ヴィスマルク

「失われたと。そうか」
 ヴィスマルク5世は憂いを帯びた瞳で眼の前で満身創痍の将を睥睨する。
「申し訳、ございません」
 エッケハルト・エビングハウスは両の手を喪われたままヴィスマルクの謁見室で、額を床につけんばかりに跪く。その頭をヴィスマルク5世の長い足が踏みつけた。
「もうし、わけ……っ!」
「戦の王よ、准将はそれでも艇は護った。アレが他国に下るという最悪は防がれた」
 暗闇より出る魔導師、アレイスター・クローリーが口添えする。
「下がれ、エビングハウス。貴様の処遇は追って通達する」
「きょ、恐縮です」
 逃げるようにエッケハルトが退室すると、謁見の間にはヴィスマルク5世、その皇后、そしてアレイスター・クローリーだけになる。
 ヴィスマルク皇后――前国王の皇后でもあるその女はヴィスマルク5世にしなだりかかり、頬を愛おしそうになで、クローリーを見やる。
「まったくもって、まったくもって道化師よ。なあ、道化師」
「『皇后』よ、どうかしたか?」
 くつくつと笑う皇后に対し、愉しげに笑みを深めるクローリーは問いかけた。
「わざとであろう? なあ? あの子を生贄に。ああ、お前が本気で世界を救う覚悟があると理解できたよ」
 言って皇后が長い爪を一閃させれば、ころりとクローリーの首が落ちる。
 首のないクローリーは何事もなかったかのように自分の首を胸元に抱き上げた。
「困るぞ、『皇后』死ぬのは案外面倒なのだぞ? 『皇帝』も言ってくれたまえ、君の細君はどうにも乱暴であると」
「茶番だな、道化師」
「これは手厳しい」
 玉座に座るヴィスマルク5世は眉すら動かさない。
   「神は殺された」  
             「はじめての神殺しだ」  「それに、それほど感慨はない」 
   「のだろう?」 
 クローリーは己の頭部をまるでボール遊びをするかの如くに手遊ぶ。
「道化師よ。私はな。ギャンビットが得意なのだよ」
 ――ギャンビット。それはチェスのオープニングに際し、あえて駒を相手に取らせ、損をすることで、その後の展開や陣形を優位に求める一種の定石である。
「へ」  「え?」 「じゃあ、この先は」
  「クイーンズギャンビットを」 「狙うの」 「かい?」
 「それとも」 「キングズギャンビット?」 「私はおもしろければ」 「どちらでも?」
「それを教えたら面白くはないだろう? それに青の女神め。……というより、イ・ラプセルの王か。か弱き羊と思いきや、その実狼としての本性も隠していたか。まあ、いい。手応えがある戦いは虐殺よりは暇つぶしにはなる」
 玉座の肘置きにもたれ妖艶に目を細めるヴィスマルク5世。
「それは」 「簒奪の家系故の」 「闘争本能かね?」 
「さあ、どうかね?」
「それとも戦……」
 クローリーが口を滑らす前に、そのクローリーの頭部が左右に割れ、脳漿をばらまきながら床に落ちる。 「まったく」 「『皇帝』様まで乱暴だ」

   エッケハルトは廊下を歩いていた。
「くそ、くそ、俺に地を舐めさせやがって!」
 粗野な口調は普段の彼らしくない。王城の柱にその怒りをぶつけるように何度も頭をぶつけ、額が割れ血が眉間をつたい顎からおちる。
「イ・ラプセル、許さん、許さんからな!!」
 一人叫ぶエッケハルトの乱れた首元から見える首筋にはドラゴンの、ヴィスマルク女神の祝福を表すタトゥが刻まれていた。


ヴィスマルク5世(VC: 神崎恭一/ヴィスマルク皇后(未登録VC: H8K2)