≪猟犬架刑≫それは、残酷な月が招く夜
●わらべうたの誘い
――『同士』がひとり死んだ。不穏な様子など全く感じられなかったのに、或る月の綺麗な夜に、彼は死んだ。
(ひとりの男が、死んだ)
確か昔、そんなわらべうたがあったか。ああ、あの不気味な詩みたいに、あいつは墓にも入れてやれなくなってしまった。死体は見つからず、現場にあったのはただ、血の華が咲いて散った跡だけだったから。
(……まさか、ただの噂だ)
それでも脳裏に過ぎるのは、冗談半分で耳にした仰々しい話だった。『バスカヴィルの猟犬』――それは、七星剣の忠実な飼い犬。音も無く忍び寄り、無慈悲に牙を突き立てる死の遣い。
――馬鹿馬鹿しい、此処は古典文学の世界などではない。この地の神秘すらも、いずれひとの叡智によって解明されるのだ。
「だが……いや」
そこまで考えて、男は慌ててかぶりを振った。不穏な様子は無かったが――相手が犬であるのならば、その微かな兆候を嗅ぎ取ったのかもしれない。
「――ぁ」
忘れていた、今日も月の綺麗な夜だった。何処か生ぬるい風が頬を撫でた時、彼は自分が追い詰められていたことにようやく気が付いた。
「ほら、夜が来るよ。猟犬が夜を駆けるよ」
耳をくすぐる声は酷く無邪気で、けれどこんな夜の囁きには相応しい。何かが自分の身体を貫き、焼けるような痛みが肌を焦がして――ああ、何故だか生命を啜られる感覚に陶酔すら覚える。
否! 死にたくない、私にはまだ生きてやるべきことが――!
「ああああああああああ!!」
――絶叫と同時、彼の身を縛っていた理性が焼き切れた。只本能のままに、男は窓硝子を割って二階の窓から一気に飛び降りる。そのまま、背後の存在を振り切るように駆け出した。
「いいね、久しぶりの追いかけっこだ。好きなだけ逃げるといいよ」
艶めいた息づかいと同時――背後の存在もまた、夜の闇に飛び込んで歓喜の声をあげる。
「だって……追いつかれたら、おしまいだからね」
●月茨の夢見は語る
「……破綻者が、生まれたみたいなんだ。みんなには彼の討伐をお願いしたいの」
難しい顔でF.i.V.E.の司令室へとやって来た『月茨』浮森 瞑夜(nCL2000119)は、悩んだ末にゆっくりと唇を開く。彼女の夢見が捉えたのは、酷く断片的な情報で――それ故に皆に負担を掛けることを、彼女は悔いているようだった。
「深度は2……力の制御が出来ずに飲み込まれつつあって、自我を失いかけている状態だね。彼は周囲のものに見境なく襲い掛かって、誰彼構わず傷つけようとしているから」
予知ではひと気の無い路地裏で、偶然通りかかった会社員の男性を殺してしまうらしい。そのまま破綻者の男は、何かから逃げるように走り続け――目につくひとに片っ端から襲い掛かるようだ。
「破綻者のひとについて、詳しいことは分からないんだ。ただ何らかの組織に所属する隔者であったこと、怪我をしているようだったこと、そして死にたくないと必死に思っていること、だけ」
――彼自身の情報も殆ど無い中で、言葉による説得は非常に困難だろう。力尽くで大人しくさせる方が確実だが、手負いの所為もあって激しく抵抗されるのは間違いない。最悪、止めを刺すことも視野に置いて行動した方がいい、と瞑夜は拳を握りしめた。
「……それと、少しだけ視えたことが。破綻者のひとは、直前に『何か』と遭遇したみたい」
それの正体は分からない、けれど彼は怯えていた。噂だと笑いながら、囁かれるその存在を恐れていた。
「それは、七星剣の――『バスカヴィルの猟犬』」
――夜が来る。夜が追いかけてくる。そして彼らは、新たな存在と邂逅を果たす。
――『同士』がひとり死んだ。不穏な様子など全く感じられなかったのに、或る月の綺麗な夜に、彼は死んだ。
(ひとりの男が、死んだ)
確か昔、そんなわらべうたがあったか。ああ、あの不気味な詩みたいに、あいつは墓にも入れてやれなくなってしまった。死体は見つからず、現場にあったのはただ、血の華が咲いて散った跡だけだったから。
(……まさか、ただの噂だ)
それでも脳裏に過ぎるのは、冗談半分で耳にした仰々しい話だった。『バスカヴィルの猟犬』――それは、七星剣の忠実な飼い犬。音も無く忍び寄り、無慈悲に牙を突き立てる死の遣い。
――馬鹿馬鹿しい、此処は古典文学の世界などではない。この地の神秘すらも、いずれひとの叡智によって解明されるのだ。
「だが……いや」
そこまで考えて、男は慌ててかぶりを振った。不穏な様子は無かったが――相手が犬であるのならば、その微かな兆候を嗅ぎ取ったのかもしれない。
「――ぁ」
忘れていた、今日も月の綺麗な夜だった。何処か生ぬるい風が頬を撫でた時、彼は自分が追い詰められていたことにようやく気が付いた。
「ほら、夜が来るよ。猟犬が夜を駆けるよ」
耳をくすぐる声は酷く無邪気で、けれどこんな夜の囁きには相応しい。何かが自分の身体を貫き、焼けるような痛みが肌を焦がして――ああ、何故だか生命を啜られる感覚に陶酔すら覚える。
否! 死にたくない、私にはまだ生きてやるべきことが――!
「ああああああああああ!!」
――絶叫と同時、彼の身を縛っていた理性が焼き切れた。只本能のままに、男は窓硝子を割って二階の窓から一気に飛び降りる。そのまま、背後の存在を振り切るように駆け出した。
「いいね、久しぶりの追いかけっこだ。好きなだけ逃げるといいよ」
艶めいた息づかいと同時――背後の存在もまた、夜の闇に飛び込んで歓喜の声をあげる。
「だって……追いつかれたら、おしまいだからね」
●月茨の夢見は語る
「……破綻者が、生まれたみたいなんだ。みんなには彼の討伐をお願いしたいの」
難しい顔でF.i.V.E.の司令室へとやって来た『月茨』浮森 瞑夜(nCL2000119)は、悩んだ末にゆっくりと唇を開く。彼女の夢見が捉えたのは、酷く断片的な情報で――それ故に皆に負担を掛けることを、彼女は悔いているようだった。
「深度は2……力の制御が出来ずに飲み込まれつつあって、自我を失いかけている状態だね。彼は周囲のものに見境なく襲い掛かって、誰彼構わず傷つけようとしているから」
予知ではひと気の無い路地裏で、偶然通りかかった会社員の男性を殺してしまうらしい。そのまま破綻者の男は、何かから逃げるように走り続け――目につくひとに片っ端から襲い掛かるようだ。
「破綻者のひとについて、詳しいことは分からないんだ。ただ何らかの組織に所属する隔者であったこと、怪我をしているようだったこと、そして死にたくないと必死に思っていること、だけ」
――彼自身の情報も殆ど無い中で、言葉による説得は非常に困難だろう。力尽くで大人しくさせる方が確実だが、手負いの所為もあって激しく抵抗されるのは間違いない。最悪、止めを刺すことも視野に置いて行動した方がいい、と瞑夜は拳を握りしめた。
「……それと、少しだけ視えたことが。破綻者のひとは、直前に『何か』と遭遇したみたい」
それの正体は分からない、けれど彼は怯えていた。噂だと笑いながら、囁かれるその存在を恐れていた。
「それは、七星剣の――『バスカヴィルの猟犬』」
――夜が来る。夜が追いかけてくる。そして彼らは、新たな存在と邂逅を果たす。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.破綻者(深度2)の討伐(生死は問わない)
2.一般人に被害を出さない
3.なし
2.一般人に被害を出さない
3.なし
●破綻者の男×1
力に呑まれ破綻者となった男です。獣憑(巳)で、木行の術式となります。
30代半ばで、暴走しかけている今は面影がありませんが、元々は理知的な人物だったようです。何らかの組織に所属する隔者のようですが、詳細は不明です。死を恐れ、目についたものに片っ端から襲い掛かります。
※戦闘前から負傷しており、応急処置はしたようですが体力は70%ほどになっています。また、何らかの工夫をしない限り、説得や捕獲は厳しいと思ってください。
●???
破綻者の男を追いかけている存在です。夢見からはかろうじて、七星剣絡みで『バスカヴィルの猟犬』と呼ばれていることだけは分かります。
※破綻者との戦闘が始まってから、一定ターン経つと戦場に現れます。
●戦場など
時刻は真夜中、場所は繁華街の路地裏です。破綻者が一般人を襲う前に現場へ向かい、此方に注意を引きつけて戦闘を行う流れになります。
●補足
難易度は、提示された成功条件を達成する為の目安です。ただ破綻者を倒すだけでなく、他のことをする(破綻者を救う、謎の存在の何らかの成果を得る)場合、難易度は相応に上がります。自分の求める成果はどれほどなのか、何処まで妥協するかなど、意思統一をした方が良いかもしれません。
こちらからの説明は以上になります。色々考えることは多いと思いますが、是非やりたいことをぶつけてみてください。それではよろしくお願いします。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
7日
7日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
8/8
8/8
公開日
2016年04月30日
2016年04月30日
■メイン参加者 8人■

●紅き月のいざない
――血のように紅い月が、静かに地上を見下ろしている。しかし、その輝きは夜の闇を照らすどころか、却ってその暗さを浮き立たせているようだった。
「……猟犬、だったか」
夜に溶けるような漆黒の髪をかき上げ、『侵掠如火』坂上 懐良(CL2000523)が溜息を吐く中――凛としたまなざしで彼方を見据える『水天』水瀬 冬佳(CL2000762)がゆっくりと頷く。
「ええ、七星剣絡み……降って沸いた話ですが」
事件の影にちらつくバスカヴィルの猟犬――不吉な名を持つそれとの接触は、破綻者と対峙するのならば避けられないのだろう。
「破綻者を傷つけたのも、追跡者も恐らくはこの『バスカヴィルの猟犬』でしょうね」
「猟犬ですか……自分に酔っているが如き言動で実にキモイのです」
時の流れを変化させ、あどけない少女の姿となった『偽弱者(はすらー)』橡・槐(CL2000732)は、その愛らしい相貌に似合わぬ毒を零してわざとらしく肩を竦めた。
「どうしてこの界隈には、こういう手合いの人が後を絶たないのでせうね」
自分は『狩る側』だなんて思い込み、足元を危うくするだけですのに――何処か達観した槐の言葉に『デジタル陰陽師』成瀬 翔(CL2000063)は難しい顔をしていたが、あれこれ悩むのは自分の性に合わないと悟ったらしい。
「何だかよく分かんねーんだけど、要するに破綻者を何とかすればいいんだよな? 犬だか何だかが追いかけてくるってなら、そいつもぶっ飛ばしてやる!」
拳を握りしめて意気込む翔と同じく――いやそれ以上に、戦いに胸躍らせているのが鹿ノ島・遥(CL2000227)だった。
「破綻者に猟犬かぁ。どっちも強そうで戦い甲斐がありそうだな! 特に猟犬! 楽しいやつだといいなあ!」
「でも先ずは、一般人が近づかないようにしないとね」
懐中電灯の灯りを頼りにしつつ、『紅戀』酒々井 数多(CL2000149)を始めとした一行は、夢見で割り出した路地へと向かう。数多、そして翔が近くに居た一般人に危険だから近づくなと声をかけて遠ざけた後、『百合の追憶』三島 柾(CL2001148)は守護使役の力を借りて周囲の偵察を行った。
「今は特に不審な者は……」
――しかし、闇夜の中では完全に把握出来ないのが辛いところか。だが頼りにするのは視覚だけではない。嗅覚や聴覚を駆使する『Queue』クー・ルルーヴ(CL2000403) は守護使役のペッシュを抱きしめながら、戌の耳を動かして辺りの異音を探っていた。
「足音、この先からです」
そして彼らは、迫りくる存在を遂に捉える。まるで熱病に罹ったような、奇妙に浮ついた出鱈目な足音。鼻腔をくすぐる、赤錆びた血のにおい。
「う、うウ……ウウウ」
やがて――喉の奥からくぐもった呻き声を漏らし、路地に現れたのは蛇の目を爛々と輝かせる男だった。やはり自我を失いつつあるのだろう、その口からは意味を為さない声しか漏れず、定まらない焦点は此処ではないどこかを見つめているかのようだ。
(包囲しましょう、逃走を阻止しなければ)
覚醒によって変じた銀糸の髪を靡かせる冬佳が、素早く皆に視線で訴えると、直ぐに翔と数多が動いた。翔は物質透過を用いて路地の反対側へと回り込み、一方の数多は垂直に壁へと貼りついて、そのまま壁伝いに破綻者の背後へと着地する。
「スカートの中見たら目をくり抜くからね! 見上げないでよね!」
(ああ、これは覗いて欲しいってことなんだな)
ひらひらと風に舞う数多のミニスカート――その下のタイツの先も見通せとばかりに、懐良は超直観で見えぬものまで見通そうと瞳を見開いた。おんどりゃあと、国民的王道正統清純派美少女には似つかわしくない怒声が響いてきた気がするが、多分気のせいだろう。
「こんばんは、おっさん! 今をときめくF.i.V.E.のお出ましだ。とりあえずアンタをボコって、かっ浚うつもりなんで、よろしく!」
そんなこんなで挟み撃ちの態勢を整えて、遥がびしっと指を突き付ける。大胆不敵な少年の宣戦布告は、果たして破綻者に届いたのか――彼は只々、目の前の存在を排除しようと、鱗に覆われた腕を振りかざしたのだった。
●破綻の円舞
「あ、殺しはしないから安心してく――」
遥が破綻者へ続けようとした言葉は、不意の衝撃によって途切れた。常人離れした動きで破綻者は術式を繰り出し、香仇花の芳香が瞬く間に標的の生命力を奪うと同時――その能力を弱体化させていったのだ。
「む、いきなりという訳ですか」
中衛に居た為難を逃れた槐は、眉根を寄せて自然治癒力を高める香りを振りまく。隊列は自分を除き、全員が前に出ている――このまま列攻撃を続けられたら、纏めて薙ぎ倒されてしまうだろう。
(出来れば殺さないよう、とどめはささない様に)
それでも直ぐに態勢を整えた冬佳は、刀を振りかざして鮮やかな二連の斬撃を見舞った。暗視がある為に夜間の戦闘に支障は無いが、仲間たちの用意した照明もあって標的を見失うと言うことは無い。更に懐良の飛燕が追い打ちをかける中、クーは土の鎧を纏って大幅に守りを固め――一方で身体の細胞を活性化させた柾は、天を駆けるかの如き速度を得る。
(せめて命だけは失わせたくない)
――柾らの方針は、非殺による捕縛だ。殴って気絶させてふん縛るとは遥の言葉だが、深度2の破綻者の力は先程身を以て知ったばかりだ。
「……手加減できる相手でも無さそうだし、本気で戦るけどな!」
五行の力――その内の天行の力を顕現させた遥は、纏う白布ごとその拳を叩きつける。彼らはひたすら攻撃に特化し、その上で何とか正気を取り戻させようと、其々に破綻者の男に呼びかけを行っていた。
「なあ、目を覚ませよ!」
精悍な青年の姿となった翔は、雷雲から激しい雷を落としながら声をかけるが、ただそれだけでは予期していた通り効果は薄いようだ。邪魔者が現れる前になるべく弱らせたいとは思うが、それを上回る速さで破綻者は、ひたすらに目の前に居る自分たちを排除しようとしている――。
「あー私、説得とか苦手なのよね。でも貴方を助けにきたのよ」
体内に宿る炎を滾らせた数多は、赤柄の刀を振るいながら問う――自分が破綻していることを分かっているのか、と。いつもより強く能力が出せるでしょうと彼女は続けて、その金の瞳をすっと細める。
「でも追っかけてくるのには勝てない。だったら、どうするか。……私達が助けてあげる」
其処で不敵に口の端をつり上げた数多は、すかさず目にも止まらぬ斬撃を繰り出しながら声を張り上げた。
「そのためには、一旦あんたを戦闘不能にする必要があるのよ。私もなんでなおせるのかわかんないけど!」
嗚呼、無茶苦茶な理屈だなと思いつつ、それでも数多は続ける――けれど死ぬのと生き延びるのなら、生きる方に賭けてもよくないかと。
「アアア……倒す、なら……敵……ッ!」
しかし破綻者の口から零れたのは、拒絶の意思で。彼は濃縮した紅椿の毒素を、辺りに流し込んで一気に汚染していく。あ、と体術を駆使して疲弊していた懐良は、毒に蝕まれて意識を失いかけたが――直前で何とか踏みとどまったようだ。大きくかぶりを振って意識をはっきりさせてから、彼もまた冷静に説得の言葉を重ねていった。
「名も知らない破綻者よ。少し頭を冷やせ。理知的な人間だったんだろう? ならば何が、お前の目的にとって効率的かの判断ぐらいつけてみせろ」
――けれど、数多や懐良の説得は『自我を失いかけている』者に理屈や判断を求めるもので。例え理性があったとしても、見ず知らずの者に助けてあげると高みから告げられ、その為には大人しく此方の手に掛かって倒れろなどと言われても、おいそれと従える訳が無い。
「死にたくなければオレたちに協力すべきだし、生きた上で何かを成すにしても、オレたちに協力した方が近道のはずだ」
淡々と懐良は協力の必要性を説くが、敵か味方かも分からないのに頭ごなしにいきなり協力しろと言われて、素直に頷ける者が果たして居るだろうか。
(ああ……)
――その答えは、彼自身が良く知っている筈だ。理屈は理解するが納得するかは別問題だと言うのが、懐良の考えなのだから。
「気を確かに。自分の名前を忘れないで、自分を保って……!」
一方で攻撃をしつつも、呼びかけを続けているのは冬佳だ。攻撃せずに治療をして、脅かす存在では無いと本能で認識させられれば、或いは落ち着かせることも出来るのかもしれない――そう考えた冬佳だが、それは実行に移されることは無かった。
(言葉だけで、今の状態の破綻者に届くかは怪しい所ですが)
それでもしないよりは良いと思うが、その呼びかけが実を結ぶより早く、破綻の兆候は現れていた。――押されているのだ。
目の前の破綻者は、ただただ力押しで攻めきれる相手ではない。なのに此方は攻撃を凌ぐ対策を講じていないのに加え、隊列は前衛に集中し攻撃をまともに受けてしまっている。
「……って、ちょっとこれは拙いですね」
回復役を当てにしていた槐は、回復を行う者が誰も居ない状況に気付き、せめてもの舞音を施すのだが――これはあくまで状態異常を治す術であって、傷の回復は微々たるものだ。
「坂上! ……っ、お前は!」
そして遂に懐良が、植え付けられた種子によって完全に屈服し、拳に炎の彩を纏わせた柾は静かに声を震わせる。と、其処で彼やクー、超感覚を持つ者たちは異変に気付いて顔を見合わせた。
「誰かが……来る」
――臆せずに、死のにおいを纏って此方に近づいて来るものが居る。多分、否、きっとそれは――。
●迫る猟犬の牙
そして『それ』は、覚者たちの背後に姿を見せた。だと言うのに未だ破綻者を抑える目処は立っておらず、ふたりを同時に相手取るならば、戦況は明らかに此方が不利だ。
「う、うあああああアアアア!!」
追いついた追跡者に破綻者は恐慌に陥り、彼は此方の存在もお構いなしに術式を放つ。ちっ、と舌打ちをした翔は、破綻者ごと波動弾で貫通させようと狙いを定めたが――威力を減退させた弾丸は、背後の存在が纏う黒衣を掠めただけに留まった。
「――貴方ですか。『彼』を襲ったのは」
刃を突きつけ、凛然と問うたのは冬佳だった。しかしその存在は、自身に投げかけられた問いに答える素振りは見せず――彼の歩みを止めようと抑えに回った数多は、意図的に挑発を行って意識を此方に向けようと動く。
「ヘイヘイ、七星剣ビビってる! 私らF.i.V.E.の覚者よっていったら放置できる? こんどは私らと追いかけっこしましょうよ」
不用意に近づいたら、圧撃で吹き飛ばしてやる――そう思った数多に、猟犬はフードに覆われた顔をゆっくりと傾げて、何処か夢見るような声音で呟いた。
「……僕の獲物は、その子だから。どいてね?」
瞬間、彼の手に握られた得物――恐らく槍が、唸りを上げたのだろう。一見無造作に放たれた一撃は鋭く地を這い、それは続けて跳ね上がるようにして、障害となるものを宙へと舞い上がらせる。
(『バスカヴィルの猟犬』とやら……何者、なのか)
――少しでも長く交戦して手の内を暴こうとした冬佳の目論見は、あっけなく崩れ去った。破綻者との戦いで負った傷を回復する当ても無く、彼女は血溜まりの中に崩れ落ち――勇ましく名乗りを上げようとした数多もまた、その機会すら与えられずに意識を手放してしまう。
(猟犬って、あだ名? 二つ名? 都市伝説? そんなもんだよな、たぶん)
そして離れていた為に難を逃れた翔は、かろうじてその姿を捉えていた。黒衣を纏い、フードで覆われているものの、取り敢えず彼はひとに見える。その長身と声質から、恐らく男性なのだろう。
また先程の攻撃は、別段特殊なものと言う訳では無かった。使い手も多い初級体術――連撃を行う地烈だ。
「お前、誰?」
思わず問いかけた言葉に、翔は苦笑する。答える筈がないじゃないか。そうしている間にも、あっさりと崩壊した抑えの代わりとなるべく、遥と槐が立ちはだかった。
「はてさて、では『猟犬』さんのお手並みをせいぜい拝見させて頂くのですよ」
体力に余裕があり、確りと守りを固める槐ならば、幾らか時間を稼げるだろう。その間に柾とクーは、徐々に抵抗の弱まってきた破綻者へ、最後の説得を行おうとしていた。
「お前は生きたいからこんなに必死になっているんだろう? 生きて守りたい者が、やりたい事があるからこんなに必死なんだろう」
あアア、と破綻者は残された理性を取り戻そうとするようにもがき、柾は彼を落ち着かせようと暴れる身体を懸命に押さえる。
「……なら、ここで終わらせるな。猟犬の干渉なんかに屈するな。お前という、ただ一人の存在を取り戻せ!」
お前の名は何ていうのか教えてくれ――その柾の問いかけに破綻者の瞳が揺れて、彼は必死で言葉を絞り出そうと唇を震わせていた。
「あ、俺……は……ァ」
「戻ってこい! ここですべてを終わらすな! 生きたいと強く願うなら、まだ死ねないと強く思うなら」
大切な人を失い続けた過去がある故に、失う恐怖を知っている柾だからこそ、終わらせるなと言う彼の訴えは男の心を激しく揺さぶったようだ。巽、と破綻者は己の名前を取り戻し、柾を見上げる瞳には微かな理性の光が戻る。
「なら、抗い戻ってこい――巽!!」
「ああああ!!」
しかし、頭を抱えて今までの反動に襲われる巽は、死の恐怖を振り払おうと自分以外のものを咄嗟に振り払おうとした。――と、其処に真正面から向き合ったのはクー。せめて一度、彼女は巽の攻撃を受け止めて、彼の存在を受け入れようとしたのだ。
「怖がらなくて大丈夫です」
深緑の鞭がその身を斬り裂いても、クーは安心させるようにほんの僅か、精一杯頬を緩めて。
「クーたちには殺す意志はありません。貴方を治療するために来ました」
なるべく苦痛を与えないよう、次は安心して目覚められるようにと、クーは隆起させた岩槍で巽を戦闘不能にし、彼の抵抗を完全に失わせた。
(良かった、これで……)
――破綻者はどうにか抑えた。しかしその間にも、猟犬の相手をする者たちは限界を迎えていた。破綻者が巻き込まれないように注意を引いていた槐は、その身を以て猟犬の牙を味わったらしく――腹部から流れる血を止める術も無く、襤褸のように地面に這いつくばっている。
『足止め? めんどくさい! 倒してしまえば結果は一緒だ!』
そう豪語していた遥もまた、その名前と拳を相手に刻み付ける前に、猟犬が突きつけた槍によって串刺しにされた。自分の身に起こった事態を把握出来ないまま、遥は鮮血に彩られ――ぐったりと力を失ったその身体を、猟犬は道端の石ころを蹴るようにして無造作に払いのける。
「……そういえばさ、何で君たちはその子を庇うの? 別に知り合いでも無さそうだし、赤の他人でしょ?」
そうして血に塗れて伏した翔の身体を槍でなぞりながら、猟犬は心底不思議そうに残ったふたり――柾とクーに問いかけたのだった。
●最期に託されたもの
「殺すのは本意でなく、見捨てる理由もありません」
しかしクーは迷いなく、金の瞳に静かな光を湛えてきっぱりと告げた。もっと穏便に出来れば良かったけれど、そうする余裕も無かったと、彼女は意識を手放したままの破綻者の前に立ち、きっと猟犬を睨む。
「鼻息荒い猟犬に、彼は渡しません。……単純に、やり口が嫌いです」
猟犬の狩りを楽しむその態度が、神経を逆なでする――その心情を表すように、クーの尻尾は警戒心も露わに揺れていた。
「へぇ、面白い。でも納得したよ。……じゃあね」
――そう言って唇をつり上げる、猟犬の存在は掴みどころが無くて。彼のフードから零れる雪色の髪が、視界を過ぎったと思った時には既に、猟犬はクーをすり抜けて破綻者の元へと近づいていた。
「……っ! 死なせは、しない……」
戦線を離脱しようとしていた柾は、それでも巽を庇おうとその身体を盾にして彼を守る。だが――槍は容赦なく、柾ごと巽の身体を貫通したのだった。
「あ……ぐぁ……ぁ」
その指先の感じる鼓動が、急速に失われていくことに柾は言い知れぬ痛みを覚えて。それでも最期、巽の唇はありがとうと彼に囁き、その手の中に何かを握らせた。
「これ、を……『薔薇の隠者』……娘を、頼む……」
お前が猟犬に狙われたのは、何か理由があるのか――柾が問おうとしたことへの回答を、彼は最期に遺していったようだ。
「これで、おしまい。ああ、君たちは別に殺せと言われていないから、殺さないでおくよ」
しかし猟犬は、巽が何かを託すとまでは思わなかったらしく、悠然と踵を返して路地裏を後にしようとする。と、其処で彼は、不意に立ち尽くしたままのクーに近づき、その耳元へ優しく囁いた。
「……ああ、でも。アリスが白ウサギを追いかけたように、君が僕を追ってくるかい?」
辿り着く先は、不思議の国なんかじゃないかもしれないけど――クーの胸元を飾る懐中時計を、面白そうに見つめる猟犬の瞳が、その時不意に不吉な輝きを帯びる。
――それはまるで、今宵の月を思わせるような血の赤。それと同時に周囲の濃厚な血のにおいが迫り、眉根を寄せたクーが瞬きをした時。猟犬はいつの間にか姿を消していた。
「バスカヴィルの、猟犬……」
こうしてまた、ひとりの男が死んだ。猟犬が駆ける夜は、未だ終わりを見せない。
――血のように紅い月が、静かに地上を見下ろしている。しかし、その輝きは夜の闇を照らすどころか、却ってその暗さを浮き立たせているようだった。
「……猟犬、だったか」
夜に溶けるような漆黒の髪をかき上げ、『侵掠如火』坂上 懐良(CL2000523)が溜息を吐く中――凛としたまなざしで彼方を見据える『水天』水瀬 冬佳(CL2000762)がゆっくりと頷く。
「ええ、七星剣絡み……降って沸いた話ですが」
事件の影にちらつくバスカヴィルの猟犬――不吉な名を持つそれとの接触は、破綻者と対峙するのならば避けられないのだろう。
「破綻者を傷つけたのも、追跡者も恐らくはこの『バスカヴィルの猟犬』でしょうね」
「猟犬ですか……自分に酔っているが如き言動で実にキモイのです」
時の流れを変化させ、あどけない少女の姿となった『偽弱者(はすらー)』橡・槐(CL2000732)は、その愛らしい相貌に似合わぬ毒を零してわざとらしく肩を竦めた。
「どうしてこの界隈には、こういう手合いの人が後を絶たないのでせうね」
自分は『狩る側』だなんて思い込み、足元を危うくするだけですのに――何処か達観した槐の言葉に『デジタル陰陽師』成瀬 翔(CL2000063)は難しい顔をしていたが、あれこれ悩むのは自分の性に合わないと悟ったらしい。
「何だかよく分かんねーんだけど、要するに破綻者を何とかすればいいんだよな? 犬だか何だかが追いかけてくるってなら、そいつもぶっ飛ばしてやる!」
拳を握りしめて意気込む翔と同じく――いやそれ以上に、戦いに胸躍らせているのが鹿ノ島・遥(CL2000227)だった。
「破綻者に猟犬かぁ。どっちも強そうで戦い甲斐がありそうだな! 特に猟犬! 楽しいやつだといいなあ!」
「でも先ずは、一般人が近づかないようにしないとね」
懐中電灯の灯りを頼りにしつつ、『紅戀』酒々井 数多(CL2000149)を始めとした一行は、夢見で割り出した路地へと向かう。数多、そして翔が近くに居た一般人に危険だから近づくなと声をかけて遠ざけた後、『百合の追憶』三島 柾(CL2001148)は守護使役の力を借りて周囲の偵察を行った。
「今は特に不審な者は……」
――しかし、闇夜の中では完全に把握出来ないのが辛いところか。だが頼りにするのは視覚だけではない。嗅覚や聴覚を駆使する『Queue』クー・ルルーヴ(CL2000403) は守護使役のペッシュを抱きしめながら、戌の耳を動かして辺りの異音を探っていた。
「足音、この先からです」
そして彼らは、迫りくる存在を遂に捉える。まるで熱病に罹ったような、奇妙に浮ついた出鱈目な足音。鼻腔をくすぐる、赤錆びた血のにおい。
「う、うウ……ウウウ」
やがて――喉の奥からくぐもった呻き声を漏らし、路地に現れたのは蛇の目を爛々と輝かせる男だった。やはり自我を失いつつあるのだろう、その口からは意味を為さない声しか漏れず、定まらない焦点は此処ではないどこかを見つめているかのようだ。
(包囲しましょう、逃走を阻止しなければ)
覚醒によって変じた銀糸の髪を靡かせる冬佳が、素早く皆に視線で訴えると、直ぐに翔と数多が動いた。翔は物質透過を用いて路地の反対側へと回り込み、一方の数多は垂直に壁へと貼りついて、そのまま壁伝いに破綻者の背後へと着地する。
「スカートの中見たら目をくり抜くからね! 見上げないでよね!」
(ああ、これは覗いて欲しいってことなんだな)
ひらひらと風に舞う数多のミニスカート――その下のタイツの先も見通せとばかりに、懐良は超直観で見えぬものまで見通そうと瞳を見開いた。おんどりゃあと、国民的王道正統清純派美少女には似つかわしくない怒声が響いてきた気がするが、多分気のせいだろう。
「こんばんは、おっさん! 今をときめくF.i.V.E.のお出ましだ。とりあえずアンタをボコって、かっ浚うつもりなんで、よろしく!」
そんなこんなで挟み撃ちの態勢を整えて、遥がびしっと指を突き付ける。大胆不敵な少年の宣戦布告は、果たして破綻者に届いたのか――彼は只々、目の前の存在を排除しようと、鱗に覆われた腕を振りかざしたのだった。
●破綻の円舞
「あ、殺しはしないから安心してく――」
遥が破綻者へ続けようとした言葉は、不意の衝撃によって途切れた。常人離れした動きで破綻者は術式を繰り出し、香仇花の芳香が瞬く間に標的の生命力を奪うと同時――その能力を弱体化させていったのだ。
「む、いきなりという訳ですか」
中衛に居た為難を逃れた槐は、眉根を寄せて自然治癒力を高める香りを振りまく。隊列は自分を除き、全員が前に出ている――このまま列攻撃を続けられたら、纏めて薙ぎ倒されてしまうだろう。
(出来れば殺さないよう、とどめはささない様に)
それでも直ぐに態勢を整えた冬佳は、刀を振りかざして鮮やかな二連の斬撃を見舞った。暗視がある為に夜間の戦闘に支障は無いが、仲間たちの用意した照明もあって標的を見失うと言うことは無い。更に懐良の飛燕が追い打ちをかける中、クーは土の鎧を纏って大幅に守りを固め――一方で身体の細胞を活性化させた柾は、天を駆けるかの如き速度を得る。
(せめて命だけは失わせたくない)
――柾らの方針は、非殺による捕縛だ。殴って気絶させてふん縛るとは遥の言葉だが、深度2の破綻者の力は先程身を以て知ったばかりだ。
「……手加減できる相手でも無さそうだし、本気で戦るけどな!」
五行の力――その内の天行の力を顕現させた遥は、纏う白布ごとその拳を叩きつける。彼らはひたすら攻撃に特化し、その上で何とか正気を取り戻させようと、其々に破綻者の男に呼びかけを行っていた。
「なあ、目を覚ませよ!」
精悍な青年の姿となった翔は、雷雲から激しい雷を落としながら声をかけるが、ただそれだけでは予期していた通り効果は薄いようだ。邪魔者が現れる前になるべく弱らせたいとは思うが、それを上回る速さで破綻者は、ひたすらに目の前に居る自分たちを排除しようとしている――。
「あー私、説得とか苦手なのよね。でも貴方を助けにきたのよ」
体内に宿る炎を滾らせた数多は、赤柄の刀を振るいながら問う――自分が破綻していることを分かっているのか、と。いつもより強く能力が出せるでしょうと彼女は続けて、その金の瞳をすっと細める。
「でも追っかけてくるのには勝てない。だったら、どうするか。……私達が助けてあげる」
其処で不敵に口の端をつり上げた数多は、すかさず目にも止まらぬ斬撃を繰り出しながら声を張り上げた。
「そのためには、一旦あんたを戦闘不能にする必要があるのよ。私もなんでなおせるのかわかんないけど!」
嗚呼、無茶苦茶な理屈だなと思いつつ、それでも数多は続ける――けれど死ぬのと生き延びるのなら、生きる方に賭けてもよくないかと。
「アアア……倒す、なら……敵……ッ!」
しかし破綻者の口から零れたのは、拒絶の意思で。彼は濃縮した紅椿の毒素を、辺りに流し込んで一気に汚染していく。あ、と体術を駆使して疲弊していた懐良は、毒に蝕まれて意識を失いかけたが――直前で何とか踏みとどまったようだ。大きくかぶりを振って意識をはっきりさせてから、彼もまた冷静に説得の言葉を重ねていった。
「名も知らない破綻者よ。少し頭を冷やせ。理知的な人間だったんだろう? ならば何が、お前の目的にとって効率的かの判断ぐらいつけてみせろ」
――けれど、数多や懐良の説得は『自我を失いかけている』者に理屈や判断を求めるもので。例え理性があったとしても、見ず知らずの者に助けてあげると高みから告げられ、その為には大人しく此方の手に掛かって倒れろなどと言われても、おいそれと従える訳が無い。
「死にたくなければオレたちに協力すべきだし、生きた上で何かを成すにしても、オレたちに協力した方が近道のはずだ」
淡々と懐良は協力の必要性を説くが、敵か味方かも分からないのに頭ごなしにいきなり協力しろと言われて、素直に頷ける者が果たして居るだろうか。
(ああ……)
――その答えは、彼自身が良く知っている筈だ。理屈は理解するが納得するかは別問題だと言うのが、懐良の考えなのだから。
「気を確かに。自分の名前を忘れないで、自分を保って……!」
一方で攻撃をしつつも、呼びかけを続けているのは冬佳だ。攻撃せずに治療をして、脅かす存在では無いと本能で認識させられれば、或いは落ち着かせることも出来るのかもしれない――そう考えた冬佳だが、それは実行に移されることは無かった。
(言葉だけで、今の状態の破綻者に届くかは怪しい所ですが)
それでもしないよりは良いと思うが、その呼びかけが実を結ぶより早く、破綻の兆候は現れていた。――押されているのだ。
目の前の破綻者は、ただただ力押しで攻めきれる相手ではない。なのに此方は攻撃を凌ぐ対策を講じていないのに加え、隊列は前衛に集中し攻撃をまともに受けてしまっている。
「……って、ちょっとこれは拙いですね」
回復役を当てにしていた槐は、回復を行う者が誰も居ない状況に気付き、せめてもの舞音を施すのだが――これはあくまで状態異常を治す術であって、傷の回復は微々たるものだ。
「坂上! ……っ、お前は!」
そして遂に懐良が、植え付けられた種子によって完全に屈服し、拳に炎の彩を纏わせた柾は静かに声を震わせる。と、其処で彼やクー、超感覚を持つ者たちは異変に気付いて顔を見合わせた。
「誰かが……来る」
――臆せずに、死のにおいを纏って此方に近づいて来るものが居る。多分、否、きっとそれは――。
●迫る猟犬の牙
そして『それ』は、覚者たちの背後に姿を見せた。だと言うのに未だ破綻者を抑える目処は立っておらず、ふたりを同時に相手取るならば、戦況は明らかに此方が不利だ。
「う、うあああああアアアア!!」
追いついた追跡者に破綻者は恐慌に陥り、彼は此方の存在もお構いなしに術式を放つ。ちっ、と舌打ちをした翔は、破綻者ごと波動弾で貫通させようと狙いを定めたが――威力を減退させた弾丸は、背後の存在が纏う黒衣を掠めただけに留まった。
「――貴方ですか。『彼』を襲ったのは」
刃を突きつけ、凛然と問うたのは冬佳だった。しかしその存在は、自身に投げかけられた問いに答える素振りは見せず――彼の歩みを止めようと抑えに回った数多は、意図的に挑発を行って意識を此方に向けようと動く。
「ヘイヘイ、七星剣ビビってる! 私らF.i.V.E.の覚者よっていったら放置できる? こんどは私らと追いかけっこしましょうよ」
不用意に近づいたら、圧撃で吹き飛ばしてやる――そう思った数多に、猟犬はフードに覆われた顔をゆっくりと傾げて、何処か夢見るような声音で呟いた。
「……僕の獲物は、その子だから。どいてね?」
瞬間、彼の手に握られた得物――恐らく槍が、唸りを上げたのだろう。一見無造作に放たれた一撃は鋭く地を這い、それは続けて跳ね上がるようにして、障害となるものを宙へと舞い上がらせる。
(『バスカヴィルの猟犬』とやら……何者、なのか)
――少しでも長く交戦して手の内を暴こうとした冬佳の目論見は、あっけなく崩れ去った。破綻者との戦いで負った傷を回復する当ても無く、彼女は血溜まりの中に崩れ落ち――勇ましく名乗りを上げようとした数多もまた、その機会すら与えられずに意識を手放してしまう。
(猟犬って、あだ名? 二つ名? 都市伝説? そんなもんだよな、たぶん)
そして離れていた為に難を逃れた翔は、かろうじてその姿を捉えていた。黒衣を纏い、フードで覆われているものの、取り敢えず彼はひとに見える。その長身と声質から、恐らく男性なのだろう。
また先程の攻撃は、別段特殊なものと言う訳では無かった。使い手も多い初級体術――連撃を行う地烈だ。
「お前、誰?」
思わず問いかけた言葉に、翔は苦笑する。答える筈がないじゃないか。そうしている間にも、あっさりと崩壊した抑えの代わりとなるべく、遥と槐が立ちはだかった。
「はてさて、では『猟犬』さんのお手並みをせいぜい拝見させて頂くのですよ」
体力に余裕があり、確りと守りを固める槐ならば、幾らか時間を稼げるだろう。その間に柾とクーは、徐々に抵抗の弱まってきた破綻者へ、最後の説得を行おうとしていた。
「お前は生きたいからこんなに必死になっているんだろう? 生きて守りたい者が、やりたい事があるからこんなに必死なんだろう」
あアア、と破綻者は残された理性を取り戻そうとするようにもがき、柾は彼を落ち着かせようと暴れる身体を懸命に押さえる。
「……なら、ここで終わらせるな。猟犬の干渉なんかに屈するな。お前という、ただ一人の存在を取り戻せ!」
お前の名は何ていうのか教えてくれ――その柾の問いかけに破綻者の瞳が揺れて、彼は必死で言葉を絞り出そうと唇を震わせていた。
「あ、俺……は……ァ」
「戻ってこい! ここですべてを終わらすな! 生きたいと強く願うなら、まだ死ねないと強く思うなら」
大切な人を失い続けた過去がある故に、失う恐怖を知っている柾だからこそ、終わらせるなと言う彼の訴えは男の心を激しく揺さぶったようだ。巽、と破綻者は己の名前を取り戻し、柾を見上げる瞳には微かな理性の光が戻る。
「なら、抗い戻ってこい――巽!!」
「ああああ!!」
しかし、頭を抱えて今までの反動に襲われる巽は、死の恐怖を振り払おうと自分以外のものを咄嗟に振り払おうとした。――と、其処に真正面から向き合ったのはクー。せめて一度、彼女は巽の攻撃を受け止めて、彼の存在を受け入れようとしたのだ。
「怖がらなくて大丈夫です」
深緑の鞭がその身を斬り裂いても、クーは安心させるようにほんの僅か、精一杯頬を緩めて。
「クーたちには殺す意志はありません。貴方を治療するために来ました」
なるべく苦痛を与えないよう、次は安心して目覚められるようにと、クーは隆起させた岩槍で巽を戦闘不能にし、彼の抵抗を完全に失わせた。
(良かった、これで……)
――破綻者はどうにか抑えた。しかしその間にも、猟犬の相手をする者たちは限界を迎えていた。破綻者が巻き込まれないように注意を引いていた槐は、その身を以て猟犬の牙を味わったらしく――腹部から流れる血を止める術も無く、襤褸のように地面に這いつくばっている。
『足止め? めんどくさい! 倒してしまえば結果は一緒だ!』
そう豪語していた遥もまた、その名前と拳を相手に刻み付ける前に、猟犬が突きつけた槍によって串刺しにされた。自分の身に起こった事態を把握出来ないまま、遥は鮮血に彩られ――ぐったりと力を失ったその身体を、猟犬は道端の石ころを蹴るようにして無造作に払いのける。
「……そういえばさ、何で君たちはその子を庇うの? 別に知り合いでも無さそうだし、赤の他人でしょ?」
そうして血に塗れて伏した翔の身体を槍でなぞりながら、猟犬は心底不思議そうに残ったふたり――柾とクーに問いかけたのだった。
●最期に託されたもの
「殺すのは本意でなく、見捨てる理由もありません」
しかしクーは迷いなく、金の瞳に静かな光を湛えてきっぱりと告げた。もっと穏便に出来れば良かったけれど、そうする余裕も無かったと、彼女は意識を手放したままの破綻者の前に立ち、きっと猟犬を睨む。
「鼻息荒い猟犬に、彼は渡しません。……単純に、やり口が嫌いです」
猟犬の狩りを楽しむその態度が、神経を逆なでする――その心情を表すように、クーの尻尾は警戒心も露わに揺れていた。
「へぇ、面白い。でも納得したよ。……じゃあね」
――そう言って唇をつり上げる、猟犬の存在は掴みどころが無くて。彼のフードから零れる雪色の髪が、視界を過ぎったと思った時には既に、猟犬はクーをすり抜けて破綻者の元へと近づいていた。
「……っ! 死なせは、しない……」
戦線を離脱しようとしていた柾は、それでも巽を庇おうとその身体を盾にして彼を守る。だが――槍は容赦なく、柾ごと巽の身体を貫通したのだった。
「あ……ぐぁ……ぁ」
その指先の感じる鼓動が、急速に失われていくことに柾は言い知れぬ痛みを覚えて。それでも最期、巽の唇はありがとうと彼に囁き、その手の中に何かを握らせた。
「これ、を……『薔薇の隠者』……娘を、頼む……」
お前が猟犬に狙われたのは、何か理由があるのか――柾が問おうとしたことへの回答を、彼は最期に遺していったようだ。
「これで、おしまい。ああ、君たちは別に殺せと言われていないから、殺さないでおくよ」
しかし猟犬は、巽が何かを託すとまでは思わなかったらしく、悠然と踵を返して路地裏を後にしようとする。と、其処で彼は、不意に立ち尽くしたままのクーに近づき、その耳元へ優しく囁いた。
「……ああ、でも。アリスが白ウサギを追いかけたように、君が僕を追ってくるかい?」
辿り着く先は、不思議の国なんかじゃないかもしれないけど――クーの胸元を飾る懐中時計を、面白そうに見つめる猟犬の瞳が、その時不意に不吉な輝きを帯びる。
――それはまるで、今宵の月を思わせるような血の赤。それと同時に周囲の濃厚な血のにおいが迫り、眉根を寄せたクーが瞬きをした時。猟犬はいつの間にか姿を消していた。
「バスカヴィルの、猟犬……」
こうしてまた、ひとりの男が死んだ。猟犬が駆ける夜は、未だ終わりを見せない。
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
『薔薇の聖印』
カテゴリ:アクセサリ
取得者:三島 柾(CL2001148)
カテゴリ:アクセサリ
取得者:三島 柾(CL2001148)
