳。名門貴族グラーク侯爵家の子息ではあるが、色々あって飛ばされた。今は、総督府に勤める一介の民政官である。
民に納税をさせねばならない民政官としてネリオは、ある1人の人材に前々から目を付けていた。
「あんたを引き抜いて本当に良かったよ、ガロム・ザグ隊長」
「……今の私は隊長ではない、1人の兵士だ」
総督府の一室。ひと仕事を済ませてきたばかりのガロムが言った。
「それに引き抜かれたわけではないぞ、ネリオ男爵。貴方が直々に頭を下げるから、一時的に」
「ここで得難い経験を積み、より仕事の出来る男になって、アラム侯爵のもとへ帰るといい」
ガロムの主君アラム・ヴィスケーノ侯爵のもとへネリオは赴き、低頭して頼み込んだのだ。兵隊長ガロム・ザグを、シャンバラ総督府に貸し出して欲しい、と。
「民衆から力ずくで物や人を奪い取る……それが出来る人材を、シャンバラ総督府は求めていたのさ。徴税官ガロム・ザグ、あんたには昔の嫌な仕事を思い出させる事になるだろうが」
「……民衆からは、奪い取らねばならぬ時もある。それは理解している」
そう言ってガロムが奪い連れて来た民間人の母子に、ネリオは言葉をかけた。
「エレオノラ・トニッシュさん。貴女とお子さんには、総督府が用意した住宅に住んでもらいます。そこから今まで通り働きに出て下さい」
「あの……夫は……」
「いらないものは捨ててしまいましょう。お子さんが最優先です」
徴税官ガロム・ザグの今回の仕事は、滞納者から税金を搾り取る事ではない。セラム・トニッシュは、もはや払えるものを何も持っていないのだ。
真面目な労働者である奥方と、将来の納税者たる子息。両名の保護も、徴税官の仕事である。
「同じ元神民でも、女性は現実を見て下さる方が多いんです。貴女のようにね……男は駄目。過去の栄光にすがりついて何もしない奴ばかりですな」
言いつつネリオは身を屈め、エレオノラの幼い息子と目の高さを合わせた。
「……我々はね、君たち家族にとても酷い事をしている。許せないと思うなら、考えて下さい。どうすれば幸せになれるのか、どうすれば君のお母さんを守る事が出来るのか。君には時間が沢山ある、ゆっくり考えてみましょう」
「……ぼくたちが、わるいんだね……」
スバル・トニッシュは、ぽつりと言った。
「……ヨウセイさんたちを、いじめたから……ばちが、あたったんだね…」
何も応えられぬままガロムが、スバルの頭をぎこちなく撫でた。
●
「妻と子供が、イ・ラプセルの無法者に連れ去られました……このような事、許されて良いのでしょうか」
セラム・トニッシュが祈りを捧げている。
彼だけではない。
皇国滅亡に伴い全ての特権を失った人々が、広い礼拝堂を満たしていた。
かつて神民と呼ばれていた人々である。
「神罰を……暴虐極まりしイ・ラプセルに、神罰を……」
「我ら神民に……忠実なる神の下僕に、再び栄光を……」
「我らが神……ミトラースよ……」
荒廃した礼拝堂の、最奥部に安置・放置された巨大なもの。
死せる神・ミトラースの石像。
全てを失った人々による一方的な祈りを日々、押し付けられ浴びせられてきたそれが今、異変を起こしつつあった。
礼拝堂が、ズシリと揺らぐ。神の、足音である。
「おお……偉大なるミトラースよ……」
かつて神民であった人々が、歓びどよめく。
「死せる神は、日々を経て復活なされる! 聖典に記されたる奇跡」
「さあ、その御力をもって! 我らに救いを」
「悪しきイ・ラプセルに神罰を」
どよめきが、潰れてゆく。
復活した神が、元神民らを叩き潰してゆく。鮮血と脳漿が噴出し、人体の破片が飛散する。
神が復活した、わけでは断じてない。
ミトラースの石像が、イブリースと化しただけである。
†シナリオ詳細†
■成功条件
1.イブリース(1体)の撃破
お世話になっております。ST小湊拓也です。
旧シャンバラ領内のとある礼拝堂で、ミトラースの石像がイブリース化しました。これを討滅して下さい。
OP中では人死にが出ておりますが、自由騎士の皆様には、最初の1人がイブリースに殺される寸前で礼拝堂内に到着していただく事になります。
逃げ惑う元神民たちの処遇はお任せいたします。彼らの生存は成功条件には含まれません。
放っておけば礼拝堂を出て殺戮を開始するであろう、イブリースの破壊こそが最優先であります。
ミトラース像の攻撃手段は、怪力による白兵戦(攻近単)と怨念の噴射(魔遠範、BSカース2)。
時間帯は深夜。礼拝堂内は一応、篝火が灯っていて視界は確保されております。
それでは、よろしくお願い申し上げます。
旧シャンバラ領内のとある礼拝堂で、ミトラースの石像がイブリース化しました。これを討滅して下さい。
OP中では人死にが出ておりますが、自由騎士の皆様には、最初の1人がイブリースに殺される寸前で礼拝堂内に到着していただく事になります。
逃げ惑う元神民たちの処遇はお任せいたします。彼らの生存は成功条件には含まれません。
放っておけば礼拝堂を出て殺戮を開始するであろう、イブリースの破壊こそが最優先であります。
ミトラース像の攻撃手段は、怪力による白兵戦(攻近単)と怨念の噴射(魔遠範、BSカース2)。
時間帯は深夜。礼拝堂内は一応、篝火が灯っていて視界は確保されております。
それでは、よろしくお願い申し上げます。
状態
完了
完了
報酬マテリア
6個
2個
2個
2個




参加費
100LP [予約時+50LP]
100LP [予約時+50LP]
相談日数
7日
7日
参加人数
6/6
6/6
公開日
2020年05月04日
2020年05月04日
†メイン参加者 6人†
●
「驚きましたよネリオ男爵。あなたも随分と大物になられた」
声をかけられて、ネリオ・グラークはようやく気付いた。
総督府の回廊。豪奢な柱の陰で、その青年は優雅に腕組みをしている。
「ここまで命を狙われる人を私、久しぶりに見ましたよ」
青年の足元で、男が2人、倒れている。暗殺者の類であろう事は、一見して明らかだ。
「……貴方か」
ネリオは、若者の方を見ずに言った。
「助かった……公爵家の方に、借りを作ってしまうとは。恐ろしい話ではある」
「恩を売る気はありませんよ。それより、いささか不用心では? オラクルを1人、護衛に雇ったと聞きましたが」
「護衛ではないよ。複数の場所にイブリースが出現しているようなのでね、彼には転戦をしてもらっている」
「では、その間。私があなたの護衛を務めましょう」
青年は、微笑んだようだ。
「大きめの戦いに、参加し損ねたところでしてね……暇なのですよ」
●
アクアディーネは、慈愛の女神である。そう言われてはいる。
だが実はミトラースよりも冷酷無慈悲な神なのではないか、と『強者を求めて』ロンベル・バルバロイト(CL3000550)は思う時がある。
ミトラースは、自身に隷従する者たちに対しては無条件の恩恵をもたらした。
アクアディーネは違う。
祈りを捧げる者たちに、自立を求める。己の足で立ち上がり、歩み進む事を強いる。
「そりゃキツいだろうよ、この神民ってえ連中にはなあ」
今や『神民』とは名ばかりの、この世で最も無様な人間たちに、ロンベルは眼光を投げた。
皆、口々にミトラースの名を弱々しく呟きながら、おたおたと逃げ惑っている。
そのミトラース神が地響きを立てて、そこへ襲いかかる。このままでは、無様で惨めな元神民たちが叩き潰される。
何か1つ、間違っていたら、ロンベル自身が叩き潰していたかも知れない者たちである。助ける理由も見殺しにする理由も、見つからない。
などとロンベルが思っている間に、『戦場に咲く向日葵』カノン・イスルギ(CL3000025)が動いていた。
「早く逃げて!」
オニヒトの少女の小さな両手から、気の輝きが迸っていた。回天號砲。
それが、ミトラース神を直撃する。
否、神ではない。ただ単に、ミトラースの石像がイブリースと化しただけだ。
悪魔化した石像が、微かによろめきながらカノンの方を向く。ロンベルの方を向く。自由騎士たちと対峙する。
「本物の神より強固な事はあるまい、とは思うが……」
石造りの巨体を見据えて『重縛公』テオドール・ベルヴァルド(CL3000375)が言った。
「……これはこれで、難儀な相手ではある」
「大丈夫、こないだのアレほどじゃないと思う」
カノンの言う『アレ』を、ロンベルは知らない。ただ、こんな寂れた礼拝堂の屋内に収まるミトラース像とは比べ物にならないほど巨大な、旧古代神時代の巨石像が、イブリースと化した事件があったらしい。
「この大きさなら、普通に破壊出来るよ。あの時みたいな戦い方は、しなくていいと思う」
「そのようだね……やれやれ、助かった」
安堵しているのは『紅の傀儡師』マグノリア・ホワイト(CL3000242)である。
「とは言え、厄介な相手であるのは間違いない。長丁場になりそうだ……下準備を、怠るべきではないね」
言葉と共にマグノリアが、きらきらと光を振り撒いた。『その瞳は前を見つめて』ティルダ・クシュ・サルメンハーラ(CL3000580)に対してだ。体力・気力の、自然回復をもたらす術式。
それを施されたティルダが、イブリースを見据える。単なるイブリースでしかない、と彼女も頭では理解しているはずであった。
だが、ティルダの声は低く震えている。
「ミトラース……」
良い震えだ、とロンベルは思った。ティルダは今、憎しみを剥き出しにしようとしている。
それを、マグノリアが心配しているようだ。
「ティルダ……余計な事だとは、思うけれど」
「……大丈夫、わたしは冷静です。自分では、そのつもりです」
ティルダの、口調は静かである。藍色・桃色の瞳には、しかし暗い炎が灯っている。
「もしかしたら、取り乱して……皆さんに、迷惑をかけてしまうかも知れません。そうなったら、わたしを殴って止めて下さい。マグノリアさんも、ロンベルさんも」
その眼光が、ミトラース像の足元を睨む。
魔力の泥沼、とでも言うべきものが、石造りの巨体の両脚にまとわりつく。
ただでさえ動きが俊敏とは言い難いイブリースから、移動力と回避力を完全に奪う。こちら側からは、ほぼ一方的に近い攻撃が可能となる。
ティルダは決して、冷静さを失ってはいない。
「そんな事はしねえ。いいじゃねえか、大いに取り乱すといい」
言いつつロンベルは、力強い両手指で七星の印を切り結んだ。
誰に言っても信じてもらえないが、自分ロンベル・バルバロイトという獣人の大男は本来、戦士ではなく呪術士。テオドールやティルダと同職なのである。
「俺も今から……ちっとばかり、トチ狂うからよ……」
筋肉と獣毛で隆起している胸板に、死を司る七星の輝きが浮かび上がる。
「俺が何かバカをやらかしたら……ぶちのめして止めてくれ。カノン嬢ちゃんも、シスターもよ」
「そうしたいのは山々ですけどね。さしあたって私には、やらなきゃいけない事があります」
カノンに「逃げろ」と言われたにもかかわらず、まごまごとして煮え切らずにうろたえている元神民たちの方へ、『緋色の拳』エルシー・スカーレット(CL3000368)が向かって行く。要救助者の避難誘導を、彼女は引き受けたようである。
「ロンベルさんは可能な限り自力で自制して下さい……さて皆さん逃げましょう、ここは危険ですからね。何しろ御覧の通り、神がお怒りです」
幼児の群れを引率する保母の如くエルシーが、大勢の男たちを礼拝堂の外へと押し出して行く。
「な、何だ……お前は……」
「シャンバラに出現せし謎の美女☆聖職者です!」
謎の美女が、この無様な元神民たちに対し、どこまで苛立ちを抑えていられるのか見ものではある。
が、それよりも今は眼前のイブリースだ。怒れる神を、力で鎮めなければならない。
「なあミトラース……あんたとは、長い付き合いは出来なかったけどよ……」
死を司る星の力を全身に漲らせながら、ロンベルは踏み込んだ。戦斧を、神に叩き付けていった。
「……おめえさんに引導渡すのは、やっぱ俺の役目ってぇ気がするぜええええええええっ!」
七星の呪いを宿した斬撃が、悪魔化した神像に打ち込まれる。微量の、石の破片が散った。
間髪入れず、テオドールが片手を掲げる。
「我らも仕掛けようか、ティルダ嬢」
「はいっ……」
2人の呪術士が、掲げた片手で存在しない何かを握り潰しにかかる。
ゴルサウア2名分の呪力が、イブリースに束縛・圧迫を加えてゆく。石造りの巨体に、細かな亀裂が走った。
その様を見据えるティルダの瞳で、暗い炎が明るく燃え盛っている。
申し分のない憎悪と闘志だ、とロンベルは思った。
●
ミトラースの石像が、毒々しい煙のようなものを吐き出していた。
瘴気の渦。それが、カノンとロンベルを猛襲し包み込む。両名とも血を吐き、うずくまった。
自分も早急に、戦線に戻らなければならない。
礼拝堂の出入口付近でエルシーは、連行してきた要救助者たちに向かって言った。
「私はこれから怒れる神の御心を鎮めて参ります。貴方たちは絶対、近付かないように。ぜつ☆ちか! ですよ」
放心したり俯いたりしている元神民たちの中から、微かな声が上がった。1人が、何かを言っている。
「……お前ら……だな……」
エルシーは、辛うじて聞き取った。
「……教皇猊下の、お命を奪ったのは……お前ら自由騎士団なんだろう……?」
若い男だった。燃え盛る憎しみの眼光が、自由騎士団の戦う様に向けられている。
教皇ヨハネス・グレナデンと最後に戦った少女が、小さな身体で巨大なイブリースにぶつかって行く。その愛らしい五指が牙となり、咆哮そのものの気の奔流をミトラース像に叩き込む。
「……恨み言は、今じゃない時に私が聞いてあげます。ここで大人しくしているように」
エルシーは、元神民たちに背を向けた。
シャンバラの民が、自由騎士団を憎む。当然の事であった。
それだけを思い、床を蹴る。疾駆し、踏み込む。狼の速度で。
狼牙の拳を、エルシーはイブリースに打ち込んで行った。
「皆さん、お待たせです!」
石を粉砕した事はあるが、その時とも比べ物にならない強固な手応えが返って来る。ミトラースの石像は、魔素の力で今や石ではない何かに変わっているのだ。
「シスター、彼らは……」
苦しげに膝をついたロンベルの巨体に、きらきらと魔導医療の光を投げかけながら、マグノリアが言った。
「……身の安全に関しては、もう心配無し……か。まあ、心のありようまで改めてくれるはずもないかな」
「私達に出来るのは、せいぜい命を助けてあげるくらいです。心までは……ね」
「へ……そもそも、とっくの昔に心を亡くしちまってるような連中さ」
動けなかったロンベルが、ゆらりと立ち上がった。
「ほっときゃいい。それより……このデカブツを、何とかしねえとな」
「呪いは解除した。戦えるかい? ロンベル」
「ああ、すまねえな御老体……おらあ、行くぜミトラース!」
胸板の七星を輝かせながら、ロンベルがイブリースに斬りかかって行く。
イブリースが、テオドール及びティルダによる呪力の束縛圧迫に逆らい、全身に細かな亀裂を広げながら応戦する。石の豪腕が、ロンベルに叩きつけられる。
いや、その直前。
「させぬよ……!」
テオドールが、杖をかざした。
氷の荊が生じ、振り上がった石像の片腕に絡み付く。
そこへロンベルが戦斧を打ち込んだ。石の豪腕が、砕け散った。
直後、ロンベルの身体がへし曲がって血飛沫を散らせた。
イブリース化した石像の、巨大な左脚。蹴りではない。ただ歩行するだけで、ロンベルを蹴散らしていた。
倒れたロンベルを庇う形にエルシーは踏み込み、鋭利な両手指を獅子の牙に変えた。食らいつくような一撃を、石像の脇腹の辺りにめり込ませる。
「ロンベルさん……私はね、あの人たちが心まで亡くしているとは思いません」
憎しみの眼光を感じながら、エルシーは気の光の奔流をイブリースに流し込んだ。
「私たちを、憎んでいる人もいます。心が亡くなるより、まし……なんでしょうか、ね」
●
血まみれの、手負いの獣が2頭。マグノリアには、そう見えた。大型の猛獣と、小型肉食獣。
ロンベルと、カノンだった。交差するように、イブリースへと激突して行く。
大型の戦斧と、小さく鋭利な拳が、石造りの巨体を左右から直撃した。鐘の音が鳴り響いた、ようにマグノリアには聞こえた。
石の破片が、大量に飛散する。
「おっと、あまり飛び散ってもらっては困るな」
言いつつ、テオドールが呪術の印を切る。
まだ辛うじて原形をとどめているミトラース像が、飛び散りかけた大量の破片もろとも、白いものに閉じ込められていた。
轟音を立てて渦を巻く、白色の波動。雹を含む寒風の嵐。超々局地的な、猛吹雪である。
荒れ狂う冷気の嵐が、崩落しかけた石の巨体をビキビキと凍り付かせていった。
その有り様に向かって、ティルダが嫋やかな片手を掲げている。
「……ヨウセイの受けた仕打ちを肯定し、イ・ラプセルを逆恨みする……」
優美な五指が、目に見えぬ何かを握り潰してゆく。
「……そんな人たちでも、わたしは助けます。守りますよ。皆、かわいそうな人たちだから……ミトラース! あなたに騙され狂わされた、哀れな人々だから!」
目に見えぬ巨大な手が、イブリースを握り潰した。すでに存在しない神の姿が、完全に砕け崩壊した。
氷の破片か石の破片か判然としない白いものが、床に大量にぶちまけられる。
「終わり……ましたか……」
マグノリアの細い腕の中で、エルシーが呻く。
「こないだの大物よりは……まあ、与し易い相手でしたかね」
「……君は殺されかけたけどね、シスター。動けるかい」
「大丈夫。治してくれて、ありがとうございました。お礼に今度スペシャルメニューを考えてあげますね」
「ほ、程々に頼むよ。それよりも」
礼拝堂、出入り口付近でうろうろしている者たちに、マグノリアは視線を投げた。
「ある意味……イブリース退治よりも厄介な問題が、残っているわけだが」
「……なぁに、あんなのは面倒でも何でもねえ」
ロンベルが、血まみれのまま彼らに歩み迫って行く。止めるべきか、などと考えている暇もなかった。
「よう、腑抜けども。お前らを本当の神民にしてやろうか」
そんな事を言いながら、元神民たちの眼前に戦斧を放り出す。
「……さあ。ミトラースを裏切ってアクアディーネについた背教者が、ここにいるぜ? そいつを拾え。俺の首を叩き落としてみろ。ああ、もちろん反撃はするぜ」
ロンベルが、巨大な拳を握った。
「どうだい。命懸けで神の仇を取ろうって奴はいねえのか?」
1人が、戦斧に飛びついた。
「……お前ら……!」
若い男だった。その細い全身から、目に見えるような憎しみが立ちのぼっている。
だが、憎しみだけではロンベルの戦斧は持ち上がらない。
「……教皇猊下を……よくも、猊下を!」
「ヨハネス教皇は、立派に勇敢に戦ったよ。君も戦ってみる?」
カノンが進み出て来て、ロンベルと並んだ。
「おいおい、嬢……」
「ロンベル兄さん、だけじゃあないよ。シャンバラの人たちにとっては、自由騎士全員が憎い相手……」
カノンは言った。
「……特に。ヨハネス教皇を殺したのは、カノンだから」
若者が、もはや表記不可能な憎悪の絶叫を張り上げる。
その細い身体で、貧弱な腕で、しかし戦斧は持ち上がらない。微動だにしない。
ロンベルが微笑みかける。
「何だ、持ち上がらねえのか。しょうがねえ、こっちの投げ刃でも使ってみるか? これもキツいか」
「……そこまでにしておけ。この場での戦いは、もはや終わりだ」
テオドールが言った。
「シャンバラの人々にとって我らの言葉など、侵略者の厚かましい言い分に過ぎぬのであろうが言わせてもらう。かつて貴卿らが享受していた富は、人の犠牲の上に成り立っていたものだ……知らなかった、では済まされぬぞ。わかっていような?」
「……放っておきましょう、こんな人たちは」
ティルダの口調は、冷たいほどに穏やかである。
「知らぬふり、見て見ぬふりをし続けたいなら、そうすればいいと思います。それが……この方々にとっては、幸せな生き方なのでしょうから」
「……そう言ってくれるな。この連中にも、生き方を改めてもらわねばならん」
言葉と共に、たくましい人影が1つ、礼拝堂に歩み入って来た。血まみれの兵士だった。
「ガロムさん!」
カノンが、声を弾ませた。
「久しぶり! ここで、お仕事してたんだね」
「出向、というような形になるのかな」
「お会いする度に怪我してますねえ、ガロムさんは」
エルシーも声をかけた。
「……ここ以外にも、イブリースが?」
「最も難儀な所を、貴公らに押し付ける形となってしまった……来てくれた事、感謝する」
「何。徴税の任務に治安維持、イブリース討伐……全てをこなしている君に比べたら、大した事はない」
言いつつマグノリアは、ガロムの負傷した身体にキラキラと魔導医療の輝きを投げかけた。
「君は……少し、働き過ぎではないのかな。総督府に、いいように使われているように見えてしまう」
「そうかな」
「徴税官ガロム・ザグ。貴卿の働きぶり、噂として聞き及んでいる」
テオドールが言う。
「税を納められぬ者らの妻や子を、無理矢理に連れ去り人買いに売り渡している……とな。無論そのようなわけはなく、保護しているのであろうが」
「許せん、か?」
「……いや。己の家族を売るなど、私とて口頭注意のみで済ませられる自信はない」
テオドールは、元神民たちに一瞥を投げた。
「だが……彼らには、少しずつ理解してもらう他あるまいとは思う。これは長い目で見るべき問題ではないかな」
「長い目で見るのは構わん。だが……」
怯える元神民たちに、ガロムの眼光が向けられる。
「わかっているのだろうな!? 今の貴様らのもとに、子供たちを居させるわけにはいかんのだぞ」
「……労働と呼べるものではないけれど。僕は最近、土いじりをしたよ」
ガロムの怒声に身を竦ませた者たちに向かって、マグノリアは語った。
「土の配合はね、ホムンクルスの成分調整よりもずっと難しい。種を埋めて水をやり、雑草を抜く……イブリースと戦うよりも、難しい。だけど君たちなら、僕よりも上手に出来るのではないかと思う。自分の花を……咲かせてみよう、とは思わないかな? そう、そのためにも」
語りつつ、ガロムを見据える。
「……総督府は彼らに、道を示さなければならないと思う。働け……と命令したところで、働く事を知らない人々は何も出来ない。何のための仕事か? それを考えさせ、理解させなければ……例えば、大切な家族のため」
「……目的を持たせろ、とでも言うのか。こちら側から」
「目的……自身の存在意義、と言い換えてもいい。それを見い出せなければ……心の火は、消えてしまうよ。人は、何も出来なくなる」
「自身の存在意義。見い出してもらわねばならん、自力でな」
ガロムは断言した。
「こちらから示し与えるもの、であってはならんのだ。民衆に、己の頭で考えさせない……ベレオヌス・ヴィスケーノはな、そのようにして暴君と化したのだぞ」
「驚きましたよネリオ男爵。あなたも随分と大物になられた」
声をかけられて、ネリオ・グラークはようやく気付いた。
総督府の回廊。豪奢な柱の陰で、その青年は優雅に腕組みをしている。
「ここまで命を狙われる人を私、久しぶりに見ましたよ」
青年の足元で、男が2人、倒れている。暗殺者の類であろう事は、一見して明らかだ。
「……貴方か」
ネリオは、若者の方を見ずに言った。
「助かった……公爵家の方に、借りを作ってしまうとは。恐ろしい話ではある」
「恩を売る気はありませんよ。それより、いささか不用心では? オラクルを1人、護衛に雇ったと聞きましたが」
「護衛ではないよ。複数の場所にイブリースが出現しているようなのでね、彼には転戦をしてもらっている」
「では、その間。私があなたの護衛を務めましょう」
青年は、微笑んだようだ。
「大きめの戦いに、参加し損ねたところでしてね……暇なのですよ」
●
アクアディーネは、慈愛の女神である。そう言われてはいる。
だが実はミトラースよりも冷酷無慈悲な神なのではないか、と『強者を求めて』ロンベル・バルバロイト(CL3000550)は思う時がある。
ミトラースは、自身に隷従する者たちに対しては無条件の恩恵をもたらした。
アクアディーネは違う。
祈りを捧げる者たちに、自立を求める。己の足で立ち上がり、歩み進む事を強いる。
「そりゃキツいだろうよ、この神民ってえ連中にはなあ」
今や『神民』とは名ばかりの、この世で最も無様な人間たちに、ロンベルは眼光を投げた。
皆、口々にミトラースの名を弱々しく呟きながら、おたおたと逃げ惑っている。
そのミトラース神が地響きを立てて、そこへ襲いかかる。このままでは、無様で惨めな元神民たちが叩き潰される。
何か1つ、間違っていたら、ロンベル自身が叩き潰していたかも知れない者たちである。助ける理由も見殺しにする理由も、見つからない。
などとロンベルが思っている間に、『戦場に咲く向日葵』カノン・イスルギ(CL3000025)が動いていた。
「早く逃げて!」
オニヒトの少女の小さな両手から、気の輝きが迸っていた。回天號砲。
それが、ミトラース神を直撃する。
否、神ではない。ただ単に、ミトラースの石像がイブリースと化しただけだ。
悪魔化した石像が、微かによろめきながらカノンの方を向く。ロンベルの方を向く。自由騎士たちと対峙する。
「本物の神より強固な事はあるまい、とは思うが……」
石造りの巨体を見据えて『重縛公』テオドール・ベルヴァルド(CL3000375)が言った。
「……これはこれで、難儀な相手ではある」
「大丈夫、こないだのアレほどじゃないと思う」
カノンの言う『アレ』を、ロンベルは知らない。ただ、こんな寂れた礼拝堂の屋内に収まるミトラース像とは比べ物にならないほど巨大な、旧古代神時代の巨石像が、イブリースと化した事件があったらしい。
「この大きさなら、普通に破壊出来るよ。あの時みたいな戦い方は、しなくていいと思う」
「そのようだね……やれやれ、助かった」
安堵しているのは『紅の傀儡師』マグノリア・ホワイト(CL3000242)である。
「とは言え、厄介な相手であるのは間違いない。長丁場になりそうだ……下準備を、怠るべきではないね」
言葉と共にマグノリアが、きらきらと光を振り撒いた。『その瞳は前を見つめて』ティルダ・クシュ・サルメンハーラ(CL3000580)に対してだ。体力・気力の、自然回復をもたらす術式。
それを施されたティルダが、イブリースを見据える。単なるイブリースでしかない、と彼女も頭では理解しているはずであった。
だが、ティルダの声は低く震えている。
「ミトラース……」
良い震えだ、とロンベルは思った。ティルダは今、憎しみを剥き出しにしようとしている。
それを、マグノリアが心配しているようだ。
「ティルダ……余計な事だとは、思うけれど」
「……大丈夫、わたしは冷静です。自分では、そのつもりです」
ティルダの、口調は静かである。藍色・桃色の瞳には、しかし暗い炎が灯っている。
「もしかしたら、取り乱して……皆さんに、迷惑をかけてしまうかも知れません。そうなったら、わたしを殴って止めて下さい。マグノリアさんも、ロンベルさんも」
その眼光が、ミトラース像の足元を睨む。
魔力の泥沼、とでも言うべきものが、石造りの巨体の両脚にまとわりつく。
ただでさえ動きが俊敏とは言い難いイブリースから、移動力と回避力を完全に奪う。こちら側からは、ほぼ一方的に近い攻撃が可能となる。
ティルダは決して、冷静さを失ってはいない。
「そんな事はしねえ。いいじゃねえか、大いに取り乱すといい」
言いつつロンベルは、力強い両手指で七星の印を切り結んだ。
誰に言っても信じてもらえないが、自分ロンベル・バルバロイトという獣人の大男は本来、戦士ではなく呪術士。テオドールやティルダと同職なのである。
「俺も今から……ちっとばかり、トチ狂うからよ……」
筋肉と獣毛で隆起している胸板に、死を司る七星の輝きが浮かび上がる。
「俺が何かバカをやらかしたら……ぶちのめして止めてくれ。カノン嬢ちゃんも、シスターもよ」
「そうしたいのは山々ですけどね。さしあたって私には、やらなきゃいけない事があります」
カノンに「逃げろ」と言われたにもかかわらず、まごまごとして煮え切らずにうろたえている元神民たちの方へ、『緋色の拳』エルシー・スカーレット(CL3000368)が向かって行く。要救助者の避難誘導を、彼女は引き受けたようである。
「ロンベルさんは可能な限り自力で自制して下さい……さて皆さん逃げましょう、ここは危険ですからね。何しろ御覧の通り、神がお怒りです」
幼児の群れを引率する保母の如くエルシーが、大勢の男たちを礼拝堂の外へと押し出して行く。
「な、何だ……お前は……」
「シャンバラに出現せし謎の美女☆聖職者です!」
謎の美女が、この無様な元神民たちに対し、どこまで苛立ちを抑えていられるのか見ものではある。
が、それよりも今は眼前のイブリースだ。怒れる神を、力で鎮めなければならない。
「なあミトラース……あんたとは、長い付き合いは出来なかったけどよ……」
死を司る星の力を全身に漲らせながら、ロンベルは踏み込んだ。戦斧を、神に叩き付けていった。
「……おめえさんに引導渡すのは、やっぱ俺の役目ってぇ気がするぜええええええええっ!」
七星の呪いを宿した斬撃が、悪魔化した神像に打ち込まれる。微量の、石の破片が散った。
間髪入れず、テオドールが片手を掲げる。
「我らも仕掛けようか、ティルダ嬢」
「はいっ……」
2人の呪術士が、掲げた片手で存在しない何かを握り潰しにかかる。
ゴルサウア2名分の呪力が、イブリースに束縛・圧迫を加えてゆく。石造りの巨体に、細かな亀裂が走った。
その様を見据えるティルダの瞳で、暗い炎が明るく燃え盛っている。
申し分のない憎悪と闘志だ、とロンベルは思った。
●
ミトラースの石像が、毒々しい煙のようなものを吐き出していた。
瘴気の渦。それが、カノンとロンベルを猛襲し包み込む。両名とも血を吐き、うずくまった。
自分も早急に、戦線に戻らなければならない。
礼拝堂の出入口付近でエルシーは、連行してきた要救助者たちに向かって言った。
「私はこれから怒れる神の御心を鎮めて参ります。貴方たちは絶対、近付かないように。ぜつ☆ちか! ですよ」
放心したり俯いたりしている元神民たちの中から、微かな声が上がった。1人が、何かを言っている。
「……お前ら……だな……」
エルシーは、辛うじて聞き取った。
「……教皇猊下の、お命を奪ったのは……お前ら自由騎士団なんだろう……?」
若い男だった。燃え盛る憎しみの眼光が、自由騎士団の戦う様に向けられている。
教皇ヨハネス・グレナデンと最後に戦った少女が、小さな身体で巨大なイブリースにぶつかって行く。その愛らしい五指が牙となり、咆哮そのものの気の奔流をミトラース像に叩き込む。
「……恨み言は、今じゃない時に私が聞いてあげます。ここで大人しくしているように」
エルシーは、元神民たちに背を向けた。
シャンバラの民が、自由騎士団を憎む。当然の事であった。
それだけを思い、床を蹴る。疾駆し、踏み込む。狼の速度で。
狼牙の拳を、エルシーはイブリースに打ち込んで行った。
「皆さん、お待たせです!」
石を粉砕した事はあるが、その時とも比べ物にならない強固な手応えが返って来る。ミトラースの石像は、魔素の力で今や石ではない何かに変わっているのだ。
「シスター、彼らは……」
苦しげに膝をついたロンベルの巨体に、きらきらと魔導医療の光を投げかけながら、マグノリアが言った。
「……身の安全に関しては、もう心配無し……か。まあ、心のありようまで改めてくれるはずもないかな」
「私達に出来るのは、せいぜい命を助けてあげるくらいです。心までは……ね」
「へ……そもそも、とっくの昔に心を亡くしちまってるような連中さ」
動けなかったロンベルが、ゆらりと立ち上がった。
「ほっときゃいい。それより……このデカブツを、何とかしねえとな」
「呪いは解除した。戦えるかい? ロンベル」
「ああ、すまねえな御老体……おらあ、行くぜミトラース!」
胸板の七星を輝かせながら、ロンベルがイブリースに斬りかかって行く。
イブリースが、テオドール及びティルダによる呪力の束縛圧迫に逆らい、全身に細かな亀裂を広げながら応戦する。石の豪腕が、ロンベルに叩きつけられる。
いや、その直前。
「させぬよ……!」
テオドールが、杖をかざした。
氷の荊が生じ、振り上がった石像の片腕に絡み付く。
そこへロンベルが戦斧を打ち込んだ。石の豪腕が、砕け散った。
直後、ロンベルの身体がへし曲がって血飛沫を散らせた。
イブリース化した石像の、巨大な左脚。蹴りではない。ただ歩行するだけで、ロンベルを蹴散らしていた。
倒れたロンベルを庇う形にエルシーは踏み込み、鋭利な両手指を獅子の牙に変えた。食らいつくような一撃を、石像の脇腹の辺りにめり込ませる。
「ロンベルさん……私はね、あの人たちが心まで亡くしているとは思いません」
憎しみの眼光を感じながら、エルシーは気の光の奔流をイブリースに流し込んだ。
「私たちを、憎んでいる人もいます。心が亡くなるより、まし……なんでしょうか、ね」
●
血まみれの、手負いの獣が2頭。マグノリアには、そう見えた。大型の猛獣と、小型肉食獣。
ロンベルと、カノンだった。交差するように、イブリースへと激突して行く。
大型の戦斧と、小さく鋭利な拳が、石造りの巨体を左右から直撃した。鐘の音が鳴り響いた、ようにマグノリアには聞こえた。
石の破片が、大量に飛散する。
「おっと、あまり飛び散ってもらっては困るな」
言いつつ、テオドールが呪術の印を切る。
まだ辛うじて原形をとどめているミトラース像が、飛び散りかけた大量の破片もろとも、白いものに閉じ込められていた。
轟音を立てて渦を巻く、白色の波動。雹を含む寒風の嵐。超々局地的な、猛吹雪である。
荒れ狂う冷気の嵐が、崩落しかけた石の巨体をビキビキと凍り付かせていった。
その有り様に向かって、ティルダが嫋やかな片手を掲げている。
「……ヨウセイの受けた仕打ちを肯定し、イ・ラプセルを逆恨みする……」
優美な五指が、目に見えぬ何かを握り潰してゆく。
「……そんな人たちでも、わたしは助けます。守りますよ。皆、かわいそうな人たちだから……ミトラース! あなたに騙され狂わされた、哀れな人々だから!」
目に見えぬ巨大な手が、イブリースを握り潰した。すでに存在しない神の姿が、完全に砕け崩壊した。
氷の破片か石の破片か判然としない白いものが、床に大量にぶちまけられる。
「終わり……ましたか……」
マグノリアの細い腕の中で、エルシーが呻く。
「こないだの大物よりは……まあ、与し易い相手でしたかね」
「……君は殺されかけたけどね、シスター。動けるかい」
「大丈夫。治してくれて、ありがとうございました。お礼に今度スペシャルメニューを考えてあげますね」
「ほ、程々に頼むよ。それよりも」
礼拝堂、出入り口付近でうろうろしている者たちに、マグノリアは視線を投げた。
「ある意味……イブリース退治よりも厄介な問題が、残っているわけだが」
「……なぁに、あんなのは面倒でも何でもねえ」
ロンベルが、血まみれのまま彼らに歩み迫って行く。止めるべきか、などと考えている暇もなかった。
「よう、腑抜けども。お前らを本当の神民にしてやろうか」
そんな事を言いながら、元神民たちの眼前に戦斧を放り出す。
「……さあ。ミトラースを裏切ってアクアディーネについた背教者が、ここにいるぜ? そいつを拾え。俺の首を叩き落としてみろ。ああ、もちろん反撃はするぜ」
ロンベルが、巨大な拳を握った。
「どうだい。命懸けで神の仇を取ろうって奴はいねえのか?」
1人が、戦斧に飛びついた。
「……お前ら……!」
若い男だった。その細い全身から、目に見えるような憎しみが立ちのぼっている。
だが、憎しみだけではロンベルの戦斧は持ち上がらない。
「……教皇猊下を……よくも、猊下を!」
「ヨハネス教皇は、立派に勇敢に戦ったよ。君も戦ってみる?」
カノンが進み出て来て、ロンベルと並んだ。
「おいおい、嬢……」
「ロンベル兄さん、だけじゃあないよ。シャンバラの人たちにとっては、自由騎士全員が憎い相手……」
カノンは言った。
「……特に。ヨハネス教皇を殺したのは、カノンだから」
若者が、もはや表記不可能な憎悪の絶叫を張り上げる。
その細い身体で、貧弱な腕で、しかし戦斧は持ち上がらない。微動だにしない。
ロンベルが微笑みかける。
「何だ、持ち上がらねえのか。しょうがねえ、こっちの投げ刃でも使ってみるか? これもキツいか」
「……そこまでにしておけ。この場での戦いは、もはや終わりだ」
テオドールが言った。
「シャンバラの人々にとって我らの言葉など、侵略者の厚かましい言い分に過ぎぬのであろうが言わせてもらう。かつて貴卿らが享受していた富は、人の犠牲の上に成り立っていたものだ……知らなかった、では済まされぬぞ。わかっていような?」
「……放っておきましょう、こんな人たちは」
ティルダの口調は、冷たいほどに穏やかである。
「知らぬふり、見て見ぬふりをし続けたいなら、そうすればいいと思います。それが……この方々にとっては、幸せな生き方なのでしょうから」
「……そう言ってくれるな。この連中にも、生き方を改めてもらわねばならん」
言葉と共に、たくましい人影が1つ、礼拝堂に歩み入って来た。血まみれの兵士だった。
「ガロムさん!」
カノンが、声を弾ませた。
「久しぶり! ここで、お仕事してたんだね」
「出向、というような形になるのかな」
「お会いする度に怪我してますねえ、ガロムさんは」
エルシーも声をかけた。
「……ここ以外にも、イブリースが?」
「最も難儀な所を、貴公らに押し付ける形となってしまった……来てくれた事、感謝する」
「何。徴税の任務に治安維持、イブリース討伐……全てをこなしている君に比べたら、大した事はない」
言いつつマグノリアは、ガロムの負傷した身体にキラキラと魔導医療の輝きを投げかけた。
「君は……少し、働き過ぎではないのかな。総督府に、いいように使われているように見えてしまう」
「そうかな」
「徴税官ガロム・ザグ。貴卿の働きぶり、噂として聞き及んでいる」
テオドールが言う。
「税を納められぬ者らの妻や子を、無理矢理に連れ去り人買いに売り渡している……とな。無論そのようなわけはなく、保護しているのであろうが」
「許せん、か?」
「……いや。己の家族を売るなど、私とて口頭注意のみで済ませられる自信はない」
テオドールは、元神民たちに一瞥を投げた。
「だが……彼らには、少しずつ理解してもらう他あるまいとは思う。これは長い目で見るべき問題ではないかな」
「長い目で見るのは構わん。だが……」
怯える元神民たちに、ガロムの眼光が向けられる。
「わかっているのだろうな!? 今の貴様らのもとに、子供たちを居させるわけにはいかんのだぞ」
「……労働と呼べるものではないけれど。僕は最近、土いじりをしたよ」
ガロムの怒声に身を竦ませた者たちに向かって、マグノリアは語った。
「土の配合はね、ホムンクルスの成分調整よりもずっと難しい。種を埋めて水をやり、雑草を抜く……イブリースと戦うよりも、難しい。だけど君たちなら、僕よりも上手に出来るのではないかと思う。自分の花を……咲かせてみよう、とは思わないかな? そう、そのためにも」
語りつつ、ガロムを見据える。
「……総督府は彼らに、道を示さなければならないと思う。働け……と命令したところで、働く事を知らない人々は何も出来ない。何のための仕事か? それを考えさせ、理解させなければ……例えば、大切な家族のため」
「……目的を持たせろ、とでも言うのか。こちら側から」
「目的……自身の存在意義、と言い換えてもいい。それを見い出せなければ……心の火は、消えてしまうよ。人は、何も出来なくなる」
「自身の存在意義。見い出してもらわねばならん、自力でな」
ガロムは断言した。
「こちらから示し与えるもの、であってはならんのだ。民衆に、己の頭で考えさせない……ベレオヌス・ヴィスケーノはな、そのようにして暴君と化したのだぞ」