MagiaSteam




我らが神のために慈しみたまえ

●
神のいない世界に、なにがあるのだろう。何が残るのだろう。
なにもあるわけがない。残るわけがない。もう、世界には『なにもない』のだ。
だって神こそが、―――ミトラース神こそが、すべてだったのだから。
信じ難いことだが、神が消えたことは覆らない真実なのだ。
国中から、戸惑う声が、嘆き悲しむ声が、怒りに狂う声が聞こえてくる。
認めてしまえば、ふつと疑問が湧いた。どうして自分は生きているのだろう。
神は死んだというのに。こうして生きているだなんて、おかしいじゃないか。
ぽつり、と。彼の唇から言葉がこぼれる。弱々しいけれど強い意思が込もった言葉だった。
「私たちも、神の御許へいこうじゃないか。神もそれを望んでいらっしゃる」
うつろな目をしたままの彼は、傍らにあった斧を手に取った。
無骨な刃が、蝋燭の灯に反射してゆらりと不穏に光る。
「…………お前たちも、分かってくれるね?」
身を寄せ合い震える妻と子の姿は、彼の目には映らない。
消え入るようなやめてという声は、彼の耳には届かない。
―――今すぐそちらへ参ります。我らが父、偉大なるミトラース神、貴方のもとへ!
●
「諸君、集まってくれて礼を言う。今回の案件であるが……時は一刻を争う」
『長』クラウス・フォン・プラテス(nCL3000003)は、集まった自由騎士たちの顔を見回すと、淡々と説明をはじめた。
「残されたミトラースの信者が、家族を巻き込み殉教しようとしているようである」
先の戦争で討たれたシャンバラのミトラース神。
神への信仰は権能の力により押し付けられただけの者が多かったが、心から信じている者も少なからずいた。
そして、水鏡はそのような信者のひとりが事件を起こそうとする姿を映したのだ。
ミトラース神を信じてやまない彼は、ミトラース神のいない世界にこれ以上の幸福も希望もなく、神の為に死ぬことこそが最後の幸福だと思い込んでいる。
また、シャンバラの誰もがそう思っていると信じて疑わない彼は、妻と娘をも道連れにするつもりだ。
幸福の形はひとつではないはずなのに。もっとたくさんの形があるはずなのに。
今の彼には"それ"しかない。神を信じて死んでいくこと。それが彼の幸福だ。
けれど。身を寄せ合い震えていた妻と娘にとって、それは幸福ではないだろう。
「戦後処理も戦勝国の責務である。至急現場に向かってくれたまえ」
はた迷惑な話ではあるが、水鏡に映った以上、見過ごすことは出来ない。
説明を終えたクラウスは一礼すると、自由騎士たちを送り出すのだった。
神のいない世界に、なにがあるのだろう。何が残るのだろう。
なにもあるわけがない。残るわけがない。もう、世界には『なにもない』のだ。
だって神こそが、―――ミトラース神こそが、すべてだったのだから。
信じ難いことだが、神が消えたことは覆らない真実なのだ。
国中から、戸惑う声が、嘆き悲しむ声が、怒りに狂う声が聞こえてくる。
認めてしまえば、ふつと疑問が湧いた。どうして自分は生きているのだろう。
神は死んだというのに。こうして生きているだなんて、おかしいじゃないか。
ぽつり、と。彼の唇から言葉がこぼれる。弱々しいけれど強い意思が込もった言葉だった。
「私たちも、神の御許へいこうじゃないか。神もそれを望んでいらっしゃる」
うつろな目をしたままの彼は、傍らにあった斧を手に取った。
無骨な刃が、蝋燭の灯に反射してゆらりと不穏に光る。
「…………お前たちも、分かってくれるね?」
身を寄せ合い震える妻と子の姿は、彼の目には映らない。
消え入るようなやめてという声は、彼の耳には届かない。
―――今すぐそちらへ参ります。我らが父、偉大なるミトラース神、貴方のもとへ!
●
「諸君、集まってくれて礼を言う。今回の案件であるが……時は一刻を争う」
『長』クラウス・フォン・プラテス(nCL3000003)は、集まった自由騎士たちの顔を見回すと、淡々と説明をはじめた。
「残されたミトラースの信者が、家族を巻き込み殉教しようとしているようである」
先の戦争で討たれたシャンバラのミトラース神。
神への信仰は権能の力により押し付けられただけの者が多かったが、心から信じている者も少なからずいた。
そして、水鏡はそのような信者のひとりが事件を起こそうとする姿を映したのだ。
ミトラース神を信じてやまない彼は、ミトラース神のいない世界にこれ以上の幸福も希望もなく、神の為に死ぬことこそが最後の幸福だと思い込んでいる。
また、シャンバラの誰もがそう思っていると信じて疑わない彼は、妻と娘をも道連れにするつもりだ。
幸福の形はひとつではないはずなのに。もっとたくさんの形があるはずなのに。
今の彼には"それ"しかない。神を信じて死んでいくこと。それが彼の幸福だ。
けれど。身を寄せ合い震えていた妻と娘にとって、それは幸福ではないだろう。
「戦後処理も戦勝国の責務である。至急現場に向かってくれたまえ」
はた迷惑な話ではあるが、水鏡に映った以上、見過ごすことは出来ない。
説明を終えたクラウスは一礼すると、自由騎士たちを送り出すのだった。
†シナリオ詳細†
■成功条件
1.狂信者の家族の救出
ご無沙汰しております、あまのいろはです。
信じるこころって素晴らしいですよね、そのに。
●絶望の狂信者
権能の力がなくとも、ミトラースのことを心から信じている狂信者です。
妻と娘を道連れに、殉教しようとしています。
邪魔が入った場合、自分だけでも殉教するつもりだと思われます。
戦闘スタイルは重戦士スタイル。武器は斧。
スキルはウォークライ Lv1、バッシュ Lv2、オーバーブラスト Lv3、バーサーク Lv1。
●妻と娘
戦う力を一切持たない一般人です。
権能によってミトラースに対する忠誠心を与えられていました。
国はもちろん、優しかった夫(父)の突然の変化に戸惑っています。
●場所
シャンバラのとある民家です。
時間帯は夜ですが、民家内ですので光源などの問題はありません。
水鏡の演算で家族のいる部屋は寝室と判明しています。
●補足
切迫している状態ですので、事前付与などは難しいです。
成功条件に狂信者の生死は問いません。
情報は以上となります。皆様のすてきなプレイングをお待ちしております。
信じるこころって素晴らしいですよね、そのに。
●絶望の狂信者
権能の力がなくとも、ミトラースのことを心から信じている狂信者です。
妻と娘を道連れに、殉教しようとしています。
邪魔が入った場合、自分だけでも殉教するつもりだと思われます。
戦闘スタイルは重戦士スタイル。武器は斧。
スキルはウォークライ Lv1、バッシュ Lv2、オーバーブラスト Lv3、バーサーク Lv1。
●妻と娘
戦う力を一切持たない一般人です。
権能によってミトラースに対する忠誠心を与えられていました。
国はもちろん、優しかった夫(父)の突然の変化に戸惑っています。
●場所
シャンバラのとある民家です。
時間帯は夜ですが、民家内ですので光源などの問題はありません。
水鏡の演算で家族のいる部屋は寝室と判明しています。
●補足
切迫している状態ですので、事前付与などは難しいです。
成功条件に狂信者の生死は問いません。
情報は以上となります。皆様のすてきなプレイングをお待ちしております。
状態
完了
完了
報酬マテリア
2個
6個
2個
2個




参加費
100LP [予約時+50LP]
100LP [予約時+50LP]
相談日数
6日
6日
参加人数
6/6
6/6
公開日
2019年05月29日
2019年05月29日
†メイン参加者 6人†
●
どうして、こんなことに。
信仰を忘れなければよかったのだろうか。水の国を恨めばよかったのだろうか。
何も、何も分からない。
分かることはただひとつ。今、まさに。あのひとに殺されようとしていることだけだ。
「……あなた、やめて!!」
必死の叫びも虚しく、あのひとが手にした斧を振り被った。娘をきつく抱きよせて、目を瞑る。分かるのはもう、娘の泣き声だけ。
ああ、神様。―――祈る神は、もうこの国にはいないけれど。
妻子を道連れに神に殉じようとしている男は、ミトラース神を心から信じている狂信者だった。その神が討たれ自暴自棄になっているのだと、家族の救済へ向かう自由騎士たちは思う。
大切なものをすべて失ったわけではないのに、どうして。
その理由は男にしか分からないのだろう。けれど、彼の妻子は別だ。ふたりは、ただ巻き込まれようとしている被害者だ。なんとしても救わねばならない。
自由騎士たちは例の民家へ向かうと、寝室へと脇目も振らずに駆けつける。
勢いよく扉を開けば、そこに、彼らは居た。水鏡で見た情報の通り、男が斧を振り被って―――。
「そこまでだぞー!!」
きぃんと耳が痺れるような大声と同時に、室内に飛び込んできたのは『教会の勇者!』サシャ・プニコフ(CL3000122)。予想外の訪問者に、斧を持つ男の手が止まった。
「いくら神様が大好きだったとしても、怖がっている家族を巻き込むのは違うんだぞ!」
ぐるると威嚇するように、サシャのぎんいろの耳と尻尾がぴんと立っている。
男も、妻子も、突然の出来事にすぐに身動きが取れない。その隙に、ひとり、またひとりと寝室へと駆け込む。
『咲かぬ橘』非時香・ツボミ(CL3000086)が、男と妻子の間に割り込むように駆け寄れば、妻がちいさく悲鳴を上げた。けれど、一から説明をしている時間はない。
「細かい事ぁ全部後だ! 兎も角今は逃げよ!」
ツボミは娘を抱えている妻の手を取ると、強張ってうまく動かない身体を引っ張りその場に立たせる。
「……―――おとうさ、」
「安心しろあっちの父親も無力化はさせるが殺したりゃせん!」
父の姿から目が離せず、振り返ろうとする娘の背をツボミが軽く押せば、娘はその場でたたらを踏んだ。
「兎も角頭が冷えるまでは此処は危険だ」
「な、にを……!!」
何者かが侵入してきたことを理解した男が、離れようとするツボミと妻子へと踏み出した。
けれど、それを押し止めるように『革命の』アダム・クランプトン(CL3000185)の声が響く。
「僕らは自由騎士です、貴方達『家族全員』を救いに来ました、今はまず避難を!」
「自由、騎士……」
男の視線がアダムへと向けられて。その姿を認めた瞳にふつふつと現れたのは怒りの色。
―――自由騎士。そう、彼らは我らが神を討った憎き相手に他ならない。
「……神を殺めただけでは飽き足らず、まだこの地を汚すと言うのか!!」
言うが早いか、男が怒りに任せて斧を振り下ろす。アダムはかわすことなく、それを受け止めた。金属同士のぶつかる鈍いおとが響く。
男が競り合おうと押し込む。恨みに染まった目とアダムの視線が、鎧の奥でぶつかった。
(―――そうさ、)
アダムにとっては、彼も守る対象だ。もうミトラースの権能はない。神のいない世界について考える余地もあったのだ。だから。きっとまだ、道は閉ざされていないはず。
(僕らは全てを救うんだ―――!!)
アダムは男を押し退けると、背に妻子を庇いながら一歩、また一歩と男との距離を取っていく。
「……っ、ぐ!!」
男はぎりりと歯を食い縛る。ふらりとよろめいた体勢をなんとか持ち直し、斧を握り直す。
「待て、どこへ……!!」
妻子を追おうとした踏み出した男の視界の端で、ゆらりと影が動いた。暗がりのなかから突然現れた警棒が、男の横顔を強く打ち付ける。
「お前は縋るものを無くして自棄になっているに過ぎない。殉教など片腹痛い」
視線だけを向ければ、そこには華奢な青年が立っていた。
気を殺し音を殺し、影のように忍び寄った『活殺自在』アリスタルフ・ヴィノクロフ(CL3000392)の存在に、男は気付けなかった。
アリスタルフに視線が奪われたままの男に、更なる衝撃が襲う。
「お父さんの事も、絶対に死なせたりしないよぉ!」
韋駄天足で駆けつけた勢いをそのままに、『ちみっこマーチャント』ナナン・皐月(CL3000240)が男へと飛び込んだのだ。
あまりの衝撃に、男も立っていられない。身体が浮いて後方へ投げ飛ばされると、壁にぶつかって止まった。
コツリとヒールを鳴らして。『イ・ラプセル自由騎士団』シノピリカ・ゼッペロン(CL3000201)が、男の前に躍り出る。
(今までの価値観が一夜にして否定され、破壊されたのじゃ)
シノピリカは思う。死という極端な思考に至るのも無理もないことだと。
(しかし、それを望まぬ者に強いるのは頂けぬな)
男の眼前でわざとらしくヒールを踏み鳴らせば、男の視線が彼女の足へと注がれた。
無機質なキカイの足だ。それを理解した男は、はっとした顔でぐるりと自由騎士たちを見回す。
キカイの手足に、ケモノの耳。それらはすべて、神の寵愛を受けることを許されない邪な存在の象徴。そう言えば。先ほど妻と子を連れ出ていったうちのひとりは、ヒトですらなかったのではないか―――。
「さあ、かかってこい狂信者!!」
男の思考を途切るように、シノピリカが不敵に笑う。男が自由騎士たちを睨み付ける。
そんな男へ追い討ちを掛けるように、アリスタルフが男へと言葉を吐き捨てる。
「只人が神の言葉や意思を語るなど、それこそ神への冒涜と知れ」
どうせ、説得したところで冷める頭でもないのだ。ならば、熱するだけ熱してしまえばいい。
男にとっては十分すぎる挑発の言葉だった。男は怒りの色を更に濃くして、叫ぶ。
「アア、嗚呼、ああ、―――!!!」
水の国の者たちは、神も、信仰も、妻子をも、この国からすべてを奪うつもりなのか!!
●
「ん、よかった。怪我はないな」
仲間たちが男を引き付けている間に、妻子は無事に家の外へ連れ出すことが出来た。ふたりに目立った傷がないことを確認すると、ツボミはほうと小さく息を吐く。
家が見えないくらいの距離まで逃げておくように、と言うつもりだったが、サポートとして駆け付けた自由騎士がいた。彼に預けておけばふたりの身にこれ以上の心配はなさそうだ。
妻子はすっかり怯えきった様子だが、それは無理もないことだろう。けれど、ふたりを安心させるような気の利いた言葉は持っていないと、ツボミは軽く頬を掻く。
そんなツボミに、アダムは任せて、と目配せすると、ふたりを安心させるように努めて優しい声色で声を掛ける。
「貴方達民を守るのが騎士の務めだ、その対象には彼も含まれる」
視線を合わせて。びくりと震えながらも、娘がアダムの顔をおそるおそる覗き込んだ。
「神ではなく、ヒトである僕らが貴方達を救ってみせるさ」
アダムは微笑んだ。だからどうか、僕らを信じて待っていて欲しい、と告げて。
どれだけ傷と負っても、男は退かなかった。怒りに燃える男の目は、自由騎士を捉えているようで捉えていない。
まるで、姿のない敵と戦っているようだった。サシャはその姿をすこし恐ろしく感じる。
(神様への信仰心が強いのも、強すぎると怖いんだぞ)
神職に身を置くサシャではあるが、自国の神様のために家族を害することができるかと言われたら、そんなことが出来るはずもない。
「子供が怖がっているのに無理やり一緒に死のうとしてはいけないんだぞ!」
サシャだって弟や妹たちに我侭を押し付けたりはしないのに。そんな簡単なことも分からないのか、とサシャが吼える。
「大人なのに! すこし頭を冷やすんだぞ!!」
氷のつぶてが男へ向かって飛んでいく。男は斧でざっくらばらんに叩き落とすと、傷を負いながらもサシャへと突き進もうとする。
「行かせるわけにはいかんのう! さあて、我慢比べと参ろうか!!」
けれど、それをシノピリカが留めた。我慢比べならば自信がある。負けるつもりはない。
アリスタルフが駆ける。
「神に守られたいだけの存在が偉そうに殉教の真似事などするな!」
「お前たちに何が分かる! 何が!」
アリスタルフが男の身体を強く打った。衝撃だけではない、身体のなかを狂わされる感覚に男が顔をしかめる。足元がふらついて身体が傾く。けれど、まだ。男は歯を食い縛り、足に力を入れなおすと踏堪えてみせた。
「命より大切だったものを、喪ったこともないだろう! 奪われたこともないだろう!」
男が吼える。自分を鼓舞するように。自由騎士たちを否定するように。
「この苦しみが! 悲しみが! 分かるものか、分かるものか……!」
それは、まるで子供が起こす癇癪のようで。相手を見ようとしない、自分勝手な独り言。
「オモチャを奪われた子供のようじゃな」
「子供よりひどいんだぞ」
呆れたようなシノピリカの言葉に、うるるとサシャがちいさく唸る。
男が発する言葉はさておき、圧されていることは分かる程度には、男は落ち着きを取り戻していた。
殺されるならそれでいい。神のもとへ行けるのだから。けれど。彼らは言った。死なせたりしない、と。醜態を晒し、生きていくのはご免だ。
ばたばたと足音が近付いてきたのは、男がそんなことを考えているときだった。
「戻ったぞ! どうなっている!?」
ふたつの影が部屋へと駆け込んできた。妻子を避難させたツボミとアダムが戻ってきたのだ。男が息を呑む。
不利な状況だと思っていたところだ。更にふたりが戻ってきたのだから、この状況が覆ることはないと考えるくらいのことは出来る。男の口元がふ、と歪に歪んで。
「は、はははハははハハは!! 神よ、我が神よ! 今すぐそちらへ参ります!!」
高らかに嗤って。男は後ろに跳ね退くと、刃を自らに向ける。
「いけない!!」
アダムが彼を庇おうとするよりはやく。男が自分の腹へとぐっと刃を押し込んだ。ぶちりと肉が断ち切れるおとがして、狭い部屋に血のにおいが充満する。
男は柄を握り直し、腹を引き切ろうと腕に力を込めた。自分だけでも、神のもとへ―――。
「ダメー!!!」
ぱちんっと小気味のよい音が響いた。男の側まで忍び寄っていたナナンが男の頬を叩いたのだ。柄を握る手の力が抜ける。
「お父さんが死んじゃったら、その『悲しい』は大事な人にも移っちゃうよぉ……!」
泣きそうな声だった。幼い彼女も、彼にとっては憎き相手だ。そんな相手がどうして泣きそうなのか、男には分からない。
「この、卑怯者が!!」
次いで耳に飛び込んできたのは、怒声。視線だけを声のした方へ向ければ、みっつの瞳が男を睨み付けていた。
「なあにが殉死だ! なあにが『分かってくれるね?』だ! 貴様は『分かって貰えない』と思ったからこそ無理やり押し込もうとしたのだろうが!」
強い信念のもとにそうするのなら、勝手にしたらいい。けれど。望まぬ者まで道連れにしようとすることは、神の前に生きる者への冒涜だ。
「『受け入れて貰えない』事に薄々自覚があるのだろ卑怯者が!」
ツボミの言葉を受けて、男の目が見開かれる。そして。男の口元が、ゆるく、弧を描いた。
「何が可笑しい!!」
ツボミの言葉に返すほどの力が今の男にははない。ゆっくりと瞼が下りていく。
―――嗚呼。
ただひとりの神に捧げた人生は、無駄だったと言うのか。
その神の名のもとに他者を虐げ続けた人生は、間違っていたというのか。
そうは思いたくなかった。思いたくなかったのだ。―――けれど。そうか。自分は間違っていたのか。
自由騎士たちの声が、ちいさく、とおくなっていく。口元は弧を描いた形のまま、男は意識を手放した。
●
暫くして意識が戻った男の視界には何も映らなかった。当然だ、身動きひとつ出来ないほどに、拘束されているのだから。
けれど、音だけは届いていた。男が目覚めたことに気付いた自由騎士たちの声が聞こえる。
「俺達のことを憎むのは自由だが、いつまで神に縋るつもりだ」
神がいなくなった今、家族の暮らしを守るのは誰だ、とアリスタルフが言う。
「殉死するにせよ心中狙うにせよ、その前に先ずはキッチリ『家族』と話し合わんか馬鹿者!」
まったくだ、と変わらず怒気を含んだ声色で。治療を終えたツボミが自分の仕事はここまでと言わんばかりにふんっと鼻を鳴らす。
「神様の権能の影響もあったから仕方がなかったと思うけど……」
シャンバラの神を殺めたのは自分たちの国だ。それは、幼いサシャにも分かっていた。
だから。もしかしたら、他にも同じように苦しんでいるひとがいるのかもしれない。そう思うとなんだか複雑な気分になる。
けれど、確かにひとり、救えたのだ。諦めることになるかもしれなかった未来を思うと、彼を救えたことは誇らしかった。
「ナナン、ちょっとお話したいんだけどいいかなあ……?」
様子を伺っていたナナンがおずおずと申し出る。彼がまた死のうとはしないとは言い切れないけれど。なんとかしてみせるさ、僕も話したいことがあるしね、とアダムが頷く。
自由騎士たちに見守られながら、目、そして口の拘束が解かれる。僅かな夜のあかりでも、彼の目にはまぶしいようで、薄く目を開いた。男と視線が合うと、ナナンがぱっと微笑む。
「うんとね……。お父さんの『世界』ってなぁに? 『世界』って『無くなるもの』なの?」
答えない男を困ったように見遣ってナナンは続ける。地面も空も、月も星も、今も変わらずあるのだと。悲しさでいっぱいになって、周りが見えないだけなのだと。
「『悲しい』って『気持ちの世界』だと思うんだぁ……。悲しい時は大人でも泣いちゃってもいいんだよ!」
びよんっと男の頬をナナンが引っ張った。男の口元が不恰好に歪む。無理にでも笑えば、ちょっとでも気持ちが明るくなるかもしれないとナナンは笑いかけた。
「そうさ、神がいなくとも世界はそこにある。貴方の世界には、母娘がいるじゃないか」
ナナンの言葉に続いて、アダムも言葉を重ねる。
「それに、貴方もいる。ここにいるんだ、ここにいていいんだ」
男が僅かに視線を伏せた。伏せた顔からは、男の感情は読み取れない。
「僕は貴方にここに、世界にいて欲しいと願うよ」
こうして出会えたのだから、とアダムも笑った。男は変わらず顔を伏せたまま。
けれど、扉が開くおとには、ぴくりと反応した。アリスタルフとシノピリカに連れられて、妻子が部屋へ戻ってきたおとだった。
まだ怯えてはいたが、男が無事なことを確認すると安心したようにほうと息を吐く。
「もういない神の声より、目の前にいる家族の声に耳を傾け、顔を見ろ」
アリスタルフが軽く妻子の背を押せば、ふたりがゆっくりと男へ歩み寄る。
「ほら! お父さんの大切で大事なふたりは、ちゃんと『ここ』に居るよ!」
ふたりは男の前に膝を付くと、あなた、と。おとうさん、と。男を呼ぶ。男が顔を上げる。
「お前は何故お前の神を信仰した。お前と、お前の家族の暮らしを守ってくれたからではないのか?」
ややあって、男の瞳からひとつ、ふたつと大粒の涙が溢れ出す。それを見られまいとしたのか、男はまた俯く。木の床に、ぽたり、ぽたりと涙が染みてゆく。
「………すまなかった……」
弱々しく謝罪の言葉が搾り出される。妻は、力なく項垂れる男に寄り添い、抱きしめた。すこし遅れて、娘も父である男に抱きつく。
身を寄せ合うさんにんの間にそれ以上の言葉はなく、低い嗚咽が聞こえてくるだけ。
「しばらくは別々に暮らした方が良いと思ったが、さてはて」
思い過ごしじゃったかの、とシノピリカがどこか嬉しそうな、困ったような顔で笑う。
「心からの信仰じゃ。変わる事を無理強いする事も出来ぬ。ただ、おぬしの信じた神は……。本当に、殉教を望むかのう」
その答えはもう、男には分かっているだろう。例え神が望もうと、望まざると、それより大切なものが、目の前にいるのだから。
ひとを救うのは、神だけではない。彼と家族がまた歩いていくための糸口を、自由騎士たちは示したのだ。
彼らが本当の意味で立ち直るには、まだまだ時間が要るだろう。けれど、いつか、きっと。
どうして、こんなことに。
信仰を忘れなければよかったのだろうか。水の国を恨めばよかったのだろうか。
何も、何も分からない。
分かることはただひとつ。今、まさに。あのひとに殺されようとしていることだけだ。
「……あなた、やめて!!」
必死の叫びも虚しく、あのひとが手にした斧を振り被った。娘をきつく抱きよせて、目を瞑る。分かるのはもう、娘の泣き声だけ。
ああ、神様。―――祈る神は、もうこの国にはいないけれど。
妻子を道連れに神に殉じようとしている男は、ミトラース神を心から信じている狂信者だった。その神が討たれ自暴自棄になっているのだと、家族の救済へ向かう自由騎士たちは思う。
大切なものをすべて失ったわけではないのに、どうして。
その理由は男にしか分からないのだろう。けれど、彼の妻子は別だ。ふたりは、ただ巻き込まれようとしている被害者だ。なんとしても救わねばならない。
自由騎士たちは例の民家へ向かうと、寝室へと脇目も振らずに駆けつける。
勢いよく扉を開けば、そこに、彼らは居た。水鏡で見た情報の通り、男が斧を振り被って―――。
「そこまでだぞー!!」
きぃんと耳が痺れるような大声と同時に、室内に飛び込んできたのは『教会の勇者!』サシャ・プニコフ(CL3000122)。予想外の訪問者に、斧を持つ男の手が止まった。
「いくら神様が大好きだったとしても、怖がっている家族を巻き込むのは違うんだぞ!」
ぐるると威嚇するように、サシャのぎんいろの耳と尻尾がぴんと立っている。
男も、妻子も、突然の出来事にすぐに身動きが取れない。その隙に、ひとり、またひとりと寝室へと駆け込む。
『咲かぬ橘』非時香・ツボミ(CL3000086)が、男と妻子の間に割り込むように駆け寄れば、妻がちいさく悲鳴を上げた。けれど、一から説明をしている時間はない。
「細かい事ぁ全部後だ! 兎も角今は逃げよ!」
ツボミは娘を抱えている妻の手を取ると、強張ってうまく動かない身体を引っ張りその場に立たせる。
「……―――おとうさ、」
「安心しろあっちの父親も無力化はさせるが殺したりゃせん!」
父の姿から目が離せず、振り返ろうとする娘の背をツボミが軽く押せば、娘はその場でたたらを踏んだ。
「兎も角頭が冷えるまでは此処は危険だ」
「な、にを……!!」
何者かが侵入してきたことを理解した男が、離れようとするツボミと妻子へと踏み出した。
けれど、それを押し止めるように『革命の』アダム・クランプトン(CL3000185)の声が響く。
「僕らは自由騎士です、貴方達『家族全員』を救いに来ました、今はまず避難を!」
「自由、騎士……」
男の視線がアダムへと向けられて。その姿を認めた瞳にふつふつと現れたのは怒りの色。
―――自由騎士。そう、彼らは我らが神を討った憎き相手に他ならない。
「……神を殺めただけでは飽き足らず、まだこの地を汚すと言うのか!!」
言うが早いか、男が怒りに任せて斧を振り下ろす。アダムはかわすことなく、それを受け止めた。金属同士のぶつかる鈍いおとが響く。
男が競り合おうと押し込む。恨みに染まった目とアダムの視線が、鎧の奥でぶつかった。
(―――そうさ、)
アダムにとっては、彼も守る対象だ。もうミトラースの権能はない。神のいない世界について考える余地もあったのだ。だから。きっとまだ、道は閉ざされていないはず。
(僕らは全てを救うんだ―――!!)
アダムは男を押し退けると、背に妻子を庇いながら一歩、また一歩と男との距離を取っていく。
「……っ、ぐ!!」
男はぎりりと歯を食い縛る。ふらりとよろめいた体勢をなんとか持ち直し、斧を握り直す。
「待て、どこへ……!!」
妻子を追おうとした踏み出した男の視界の端で、ゆらりと影が動いた。暗がりのなかから突然現れた警棒が、男の横顔を強く打ち付ける。
「お前は縋るものを無くして自棄になっているに過ぎない。殉教など片腹痛い」
視線だけを向ければ、そこには華奢な青年が立っていた。
気を殺し音を殺し、影のように忍び寄った『活殺自在』アリスタルフ・ヴィノクロフ(CL3000392)の存在に、男は気付けなかった。
アリスタルフに視線が奪われたままの男に、更なる衝撃が襲う。
「お父さんの事も、絶対に死なせたりしないよぉ!」
韋駄天足で駆けつけた勢いをそのままに、『ちみっこマーチャント』ナナン・皐月(CL3000240)が男へと飛び込んだのだ。
あまりの衝撃に、男も立っていられない。身体が浮いて後方へ投げ飛ばされると、壁にぶつかって止まった。
コツリとヒールを鳴らして。『イ・ラプセル自由騎士団』シノピリカ・ゼッペロン(CL3000201)が、男の前に躍り出る。
(今までの価値観が一夜にして否定され、破壊されたのじゃ)
シノピリカは思う。死という極端な思考に至るのも無理もないことだと。
(しかし、それを望まぬ者に強いるのは頂けぬな)
男の眼前でわざとらしくヒールを踏み鳴らせば、男の視線が彼女の足へと注がれた。
無機質なキカイの足だ。それを理解した男は、はっとした顔でぐるりと自由騎士たちを見回す。
キカイの手足に、ケモノの耳。それらはすべて、神の寵愛を受けることを許されない邪な存在の象徴。そう言えば。先ほど妻と子を連れ出ていったうちのひとりは、ヒトですらなかったのではないか―――。
「さあ、かかってこい狂信者!!」
男の思考を途切るように、シノピリカが不敵に笑う。男が自由騎士たちを睨み付ける。
そんな男へ追い討ちを掛けるように、アリスタルフが男へと言葉を吐き捨てる。
「只人が神の言葉や意思を語るなど、それこそ神への冒涜と知れ」
どうせ、説得したところで冷める頭でもないのだ。ならば、熱するだけ熱してしまえばいい。
男にとっては十分すぎる挑発の言葉だった。男は怒りの色を更に濃くして、叫ぶ。
「アア、嗚呼、ああ、―――!!!」
水の国の者たちは、神も、信仰も、妻子をも、この国からすべてを奪うつもりなのか!!
●
「ん、よかった。怪我はないな」
仲間たちが男を引き付けている間に、妻子は無事に家の外へ連れ出すことが出来た。ふたりに目立った傷がないことを確認すると、ツボミはほうと小さく息を吐く。
家が見えないくらいの距離まで逃げておくように、と言うつもりだったが、サポートとして駆け付けた自由騎士がいた。彼に預けておけばふたりの身にこれ以上の心配はなさそうだ。
妻子はすっかり怯えきった様子だが、それは無理もないことだろう。けれど、ふたりを安心させるような気の利いた言葉は持っていないと、ツボミは軽く頬を掻く。
そんなツボミに、アダムは任せて、と目配せすると、ふたりを安心させるように努めて優しい声色で声を掛ける。
「貴方達民を守るのが騎士の務めだ、その対象には彼も含まれる」
視線を合わせて。びくりと震えながらも、娘がアダムの顔をおそるおそる覗き込んだ。
「神ではなく、ヒトである僕らが貴方達を救ってみせるさ」
アダムは微笑んだ。だからどうか、僕らを信じて待っていて欲しい、と告げて。
どれだけ傷と負っても、男は退かなかった。怒りに燃える男の目は、自由騎士を捉えているようで捉えていない。
まるで、姿のない敵と戦っているようだった。サシャはその姿をすこし恐ろしく感じる。
(神様への信仰心が強いのも、強すぎると怖いんだぞ)
神職に身を置くサシャではあるが、自国の神様のために家族を害することができるかと言われたら、そんなことが出来るはずもない。
「子供が怖がっているのに無理やり一緒に死のうとしてはいけないんだぞ!」
サシャだって弟や妹たちに我侭を押し付けたりはしないのに。そんな簡単なことも分からないのか、とサシャが吼える。
「大人なのに! すこし頭を冷やすんだぞ!!」
氷のつぶてが男へ向かって飛んでいく。男は斧でざっくらばらんに叩き落とすと、傷を負いながらもサシャへと突き進もうとする。
「行かせるわけにはいかんのう! さあて、我慢比べと参ろうか!!」
けれど、それをシノピリカが留めた。我慢比べならば自信がある。負けるつもりはない。
アリスタルフが駆ける。
「神に守られたいだけの存在が偉そうに殉教の真似事などするな!」
「お前たちに何が分かる! 何が!」
アリスタルフが男の身体を強く打った。衝撃だけではない、身体のなかを狂わされる感覚に男が顔をしかめる。足元がふらついて身体が傾く。けれど、まだ。男は歯を食い縛り、足に力を入れなおすと踏堪えてみせた。
「命より大切だったものを、喪ったこともないだろう! 奪われたこともないだろう!」
男が吼える。自分を鼓舞するように。自由騎士たちを否定するように。
「この苦しみが! 悲しみが! 分かるものか、分かるものか……!」
それは、まるで子供が起こす癇癪のようで。相手を見ようとしない、自分勝手な独り言。
「オモチャを奪われた子供のようじゃな」
「子供よりひどいんだぞ」
呆れたようなシノピリカの言葉に、うるるとサシャがちいさく唸る。
男が発する言葉はさておき、圧されていることは分かる程度には、男は落ち着きを取り戻していた。
殺されるならそれでいい。神のもとへ行けるのだから。けれど。彼らは言った。死なせたりしない、と。醜態を晒し、生きていくのはご免だ。
ばたばたと足音が近付いてきたのは、男がそんなことを考えているときだった。
「戻ったぞ! どうなっている!?」
ふたつの影が部屋へと駆け込んできた。妻子を避難させたツボミとアダムが戻ってきたのだ。男が息を呑む。
不利な状況だと思っていたところだ。更にふたりが戻ってきたのだから、この状況が覆ることはないと考えるくらいのことは出来る。男の口元がふ、と歪に歪んで。
「は、はははハははハハは!! 神よ、我が神よ! 今すぐそちらへ参ります!!」
高らかに嗤って。男は後ろに跳ね退くと、刃を自らに向ける。
「いけない!!」
アダムが彼を庇おうとするよりはやく。男が自分の腹へとぐっと刃を押し込んだ。ぶちりと肉が断ち切れるおとがして、狭い部屋に血のにおいが充満する。
男は柄を握り直し、腹を引き切ろうと腕に力を込めた。自分だけでも、神のもとへ―――。
「ダメー!!!」
ぱちんっと小気味のよい音が響いた。男の側まで忍び寄っていたナナンが男の頬を叩いたのだ。柄を握る手の力が抜ける。
「お父さんが死んじゃったら、その『悲しい』は大事な人にも移っちゃうよぉ……!」
泣きそうな声だった。幼い彼女も、彼にとっては憎き相手だ。そんな相手がどうして泣きそうなのか、男には分からない。
「この、卑怯者が!!」
次いで耳に飛び込んできたのは、怒声。視線だけを声のした方へ向ければ、みっつの瞳が男を睨み付けていた。
「なあにが殉死だ! なあにが『分かってくれるね?』だ! 貴様は『分かって貰えない』と思ったからこそ無理やり押し込もうとしたのだろうが!」
強い信念のもとにそうするのなら、勝手にしたらいい。けれど。望まぬ者まで道連れにしようとすることは、神の前に生きる者への冒涜だ。
「『受け入れて貰えない』事に薄々自覚があるのだろ卑怯者が!」
ツボミの言葉を受けて、男の目が見開かれる。そして。男の口元が、ゆるく、弧を描いた。
「何が可笑しい!!」
ツボミの言葉に返すほどの力が今の男にははない。ゆっくりと瞼が下りていく。
―――嗚呼。
ただひとりの神に捧げた人生は、無駄だったと言うのか。
その神の名のもとに他者を虐げ続けた人生は、間違っていたというのか。
そうは思いたくなかった。思いたくなかったのだ。―――けれど。そうか。自分は間違っていたのか。
自由騎士たちの声が、ちいさく、とおくなっていく。口元は弧を描いた形のまま、男は意識を手放した。
●
暫くして意識が戻った男の視界には何も映らなかった。当然だ、身動きひとつ出来ないほどに、拘束されているのだから。
けれど、音だけは届いていた。男が目覚めたことに気付いた自由騎士たちの声が聞こえる。
「俺達のことを憎むのは自由だが、いつまで神に縋るつもりだ」
神がいなくなった今、家族の暮らしを守るのは誰だ、とアリスタルフが言う。
「殉死するにせよ心中狙うにせよ、その前に先ずはキッチリ『家族』と話し合わんか馬鹿者!」
まったくだ、と変わらず怒気を含んだ声色で。治療を終えたツボミが自分の仕事はここまでと言わんばかりにふんっと鼻を鳴らす。
「神様の権能の影響もあったから仕方がなかったと思うけど……」
シャンバラの神を殺めたのは自分たちの国だ。それは、幼いサシャにも分かっていた。
だから。もしかしたら、他にも同じように苦しんでいるひとがいるのかもしれない。そう思うとなんだか複雑な気分になる。
けれど、確かにひとり、救えたのだ。諦めることになるかもしれなかった未来を思うと、彼を救えたことは誇らしかった。
「ナナン、ちょっとお話したいんだけどいいかなあ……?」
様子を伺っていたナナンがおずおずと申し出る。彼がまた死のうとはしないとは言い切れないけれど。なんとかしてみせるさ、僕も話したいことがあるしね、とアダムが頷く。
自由騎士たちに見守られながら、目、そして口の拘束が解かれる。僅かな夜のあかりでも、彼の目にはまぶしいようで、薄く目を開いた。男と視線が合うと、ナナンがぱっと微笑む。
「うんとね……。お父さんの『世界』ってなぁに? 『世界』って『無くなるもの』なの?」
答えない男を困ったように見遣ってナナンは続ける。地面も空も、月も星も、今も変わらずあるのだと。悲しさでいっぱいになって、周りが見えないだけなのだと。
「『悲しい』って『気持ちの世界』だと思うんだぁ……。悲しい時は大人でも泣いちゃってもいいんだよ!」
びよんっと男の頬をナナンが引っ張った。男の口元が不恰好に歪む。無理にでも笑えば、ちょっとでも気持ちが明るくなるかもしれないとナナンは笑いかけた。
「そうさ、神がいなくとも世界はそこにある。貴方の世界には、母娘がいるじゃないか」
ナナンの言葉に続いて、アダムも言葉を重ねる。
「それに、貴方もいる。ここにいるんだ、ここにいていいんだ」
男が僅かに視線を伏せた。伏せた顔からは、男の感情は読み取れない。
「僕は貴方にここに、世界にいて欲しいと願うよ」
こうして出会えたのだから、とアダムも笑った。男は変わらず顔を伏せたまま。
けれど、扉が開くおとには、ぴくりと反応した。アリスタルフとシノピリカに連れられて、妻子が部屋へ戻ってきたおとだった。
まだ怯えてはいたが、男が無事なことを確認すると安心したようにほうと息を吐く。
「もういない神の声より、目の前にいる家族の声に耳を傾け、顔を見ろ」
アリスタルフが軽く妻子の背を押せば、ふたりがゆっくりと男へ歩み寄る。
「ほら! お父さんの大切で大事なふたりは、ちゃんと『ここ』に居るよ!」
ふたりは男の前に膝を付くと、あなた、と。おとうさん、と。男を呼ぶ。男が顔を上げる。
「お前は何故お前の神を信仰した。お前と、お前の家族の暮らしを守ってくれたからではないのか?」
ややあって、男の瞳からひとつ、ふたつと大粒の涙が溢れ出す。それを見られまいとしたのか、男はまた俯く。木の床に、ぽたり、ぽたりと涙が染みてゆく。
「………すまなかった……」
弱々しく謝罪の言葉が搾り出される。妻は、力なく項垂れる男に寄り添い、抱きしめた。すこし遅れて、娘も父である男に抱きつく。
身を寄せ合うさんにんの間にそれ以上の言葉はなく、低い嗚咽が聞こえてくるだけ。
「しばらくは別々に暮らした方が良いと思ったが、さてはて」
思い過ごしじゃったかの、とシノピリカがどこか嬉しそうな、困ったような顔で笑う。
「心からの信仰じゃ。変わる事を無理強いする事も出来ぬ。ただ、おぬしの信じた神は……。本当に、殉教を望むかのう」
その答えはもう、男には分かっているだろう。例え神が望もうと、望まざると、それより大切なものが、目の前にいるのだから。
ひとを救うのは、神だけではない。彼と家族がまた歩いていくための糸口を、自由騎士たちは示したのだ。
彼らが本当の意味で立ち直るには、まだまだ時間が要るだろう。けれど、いつか、きっと。