凶獣ラッキー
●
犬を飼うのが、幼い頃からの夢だった。
その夢が叶ったのは、還暦をいくつも越えた頃。事業がどうにか安定し、ペットの世話をする余裕が出て来てからだ。
それまでの私は、鬼畜生だった。
金儲けのために平気で人を蹴落とし、騙し、裏切り、酷使し、利用してきた。我が社の経営規模が拡大してゆく過程で、少なくとも10人以上が命を落としている。自殺、不審死。死因は様々だ。
人など、いくら死んでも構わなかった。私は、とにかく人間が嫌いだった。
だから動物に救いを求めた。動物が好き、と言うより動物に逃げ込んだだけだ。
逃げ込む先として私が選んだのが、道端で雨に濡れていた薄汚い雑種の仔犬である。
ラッキーと名付け、飼い始めてみた。
無能な新入社員のようにおどおどと怯えていたラッキーが、今では凛々しい成犬となって、散歩の時などはこうして私を引きずり回してくれる。
「おおい、待て待てラッキー。このところ足が悪いんだ、あまり走らせるなよ」
振り向いたラッキーが、わんわんと吠える。
リードを握ったまま、私は息を切らせていた。
「まったく……今では、お前の方が強いんだからな。私など、死にかけた老いぼれだ。しかしまあ」
何の変哲もない公園の風景を、私は見渡してみた。
私のように犬を連れて、のんびりと歩き回っている男がいる。
買い物帰り、と思われる母子もいる。はしゃぐ子供と、微笑む母親。
妻と子供のいる男を、私は何人も自殺に追い込んできた。ふと、そんな事を思ってみる。
「……こんな歳まで、よくも生き残ったものだ」
ラッキーが、また一声吠えた。私の呟きに、同意でもしてくれたのか。さっさと死ね、とでも言っているのか。
「ふふ……そう急かすなよ。私の番も、いずれ来る」
公園のベンチに、私は弱々しく腰を下ろした。
足腰は、間違いなく弱ってきている。犬の散歩は、ラッキーではなく私自身の健康のためにしているようなものだ。それも時折こうして休憩を挟まないと、きつい。
ラッキーが、また吠えた。散歩の続きを、せがんでいるのか。
いや違う。私の身に、危険が迫っているのだ。
視界の隅、木陰から、1人の男がゆらりと姿を現したところである。こちらに、右手を向けている。
隔者。私も何度か雇った事があるから、すぐにわかった。
ラッキーが牙を剥き、唸り、姿勢を低くする。
私はベンチから立ち上がり、ラッキーの身体を抱き上げ、遠くに放り投げた。
今から私は不審死を遂げる事になるが、それは私だけでいい。
私の番は、もう来ていたのだ。
●
老人の身体が、ベンチもろとも焼け砕けて遺灰に変わった。
火焔連弾による殺人を、法律で裁けはしない。俺は慌てる事なく悠然と、その場を立ち去った。
仕事をした。それだけだ。
老人の素性など俺は知らない。まあ大勢の人間に、恨まれてはいたようだ。
そいつらが、なけなしの金を出し合って俺を雇った。
泣かせる話だ。俺としては、隔者として仕事をする以外にやりようはない。
七星剣はもう終わりだ。俺たちは各々、自力で仕事を探さなければならなくなる。
それにしても、と俺は思う。
商売のために大勢の人間を死なせてきた男が、飼い犬にだけは愛情を注ぐ。身を呈して守ろうとする。
お笑い種、としか言いようがなかった。
「ペット飼うだけが救いの人生かよ……ったく、発現もしてねえゴミどもはよォ」
嘲笑いながら、俺は振り向いた。
柴犬だか秋田犬だか、その系統の雑種犬であろう。
せっかく御主人に命を救われた犬が、猛然とリードを引きずり駆けて来る。牙を剥き、俺に喰らい付こうとしている。
「何でぇ、仇討ちかよ……クソ面倒くせえ」
俺は大型のナイフを抜いた。これで、日本刀を叩き折った事もある。犬の首を斬り落とすなど、たやすい事だ。
そのナイフが、砕け散った。喰らい付いてきた犬の牙が、刃を噛み砕いていた。
否、それはもはや犬ではない。
その身体は、首輪をちぎりながら膨れ上がり、獣毛と筋肉を禍々しく躍動させている。
俺を睨む両眼は破綻者のように燃え上がり、牙は、もはや犬のそれではない。狼、熊、虎かライオン……いや、猛獣の牙ではなかった。
妖の、牙だ。
俺は恐怖に喚きながら、ひたすら火焔連弾を撃ち込んだ。
豊かな獣毛が、火の粉を飛び散らせて揺らめく様。
それを見ながら、俺は腕を食いちぎられ、はらわたを引きずり出され、骨を噛み砕かれていった。
●
おじいちゃんは、いっていた。おまえだけが、ともだちだと。
にんげんが、きらいだと。
よのなかの、ほかのにんげんたちも、わたしをきらっていると。
わたしがしぬときは、きっと、そのにんげんたちのだれかにころされると。
ゆるせない。
にんげんが、にんげんのよのなかが、おじいちゃんをころした。
だから、ぼくが、にんげんたちをころしてやる。
みんな、みんな、ゆるせない。
犬を飼うのが、幼い頃からの夢だった。
その夢が叶ったのは、還暦をいくつも越えた頃。事業がどうにか安定し、ペットの世話をする余裕が出て来てからだ。
それまでの私は、鬼畜生だった。
金儲けのために平気で人を蹴落とし、騙し、裏切り、酷使し、利用してきた。我が社の経営規模が拡大してゆく過程で、少なくとも10人以上が命を落としている。自殺、不審死。死因は様々だ。
人など、いくら死んでも構わなかった。私は、とにかく人間が嫌いだった。
だから動物に救いを求めた。動物が好き、と言うより動物に逃げ込んだだけだ。
逃げ込む先として私が選んだのが、道端で雨に濡れていた薄汚い雑種の仔犬である。
ラッキーと名付け、飼い始めてみた。
無能な新入社員のようにおどおどと怯えていたラッキーが、今では凛々しい成犬となって、散歩の時などはこうして私を引きずり回してくれる。
「おおい、待て待てラッキー。このところ足が悪いんだ、あまり走らせるなよ」
振り向いたラッキーが、わんわんと吠える。
リードを握ったまま、私は息を切らせていた。
「まったく……今では、お前の方が強いんだからな。私など、死にかけた老いぼれだ。しかしまあ」
何の変哲もない公園の風景を、私は見渡してみた。
私のように犬を連れて、のんびりと歩き回っている男がいる。
買い物帰り、と思われる母子もいる。はしゃぐ子供と、微笑む母親。
妻と子供のいる男を、私は何人も自殺に追い込んできた。ふと、そんな事を思ってみる。
「……こんな歳まで、よくも生き残ったものだ」
ラッキーが、また一声吠えた。私の呟きに、同意でもしてくれたのか。さっさと死ね、とでも言っているのか。
「ふふ……そう急かすなよ。私の番も、いずれ来る」
公園のベンチに、私は弱々しく腰を下ろした。
足腰は、間違いなく弱ってきている。犬の散歩は、ラッキーではなく私自身の健康のためにしているようなものだ。それも時折こうして休憩を挟まないと、きつい。
ラッキーが、また吠えた。散歩の続きを、せがんでいるのか。
いや違う。私の身に、危険が迫っているのだ。
視界の隅、木陰から、1人の男がゆらりと姿を現したところである。こちらに、右手を向けている。
隔者。私も何度か雇った事があるから、すぐにわかった。
ラッキーが牙を剥き、唸り、姿勢を低くする。
私はベンチから立ち上がり、ラッキーの身体を抱き上げ、遠くに放り投げた。
今から私は不審死を遂げる事になるが、それは私だけでいい。
私の番は、もう来ていたのだ。
●
老人の身体が、ベンチもろとも焼け砕けて遺灰に変わった。
火焔連弾による殺人を、法律で裁けはしない。俺は慌てる事なく悠然と、その場を立ち去った。
仕事をした。それだけだ。
老人の素性など俺は知らない。まあ大勢の人間に、恨まれてはいたようだ。
そいつらが、なけなしの金を出し合って俺を雇った。
泣かせる話だ。俺としては、隔者として仕事をする以外にやりようはない。
七星剣はもう終わりだ。俺たちは各々、自力で仕事を探さなければならなくなる。
それにしても、と俺は思う。
商売のために大勢の人間を死なせてきた男が、飼い犬にだけは愛情を注ぐ。身を呈して守ろうとする。
お笑い種、としか言いようがなかった。
「ペット飼うだけが救いの人生かよ……ったく、発現もしてねえゴミどもはよォ」
嘲笑いながら、俺は振り向いた。
柴犬だか秋田犬だか、その系統の雑種犬であろう。
せっかく御主人に命を救われた犬が、猛然とリードを引きずり駆けて来る。牙を剥き、俺に喰らい付こうとしている。
「何でぇ、仇討ちかよ……クソ面倒くせえ」
俺は大型のナイフを抜いた。これで、日本刀を叩き折った事もある。犬の首を斬り落とすなど、たやすい事だ。
そのナイフが、砕け散った。喰らい付いてきた犬の牙が、刃を噛み砕いていた。
否、それはもはや犬ではない。
その身体は、首輪をちぎりながら膨れ上がり、獣毛と筋肉を禍々しく躍動させている。
俺を睨む両眼は破綻者のように燃え上がり、牙は、もはや犬のそれではない。狼、熊、虎かライオン……いや、猛獣の牙ではなかった。
妖の、牙だ。
俺は恐怖に喚きながら、ひたすら火焔連弾を撃ち込んだ。
豊かな獣毛が、火の粉を飛び散らせて揺らめく様。
それを見ながら、俺は腕を食いちぎられ、はらわたを引きずり出され、骨を噛み砕かれていった。
●
おじいちゃんは、いっていた。おまえだけが、ともだちだと。
にんげんが、きらいだと。
よのなかの、ほかのにんげんたちも、わたしをきらっていると。
わたしがしぬときは、きっと、そのにんげんたちのだれかにころされると。
ゆるせない。
にんげんが、にんげんのよのなかが、おじいちゃんをころした。
だから、ぼくが、にんげんたちをころしてやる。
みんな、みんな、ゆるせない。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.妖の撃破(生死不問)
2.なし
3.なし
2.なし
3.なし
飼い主を殺された雑種犬ラッキーが、ランク3の妖(生物系)と化し、公園を歩く人々を皆殺しにしようとしています。これを止めて下さい。
場所は真昼の公園。妖犬ラッキーの周囲に隔者の屍がぶちまけられており、それを見た通行人たちが悲鳴を上げているところへ、覚者の皆様に駆けつけていただきます。
ラッキーにとっては、視界に入る人間全てが攻撃対象。
皆様が彼の視界に入れば、皆様がまず最優先攻撃目標となります。どなたかお1人でも戦闘可能な間は、通行人にラッキーの攻撃が行く事はありません。
妖犬ラッキーの攻撃手段は牙と爪(物近単)の他、特殊な咆哮で皆様の脳髄にハウリング的ダメージを与えてきます(特遠全、BS重圧・封印)。
とりあえず普通に戦って体力をゼロにすれば、ラッキーを生きたまま行動不能にする事が出来ます。
元の犬に戻すには、ファイヴ本部へ連れ帰っての処置が必要となるでしょう。とどめを刺す、という選択肢も無論ありだと思います。
それでは、よろしくお願い申し上げます。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
7日
7日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
5/6
5/6
公開日
2018年05月24日
2018年05月24日
■メイン参加者 5人■

●
犬っていうのは、飼い主が全てだからな。
飼い犬の行動範囲って、基本的には飼い主と同じだろう。散歩に連れて行ってもらったり、公園なんかで一緒に遊んだり……飼い主と共に過ごした経験、それが世界の全てなんだよ。犬にとっては。
檀家の中でも特に古顔の年配男性が、コロの頭を撫でながら語ったものだ。
コロにとっては、ソラちゃんが全てなんだ。その自覚を持たなきゃいけないよ、とも。
コロは、寺のマスコットだった。
仏ではなくコロを拝みに来る者もいるほどだ。
全て、は流石に言い過ぎではないかと『探偵見習い』工藤奏空(CL2000955)は思う。
だが、このラッキーという犬にとっては、飼い主の老人と共に過ごす環境だけが、世界の全てであったのだろう。
ラッキーは、世界を失ったのだ。
「君は……新しい世界を見つけなきゃいけないよ、ラッキー」
もはや犬とは呼べぬものと成り果てたラッキーに、奏空は語りかけた。『居待ち月』天野澄香(CL2000194)が、それを引き継ぐ。
「貴方にとって、嬉しい事も楽しい事もいっぱいある世界を、私たちと一緒に見つけましょう。ラッキーちゃん」
左右の、細腕と翼を彼女は広げた。
香気の粒子がキラキラと飛散し、覚者5人を包み込む。清廉珀香。語りかけながらも、彼女は戦いの準備を怠りはしない。
ラッキーも、歩み寄って来る覚者5名を、戦いの相手として認識したようである。
大型肉食獣並みの巨体が、風もないのに獣毛を揺らめかせている。
唸りと共に剥き出しとなった牙には、肉か臓物か、とにかく人体の切れ端がこびり付いている。
かつて人間の身体であったものが、ラッキーの周囲にはぶちまけられていた。
彼の飼い主を殺害した犯人の、屍と言うか残骸。
今ラッキーの両眼で燃え盛っているのはしかし、こうして個人への報復を果たしただけで、燃え尽きてくれるような憎しみではなかった。人間という種族そのものに対する、殺意と憎悪の炎だ。
まるで破綻者のような眼光を正面から受け止めながら、奏空は思う。当然だ、と。
ラッキーは、自分の住んでいた世界を失ったのだ。
だから彼は、人間の世界を滅ぼそうとしている。人間を、殺し尽くそうとしている。
「ナナンはねぇ、ラッキーちゃんに……おじいちゃんの分まで、いっぱいいっぱい幸せになって欲しいよぉ」
奏空の前に進み出て前衛を成しながら『ちみっこ』皐月奈南(CL2001483)が言った。
「だから、どうなっても助けるのだ! ほらほら千雪ちゃんも、泣いてないでファイトふぁいとぉ」
「うっく……だ、駄目……僕、動物もの弱いんだよー……」
めそめそと涙を流しているのは『呑気草』真屋千雪(CL2001638)である。
「絶対ハッピーエンドにしようねー、みんな。バッドエンドとスプラッター描写は本当、勘弁だよー」
「人殺しを仕事にするっていうのはつまり、こういう死に方をするって事……」
千雪を背後に庇う格好で、『地を駆ける羽』如月蒼羽(CL2001575)が前衛に立った。
「というわけでラッキー、きみの御主人の命を奪った相手は死んだよ。だから、もうやめよう……ああ、そこの人たち早く逃げて。落ち着いて、公園から離れて」
公園を歩いていた人々が、立ちすくんだり悲鳴を上げたりしている。何が起こっているのか理解出来ず、とりあえず近付いて来ようとする者もいる。
その全員に、蒼羽は避難を促した。澄香も声を投げた。
「この場は危険です、逃げて下さい! 私たちはファイヴです」
「ここはナナンたちのテリトリーなのだ! 皆、近付かないでねぇ!」
奈南の声に合わせて結界が生じ、膨張し、通行人たちを追い払う。
「よし、準備は整った。君を止めるよ、ラッキー」
語りかけながら、奏空は薬壺印を結んだ。
薬師如来の加護が、瑠璃色の光となって覚者全員を包み込んだ。
澄香と奏空、両名による術式防御をキラキラと身にまといながら、千雪が目を閉じる。
「おじーちゃんは安らかに眠ってね。スプラッターしちゃった人も、地獄行きかもだけど出来れば成仏してねー。そしてラッキー……きみは、幸せにならなきゃ駄目だよー」
「それが、おじいさんの願いだ。最後の最後にラッキー、きみを逃がそうとした……おじいさんの気持ち、本当はわかっているんだろう?」
蒼羽の両眼が、静かな光を発した。錬覇法の輝きだ。
「だけど今は、怒りと憎しみが大き過ぎるんだね。それを今から僕たちが打ち砕く」
「いかりと、にくしみ……そんなの全部、ナナンにぶつけちゃえばいいよ!」
奈南が、たおやかに見えて強靭な左右の細腕を広げ、ラッキーに向かって進み出る。
「いっぱい、いっぱい受け止めて、抱き締めてあげるのだ!」
妖と化したラッキーが、その言葉に応じてか、猛然と跳躍した。いや、疾駆か。
「危ない……!」
奏空は動こうとして思いとどまり、まずは錬覇法による戦闘能力向上を実行した。
この5人の中で、外見に反して肉体的に最も頑強な奈南が、まずは妖の動きを身体で止める。それが作戦である。
奈南の細い身体に、ラッキーの巨体が激突した。
大量の鮮血が噴き上がり、ばりばりと凄惨な音が響いた。奈南の肉が、骨もろとも噛み砕かれる音。
だが直後、ラッキーの身体は後方に吹っ飛んでいた。
大型肉食獣並みの巨体が、地面に激突しつつも軽やかに転がって起き上がる。
いくらか距離を隔てて対峙したまま、奈南は血を流し、涙を流した。
「ごめん……ごめんね、ラッキーちゃん……痛かったよね……」
奈南の左肩は、グシャグシャに潰れていた。
左腕をまともに動かせず、右腕だけで『ホッケースティック改造くん』をクルリと構え直しながら、奈南は苦しげに微笑む。
「でも……ラッキーちゃん、強いねえ。ナナンね、ラッキーちゃんに痛い事するのやだけど……強い子と戦うの、キライじゃないよぉ」
彼女の持つ彩の因子の力を注入され、光り輝くホッケースティック。その柄尻が、ラッキーに至近距離から突き込まれたところである。
報復を行うべく牙を剥き、跳躍しようとしたラッキーの巨体が、突然バチッ! と電光に絡み付かれた。
「雷神の檻……あまり得意ではないけれど、使えるのは体術だけじゃなくてね」
微笑む蒼羽の両手で、左右のショットガントレットが静かに帯電している。
ふと、奏空は森の匂いを感じた。
木漏れ日のような光が、奈南の砕けた左肩に降り注いでいる。
「痛っ……痛い痛い、しみるしみる痛いよぉー!」
悲鳴を上げる奈南の左肩が、術式治療の光によって容赦なく修理されてゆく。
「うう……澄香ちゃんの術式めっちゃしみるよぉ」
「我慢なさい。ラッキーちゃんに噛まれるよりは痛くないでしょう」
「どうかなー」
澄香が治療術式を行使している間、蒼羽が、千雪に声をかけていた。
「さあ千雪くんの出番だよ。きみの取っておきを見せてあげよう」
「はい、行きます……ファイヴで性能向上研究中の、これだよー」
千雪が目を開き、高めていた集中力を一気に解放しながら印を結ぶ。
暗黒そのもののような黒色の靄が生じ、ラッキーを包み込んだ。妖の靄。
その中でラッキーが、あらぬ方向に牙を剥き、存在しない敵に食らい付いている。
飼い主を殺した隔者の姿でも、見えているのかも知れない、と奏空は思った。
「さあ工藤くん、今だよー」
「了解です、真屋さん……ラッキー、俺は容赦しないよ。君の飼い主さんよりも厳しく行く!」
奏空は踏み込み、肉声で叫んだ。送受心・改で語りかけようかとも思ったが、やめた。
コロと対話するのに、そんなものは必要なかったからだ。
●
『私は社員・従業員に、我が社のために働け、とは言いません。自分自身のために仕事をしなさい、と言っているだけです。生きるためにはお金を稼がなければいけませんからね。仕事を放棄する、それはつまり生きる事を放棄すると同義なのですよ。仕事をしない人は、ですから私に言わせれば死んだ人。大きな声を出さずにお墓の中で眠っていて下さいと、こう申し上げているわけです』
ラッキーの飼い主が生前、テレビ番組のインタビューで語っていた事である。
彼の経営する会社で、自殺者が出た時のインタビューだ。当然ながら大いに炎上した。
謝罪など一切する事なく彼はこの世を去り、愛犬だけが残されたわけである。
この血も涙も無い社長が、しかし仔犬を拾って可愛がるような人物であった事に、千雪は何故か救いのようなものを感じたのだ。
(インタビュー見た時は、ないなーって思ったけど……あの怖そうなおじいちゃんが、そういう人で良かったよー)
どんな人間にも、優しい部分はある。そういうものなのかも知れないね……というのは蒼羽の言葉である。
(蒼羽さんに……いいとこ、見せられるかなー)
雑念に近い思いを、千雪は頭を振って追い払った。
憧れの人の兄に、良いところを見せる。自分は、そんな事のために戦っているわけではない。
「……ラッキーを、助けないと。元に戻してあげないとねー」
千雪は、次なる術式の準備に取り掛かった。
自分には、例えば今ラッキーに容赦のない斬撃を叩き込んでいる奏空のような戦い方は出来ない。彼に比べて格段に劣る自分の戦闘能力を、まずは底上げするところから始めなければならない。
奏空の斬撃は、まるで剣舞だった。舞踏そのものの軽やかな動きで、しかし凄まじく重い一撃が立て続けに繰り出される。電光と靄に拘束された、ラッキーに向かってだ。
十六夜の連撃だった。
分厚い獣毛と筋肉をもろともに叩き斬られ、大量の血飛沫を宙に咲かせながら、ラッキーは吼えた。
苦痛の悲鳴、ではない。怒りの咆哮、憎悪の咆哮。
飼い主を殺された犬の激情が、千雪の鼓膜を貫通して脳髄を穿つ。脳漿を沸騰させ、頭蓋骨を破裂させようとする。
倒れ込み、頭を抱え、のたうち回っている。自分のそんな動きに、千雪はしばらく気が付かなかった。
千雪だけではない。奏空が倒れ、奈南がうずくまり、澄香がよろめき、蒼羽が膝をついている。
全員、ラッキーの怒りと悲しみを直接、脳髄に叩き込まれたのだ。
「こ……こんなに……」
自分の声が痙攣するのを、千雪は止められなかった。
「ラッキーは……おじいちゃんを喪って、こんなに……悲しいんだねー……」
「悲しくて……悔しくて、たくさん怒って……そんなふうになっちゃったんだねぇ。ラッキーちゃん……」
奈南が、ホッケースティックにすがりつく。
そんな彼女を、澄香が翼で包み込む。
「貴方の悲しみ……受け止めましたよ、ラッキーちゃん」
水行の因子の力が、その翼から奈南の身体へと流し込まれた。深想水だった。
「その悲しみだけが……世界の全てではないんです。だから、お願い……人間全てを、嫌いにならないで……」
「おじいちゃんの事……大好きなんだねえ、ラッキーちゃん。それだけで、ナナン嬉しいよぉ」
回復を得た奈南が、立ち上がって両腕を広げる。
少女の瑞々しい生命力が、覚者5名全員に広がっていった。癒力大活性。
頭蓋骨が破裂しそうなほどの、脳漿の沸騰と脳髄の振動が、治まってゆくのを千雪は感じた。
だが1度、感じてしまったラッキーの怒りと悲しみが、和らぐ事はない。
「その怒りと憎しみ、悲しみの、根底にあるものは何だい? ラッキー……」
問いかけながら蒼羽が、襲い来るラッキーに向かって自ら踏み込んで行く。
「おじいさんに対する、きみの思いと優しさ……僕にはね、そう思えて仕方がないんだよ」
人体を噛み砕く牙をかいくぐり、蒼羽はラッキーと激しく擦れ違った。
「あの鬼のようなおじいさんの、人間相手には見せる事がなかったのかも知れない優しさをね、きみは受け継いでいるんだよラッキー。動物は飼い主に似るって言うだろう? その優しさ、なくさないで欲しいな」
ラッキーの巨体から、鮮血が迸った。豊かな獣毛と強固な筋肉が、ざっくりと裂けている。
ショットガントレットの手刀が、斬撃の形に叩き込まれていた。斬・二の構え。
千雪は思う。自分はまだ、蒼羽のように戦う事も出来ない。
この未熟な力を、術式で高めるしかないのだ。
「ねえラッキー……おじいちゃんって一体、どんな人だったのかなー」
木行因子の力が、無数の木の葉となって周囲を舞う。
その守りを身にまといながら千雪は、テレビでインタビューを受けていた、血も涙もなさそうな社長の顔を思い浮かべた。
あんな冷酷そうな人物が、相好を崩して飼い犬と戯れる。
それはきっと、微笑ましい光景であるに違いなかった。
●
「行くよっ、奈南ちゃん!」
「はいよぉ!」
日本刀とホッケースティックが、嵐の勢いで叩き込まれてゆく。ラッキーの巨体を、左右から粉砕する形にだ。
奏空と奈南、覚者2人による激鱗だった。
ラッキーはしかし粉砕されず、電光と靄の束縛を引きちぎるかのように暴れ狂い、突進した。
その眼前に、蒼羽が立ち塞がる。
「いいよ、おいでラッキー……!」
大型肉食獣並みに巨大化した身体が、蒼羽の細い長身に激突する。肉と骨の噛み砕かれる凄惨な音が、またしても響いた。
「蒼羽さん……!」
澄香は、タロットカードを掲げた。
木行因子の力が、ラッキーに撃ち込まれた。
棘散舞だった。
荊が生じ、妖と化した犬の巨体を切り裂きながら締め上げる。
「ごめんなさいラッキーちゃん……ちょっと、お説教をさせてもらいますね」
タロットカードを掲げて念じ、荊に力を注ぎ込みながら、澄香は語りかけた。
「貴方にとって、おじいさんは優しい人だったんですね。けれど世の中には、貴方のおじいさんしかいないわけではないんです。同じくらい優しい人は大勢います、その蒼羽さんのように……優しい人たちを皆、そんなふうに血まみれにするなんて、誰よりもきっと貴方のおじいさんが悲しみますよ」
「ふっ……僕なら澄香ちゃん、いくら血まみれになっても構わないよっ」
今にも食いちぎられそうな蒼羽の細身が、躍動した。
ラッキーの巨体が投げ飛ばされ、地面に叩き付けられる。公園が、地響きで揺れた。
「四方投げ……実はね、さっきから狙っていたんだ」
弱々しく微笑みながら、蒼羽は大木にもたれかかり、砕けた右肩を左手で押さえた。
緊急の治療が必要だ、と澄香が思った、その時。
倒れていたラッキーが突然、起き上がった。起き上がる動きと跳躍が、ほぼ同時だった。
荊を引きちぎりながら、澄香に襲いかかって来る。
鬱陶しい説教が許せない、とでも思ってくれたのならば、まあ攻撃を引き付ける事に成功したとは言える。
奈南や奏空が、澄香の防護に動いてくれる……よりも早く、ラッキーは止まった。
その巨大な全身を、鋭利な荊の群れが絡め捕り、切り裂き、締め上げている。
澄香の術式、ではない。棘散舞の使い手は、もう1人いる。
「怒りと憎しみは……ここまでに、しておこうよー」
言いつつ千雪が、琴巫姫を掻き鳴らす。
「次は、喜び。何度でも言うよラッキー、きみは幸せにならなきゃ駄目なんだよー」
その音色に合わせて、荊が真っ赤な花を芽吹かせ、咲かせて、すぐに散らせた。
ラッキーの、妖としての力を吸収し散華させた、かのようでもあった。
「……ありがとう千雪くん。助かりました」
「タイミング合っただけだよー。それよりも」
微笑んでいた千雪の表情が、曇った。
「ラッキー……これから、どうなるのかな一」
力尽き倒れたラッキーが、弱々しく牙を剥き、唸る。
その身体が、まるで風船から空気が抜けるかのように縮んでゆく。
澄香はタロットカードを掲げ、木行の癒しを降らせた。
木漏れ日のような術式治療の光が、まずは蒼羽に、他の覚者たちに、そしてラッキーにも降り注ぐ。
ラッキーは、元に戻ったわけではない。
元の犬に戻すには、ファイヴに連れ帰っての処置が必要となる。
問題なのは、その後だ。
「……俺が、飼うよ」
奏空が言った。
「コロは、やきもちやくような奴じゃないし……いやまあ、やくかも知れないけど」
「それが良さそうですね。まあ本当は、私が引き取りたいところですが」
「ナナン、奏空ちゃん家へ遊びに行くよ! ラッキーちゃんのお散歩するよぉ!」
「落ち着いたら僕たちも行こうか、千雪くん」
ラッキーの頭を軽く撫でながら蒼羽が、千雪に微笑みかける。
「……僕じゃなくて、妹と一緒の方がいいかな?」
「な、なななな何を」
呑気草の千雪が、呑気さを失って慌てふためく。
ラッキーが再び、弱々しい唸りを発した。
自分はまだ、人間どもへの憎しみを捨ててはいない。そう言っているようでもあった。
「君のおじいさんは……どんな人だったのかな、ラッキー」
奏空が身を屈め、ラッキーと目の高さを近付けた。
「自分が人間嫌い、と思い込んでいただけかも知れない……そんな人でも好きになれるような世界を、俺は作りたいよ。そこが君の、新しい世界になればいいな……ラッキー、君がまず受け入れなきゃいけない事がある」
そっとラッキーを抱き締めながら、奏空は言った。
「君の大切なおじいさんは、死んだ。殺されるほど、恨まれていたんだ。もちろんラッキーにとって許せないのは当たり前。許せない思いは、これからは俺にぶつけるといい。俺がいるよ。こんな仕事だし、いついなくなるかわかんないけど」
「……駄目ですよ、奏空くん」
これは、うるさがられても鬱陶しがられても言っておかねばならない、と澄香は思った。
「奏空くんがいなくなったら、ラッキーちゃんはまた独りぼっちです。だから……駄目ですよ」
犬っていうのは、飼い主が全てだからな。
飼い犬の行動範囲って、基本的には飼い主と同じだろう。散歩に連れて行ってもらったり、公園なんかで一緒に遊んだり……飼い主と共に過ごした経験、それが世界の全てなんだよ。犬にとっては。
檀家の中でも特に古顔の年配男性が、コロの頭を撫でながら語ったものだ。
コロにとっては、ソラちゃんが全てなんだ。その自覚を持たなきゃいけないよ、とも。
コロは、寺のマスコットだった。
仏ではなくコロを拝みに来る者もいるほどだ。
全て、は流石に言い過ぎではないかと『探偵見習い』工藤奏空(CL2000955)は思う。
だが、このラッキーという犬にとっては、飼い主の老人と共に過ごす環境だけが、世界の全てであったのだろう。
ラッキーは、世界を失ったのだ。
「君は……新しい世界を見つけなきゃいけないよ、ラッキー」
もはや犬とは呼べぬものと成り果てたラッキーに、奏空は語りかけた。『居待ち月』天野澄香(CL2000194)が、それを引き継ぐ。
「貴方にとって、嬉しい事も楽しい事もいっぱいある世界を、私たちと一緒に見つけましょう。ラッキーちゃん」
左右の、細腕と翼を彼女は広げた。
香気の粒子がキラキラと飛散し、覚者5人を包み込む。清廉珀香。語りかけながらも、彼女は戦いの準備を怠りはしない。
ラッキーも、歩み寄って来る覚者5名を、戦いの相手として認識したようである。
大型肉食獣並みの巨体が、風もないのに獣毛を揺らめかせている。
唸りと共に剥き出しとなった牙には、肉か臓物か、とにかく人体の切れ端がこびり付いている。
かつて人間の身体であったものが、ラッキーの周囲にはぶちまけられていた。
彼の飼い主を殺害した犯人の、屍と言うか残骸。
今ラッキーの両眼で燃え盛っているのはしかし、こうして個人への報復を果たしただけで、燃え尽きてくれるような憎しみではなかった。人間という種族そのものに対する、殺意と憎悪の炎だ。
まるで破綻者のような眼光を正面から受け止めながら、奏空は思う。当然だ、と。
ラッキーは、自分の住んでいた世界を失ったのだ。
だから彼は、人間の世界を滅ぼそうとしている。人間を、殺し尽くそうとしている。
「ナナンはねぇ、ラッキーちゃんに……おじいちゃんの分まで、いっぱいいっぱい幸せになって欲しいよぉ」
奏空の前に進み出て前衛を成しながら『ちみっこ』皐月奈南(CL2001483)が言った。
「だから、どうなっても助けるのだ! ほらほら千雪ちゃんも、泣いてないでファイトふぁいとぉ」
「うっく……だ、駄目……僕、動物もの弱いんだよー……」
めそめそと涙を流しているのは『呑気草』真屋千雪(CL2001638)である。
「絶対ハッピーエンドにしようねー、みんな。バッドエンドとスプラッター描写は本当、勘弁だよー」
「人殺しを仕事にするっていうのはつまり、こういう死に方をするって事……」
千雪を背後に庇う格好で、『地を駆ける羽』如月蒼羽(CL2001575)が前衛に立った。
「というわけでラッキー、きみの御主人の命を奪った相手は死んだよ。だから、もうやめよう……ああ、そこの人たち早く逃げて。落ち着いて、公園から離れて」
公園を歩いていた人々が、立ちすくんだり悲鳴を上げたりしている。何が起こっているのか理解出来ず、とりあえず近付いて来ようとする者もいる。
その全員に、蒼羽は避難を促した。澄香も声を投げた。
「この場は危険です、逃げて下さい! 私たちはファイヴです」
「ここはナナンたちのテリトリーなのだ! 皆、近付かないでねぇ!」
奈南の声に合わせて結界が生じ、膨張し、通行人たちを追い払う。
「よし、準備は整った。君を止めるよ、ラッキー」
語りかけながら、奏空は薬壺印を結んだ。
薬師如来の加護が、瑠璃色の光となって覚者全員を包み込んだ。
澄香と奏空、両名による術式防御をキラキラと身にまといながら、千雪が目を閉じる。
「おじーちゃんは安らかに眠ってね。スプラッターしちゃった人も、地獄行きかもだけど出来れば成仏してねー。そしてラッキー……きみは、幸せにならなきゃ駄目だよー」
「それが、おじいさんの願いだ。最後の最後にラッキー、きみを逃がそうとした……おじいさんの気持ち、本当はわかっているんだろう?」
蒼羽の両眼が、静かな光を発した。錬覇法の輝きだ。
「だけど今は、怒りと憎しみが大き過ぎるんだね。それを今から僕たちが打ち砕く」
「いかりと、にくしみ……そんなの全部、ナナンにぶつけちゃえばいいよ!」
奈南が、たおやかに見えて強靭な左右の細腕を広げ、ラッキーに向かって進み出る。
「いっぱい、いっぱい受け止めて、抱き締めてあげるのだ!」
妖と化したラッキーが、その言葉に応じてか、猛然と跳躍した。いや、疾駆か。
「危ない……!」
奏空は動こうとして思いとどまり、まずは錬覇法による戦闘能力向上を実行した。
この5人の中で、外見に反して肉体的に最も頑強な奈南が、まずは妖の動きを身体で止める。それが作戦である。
奈南の細い身体に、ラッキーの巨体が激突した。
大量の鮮血が噴き上がり、ばりばりと凄惨な音が響いた。奈南の肉が、骨もろとも噛み砕かれる音。
だが直後、ラッキーの身体は後方に吹っ飛んでいた。
大型肉食獣並みの巨体が、地面に激突しつつも軽やかに転がって起き上がる。
いくらか距離を隔てて対峙したまま、奈南は血を流し、涙を流した。
「ごめん……ごめんね、ラッキーちゃん……痛かったよね……」
奈南の左肩は、グシャグシャに潰れていた。
左腕をまともに動かせず、右腕だけで『ホッケースティック改造くん』をクルリと構え直しながら、奈南は苦しげに微笑む。
「でも……ラッキーちゃん、強いねえ。ナナンね、ラッキーちゃんに痛い事するのやだけど……強い子と戦うの、キライじゃないよぉ」
彼女の持つ彩の因子の力を注入され、光り輝くホッケースティック。その柄尻が、ラッキーに至近距離から突き込まれたところである。
報復を行うべく牙を剥き、跳躍しようとしたラッキーの巨体が、突然バチッ! と電光に絡み付かれた。
「雷神の檻……あまり得意ではないけれど、使えるのは体術だけじゃなくてね」
微笑む蒼羽の両手で、左右のショットガントレットが静かに帯電している。
ふと、奏空は森の匂いを感じた。
木漏れ日のような光が、奈南の砕けた左肩に降り注いでいる。
「痛っ……痛い痛い、しみるしみる痛いよぉー!」
悲鳴を上げる奈南の左肩が、術式治療の光によって容赦なく修理されてゆく。
「うう……澄香ちゃんの術式めっちゃしみるよぉ」
「我慢なさい。ラッキーちゃんに噛まれるよりは痛くないでしょう」
「どうかなー」
澄香が治療術式を行使している間、蒼羽が、千雪に声をかけていた。
「さあ千雪くんの出番だよ。きみの取っておきを見せてあげよう」
「はい、行きます……ファイヴで性能向上研究中の、これだよー」
千雪が目を開き、高めていた集中力を一気に解放しながら印を結ぶ。
暗黒そのもののような黒色の靄が生じ、ラッキーを包み込んだ。妖の靄。
その中でラッキーが、あらぬ方向に牙を剥き、存在しない敵に食らい付いている。
飼い主を殺した隔者の姿でも、見えているのかも知れない、と奏空は思った。
「さあ工藤くん、今だよー」
「了解です、真屋さん……ラッキー、俺は容赦しないよ。君の飼い主さんよりも厳しく行く!」
奏空は踏み込み、肉声で叫んだ。送受心・改で語りかけようかとも思ったが、やめた。
コロと対話するのに、そんなものは必要なかったからだ。
●
『私は社員・従業員に、我が社のために働け、とは言いません。自分自身のために仕事をしなさい、と言っているだけです。生きるためにはお金を稼がなければいけませんからね。仕事を放棄する、それはつまり生きる事を放棄すると同義なのですよ。仕事をしない人は、ですから私に言わせれば死んだ人。大きな声を出さずにお墓の中で眠っていて下さいと、こう申し上げているわけです』
ラッキーの飼い主が生前、テレビ番組のインタビューで語っていた事である。
彼の経営する会社で、自殺者が出た時のインタビューだ。当然ながら大いに炎上した。
謝罪など一切する事なく彼はこの世を去り、愛犬だけが残されたわけである。
この血も涙も無い社長が、しかし仔犬を拾って可愛がるような人物であった事に、千雪は何故か救いのようなものを感じたのだ。
(インタビュー見た時は、ないなーって思ったけど……あの怖そうなおじいちゃんが、そういう人で良かったよー)
どんな人間にも、優しい部分はある。そういうものなのかも知れないね……というのは蒼羽の言葉である。
(蒼羽さんに……いいとこ、見せられるかなー)
雑念に近い思いを、千雪は頭を振って追い払った。
憧れの人の兄に、良いところを見せる。自分は、そんな事のために戦っているわけではない。
「……ラッキーを、助けないと。元に戻してあげないとねー」
千雪は、次なる術式の準備に取り掛かった。
自分には、例えば今ラッキーに容赦のない斬撃を叩き込んでいる奏空のような戦い方は出来ない。彼に比べて格段に劣る自分の戦闘能力を、まずは底上げするところから始めなければならない。
奏空の斬撃は、まるで剣舞だった。舞踏そのものの軽やかな動きで、しかし凄まじく重い一撃が立て続けに繰り出される。電光と靄に拘束された、ラッキーに向かってだ。
十六夜の連撃だった。
分厚い獣毛と筋肉をもろともに叩き斬られ、大量の血飛沫を宙に咲かせながら、ラッキーは吼えた。
苦痛の悲鳴、ではない。怒りの咆哮、憎悪の咆哮。
飼い主を殺された犬の激情が、千雪の鼓膜を貫通して脳髄を穿つ。脳漿を沸騰させ、頭蓋骨を破裂させようとする。
倒れ込み、頭を抱え、のたうち回っている。自分のそんな動きに、千雪はしばらく気が付かなかった。
千雪だけではない。奏空が倒れ、奈南がうずくまり、澄香がよろめき、蒼羽が膝をついている。
全員、ラッキーの怒りと悲しみを直接、脳髄に叩き込まれたのだ。
「こ……こんなに……」
自分の声が痙攣するのを、千雪は止められなかった。
「ラッキーは……おじいちゃんを喪って、こんなに……悲しいんだねー……」
「悲しくて……悔しくて、たくさん怒って……そんなふうになっちゃったんだねぇ。ラッキーちゃん……」
奈南が、ホッケースティックにすがりつく。
そんな彼女を、澄香が翼で包み込む。
「貴方の悲しみ……受け止めましたよ、ラッキーちゃん」
水行の因子の力が、その翼から奈南の身体へと流し込まれた。深想水だった。
「その悲しみだけが……世界の全てではないんです。だから、お願い……人間全てを、嫌いにならないで……」
「おじいちゃんの事……大好きなんだねえ、ラッキーちゃん。それだけで、ナナン嬉しいよぉ」
回復を得た奈南が、立ち上がって両腕を広げる。
少女の瑞々しい生命力が、覚者5名全員に広がっていった。癒力大活性。
頭蓋骨が破裂しそうなほどの、脳漿の沸騰と脳髄の振動が、治まってゆくのを千雪は感じた。
だが1度、感じてしまったラッキーの怒りと悲しみが、和らぐ事はない。
「その怒りと憎しみ、悲しみの、根底にあるものは何だい? ラッキー……」
問いかけながら蒼羽が、襲い来るラッキーに向かって自ら踏み込んで行く。
「おじいさんに対する、きみの思いと優しさ……僕にはね、そう思えて仕方がないんだよ」
人体を噛み砕く牙をかいくぐり、蒼羽はラッキーと激しく擦れ違った。
「あの鬼のようなおじいさんの、人間相手には見せる事がなかったのかも知れない優しさをね、きみは受け継いでいるんだよラッキー。動物は飼い主に似るって言うだろう? その優しさ、なくさないで欲しいな」
ラッキーの巨体から、鮮血が迸った。豊かな獣毛と強固な筋肉が、ざっくりと裂けている。
ショットガントレットの手刀が、斬撃の形に叩き込まれていた。斬・二の構え。
千雪は思う。自分はまだ、蒼羽のように戦う事も出来ない。
この未熟な力を、術式で高めるしかないのだ。
「ねえラッキー……おじいちゃんって一体、どんな人だったのかなー」
木行因子の力が、無数の木の葉となって周囲を舞う。
その守りを身にまといながら千雪は、テレビでインタビューを受けていた、血も涙もなさそうな社長の顔を思い浮かべた。
あんな冷酷そうな人物が、相好を崩して飼い犬と戯れる。
それはきっと、微笑ましい光景であるに違いなかった。
●
「行くよっ、奈南ちゃん!」
「はいよぉ!」
日本刀とホッケースティックが、嵐の勢いで叩き込まれてゆく。ラッキーの巨体を、左右から粉砕する形にだ。
奏空と奈南、覚者2人による激鱗だった。
ラッキーはしかし粉砕されず、電光と靄の束縛を引きちぎるかのように暴れ狂い、突進した。
その眼前に、蒼羽が立ち塞がる。
「いいよ、おいでラッキー……!」
大型肉食獣並みに巨大化した身体が、蒼羽の細い長身に激突する。肉と骨の噛み砕かれる凄惨な音が、またしても響いた。
「蒼羽さん……!」
澄香は、タロットカードを掲げた。
木行因子の力が、ラッキーに撃ち込まれた。
棘散舞だった。
荊が生じ、妖と化した犬の巨体を切り裂きながら締め上げる。
「ごめんなさいラッキーちゃん……ちょっと、お説教をさせてもらいますね」
タロットカードを掲げて念じ、荊に力を注ぎ込みながら、澄香は語りかけた。
「貴方にとって、おじいさんは優しい人だったんですね。けれど世の中には、貴方のおじいさんしかいないわけではないんです。同じくらい優しい人は大勢います、その蒼羽さんのように……優しい人たちを皆、そんなふうに血まみれにするなんて、誰よりもきっと貴方のおじいさんが悲しみますよ」
「ふっ……僕なら澄香ちゃん、いくら血まみれになっても構わないよっ」
今にも食いちぎられそうな蒼羽の細身が、躍動した。
ラッキーの巨体が投げ飛ばされ、地面に叩き付けられる。公園が、地響きで揺れた。
「四方投げ……実はね、さっきから狙っていたんだ」
弱々しく微笑みながら、蒼羽は大木にもたれかかり、砕けた右肩を左手で押さえた。
緊急の治療が必要だ、と澄香が思った、その時。
倒れていたラッキーが突然、起き上がった。起き上がる動きと跳躍が、ほぼ同時だった。
荊を引きちぎりながら、澄香に襲いかかって来る。
鬱陶しい説教が許せない、とでも思ってくれたのならば、まあ攻撃を引き付ける事に成功したとは言える。
奈南や奏空が、澄香の防護に動いてくれる……よりも早く、ラッキーは止まった。
その巨大な全身を、鋭利な荊の群れが絡め捕り、切り裂き、締め上げている。
澄香の術式、ではない。棘散舞の使い手は、もう1人いる。
「怒りと憎しみは……ここまでに、しておこうよー」
言いつつ千雪が、琴巫姫を掻き鳴らす。
「次は、喜び。何度でも言うよラッキー、きみは幸せにならなきゃ駄目なんだよー」
その音色に合わせて、荊が真っ赤な花を芽吹かせ、咲かせて、すぐに散らせた。
ラッキーの、妖としての力を吸収し散華させた、かのようでもあった。
「……ありがとう千雪くん。助かりました」
「タイミング合っただけだよー。それよりも」
微笑んでいた千雪の表情が、曇った。
「ラッキー……これから、どうなるのかな一」
力尽き倒れたラッキーが、弱々しく牙を剥き、唸る。
その身体が、まるで風船から空気が抜けるかのように縮んでゆく。
澄香はタロットカードを掲げ、木行の癒しを降らせた。
木漏れ日のような術式治療の光が、まずは蒼羽に、他の覚者たちに、そしてラッキーにも降り注ぐ。
ラッキーは、元に戻ったわけではない。
元の犬に戻すには、ファイヴに連れ帰っての処置が必要となる。
問題なのは、その後だ。
「……俺が、飼うよ」
奏空が言った。
「コロは、やきもちやくような奴じゃないし……いやまあ、やくかも知れないけど」
「それが良さそうですね。まあ本当は、私が引き取りたいところですが」
「ナナン、奏空ちゃん家へ遊びに行くよ! ラッキーちゃんのお散歩するよぉ!」
「落ち着いたら僕たちも行こうか、千雪くん」
ラッキーの頭を軽く撫でながら蒼羽が、千雪に微笑みかける。
「……僕じゃなくて、妹と一緒の方がいいかな?」
「な、なななな何を」
呑気草の千雪が、呑気さを失って慌てふためく。
ラッキーが再び、弱々しい唸りを発した。
自分はまだ、人間どもへの憎しみを捨ててはいない。そう言っているようでもあった。
「君のおじいさんは……どんな人だったのかな、ラッキー」
奏空が身を屈め、ラッキーと目の高さを近付けた。
「自分が人間嫌い、と思い込んでいただけかも知れない……そんな人でも好きになれるような世界を、俺は作りたいよ。そこが君の、新しい世界になればいいな……ラッキー、君がまず受け入れなきゃいけない事がある」
そっとラッキーを抱き締めながら、奏空は言った。
「君の大切なおじいさんは、死んだ。殺されるほど、恨まれていたんだ。もちろんラッキーにとって許せないのは当たり前。許せない思いは、これからは俺にぶつけるといい。俺がいるよ。こんな仕事だし、いついなくなるかわかんないけど」
「……駄目ですよ、奏空くん」
これは、うるさがられても鬱陶しがられても言っておかねばならない、と澄香は思った。
「奏空くんがいなくなったら、ラッキーちゃんはまた独りぼっちです。だから……駄目ですよ」
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし
