函士
【 函 】函士



「待ちませんよ」
「はい、ご心配なく。彼らを待つ必要はまったくありません」
 噺家の素っ気ない一言に、男はアナウンサーのように整った発音の日本語で答えた。男は青い目を柔らかく細めて、腕を組んだ噺家の視線を真っ向から受け止める。
「国への土産を手に入れたら、自分の足で戻ります」
「……だといいですがね」
 噺家は狐の親子に顔を向けると、さっさと絨毯に乗れ、と命じた。
 青い目の男も促される前に、自ら空飛ぶ絨毯にあがった。真ん中に腰を下ろして胡坐をかく。膝の上に暗視望遠鏡を置くと、体を後ろへ捻って、毛深くて大きな、クマのような手を子狐たちに伸ばした。
「こんばんは。お嬢ちゃんたち、かわいいね」
 子狐たちは母親の背に逃げた。
 赤く腫れた頬の上で、お栄の目が尖る。唇が深く切れてさえいなければ、威勢よく啖呵を切って罵声を飛ばしていただろう。
 青い目の男は眉を下げると、手を引っ込めた。
「あの子たちはモンスターなのに人を恐れるのですね」
(「そりゃ、お前さん……どこからどう見ても背広を着た凶暴なヒグマにしか見えねえからな。コンコンたちじゃなくても怖がるさ」)
 噺家は腰の大小を帯から抜いて絨毯に上がった。一番前に正座して横に刀を置き、胸元から取り出した扇子の先で絨毯の頭を軽くたたく。
「待たせたな。行こう」
 月空を飛ぶ絨毯の下を、数台のワゴンカーが森林公園の駐車場に向かって走りすぎて行った。


「中さんから、函士の討伐の指令を預かってきている」
 ファイヴからの応援者が広場にやって来たのは、噺家か立ち去ってから十五分後のことだった。
 先発隊の覚者たちは、数名の仲間が肉塊を遺体収納袋に入れて回収し、裸の憤怒者たちを毛布で包んで下の駐車場へ連れていく様子を眺めながら、伝令者の話に耳を傾けた。
「ええっと。可能であればそのまま函士の討伐を頼む。ただ、無理や無茶はするな。そのために応援者を送った。情報の引継ぎをして交代、帰宅してくれ……だそうだ」
 函士に関しての追加情報を求めると、伝令者は脇に抱えていたファイルを手にして開いた。
「函士はこの森のどこかに工房を構えているらしい。どこかは解らない。函士は工房に置かれた複数のサイコロ型の函の一つに潜んでいる。それと……下の町で生後六か月女の赤ちゃんが大きな猿にさらわれたというニュースが、さっき報じられた。夕方ごろの話だそうだ。もしかしたら……」


 いま、ひび割れた姿見に映る貌は猿だ。猿の黒貌。それも瞬き一つの間に崩れていく。
 あの時――。
 どうしても我慢できなかった。大好きだったのに。
 工房で木くずの匂いを吸い込みながら、にたりと笑った女を喰い終えて、いや、喰っている最中からずっと後悔していた。喰わされた。喰わされてしまった、と。
 瞬き一つ。
 いま、鏡に映るのは女の黒貌。
 猿の毛におおわれた黒貌の女は、腕に抱いたお包みを揺らした。
「箪笥長持ちあの子が欲しい……ふふふ、交換しましょう。そうしましょう」


■シナリオ詳細
種別:シリーズ
難易度:普通
担当ST:そうすけ
■成功条件
1.函士の撃破
2.赤ちゃんの救出
3.なし
●時間と場所
夜の森にある函士の工房
空に月は出ていますがも森の中はかなり暗いです。
また。工房内部にはロウソクが1本灯っているだけです。


●敵……古妖・函士
正体不明。猿人と同じ能力を持っています。
会話可能。
先発隊の覚者によって、怪我を負っています。脇腹から少量の出血。
さいころの函の一つに隠れ潜んでいます。
 【噛みつき】……物・近単/出血
 【ひっかき】……物・近単/出血
 【助けを求める声】……ピンチになると甲高く吠えて、猿人もどきを1、2体呼びます。

●敵?……ロシア人2人。
表向きはロシア人観光客。ちゃんと観光ビザで入国しています。
正体はロシア極東軍管区、第14独立特殊任務旅団・ウスリースク所属の軍人。
暗視ゴーグル着用。
※英語は話せますが、日本語は話せません。
【対神秘・マカロフ6p9ピストル(消音拳銃)】……物・遠単
【対神秘・ナイフ】……物・近単
その他、システマ格闘術を体得。
彼らの目的は、函士の作った函です。複数ある函の一つを奪って逃げます。

●さらわれた赤ん坊
函士にさらわれた、生後6か月の女の子。
さいころの函の一つに閉じ込められている。
※OP時点から35分後に窒息死してしまいます。

●さいころの函
大小合わせて12個、工房内にあります。
ある順番、ある場所に6回ショックを与えることで開きます。
正しい手順で1つの函を開くのに1ターンかかります。

●函士の工房
森のどこかにあります。
参加者の内1人が、プレイングに「どうやって工房を突きとめるか」ご記入ください。
探索の内容で、到着時間が変わります。
無策だと工房を突きとめるまでに30分かかり、ロシア人たちが函を一つ持ち去ったあとの到着となります。赤ちゃんが窒息死するまで5分しか残されていません。
※探索内容によっては、工房入り口でロシア人たちと鉢合わせする危険性があります。

工房はテニスコートほどの広さで、大小12個のさいころ函が点在しています。
端に机と椅子。机の上に火のついたロウソク。
壁に工具と割れた姿見。
窓はなく、出入口は1か所しかありません。
床には木くずが散乱しています。

●STコメント
よろしければご参加ください。
お待ちしております。
状態
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
(4モルげっと♪)
相談日数
8日
参加費
100LP[+予約50LP]
参加人数
6/6
公開日
2016年12月01日

■メイン参加者 6人■

『ゆるゆるふああ』
鼎 飛鳥(CL2000093)
『五麟マラソン優勝者』
奥州 一悟(CL2000076)
『マジシャンガール』
茨田・凜(CL2000438)
『淡雪の歌姫』
鈴駆・ありす(CL2001269)
『冷徹の論理』
緒形 逝(CL2000156)
『希望を照らす灯』
七海 灯(CL2000579)


 覚者たちは猿人を見失った地点を目指す。
「凛、寒くね?」
 『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)は枝を手で抑え、茨田・凜(CL2000438)を先に通した。
「大丈夫よん」
 一悟の提案で、急遽、凛は大正ロマン風の衣装に着替えていた。函士の姿に近づけるためにだ。
 森林公園に近くの民家を当たって浴衣と紺の袴を借りた。編み上げブーツと柘植の梳き櫛は凛がもともと持参してきていた。上が浴衣では少々、不格好だが、夜なら誤魔化しがきくだろう。
 だだこの季節、夜に浴衣は寒い。
「それにしても冷えるな。つい、この前まで『暑い、暑い』って言っていたのに」
 ぼやく一悟の前を『溶けない炎』鈴駆・ありす(CL2001269)が通る。
「暦の上ではもうとっくに秋を過ぎたわ。ここは山なんだし、そりゃ、夜は冷えるわよ。あ、茨田サン」
 手早く上着を脱ぐと、ありすは振り返った凛に差し出した。
「アタシにはマフラーがあるから」
 体をうっすら光らせて『希望峰』七海 灯(CL2000579)は前方を指さした。
「奥州さん、確かあの辺りで見失ったのでありませんか? 木の根元にある岩に見覚えがあります」
「ちょうどオレたちの匂いもここで途切れ……って。灯、お前震えてね?」
「気のせいですよ」
 否定したが、灯の体は微かに震えていた。寒さのためではない。軽度の暗所恐怖症なのだ。
 森の闇は不安を呼び起こすほど深かった。一瞬でも気を緩めると、あちら側に飲み込まれてしまいそうで怖い――。
「時間がないのよ!」
 『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)は小岩に駆け寄った。
「ここを中心に手分けしてお猿の血を探すのよ。あすかの攻撃で函士……じゃない、猿人は絶対、怪我をしているのよ」
「じゃあ片腕の長さ分離れて血の跡を探すか。見つけたら呼んでくれ」
 一悟の宣言を受けて、灯が調査エリアを割り振った。
「地面より木の幹を調べて欲しいのよ。お猿さんだし、木に登って逃げた可能性が高いのよ」
「了解なんよ」
「少し高いところまで見てみるわ。ゆるゆる、力を貸してちょうだい」
 五分後に一旦切り上げを決めて、覚者たちは血の跡を探し始めた。
 緒形 逝(CL2000156)は木の幹に手をつくと、後を振りかえった。
 まったき闇を貫いて背に当たった二組の視線。おそらくは噺家が言っていたロシア人たちだろう。二人の感情は自分だけに向けられている。敵意よりも興味が勝っているようだ。
(「殺意なし。怯えが少々」)
 感情探査を行いつつ、ヘルメットの中から闇に目を凝らす。姿は確認できなかった。
(「ふん……。おっさんはソ連人だぞぅ、ロシア人に知り合いなぞ居ないさね」)
 あの起動部隊は残らず食いつぶした。当時は噂が色々とたったが、自分とあの事件を結びつけるものは何も残っていないはずだ。所属の旅団自体が解体されており、当時の記録も資料もとっくに処分されている。それなのに自分を知っているという者が現れた。それもこんな極東の島国で。
 気に入らんな、と逝はひとりごちた。
 ロシア人たちの目的は妖具である函の方だろう。接触しようと思えばいくらでも接触できるのに、つかず離れずの距離で後をついてくるのが何よりの証拠だ。
(「まあいい。函に手を出さん限り無視するさね。悪食ちゃんも喰い気を見せていことだしな」)
 逝は体を回して木と向き合った。


 ときどき、虫が生きていることを思い出したかのように細く鳴く。
 侘しい鳴き声に闇が一層深まった気がして、灯は我知らず両腕で体を抱いていた。血痕は見つかっていない。赤ちゃんのことさえなければ、もう少し時間をかけて探してもいいのだが。
「そろそろ五分――」
「見つけた!」
 発見の声を上げたのはありすだ。守護使役のゆるゆるを従え、ゆっくりと地面に降り立つ。仲間が回りを囲むと、黙って手を差し出した。
 飛鳥が懐中電灯で照らすと、黒ずんだ血がべったりついていた。
「一足飛びに登りきれず、途中で手を使ったようね。血の跡は続いていたけれど、それ以上浮けなかったし、暗いし……どっちに逃げたのかまでは判らなかったわ」
「上出来! 大和、出番だ」
 一悟は守護使役の力で血の匂いを覚えると、ぐるぐると体を回した。西北の方角で止まる。
「よし、こっちだ」
 懐中電灯を手にした一悟を先頭に、凛、飛鳥と斜面を登っていく。
 ありすは灯を先に行かせると、逝を待った。
「どうしたね。猿どもの気配を感じた?」
「ううん……あ~、緒形サン。あのね、後ろからついてくるのは古妖じゃなく――」
 逝はすれ違いざまにありすの腕を取ると、強引に歩かせた。
「ありすちゃん、後ろの連中はおっさんに任せて頂戴。さっき噺家が言っていたロシア人さね、多分」
 頃合いを見て追い払うから、と平らな声で告げて手を離す。
 ありすは立ち止まって逝と向き合った。
 口を開いて何かを言いかけたが、結局、一言も発せずにまた閉じる。
 踵を返すと、怒ったように草を踏みしめながら歩き出した。
「さっぱり訳が分からないわ。 函士が大猿と一緒に写真に写っているのも、函士が茨田サンにそっくりな事も。それに、どうしてここにロシア人たちがいるの」
「ロシア人は別として、ほかは函士に聞くしかないわね」
 捕まえてみればわかる、と噺家が言ったのだから、函士はまだ生きているだろう。しかし、大正の時代に凛と同じ年頃だったのだから、生きていてもかなりの高齢。果たして会話が成り立つかどうか。
 重い溜息をふたり交互につく。
 と、前から淡い光に包まれた灯がやって来た。
 灯は二人の姿を認めると、立てた人差し指を唇の前に置いた。
「お静かに。函士の工房を見つけました。この上です。予想どうり、工房は横穴を利用して作られていました。入口前に猫の額ほどの空き地がありますが、空からは見つけられなかったでしょうね」
 灯は超直感を生かして周辺を探り、出口が他にないことを確かめていた。
 一か所しかない入口を、一悟と凛、飛鳥の三人で固めているという。
「さあ、赤ちゃんを助けに行きましょう」


 合流後、情報交換を経て二組に分かれることになった。工房内部に突入するチームと、入口に留まってロシア人たちを牽制するチームにだ。突入班はさらにペアを組むことになった。
「では、私は茨田さんと」
「オレはありすとだな」
 まずは灯と一悟が工房内部に突入、続いて相方の凛とありすが入る。
「思っていたより広いな」
 天井が高いからだろうか。光が隅々まで届かないからだろうか。函士の工房はテニスコートよりも広く感じる。
 一悟は懐中電灯の光で工房内をさっと薙いだ。
 四角い函があちらこちらに置かれていた。次に足元を照らす。木くずの中に沈み込んでいた足を浮かせたとたん、木くずとニスのつんとする匂いが溢れて鼻を強く刺激した。
 涙で視界がかすむ。
 宮大工の祖父を持ち、工房を併設した家に住まう一悟にとって、それはかぎなれた匂いであるはずなのだが――。
「か、火事になると面倒だ。ロウソクを消すぜ?」
 一悟はありすを連れて工房の奥まで歩いていくと、テーブルの上に立てられたロウソクの火を消した。
「では解く函の優先づけをしていきましょう。奥州さん、まだ血の匂いがたどれますか?」
 灯へ返事代わりに手を上げて、一悟は慎重に鼻から空気を吸い込んだ。
 馴染みの匂いに加えて、獣の糞尿と腐った肉、血の金臭い匂い。空気の底では、甘ったるい、しかし複雑に組み合わされた香りも微かに混じっていた。函士がつけていた香水かもしれない。方向性を持たず、空気の底にまんべんなく広がっている感じから、一悟はそれが新しい匂いではないと判断した。
(「でもなんだ? この香水の……胸がムカムカするぜ」)
 気分を悪くしながら、新しい血のニオイだけを嗅ぎ分けて追う。
「同族把握も感情探査も引っかからない。ほんと変ね。噺家が嘘を言っていないとして、人である函士はともかく、どうして古妖である猿人が検知できないのかしら?」
 一悟の背中を守りながら、ありすかぼやいた。
「うん。それに関しては凜も不思議に思ってるんよ。だから、函士と猿人が見つかったら、まず話を聞きたいんよ」
 それは構いませんが、と灯。
「百年前、猿人はすでに滅びかけていた。もしかすると函は猿人の仲間を増やすために、茨田さん似の人間の函士が作った道具だったのかも知れません」
 でも、と言いよどむ。
「現在の函士は写真に写っていた猿人の可能性がありますよ。茨田さん似の函士はもう……」
 灯はゆっくりと工房内を進みながら、さいころの函を見て回った。手のひらサイズの函を手に取って、一の面から順にこつこつと固めた拳で叩いてみる。
 カチリと微かに音がして、六の面が開いた。
「あ、開きました。解き方は一から順に叩く、ですね」
 黒い瘴気は出てこなかった。函は空っぽだったようだ。指を入れて中を検めようとしたとき、離れた場所で一悟がうめいた。
「どうしたの、奥州サン?」
「ちょっと……満たされない気分っていうか、イライラして」
「なにそれ、意味わかんないんよ。ところで、凜たちがどの函から調べればいいん?」
 一悟は灯の横の函を指さした。
「それに多分、猿が入ってる」
 灯がそっと函から離れる。
「あっちの二つ重ねられた小さいやつに、たぶん赤ちゃんが……」
「じゃあ、アタシたちが小さい函を、七海サンたちが大きな函を解くでいい?」
 灯が頷いた。
「ええ、始めましょう」


 能面のような顔という表現はよく聞くが、今の自分はまさにそんな顔つきをしているのだろう。いや、ずっと前からか。
 あの事件以降、怒りをはじめ、様々な欲求を押さえつけているうちに表情筋が死んでしまった。顔の上半分が、まるで人形のように動かないのはそのためだ。
 工房の入口に立って警戒を始めると、すぐに件のロシア人たちが接近してきた。大胆にも、彼らは月の明かりの下に姿を現し、砕けたロシア語で逝に函を引き渡せと要求してきた。
 当然、即座に断ったのだが……。
「逝おじさん。あの人たち、5057-1って、あのお猿と同じこといっているけれど……なにを話しているのよ」
 漠然と不安を感じているらしく、飛鳥の声は尖っていた。
「中身のあることは何も。愚にもつかぬ、くだらない話ばかりさね」
 函が駄目ならお前の身柄を抑えて、少佐に引き渡す。お前の少し前のナンバーが少佐の従弟だったらしいぞ。
 ロシア人たちはさっきからそう言っていた。飛鳥にも解るよう、ナンバー部分だけわざと英語でしゃべったことに悪意を感じる。日本語を話せたなら、もっときわどい仄めかしをしていただろう。
 逝はちらりと横にいる飛鳥の頭を見下ろした。この子が中に引っ込むなり、ここから離れるなりしてくれれば……。
「ふおっ!?」
 いきなり飛鳥が間の抜けた声を上げた。見ると腕に赤子を抱いていた。
「ありすお姉さんが連れてきました」
 逝が顔を向けたときにはもう、工房の入口にありすの姿はなかった。
 耳を澄ませば話し声と、何かが壊れる音が聞こえてくる。函士と猿人も見つかったらしい。戦闘が始まっているようだ。
「……飛鳥ちゃん。早く赤ちゃんを広場へ」
 飛鳥は逝を見て、それから急に赤ちゃんが出てきてびっくりしているロシア人たちへ顔を向けた。はあ、と溜息をつく。
「すぐ戻るのよ」
 そういうなり、赤ん坊と疑問をしっかり胸に抱きかかえて暗い森の中へ飛び込んだ。
(「聡い子だ」)
 逝は完全に飛鳥の姿が見えなくなるまで待ってから、ヘルメットを脱いだ。バイカルよりも青く澄んだ瞳が、月光のカーテンの裏で冷たく光る。
 ――До свидания.


 一悟とありすが手に取った箱からは赤ちゃんが、灯と凛の方からは怪我をした猿人が飛び出して来た。
 凛に向かって伸ばされた毛むくじゃらの腕を、灯が闇刈を振るって切り払う。
 ありすが赤ちゃんを抱えて出口に向かい、それを追おうとした猿人を一悟が阻んだ。
 一悟は腕を突き出して、固い毛におおわれた胸に手を当てて気を放った。
 ふっ飛ばされた猿人が、重ね置かれたさいころの函に当たって下敷きになる。
 もろもろの衝撃で木クズが飛び散り、工房内が埃で覆われた。
「な、なんだあいつ。黒い……凛とそっくりな顔していやがったぞ!?」
「え、どういうことなん?」
「茨田さん、とにかく猿人に呼びかけてください。姿を見失ってしまいました」
 白い光の繭に包まれた灯が、崩れた函に近づいていく。
 凛は手で口と鼻を覆うと、工房の奥に向かって話しだした。
「もう逃げられへんよ。大人しく姿を見せてくれへん? 函士さんには聞きたいことがようさんあるんよ」
 返事はなかった。
 ありすが埃に咳き込みながら戻ってきた。
「そこっ!」
 第三の目が光りを放つ。
 闇の中で悲鳴があがった。
 一悟が姿見のそばでうずくまる猿人の姿を懐中電灯で照らした。体を横向け、光を避けるように腕で顔を隠している。
 猿人はいつの間にか函の下からはい出て、姿見の近くまで移動していたようだ。
「待って! 凛に話をさせて」
 凛は函士と猿人が写った写真を取り出した。一悟に頼んで光をあててもらう。
「ここに写っている女の人は誰なん。他人の空似にしてはちょっと凛に似すぎてへん? あ、姓は茨田っていうんよ」
「茨田?」
 猿人が腕を降ろして顔をまっすぐ向けてきた。
 灯がゆっくり函士と距離を詰める。
 猿人の顔が灯の光で照らし出されると、覚者たちは改めてショックを受けた。そこに見えたのは黒い凛の顔。
「……本家筋の。似ているはずね。なおさら、うちの体に相応しい。この猿はダメ。失敗したわ。欲しかったのは妖力だけだったのに」
 猿人、いや猿人を取り込んだ函士が体の横に隠していた腕を上げた。手にカラスの小瓶を持っている。
「凛、うちと一緒に函に入ろ? せてうすの船に乗って、いとしいあの方の所へ行きましょう!」
 止める間もなく毛深い腕が振り下ろされた。投げられたガラスの小瓶が壁に当たって砕け散る。強烈に甘い匂いが工房内に広がった。
「さがって! 工房から出てください!」
 灯は叫んだ。
 この匂いを嗅いではいけない、と超直感が告げている。無呼吸で動けるように、守護使役イブキの潜水能力を呼び出した。
 一悟が匂いの届かないところから工房内を懐中電灯で照らす。だが、工房内は闇が優勢だ。
 灯は函士を見失ってしまった。
「うちがおとりになるんよ!」
 凛はありすの腕を振り切って、工房内へ駆け込んだ。一悟が凛を照らす。
「茨田サン!」
「危ねえ!」
 懐中電燈の光の筋を函士の長い腕が薙ぐ。
 凛の腕が取られる寸前に、灯が横から抱きついて床に押し倒した。
 木くずが舞い上がり視界が閉ざされる。
 一悟とありすは工房の中に攻撃を打ち込んだ。
 さいころの函が砕ける音と埃の煙幕を味方に、函士が工房の外へ飛び出す。
「しまった、抜けられた!」
 逝が悪食を振るったが、妖刀の刃はわずかに届かない。函士は森に向かって駆けていく。
 あと一飛びで森の中――
 牙を剥く水龍が函士に襲い掛かり、一口でかみ砕いた。
「ま、間にあったのよ」
 息を弾ませる飛鳥の後ろには保坂たちの姿があった。


 匂いが薄れた後、覚者たちは工房内を調査した。
 さいころの函は保坂たちに広場まで運んでもらった。とくに複雑な仕組みはなさそうだったが、一応、ファイヴに持ち帰って調べることにした。
「引き出しには工具が入っているだけですね」と、灯。
「あの鏡の裏が怪しいのよ。抜け道を隠しているかもなのよ。調べてみましょう」
 ぶつぶつ文句をいいながら、一悟が壁から姿見を取り外す。
 隠し通路はなかった。そこにあったのは金庫だ。
「うち、ピッキングできるんよ。任せて」
 凛は金庫の前にしゃがむと、能力を発揮してあっという間に扉を開いた。
 入っていたのは古くて分厚いノート一冊だけ。
「古いのは当たり前さね。大正時代のものだからな。あ、取り出しは慎重にね」
 凛は金庫の中に手を入れてノートを取りだした。
 日記だった。
 気分が悪くなったといって工房から出たありす以外、全員で凛を囲んで読む。
 函士は猿人たちを森の工房で密かに匿い、彼らに絡繰り箱の作り方を教えていたらしい。猿人に食人を禁じ、なんとか人間と和睦させようと努力する日々が綴られていた。それが、遊びに行った横浜で仏蘭西の調香士と知り合い、香水を送られたという日以降、文字も内容も乱れて怪しくなっていく。最後は、猿人に自分を食わせて乗っ取る、で終わっていた。
「函士は……騙されたん?」

 ありすは誰かが追って来ないことを確かめてから、写真を取りだした。函士の日記から落ちたものだ。
 セピア色の写真には、椅子に座った函士とその肩に手を置いて立つ外国人青年の姿が写っている。
 問題は――。
(「どうして第三の目があるワケ?」)」
 額の傷かと思ったが、改めて月明かりの下で確認すると、やはり外国人青年のそれは第三の目だった。額にかかる金髪の奥で冷たい光を放っている。
 怪の因子が世に知られたのはごく最近。ほとんどがファイヴに、残りの者はいまだ世間から隠れ暮らしている。隔者はいないはずだ。
「古妖かもしれませんよ。海外にはサイクロプスがいますし、三つ目の古妖だって……」
 いつの間にか灯が後にいた。ありすが驚いて落とした写真を拾い上げる。
「怪の因子持ちではないと思います。だから、写真をみんなにも見てもらいましょう。ね?」

■シナリオ結果■

成功

■詳細■

MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし




 
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