【if】遥かなる……
●
人類を脅かすものは、もはや存在しない。
人類そのものが、今や存在しないからだ。
人間のいない緑の原野に、重い足音が響き続ける。まるで地響きだ。
巨大な卵が、歩いていた。
岩山のような卵殻から、短い両足と長い尻尾が生え伸びている。卵から出られぬまま大きくなってしまった恐竜、のようでもある。
その卵殻に巻かれた、太く巨大な注連縄に、小さな生き物がちょこんと腰かけていた。
「もう諦めたらどうじゃ、光璃殿」
もふもふとした獣毛の塊。はるか昔この地球上に生息していた、シーズーやヨークシャーテリアによく似た老人である。
「あれから何万年経ったと思うておる。いくら探してものう、もはや人間など1人も残ってはおらんぞ」
「良いではないか犬神よ。他にする事があるでもなし」
歩行する巨大な卵……光璃の頭上に、1体の鬼が仏像の如く座り込んでいる。石の如く、固く干からびた鬼。こうして喋らない限り、屍にも見えてしまう。
「俺たちはな、あの人間という忙しい連中とは違うのだ。無駄な事で時間を潰すのも良かろうよ」
「……まこと、忙しい者たちであったのう」
犬神は、思いを馳せた。
人類がいなくなった後も、地球は様々な敵に脅かされた。
それら敵を、光璃は片っ端から食らった。そして、ここまで大きくなった。
無論、光璃だけではない。あの覚者たちの心を受け継ぎ、戦ってきた者が、他にも大勢いる。この鬼もそうだ。
皆で、この惑星を守り続けている。
「早いものよ」
光璃の頭上で、鬼が空を見上げた。
「俺がなあ犬神よ、おぬしと同じほど老いぼれた力彦を看取ったのが……果たして何万年前になるやら、もはや覚えておらぬ」
「人類を……覚者たちを看取った、という事になるのかのう。わしらは」
思えば地球人類は「太く短く」を宿命づけられた生命体であったと言える。
源素という力によって、いくらかは寿命が延びた、とは言え永遠に栄える事など出来はしない。
あの覚者たちは、強烈な魂の輝きをこの世に残しながら皆、あまりにも短い天寿を全うしていった。
「おぬしらを……見送る事しか、出来なかったのう……」
犬神も、空を見上げた。悲しいほどに晴れ渡った青空を。
遥かな宇宙へと続く青空。
そこから彼ら彼女らが降りて来る、わけではない。
彼ら彼女らの力を、しかし最も強く受け継いだ者が、そこにいた。力強い翼をゆったりと羽ばたかせ、空中に佇んでいる。
「おう……おぬしも、何をしておるのじゃ」
「敵がおらぬか、と思ってな」
彼は言った。
「この星を脅かす者どもと、我らは戦い続けてきた……お前たちから受け継いだ魂、何万年が過ぎようと燃え尽きる事はない。見よ、覚者たち……我を、見よ……」
●
地球の模様が、大きく変わった。
海底が隆起して陸地となり、陸地であった場所の多くは海の底に沈んだ。
人類の建造物は、海の底で跡形もなくなった。
かつて彼女が終の住処の如く愛していた博物館も、完全に消えて失せた。
その代わり、竜宮の人魚たちによって巨大な神殿が建造された。
荘厳なる海底神殿。そこに今、彼女はいる。
「光璃の馬鹿が、また落ち着きなく地上を歩き回っているそうですね。この間うっかり大鯰の地底湖に転げ落ちて大騒ぎになったばかりだと言うのに」
僕は訴えかけた。
「うっかり誰か踏み潰してしまう前に大人しくしろと、母上からも叱ってやっては下さいませんか」
『……光璃に踏み潰されるような種族など、もう地球上に生き残っておりませんわ』
数万年間、骨格のみ存在し続けている巨大な海竜。
僕の母である。骨だけの巨体が、僕を見下ろしている。
『あの子の思い、わかって差し上げなさいな悠璃』
「……まあ、あいつは地上の守りの要です。戦いのない時くらいは、好きなようにさせてやりたいところですが」
あれから数万年。僕も光璃も、図体は大きくなった。中身はしかし、卵の中で喧嘩をしていた頃から大して変わっていない。
そんな僕を見下ろし、母は言った。
『海の守りの要たる、お前が……そのような話をするために来たわけでもないのでしょう? 本題にお入りなさいな』
「……海の要は、この方ですよ。母上」
1人の女性が、僕の背中にぼんやりと座り込んでいる。
半ば無理矢理、この人を背中に乗せて、僕はここへ来た。彼女に活を入れる事が出来るのは、この母だけだからだ。
『御機嫌麗しそうですわね、乙姫様』
母は、笑った。
『少しくらい御機嫌を損ねてみましょうか』
「……無駄よ。私の心は、死んだまま……」
千年ほど前、最後の人間であった1人の男が死んだ。玉手箱で無理矢理、寿命を延ばされていたようだが、限界はあったという事だ。
それ以来、乙姫はずっと、この調子である。
「あの方、だけではないわ……皆、いなくなってしまった……」
乙姫の涙が、きらきらと海中を漂う。
「人間に、近付くのではなかった……私たちを置いて行ってしまう、人間たち……好きになど、ならなければ良かった……」
人類を脅かすものは、もはや存在しない。
人類そのものが、今や存在しないからだ。
人間のいない緑の原野に、重い足音が響き続ける。まるで地響きだ。
巨大な卵が、歩いていた。
岩山のような卵殻から、短い両足と長い尻尾が生え伸びている。卵から出られぬまま大きくなってしまった恐竜、のようでもある。
その卵殻に巻かれた、太く巨大な注連縄に、小さな生き物がちょこんと腰かけていた。
「もう諦めたらどうじゃ、光璃殿」
もふもふとした獣毛の塊。はるか昔この地球上に生息していた、シーズーやヨークシャーテリアによく似た老人である。
「あれから何万年経ったと思うておる。いくら探してものう、もはや人間など1人も残ってはおらんぞ」
「良いではないか犬神よ。他にする事があるでもなし」
歩行する巨大な卵……光璃の頭上に、1体の鬼が仏像の如く座り込んでいる。石の如く、固く干からびた鬼。こうして喋らない限り、屍にも見えてしまう。
「俺たちはな、あの人間という忙しい連中とは違うのだ。無駄な事で時間を潰すのも良かろうよ」
「……まこと、忙しい者たちであったのう」
犬神は、思いを馳せた。
人類がいなくなった後も、地球は様々な敵に脅かされた。
それら敵を、光璃は片っ端から食らった。そして、ここまで大きくなった。
無論、光璃だけではない。あの覚者たちの心を受け継ぎ、戦ってきた者が、他にも大勢いる。この鬼もそうだ。
皆で、この惑星を守り続けている。
「早いものよ」
光璃の頭上で、鬼が空を見上げた。
「俺がなあ犬神よ、おぬしと同じほど老いぼれた力彦を看取ったのが……果たして何万年前になるやら、もはや覚えておらぬ」
「人類を……覚者たちを看取った、という事になるのかのう。わしらは」
思えば地球人類は「太く短く」を宿命づけられた生命体であったと言える。
源素という力によって、いくらかは寿命が延びた、とは言え永遠に栄える事など出来はしない。
あの覚者たちは、強烈な魂の輝きをこの世に残しながら皆、あまりにも短い天寿を全うしていった。
「おぬしらを……見送る事しか、出来なかったのう……」
犬神も、空を見上げた。悲しいほどに晴れ渡った青空を。
遥かな宇宙へと続く青空。
そこから彼ら彼女らが降りて来る、わけではない。
彼ら彼女らの力を、しかし最も強く受け継いだ者が、そこにいた。力強い翼をゆったりと羽ばたかせ、空中に佇んでいる。
「おう……おぬしも、何をしておるのじゃ」
「敵がおらぬか、と思ってな」
彼は言った。
「この星を脅かす者どもと、我らは戦い続けてきた……お前たちから受け継いだ魂、何万年が過ぎようと燃え尽きる事はない。見よ、覚者たち……我を、見よ……」
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地球の模様が、大きく変わった。
海底が隆起して陸地となり、陸地であった場所の多くは海の底に沈んだ。
人類の建造物は、海の底で跡形もなくなった。
かつて彼女が終の住処の如く愛していた博物館も、完全に消えて失せた。
その代わり、竜宮の人魚たちによって巨大な神殿が建造された。
荘厳なる海底神殿。そこに今、彼女はいる。
「光璃の馬鹿が、また落ち着きなく地上を歩き回っているそうですね。この間うっかり大鯰の地底湖に転げ落ちて大騒ぎになったばかりだと言うのに」
僕は訴えかけた。
「うっかり誰か踏み潰してしまう前に大人しくしろと、母上からも叱ってやっては下さいませんか」
『……光璃に踏み潰されるような種族など、もう地球上に生き残っておりませんわ』
数万年間、骨格のみ存在し続けている巨大な海竜。
僕の母である。骨だけの巨体が、僕を見下ろしている。
『あの子の思い、わかって差し上げなさいな悠璃』
「……まあ、あいつは地上の守りの要です。戦いのない時くらいは、好きなようにさせてやりたいところですが」
あれから数万年。僕も光璃も、図体は大きくなった。中身はしかし、卵の中で喧嘩をしていた頃から大して変わっていない。
そんな僕を見下ろし、母は言った。
『海の守りの要たる、お前が……そのような話をするために来たわけでもないのでしょう? 本題にお入りなさいな』
「……海の要は、この方ですよ。母上」
1人の女性が、僕の背中にぼんやりと座り込んでいる。
半ば無理矢理、この人を背中に乗せて、僕はここへ来た。彼女に活を入れる事が出来るのは、この母だけだからだ。
『御機嫌麗しそうですわね、乙姫様』
母は、笑った。
『少しくらい御機嫌を損ねてみましょうか』
「……無駄よ。私の心は、死んだまま……」
千年ほど前、最後の人間であった1人の男が死んだ。玉手箱で無理矢理、寿命を延ばされていたようだが、限界はあったという事だ。
それ以来、乙姫はずっと、この調子である。
「あの方、だけではないわ……皆、いなくなってしまった……」
乙姫の涙が、きらきらと海中を漂う。
「人間に、近付くのではなかった……私たちを置いて行ってしまう、人間たち……好きになど、ならなければ良かった……」

■シナリオ詳細
■成功条件
1.古妖たちとの再会
2.なし
3.なし
2.なし
3.なし
人類滅亡後の地球上で、古妖たちが覚者の皆様に思いを馳せております。
そこで、時空の歪みが起こりました。
皆様にはタイムスリップで、古妖たちの前に出現していただきます。
お好きなように会話をして、旧交を温める等していただければと思います。
それでは、よろしくお願い申し上げます。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:0枚 銅:3枚
金:0枚 銀:0枚 銅:3枚
相談日数
7日
7日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
5/6
5/6
公開日
2019年12月02日
2019年12月02日
■メイン参加者 5人■

●
「むむっ……」
犬神の小さな身体が、巨大な注連縄に腰掛けたまま微かに震える。
光璃の巨体に、褌の如く巻かれた注連縄である。
「どうした、犬神よ」
地響きを立てて歩く光璃の頭上に座り込んだまま、俺は訊いた。
原野を歩き回る巨大な卵。それが、干からびた鬼と毛玉のような犬神を乗せている。
はたから見れば、そんな有様だ。
犬神が、何やら難しい顔をしている。
「気のせいかもわからぬ、が……」
「言ってみろ。おぬしの『気のせい』は大抵、当たる」
虚空の彼方から、あるいは異なる世界から、様々な敵が攻めて来たものだ。
それらを真っ先に感知したのが、この犬神だった。
「攻めて来るのか。また、どこぞの何者かが」
翼ある力強い姿が、ふわりと高度を下げて光璃の傍に滞空する。
「ここに現れるなら、迎え討ってくれようではないか」
ヒルコ。水蛭子。骨なしの肉塊として存在そのものを抹消された怪物が、今ではこの星の、空の守りの要である。
陸の守りの要は、この光璃だ。伊達に図体が大きいわけではない。
その巨体に巻かれた注連縄の上で、犬神は言った。
「大規模なものではない。が……何やらのう、時の流れが乱れておる」
「ほう……虚空、異世界、その次は過去あるいは未来から敵が現れる、とでも」
ヒルコが、にやりと牙を見せた。
「過去から敵が来るならば……我は、あの妖という者どもと戦ってみたいが」
「やめておけ。あれは、恐るべき敵よ」
ここ数万年の間、様々な外敵と戦ってはきた。楽な戦いではなかった。
だが。かつて覚者たちがしていた戦いに比べれば、大したものではない。
「……妖はな、覚者たちの力なくして勝てる相手ではないぞ」
「ふむ。あれらが再び、この世に現れるようであれば大事じゃが……」
犬神の言葉に合わせるように、何かが起こった。
劇的なものではない。ただ、微かに揺れた。地面が、いやこの惑星が……と言うより、この世界が。
ほんの少し、揺れただけだ。
そして、その者たちは現れた。先程からずっと、そこにいたかのように。
「…………のう、鬼仏よ」
犬神が、呆然と言った。
「わしは……いよいよ、耄碌してしもうたかのう……」
「……あるはずのないものが見える、か? ……安心しろ犬神、俺も同じだ」
俺もまた、耄碌し果ててもおかしくないほど長い間、生きてきた。
それは、このヒルコも光璃も同じだ。
4名全員が、頭まで老いぼれて同じ幻覚を見ているのだろうか。
「うぬっ、あやつら……」
ヒルコが逸った。
そして、光璃は暴れ出した。
●
世界が揺れている。『探偵見習い』工藤奏空(CL2000955)は、そう感じた。
「地震だーっ!」
叫び、見回す。
上下に揺れ動く地面の上で、仲間たちは辛うじて立っている。
「み、皆さん! 大丈夫ですかっ!?」
気遣っているのは『陰と陽の橋渡し』賀茂たまき(CL2000994)だ。
全ての人々が、因子を発現させた。とは言え、これほどの地震である。皆、建物の倒壊に遭っても傷一つ負わない肉体を手に入れたわけではないのだ。
翼を広げながら、『エリニュスの翼』如月彩吹(CL2001525)は言った。
「被害が出てるかも知れない……ちょっと行って来るよ」
「ボクも行くよ、いぶちゃん!」
彩吹と共に、『天を舞う雷電の鳳』麻弓紡(CL2000623)が羽ばたいて飛翔する。
じっと見送っていた『天を翔ぶ雷霆の龍』成瀬翔(CL2000063)が、言った。
「……オレたちも、行こうぜ」
随分と久しぶりに彼の声を聞いた、と奏空は思った。
「空飛べなくたって、やれる事いくらでもある。オレたちは、覚者だからな」
「……そうですね。私の馬鹿力が、少しは役に立ちそうです」
たまきが微笑み、そして奏空はまっすぐ翔の目を見据えた。
「翔……大丈夫なんだな? もう」
「……悪い。心配、させちまったかな」
紡は、号泣した。たまきも泣いた。
彩吹は、涙こそ見せなかったが、数日はまともに空を飛ぶ事も出来なかった。
その数日間、奏空は本堂に籠もった。祈り、読経の真似事もしてみた。何にもならなかった、と今は思う。
そして、翔は。
「……こんなんじゃ、あいつに怒られちまう」
「翔……」
「行こうぜ。こういう時のための覚者だもんな」
「はい! 行きましょう、翔さん奏空さん……って……」
たまきが、走り出そうとして固まった。
「あの……ここは、どこなんでしょう……」
「どこ……なんだろうなぁ……」
翔も、呆然としている。
空中では紡と彩吹が、地上の3人と同じような様を晒していた。
「ね、いぶちゃん……疲れてるのかな、ボク……」
起きながら夢を見ているような口調で、紡が呟く。
「……これ、光ちゃんに見えるんだけど……」
「なら私も、同じくらい疲れてるね。戦いの日々だったからね……光璃……ねえ、光璃なの!?」
彩吹が、地震の原因に呼びかけている。
巨大なものが、覚者5人の周囲を走り回っていた。跳ね回っていた。本当に、嬉しそうにだ。
まるで、山がはしゃいでいるかのような光景である。
地響きを立てて駆け跳ねる山に、小さな獣毛の塊がしがみついている。そして声を発する。
「お、おおい。やはり、おぬしらであったか」
犬神だった。そして。
「止まれ! 止まらんか、この大馬鹿者!」
固く干からびた1体の鬼が、暴れる山の頂上で這いつくばり叫んでいる。
奏空は、言葉を投げた。
「カッちゃん! 鰹節のカッちゃん様! 何やってんの、そんな所で……って俺も、ここがどんな所だかわかんないんだけど」
「その呼び名……耳にするのは、何万年ぶりか……」
ようやく大人しくなった、だがうずうずと巨体を揺らしている光璃の頭上で、鬼が言う。
何万年。つまらぬ嘘などつかない鬼が今、確かにそう言ったのだ。
奏空は、見回した。
原野の緑と、空の青色が、地平線によってまっすぐに区切られている。東西南北、全てがそんな光景だ。
その中では、光璃の巨体ですら小さく見えてしまう。まして自分たちなど。
あまりにも小さな自分たちには理解出来ない、あまりにも大きな何事かが起こったのだ、と奏空は思った。
「俺……馬鹿みたいな事、考えてるんだけど……」
そこで口ごもった奏空の代わりに、紡が声を上げた。
「そう……そっか、そうなんだね!」
光璃の、岩壁のような卵殻にすがり付きながら、紡は笑っている。
「もう信じられないくらい長い間、ずっと! ひとり隠れんぼの鬼をやってたんだね光ちゃん。ボクらを、探して……うふふ、あっはははははは見ぃーつけた!」
いや、泣いているのかも知れない、と奏空は思った。
●
「あれから何万年……か」
光璃の頭に腰掛けたまま、彩吹は晴れ渡った空を見上げた。そんな事をして実感が湧くのかどうかも、わからない。
「ま、滅亡してもおかしくないのかな。人類みんなが因子発現した、くらいじゃ……ね」
「ふっふふふふふ、ウン万年のもっふもっふもっふ」
「ちょっと、紡さんばっかり! ずるいです。私も」
彩吹の隣で紡とたまきが、犬神を弄り回している。
自分の座っている巨大な卵殻を、彩吹はそっと撫でた。
「本当……大きくなったねえ、光璃。悠璃やお母さんとは仲良くしてる? 悠璃は……あれから、どうしたのかな」
「あの御仁はのう、今や海の司よ」
紡の腕の中で、犬神が言う。
「乙姫の代わりを、立派に務めておる。我らにとっても、まあ指導者と言って良いのう」
「乙姫様は……」
たまきが、そこで絶句した。
紡は、犬神を揉みくちゃにした。
「乙ちゃんは……ねえ、どうかしちゃったの? わん神さまー」
「し、心配は要らぬ。健在じゃ、生きておるよ。ただのう」
「あの男が死んだ。千年ほど前にな」
奏空と話し込んでいた鬼仏が、こちらを見上げて言った。
「最後の人間であった。この星に、もはや人間は1人もおらぬ……いつかいなくなってしまう人間など、愛するのではなかった。乙姫はな、そう言っておる」
ふわり、と空から何かが降りて来た。翼ある、力強い姿。
戦いの天使。彩吹は、そんな事を思った。
それは、翔の眼前に着地した。
「行ってやれ。乙姫のもとへ」
「ヒルコ……」
翔が、名を口にする。
ヒルコが言った。
「どうした、成瀬翔……いや、わかる。お前たちは、あの戦いからまだ間もないのだな」
「お前らは、あの戦いの後も……人間がいなくなった後も、頑張ってくれてるんだよな」
翔が、俯き加減に微笑んだ。それきり、何も言えずにいる。
彩吹は飛翔し、ヒルコの傍らに降り立った。
「……どう? なりたい自分になれた、かな。ちなみに私はまだ全然」
「お前たちのおかげで、我は今も存在している。が、それが精一杯よ」
「友達、出来たんだね。それだけでも私は嬉しいよ」
言いつつ彩吹は、意を決した。
「……ヒルコっていう名前に、思い入れはある? 嫌じゃなかったら、なんだけど……光璃と悠璃みたいに、君にも名前を贈りたい。ずっと考えていたんだ」
「ほう」
「……珠璃。どうかな?」
「宝物、か……汚してはならぬ宝。辱めてはならぬ名前よ。ふふふ、これでもはや無様な事は出来なくなってしまったな」
「大仰に考える事はない。君が幸せに生きてくれたら、それでいいんだよ」
強靭な細腕と翼で、彩吹はヒルコ……珠璃を、軽く抱いた。
「……久しぶりに、手合わせ。しようぜ、珠璃」
俯いていた翔が、顔を上げた。
「オレに活、入れてくれ」
●
海中なのに、呼吸が出来る。歩く事も出来る。
竜宮なのだと、たまきは思った。
荘厳なる、海底の神殿である。竜宮そのものではないにせよ、竜宮と同じく、地上人を水中へと迎え入れるための力が働いている。
迎え入れられた覚者5名を、神殿の主が見下ろしている。深い洞窟のような眼窩で、じっと。
『……無駄に長く、この世に存在し続ける。それも悪くはありませんわね』
「海骨ちゃん……」
紡の声が、微かに震える。
海竜が、微笑んだようだった。
『その名で呼んでいただける日を、再び迎える事が出来たのですもの……本当に、夢のよう』
「それは、こちらの台詞……」
たまきの涙が、水中に漂った。
「久遠の時を、あれから皆さんは……なのに私たちの事を、覚えていて下さるなんて……」
「忘れるはずが、ありませんよ。あなた方の事を」
巨大・雄大なるものが、そこにいた。光璃と共に、海竜の左右に控えている。
「僕は……再び、あなたたちに会うのが恐かった。この悠璃という名前を……汚しては、いないだろうかと……」
「珠璃と同じ事を、言うんだね」
彩吹が、ふわりと飛翔し、あるいは泳いで、悠璃の長い頸部に抱き付いてゆく。
「本当にね、君たちが幸せでいてくれたら、それでいいんだよ……悠璃、会いたかった」
「……悠璃も光璃も、でっかくなったなあ。しかし」
翔が、片手を庇にしている。珠璃との手合わせで、いくらかは元気を取り戻したのか。
「一体、何食ってそんなにでっかくなったんだ?」
「様々な敵を、な」
鬼仏が、そんな事を言いながら、小さな何かを掌に載せている。
仄かに輝く、何枚もの花びら……いや、桜貝である。
紡が、目を見開いた。
「それ……」
「浦島翁と一緒に……美しい桜貝ばかりを、探してくれたんじゃのう」
犬神が、豊かな獣毛の内側から、同じものを取り出した。
花の形に繋げられた、桜貝の御守。
ぼんやりと光るそれを、珠璃も片手でかざしている。
「これのおかげで、我らは戦い続ける事が出来た」
「あなたたちの想いが、様々な敵から僕たちを守ってくれた。
悠璃の眼前に、光璃の頭上に、同じく桜貝の花が浮かんだ。
「そう……確か、そうだったね……」
奏空が言う。
「悠璃には直接、渡せなかったから……浦島さんに、託しておいたんだっけ」
「僕も、あなたたちに想いを伝えたい……」
悠璃が、鰭状の前肢で涙を拭っている。
「なのに、駄目だな……涙しか、出て来ない……」
「悠璃さん……」
たまきも同じだ。言葉が、嗚咽で潰れてしまう。
代わりのように、紡が叫んだ。
「悠ちゃん!」
羽ばたき、泳ぎ、悠璃の首にしがみ付く。
「すごい、怪獣みたい! 大っきくなっちゃって……」
そうしながら紡は、涙の煌めきを水中に散らせていた。
「悠ちゃん! あのね、あの子が……あの子がね、悠ちゃん光ちゃんの名前、一緒に考えた……あの子が、あの子がねえ……うぁあああああ、わあああああああああん!」
紡の号泣が悲痛に響き渡る中。
奏空が、傍の鬼仏に問いかけた。
「カッちゃん……力彦君の事、聞いてもいいかな……」
「偏屈爺いに成り果てて死んだ。まったく、百年そこそこしか生きておらぬと言うのに」
鬼仏が、苦笑したようだ。
「あっという間に、いなくなってしまうのだな。力彦も、お前たちも……また会えるとは思わなかったが」
「俺たちに、ずっと会いたかった?」
奏空が、いくらか悪戯っぽく笑った。
「そんなカッちゃんたちの想いが、奇跡を起こして! 俺たち、こうして飛んで来たのかもね!」
「せいぜいほざけ。絞め殺される前に、な」
鬼仏の謎めいた言葉の意味は直後、明らかになった。
一瞬、たまきは息が詰まった。
大蛇のようなものが、凄まじい力で身体に巻き付いている。
吸盤のある、触手だった。
奏空も、彩吹も、翔も紡も、巨大な頭足類の触手に巻き取られていた。
「……何を……しているのよ、あなたたちはぁああ……」
蛸の足、だけではない。
海蛇を生やし、蟹の鋏を振り立て、巻貝を猛回転させながら、乙姫は泣き叫んでいた。
「何故、ここにいるの? 何故、現れたの!? 私にもう1度、辛い思いをさせるため!? 許さない! ゆるさない! ゆるさないんだからああああああッ!」
叫ぶ乙姫の胸元で、桜貝の花が発光している。
蛸の足に捕われたまま、紡が涙を拭い、微笑む。
「……そうだったね。思い出したよ……こういう愛し方しちゃう子だったねえ、乙ちゃんってば」
「乙姫様……それほどまでに、私たちを……人を、愛して……」
ぐるぐる巻きに拘束されたまま、たまきは自ら、乙姫に抱き付いて行った。
「愛して、下さって……」
「やめて……やめてよ……」
たまきの強靭な細腕の中で、乙姫が泣き震える。
「そんな事をされたら私……あなたたちを、手放せない……2度も、あなたたちを失ったら私……どうなってしまうか、わからない……」
たまきは何も言わず、乙姫の触手の先端に、梅結びの組紐を巻いた。
「何故……」
乙姫が、泣き崩れる。
「あなたたちは、何故……すぐに、いなくなってしまうの……?」
「……そう、だな。人は、いなくなっちまう……」
翔が、呟いた。
「辛いよな……泣くな、なんて……本当は、言えねえのかも知れねえ」
「いなくなったりは、しないよ」
巻き付く吸盤触手を愛おしげに撫でながら、彩吹が言った。
「だって皆、私たちの事を覚えていてくれた。ずっと、思っていてくれた……だから、あの子だって、いなくなったりはしない」
「皆さんの記憶の中に、想いの中に、私たちはずっと生きています」
たまきは泣きながら無理矢理、微笑んだ。
「どれだけ時が、過ぎようと……」
「人類は、いつかきっと滅びる運命だったんだと思う。源素の力なんて、あってもなくても」
奏空が言った。
「だけどね。俺たちの魂は、きっとどこかにあるよ。この時代も」
「……光璃みたいな、謎の生き物に生まれ変わってたりしてね。私も、たまきも奏空も翔も、紡も。ふふっ、君たちの誰かが気付いてくれるかな」
「ボクね! わん神様みたいな、もふもふ系の生き物がいい!」
先程まで号泣していた紡が、明るく笑う。
彼女はこれでいいのだ、とたまきは思う。時折、あの少女の事を思って泣く。思いきり泣く。その後で笑う。紡は、それでいい。
「生命、ではないかも知れません」
たまきは言った。
「風、雨、あるいは虹かも知れません。どんな形であっても、必ず皆さんに伝えに来ます。こんにちは、ハロー……ここにいるよ、と」
「……あの方と……同じ事を、言うのね……」
乙姫は、いくらか落ち着いたようではある。
「だから……私はね、あなたたち人間の……そういうところが……っ」
「……オレ、覚えてるぜ乙姫様」
じっと乙姫を見据え、翔が言った。
「初めて会った時の、美人なのに迫力のある笑顔……また、あんなふうに笑ってみようじゃねーか」
力強く、翔は微笑んでいる。
泣かない。翔は、それで良いのだ。
『さあさ、宴にいたしましょう』
海竜が告げた。
『人間の方々が食べられるもの、飲めるお酒、この惑星に現存しているかどうかわかりませんけれど……あなた方なら、大抵のものは大丈夫ですわね』
「おう大丈夫だぜ! ……たぶん」
翔が、続いて紡が言った。
「わあい、飲めや歌えの大宴会。ボクとたまちゃんの、とっておきの歌を披露しちゃうよー」
「ちなみに、お酒が飲めるのは2人だけなんだ。申し訳ない」
「うふふ。泥酔いぶちゃんの恐ろしさをみんな知るがいい」
すでに、宴の雰囲気である。
そんな中、奏空が言った。
「カッちゃんは……俺たちの、その後とかも……」
「無論、知っておる。聞きたいか」
「聞きたい、けど聞かない」
奏空は答えた。
「俺は、自分の未来……信じて、進むから」
奏空が一瞬、たまきの方を見た。
たまきは、今はとりあえず気付かぬふりをしておく事にした。
これからの事は自分次第、奏空次第。
誰も、わかりはしないのだ。
「むむっ……」
犬神の小さな身体が、巨大な注連縄に腰掛けたまま微かに震える。
光璃の巨体に、褌の如く巻かれた注連縄である。
「どうした、犬神よ」
地響きを立てて歩く光璃の頭上に座り込んだまま、俺は訊いた。
原野を歩き回る巨大な卵。それが、干からびた鬼と毛玉のような犬神を乗せている。
はたから見れば、そんな有様だ。
犬神が、何やら難しい顔をしている。
「気のせいかもわからぬ、が……」
「言ってみろ。おぬしの『気のせい』は大抵、当たる」
虚空の彼方から、あるいは異なる世界から、様々な敵が攻めて来たものだ。
それらを真っ先に感知したのが、この犬神だった。
「攻めて来るのか。また、どこぞの何者かが」
翼ある力強い姿が、ふわりと高度を下げて光璃の傍に滞空する。
「ここに現れるなら、迎え討ってくれようではないか」
ヒルコ。水蛭子。骨なしの肉塊として存在そのものを抹消された怪物が、今ではこの星の、空の守りの要である。
陸の守りの要は、この光璃だ。伊達に図体が大きいわけではない。
その巨体に巻かれた注連縄の上で、犬神は言った。
「大規模なものではない。が……何やらのう、時の流れが乱れておる」
「ほう……虚空、異世界、その次は過去あるいは未来から敵が現れる、とでも」
ヒルコが、にやりと牙を見せた。
「過去から敵が来るならば……我は、あの妖という者どもと戦ってみたいが」
「やめておけ。あれは、恐るべき敵よ」
ここ数万年の間、様々な外敵と戦ってはきた。楽な戦いではなかった。
だが。かつて覚者たちがしていた戦いに比べれば、大したものではない。
「……妖はな、覚者たちの力なくして勝てる相手ではないぞ」
「ふむ。あれらが再び、この世に現れるようであれば大事じゃが……」
犬神の言葉に合わせるように、何かが起こった。
劇的なものではない。ただ、微かに揺れた。地面が、いやこの惑星が……と言うより、この世界が。
ほんの少し、揺れただけだ。
そして、その者たちは現れた。先程からずっと、そこにいたかのように。
「…………のう、鬼仏よ」
犬神が、呆然と言った。
「わしは……いよいよ、耄碌してしもうたかのう……」
「……あるはずのないものが見える、か? ……安心しろ犬神、俺も同じだ」
俺もまた、耄碌し果ててもおかしくないほど長い間、生きてきた。
それは、このヒルコも光璃も同じだ。
4名全員が、頭まで老いぼれて同じ幻覚を見ているのだろうか。
「うぬっ、あやつら……」
ヒルコが逸った。
そして、光璃は暴れ出した。
●
世界が揺れている。『探偵見習い』工藤奏空(CL2000955)は、そう感じた。
「地震だーっ!」
叫び、見回す。
上下に揺れ動く地面の上で、仲間たちは辛うじて立っている。
「み、皆さん! 大丈夫ですかっ!?」
気遣っているのは『陰と陽の橋渡し』賀茂たまき(CL2000994)だ。
全ての人々が、因子を発現させた。とは言え、これほどの地震である。皆、建物の倒壊に遭っても傷一つ負わない肉体を手に入れたわけではないのだ。
翼を広げながら、『エリニュスの翼』如月彩吹(CL2001525)は言った。
「被害が出てるかも知れない……ちょっと行って来るよ」
「ボクも行くよ、いぶちゃん!」
彩吹と共に、『天を舞う雷電の鳳』麻弓紡(CL2000623)が羽ばたいて飛翔する。
じっと見送っていた『天を翔ぶ雷霆の龍』成瀬翔(CL2000063)が、言った。
「……オレたちも、行こうぜ」
随分と久しぶりに彼の声を聞いた、と奏空は思った。
「空飛べなくたって、やれる事いくらでもある。オレたちは、覚者だからな」
「……そうですね。私の馬鹿力が、少しは役に立ちそうです」
たまきが微笑み、そして奏空はまっすぐ翔の目を見据えた。
「翔……大丈夫なんだな? もう」
「……悪い。心配、させちまったかな」
紡は、号泣した。たまきも泣いた。
彩吹は、涙こそ見せなかったが、数日はまともに空を飛ぶ事も出来なかった。
その数日間、奏空は本堂に籠もった。祈り、読経の真似事もしてみた。何にもならなかった、と今は思う。
そして、翔は。
「……こんなんじゃ、あいつに怒られちまう」
「翔……」
「行こうぜ。こういう時のための覚者だもんな」
「はい! 行きましょう、翔さん奏空さん……って……」
たまきが、走り出そうとして固まった。
「あの……ここは、どこなんでしょう……」
「どこ……なんだろうなぁ……」
翔も、呆然としている。
空中では紡と彩吹が、地上の3人と同じような様を晒していた。
「ね、いぶちゃん……疲れてるのかな、ボク……」
起きながら夢を見ているような口調で、紡が呟く。
「……これ、光ちゃんに見えるんだけど……」
「なら私も、同じくらい疲れてるね。戦いの日々だったからね……光璃……ねえ、光璃なの!?」
彩吹が、地震の原因に呼びかけている。
巨大なものが、覚者5人の周囲を走り回っていた。跳ね回っていた。本当に、嬉しそうにだ。
まるで、山がはしゃいでいるかのような光景である。
地響きを立てて駆け跳ねる山に、小さな獣毛の塊がしがみついている。そして声を発する。
「お、おおい。やはり、おぬしらであったか」
犬神だった。そして。
「止まれ! 止まらんか、この大馬鹿者!」
固く干からびた1体の鬼が、暴れる山の頂上で這いつくばり叫んでいる。
奏空は、言葉を投げた。
「カッちゃん! 鰹節のカッちゃん様! 何やってんの、そんな所で……って俺も、ここがどんな所だかわかんないんだけど」
「その呼び名……耳にするのは、何万年ぶりか……」
ようやく大人しくなった、だがうずうずと巨体を揺らしている光璃の頭上で、鬼が言う。
何万年。つまらぬ嘘などつかない鬼が今、確かにそう言ったのだ。
奏空は、見回した。
原野の緑と、空の青色が、地平線によってまっすぐに区切られている。東西南北、全てがそんな光景だ。
その中では、光璃の巨体ですら小さく見えてしまう。まして自分たちなど。
あまりにも小さな自分たちには理解出来ない、あまりにも大きな何事かが起こったのだ、と奏空は思った。
「俺……馬鹿みたいな事、考えてるんだけど……」
そこで口ごもった奏空の代わりに、紡が声を上げた。
「そう……そっか、そうなんだね!」
光璃の、岩壁のような卵殻にすがり付きながら、紡は笑っている。
「もう信じられないくらい長い間、ずっと! ひとり隠れんぼの鬼をやってたんだね光ちゃん。ボクらを、探して……うふふ、あっはははははは見ぃーつけた!」
いや、泣いているのかも知れない、と奏空は思った。
●
「あれから何万年……か」
光璃の頭に腰掛けたまま、彩吹は晴れ渡った空を見上げた。そんな事をして実感が湧くのかどうかも、わからない。
「ま、滅亡してもおかしくないのかな。人類みんなが因子発現した、くらいじゃ……ね」
「ふっふふふふふ、ウン万年のもっふもっふもっふ」
「ちょっと、紡さんばっかり! ずるいです。私も」
彩吹の隣で紡とたまきが、犬神を弄り回している。
自分の座っている巨大な卵殻を、彩吹はそっと撫でた。
「本当……大きくなったねえ、光璃。悠璃やお母さんとは仲良くしてる? 悠璃は……あれから、どうしたのかな」
「あの御仁はのう、今や海の司よ」
紡の腕の中で、犬神が言う。
「乙姫の代わりを、立派に務めておる。我らにとっても、まあ指導者と言って良いのう」
「乙姫様は……」
たまきが、そこで絶句した。
紡は、犬神を揉みくちゃにした。
「乙ちゃんは……ねえ、どうかしちゃったの? わん神さまー」
「し、心配は要らぬ。健在じゃ、生きておるよ。ただのう」
「あの男が死んだ。千年ほど前にな」
奏空と話し込んでいた鬼仏が、こちらを見上げて言った。
「最後の人間であった。この星に、もはや人間は1人もおらぬ……いつかいなくなってしまう人間など、愛するのではなかった。乙姫はな、そう言っておる」
ふわり、と空から何かが降りて来た。翼ある、力強い姿。
戦いの天使。彩吹は、そんな事を思った。
それは、翔の眼前に着地した。
「行ってやれ。乙姫のもとへ」
「ヒルコ……」
翔が、名を口にする。
ヒルコが言った。
「どうした、成瀬翔……いや、わかる。お前たちは、あの戦いからまだ間もないのだな」
「お前らは、あの戦いの後も……人間がいなくなった後も、頑張ってくれてるんだよな」
翔が、俯き加減に微笑んだ。それきり、何も言えずにいる。
彩吹は飛翔し、ヒルコの傍らに降り立った。
「……どう? なりたい自分になれた、かな。ちなみに私はまだ全然」
「お前たちのおかげで、我は今も存在している。が、それが精一杯よ」
「友達、出来たんだね。それだけでも私は嬉しいよ」
言いつつ彩吹は、意を決した。
「……ヒルコっていう名前に、思い入れはある? 嫌じゃなかったら、なんだけど……光璃と悠璃みたいに、君にも名前を贈りたい。ずっと考えていたんだ」
「ほう」
「……珠璃。どうかな?」
「宝物、か……汚してはならぬ宝。辱めてはならぬ名前よ。ふふふ、これでもはや無様な事は出来なくなってしまったな」
「大仰に考える事はない。君が幸せに生きてくれたら、それでいいんだよ」
強靭な細腕と翼で、彩吹はヒルコ……珠璃を、軽く抱いた。
「……久しぶりに、手合わせ。しようぜ、珠璃」
俯いていた翔が、顔を上げた。
「オレに活、入れてくれ」
●
海中なのに、呼吸が出来る。歩く事も出来る。
竜宮なのだと、たまきは思った。
荘厳なる、海底の神殿である。竜宮そのものではないにせよ、竜宮と同じく、地上人を水中へと迎え入れるための力が働いている。
迎え入れられた覚者5名を、神殿の主が見下ろしている。深い洞窟のような眼窩で、じっと。
『……無駄に長く、この世に存在し続ける。それも悪くはありませんわね』
「海骨ちゃん……」
紡の声が、微かに震える。
海竜が、微笑んだようだった。
『その名で呼んでいただける日を、再び迎える事が出来たのですもの……本当に、夢のよう』
「それは、こちらの台詞……」
たまきの涙が、水中に漂った。
「久遠の時を、あれから皆さんは……なのに私たちの事を、覚えていて下さるなんて……」
「忘れるはずが、ありませんよ。あなた方の事を」
巨大・雄大なるものが、そこにいた。光璃と共に、海竜の左右に控えている。
「僕は……再び、あなたたちに会うのが恐かった。この悠璃という名前を……汚しては、いないだろうかと……」
「珠璃と同じ事を、言うんだね」
彩吹が、ふわりと飛翔し、あるいは泳いで、悠璃の長い頸部に抱き付いてゆく。
「本当にね、君たちが幸せでいてくれたら、それでいいんだよ……悠璃、会いたかった」
「……悠璃も光璃も、でっかくなったなあ。しかし」
翔が、片手を庇にしている。珠璃との手合わせで、いくらかは元気を取り戻したのか。
「一体、何食ってそんなにでっかくなったんだ?」
「様々な敵を、な」
鬼仏が、そんな事を言いながら、小さな何かを掌に載せている。
仄かに輝く、何枚もの花びら……いや、桜貝である。
紡が、目を見開いた。
「それ……」
「浦島翁と一緒に……美しい桜貝ばかりを、探してくれたんじゃのう」
犬神が、豊かな獣毛の内側から、同じものを取り出した。
花の形に繋げられた、桜貝の御守。
ぼんやりと光るそれを、珠璃も片手でかざしている。
「これのおかげで、我らは戦い続ける事が出来た」
「あなたたちの想いが、様々な敵から僕たちを守ってくれた。
悠璃の眼前に、光璃の頭上に、同じく桜貝の花が浮かんだ。
「そう……確か、そうだったね……」
奏空が言う。
「悠璃には直接、渡せなかったから……浦島さんに、託しておいたんだっけ」
「僕も、あなたたちに想いを伝えたい……」
悠璃が、鰭状の前肢で涙を拭っている。
「なのに、駄目だな……涙しか、出て来ない……」
「悠璃さん……」
たまきも同じだ。言葉が、嗚咽で潰れてしまう。
代わりのように、紡が叫んだ。
「悠ちゃん!」
羽ばたき、泳ぎ、悠璃の首にしがみ付く。
「すごい、怪獣みたい! 大っきくなっちゃって……」
そうしながら紡は、涙の煌めきを水中に散らせていた。
「悠ちゃん! あのね、あの子が……あの子がね、悠ちゃん光ちゃんの名前、一緒に考えた……あの子が、あの子がねえ……うぁあああああ、わあああああああああん!」
紡の号泣が悲痛に響き渡る中。
奏空が、傍の鬼仏に問いかけた。
「カッちゃん……力彦君の事、聞いてもいいかな……」
「偏屈爺いに成り果てて死んだ。まったく、百年そこそこしか生きておらぬと言うのに」
鬼仏が、苦笑したようだ。
「あっという間に、いなくなってしまうのだな。力彦も、お前たちも……また会えるとは思わなかったが」
「俺たちに、ずっと会いたかった?」
奏空が、いくらか悪戯っぽく笑った。
「そんなカッちゃんたちの想いが、奇跡を起こして! 俺たち、こうして飛んで来たのかもね!」
「せいぜいほざけ。絞め殺される前に、な」
鬼仏の謎めいた言葉の意味は直後、明らかになった。
一瞬、たまきは息が詰まった。
大蛇のようなものが、凄まじい力で身体に巻き付いている。
吸盤のある、触手だった。
奏空も、彩吹も、翔も紡も、巨大な頭足類の触手に巻き取られていた。
「……何を……しているのよ、あなたたちはぁああ……」
蛸の足、だけではない。
海蛇を生やし、蟹の鋏を振り立て、巻貝を猛回転させながら、乙姫は泣き叫んでいた。
「何故、ここにいるの? 何故、現れたの!? 私にもう1度、辛い思いをさせるため!? 許さない! ゆるさない! ゆるさないんだからああああああッ!」
叫ぶ乙姫の胸元で、桜貝の花が発光している。
蛸の足に捕われたまま、紡が涙を拭い、微笑む。
「……そうだったね。思い出したよ……こういう愛し方しちゃう子だったねえ、乙ちゃんってば」
「乙姫様……それほどまでに、私たちを……人を、愛して……」
ぐるぐる巻きに拘束されたまま、たまきは自ら、乙姫に抱き付いて行った。
「愛して、下さって……」
「やめて……やめてよ……」
たまきの強靭な細腕の中で、乙姫が泣き震える。
「そんな事をされたら私……あなたたちを、手放せない……2度も、あなたたちを失ったら私……どうなってしまうか、わからない……」
たまきは何も言わず、乙姫の触手の先端に、梅結びの組紐を巻いた。
「何故……」
乙姫が、泣き崩れる。
「あなたたちは、何故……すぐに、いなくなってしまうの……?」
「……そう、だな。人は、いなくなっちまう……」
翔が、呟いた。
「辛いよな……泣くな、なんて……本当は、言えねえのかも知れねえ」
「いなくなったりは、しないよ」
巻き付く吸盤触手を愛おしげに撫でながら、彩吹が言った。
「だって皆、私たちの事を覚えていてくれた。ずっと、思っていてくれた……だから、あの子だって、いなくなったりはしない」
「皆さんの記憶の中に、想いの中に、私たちはずっと生きています」
たまきは泣きながら無理矢理、微笑んだ。
「どれだけ時が、過ぎようと……」
「人類は、いつかきっと滅びる運命だったんだと思う。源素の力なんて、あってもなくても」
奏空が言った。
「だけどね。俺たちの魂は、きっとどこかにあるよ。この時代も」
「……光璃みたいな、謎の生き物に生まれ変わってたりしてね。私も、たまきも奏空も翔も、紡も。ふふっ、君たちの誰かが気付いてくれるかな」
「ボクね! わん神様みたいな、もふもふ系の生き物がいい!」
先程まで号泣していた紡が、明るく笑う。
彼女はこれでいいのだ、とたまきは思う。時折、あの少女の事を思って泣く。思いきり泣く。その後で笑う。紡は、それでいい。
「生命、ではないかも知れません」
たまきは言った。
「風、雨、あるいは虹かも知れません。どんな形であっても、必ず皆さんに伝えに来ます。こんにちは、ハロー……ここにいるよ、と」
「……あの方と……同じ事を、言うのね……」
乙姫は、いくらか落ち着いたようではある。
「だから……私はね、あなたたち人間の……そういうところが……っ」
「……オレ、覚えてるぜ乙姫様」
じっと乙姫を見据え、翔が言った。
「初めて会った時の、美人なのに迫力のある笑顔……また、あんなふうに笑ってみようじゃねーか」
力強く、翔は微笑んでいる。
泣かない。翔は、それで良いのだ。
『さあさ、宴にいたしましょう』
海竜が告げた。
『人間の方々が食べられるもの、飲めるお酒、この惑星に現存しているかどうかわかりませんけれど……あなた方なら、大抵のものは大丈夫ですわね』
「おう大丈夫だぜ! ……たぶん」
翔が、続いて紡が言った。
「わあい、飲めや歌えの大宴会。ボクとたまちゃんの、とっておきの歌を披露しちゃうよー」
「ちなみに、お酒が飲めるのは2人だけなんだ。申し訳ない」
「うふふ。泥酔いぶちゃんの恐ろしさをみんな知るがいい」
すでに、宴の雰囲気である。
そんな中、奏空が言った。
「カッちゃんは……俺たちの、その後とかも……」
「無論、知っておる。聞きたいか」
「聞きたい、けど聞かない」
奏空は答えた。
「俺は、自分の未来……信じて、進むから」
奏空が一瞬、たまきの方を見た。
たまきは、今はとりあえず気付かぬふりをしておく事にした。
これからの事は自分次第、奏空次第。
誰も、わかりはしないのだ。
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし
