ママはカンガルー
●
結婚とは何か。
それは、結婚前の自分とは別の人間に変わる事である。
結婚前の自分を、捨て去る事である。
この山に、だから俺は、それまでの自分を捨てた。埋めた。
そして、小百合と結ばれたのだ。
小百合は、社長の娘だった。
社長が、俺の仕事を評価して、親族に迎え入れてくれたという事だ。
躊躇う理由など、何もなかった。
小百合との新婚生活は申し分のないもので、仕事も順風満帆である。何しろ俺は社長の婿なのだ。
最高に充実しているはずの俺が今、何故こんな所にいるのか。
某県の、山中である。
ここには俺の、過去の自分の全て、と言うべきものが埋まっている。
小百合と結ばれるために、どうしても捨てなければならなかったものだ。
それが、掘り返されてはいないか。野犬に、猪に、熊に、あるいは俺の失脚を狙う連中に。
確認しなければならない。
突然そんな気分になったのは、夢を見たからだ。
夢の中で、淳子が幸せそうに笑っていた。懐かしい夢だった。
かつての俺にとっては、淳子の幸せだけが全てだったのだ。
淳子とは、同棲していただけだ。結婚するのは、俺がもう少し他人に誇れる身分になってから。そう決めていた。
結婚はしていなかったが、淳子はやがて俺の子を宿した。
2人で名前を考えた。『晶』に決めた。男の子にも女の子にも付けられる名前だ。
俺は、がむしゃらに働いた。手当の付かない残業も、苦にならなかった。
会社に認められる。
淳子と晶との新しい生活のためには、まずそれが必要だからだ。
淳子と晶が、俺にとっての全てだった。この頃は。
俺は、会社の人間とは一切、プライベートな親交を持たなかった。人脈作りに活かせる程度の付き合いはあったが、私生活にまで踏み込んで来られるのは御免だった。
淳子の事は、だから誰も知らなかったはずである。当然、社長も。
その社長が、俺の働きぶりを認めてくれた。そして令嬢の小百合と引き合わせてくれた。
彼女を一目見た瞬間。それまで自分の全てであった淳子と晶が、俺にとって重荷となった。
だから俺は、過去の自分を処分する事に決めたのだ。
処分したものを、この山に埋めた。そのはずだった。
山の中で、しかし俺は立ち尽くしていた。
淳子が、そこにいたからだ。生まれたばかりの晶を抱いて、微笑んでいる。
俺は、後退りをする事も出来なくなっていた。
●
男の顔面が、驚愕に引きつり、恐怖に歪み、そのまま硬直して青ざめ、血の気を失ってゆく。
女の、腐敗した全身からは、無数の茸が生えて胞子を噴いている。猛毒の胞子が、煙の如く漂っているのだ。
その毒煙の中で、男は幻覚を見ているのかも知れなかった。
茸の群れを押しのける感じに生え伸びた何匹もの蟲が、男の全身に突き刺さっている。体内に潜り込み、臓物を食い荒らしている。
男は、血を吐きながら悲鳴を上げた。その口から、蟲が現れた。
茸を、蟲を、全身から生やした女の腐乱死体。
その下腹部からは、同じく腐敗した赤ん坊が顔を出し、愉しそうに笑っている。父親が食いちぎられてゆく様を、見物しながらだ。
毒煙けぶる山中に、赤ん坊の無邪気な笑い声が流れ渡った。
結婚とは何か。
それは、結婚前の自分とは別の人間に変わる事である。
結婚前の自分を、捨て去る事である。
この山に、だから俺は、それまでの自分を捨てた。埋めた。
そして、小百合と結ばれたのだ。
小百合は、社長の娘だった。
社長が、俺の仕事を評価して、親族に迎え入れてくれたという事だ。
躊躇う理由など、何もなかった。
小百合との新婚生活は申し分のないもので、仕事も順風満帆である。何しろ俺は社長の婿なのだ。
最高に充実しているはずの俺が今、何故こんな所にいるのか。
某県の、山中である。
ここには俺の、過去の自分の全て、と言うべきものが埋まっている。
小百合と結ばれるために、どうしても捨てなければならなかったものだ。
それが、掘り返されてはいないか。野犬に、猪に、熊に、あるいは俺の失脚を狙う連中に。
確認しなければならない。
突然そんな気分になったのは、夢を見たからだ。
夢の中で、淳子が幸せそうに笑っていた。懐かしい夢だった。
かつての俺にとっては、淳子の幸せだけが全てだったのだ。
淳子とは、同棲していただけだ。結婚するのは、俺がもう少し他人に誇れる身分になってから。そう決めていた。
結婚はしていなかったが、淳子はやがて俺の子を宿した。
2人で名前を考えた。『晶』に決めた。男の子にも女の子にも付けられる名前だ。
俺は、がむしゃらに働いた。手当の付かない残業も、苦にならなかった。
会社に認められる。
淳子と晶との新しい生活のためには、まずそれが必要だからだ。
淳子と晶が、俺にとっての全てだった。この頃は。
俺は、会社の人間とは一切、プライベートな親交を持たなかった。人脈作りに活かせる程度の付き合いはあったが、私生活にまで踏み込んで来られるのは御免だった。
淳子の事は、だから誰も知らなかったはずである。当然、社長も。
その社長が、俺の働きぶりを認めてくれた。そして令嬢の小百合と引き合わせてくれた。
彼女を一目見た瞬間。それまで自分の全てであった淳子と晶が、俺にとって重荷となった。
だから俺は、過去の自分を処分する事に決めたのだ。
処分したものを、この山に埋めた。そのはずだった。
山の中で、しかし俺は立ち尽くしていた。
淳子が、そこにいたからだ。生まれたばかりの晶を抱いて、微笑んでいる。
俺は、後退りをする事も出来なくなっていた。
●
男の顔面が、驚愕に引きつり、恐怖に歪み、そのまま硬直して青ざめ、血の気を失ってゆく。
女の、腐敗した全身からは、無数の茸が生えて胞子を噴いている。猛毒の胞子が、煙の如く漂っているのだ。
その毒煙の中で、男は幻覚を見ているのかも知れなかった。
茸の群れを押しのける感じに生え伸びた何匹もの蟲が、男の全身に突き刺さっている。体内に潜り込み、臓物を食い荒らしている。
男は、血を吐きながら悲鳴を上げた。その口から、蟲が現れた。
茸を、蟲を、全身から生やした女の腐乱死体。
その下腹部からは、同じく腐敗した赤ん坊が顔を出し、愉しそうに笑っている。父親が食いちぎられてゆく様を、見物しながらだ。
毒煙けぶる山中に、赤ん坊の無邪気な笑い声が流れ渡った。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.妖の討伐
2.なし
3.なし
2.なし
3.なし
とある山中、殺されて埋められた女性の屍が妖となり、まずは殺害犯である1人の男を殺しました。そのまま山を下り、人里へ向かおうとしております。
人死に被害が拡大する前に、これを討ち滅ぼして下さい。
●中山淳子
享年30歳。生物系ランク3、1体。
妊娠していた女性の腐乱死体。全身から無数の毒茸が生えており、これらが猛毒の胞子を噴射してきます(特遠全、BS猛毒&混乱)。
また屍肉を食らう様々な虫が無数、今や妖の肉体の一部となっており、人体を食い破る触手と化して覚者の皆様を襲います(物遠、単または列または全)。
腹部からは赤ん坊が現れており、常に笑っていますが当然、生きてはいません。これも今や妖の肉体の一部で時折、牙を剥いて食いついてきます(物近単)。
場所は深夜の山中。オープニングに出て来た男は、皆様の到着時にはすでに殺されております。
それでは、よろしくお願い申し上げます。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
8日
8日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
4/6
4/6
公開日
2019年01月05日
2019年01月05日
■メイン参加者 4人■

●
「やあ……寂しかったよ、澄香」
アクリル板の向こうで、砂原美優が微笑んでいる。
「とびっきりのお説教、また聞かせてくれるのかな?」
「もう言葉は要らないでしょう、美優さん。貴女は、自力で立ち直らなければ駄目ですよ、もう」
微笑みながら『居待ち月』天野澄香(CL2000194)は、伴って来た3人の仲間を紹介した。『探偵見習い』工藤奏空(CL2000955)、桂木日那乃(CL2000941)、『エリニュスの翼』如月彩吹(CL2001525)である。
「いぶちゃんと奏空くんは知ってますよね、美優さんは。この子だけ紹介しましょう、桂木日那乃ちゃんです」
「よろしく……」
「ふん、素質ありそうな子じゃないの」
美優は言った。
「覚者として、ひたすら精進するといい。男と遊んだりせずに、ね……出来る女の子って、男が絡んだ途端ダメになりがちだからさ」
「あの、砂原さん」
奏空が、恐る恐る言った。
「やっぱり、その……まだ許せませんか? 男とか、結婚とか」
「澄香は立ち直れって言うけどね……あたしは駄目。男を見ると、ぶち殺したくなる。こんなアクリル板は叩き割って、今すぐお前の首を刎ねてやりたいくらいさ。坊や」
「それを実行に移さないだけ、立ち直っていると思いますよ。美優さんは」
澄香が明るく、美優が暗く、笑った。
「澄香は……本当に結婚、しちまうのかい?」
「結婚式には、美優さんも呼びたいですけど……難しいですね」
「やりようあるんじゃないの。まだ正式に、懲役刑とか決まったわけじゃなし」
彩吹が、いくらか反社会的な事を言う。
「……何なら私が、無理矢理に連れ出してあげるけど」
「隔者かよ、お前」
美優が溜め息をつき、じろりと奏空を睨む。
「ねえ坊や。お前、結婚前提で付き合ってる子がいるんだよね。上手くいってんの?」
「は、はい。うまく……いってる、と思いたいです」
答えつつ、奏空は俯いた。
「……俺、結婚ってやっぱり幸せなものだと思うんです」
「花嫁をなあ、道具かアクセサリーとしか思ってない男どもが大勢いる。お前は、そうじゃないとでも?」
「違います! 俺は、結婚は、その人とただ一緒にいたいからするんです」
怒鳴るように、吼えるように、奏空は答えた。
「その人を……ずっと、守りたいから」
「そういう事を言ってる奴ほど、後で女を殴る」
「……砂原さん。俺も、結婚式には貴女を呼びます。何年後かわかりませんけど」
奏空が、アクリル板越しに美優を睨み据える。
「絶対に、来てもらいますよ。俺を見ていて下さい」
気に入らなかったら殺しに来い、と奏空は言っている。
美優は、ニヤリと笑うだけだ。
「砂原さん。わたしも、あなたとお話したい……けど今日は、ここまで」
スマートフォンでどこかと話していた日那乃が、言った。
