【 函 】罠にかかった獣たち
●某所 夢見外
「ダメです。許可できません。それどころか、今後はこどもたちを現場に連れて行かないでください」
「ちょっとぉ、『人間』だったときの基準でものを考えないでくださいな!」
お栄はデスクのうえに両手をついて立ち上がり、開いた着物の襟もとを相手に見せつけるように身を乗り出した。
「あの子たちは一人前、もうとっくに乳離れしているんですよ」
乳離れ、ところで豊満な胸を両腕できゅっと挟み込む。
「ねぇ、いいじゃないですか。あの子たちにやらせてやっても。あたしがちゃ~んと見ていますからぁ」
「……私に色仕掛けは通じませんからね。ダメなものはダメです」
アイズオンリーは軽くイスを後ろへ引いた。ふい、と横を向くと、キーを叩いて画面に株価チャートを呼び出した。
パソコンの画面を凝視する横顔がほんのり赤い。
(男に子育ての何がわかるっていうんだい。はん、勝手にやらせてもらいますかね!」)
お栄は机の端に置かれた妖レポートの束にそっと手を伸ばすと、上から一冊素早く取り上げて胸元に押し込んだ。
主人がキーを打つカチャカチャという音に足音を消させて、そろりと部屋を出て行く。
「それよりお栄さん、噺家さんを探してここに連れてきてください。大髑髏さんが事務所に来てから一度も顔を見せていません。彼ときちんと話をする必要が――!?」
アイズオンリーは空のイスに向かって溜息をついた。
彼が『函』とタイトルがつけられた最新の怪異レポートがなくなっていることに気づくのは、それから三時間後の事である。
●
「ど、どうしょう……」
お栄は震える唇に手をやった。
函の下には四角い血肉の塊が二つ。一つは今さっき、お栄が函の上段を左へ回し直そうとした結果生まれたものだ。
血肉から出ている毛や眼球の色と塊の大きさから、それが自分の子でないことだけはわかる。おそらく、一緒に閉じ込められてしまった人間たちの誰かだろう。
『函』は八つの立方体が2×2で組まれてできている。とても変わった形の妖具だった。
全体が黒い艶消しの石板のようなもので覆われており、触るとヒンヤリとする。いまはただ静かに空に浮かんでいるが、こどもたちは確かにこいつに捕らわれたのだ。
お栄は泣きながら怪異レポートを取り出した。指が震えてなかなか紙をめくることができなかったが、ようやく読みたかった箇所を開くことができた。
「は、『函はハンガリーの建築家が考案した立方体パズルに似ている。正しく解くことができれば、中に取り込んだものを取り出すことができる、と血文字で』――ち、ちくしょう! パズルだってわかってんなら、解き方ぐらい調べときなよ!!」
お栄はその場で崩れると、足をハの字に開いてべったりと尻を地面につけた。
鋭い歯が並んだ口から涎を垂らす赤ら顔――三体の猿人が、木陰からじっと函の下に落ちた肉塊に視線を注いでいた。
●
「調査に赴いた覚者二名が、その場に居合わせた憤怒者や古妖とともに、古妖が作り出した捕獲器の中に捕らわれてしまいました。すぐ助けに向かってください」
久方 真由美(nCL2000003)は、夢見の内容をまとめた報告書を自ら覚者たちに配って回った。
「古妖の認識名は『猿人』。人肉を好む危険な古妖です。集団で狩りをする知能はありますが……これまで道具を使ったり、道具を『作った』という記録がありません」
『捕獲器』というのは、と覚者から質問が上がる。
「八つの黒い艶消しのブロックで構成された巨大な立方体で、空に浮いています。各ブロックに手をつくと列や行ごとに回転します。これは、昔はやった立体パズルに動きがとても似ていて……面ごとに色分けされていれば、まさにそのままなのですが……」
ファイヴはこれを『函』と名付け、『猿人』と『函』の調査を保坂 環(ほさか たまき)と生島 巳之(いくしま みのり)に依頼した。
今から三時間前のことだった。
「夢見では運悪く、保坂さんたちとほぼ同時に、憤怒者四人と古妖三体が『函』を発見しました。まさに三すくみの状態になった瞬間、『函』が開いてその場にいた者たちを内に取り込みました。古妖一体を除いて」
その場に残された古妖は、すぐに仲間を助けようとして『函』に手をついた。
「古妖が『函』の、その古妖から見て正面の上段右隅に手をつくと、『函』の上段が横に右回転しました。次の瞬間、絶叫が函の中から聞こえて真下に四角い肉片が落ちました。間違った方向に回したために、中に捕えられていた憤怒者が一名、犠牲になったようです」
慌てた古妖は、もう一度『函』の上段右隅に手をつく。左に回して元の状態に戻そうとしたようだが、実際はもう一度右に回って、新たな犠牲者を生む結果となってしまった。
「到着時点で二名が死亡、『函』から排出されています。肉塊になってしまった憤怒者を狙って、じき『猿人』たちが森から出てくるでしょう。まずは『猿人』たちを倒してください」
「ダメです。許可できません。それどころか、今後はこどもたちを現場に連れて行かないでください」
「ちょっとぉ、『人間』だったときの基準でものを考えないでくださいな!」
お栄はデスクのうえに両手をついて立ち上がり、開いた着物の襟もとを相手に見せつけるように身を乗り出した。
「あの子たちは一人前、もうとっくに乳離れしているんですよ」
乳離れ、ところで豊満な胸を両腕できゅっと挟み込む。
「ねぇ、いいじゃないですか。あの子たちにやらせてやっても。あたしがちゃ~んと見ていますからぁ」
「……私に色仕掛けは通じませんからね。ダメなものはダメです」
アイズオンリーは軽くイスを後ろへ引いた。ふい、と横を向くと、キーを叩いて画面に株価チャートを呼び出した。
パソコンの画面を凝視する横顔がほんのり赤い。
(男に子育ての何がわかるっていうんだい。はん、勝手にやらせてもらいますかね!」)
お栄は机の端に置かれた妖レポートの束にそっと手を伸ばすと、上から一冊素早く取り上げて胸元に押し込んだ。
主人がキーを打つカチャカチャという音に足音を消させて、そろりと部屋を出て行く。
「それよりお栄さん、噺家さんを探してここに連れてきてください。大髑髏さんが事務所に来てから一度も顔を見せていません。彼ときちんと話をする必要が――!?」
アイズオンリーは空のイスに向かって溜息をついた。
彼が『函』とタイトルがつけられた最新の怪異レポートがなくなっていることに気づくのは、それから三時間後の事である。
●
「ど、どうしょう……」
お栄は震える唇に手をやった。
函の下には四角い血肉の塊が二つ。一つは今さっき、お栄が函の上段を左へ回し直そうとした結果生まれたものだ。
血肉から出ている毛や眼球の色と塊の大きさから、それが自分の子でないことだけはわかる。おそらく、一緒に閉じ込められてしまった人間たちの誰かだろう。
『函』は八つの立方体が2×2で組まれてできている。とても変わった形の妖具だった。
全体が黒い艶消しの石板のようなもので覆われており、触るとヒンヤリとする。いまはただ静かに空に浮かんでいるが、こどもたちは確かにこいつに捕らわれたのだ。
お栄は泣きながら怪異レポートを取り出した。指が震えてなかなか紙をめくることができなかったが、ようやく読みたかった箇所を開くことができた。
「は、『函はハンガリーの建築家が考案した立方体パズルに似ている。正しく解くことができれば、中に取り込んだものを取り出すことができる、と血文字で』――ち、ちくしょう! パズルだってわかってんなら、解き方ぐらい調べときなよ!!」
お栄はその場で崩れると、足をハの字に開いてべったりと尻を地面につけた。
鋭い歯が並んだ口から涎を垂らす赤ら顔――三体の猿人が、木陰からじっと函の下に落ちた肉塊に視線を注いでいた。
●
「調査に赴いた覚者二名が、その場に居合わせた憤怒者や古妖とともに、古妖が作り出した捕獲器の中に捕らわれてしまいました。すぐ助けに向かってください」
久方 真由美(nCL2000003)は、夢見の内容をまとめた報告書を自ら覚者たちに配って回った。
「古妖の認識名は『猿人』。人肉を好む危険な古妖です。集団で狩りをする知能はありますが……これまで道具を使ったり、道具を『作った』という記録がありません」
『捕獲器』というのは、と覚者から質問が上がる。
「八つの黒い艶消しのブロックで構成された巨大な立方体で、空に浮いています。各ブロックに手をつくと列や行ごとに回転します。これは、昔はやった立体パズルに動きがとても似ていて……面ごとに色分けされていれば、まさにそのままなのですが……」
ファイヴはこれを『函』と名付け、『猿人』と『函』の調査を保坂 環(ほさか たまき)と生島 巳之(いくしま みのり)に依頼した。
今から三時間前のことだった。
「夢見では運悪く、保坂さんたちとほぼ同時に、憤怒者四人と古妖三体が『函』を発見しました。まさに三すくみの状態になった瞬間、『函』が開いてその場にいた者たちを内に取り込みました。古妖一体を除いて」
その場に残された古妖は、すぐに仲間を助けようとして『函』に手をついた。
「古妖が『函』の、その古妖から見て正面の上段右隅に手をつくと、『函』の上段が横に右回転しました。次の瞬間、絶叫が函の中から聞こえて真下に四角い肉片が落ちました。間違った方向に回したために、中に捕えられていた憤怒者が一名、犠牲になったようです」
慌てた古妖は、もう一度『函』の上段右隅に手をつく。左に回して元の状態に戻そうとしたようだが、実際はもう一度右に回って、新たな犠牲者を生む結果となってしまった。
「到着時点で二名が死亡、『函』から排出されています。肉塊になってしまった憤怒者を狙って、じき『猿人』たちが森から出てくるでしょう。まずは『猿人』たちを倒してください」

■シナリオ詳細
■成功条件
1.古妖『猿人』の撃破
2.古妖・狐の『お栄』の撃破、または撃退
3.『函』の調査
2.古妖・狐の『お栄』の撃破、または撃退
3.『函』の調査
まずは『猿人』と古妖・お栄を排除し、ゆっくりと『函』調査する時間を作ってください。
本依頼で『函』を調べた内容をもとに、次の依頼で『函』を解いて中に閉じ込められた人たちを助け出してもらうことになります。
●場所と時間
・森林公園の外れ
・昼
※幸いにも近くに一般人はいません。
●敵、古妖『猿人』……三体。
人の肉(死肉含む)を好む危険な古妖。ときに他の古妖も食すようです。
『函』を使って人を捕獲している?
簡単な会話可能。
「あと四回……」とか、猿の鳴き声のような声を上げています。
【噛みつき】……物・近単/出血
【ひっかき】……物・近単/出血
【助けを求める声】……ピンチになると甲高く吠えて、仲間を1、2体呼びます。
●古妖・狐の『お栄』。
『函』に閉じ込められている古妖、子狐のお紺とお金の母親。
覚者たちが現場到着時は、失意呆然で『函』の前にへたり込んでいる。
【狐の灯篭幻影】……神全/誘惑
【葉吹雪】……物全/出血
【狐の小太刀】……物単
【二尾の狐】……自。二尾の狐の姿に戻る。本性を現し、全能力がアップする。
●敵、調査対象。『函』
古妖『猿人』たちが人を捕獲するために作り出した道具?
巨大な立方体。
全身が透視できない、黒い艶消しの石板のようなもので覆われている。
八つのブロックに分かれているようだ。
各ブロックに触れると列、または行単位で、縦または横方向に動く。
二つ同時に触ると面ごと回転する。
例)
■◆
◇□
■に触れて押すと、上段■◆が左へ回転。
◆に触れて押すと、上段■◆が右へ回転。
■に触れて上に撫でると、左列■◇が上へ回転。
■と◇の二つを同時に押す、面ごと左回転。
◇と□の二つに同時に触れて下へ撫でおろすと、面ごと下に回転。
■と□に同時に触れても動かない。その逆も然り。
※注意1
古妖のお栄から見て「正面」となっている面しか反応しない。
操作できるのはこの一面のみ。
※注意2
5メートル内にある程度の大きさの動物(人、古妖含む。『猿人』は除外)が
8体以上いると、体を解いて中に取り込もうとする。
一度に取り込めるのは8体まで。
●怪異レポート『函』
アイズオンリーが雇っているエージェントの一人から上がってきた報告書。
お栄が持っている。
●閉じ込められている覚者
保坂 環(天行、翼)……填気、エアブリット、送受信、その他
生島 巳之(水行、獣付き(蛇))……癒しの滴、猛の一撃、その他
●閉じ込められている憤怒者、2名。
対能力者用の拳銃所持。
●閉じ込められている古妖、2体。
お紺とお金……2尾の狐、お栄の子。弱い。
【噛みつき】……物単
●その他
妖気に阻まれて『函』の内部を透視することはできません。
どうやら各ブロック内部は亜空間になっているようです。
外部から推測される各ブロックの大きさと、内部空間の大きさが異なるため
大人も楽々と収納できるようです。
よろしければご参加くださいませ。お待ちしております。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
8日
8日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
6/6
6/6
公開日
2016年10月23日
2016年10月23日
■メイン参加者 6人■

●
覚者たちは穏やかな日差しを浴びながら、行く先に待ち受ける血なまぐささなど微塵も感じさせない山道を走っていた。
「ちくしょう。依頼じゃなきゃ、この走りを心底楽しめたのに」
先頭を走る『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)が、弾ませた息の間に愚痴をこぼす。
秋になってようやく空気が軽くなったようだ。汗のにじんだ額に乾いた風が心地よい。目を上げれば、深く色を落とした木々のところどころで、黄色い葉が揺れているのが見える。絶好のランニング日和だ。
「さっきからブツブツと……終わった後で好きなだけ走り回ればいいでしょ」
『溶けない炎』鈴駆・ありす(CL2001269)は、前を走る背中に声をぶつけた。
「それにしても面倒なことになったわね」
同族――古妖が周囲に潜んでいないか。ありすは探りもって走っているのだが、今のところそれらしき気配は感じられない。
『希望峰』七海 灯(CL2000579)は少しピッチを上げると、ありすの隣に並んだ。
「ええ、ほんとに。……母親の前で変わり果てた子供の姿を見せるわけにはいきませんね。保坂さん達と一緒に必ず助け出しましょう!」
たとえ親子が古妖であったとしても、と振る拳を固める。
緒形 逝(CL2000156)が無言で二人の後につづく。逝がかぶるヘルメットは秋の景色を流し映しており、その下の素顔をしっかりと隠していた。奇抜なスタイルとは裏腹に、普段はとても親しみやすい人物であるが、いまはなぜか体の周りに見えない壁を築いているかのように、会話には加わらずに坂道を駆け上がる。
灯の宣言に応えたのは逝の後を走る、『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)だった。
「助けましょうなのよ!」
その時だ。
飛鳥の鷹の目が、枝を渡る小さな三つの影を前方で捕えた。
「いた! お猿さんたちを見つけたのよ!」
「アタシも同族把握で確認したわ。ということは、函が近いわね。もうすぐよ」
もうすぐという声に、全員の足が自然と高く上がる。
「なあ、『函』って誰が作ったん?」
茨田・凜(CL2000438)は、左へつの字を描いて曲がる坂道を走りながら、先を行く仲間たちに疑問を投げた。
しらねぇ、と上の方から一悟の声が返ってくる。
「凛は、おバカなお猿さんに函を使わせておいて、裏でニヤニヤしてる悪いヤツがおるような気がするんよ」
感情探査にはかからないが、そいつがどこかから盗み見ているような気がして、凜は山来た時から不快な思いにとらわれていた。
そのことはあとで、と逝が首だけで振り返る。
「おっさんも気になっているのよ。どれ、ひとつ猿を捕まえたら聞いてみようかね」
凜はうん、とうなずくとラストスパートをかけて飛鳥を追い越した。
●
函が浮かんでいたのは、坂道を上がった先の小さな広場だった。散策コースの途中に設けられた休憩所的な場所らしい。いまが紅葉の真っ盛りであればここで休む人の姿もあっただろう。ハイキングシーズンを外れていたのが幸いして、広場にも付近にも一般人の姿はなかった。
ひと足先に広場に入った一悟は、早くも函の下に潜り込んでいた。血の匂いを放つ、四角い肉の塊に手を伸ばしている。
ありすと別れた灯は、広場の端に置かれたベンチの向こう側に猿人たちの姿を確認すると、後から来た逝とともに函と猿人たちの間に入った。
「情報収集のために一匹は生け捕り、ですね?」
「多少、傷つけてもいいわよ。そのほうが捕まえた後でぺらぺら喋ってくれそうだし」
のこりはさっさと悪食のおやつにしようかね、と逝は乾いた声で続けると、ヘルメットを微かに揺らした。笑っているらしい。
主と同じように震えている妖刀を横目で見ながら、灯は二対の鎖鎌を手に構えた。
「……では、そのように」
凛は、函とその下に落ちている肉塊を隠すように二人の後ろに立った。ベンチの後ろ側でうずくまる猿人たちと函をつなぐ動線を断つ。
「睨んでもダメなんよ。ちっとも怖くない。あんたたちは悪いヤツだから、いまからみんなと一緒にやっつけるんよ」
赤ら顔の猿人たちを睨みつけながら、山の澄んだ大気から水分を集めて身にまとう。
猿人たちは唇を捲りあげて鋭い歯を剥くと、勢いよくベンチを飛び越えた。
「餌、食べる!」
「よこせ!」
「横取り、よくない!」
ありすは総毛を立てて覚者たちを威嚇する猿人たちを横目に見ながら、函の後側に回りこみ、呆然と地べたに座り込んでいる狐の古妖に声をかけた。
「お栄サン!」
お栄は声をかけられてやっと気を正気づいたようだ。目に光を取り戻すなり、あわてて立ち上がる。
「だ、駄目だよ、この函には指一本触れさせやしない。誰にも渡すものか!」
「落ち着いて! アタシ達も中の人たちを助けるために来たのよ」
ありすは尾を膨らませたお栄の前に、両腕を大きく広げて立ちふさがった。
「お紺ちゃん達を助けるのをアタシ達も手伝うから、ね?」
ここは任せて下がって欲しいと頼む。
「人間の、それもお前たちのような半端者の言うことなんて信じられるもんか。函を壊しに来たんだろ。そんなことはさせないよ!」
最後はほとんど悲鳴だった。
「聞いて。アタシは自分のことを『人』だなんて思ってない。お栄さんとおなじく『古妖』だと思っているの。少なくとも、『人』より『古妖』に近い者であること思っているわ。この第三の目と古妖の気配を捕える同族把握の力がなによりの証。子狐たちはそれを理屈じゃなくて肌で感じたからこそ、あんなにも無邪気にアタシに懐いたんじゃないの?」
ここにいる仲間たちにしても、古妖というだけで排除したり傷つけたりする者はいない、と請け負った。
「そうなのよ。お栄さん、大丈夫なのよ。子狐ちゃんたちは必ずあすかたちが函からだしてあげます。任せてなのよ」
飛鳥はお栄に立てた親指を見せると、戦場全体をカバーできるように函のすぐ手前に陣取った。ひとまずお栄と猿人たちから意識を外し、しゃがんで函の下を除きながら、神妙な顔つきで肉塊の一つを動かしている一悟に海衣をかける。
「来るぞ!」
逝の警告が広場に響いた。
同時に猿人たちが動き出す。キイキイと甲高い叫び声を上げながら、四本足になって、地を蹴るというよりも飛ぶようにして突っ込んでくる。
一匹の猿人が、逝が振るった妖刀の上を飛び越えて、函の下から運び出されたばかりの肉塊に飛びかかろうとした。
「そんなに簡単に……させません!」
灯は闇鎖を投げて、空で猿人の足に絡みつかせた。力まかせに引っ張りよせる。
「えいっ!」
腕をぐるりと回して猿人を高く振り上げておいてから、勢いづけて地面へたたきつけた。
「灯ちゃん、ナイス!」
そのまま捕獲しようと用意してきた布を片手に近づくと、猿人は手で素早く鎖を外して飛び下がった。そのとき、手にした闇鎖を灯の足首を狙って投げ返すことも忘れずに。
「……っ!」
灯のふくらはぎから血が流れ落ちて、ソックスを濡らした。投げ返された鎖が巻きつくときに、鋭い鎌の刃が肌をかすったのだ。
凜が素早く傷の手当てにかかる。
「ただの猿じゃないってことかね。まあ、いい。少しばかり知恵があるほうが、悪食ちゃんも食いでがあるというもの」
この隙に、と二体の猿人が駆けだした。
逝は頭上で悪食を振るって黒い妖気をたなびかせると、振り向きざまに妖刀を落とした。
胴を切られて真っ二つになった猿人が、地面にたたきつけられて跳ね上がる。指を苦悶の形に曲げた両腕と両足がクルクルと空を舞い、悪食の刃を軸にして交差した。
「とくと御覧じろ。これぞ覚者版、悪い古妖の猿回しさね」
乾いた笑声を響かせながら、どこにいるのかわからない函の製作者に向けて見得を切る。
切られた猿人の体は赤黒い瘴気に変わりながら、悪食にのこらず吸い取られて消えた。
まるで仲魔の死を悼むかのように、灯の鎖から逃れた猿人が長い鳴き声を上げた。
「ダメ! お猿さんはミカンとかサツマイモを食べてなさい、なのよ!!」
飛鳥はぷんぷんと怒りながら、横から大きく回り込んできて肉塊に手を伸ばす猿人へ水礫を飛ばした。
ぎゃっ、と獣じみた悲鳴が上がる。が、猿人はその場にとどまり、こんどは函に体を向けた。一悟の手で函の下から出されようとしている肉塊へじっと視線を注ぐ。
ありすが足を踏み込んで威嚇すると、猿人はあっさり尻を向けて函から遠ざかった。
「お栄サン、ワケは後で話すから、レポートを置いてここから離れてちょうだい!」
お栄は、古妖と称したありすを鬼のような目つきで改めた。どうやら、この赤毛の娘、口先だけで言っているのではないようだ。心底そう思っているらしい。感じるものがあり、お栄はまっすぐ向けられた三つの目から先に視線を外した。
「騙したら。私の子たちなにかあったら……ただじゃすまないからね」
そういって、手にしていた怪異レポートの束をありすの胸に押しつけた。
「あ、待ってくださいなのよ」
踵を返したお栄を飛鳥が呼び止める。
「アイズオンリーさんに連絡を取って、『函』のもっと詳しい情報を聞きだして来て欲しいのよ。お願いします」
お栄は横顔で「わかったよ」というと、あとは振り返ることなく広場を出て行った。
一悟は二つの肉塊を函の下から無事に運び出し終えると、青い顔を空に向けて、溜めこんでいた息を吹きあげた。
「さあ、さっさとやっつけてしまおうぜ。どうやら追加もきちまったようだしな」
ちょうど、ざざざ、と木の葉を揺らして新手の猿人が二体、広場に姿を現したところだった。
猿人は、一悟の手や服についた死肉の臭いを嗅ぎつけて鼻をうごめかせた。口を半開きにして、だらだらと涎を垂らす。
「奥州ちゃん、ありすちゃんと二人でちと新手の猿たちの相手を頼むよ。こいつらなかなか素早くってね。捕まえられないのよ」
「オッケー。任せてくれ」
一悟は炎を纏わせたトンファーを構えた。
一対一でまともにぶつかり合っては勝ち目がないとわかったのか、猿人たちは二体一組になって覚者たちにヒット、エンド、ラン攻撃を仕掛けてきた。体を低くして近づき、長い手をさっと振るって脛を抉っては離れていく。振り下ろされる凶器をかいくぐって一体が逃げると、もう一体がすでに目前まで迫ってきており、防御も反撃もとれないまま、また脛の肉を削り取られてしまう。
猿人たちはそうして削り取った肉を、少し離れたところでクチャクチャと音をたてて食べるのだった。
飛鳥が一悟の傷に深想水をかけて止血する。
その間、凛が他の仲間の回復を行った。
(「ちっ、殴ろうにもすぐ逃げやがる。……灯が考えていた通りだ。あの感じじゃ、そんなに余裕はなさそうだし……誘い込むか」)
一悟は函の下にもぐって肉塊を運び出している間に、送受心を起動して、ずっと中に捕らわれている保坂と連絡を取ろうとしていた。
常にコンタクトが取れていたわけではない。心と心が通じるのはほんの僅かな時間しかなく、それも遠ざかったり近づいたり、常に対象との距離が変化していた。短い交信で掴めたことは、函の中の獣臭さと徐々に空気が薄まっている、ということだった。
「それっぽっちで満足か? ほら、もっと大きな肉があるぜ。食いたきゃ、食いな」
一悟はわざと函から離れた。意図に気づいたありすも函から遠ざかる。二つの肉塊が、猿人たちに丸見えになった。
知恵があるといっても、猿人は人より獣に近いようだ。しばらくは疑いの目を向けていたが、欲に負けて二体が一緒に走り出した。
「バカね」
ありすが走る猿人に拳大の炎の塊を連続で打ちこみ、焼き殺した。
一悟ももう一体に念弾を放った。
飛鳥が水礫でトドメを刺す。
炎の中で縮んでいく仲魔の体にショックを受けたのか、残る二体猿人はじっとかたまったまま動かない。
逝は猿人の虚をついて、一気に距離を詰めた。相手に声を上げる暇も与えず、毛深い胸を突いて、さっさと悪食に食わせてしまった。
「灯ちゃん?」
「はい。このとおり、生け捕りにしました」
二対の鎖鎌に絡み捕まえられた猿人が、灯の前に転がっていた。影鎖に仕込まれた勾玉が痺れの効果を発揮したようで、猿人は白目をむいて気絶している。
「じゃあ、始めるかね」
●
「まず、オレから。送受心・改は使えないっていう意見もあったけど、半分正しくて、半分間違いだった。函の中は亜空間で、こっちに近づいたり遠ざかったりしているみたいだ。で、解ったのは中の空気が徐々に薄くなっているってことと、やたら獣臭いにおいがするってことの二つ。とにかく急いで情報を集めた方がいいな」
言い終えると、一悟は心配顔の守護使役から水が入ったペットボトルを受け取って、木々の間に入っていった。
しばらくすると、吐瀉する音が聞こえてきた。
「奥州ちゃん、男の子のくせにだらしないわね。まあ、ここで吐かなかったことは褒めてあげよう」
吐いていたらゲロごと悪食ちゃんに食わせていたぞ、と逝。
(「私たちだって、平気なわけじゃないわよ。でも……」)
灯は肉塊の前で小さな手を合わせている飛鳥の隣に腰を下ろした。同じように手を合わせて冥福を祈る。
女のほうがいざとなれば肝が据わっている。
飛鳥は交霊術を、灯は超直観とエナミースキャンを同時に発動させて肉塊の調査を始めた。
ありすはベンチに腰掛けて、お栄から預かった怪異レポートを読んでいる。
凛は、電波障害がなければいちいち有線接続しなくて済むのに、と愚痴りながら公衆電話がある場所まで戻っていった。函をパズル箱に見立てて、手持ちのスマホに解き方を解説したサイトをまるこごとダウンロードするためだ。
一悟が戻ってきて、函の中と通信を始めた。
逝も送受心を起動させて、捕えた猿人の尋問を開始した。尋問中に仲間を呼ばれてしまわないように、猿人の口には布をきつく噛ませてあった。
<「さっさと知っていることをぶちまけたほうがいいわよ。それだけ痛い思いをせず楽に死ねるから」>
猿人は怯えながら、逝を見上げた。しばらく細かく震えていたが、やがて――
<「なにが可笑しいのかね?」>
猿人は笑っていた。
<「お前、函は入った。そして出た。仲間。猿なっていない。なぜ?」>
<「……あと四回の意味は?」>
<「5零、ご――!!?」>
逝は直刀を薙いで猿人の腕を一本切り飛ばした。切り口から真っ赤な血が噴き出す。
<「あと四回の意味は?」>
<「箱が開くまであと四回。二回分、狐が戻した。だからあと四回」>
<「函を作ったのは誰」>
<「……函士」>
その時、凜が青い顔をしたお栄と一緒に戻ってきた。
「函の解き方をダウンロードしてきたよ。解き方が二通りあるけど、函の面の色が判らないとどっちかわからない」
一悟がもう少し待っててくれ、という。
「保坂さんも送受心で他の人と連絡を取ってくれている。子狐たちはちょっとしたパニックになってて……猿臭いって泣いて話ができない。なんとか落ち着かせてみるよ」
飛鳥が続けて報告する。
「この…人たちも獣臭いって。壁に血と何かの肉、それに短い獣の毛がいっぱいついていたっていうのよ」
「に、肉塊に色のついた小さな木片のようなものを見つけました。あとは地面の下になっているほうですが……あとでちゃんと報告します」
灯はふらふらと立ち上がった。顔面は蒼白だ。
ちらりと函を見て、再度エナミースキャンを試みたようたが、こちらからはなんの答えも得られなかったらしい。
首を振って肩を落とした。
ベンチに座ったありすが、読んでいるレポートから顔を上げることなく呟いた。
「『函は猿人の妖気を集めて作られたと、続きに書かれている。そのあとは踏み消されたようで判別できない』と、これ、どう考えても途中で終わっているわね」
ありすは顔を上げると、広場の入口に立つお栄を見た。
「ねえ、お栄サン。続きを持っていない? ……お栄サン?」
「……噺家が来る。どうしよう。あいつ、めちゃくちゃ怒ってた。きっとその函ごとぶった切ってしまうよ」
お栄はぺたりと地面に座り込むと、わあわあと泣き始めた。
いつの間にか、猿人が舌を器用に動かして布を外してしまった。鳴き声を上げて仲間を呼ぶ。
逝はニタニタと笑って自分指さす猿人をあっさり切り殺した。
「噺家が来ても来なくても、時間がないことには変わりないさね。奥州ちゃん、中の壁の色は分ったかい?」
「ああ、だいたい。憤怒者たちとはやっぱり話ができなかったよ。オレも、保坂さんも」
灯が手を叩いて全員の注意を集めた。
「みなさん、集まって。これまでに分かったことをもとにして話し合いましょう。あ、お栄さんは下で噺家さんの足止めをお願いします」
お栄は泣き止まない。
凛が立たせようと腕を取るが、駄目だった。
ありすはベンチから立ちあがると、お栄の傍に行った。
「しっかりして!」
頬を張った音が秋空に響いた。
「お紺とお金を助けるんでしょ。お栄サンがしっかりしなきゃ、駄目じゃない! さあ、早く行って」
去っていく狐の古妖を見送りながら、飛鳥は逝の袖を引っ張った。
「……505って何のことですか。さっき、お猿さんがいってたこと、聞こえたのよ」
「何でもない。何でも……」
四方から妖気が集まってきていた。
同族把握がない者にも感じとれるほど、向かってくる数が多い。
少しずつ、空に雲が出始めていた。
覚者たちは穏やかな日差しを浴びながら、行く先に待ち受ける血なまぐささなど微塵も感じさせない山道を走っていた。
「ちくしょう。依頼じゃなきゃ、この走りを心底楽しめたのに」
先頭を走る『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)が、弾ませた息の間に愚痴をこぼす。
秋になってようやく空気が軽くなったようだ。汗のにじんだ額に乾いた風が心地よい。目を上げれば、深く色を落とした木々のところどころで、黄色い葉が揺れているのが見える。絶好のランニング日和だ。
「さっきからブツブツと……終わった後で好きなだけ走り回ればいいでしょ」
『溶けない炎』鈴駆・ありす(CL2001269)は、前を走る背中に声をぶつけた。
「それにしても面倒なことになったわね」
同族――古妖が周囲に潜んでいないか。ありすは探りもって走っているのだが、今のところそれらしき気配は感じられない。
『希望峰』七海 灯(CL2000579)は少しピッチを上げると、ありすの隣に並んだ。
「ええ、ほんとに。……母親の前で変わり果てた子供の姿を見せるわけにはいきませんね。保坂さん達と一緒に必ず助け出しましょう!」
たとえ親子が古妖であったとしても、と振る拳を固める。
緒形 逝(CL2000156)が無言で二人の後につづく。逝がかぶるヘルメットは秋の景色を流し映しており、その下の素顔をしっかりと隠していた。奇抜なスタイルとは裏腹に、普段はとても親しみやすい人物であるが、いまはなぜか体の周りに見えない壁を築いているかのように、会話には加わらずに坂道を駆け上がる。
灯の宣言に応えたのは逝の後を走る、『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)だった。
「助けましょうなのよ!」
その時だ。
飛鳥の鷹の目が、枝を渡る小さな三つの影を前方で捕えた。
「いた! お猿さんたちを見つけたのよ!」
「アタシも同族把握で確認したわ。ということは、函が近いわね。もうすぐよ」
もうすぐという声に、全員の足が自然と高く上がる。
「なあ、『函』って誰が作ったん?」
茨田・凜(CL2000438)は、左へつの字を描いて曲がる坂道を走りながら、先を行く仲間たちに疑問を投げた。
しらねぇ、と上の方から一悟の声が返ってくる。
「凛は、おバカなお猿さんに函を使わせておいて、裏でニヤニヤしてる悪いヤツがおるような気がするんよ」
感情探査にはかからないが、そいつがどこかから盗み見ているような気がして、凜は山来た時から不快な思いにとらわれていた。
そのことはあとで、と逝が首だけで振り返る。
「おっさんも気になっているのよ。どれ、ひとつ猿を捕まえたら聞いてみようかね」
凜はうん、とうなずくとラストスパートをかけて飛鳥を追い越した。
●
函が浮かんでいたのは、坂道を上がった先の小さな広場だった。散策コースの途中に設けられた休憩所的な場所らしい。いまが紅葉の真っ盛りであればここで休む人の姿もあっただろう。ハイキングシーズンを外れていたのが幸いして、広場にも付近にも一般人の姿はなかった。
ひと足先に広場に入った一悟は、早くも函の下に潜り込んでいた。血の匂いを放つ、四角い肉の塊に手を伸ばしている。
ありすと別れた灯は、広場の端に置かれたベンチの向こう側に猿人たちの姿を確認すると、後から来た逝とともに函と猿人たちの間に入った。
「情報収集のために一匹は生け捕り、ですね?」
「多少、傷つけてもいいわよ。そのほうが捕まえた後でぺらぺら喋ってくれそうだし」
のこりはさっさと悪食のおやつにしようかね、と逝は乾いた声で続けると、ヘルメットを微かに揺らした。笑っているらしい。
主と同じように震えている妖刀を横目で見ながら、灯は二対の鎖鎌を手に構えた。
「……では、そのように」
凛は、函とその下に落ちている肉塊を隠すように二人の後ろに立った。ベンチの後ろ側でうずくまる猿人たちと函をつなぐ動線を断つ。
「睨んでもダメなんよ。ちっとも怖くない。あんたたちは悪いヤツだから、いまからみんなと一緒にやっつけるんよ」
赤ら顔の猿人たちを睨みつけながら、山の澄んだ大気から水分を集めて身にまとう。
猿人たちは唇を捲りあげて鋭い歯を剥くと、勢いよくベンチを飛び越えた。
「餌、食べる!」
「よこせ!」
「横取り、よくない!」
ありすは総毛を立てて覚者たちを威嚇する猿人たちを横目に見ながら、函の後側に回りこみ、呆然と地べたに座り込んでいる狐の古妖に声をかけた。
「お栄サン!」
お栄は声をかけられてやっと気を正気づいたようだ。目に光を取り戻すなり、あわてて立ち上がる。
「だ、駄目だよ、この函には指一本触れさせやしない。誰にも渡すものか!」
「落ち着いて! アタシ達も中の人たちを助けるために来たのよ」
ありすは尾を膨らませたお栄の前に、両腕を大きく広げて立ちふさがった。
「お紺ちゃん達を助けるのをアタシ達も手伝うから、ね?」
ここは任せて下がって欲しいと頼む。
「人間の、それもお前たちのような半端者の言うことなんて信じられるもんか。函を壊しに来たんだろ。そんなことはさせないよ!」
最後はほとんど悲鳴だった。
「聞いて。アタシは自分のことを『人』だなんて思ってない。お栄さんとおなじく『古妖』だと思っているの。少なくとも、『人』より『古妖』に近い者であること思っているわ。この第三の目と古妖の気配を捕える同族把握の力がなによりの証。子狐たちはそれを理屈じゃなくて肌で感じたからこそ、あんなにも無邪気にアタシに懐いたんじゃないの?」
ここにいる仲間たちにしても、古妖というだけで排除したり傷つけたりする者はいない、と請け負った。
「そうなのよ。お栄さん、大丈夫なのよ。子狐ちゃんたちは必ずあすかたちが函からだしてあげます。任せてなのよ」
飛鳥はお栄に立てた親指を見せると、戦場全体をカバーできるように函のすぐ手前に陣取った。ひとまずお栄と猿人たちから意識を外し、しゃがんで函の下を除きながら、神妙な顔つきで肉塊の一つを動かしている一悟に海衣をかける。
「来るぞ!」
逝の警告が広場に響いた。
同時に猿人たちが動き出す。キイキイと甲高い叫び声を上げながら、四本足になって、地を蹴るというよりも飛ぶようにして突っ込んでくる。
一匹の猿人が、逝が振るった妖刀の上を飛び越えて、函の下から運び出されたばかりの肉塊に飛びかかろうとした。
「そんなに簡単に……させません!」
灯は闇鎖を投げて、空で猿人の足に絡みつかせた。力まかせに引っ張りよせる。
「えいっ!」
腕をぐるりと回して猿人を高く振り上げておいてから、勢いづけて地面へたたきつけた。
「灯ちゃん、ナイス!」
そのまま捕獲しようと用意してきた布を片手に近づくと、猿人は手で素早く鎖を外して飛び下がった。そのとき、手にした闇鎖を灯の足首を狙って投げ返すことも忘れずに。
「……っ!」
灯のふくらはぎから血が流れ落ちて、ソックスを濡らした。投げ返された鎖が巻きつくときに、鋭い鎌の刃が肌をかすったのだ。
凜が素早く傷の手当てにかかる。
「ただの猿じゃないってことかね。まあ、いい。少しばかり知恵があるほうが、悪食ちゃんも食いでがあるというもの」
この隙に、と二体の猿人が駆けだした。
逝は頭上で悪食を振るって黒い妖気をたなびかせると、振り向きざまに妖刀を落とした。
胴を切られて真っ二つになった猿人が、地面にたたきつけられて跳ね上がる。指を苦悶の形に曲げた両腕と両足がクルクルと空を舞い、悪食の刃を軸にして交差した。
「とくと御覧じろ。これぞ覚者版、悪い古妖の猿回しさね」
乾いた笑声を響かせながら、どこにいるのかわからない函の製作者に向けて見得を切る。
切られた猿人の体は赤黒い瘴気に変わりながら、悪食にのこらず吸い取られて消えた。
まるで仲魔の死を悼むかのように、灯の鎖から逃れた猿人が長い鳴き声を上げた。
「ダメ! お猿さんはミカンとかサツマイモを食べてなさい、なのよ!!」
飛鳥はぷんぷんと怒りながら、横から大きく回り込んできて肉塊に手を伸ばす猿人へ水礫を飛ばした。
ぎゃっ、と獣じみた悲鳴が上がる。が、猿人はその場にとどまり、こんどは函に体を向けた。一悟の手で函の下から出されようとしている肉塊へじっと視線を注ぐ。
ありすが足を踏み込んで威嚇すると、猿人はあっさり尻を向けて函から遠ざかった。
「お栄サン、ワケは後で話すから、レポートを置いてここから離れてちょうだい!」
お栄は、古妖と称したありすを鬼のような目つきで改めた。どうやら、この赤毛の娘、口先だけで言っているのではないようだ。心底そう思っているらしい。感じるものがあり、お栄はまっすぐ向けられた三つの目から先に視線を外した。
「騙したら。私の子たちなにかあったら……ただじゃすまないからね」
そういって、手にしていた怪異レポートの束をありすの胸に押しつけた。
「あ、待ってくださいなのよ」
踵を返したお栄を飛鳥が呼び止める。
「アイズオンリーさんに連絡を取って、『函』のもっと詳しい情報を聞きだして来て欲しいのよ。お願いします」
お栄は横顔で「わかったよ」というと、あとは振り返ることなく広場を出て行った。
一悟は二つの肉塊を函の下から無事に運び出し終えると、青い顔を空に向けて、溜めこんでいた息を吹きあげた。
「さあ、さっさとやっつけてしまおうぜ。どうやら追加もきちまったようだしな」
ちょうど、ざざざ、と木の葉を揺らして新手の猿人が二体、広場に姿を現したところだった。
猿人は、一悟の手や服についた死肉の臭いを嗅ぎつけて鼻をうごめかせた。口を半開きにして、だらだらと涎を垂らす。
「奥州ちゃん、ありすちゃんと二人でちと新手の猿たちの相手を頼むよ。こいつらなかなか素早くってね。捕まえられないのよ」
「オッケー。任せてくれ」
一悟は炎を纏わせたトンファーを構えた。
一対一でまともにぶつかり合っては勝ち目がないとわかったのか、猿人たちは二体一組になって覚者たちにヒット、エンド、ラン攻撃を仕掛けてきた。体を低くして近づき、長い手をさっと振るって脛を抉っては離れていく。振り下ろされる凶器をかいくぐって一体が逃げると、もう一体がすでに目前まで迫ってきており、防御も反撃もとれないまま、また脛の肉を削り取られてしまう。
猿人たちはそうして削り取った肉を、少し離れたところでクチャクチャと音をたてて食べるのだった。
飛鳥が一悟の傷に深想水をかけて止血する。
その間、凛が他の仲間の回復を行った。
(「ちっ、殴ろうにもすぐ逃げやがる。……灯が考えていた通りだ。あの感じじゃ、そんなに余裕はなさそうだし……誘い込むか」)
一悟は函の下にもぐって肉塊を運び出している間に、送受心を起動して、ずっと中に捕らわれている保坂と連絡を取ろうとしていた。
常にコンタクトが取れていたわけではない。心と心が通じるのはほんの僅かな時間しかなく、それも遠ざかったり近づいたり、常に対象との距離が変化していた。短い交信で掴めたことは、函の中の獣臭さと徐々に空気が薄まっている、ということだった。
「それっぽっちで満足か? ほら、もっと大きな肉があるぜ。食いたきゃ、食いな」
一悟はわざと函から離れた。意図に気づいたありすも函から遠ざかる。二つの肉塊が、猿人たちに丸見えになった。
知恵があるといっても、猿人は人より獣に近いようだ。しばらくは疑いの目を向けていたが、欲に負けて二体が一緒に走り出した。
「バカね」
ありすが走る猿人に拳大の炎の塊を連続で打ちこみ、焼き殺した。
一悟ももう一体に念弾を放った。
飛鳥が水礫でトドメを刺す。
炎の中で縮んでいく仲魔の体にショックを受けたのか、残る二体猿人はじっとかたまったまま動かない。
逝は猿人の虚をついて、一気に距離を詰めた。相手に声を上げる暇も与えず、毛深い胸を突いて、さっさと悪食に食わせてしまった。
「灯ちゃん?」
「はい。このとおり、生け捕りにしました」
二対の鎖鎌に絡み捕まえられた猿人が、灯の前に転がっていた。影鎖に仕込まれた勾玉が痺れの効果を発揮したようで、猿人は白目をむいて気絶している。
「じゃあ、始めるかね」
●
「まず、オレから。送受心・改は使えないっていう意見もあったけど、半分正しくて、半分間違いだった。函の中は亜空間で、こっちに近づいたり遠ざかったりしているみたいだ。で、解ったのは中の空気が徐々に薄くなっているってことと、やたら獣臭いにおいがするってことの二つ。とにかく急いで情報を集めた方がいいな」
言い終えると、一悟は心配顔の守護使役から水が入ったペットボトルを受け取って、木々の間に入っていった。
しばらくすると、吐瀉する音が聞こえてきた。
「奥州ちゃん、男の子のくせにだらしないわね。まあ、ここで吐かなかったことは褒めてあげよう」
吐いていたらゲロごと悪食ちゃんに食わせていたぞ、と逝。
(「私たちだって、平気なわけじゃないわよ。でも……」)
灯は肉塊の前で小さな手を合わせている飛鳥の隣に腰を下ろした。同じように手を合わせて冥福を祈る。
女のほうがいざとなれば肝が据わっている。
飛鳥は交霊術を、灯は超直観とエナミースキャンを同時に発動させて肉塊の調査を始めた。
ありすはベンチに腰掛けて、お栄から預かった怪異レポートを読んでいる。
凛は、電波障害がなければいちいち有線接続しなくて済むのに、と愚痴りながら公衆電話がある場所まで戻っていった。函をパズル箱に見立てて、手持ちのスマホに解き方を解説したサイトをまるこごとダウンロードするためだ。
一悟が戻ってきて、函の中と通信を始めた。
逝も送受心を起動させて、捕えた猿人の尋問を開始した。尋問中に仲間を呼ばれてしまわないように、猿人の口には布をきつく噛ませてあった。
<「さっさと知っていることをぶちまけたほうがいいわよ。それだけ痛い思いをせず楽に死ねるから」>
猿人は怯えながら、逝を見上げた。しばらく細かく震えていたが、やがて――
<「なにが可笑しいのかね?」>
猿人は笑っていた。
<「お前、函は入った。そして出た。仲間。猿なっていない。なぜ?」>
<「……あと四回の意味は?」>
<「5零、ご――!!?」>
逝は直刀を薙いで猿人の腕を一本切り飛ばした。切り口から真っ赤な血が噴き出す。
<「あと四回の意味は?」>
<「箱が開くまであと四回。二回分、狐が戻した。だからあと四回」>
<「函を作ったのは誰」>
<「……函士」>
その時、凜が青い顔をしたお栄と一緒に戻ってきた。
「函の解き方をダウンロードしてきたよ。解き方が二通りあるけど、函の面の色が判らないとどっちかわからない」
一悟がもう少し待っててくれ、という。
「保坂さんも送受心で他の人と連絡を取ってくれている。子狐たちはちょっとしたパニックになってて……猿臭いって泣いて話ができない。なんとか落ち着かせてみるよ」
飛鳥が続けて報告する。
「この…人たちも獣臭いって。壁に血と何かの肉、それに短い獣の毛がいっぱいついていたっていうのよ」
「に、肉塊に色のついた小さな木片のようなものを見つけました。あとは地面の下になっているほうですが……あとでちゃんと報告します」
灯はふらふらと立ち上がった。顔面は蒼白だ。
ちらりと函を見て、再度エナミースキャンを試みたようたが、こちらからはなんの答えも得られなかったらしい。
首を振って肩を落とした。
ベンチに座ったありすが、読んでいるレポートから顔を上げることなく呟いた。
「『函は猿人の妖気を集めて作られたと、続きに書かれている。そのあとは踏み消されたようで判別できない』と、これ、どう考えても途中で終わっているわね」
ありすは顔を上げると、広場の入口に立つお栄を見た。
「ねえ、お栄サン。続きを持っていない? ……お栄サン?」
「……噺家が来る。どうしよう。あいつ、めちゃくちゃ怒ってた。きっとその函ごとぶった切ってしまうよ」
お栄はぺたりと地面に座り込むと、わあわあと泣き始めた。
いつの間にか、猿人が舌を器用に動かして布を外してしまった。鳴き声を上げて仲間を呼ぶ。
逝はニタニタと笑って自分指さす猿人をあっさり切り殺した。
「噺家が来ても来なくても、時間がないことには変わりないさね。奥州ちゃん、中の壁の色は分ったかい?」
「ああ、だいたい。憤怒者たちとはやっぱり話ができなかったよ。オレも、保坂さんも」
灯が手を叩いて全員の注意を集めた。
「みなさん、集まって。これまでに分かったことをもとにして話し合いましょう。あ、お栄さんは下で噺家さんの足止めをお願いします」
お栄は泣き止まない。
凛が立たせようと腕を取るが、駄目だった。
ありすはベンチから立ちあがると、お栄の傍に行った。
「しっかりして!」
頬を張った音が秋空に響いた。
「お紺とお金を助けるんでしょ。お栄サンがしっかりしなきゃ、駄目じゃない! さあ、早く行って」
去っていく狐の古妖を見送りながら、飛鳥は逝の袖を引っ張った。
「……505って何のことですか。さっき、お猿さんがいってたこと、聞こえたのよ」
「何でもない。何でも……」
四方から妖気が集まってきていた。
同族把握がない者にも感じとれるほど、向かってくる数が多い。
少しずつ、空に雲が出始めていた。
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし
