氷 雨
氷 雨



 昔、兄にこう言われた事がある。
 それがいつまでも心に突き刺さっていて、その日から私は兄が怖くなった。

『氷雨ちゃんって、ほんっとくだらないよね』

 私は今、聖百合宮学園の女子トイレの個室の中で、閉じ込められて上から水をかけられた所である。ふと思い出した兄の言葉に、嗚咽が止まらず胃液を吐き出す。
 苦い口内。痛む胸。泣きだす瞳。
「私が一体……何をしたっていうの……」
 兄みたいに覚者じゃない。
 姉みたいに強くない。
 どこにでもいる、ありきたりな、普通の人間。
 なのに。
『貴方がいるから、百合宮も安全な場所じゃないのよ!』
『出ていきなさいよ、前みたいな襲撃もこりごりですわ』
『貴方のせいよ』
 貴方のせいよ。貴方のせいよ。貴方のせいよ。
「私が、一体、何を……何をしたっていうの!!」
 耳を塞いで外界を拒絶した。
 私は普通の人間で、普通の生活がしたくて、普通の学園で普通に学んで普通に生きて死にたかった。
 けれどそれは許されない。
 なんで、どうして。
 それも全て、あいつが。
 逢魔ヶ時紫雨が。
 そう、あいつが全部いけない。
 故に私は、あいつと同じ覚者が嫌いだ。
 覚者なんかいなければ。
 能力なんてなければ。
 あいつと同じ、男の声が嫌いだ。
 あいつと同じ、能力者が嫌いだ。
 あいつが好きな姉も嫌いだ。あいつの百鬼が嫌いだ。あいつの友達かもしれない奴が嫌いだ。あいつの友達のそのまた友達が嫌いだ。その友達のまた更に友達も嫌いだ。その友達の更にそのまた友達も嫌いだ。
 嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ。嫌いだ!!

 でも何より、私は自分が大嫌いだ。

 ふと、扉の向うから声がした。
「そこに、いるな? 今からイレブンが拘束する。正体不明の組織に、逢魔ヶ時紫雨の情報を漏らしたな?」
「……え? ま、待って、私、イレブンの人に、情報を、あげた……んです、けど」
「違う。あれは我々では無い。貴様、紫雨の情報を持っておきながら我々には知らないと言った。だが……。そう、君の同級生に報告を受けている」
「待って、まっ、ま……まってください!! わ、わたし、本当に、ち、ちが!!」
「残念だ」
「そんな、いや……いや、いやああああああああああああああああああ!!!」

 私の名前は。
 逢魔ヶ時氷雨。
 この世で最もくだらない人間。

 ね、そうでしょう。
 お兄ちゃん。


 黎明組織所属の暁は言った。
「彼女を助けてあげてくれないかな。生きながらにして、妖に救いを求めた彼女を」


「これは、私のせいなのかな……」
 チリチリと燃ゆる炎の中で、氷雨であったものは無気力に地面に座り込んでいた。
 両耳を塞いで、もう何も聞こえないようにした。

 出現したのは、半透明で、人間と人間を混ぜてごちゃごちゃにしたような物体。
 あれは、私を映した鏡のようだ。
 発生したのは偶然であったかもしれないが。
 だが、今おこっていることは必然。

『アハッ』
 嗚呼、炎も嫌いだ。
 あいつがよく使っていたから嫌いだ。
『アハッ、お兄ちゃんの友達の友達の友達の友達の友達の友達かもしれないから殺そう!!』
 地響きが鳴り、人間ひとつが地面の赤い染みになった。背中の化け物が、大きな両腕を形成して人を潰した。
 けれど氷雨には、断末魔が聞こえない。
「ばっ、化け物!!」
『化け物は覚者の方!! お兄ちゃんと同じ覚者と間違えたられたから殺そう!!』
 叫び声が聞こえた。けれど氷雨には聞こえない。
『お兄ちゃんと同じ人間の形をしているから殺そう!!』
 人間が走り回っていた。けれど氷雨には聞こえない。
『お兄ちゃんと同じ二本の足で歩いているから殺そう!!』
 殺そう。
 殺そう。
 殺そう。
 殺そう。
『ねえ、私くだらない? ねえ私綺麗かな? ねえ私可愛くしてるかな?
 ねえ助けてって言えなかった私が悪いのかな? ねえ私が逢魔ヶ時だからいけないのかな? ねえ私は生きている事さえ許されないのかな? ねえ私は悪い子かな? ねえ私はおかしいのかな? ねえ私がおかしくなったのはなんでかな? ねえ私がこんなに人間を殺したいのはなんでかな? ねえ死んで、ねえ死んでよ、ねえ!! ねえ痛い? ねえ苦しい? 私の痛みはこんなものじゃない!! もっと苦しんで、もっと苦しめ!! 苦しんで死ね、絶望に打ちひしがれて死ね!!』
「そうだ、しんじゃえ。そうだ! 全部しんじゃえ!!
 くだらない世界、優しくない世界、頑張っても頑張っても報われない世界!!
 全部全部壊しちゃえ、あは、あははははっあはははははははは!!
 やったあああああ!! 殺せ! 全部殺しちゃええ!!
 死ね、死ね死ね。バーーーーーーーーーーーーーカッ!!」

 もう何も、聞こえない。

 絶望の淵で少女は破壊に縋る――――。

 やっと吹っ切れた。
 あの日、イレブンだと騙った人達(FiVE)に感謝しなくては。
 ありがとう。
 ありがとう。
 ありがとう。
 この、うそつきやろうどもしんでしまえ。


■シナリオ詳細
種別:通常(EX)
難易度:難
担当ST:工藤狂斎
■成功条件
1.妖の討伐
2.なし
3.なし
 氷雨番外編、ラスボスは氷雨

●状況
 七星剣幹部逢魔ヶ時紫雨には、妹がいる。それが逢魔ヶ時氷雨。
 中学生で、聖百合宮学園という全寮制の学校に通っている普通の少女だ。
 だが彼女は、兄がアレであるからに、学園に馴染めていなかった。
 ある日、彼女は彼女の誘拐目的に学園が襲撃に会う。それをファイヴの覚者が止めた(拙作:負けて嬉しい花一匁)。
 だが氷雨はイレブン所属の憤怒者であり、その際、ファイヴの事をイレブン所属の憤怒者であると思い込んでいた。恩人たちに紫雨の情報を聞かれ、話したが。
 その後、紫雨の情報を別組織にバラしていることをリークされてしまった。
 彼女は遂に絶望に身を染め、憎悪や悲しみと執念が強力な妖を引き寄せた。

●妖『氷雨』

 心霊系、ランク3、一強なりに強いです

 形は複数の人間がひとつの団子になったような姿で、まるい形状から手足がいくつも生え、至る場所に目と口があり蠢いています。半透明。

 氷雨の心を映し出してしまった生霊
 人間の根絶は当たり前ですが、氷雨の憎悪の対象が優先的に狙われていきます
 もちろん逢魔ヶ時氷雨本人も、妖氷雨の攻撃対象です

 ステータスは、
 元の逢魔ヶ時氷雨の怒りが強いだけに、物理も特攻撃も威力が極限まで高いです。比較的やわらかなPCだと一撃で沈む可能性もあります。
 命中は高いです。
 半面、回避力は少なく、防御も低い傾向です。
 体力は高いです。BS回復能力も高いです。

 PCの物理攻撃の威力は半減します。
 炎行、獣憑、男性、どれかひとつ当てはまるPCは、敵の攻撃力が1.2倍の計算になります

 蟲毒ノ槍……物近単BS猛毒
 圧殺……物近貫2[100%、50%]防御無視
 怨嗟ノ声……遠特全BS不運、溜1
 氷雨……遠特貫3[30%、70%、110%]BS出血

*分裂……氷雨が二体になります。全ての能力値を半減した状態で分裂します。体力もその時の体力の半分になります

●逢魔ヶ時氷雨
 壊れちゃってます
 移動しません、笑って泣いて怒りながら楽しんで死ぬ時を待ってます
 生きても死んでも紫雨が彼女を助けることはありません

●場所
 聖百合宮学園
 イレブン所属の女子高生憤怒者が多いです。
 場合により、覚者に武器を向けて来る事があり、攻撃もしてきます
 武器は基本ナイフやマシンガン
 でも状況がこんなことになっているのは理解しております

 ご縁がありましたら、よろしくお願いします
状態
完了
報酬モルコイン
金:1枚 銀:0枚 銅:0枚
(0モルげっと♪)
相談日数
7日
参加費
150LP[+予約50LP]
参加人数
10/10
公開日
2016年01月29日

■メイン参加者 10人■



 例え自分が死ぬ事になったとしても。
 護りたいと初めて思えた人達を、護れるのなら。

 本望だ。

 銃声が響いた刹那、氷雨の心臓に穴が空きそして。
 世界はまた、暗闇に閉ざされた。


 例えるならば。
 それは、闇の中で一切の光の存在を忘れ、沈んでゆくような。
 絶望にも似た哀しみと、凍える寒さにも似た悲しみ。
 物静かで、けれど物寂しい世界で繕う夢は。
 叶わぬという言葉がお似合いの、抵抗を忘れた傷跡だらけの綻び。
 緩やかに向かう死の世界には。幸せがあると信じたか――愚かな少女は今、再び生に縛られる。
 耳を塞げども視界は見える。
 地獄だ。地獄が広がっている。
 一歩先も、百歩先も同じ世界。汚くて誰しもが敵の世界。
 何故助けるの。助けないで。
 何故戦うの。傷つきたくない。
 何故戻って来たの。うそつきのくせに。
 そこまで来たのなら、救ってみせなさい。

「あはは、終りだ、終り……終わりにするから。やめてよ!!」

 状況は至って深刻だ。

 逢魔ヶ時氷雨の眼前には、『狗吠』時任・千陽(CL2000014) が立っていた。蟲毒ノ槍が胸に突き刺されば呼吸のままならない状態で、彼の瞳が掠れながらも揺るがない。
 血の色の瞳に映し出された氷雨は酷く滑稽だ。耳を塞いで外界から完全に己を分断しているつもりか。千陽と氷雨、目線が一度合致してから彼女は俯いて繋がりを断った。
『助けに来ました』
 そういう言葉を、千陽が紡ぐ間なんて無かった。
 コワレモノ。
 そう、壊れもの。
 これ以上破壊しないように丁寧に。深緋・幽霊男(CL2001229) は、氷雨を抱えて地面を蹴りあげる。
 スタート地点から氷雨までは遠距離射撃の射程圏内だ。例えば、これで氷の雨でも飛んできた日には、少女の命を落とす事は明確。けれどそう簡単には逃げられない。
 制服姿の少女が、否、少女達が銃口を向けて幽霊男の手前に立った。完全に壁となる少女達の群に、呆れにも似た深い溜息をつく他無かった。
 彼女たちの要件は重々承知している。言わなくたって、依頼が始まる前から分かりきっていた。
「そんな事をしてる場合じゃないだろ!!?」
 声を荒げた『B・B』黒崎 ヤマト(CL2001083)。
 彼が言うのは正論だ、ご尤もだ。今は人間同士が争っている場合では無い、非常事態。
 そんな事は分かっているのだ。一歩、後ろへ引いた憤怒者の少女が居た。押せる、これは押し込める。ヤマトは更に声を荒げんと息を吸う。
「妖は俺達が引き付けるから、その間に避難して! これ以上犠牲者を増やさないで!」
 覚者の言う事が聞けるかと言えば、聞けぬイレブンという者達だ。されど、ヤマトの声だけは何故だか彼女たちの心を突き動かしていた。
 ざわついた世界、武器の照準が揺れ動く少女達。同じく心も揺れ動く。
 幽霊男が再び歩を進めるかと思えた時、背後から、妖の声が聞こえた。
『あーやだやだ、強がって群れることしかできないくせに、このブス共ブスブスブス!! さっさと死んでくれればいいのに、今すぐ殺すからそこで待ってろ死ね死ね死ね死ね死ね』
 イレブンの少女達は一斉に氷雨を視界で射抜いた。
 抱えられた氷雨が首を横に振って、そんな事思っていないと泣く。
 収拾のつかない泣き声と怨嗟の声が空中を闊歩する中、ひとしきり苛立ちを覚えた男が動いた。
「あんま調子のんなよゴミ袋」
 『白焔凶刃』諏訪 刀嗣(CL2000002) が抜刀、そのまま入り組んだ顔を切り裂きながら、後方へと押していく。罵詈雑言を紡いでいたひとつの口が、今度は叫び声をあげながら血反吐を吐き始めたのは言うまでも無く。
 声には憎悪を込め、苛立ちを隠さぬ心を映す妖は思うがままに言葉を吐いた。
『あああああいけないんだ女の子の顔を傷つけたら駄目駄目ダメダメ殺す殺そう男だから殺そう!!』
 後方まで押された妖が数多くの手を使って這って前に出んとしたが、『水天』水瀬 冬佳(CL2000762) が立ち塞がり身を呈して壁となる。
 術符に力を込めて、爪のように妖を切り裂く冬佳。得意な得物の刀は今日は封印してでも、目の前の妖の弱点をついて行かねば終わらぬ戦争。
 『鴟梟』谷崎・結唯(CL2000305) も同じく、攻撃を行う。地面を足でトンと軽く叩いただけで、地面が奮起し、妖が地面につけていた手を串坐した。
『やだやだやだ皆いじめる、これもそれもあれもどれもお兄ちゃんがいけないんだきっとみんなお兄ちゃんの吐く空気に感染して悪い奴等になってるんだ!!』
「女子高かよ。なんで俺がこんな所に」
 寺田 護(CL2001171)は妖の叫び声さえものともせず、首を鳴らしながら背の翼を大きく広げた。白とも黒とも取れぬ、灰色の翼が羽ばたきをひとつ起した所で衝撃波が妖を縦に切り裂いていく。
 人が重なり、連なった姿の妖(団子)がぐちゅぐちゅと蠢いた。至近距離だろうと、護が立つ後衛だろうと、変わらずに同じ音が響いてく。ナマモノが混ざり合い、傷を舐めあう姿に護は、くそみたいな依頼だと吐き捨てた。
『お兄ちゃんがいけないんだ全部こうなたのも全部お兄ちゃんを産んだ世界もいけないんだ全部潰してやる全部この、このっ』
 妖は血の水溜り(OPで生産されたやつ)を忌々し気に叩きつけた。その度に、血が周囲を色濃く妖艶に飾り付けていく。
 半ば、吐き気を催した……いや、既に何度か胃液をぶちまけた『水の祝福』神城 アニス(CL2000023) は頭を抱え、水音が鳴る度に自分が叩きつけられているような感覚に陥った。

 こうなったのは。
 こうしてしまったのは。
 私達(FiVE)のせい?

 アニスは堕ちていく。深い深い闇の底。自己嫌悪という罪の嵐の中、ふと少年の声を思い出した。
『彼女を、助けてあげて欲しいんだ』
「絶対に……氷雨さんを……お助け致します!」
 弱気な自分を押し殺し、書物を広げて氷雨を力のベールで守るのだ。ゆくゆくは、きっと。氷雨と手を繋ぎ、友と呼べるようになる日の為に。
 だが、常々。世界とは上手くハマってはくれない。
 妖の瞳が三百六十度ぐるんと一周廻ってから、瞳孔が狭まっていく。その瞳の手前には、文字通りの眼前には、青色を灯した水滴が集まっていった。
 ――まさか。
 覚者が誰しも思った。
 オルペウスを振りかぶる。『アイティオトミア』氷門・有為(CL2000042)は前衛に位置し、身体を捻りながら溜めた力を解放した。高温を圧縮した力は空中で弾け、妖の金切り声と共にそれは後方へ下がっていく。
 成程。普通、人はそうなるとそういう反応をするのか。嘘と本当、入り混じり声にしてこうも争いと化すのなら―――有為は笑顔とも取れぬ微笑みをひとつ落して黙った。
 即座に冬佳と『百合の追憶』三島 柾(CL2001148) が後方へ押しやられた妖を追い、壁になるように立つと。
「俺達を覚えているか?」
 柾は妖に向かって言葉を向けた。
『ううううぅぅ、うそつきのくせにうそつきのくせに』
「そうだ。あの日、お前を欺いたのは俺達だ」
 勘付いた妖は美味しいものでも見つけたかのように、混ざり合う顔が大声で笑った。
 煽りの意味を込めた柾の言葉だ。攻撃が、こちらに向くのであれば、万々歳だ。案の定、放たれた氷の槍は、覚者達を中心に襲い掛かる。


 ねえ、せめて。

 世界が優しい世界なら、こういう事にはならなかったはずなのに。

「――とでも、言うつもりか?」
 気にくわなくて仕方がない。火の粉と共に、華やかに揺れる黒髪と灼眼。
 刀嗣は右手に掲げる暴力で思うが侭に切り刻んで切り刻んで切り刻んだ。力に塗れた熱が止まらぬように、無尽蔵に。それこそ櫻花流の戦い方なんぞ知れず動きで刃を突き刺した。
『馬鹿みたい! 皆、馬鹿なんだ! 死ねばいいのに、私がお兄ちゃんの妹だから関わってみたいだけでしょ? 痛い痛い許さない!!』
「ごちゃごちゃうるせぇんだよ腐れスピーカーが!」
 理由なんてどうでもいい。刀嗣が必要なのは、氷雨が要るという結果だけだ。故に彼は、妖が紡ぐ言葉を全体的に跳ね返していく。
 逆に、跳ね返せぬ者もいるだろう。
 柾もそうだ、謝る対象は氷雨であるのだろうが、妖へ向けた言葉は謝罪の言葉だった。
「すまなかった」
 あの日、あの時、そう、情報が欲しいが為に後の事を考えなかった。
「申し訳無かった」
 嘘偽りを放ったことで、既に崖まで追い詰められていた少女の背中を突いてしまったのは我々である。
「ごめんな……」
 両腕を交互に繰り出しながら、ナックルを握る手は湿気帯びた。揺らぐ心の中で、突如柾の付近が黒い影を帯びる。
 見上げれば巨大なまでに肥大した腕が振り落された所だ。
「すまない、氷雨――」
『許さないよ』
 これは、断罪されるのは我々なのだろうか。
 受け入れた訳では無いが、腕は柾を押し潰し、彼の身体は一瞬にして地面に縫い付けられていく。爆ぜたように、柾の中を流れる血が床に撒き散らされた。

 血が跳ねた。

 水滴が跳ねる音に、氷雨の両腕が緩む。瞑っていた目を開け、ゆっくり上を見上げた。
 何故、どうして助けるの。放っておいてよ、私は死にたいのに。もうなんにも聞こえないんだから。
「あ……」
 気づいたら、座り込んでいた。パニックになり過ぎて、状況は読めないが幽霊男がずっと守ってくれている。
 それが少し嬉しかったのは本当で。
 だけど、守られれば守られる程、心が蝕まれるようで。
 壊れていく、崩れていく、零れ落ちていく。欲しいのは、そうじゃない、嗚呼、私はなんて強欲なのだろうか。
 人はそれを、罪悪感と呼ぶのだろうね。
「本当に弱いのは、自分の弱ささえ認めずに抗うのを止めた時が最も力の無い者だと思う」
『本当に弱いのは、自分の弱ささえ認めずに抗うのを止めた時が最も力の無い者だと思う』
 幽霊男の言葉が、誰かの言葉と重なって聞こえた。誰かへ向けた言葉を幽霊男は覚えていたのだ。
「とか言ってたぞ。ヌシの兄」
「もう、……ふ、ふふ、馬鹿だよ、ね、ひひっ」
 この人達が兄に接触しているというのはいっそどうでもいい。
 氷雨は俯き、地面を見た。眼前、蜂の巣のようになっている幽霊男を見ないように。だけど、地面に広がる赤色が、現実を突きつけ離してくれぬ。
「もう、いいよ」
 諦めの言葉しか出せない。世界が狂っているなら、私もおかしくなれば全部同じに染まるだろうよ。
 だが幽霊男はその場を離れる事無く、弾丸を受け続けた。これまで傷ついた少女をこれ以上傷つけぬよう。
 敵は妖だけでは無い。
 ヤマトの言葉は確かに避難を促し、一部の少女達は走り去った。だが、こびり付いた頑固な汚れのようにイレブンに塗れた少女は武器を向け襲い掛かる。
 妖も、能力者も、彼等にとっては悪なのだ。
 それは、憤怒者からしてみれば正義であるのだろう。
 かといって、見逃せる状況でも無いのはまたひとつ。アニスは片手間回復を営みながらも、彼女等憤怒者に気を配った。哀れんだのでは無い、ただ、生きて欲しくて。
「私達は氷雨さんを救出しお連れ致します。状況が状況ですまずはここで争わずに目の前にいる妖を倒すことだけ考えましょう」
 赤いシミになって消えた仲間達を思い出す。
 アニスが言う事は理解しているつもりだ。
「ですが大変危険ですので最悪命の危険を感じたら逃げてください……貴女達の命も……無くなるべきものではないのですから」
 怒りに怒りで返してもしょうがない。
 憤怒者に理由があれど、それを否定して力で制圧するのは覚者には容易い。
 もっと難しいのは、分かりあう事。
 それができるのなら、争いは起こらないはずなのに。
「イカれてる、お前等これ以上やるってんなら」
 護は鬼の形相で憤怒者達を射抜いた。彼の雷獣ならば、憤怒者を黙らせる事は容易に可能であっただろう。このまるで収拾のつかない戦いに、早く終わりをつけたいもので。護はただ、FiVEが巻き起こしてしまったものを、止める為にここに立つ。


「行くぜレイジングブル! 全部受け止めきってやろうぜ!」
 ヤマトのギターの音色が一瞬だが、騒音を掻き消し秩序を乗せた。纏った炎は情熱と言った方がらしいだろう、絶望の中で燃ゆる星だ。蜷局を上げて燃え広がるそれに、思いを乗せて歌声を奏でる。
「氷雨! こんなくだらない死に方が望みかよ!」
 聞こえない、聞きたくない。氷雨は耳を塞いだけれど、ギターの音色は振動になって心に伝わるものだ。
 正義とか難しい事は、まだヤマトには分からない。けれど泣いてる少女を見逃して置ける程、ヤマトは無関心に満ちた心を持っていない。
 泣いてるから、助ける。
 単純な理由で彼はそこに立っていた。どんな壁さえ一瞬で跳ね返すくらいの明るい声で、手を伸ばし続ければきっといつか、彼女は耳を傾けてくれるはず。
 けど。
『ばーーーーーっかじゃないの!! 何が死に方よ、死ねば皆同じよ、食べたら胃の中で全部同じになるのと同じよ!!』
「お前にいってんじゃねー!! こっちだよ、氷雨ちゃん!」
『お兄ちゃんっぽいから死ね!!』
 リクエストには誠意をもって応えるのが常。ヤマトを狙う氷弾が空中を駆け抜け、被弾の数だけ血を吸って威力を増すそれ。まともに受ければ、ヤマトでさえ体力をごっそりと持っていかれるのは覚悟の上。
 聞こえるだろうか、氷雨。この音色が、貴方を助ける為に戦う者達の戦唄が。
 冬佳は思う。ふらついた指先、あと一度圧殺を受ければ己は立ち上がる事は可能だろうか。いや、今はそんな事はどうでもいい。
 冬佳は氷雨がいるであろう後方に身体を少し傾けた。
 ただの一般人が逢魔ヶ時紫雨の妹。それだけで世間は辛くあたられた事だろう。居るかさえ不明の伝説が、妹の存在により是をとされて。
「貴女を救ってほしい、と、ある男が言い残しました」
 圧殺を形成し始めた巨大な腕が一瞬であったが動くの止めた。
『気持ち悪い。なにそれなにそれなにそれ、気持ち悪い!! あり得ない、あり得ない! そんな事、あってたまるか!!』
「黎明の『暁』小垣斗真と名乗って接近してきた男――『逢魔ヶ時紫雨の』頼みです。私達が貴女を救う理由です」
 トリガーはその名。攻撃の焦点は一気に彼女へと向く。
『救われたいんじゃない! そんなの頼んでない!! いいから早く死ね、死ね死ね死ね害虫共ぉぉお!』
 無秩序に暴れ出した腕が地面や壁を叩き壊しながら、最終的には冬佳を飲み込んだ。風船が破裂したような音と一緒に爆ぜる彼女の身体は脆く、儚い。命を燃やして絶命は避けるが、成程、ヘイトコントロールは容易いか。庇っていた結唯も一緒に叩き潰された結果、二人して命を燃やす結果となったが大きな収穫だ。
 血雨でも降るのだろうかと思える程に、周囲の鉄臭さは度合を超えていた。
「どうしたもんかな」
 護はそう言った。溜息しか出ない状況だ。
 何より氷雨の心を映しているとはいえ、あの妖は中々にお喋りが大好きなようで。止まらぬ口に終止符を打つ様に、護は圧縮した空砲を放つ。ひしゃげた妖の身体に、叫び声。
 今やこのBGMにも耳が慣れてしまった。

「おぬしらも、聞き分けが無いの」
 まだ、まだだ。まだ憤怒者は退かぬ者がいる。
 我が身可愛さに逃げていく少女のほうが賢く愛らしいもの。だが鳴りやまない銃撃戦、穴の空いていく幽霊男の身体。
 例え妖に攻撃されるヘイトの中に幽霊男が入っていないとしても、数で攻めて来る少女の銃撃を耐えるにはなかなか苦労した。
「その女が全部いけないのに!」
「どうして守ってるの? 能力者の考えている事は分からないわ!」
 思い思いの言葉を受け止め続ける幽霊男。何を言われようと、涙を流しながらごめんなさいを繰り返す氷雨という人形に、今更業を放ち楽しいというのか。
 声ならぬ、送受心で。千陽は少女たちの心に直接訴えた。
「これで俺達を捨て駒にするのが合理的だ。妖と覚者の共倒れ、君達には都合がいいはずだろう。よしんば妖を倒せても疲弊した覚者を討てる、そういう状況だ」
「ええ、そうよ! だから私達はイレブンとして貴方達を排除するわ」
 くつくつと笑う少女達。制服さえ赤く染め、弾丸を吐き出す連射銃は似合うにも程遠いもの。
「逃げろ!!」
 柾の声が響いた。
 だがそれは少女達は聞き届けない。故に。
 刹那、妖の怨嗟が響き渡る。例え遠距離射撃位置より遠くとも被弾することはあるのだが、饒舌に語っていた少女の隣の少女の頭が割れ、立ったまま死を遂げた。
 本当は全員助けたかったし、傷つけたくは無かった。ヤマトの喉が嗚咽を漏らしたのは一瞬。
 それまでよくまわっていた舌も叫び声に変え、そして痺れを切らした結唯が憤怒者の群に飛び込む。
 幽霊男に抱え込まれた少女を助けるのか。それは結唯としては本当に良い事なのかは判断不可能であったが、仲間が助けると言うのなら従わぬ訳にはいかぬ。怨嗟に殺される少女と、結唯の襲撃が足されれば、やっとイレブンは撤退の一途を辿る。

 光を灯さぬ氷雨の淀んだ瞳。彼女を壁際まで運んでから幽霊男は前線に返り咲いた。
 その頃には前衛も消耗が激しく、そして後衛がそれの修復に追われていた。
「氷雨さん……本当に、本当に御免なさい。私達の所為で貴女を壊してしまった……」
 抜け殻の少女に手を差し伸べたい、アニス。まだ、温かい身体で抱きしめてやればきっと彼女は戻ってくると思いたい。
「それは事実であり私達が負うべき罪ですが、私は諦めません。貴女を破滅させは致しません。貴女を必ずお助け致します」
 アニスは精神を犠牲に、前衛の傷を埋めていく。
『無理だね無理無理無理!!』
「斗真さんに言われたからじゃない……私は貴女を助けたい…! この世界はまだ優しい物だと漆黒の闇ばかりじゃないっていうのを感じて欲しい! 逢魔ヶ時は明けて暁となるのですから!」
 もうここまで来たら逃げる事は不可能だ。
 咳き込んで、力を集める両腕が震えても。まるで自分に言い聞かせるような言葉を連ね、意識を保つ。うっとおしく反発する妖は確かに氷雨の心を映しているのかもしれない。
 拒絶、されているのかもしれない。それでも。
 この戦いは妖を倒して勝つのではない。けして氷雨が助からねば勝利とは言えぬのだろう。
『痛い痛い!! 心が痛い!! 誰しもがみーんな自分の欲望だけで生きてる。助けたい? 誰も頼んでない!! 偽善で救われる身にもなってみ――』
「テメェが何しに生まれたとかよぉ、どういうつもりかなんてどうだって良いんだよ」
 周囲が静かになったのは刀嗣が声帯ごと刃で叩き切った為だが。妖は顔を変え口を変え、喋り出す。
『触らないで関わらないで死ね!! 人間ごときが!!』
 更に二手。喋り出した顔を潰せば、他の顔が代わりに叫ぶ。まるでイタチごっこであったかもしれないが、全ての顔を潰したとしても刀嗣の苛立ちは止まる事が無い。
 空砲が放たれた様な静かにはじける音がひとつ。ぱちゅんと弾けたのは刀嗣の胸であった。穴が空いた先で、結唯が被弾したのも確認が取れ、そして二人同時に膝をつく。
 だが、立膝をついても、再び立ち上がった刀嗣。怨嗟、憎悪、妖? そんなの全部ちっぽけな事。
「俺はなぁ、自分のお気に入りに手ぇ出されんのが死ぬほど嫌ぇなんだよぉ!!」
 血を吐き、胸に穴が空こうと立ち上がる少年は再び右手の刀に力を込めた。
 同じく冬佳が術符に力を乗せた。純粋に助けたい気持ちで行動するも、未だ救済の歌声は氷雨には届かぬ。妖という壁が遥かに立ち。
「『彼』の真意、知りたいとは思いませんか? もしそう思うのなら――生きなさい」
『声を、思いを聞いて、悲しむのならいっそ何も聞かずに死なさせてよ!!』
 この世界、救われるものよりも救われぬ者の方が多いのかもしれない。それでも助けられるのなら、助けたい。
 そう、願う事さえいけない事だというのだろうか。冬佳は言葉に詰まった訳では無い、声を紡ぐ相手が違うだけ。ならばまず、その壁を断ち切る。


 時間は経ち、ついに刀嗣が倒れ伏した所。
 前衛も次、圧殺が来たら立っていられるか分からない者も多く。
「参っちまうぜ」
 護は溜息をつく暇も無く、回復の手間を裂く。全く持って今回の事件は、根本をFiVEが噛んでいるのかもしれない。手前の尻は手前で拭うと言う奴だ。例え土下座をしたとて、解決せねばならない。その為に、負ける訳にもいかないのだが。
 押し込まれた圧殺に柾が膝をついた。命を燃やして立ち上がれども、次で立っていられるかは分からない。ならせめて氷雨に一度声をかけたかったのだが、それは遠いのか。
 アニスもヤマトも冬佳でさえ精一杯だ。既に人数が減っている中で、誰かが倒れれば誰かのその役割以上のことを果たさねばならない。
 まだ戦闘が開始されて時間としてはそうも経っていないのだが、妖の威力は気持ちが悪い程に殺戮の意思を秘めていた。幽霊男は得物を妖に突き刺した――途端。
『あははあはははははは!!』
『アハハアハハハハハハ!!』
 分裂した身。幽霊男を避け、後衛に突進していくその二体。狙いは柾もそうなのだが、更に奥にいるであろう。
「氷雨か!!」
 ヤマトは叫んだ。自己嫌悪か、それで自分を追い詰めるのか。
「そんなんでいいのかよ氷雨!! 嘘が嫌いなら、全部吐き出せよ! 氷雨はどうしたい? どう生きたい! その声は絶対聞き届けて、叶えてやる! その為に来た!」
 精一杯叫んだ思いに、氷雨は。
「――――」
 応えられなかった。

 全身から炎を撒きながら、火の粉を軌跡に零して妖の後方へと走った。
「こっち、こっちだ」
『お兄ちゃんと同じ炎使っているから殺してやる、逃げんじゃないよ!!』
 このたかがヘイトでどれだけ有為が妖を引き付けられるかは分からない。けれど、やらなくてはならない。
 結局は、今のこの状況の原因は不運と偶然が一致してしまっただけの事。少し何かが違えば起こらなかったかもしれぬが、それを考えた所で何かが変わる訳でも無い。
 有為はせめて、有為らしく。怒れる状況に終了の幕引きを降ろす為。
 ……いや? 有為は嗤った。そうじゃない、自分の力で何が護れるのか。どこまで護れるのか。人の役に立てるのか。ある意味これは実験に近しい意味が込められていただろう。

 自分は生きていてもいいんだと誰かに言ってもらいたかっただけ。
 きっと、同じ願いの表と裏。だから、手を、手を伸ばさないと。

「オルペウス、解放」
 力無き者の為に使うのなら許されるだろう。例えそれが、禁忌であろうとも。
「待ってください、その力は!!」
 立ち上がった冬佳の声が聞こえた。だがもう止まらない。
 有為は己が魂をエンジンとして出力に変え、そして斧を脚力任せに振り被る。姿はまるで、死神も同然のものであった。爆炎が舞い、彼女の周囲3m内のものは風に飛ばされて吹き飛んでいく。学園の窓硝子さえ一斉に割れ、弾け、そして――
 ……手を伸ばし続けるのは、有為が。『アリス』が、そうして欲しかったからなのだろう……私の本当の名前は、胸の奥深くで眠る。
 ――力を組み込む事によって最終的に完成する斧は下から上へと跳ね上がる。地面を抉りながら、そして妖の身体を砕きながら全てを無へと帰すのだ。

 もう、一体。
 妖は大量の手足をバタつかせながら、歩くというよりは滑る形で地面を這っていく。先には千陽がいた。思い出すのは、あの会合。
『彼女を助けてあげてね』
『はい。了解しました。小垣』
 あの言葉は、思えば千陽を縛る呪いのようなものであったかもしれない。
 是として戦場に赴いた以上、誰一人欠けぬように戦うのでは無く、約束を守るまでは帰れないという風に姿を変えていたかもしれない。
 いくらも分らぬ強大な敵を目の前に、駄目であったと逃げ帰っても誰が彼を咎めようというのだ――いや、いる。小垣斗真は負けを許さない。それもそうだが、何より自分が自分を許せなくなる。
 たった一人の少女さえ護れずして、軍服を着る意味があるというのか。
「兄は嘘つきと知っているのにくだらないなんて。その言葉だけは何故信じたんですか?」
 遠く守られるだけの少女が、「それは――」と呟いた。刹那、千陽は魂をチップに確定した勝利をつかみ取る。

 君の醜悪だと言う心の写身を消せば君は醜悪ではなくなるだろう?

 本来これは防御をする為に使うナイフである。意味を変えれば護る為に使うナイフである。
 故に、解答する。逆手に持ったそれを千陽は飛び込んで来た妖の脳天に突き刺した。血と嗚咽と断末魔が響き、複数の手が千陽を引き剥がす為に彼の身体の至る場所を掴む。だが即座に吹き荒れた炎が彼を護るようにして、掴んだ腕達を燃やし尽くしていく。
「自分も憤怒者と覚者の彼岸によって分けられた者です!! 俺の家族も妹も憤怒者です!! 立場は違いますが拒絶は恐ろしいものです。それでもちゃんと受け入れてくれる場所はあります」
『人間風情が群れて集まりゴミ共がぁぁああまだ夢でも語るか、私の痛みも知らないくせに!!』
「ええ、わかりません。でも痛みを消し去る事はできます!! 時間はかかるかもしれない」
『世迷い事を!! 綺麗事をいくら並べた所で貴様等人間は滅びる事よ!! くらだない人間に手を差し伸べて正義に浸る快楽犯のくせに!!』
「君はくだらなくなんかない。君は素直に助けを求めてもいいんです」
 妖の塊の中腹まで刺さったナイフが何かしらの硬い物を突き刺し、そして破壊したのはその直後。
 と、ほぼ同時。頭を抱えた氷雨が叫び声をあげて、倒れた。


「氷雨」
 終ったよ。
 柾はへたり込む氷雨にそう言った。
「お前は助けてなんてもらいたくないだろうが、俺達の我儘でお前を助ける」
「……」
「俺達が出会ったのは偶然でその偶然はお前にとって不幸以外の何物でもなかっただろうが。お前の為に死ぬ事も出来ないし、出来ないことの方が多いが、それでも氷雨の力になりたい」
「……」
 柾は苦笑しながら氷雨の髪を撫でた。氷雨は終始、何も言わずに虚ろをみていたが。
 優しい言葉は、言われれば嬉しいものである。けれど。

 どうせ皆。私が持ってる情報が欲しいだけでしょ?
 だから、皆、私に優しくするんでしょ?
 知ってる。
 だから、別に、今回も同じ。何にも関わらず、何にも興味を示さず、生きて、死ぬ。
 柾も千陽も冬佳もアニスも、いや、話しかけてくれた誰しもが悪い訳では無い。けれど言葉は全て、氷雨の耳を滑っていく。

「くだらねえ奴だよお前は」

 そう、私はくだらない。
「…………え?」
 聞き返すように氷雨は見上げた。
 覚醒を解いた刀嗣が氷雨の胸倉を掴んで、強制的に立たせられる。嫌々怖い怖いと逃げたい思いだが、許されない。
「そうやって泣いて拗ねてりゃ誰かが助けてくれると思ってんのか?」
 引け腰になる氷雨、だが彼は離そうとはしない。
「誰が悪いだぁ? 何もしようとしてこなかったお前が悪ぃに決まってんだろ」
 まるで地獄の閻魔大王の前で、並べられていく罪状を見ている様だ。
 だが氷雨は彼の言葉を聞き続けた。誰もが上辺だけで言葉をかけてくる世界で、叱咤されるなど。
 これまで、あったというのか。何故だか彼が凍った心を、やさしさで溶かすというよりは、苛立った暴力で叩き壊していくような。
「俺も、逢魔ヶ時紫雨も死ぬような想いをしてきて強くなったんだよ。何にもしねぇで良い想いしようなんざ反吐が出るんだよ」
 掴んだ胸倉を押して氷雨の身体を突き飛ばした刀嗣。倒れ込んだ先に、贋作虎徹を投げつけた。
「ほら、今の俺は普通の人間と同じだ。憎いなら殺してみろよ。それともまだ誰かが助けてくれるのを待ってるか?」
「……っ」
 虎徹を拾い上げ、氷雨は大粒の涙を零さないように唇を噛みしめ。これ以上泣くまいと、血が出る程噛みしめた。
「うるさいよ……わかってるよ!! わかってた、わかってたよ!!」
 待っていたのは、停滞した心を突き動かしてくれるきっかけだったのかもしれない。
 与えられるだけでは無く、自ら掴めと。氷雨という少女の物語は、今此処から始まるのだ。

 ―――そう、上手く話しは回らない。

「――あ」
 パァン!
 と銃声が響いた。その時には、氷雨が柾を押して代わりに銃弾を受け止めていた。心臓を貫く確実な一手、みるみる内に体温をばら撒く赤い血。

 例え救った所で、思い描いた未来は遠いかもしれない。
 能力者に恨みがあるのに能力者に救われる事に抵抗は無い訳では無い。
 でも優しい言葉は身に染みていた。闇の世界で手を伸ばし続けてくれた、彼等を護れるのなら。
 ここで死ぬのも本望だ。
 嬉しかった。やっと、兄が認めてくれるような気がして。
「あ」
 覚者が憤怒者を追い始める。
「りが」
 柾が氷雨を抱えた。
「と」
 氷雨のおぼつかない手が胸元から血で湿る『黒札』を取り出し、柾に渡した。
「う」
 駄目。
「駄目」
 駄目?
「こんなの」
 駄目。
「嫌です、こんな、こんな」
 アニス。君は見てて飽きないから俺様大好き。
「いやあああああああああああああああああああああああああ!!」
 アニスの叫びが聖百合宮中の窓硝子を破壊しながら、高鳴る。これは魂を使ったというよりは、最早暴走に近かっただろうが。
こんな運命辿るくらいなら、捻じ曲げへし折り反逆をしてやる。彼女の心を取り戻す為、彼女の全てを取り戻す為。アニスは顔を覆い、だが、指の合間から見える瞳は見開いていく。
「お願い……! 私はどうなってもいい!! だから氷雨さんに祝福を与えて!!! 彼女を助けてあげて!!」
 放っておけば十秒内で燃え尽きる氷雨の命。
 それを助けるのは神様でも仏さまでも運命でも救世主でもなんでも無い。
 人を助けるのは人だ。
 奇跡では無いけれど、出会った偶然を奇跡と呼ばずして何に例えられるというのか――そうして、奇跡は一人の少女を救う。
 氷れる心を溶かすのは、覚者たちの思いが伝わったからこそであろう。





 
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