「召集……夢見さんが夢、見たって……とっても嫌な、夢」
「……行きましょうか。美優さん、また」
「気をつけなよ、澄香」
美優の言葉が、追いかけて来る。
「あたし昔っから思ってたよ。男と何かあった時、一番ヤバい事になるのは澄香じゃないかってね。あの男に裏切られたりしたら……あんたなんか隔者か、下手すると破綻者一直線だよ。ま、気をつけて何とかなるもんでもないかな」
●
赤ん坊が愉しそうに笑っているので、彩吹はとりあえず微笑み、手を振った。
「やあ……」
母親の許しを得て、抱き上げてみたい。
彩吹はそう思うが、その母親は、他人に許しを与えるどころか、もはや会話すら出来ない状態であった。
女性の体型を辛うじてとどめたまま腐敗した全身に、無数の菌糸が張り巡らされ根付いており、所々で膨らんで茸を成し、毒々しい胞子を噴射している。
無数の毒茸を生やした腐乱死体。そのあちこちから、屍肉を喰らう蟲たちがニョロニョロと生えて牙を剥き、生者の肉をも渇望していた。
蟲たちも今や、妖と化した女性と同化し、おぞましい触手となって凶暴にうねり狂っている。
下腹部から顔を出し、小さな手を振っている赤ん坊も、妖の肉体の一部なのだ。
愛らしい笑顔も半ば腐敗し、溶けかかっている。もはや、この世に生まれる事のない赤ん坊。
深夜の、山林である。視界確保の手段はもちろん必要だが、彩吹は思う。
(……懐中電灯なんて、持って来るんじゃなかったな……)
自分以外の3人……澄香も、奏空と日那乃も、暗視の能力を持っている。赤ん坊を視認しながら、戦わなければならない。
辛いだろう、と彩吹は思ったが言う事ではなかった。
「……俺、思うよ」
奏空が言った。
「本当に恐いのは、妖でも隔者でもない……普通の、人間だって」
普通の人間が、ズタズタに原型を失い、散らばっている。
その屍に、奏空は語りかけた。
「何で……こんな、酷い事が出来るんだ? あんたは……」
「どうして……愛を、選ばなかったのですか。貴方は……」
澄香も問いかけた。
男の屍は答えない。答えを聞く必要もない、とは澄香も思っている事だろう。
この男は、欲に目が眩んだ。それだけの事なのだ。
嫌になるほど、この世にありふれた話である。
「俺は……あんたの命を救ってやりたかったと、本気で思うよ」
桃色に輝き燃え上がる瞳で、奏空が男の屍を睨み据えた。
「生きたあんたを、ぶちのめしてやりたかった……」
「……それは、まあ閻魔様にでもお任せしましょう」
言葉と共に澄香が翼を広げ、羽ばたき、香気の粒子をキラキラと放散する。
「さあ奏空くん。私たちは、淳子さんと晶ちゃんを天国へ送らなければ」
「そう……だね。これ以上の犠牲が出る前に……っ」
怒りに歯を食いしばりながら、奏空は薬壺印を結んだ。柔らかな、気の輝きが生じた。
覚者2人による守護術式……澄香の『清廉珀香』と奏空の『魔訶瑠璃光』が、覚者4名を包み込む。
毒茸と触手と赤ん坊を生やした妖が、彩吹を、澄香を、奏空と日那乃を、排除あるいは捕食の対象と認識したようであった。無数の蟲が、触手状に伸びて牙を剥き、覚者たちを襲う。
その襲撃を見据える奏空の両眼が、さらに激しく燃え上がる。
「……犠牲なんて……これからも、出るんじゃないのか……っ」
前世の何者かと同調を行いながら、奏空は奇跡の日本刀『MISORA』を抜き放っていた。
「人の世の、汚い部分が妖を生む……身勝手な人間がいる限り、こんな事は起こり続けるんじゃないのかあッ!」
十六夜の斬撃が、凶暴にうねる触手の群れを、ことごとく切断した。
菌糸をまとう腐乱死体の各所から、しかし蟲たちはいくらでも生え伸びて来る。
蠢く触手の1本が牙を剥き、奏空の脇腹を襲う。
その蟲が、しかし潰れて散った。
蟲たちを生やした妖の身体そのものが、後方へと吹っ飛んでいた。
暴風の砲弾の、直撃であった。
「奏空さん、気を付けて……それ、隔者と同じ考え」
日那乃の羽ばたきが、風を巻き起こしてエアブリットを成し、発射したところである。
「許せないの、わかる。わたしも許せない……でも」
「……わかってるよ、日那ちゃん。人間が、みんな悪いわけじゃあない……わかっては、いるんだ」
「人間はみんな悪くて許せないから皆殺しにする。隔者の連中って確かに、そう言うよね」
火行因子を燃やしながら、彩吹は踏み込んで行った。
燃え盛る因子の輝きが、溢れ出して無数の火蜥蜴と化し、妖に飛びかかる。
毒茸を生やした腐乱死体が、ゆらりと立ち上がりながら炎にまみれた。そこへ、
「私なんか……ふふっ、気を付けてないと! そっちへ行っちゃうかもねっ」
彩吹は、蹴りによる斬撃を叩き込んでいった。鋭刃想脚。
腐敗しつつも強靭な菌糸でびっしりとコーティングされた妖の肉体が、ざくざくと裂けて黒い体液を飛び散らせる。
「大丈夫。いぶちゃんが、そちらへ行きかけたらね」
言いつつ澄香が、タロットカードを掲げる。絵柄は『節制』、だが一瞬だけ『魔術師』に変わったように見えた。
「私が、ちょっぴり術式込みのお説教をしてあげますから!」
「きついね、それは」
などと彩吹が言っている間に炎が生じ、紅蓮の嵐となっていた。召炎波。術式の炎は、術者が敵と認識したものだけを灼く。山火事を引き起こす事はない。
火葬される事のなかった腐乱死体が、炎の嵐に包まれた。
炎の中で、赤ん坊が笑っている。その様が、もはや懐中電灯を用いる必要もなく見えてしまう。
彩吹が思わず目を背けてしまいそうになった、その時。
炎の嵐を吹き飛ばし搔き消すかのように、胞子の嵐が吹き荒れた。
妖の全身で、毒茸たちが胞子を噴出させていた。
彩吹は、とっさに呼吸を止めたが、遅い。
灼けつくような激痛が、気管で、肺で、燃え上がる。猛毒の胞子が、肺だけでなく心臓にまで達しているかも知れなかった。
彩吹は、血を吐いた。
奏空は大木にもたれて身を震わせ、澄香と日那乃は支え合って咳をしている。鮮血の飛沫が、微かに見えた。
澄香と奏空で事前に施してくれた守護術式が、胞子の毒性を防いではくれた。しかし、体内を灼いて爛れさせる、この痛手を防ぐ事は出来ない。
「この、痛みが……貴女の、無念……」
咳き込み、血を吐きながら、澄香が呻く。
「辛かった……でしょうね……可愛いお子さんを、産む事も出来なくて……ええ、そうです淳子さん。産まれた、とは言いませんよ。その状態は……!」
妖の下腹部で、毒茸や蟲たちに囲まれて愉しげに笑う赤ん坊。
その姿を、日那乃もじっと見据えている。
「かわいそう……わたしたち、そう思うしか……出来ない……被害が出るなら、消す」
こふっ、と吐血の咳をしながら、日那乃は翼を広げた。
奏空は、抜き身を構え直しながら大量の血を吐いている。
「この怒り……どこへ、向けたらいい……」
位置的に、彼が最も大量の胞子を浴びたはずだ。かすれた声が、呼吸器官の激甚な痛手を容易に想像させる。
「こんな痛み……淳子さん、貴女の受けた仕打ちに比べたら……ッ!」
●
奏空の、無駄なく鍛え込まれて若干頼りないほどに細くなった身体が、血を吐きながら躍動して宙に残像を焼き付けている。
何人もの奏空が、一斉に斬りかかっているようにも見えた。
毒茸が、触手が、それらの発生源たる腐乱死体が、強靭な菌糸もろとも容赦なく斬りさいなまれて毒々しい体液をぶちまける。
敵、のみならず己の体力をも削り取る『激鱗』の斬撃を、奏空はひたすらに繰り出していた。
それは彼が、自身の身体にも痛みを与える事によって、何かの緩和を試みているようでもあった。
その何かは、日那乃の心にもある。彩吹と澄香の心でも、燃え盛っている事だろう。
もはや憎悪に等しいほどの、怒り。
その対象である男は、すでに死んでいる。
生きていたら、どうなっていた事か、と日那乃は考えてしまう。
彩吹も奏空も、その男を無傷では済まさなかっただろう。
最も苛烈な仕置きを行うのは澄香ではないか、という気もする。日那乃としても、他3人のなだめ役に徹しきる自信はない。
口で言える事ではないが、日那乃は思ってしまう。
(今の、この状態……最良の、形……)
被害者が妖と化し、加害者を殺害した。加害者は、もはやこれ以上の制裁を受ける事はない。他に人死にも出ていない。
自分たちファイヴ覚者の為すべき事は、妖の討滅だけだ。
ファイヴの管轄となったのは、被害者である母子の屍が、妖と化したからだ。そうでなければ、少なくとも今この時点で男の悪事が明らかになる事はなかった。
森羅万象、あらゆるものが妖と成り得るのが現状。
そうでなければ、男の完全犯罪が成立していたかも知れないのだ。
「本当……頭にくる話だよね、日那乃」
猛禽の如く跳躍・飛翔しながら、彩吹が言った。
「悪い奴が、上手い具合に死んでくれた……そんな思いが私の中にね、全くないわけじゃあないんだよっ!」
黒い羽が舞い散り、斬撃の嵐が吹き荒れた。
彩吹の強靱な美脚が、妖の触手を、茸を、菌糸に守られた腐肉を、超高速で切り裂いてゆく。蹴りによる疾風双斬。
「これも八神勇雄の言ってた、神様とやらのおかげ、なのかな。ああ気分が良くない」
「淳子さんが妖となって、ご自分で決着をつけてしまった……とも、言えてしまいますね」
言いつつ澄香がタロットカードを掲げ、翼を広げる。
「それも終わりです、淳子さん。貴女を裏切った人は、もういませんから……晶ちゃんと一緒に、静かに、安らかに、お休みなさい。私たちが送ってあげます。日那ちゃん、一緒に」
「了解……被害が出るなら、消す。わたしたちに出来る事、それだけ」
日那乃も、翼を開いた。
澄香の羽ばたきが炎を、日那乃の羽ばたきが暴風を、それぞれ巻き起こした。
召炎波と、エアブリット・改。
紅蓮の荒波に呑まれ、焼け焦げながら身をよじる妖に、暴風の砲弾が激突する。毒茸がいくつか、蟲が何匹か、ちぎれ飛びながら焦げ崩れて灰に変わり、宙を舞った。
それらを蹴散らすように、まだ生きている蟲たちが触手状に伸びて牙を剥く。
「…………っ!」
日那乃は小さな歯を食いしばり、激痛を噛み殺した。
醜悪な蟲が1匹、右腕に食らい付いている。巨大な牙が、柔らかな肉を裂き、血管を断ち切り、少女の細腕を食いちぎりにかかる。
彩吹の左肩が、澄香の右鎖骨が、バキバキと蟲に噛み砕かれてゆく。
それら蟲たちが、ことごとく切断された。滑らかな断面から、日那乃の、彩吹の、澄香の、そして奏空の鮮血が溢れ出す。
「淳子さん、晶くん……今、空の向こうへ送ってあげるから……」
断ち切られた蟲を、脇腹の辺りに食いつかせたまま、奏空が呻く。
その手に握られた『MISORA』が、一閃したところである。
「身勝手で酷い奴がいる、この冷たい地上から………解き放って、あげるよ……ッ!」
血を吐きながら、奏空は妖に向かって倒れ込むように、斬撃を叩き付けていった。負傷した肉体から容赦なく体力を削り取ってゆく、激鱗。
それに彩吹が、蹴りの猛襲を合わせてゆく。
奏空と彩吹、だけではない。全員そろそろ治療が必要か、と日那乃が思った、その時。
澄香が『世界』のタロットカードをかざしていた。
夜空から木漏れ日が降り注いだ、と日那乃は感じた。
木行の癒しの力が、負傷した右腕に、呼吸器官と心肺に、染み込んで来る。治療の痛みに、日那乃は耐えた。澄香と彩吹と奏空も、耐えているだろう。
愉しそうな、笑い声が聞こえた。
妖の下腹部で、腐りかけた赤ん坊が相変わらず笑い続けている。笑いながら、牙を剥いている。
その牙が、彩吹の左脚に突き刺さった。
形良く鍛え込まれた太股に、牙を生やした赤ん坊が食らい付いていた。鮮血が噴出し、肉の噛み砕かれる凄惨な音が鳴る。
「彩吹さん…………!」
叫びかけた奏空に向かって片手を上げながら、彩吹は妖に語りかけた。
「ねえ淳子さん……赤ちゃん、抱っこするよ。いいよね?」
強靱な細腕が、腐敗した赤ん坊をメキメキッ……と抱き締める。
愉しげな笑い声が、おぞましい絶叫に変わった。
叫び、体液を吐き散らす赤ん坊を、彩吹は容赦なく抱擁し続ける。
「こんな事になる前に、気付いてあげられたら……なんていうのは傲慢かな。とにかく、憎しみも苦しみも……私が、もらっておくから……もう終わりにしよう……」
そんな事を言っている彩吹に狙いを定め、日那乃は癒しの力を凝集させていった。
凝集したものが『潤しの滴』となり、彩吹を直撃する。
水行の治療術式はさぞかし傷に染みるであろうが、耐えてもらうしかなかった。
●
澄香の放った幾度目かの召炎波が、妖を荼毘に付した。
炎の中、蟲も茸も母子の腐乱死体も、さらさらと遺灰に変わってゆく。
幸せそうに赤ん坊を抱く母親の姿が一瞬見えた、ような気がした。
錯覚か。いや確かに見えた、事にしておこうと奏空は思った。
彩吹の『こもりうた』が、深夜の山林に静寂を取り戻させているようでもある。
「いぶちゃん……こもりうた、上手になりましたね」
澄香が微笑む。
「1人カラオケで練習した甲斐がありました?」
「してないって、そんな事! ま、それにしても」
彩吹は見回し、頭を掻いた。
「後は……警察に任せるしかないかな」
「ない、と思う」
日那乃が言った。原形のない男の屍を、屈んで観察しながら。
「このひとの奥さん、そのお父さん……社長さんと娘さん? 大変だと思う……けど」
「その方々に、罪はありませんものね……」
澄香が、俯き加減に言う。
「このまま警察沙汰になれば……社長さんも娘さんも、無関係では済まなくなるでしょうね。罪がない、とは言っても」
「……マスコミが、面白おかしく騒ぎ立てるだろうしね」
彩吹が腕組みをした。
「ファイヴって組織に……マスコミ対策なんて事、出来るのかな? いつぞやの演説の時は、上手くやってたみたいだけど」
「あれは奇跡のようなものでしたからね……」
ぼんやりと、その会話を聞きながら、奏空は夜空を見上げていた。半ば、睨むように。
「奏空さん……それ、やめた方がいいと思う」
日那乃が話しかけてきた。
「言われて、反省する。それ出来るひと、なら……最初から、こんな事しない」
「日那ちゃんには、お見通し……か」
交霊術は一応、使える。
殺された男に、何かしら説教めいた事を言ってやる事は出来るかも知れない。そう思ったのだ。
男の魂は、しかし今頃は地獄へ運び込まれている頃か。
火車が失業中の今、その役目は牛頭か馬頭の担当か。
死んだ男に関して奏空が思うのは、そこまでだった。
「やあ……寂しかったよ、澄香」
アクリル板の向こうで、砂原美優が微笑んでいる。
「とびっきりのお説教、また聞かせてくれるのかな?」
「もう言葉は要らないでしょう、美優さん。貴女は、自力で立ち直らなければ駄目ですよ、もう」
微笑みながら『居待ち月』天野澄香(CL2000194)は、伴って来た3人の仲間を紹介した。『探偵見習い』工藤奏空(CL2000955)、桂木日那乃(CL2000941)、『エリニュスの翼』如月彩吹(CL2001525)である。
「いぶちゃんと奏空くんは知ってますよね、美優さんは。この子だけ紹介しましょう、桂木日那乃ちゃんです」
「よろしく……」
「ふん、素質ありそうな子じゃないの」
美優は言った。
「覚者として、ひたすら精進するといい。男と遊んだりせずに、ね……出来る女の子って、男が絡んだ途端ダメになりがちだからさ」
「あの、砂原さん」
奏空が、恐る恐る言った。
「やっぱり、その……まだ許せませんか? 男とか、結婚とか」
「澄香は立ち直れって言うけどね……あたしは駄目。男を見ると、ぶち殺したくなる。こんなアクリル板は叩き割って、今すぐお前の首を刎ねてやりたいくらいさ。坊や」
「それを実行に移さないだけ、立ち直っていると思いますよ。美優さんは」
澄香が明るく、美優が暗く、笑った。
「澄香は……本当に結婚、しちまうのかい?」
「結婚式には、美優さんも呼びたいですけど……難しいですね」
「やりようあるんじゃないの。まだ正式に、懲役刑とか決まったわけじゃなし」
彩吹が、いくらか反社会的な事を言う。
「……何なら私が、無理矢理に連れ出してあげるけど」
「隔者かよ、お前」
美優が溜め息をつき、じろりと奏空を睨む。
「ねえ坊や。お前、結婚前提で付き合ってる子がいるんだよね。上手くいってんの?」
「は、はい。うまく……いってる、と思いたいです」
答えつつ、奏空は俯いた。
「……俺、結婚ってやっぱり幸せなものだと思うんです」
「花嫁をなあ、道具かアクセサリーとしか思ってない男どもが大勢いる。お前は、そうじゃないとでも?」
「違います! 俺は、結婚は、その人とただ一緒にいたいからするんです」
怒鳴るように、吼えるように、奏空は答えた。
「その人を……ずっと、守りたいから」
「そういう事を言ってる奴ほど、後で女を殴る」
「……砂原さん。俺も、結婚式には貴女を呼びます。何年後かわかりませんけど」
奏空が、アクリル板越しに美優を睨み据える。
「絶対に、来てもらいますよ。俺を見ていて下さい」
気に入らなかったら殺しに来い、と奏空は言っている。
美優は、ニヤリと笑うだけだ。
「砂原さん。わたしも、あなたとお話したい……けど今日は、ここまで」
スマートフォンでどこかと話していた日那乃が、言った。
「召集……夢見さんが夢、見たって……とっても嫌な、夢」
「……行きましょうか。美優さん、また」
「気をつけなよ、澄香」
美優の言葉が、追いかけて来る。
「あたし昔っから思ってたよ。男と何かあった時、一番ヤバい事になるのは澄香じゃないかってね。あの男に裏切られたりしたら……あんたなんか隔者か、下手すると破綻者一直線だよ。ま、気をつけて何とかなるもんでもないかな」
●
赤ん坊が愉しそうに笑っているので、彩吹はとりあえず微笑み、手を振った。
「やあ……」
母親の許しを得て、抱き上げてみたい。
彩吹はそう思うが、その母親は、他人に許しを与えるどころか、もはや会話すら出来ない状態であった。
女性の体型を辛うじてとどめたまま腐敗した全身に、無数の菌糸が張り巡らされ根付いており、所々で膨らんで茸を成し、毒々しい胞子を噴射している。
無数の毒茸を生やした腐乱死体。そのあちこちから、屍肉を喰らう蟲たちがニョロニョロと生えて牙を剥き、生者の肉をも渇望していた。
蟲たちも今や、妖と化した女性と同化し、おぞましい触手となって凶暴にうねり狂っている。
下腹部から顔を出し、小さな手を振っている赤ん坊も、妖の肉体の一部なのだ。
愛らしい笑顔も半ば腐敗し、溶けかかっている。もはや、この世に生まれる事のない赤ん坊。
深夜の、山林である。視界確保の手段はもちろん必要だが、彩吹は思う。
(……懐中電灯なんて、持って来るんじゃなかったな……)
自分以外の3人……澄香も、奏空と日那乃も、暗視の能力を持っている。赤ん坊を視認しながら、戦わなければならない。
辛いだろう、と彩吹は思ったが言う事ではなかった。
「……俺、思うよ」
奏空が言った。
「本当に恐いのは、妖でも隔者でもない……普通の、人間だって」
普通の人間が、ズタズタに原型を失い、散らばっている。
その屍に、奏空は語りかけた。
「何で……こんな、酷い事が出来るんだ? あんたは……」
「どうして……愛を、選ばなかったのですか。貴方は……」
澄香も問いかけた。
男の屍は答えない。答えを聞く必要もない、とは澄香も思っている事だろう。
この男は、欲に目が眩んだ。それだけの事なのだ。
嫌になるほど、この世にありふれた話である。
「俺は……あんたの命を救ってやりたかったと、本気で思うよ」
桃色に輝き燃え上がる瞳で、奏空が男の屍を睨み据えた。
「生きたあんたを、ぶちのめしてやりたかった……」
「……それは、まあ閻魔様にでもお任せしましょう」
言葉と共に澄香が翼を広げ、羽ばたき、香気の粒子をキラキラと放散する。
「さあ奏空くん。私たちは、淳子さんと晶ちゃんを天国へ送らなければ」
「そう……だね。これ以上の犠牲が出る前に……っ」
怒りに歯を食いしばりながら、奏空は薬壺印を結んだ。柔らかな、気の輝きが生じた。
覚者2人による守護術式……澄香の『清廉珀香』と奏空の『魔訶瑠璃光』が、覚者4名を包み込む。
毒茸と触手と赤ん坊を生やした妖が、彩吹を、澄香を、奏空と日那乃を、排除あるいは捕食の対象と認識したようであった。無数の蟲が、触手状に伸びて牙を剥き、覚者たちを襲う。
その襲撃を見据える奏空の両眼が、さらに激しく燃え上がる。
「……犠牲なんて……これからも、出るんじゃないのか……っ」
前世の何者かと同調を行いながら、奏空は奇跡の日本刀『MISORA』を抜き放っていた。
「人の世の、汚い部分が妖を生む……身勝手な人間がいる限り、こんな事は起こり続けるんじゃないのかあッ!」
十六夜の斬撃が、凶暴にうねる触手の群れを、ことごとく切断した。
菌糸をまとう腐乱死体の各所から、しかし蟲たちはいくらでも生え伸びて来る。
蠢く触手の1本が牙を剥き、奏空の脇腹を襲う。
その蟲が、しかし潰れて散った。
蟲たちを生やした妖の身体そのものが、後方へと吹っ飛んでいた。
暴風の砲弾の、直撃であった。
「奏空さん、気を付けて……それ、隔者と同じ考え」
日那乃の羽ばたきが、風を巻き起こしてエアブリットを成し、発射したところである。
「許せないの、わかる。わたしも許せない……でも」
「……わかってるよ、日那ちゃん。人間が、みんな悪いわけじゃあない……わかっては、いるんだ」
「人間はみんな悪くて許せないから皆殺しにする。隔者の連中って確かに、そう言うよね」
火行因子を燃やしながら、彩吹は踏み込んで行った。
燃え盛る因子の輝きが、溢れ出して無数の火蜥蜴と化し、妖に飛びかかる。
毒茸を生やした腐乱死体が、ゆらりと立ち上がりながら炎にまみれた。そこへ、
「私なんか……ふふっ、気を付けてないと! そっちへ行っちゃうかもねっ」
彩吹は、蹴りによる斬撃を叩き込んでいった。鋭刃想脚。
腐敗しつつも強靭な菌糸でびっしりとコーティングされた妖の肉体が、ざくざくと裂けて黒い体液を飛び散らせる。
「大丈夫。いぶちゃんが、そちらへ行きかけたらね」
言いつつ澄香が、タロットカードを掲げる。絵柄は『節制』、だが一瞬だけ『魔術師』に変わったように見えた。
「私が、ちょっぴり術式込みのお説教をしてあげますから!」
「きついね、それは」
などと彩吹が言っている間に炎が生じ、紅蓮の嵐となっていた。召炎波。術式の炎は、術者が敵と認識したものだけを灼く。山火事を引き起こす事はない。
火葬される事のなかった腐乱死体が、炎の嵐に包まれた。
炎の中で、赤ん坊が笑っている。その様が、もはや懐中電灯を用いる必要もなく見えてしまう。
彩吹が思わず目を背けてしまいそうになった、その時。
炎の嵐を吹き飛ばし搔き消すかのように、胞子の嵐が吹き荒れた。
妖の全身で、毒茸たちが胞子を噴出させていた。
彩吹は、とっさに呼吸を止めたが、遅い。
灼けつくような激痛が、気管で、肺で、燃え上がる。猛毒の胞子が、肺だけでなく心臓にまで達しているかも知れなかった。
彩吹は、血を吐いた。
奏空は大木にもたれて身を震わせ、澄香と日那乃は支え合って咳をしている。鮮血の飛沫が、微かに見えた。
澄香と奏空で事前に施してくれた守護術式が、胞子の毒性を防いではくれた。しかし、体内を灼いて爛れさせる、この痛手を防ぐ事は出来ない。
「この、痛みが……貴女の、無念……」
咳き込み、血を吐きながら、澄香が呻く。
「辛かった……でしょうね……可愛いお子さんを、産む事も出来なくて……ええ、そうです淳子さん。産まれた、とは言いませんよ。その状態は……!」
妖の下腹部で、毒茸や蟲たちに囲まれて愉しげに笑う赤ん坊。
その姿を、日那乃もじっと見据えている。
「かわいそう……わたしたち、そう思うしか……出来ない……被害が出るなら、消す」
こふっ、と吐血の咳をしながら、日那乃は翼を広げた。
奏空は、抜き身を構え直しながら大量の血を吐いている。
「この怒り……どこへ、向けたらいい……」
位置的に、彼が最も大量の胞子を浴びたはずだ。かすれた声が、呼吸器官の激甚な痛手を容易に想像させる。
「こんな痛み……淳子さん、貴女の受けた仕打ちに比べたら……ッ!」
●
奏空の、無駄なく鍛え込まれて若干頼りないほどに細くなった身体が、血を吐きながら躍動して宙に残像を焼き付けている。
何人もの奏空が、一斉に斬りかかっているようにも見えた。
毒茸が、触手が、それらの発生源たる腐乱死体が、強靭な菌糸もろとも容赦なく斬りさいなまれて毒々しい体液をぶちまける。
敵、のみならず己の体力をも削り取る『激鱗』の斬撃を、奏空はひたすらに繰り出していた。
それは彼が、自身の身体にも痛みを与える事によって、何かの緩和を試みているようでもあった。
その何かは、日那乃の心にもある。彩吹と澄香の心でも、燃え盛っている事だろう。
もはや憎悪に等しいほどの、怒り。
その対象である男は、すでに死んでいる。
生きていたら、どうなっていた事か、と日那乃は考えてしまう。
彩吹も奏空も、その男を無傷では済まさなかっただろう。
最も苛烈な仕置きを行うのは澄香ではないか、という気もする。日那乃としても、他3人のなだめ役に徹しきる自信はない。
口で言える事ではないが、日那乃は思ってしまう。
(今の、この状態……最良の、形……)
被害者が妖と化し、加害者を殺害した。加害者は、もはやこれ以上の制裁を受ける事はない。他に人死にも出ていない。
自分たちファイヴ覚者の為すべき事は、妖の討滅だけだ。
ファイヴの管轄となったのは、被害者である母子の屍が、妖と化したからだ。そうでなければ、少なくとも今この時点で男の悪事が明らかになる事はなかった。
森羅万象、あらゆるものが妖と成り得るのが現状。
そうでなければ、男の完全犯罪が成立していたかも知れないのだ。
「本当……頭にくる話だよね、日那乃」
猛禽の如く跳躍・飛翔しながら、彩吹が言った。
「悪い奴が、上手い具合に死んでくれた……そんな思いが私の中にね、全くないわけじゃあないんだよっ!」
黒い羽が舞い散り、斬撃の嵐が吹き荒れた。
彩吹の強靱な美脚が、妖の触手を、茸を、菌糸に守られた腐肉を、超高速で切り裂いてゆく。蹴りによる疾風双斬。
「これも八神勇雄の言ってた、神様とやらのおかげ、なのかな。ああ気分が良くない」
「淳子さんが妖となって、ご自分で決着をつけてしまった……とも、言えてしまいますね」
言いつつ澄香がタロットカードを掲げ、翼を広げる。
「それも終わりです、淳子さん。貴女を裏切った人は、もういませんから……晶ちゃんと一緒に、静かに、安らかに、お休みなさい。私たちが送ってあげます。日那ちゃん、一緒に」
「了解……被害が出るなら、消す。わたしたちに出来る事、それだけ」
日那乃も、翼を開いた。
澄香の羽ばたきが炎を、日那乃の羽ばたきが暴風を、それぞれ巻き起こした。
召炎波と、エアブリット・改。
紅蓮の荒波に呑まれ、焼け焦げながら身をよじる妖に、暴風の砲弾が激突する。毒茸がいくつか、蟲が何匹か、ちぎれ飛びながら焦げ崩れて灰に変わり、宙を舞った。
それらを蹴散らすように、まだ生きている蟲たちが触手状に伸びて牙を剥く。
「…………っ!」
日那乃は小さな歯を食いしばり、激痛を噛み殺した。
醜悪な蟲が1匹、右腕に食らい付いている。巨大な牙が、柔らかな肉を裂き、血管を断ち切り、少女の細腕を食いちぎりにかかる。
彩吹の左肩が、澄香の右鎖骨が、バキバキと蟲に噛み砕かれてゆく。
それら蟲たちが、ことごとく切断された。滑らかな断面から、日那乃の、彩吹の、澄香の、そして奏空の鮮血が溢れ出す。
「淳子さん、晶くん……今、空の向こうへ送ってあげるから……」
断ち切られた蟲を、脇腹の辺りに食いつかせたまま、奏空が呻く。
その手に握られた『MISORA』が、一閃したところである。
「身勝手で酷い奴がいる、この冷たい地上から………解き放って、あげるよ……ッ!」
血を吐きながら、奏空は妖に向かって倒れ込むように、斬撃を叩き付けていった。負傷した肉体から容赦なく体力を削り取ってゆく、激鱗。
それに彩吹が、蹴りの猛襲を合わせてゆく。
奏空と彩吹、だけではない。全員そろそろ治療が必要か、と日那乃が思った、その時。
澄香が『世界』のタロットカードをかざしていた。
夜空から木漏れ日が降り注いだ、と日那乃は感じた。
木行の癒しの力が、負傷した右腕に、呼吸器官と心肺に、染み込んで来る。治療の痛みに、日那乃は耐えた。澄香と彩吹と奏空も、耐えているだろう。
愉しそうな、笑い声が聞こえた。
妖の下腹部で、腐りかけた赤ん坊が相変わらず笑い続けている。笑いながら、牙を剥いている。
その牙が、彩吹の左脚に突き刺さった。
形良く鍛え込まれた太股に、牙を生やした赤ん坊が食らい付いていた。鮮血が噴出し、肉の噛み砕かれる凄惨な音が鳴る。
「彩吹さん…………!」
叫びかけた奏空に向かって片手を上げながら、彩吹は妖に語りかけた。
「ねえ淳子さん……赤ちゃん、抱っこするよ。いいよね?」
強靱な細腕が、腐敗した赤ん坊をメキメキッ……と抱き締める。
愉しげな笑い声が、おぞましい絶叫に変わった。
叫び、体液を吐き散らす赤ん坊を、彩吹は容赦なく抱擁し続ける。
「こんな事になる前に、気付いてあげられたら……なんていうのは傲慢かな。とにかく、憎しみも苦しみも……私が、もらっておくから……もう終わりにしよう……」
そんな事を言っている彩吹に狙いを定め、日那乃は癒しの力を凝集させていった。
凝集したものが『潤しの滴』となり、彩吹を直撃する。
水行の治療術式はさぞかし傷に染みるであろうが、耐えてもらうしかなかった。
●
澄香の放った幾度目かの召炎波が、妖を荼毘に付した。
炎の中、蟲も茸も母子の腐乱死体も、さらさらと遺灰に変わってゆく。
幸せそうに赤ん坊を抱く母親の姿が一瞬見えた、ような気がした。
錯覚か。いや確かに見えた、事にしておこうと奏空は思った。
彩吹の『こもりうた』が、深夜の山林に静寂を取り戻させているようでもある。
「いぶちゃん……こもりうた、上手になりましたね」
澄香が微笑む。
「1人カラオケで練習した甲斐がありました?」
「してないって、そんな事! ま、それにしても」
彩吹は見回し、頭を掻いた。
「後は……警察に任せるしかないかな」
「ない、と思う」
日那乃が言った。原形のない男の屍を、屈んで観察しながら。
「このひとの奥さん、そのお父さん……社長さんと娘さん? 大変だと思う……けど」
「その方々に、罪はありませんものね……」
澄香が、俯き加減に言う。
「このまま警察沙汰になれば……社長さんも娘さんも、無関係では済まなくなるでしょうね。罪がない、とは言っても」
「……マスコミが、面白おかしく騒ぎ立てるだろうしね」
彩吹が腕組みをした。
「ファイヴって組織に……マスコミ対策なんて事、出来るのかな? いつぞやの演説の時は、上手くやってたみたいだけど」
「あれは奇跡のようなものでしたからね……」
ぼんやりと、その会話を聞きながら、奏空は夜空を見上げていた。半ば、睨むように。
「奏空さん……それ、やめた方がいいと思う」
日那乃が話しかけてきた。
「言われて、反省する。それ出来るひと、なら……最初から、こんな事しない」
「日那ちゃんには、お見通し……か」
交霊術は一応、使える。
殺された男に、何かしら説教めいた事を言ってやる事は出来るかも知れない。そう思ったのだ。
男の魂は、しかし今頃は地獄へ運び込まれている頃か。
火車が失業中の今、その役目は牛頭か馬頭の担当か。
死んだ男に関して奏空が思うのは、そこまでだった。
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし
