底岩戸・出
●
遺跡の中は真っ暗だ。赤外線カラー暗視カメラのモニターにも、何も映っていない。単調な映像が続く中、突然、計器が強力な妖力波を計測する。妖力波形はただちに画面下に表示された。ただの人であっても肌が粟立ち、震えさせるほどの妖力波が断続的に三回。
そしてモニターの中央に靄のようなものが現れた。
●
御崎 衣緒(nCL2000001)は問題のシーンを、四十八時間にわたって繰り返し見ていた。メガネの下に細い指を入れて目頭を軽く押す。仮眠とトイレ、そして食事に幾らか時間をとったが、ほとんど座りっぱなしだ。
愛用のマグカップを手に立ちあがって、コーヒーサーバーにおかわりを注ぎに行く。
「ほんとうにこの霧のようなものが事件を起こすの?」
「さあ……」
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は、衣緒の問いかけに短く呟いただけで膝に乗せたファッション雑誌から顔をあげなかった。
「さあ、って……」
件の霧は微かに青い光を放ちながら人の形をぼんやりと取った後、全身から光る触手を伸ばして蠢かせた後、突然、消滅した。
高価な機材にも、AAAから引継ぎ、遺跡の調査に当たっていたファイヴの職員たちにも一切、被害は出ていない。霧――正体不明の妖、妖に分類するのが妥当かどうか分からないが――が遺跡の外へ出た、という報告もなかった。
衣緒は紙コップに眩の分のコーヒーを注いで、ミルクと砂糖と一緒にトレー乗せ、ローテーブルへ運んだ。
「ありがとうございます、御崎博士。砂糖とミルクは結構ですわ」
「ブラックで? 意外ね。てっきり甘党だと……。それで? 貴女の警告に従って遺跡からスタッフを引き上げさせたけど、このあとどうするの」
眩はファッション雑誌を閉じると、紙コップに手を伸ばした。一口すすって顔をしかめる。
「新しく入れ直した方がいいわ、いえ、これはコーヒーの話」
●
「まだ底岩戸の調査が全然進んでいないの。何らかの仕掛けがあるのは確かだから、それを突き止めるまでは、岩戸を壊したり強引にこじ開けたりできないから」
遺跡は傷つけないでちょうだい、と眩は言う。
「現場は調査区画から二十メートルほど距離を取ってアルミ板で囲い、部外者が立ち入らないようにしているわ。霧が現れたら遺跡を壊さないよう調査区域から出るのを待って、アルミの板を越えて住宅地へ向かう前に倒してね」
いまから真っ直ぐ現場に向かえば、現場到着は昼過ぎだ。謎の霧が出現するまでかなり時間がある。幸い、遺跡発掘調査時に使われていた二階建てのプレハブがそのまま残っているので、そこで夜まで待機するのがいいだろう、ということになった。
「暗視カメラや照明がなくても、霧は見えるわ。ぼんやりとだけと時々クラゲみたいに青く光るし、月も出ているから。それに、懐かしの古妖・泥どろたちも、霧の出現と同時に地面から湧きだすから見逃すことはないでしょう」
集まった覚者たちが手をあげる。
眩はその中の一人を指さして、どうぞ、と促した。
「霧が何をしでかすのかって? 霧は……そうね、『歩くゾンビパウダー』って感じ? 行く先々で出会う人に触手を伸ばして体内に潜入、精神を破壊して殺し、妖にしてしまうの。人を襲うたびに大きく強くなって、最終的には鯨のような形で空を飛ぶ――奈良全域に住まう人を大口で一飲みにして殺し、新たに生まれた妖を雨のごとく空から振り落とす」
だから、と眩は冷めた調子で言葉を継ぐ。
「一人も襲わないうちに、アルミ板の内で倒してしまって。わたし個人は霧がどこへ向かおうとしているのかとーっても興味があるのだけれど、ファイヴとしては被害を出させないことが最重要だから」
遺跡の中は真っ暗だ。赤外線カラー暗視カメラのモニターにも、何も映っていない。単調な映像が続く中、突然、計器が強力な妖力波を計測する。妖力波形はただちに画面下に表示された。ただの人であっても肌が粟立ち、震えさせるほどの妖力波が断続的に三回。
そしてモニターの中央に靄のようなものが現れた。
●
御崎 衣緒(nCL2000001)は問題のシーンを、四十八時間にわたって繰り返し見ていた。メガネの下に細い指を入れて目頭を軽く押す。仮眠とトイレ、そして食事に幾らか時間をとったが、ほとんど座りっぱなしだ。
愛用のマグカップを手に立ちあがって、コーヒーサーバーにおかわりを注ぎに行く。
「ほんとうにこの霧のようなものが事件を起こすの?」
「さあ……」
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は、衣緒の問いかけに短く呟いただけで膝に乗せたファッション雑誌から顔をあげなかった。
「さあ、って……」
件の霧は微かに青い光を放ちながら人の形をぼんやりと取った後、全身から光る触手を伸ばして蠢かせた後、突然、消滅した。
高価な機材にも、AAAから引継ぎ、遺跡の調査に当たっていたファイヴの職員たちにも一切、被害は出ていない。霧――正体不明の妖、妖に分類するのが妥当かどうか分からないが――が遺跡の外へ出た、という報告もなかった。
衣緒は紙コップに眩の分のコーヒーを注いで、ミルクと砂糖と一緒にトレー乗せ、ローテーブルへ運んだ。
「ありがとうございます、御崎博士。砂糖とミルクは結構ですわ」
「ブラックで? 意外ね。てっきり甘党だと……。それで? 貴女の警告に従って遺跡からスタッフを引き上げさせたけど、このあとどうするの」
眩はファッション雑誌を閉じると、紙コップに手を伸ばした。一口すすって顔をしかめる。
「新しく入れ直した方がいいわ、いえ、これはコーヒーの話」
●
「まだ底岩戸の調査が全然進んでいないの。何らかの仕掛けがあるのは確かだから、それを突き止めるまでは、岩戸を壊したり強引にこじ開けたりできないから」
遺跡は傷つけないでちょうだい、と眩は言う。
「現場は調査区画から二十メートルほど距離を取ってアルミ板で囲い、部外者が立ち入らないようにしているわ。霧が現れたら遺跡を壊さないよう調査区域から出るのを待って、アルミの板を越えて住宅地へ向かう前に倒してね」
いまから真っ直ぐ現場に向かえば、現場到着は昼過ぎだ。謎の霧が出現するまでかなり時間がある。幸い、遺跡発掘調査時に使われていた二階建てのプレハブがそのまま残っているので、そこで夜まで待機するのがいいだろう、ということになった。
「暗視カメラや照明がなくても、霧は見えるわ。ぼんやりとだけと時々クラゲみたいに青く光るし、月も出ているから。それに、懐かしの古妖・泥どろたちも、霧の出現と同時に地面から湧きだすから見逃すことはないでしょう」
集まった覚者たちが手をあげる。
眩はその中の一人を指さして、どうぞ、と促した。
「霧が何をしでかすのかって? 霧は……そうね、『歩くゾンビパウダー』って感じ? 行く先々で出会う人に触手を伸ばして体内に潜入、精神を破壊して殺し、妖にしてしまうの。人を襲うたびに大きく強くなって、最終的には鯨のような形で空を飛ぶ――奈良全域に住まう人を大口で一飲みにして殺し、新たに生まれた妖を雨のごとく空から振り落とす」
だから、と眩は冷めた調子で言葉を継ぐ。
「一人も襲わないうちに、アルミ板の内で倒してしまって。わたし個人は霧がどこへ向かおうとしているのかとーっても興味があるのだけれど、ファイヴとしては被害を出させないことが最重要だから」

■シナリオ詳細
■成功条件
1.妖・謎の霧を倒す
2.古妖・泥どろの排除
3.底岩戸遺跡の保全
2.古妖・泥どろの排除
3.底岩戸遺跡の保全
奈良県、平城京近くの底岩戸遺跡。
夜、月が出ています。
※、ファイヴ覚者たちが現場に着くのは昼過ぎです。
<調査区/遺跡発掘現場>
・調査区の広さは1,000㎡(六十畳)以上。
東西に長い長方形で、深さは平均2メートルです。
学校の25メートルプールが4つ(縦2、横2)の広さと思ってください。
・調査区のほぼ真ん中に東壁面が崩れたD5トレンチ(遺構)があります。
深さは六メートル。
D5トレンチの東壁面に地中深く続く穴あり、底の岩戸まで続いています。
・調査区から20メートルほど離れたところにアルミ板を立て、囲っています。
・東西に建てられていた写真撮影用の足場は崩され、撤去されています。
<調査区に併設された建物>
・調査区の南側、アルミ板の内側にプレハブ小屋が建てられています。
ファイヴの調査員たちが休憩に使っていたプレハブです。
床面積は畳10畳ほど。二階にキッチンがあります。資料や遺物は残されていません。
・隣にあった遺物一時保管倉庫は壊されています。
ですが電源は確保されており、プレハブの明かりはちゃんとつきます。
回線も繋がっており、ノートPCなどの機材を持ち込めばインターネットもできます。
ただし、めちゃくちゃ遅いです。
●敵 古妖・泥どろ……10体ほど。
人の形で歩き回る泥の塊。
古妖ですが、ほとんど知性がありません。会話は成り立たないでしょう。
泥どろはとても弱く、ほぼ一撃で倒せます。
調査区域の中で発生し、謎の霧を追いかけるように動きます。
覚者が近づくと襲い掛かります。
【生き埋め】……近単物。抱き着いて泥の中に沈め、窒息死させる。ラーニング不可。
【乗っ取り】……近単特。対象の口や耳、鼻から侵入し、寄生する。ラーニング不可。
【泥玉】……遠単物/ダメ0、鈍化、怒り。粘りのある泥の玉を飛ばす。
●敵 妖・謎の霧。ランク3
正体及び詳細不明。心霊系の妖に近いと思われる。人型だが浮遊している。
底岩戸の内より湧きだして、どこかへ向かおうとするが、それがどこかは全く分からないし、その目的も不明。
【青光体】……発光時、神秘攻撃無効。薄いゼリー状の膜で全体が覆われる。
【痺れる触手】……近複物/麻痺。ラーニング不可。
触手で痺れさせて身動きできなくする。ラーニング不可。
【感染と汚染】……近単物/MP・HP吸収。
対象の口や耳、鼻から触手を潜入させ、命を奪い、妖気を流しこむ。ラーニング不可。
【白霧体】……発光していないとき、物理攻撃無効。
【蝕む霧】……近複特/カウンター、錯乱。
霧に触れた者の心を恐怖でむしばむ。ラーニング不可。
※何らかの形で霧の体を硬化させると、物理攻撃も特殊攻撃も通るようになる。
※会話はできないが、呼びかけには何らかの反応を示す。
●その他
・スタッフは全員引きあげており、現場にはファイヴの覚者以外、誰もいません。
パソコン含め、高価な調査機材は残されていません。
インターネットなどで調べものをしたい場合は、各自持っていく必要があります。
・遺跡を傷つけないなら、見て回るのは自由です。
岩戸に続く穴は壁の補強と補修がなされており、通行するだけなら崩れる心配はありません。
なお、削られた岩戸の模様は復元されていません。
・遺跡の近くに住宅街があります。
●STより
そうすけ『底岩戸・現』のゆるい続きものですが、前作を知らなくても問題ありません。
謎の霧へのアプローチ含め、各PCの行動内容で次の展開(シナリオ)が変化します。
なお、謎の霧自体は本依頼で倒してください。
逃がせば依頼失敗となります。
よろしければご参加ください。お待ちしております。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
8日
8日
参加費
150LP[+予約50LP]
150LP[+予約50LP]
参加人数
7/8
7/8
公開日
2017年11月29日
2017年11月29日
■メイン参加者 7人■

●
「のちほどお会いいたしましょう」
勒・一二三(CL2001559)は仲間たちを見送ると、考古学研究所に戻った。遺跡調査に当たっていたスタッフたちから、これまでに解明していることを聞くためだ。
(「……削り取られた岩戸の模様が復元されていれば、『謎の霧』や岩戸の向こう側のことか少しは分かるでしょう」)
しかし、過度な期待は禁物だ。そう自分に言い聞かせながら地下階に降りた一二三は、御崎 衣緒(nCL2000001)博士が管理する研究室の戸を叩いた。
●
辺りは奥深く静かな遺跡の背景を原始林が縁取り、天平の文化遺産である社寺がこれを支え、なお古めいた街地のたたずまいと一体化していた。
「わかりやすく言えば『カビ臭い』のよ」
「おま……なんて言い方をするだよ」
『ゆるゆるふああ』 鼎 飛鳥(CL2000093)のあまりなものいいに 『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076) があわてて注意する。
「いいところじゃないか……銀色の板がめちゃくちゃ周りから浮きまくっているけどさ」
「ええ。このアルミの板がなければ、半年前に来た時とほとんど変わりませんね」
『赤き炎のラガッツァ』ラーラ・ビスコッティ(CL2001080)は、まるで時の流れが止まってしまったかのような古色の景色を見回した。禍々しさなどひとかけらも感じさせない、長閑な昼下がりだ。
「そっか、大妖の事件の影響がこんなところにも……遺跡とか考古学とかって詳しいことは分かんないけど、まだまだ自分達の知らないものが埋まってると思うとわくわくするよね」
『天使の卵』栗落花 渚(CL2001360)はポシェットの中から折りたたんだ紙を二枚取りだした。うち一枚数を広げる。ファイヴを出る前にプリントしておいた、遺跡周辺地域の地図だった。
「一悟くんは、こっちを回ってくれる? 私はこっち。回り切ったら合流して、一緒に南側を回って歩こうよ。はい、これ、一悟くんの分の地図ね」
「おう、サンキュー」
合流地点に赤いバツをつけると、日が暮れるまでに戻ってきます、と言い残して二人は住宅地へ向かった。
『冷徹の論理』緒形 逝(CL2000156)はアルミ板の壁の先に鎖で封じられている入口をみつけ、預かってきた鍵をポケットから取りだした。
「さ、中に入るわよ」
「重要な機材はないそうですが……軍手が残っているといいですね」
ラーラは調査区を自分の目で改めて調べるつもりでいた。専門家ではないゆえに固定観念にとらわれることなく、自由な発想で気づくことがあるかもしれない。遺跡の発掘現場そのものに興味もあった。もちろん、大切な文化財を壊さないように最低限のことは勉強してきている。
(「前にここへ来た時は夜で、しかも雨でしたし……今日は隅々まで調べて回りましょう」)
逝たちが歩きだすと、桂木・日那乃(CL2000941)はランドセルを背負い直した。中にはノートや筆記用具の他に、ファイヴで借りた近畿地図とノートパソコンが入っている。とっくにランドセルは卒業していたが、衝撃に強く、頑丈でたくさん荷物が入るカバンがこれしかなかったのだ。
日那乃と飛鳥は『謎の霧』が出るという夜まで、インターネットで遺跡そのものや周辺地域の情報を掘りだすことになっていた。
「鼎さん? どうか、した?」
歩き出してすぐ、日那乃は飛鳥がついてこないことに気づいて立ち止まった。
「パソコン……重い、の?」
「ううん。ちょっと……あの人に睨まれたような気がしたのよ」
飛鳥が指さした先に、あぜ道を去っていくブルゾン姿の中年男性がいた。あぜ道の向こうに黒いバンが小さく見えている。あれに乗ってきたのだろうか。
「発現、していない、ね。ここに、住んでいる……人?」
「む~。どうして睨まれたのかちっとも訳がわからないのよ。感じ悪いのよ」
もしかしたら憤怒者かもしれない、と日那乃は言った。
逝の黒スーツにヘルメット姿もなかなか人目を引くが、発現しているかどうかは一般人には分からない。それに比べて飛鳥のウサギ耳は発現者であることが一発で分かる。だから男は飛鳥を睨んでいたのではないだろうか。
「日那乃ちゃん、一悟たちに――」
「声、届かない……と、思う」
飛鳥は手を額にかざして遠くへ目を向けたが、風景の中に渚たちの姿は見当たらなかった。
●
調査員たちが使っていたプレハブはきちんと掃除されていた。どうしても一階は砂や砂利でざらざらしがちだが、隅々まできれいに掃かれており、おかげでスリッパを掃かなくても足の裏がざらつかなかった。
「あ、あった。よかった」
発掘現場には必ずあるトランシットなどの測量機器や暗視カメラ、パソコンの類はすべて運び出されていたが、軍手などの消耗品はそのまま棚に残されていた。
ラーラは棚から軍手を二組取りだして、一つを逝に差し出した。
「それで、その男は武器らしきものを携帯していたかね?」
受け取った軍手を皮手袋の上からつけながら、骨董屋の主は少女たちを振り返った。
「なかったのよ!」
「……判らない」
断言する飛鳥に対し、日那乃は慎重に報告する。
「ふむ。憤怒者と決めつけるには判断材料に乏しいわね。ただ単に発現者がキライな一般人かもしれないし」
実行部隊が全滅したイレブンに、覚者を襲おうなどと考える憤怒者はほぼいない。また、イレブンやその他有力な憤怒者組織が動いているのであれば、ブリーフィングで夢見が警告してくれていたはずだ。
「まあ、あの二人なら、大丈夫さね。それよりも、調査を始めよう」
日那乃たちが二階に上がると、逝とラーラはプレハブを出た。眼前に広がった一面の青に日差しが照り返し、目を刺激する。
最近、雨は降っていなかったが遺跡保護のために覆ったのだろう。ブルーシートが落下したり、風で飛んで行ったりしないように、四角い調査区域の端に点々と重しの白い土嚢が置かれていた。底岩戸に続く穴もブルーシートの下だ。
「これ、全部ははがしますか?」
「そうさね……夜、泥どろが出たときにシートがあると位置が把握しにくい。撤去しておこうかね」
土嚢の移動も力仕事だが、ブルーシートを引き上げて折りたたむのも結構な重労働だ。広い調査区の半分を開けるころには二人とも、腕のだるさと土埃にウンザリしていた。
その頃、プレハブの二階では――。
飛鳥がネットサーフィンに飽きていた。
分からなければネット検索しろ、と簡単に言う人たちがいるが、効率の良い検索の仕方を知っていなければなかなかお目当ての情報にはたどり着けない。たくさん上がってくる検索結果の真贋を見極める知識や知恵も必要になる。
電波障害が解消する以前から、この妖に閉ざされた国にもインターネットは存在していたが、パソコンや携帯電話そのものが普及し始めたのはごく最近の事だ。
小学生の飛鳥と日那乃はネット……どころかパソコン初心者だった。
「ああ、もう! それっぽいページに飛んでも、ほとんど知りたいことが書かれていないのよ!」
しかも通信速度が遅く、異常にページの表示が遅い。中には何も画面に出ていないうちから大音量でBGMを鳴らすページもあり、二人をイライラさせていた。
ちなみに、通信速度が遅いのは電波障害が残っていたり、外部からウイルスによる攻撃を受けていたり……しているためではなく、単に回線が遅いというだけの事である。
エレクトロテクニカのおかげで、パソコンの基本操作にこそ手間取らなかった日那乃でさえ、捗らない調査にはウンザリしていた。
「イライラをおさめるためには甘いものが大量に必要なのよ、ちょっとおやつを買いに行ってくるのよ!」
「あ、駄目。鼎、さん、勝手、に――」
日那乃は席を立った飛鳥に手を伸ばしたが遅かった。
トントントン、と軽やかに階段を駆けおりて行ったかと思うと、勢いよく引き戸を開けて、また締める音がベニヤ板の壁に響く。
外から「行ってきますのよ」という声が聞こえてきた。
(「もう……」)
日那乃はため息をついた。これまでに分かったことはほとんどないというのに、ひとりで調査を続けなくてはならない。
ランドセルから鉛筆とノートを取りだして、飛鳥が開いていったままのノートパソコンを覗き込む。二度手間を避けるために、検索ボックスに打ち込まれている単語を書き写した。
「何か、出てくる……と、いい、けど」
古妖、泥どろの名称そのものや、特徴を打ち込んで検索をかけると、先春に自分たちが解決した依頼に関する記事が表示された。すべて開いて目を通していたが、どれもこれも似たようなことしか書かれていない。
何枚も検索ページをめくってたどり着いたゴシップ系のニュースサイトで、『ニギハヤヒと泥に沈んだ磐船』という記事を見つけた。が、これは遺跡とはあまり関係がなさそうだ。たんに『泥』という単語が引っ掛かって出てきたのだろう。物語の主となる場所も生駒山の山頂で、この遺跡がある大和盆地ではない。
それでも何か気にかかり、大まかな内容をノートに書き写していく。
(「大和盆地は十連五芒星環による『縄張り結界』? 何を、封じて、いる……のか、書いて、ない。レイ……ラインって?」)
解らない単語ばかりだ。ひとつひとつ調べたいところだが……。
いつの間にか部屋の中が暗くなっていた。プレハブの窓から見える空一面、茜色に染まっている。
日那乃は照明をつけるためにパイプ椅子から立ち上がった。スイッチを入れる。
明るくなった室内を何気なくみまわしていると、机の上にぽつんと置かれた黒電話に目がとまった。
一二三から連絡がない。ファイヴでなにかあったのだろうか。
(「……それに、鼎さんも。遅い」)
間もなく太陽が山の向こうに沈み、盆地が闇で満たされる。暗くなるにつれて気温が下がって来た。ストーブに火をつけながら、ふと、一悟と渚の二人も帰ってきていないことに気づく。
日那乃の胸に底知れぬ不安がこみ上げてきた。
●
「ありがとうございます。助かりました。あ、危険なので早めにご帰宅くださいね」
渚がそう告げると、和服の女性はペコリと頭を下げてスーパーの方向へ歩いていった。
地図を開いて、女性に教えてもらった自治会長の家を確かめる。これまでに尋ねた家は留守が多かった。帰宅時間を狙って再度訪問している時間はない。どうしたものかと、途方にくれていた時に、先ほどの女性と出会い、そう言うことであれば、と自治会長の家を教えてもらったのだ。
歩き出してほどなく、子供100当番の黄色い旗が掲げられた門に行き当たった。この地域の自治会長、河田さんの家だ。インターホンを押して訪問を告げると、頭の禿げあがった人のよさそうな老人が出てきた。
「こんにちは。ファイヴの栗落花 渚といいます」
近くの遺跡で夜に凶悪な妖が発生することを告げ、地域住民に夜間外出をしないように警告して欲しいと頼んだ。
「それは大変だ。さっそく電話しましょう」
二つ返事で快く引き受けてくれた老人を呼び止める。
「あの、失礼ですが昔からこのあたりにお住まいですか? 遺跡に関する昔話など、何かご存じでしたら教えてください」
老人は唸った。
「そういうことは神社かお寺さんに行って聞いたほうがいいよ。調査していた人たちに聞くとか」
自分が受け持つ地区にあった小さな神社にはもう行って話を聞いている。神主からは、河田老人と同じことを聞かされていた。
渚は協力の礼をいい、自治会長の家を後にした。
プリントアウトした地図を見ながら、小春日和の狭い路地裏を歩く。
「お姉ちゃん、いい人で強い?」
えっ、と驚いて立ち止まり、声のした方へ顔を向ける。
生垣の横からおかっぱ頭の女の子が顔を覗かせていた。その目はじっと渚に据えられていたが、虚空を見つめているようにも思える。生気のない顔の横に白い塊、浮遊系の守護使役が浮かんでいた。
「お姉ちゃん、いい人で強い?」
少女はもう一度、同じことを口にした。
渚の足の横を枯れ草が転がっていく。
「うん! 強くていい人、覚者だよ」
わずかに躊躇った後、渚は笑顔で応えた。
「ここに……描いてもいい?」
何を、と言いながら一歩、少女に向かって足を踏み出した。とたん、少女が画用紙を突きだす。
「だめ、こないで。バリアの中に入らないで!」
(「バリアって……線が地面に引いてあるだけなんだけど。この子、結界が作りたいのかな?」)
ふっと浮かんだ微笑みが、画用紙に書かれた絵を見た瞬間に凍った。
「この前、二かいのマドから板のむこうにいるのを見たの。……でも、みんな信じてくれない。夢をみたんだって。あそこはふあぃぶのちょうさいんがいるから、こんな妖がいるはずないって」
クレヨンで描かれた稚拙な絵。だが、見間違えようもないほど妖の特徴をよく捉えて描かれている。
「お姉ちゃん強いなら……お守りにする。妖の隣に描いてもいい?」
画用紙の左半分に描かれていたのは、通称つぎはぎ女。認識名パッチワークレディと呼ばれるランク4の妖だった。
●
ブルーシートを撤去した後、ラーラは調査区を一回りしてD5トレンチへ降りた。
人間の生々しい営みの痕跡と、流れ去りはしたが決して消えることのない時間が作った断層の分線の一本にそっと指を這わせる。
土層図を作るため一定の高さごとに張られた黄色いビニール線の下に、時が刻んだ見事な歴史的文様が息づいていた。ところどころにつけられた新しく小さな穴は、分層ごとの土の色調や性質、含有物を調べるためにサンプルを採られたあとだ。
ゆっくりと底岩戸への入口に向かって体を横に移動させる。
(「自然堆積なら自然と忘れ去られて、不自然な一括堆積なら故意に誰かが埋めたんだってことが分かるはず――ああ、やっぱり」)
第一層には粘土と砂などが重なっている。粘土は中世の水田、砂は水田をおそった洪水で流されてきたもののようだ。トレンチ近くの遺構から、中世の人々が、洪水で被害を受けては水田を作り直したことがわかっている。
第二層は石灰岩の角礫を多く含んでいる。第三層、第四層と少しずつ厚みを変えながら積み重なる土層がいきなり第三層のあたりから暗青灰の土で断ち切られていた。
何かを立てようとして土地を掘り起こし、見つけてしまったのか。埋め立てに使った土はどの地層のものとも異なる。
底岩戸に続く穴がある暗青灰色粘土質が縄文時代の遺物が入る層で、その上の黄褐色土は弥生時代の初頭頃までには溜まっていたものだろう。
ラーラは掘り返された斜面の土を、取りだしたペレットナイフの先で軽く削り取った。採取した土に鼻を近づけて嗅ぐ。
嫌な臭いがした。
暗視を活性化して、遺構に開けられた穴をくぐった。壁に注意を向けながら、慎重に斜面を下っていく。
ひんやりとした空気が足首を霞めた。前の依頼の後で、壁や天井は崩落を防ぐために鉄パイプを組んだ柵でところどころ補強されていたが、それが急に心細いものに感じられだした。急に壁がじっとりとしだしたように思え、天井が下がったような気がする。
(「気のせい気のせい……」)
小さく活を入れると、ラーラは再び坂を下りだした。
途中の壁面には何も書かれていない。暗青灰の粘土質な土壁が延々と続く。ところどころで大きめの礫が壁の表面に顔を出しているが、意図されたものではなさそうだ。
途中の竪穴を梯子で降りて、横穴を進む。横穴は暗青灰の土から岩壁に代わっていた。明らかに作りが違う。期待をこめて壁や天井に目を向けると、人工的につけられた微かな線を見つけた。
(「唐草の内に象形文字……ローマ字のようにも見えるし、あ、これ漢字かも?」)
未と読める模様の近くに甲の様な模様を見つけたが、他に漢字のような模様は見当たらなかった。
穴の奥、底岩戸のある大きな洞の中に動く人影を認め、軽く会釈する。が、人影――逝は何かに気を取られているようだ。岩戸の前で体を屈めて何かを取っている。
ラーラはもう少しだけ岩壁を調べることにした。
●
戦いの邪魔にならないように土嚢をアルミ板の外へ一時的に移動させた逝は、プレハブに懐中電燈を取りに戻った。一本だけ、机の引き出しの中に残されていたのだ。
それから真っ直ぐD5トレンチに降りて、懐中電燈の細い光を頼って地の底にある底岩戸の前まで来ていた。
(「嫌な感じがするねえ……」)
「先生」と覚者たちに呼ばれていた悪党の死体は、とっくに底岩戸の前から引き上げられている。殺された場所が場所だけに、線香も花も添えられていない。寂しい限りだ。たとえ遺跡の中でなかったとしても、男をともらう者がいたとは思えなかった。
(「噺家ちゃんがきていた可能性は……いや、それはないわね。縁が続いていたなら、なんだかんだといっても助けに来ていただろうし」)
所詮は捨て駒だったのだろう。噺家たちはこの遺跡とは関係がない。それにしても、と逝は別の古妖に思いをはせる。
(「あの泥は前回、岩戸を開ける為に湧いたんでしょ。問題の霧は岩戸を開けずに湧いた……として」)
――その前提が間違っていたとしたらどうかね?
「ん? いま何かいったかね?」
逝は頭の斜め上に浮かぶ守護使役にフルフェイスの面を向けた。
みずたまはゼリー状の体をフルフルと震わせて否定した。
気のせいにしてはやけにはっきりと聞こえた。いや、直接脳で感じたと言った方が正しい。
体を回してあたりに隈なく視線を這わせたが、ほかに誰もいなかった。もしや、介入によって夢見の予知が狂い、例の霧が早くも出て来たか。
しかし、妖気はまったく感じなかった。
「とりあえず、いまのは無視するとしよう。どれ――」
懐中電燈を底岩戸に向ける。弱く黄色く弱々しい光が、計らずしも削り取られた模様の無残さを鮮明に浮きあがらせた。
底岩戸は巨大な一枚岩だ。削り取られているのは岩戸の下部だけで、文化財を破損させた犯人はこの戸を開いて向こう側へ逃げ込んでいる。
ギリギリまで下がってなんとか岩戸全体を視界に納めると、戸の表面に三本の柱が見てとれた。柱と柱の間を細い支柱が繋いでいる。それに六つの円。恐らく削り取られている下部にも柱が伸び、同じような円が配置されていたに違いない。
(「はて……どこかで見たような気がするぞ」)
こんどは岩戸に近づいて、一番近いところにある――といっても頭の遥か上の円に懐中電燈の光をあてた。
逝は光によってできた影の中に、円にそって掘り込まれた深い溝を見出した。一番上のほうは分からないが、六つ円すべてに溝がある。もしかすると、あの円ははめ込み式かもしれない。下をよくよく見ると、削り取られた部分にちょうど六つの円と同じ大きさの凹みを見つけた。
「みずたまや、ちょっとそこのへこみに張りついて、型を取っておくれ」
守護使役は指示された場所で岩戸に密着すると、体を窪みに合わせて変形させた。
「おしりを壁と同じ高さで平にして。そうそう、そのまま、そのまま……」
体を屈めてみずたまの端に指をひっかけ、そっと窪みから外した。
みずたまの体は、一部深く削り取られた部分を除いて、目に見えない繊細な模様まで写し取っていた。分かりやすいように、体を変化させて表面の模様を強調してもらう。
「鏡……青銅の鏡みたいですね、それ」
後ろにラーラが立っていた。
「そっちは何か見つかったかね?」
「岩の壁に唐草と文字らしき模様をいくつか見つけました。それに虫とか動物のような模様も。たぶん、ここを調査していたスタッフも見つけているはずですが……その鏡を見て、いま、ピンときたものがあります。緒形さんが手にしているそれは、方格規矩鏡ではないでしょうか」
逝は微かに首を傾げた。方格規矩鏡と言われてもさっぱりだ。
「青銅の鏡といえば神獣鏡や三角縁神獣鏡が有名ですが、弥生時代から前は内行花紋鏡や方格規矩鏡が古墳の副葬鏡でした。地層とも年代がほぼ合致しています」
ラーラは、ここを見てください、とみずたまの表面を指さした。
くすぐっかったのか、みずたまが形を保ったまま細かく震える。
「これ、少しぐらい我慢おし。それで、ここが何か?」
「ここの紐周りの方格内に私が壁で見つけたのと同じ模様――十二支の文字が入っているのが分かりますか?」
逝は象形文字のようなものの中に、比較的わかりやすい文字があるのを認めて頷いた。
「そして、十二支で方角を定めた四方に四神が配されています。東の青竜、南の朱雀、西の白虎、北の玄武……やはりこれは方格規矩鏡に違いありません」
「では、ここには本来、青銅の鏡がまっていたということかね?」
鏡を持ち去ったのは間違いなく笹垣主任調査員だろう。調査員の大福寺がつぎはぎ女にさらわれていなければ、はっきりと確認が取れたはずだ。
逝はもう一度、みずたまを窪みにはめ込んだ。
「ふむ、魔鏡か。光を反射させて壁を照らすと、照らされた場所に文字や絵が浮かび上がるという」
しかし、底岩戸の正面は穴だ。竪穴と繋がっている端まで鏡に反射した光が届いたとしても、鮮明な像を岩肌に浮かばせるとは思えなかった。それに底岩戸が地表に出ていたときには先に壁などなかった可能性がある。
「一体、何に反射させていたのかねえ」
逝はみずたまのおしり――鏡に当たる部分に懐中電燈の光を当てた。ぼんやりとした光が跳ね返って、正面に立っていた逝の体を包み込む。
「お、緒形さん!?」
淡い光の中で、逝の体が霧の様なものに象られ、二重にぶれていた。重なった状態は長く続かず、霧のようなものがすっと横にずれた。
――やあ、アレクセイ。ここは「初めまして」ということろかね?
――ん、おっさん?
――おっさんは……光りを拒絶する「闇」に密やかに息衝く言霊、沼男だよ。アハハハ!
他の人格が具現化した存在だといわれても、逝はさほど驚かなかった。どうやら霧の声が聞こえていないらしいラーラをそっと背の後ろに隠し、冷淡かつ平らな声で問いかける。
「さっきの声はお前さんかね? あれはどういう意味か教えてもらおうか」
――ほんとうはもう解っているくせに。
――古妖と妖は似て非なるものさね。
――あの泥は岩戸を開ける為に湧いたんじゃない。逆だ、逆。あれは……
そこで懐中電燈の電池が切れた。
●
日没直後の暗に沈む道を、渚は全速力で遺跡まで駆け戻った。
おかっぱの女の子に、つぎはぎ女は私たちファイヴが必ず倒すから安心していいよ、と言って別れ、一悟と約束した合流地点に向かったのは三時間も前の事だ。
空が夕焼けに染まりだしても現れない一悟に業を煮やした渚は、反対側の地区に向かい一悟を探して歩いた。が、どこにもいない。一軒一軒、家を訪ねて話を聞いて回ったが、誰も一悟の姿を見ていなかった。
道の反対側から慌てて走ってくる一二三と出会ったのはその時だ。
「いっちーが……奥州さんが、人と妖の集団に襲われて瀕死です。偶然、倒れているところを見つけた鼎さんが懸命に治療して……僕は、途中で……」
飛鳥が意識を失う直前に一悟から話を聞きだしていた。ランク1相当のつぎはぎの犬一匹と、妖を従えた複数の人間たちに突然囲まれ、襲われたのだという。「人の革新の為」といいながら、見たこともない武器で殴りかかってきたらしい。
渚は迷った末に、一二三を残していくことにした。
身動きの取れない一悟と治療にほとんど源素を使い切っている飛鳥の二人だけにしておくと、もし、件の集団が戻ってきた時に守り切れなくなる。どちらかが残らねばならないのなら、遺跡のほうに少しでも戦力となれる者が戻るのが最適解だろう。そう考えての決断だった。
土嚢が高く積まれた出入口のバリケードを飛び越すと、渚はプレハブを目指した。あんなものは昼にはなかったのに、とちらっと後ろを振り返りながら引き戸に手をかけた。
「聞いて! 底岩戸の模様は『セフィロトの樹』に酷似しているんだって! 逆さらしいけど。それでね、一悟くんが大変――って、あれ? 日那乃ちゃん、だけ?」
「栗落花さん、は、一人? それに……『セフィロトの樹』って? もしかして、碌さんと、一緒、だった?」
とにかく落ち着いて、と日那乃が椅子を勧める。
ひと息ついたところにラーラと逝が戻ってきた。
「奥州さんと一緒ではないのですか?」
渚は多少話が前後しながらも、近くの住宅地でパッチワークレディの目撃証言を得たこと、一悟が謎の集団に襲われたことについて話した。
「珍しいケースだけど、おっさんたちの介入で予知の内容が少し変わったみたいね。それで……奥州ちゃんをここへ運んでは来られなかったのかね?」
「それも考えたんだけど……一悟くん、まったく意識がないみたいだから。ここへ運んで、もし、戦闘に巻き込んでしまったら、と思って。あ、ファイヴに連絡しなきゃ!」
「もう、した……よ」
日那乃が階段を降りながら言った。いつの間にか二階へあがって、報告と緊急回収の連絡をしていたらしい。
「欠員のバックアップは?」
ラーラが聞くと、日那乃は横に首を振った。
「今から……無理。間に合わない、て……」
「しかたがありませんね。もう、霧がいつ出てきてもおかしくない時間ですし、外に出ましょう」
幸いというべきか。謎の霧が出てくる場所ははっきりとしている。D5トレンチを見張っていれば見逃すことはない。
問題は――。
泥どろを排除すべきか、逝はプレハブを出るギリギリまで迷い続けた。七人揃っていれば様子見もできただろうが、沼男が言いかけたことを検証する余裕はない。万が一にも謎の霧を遺跡の外へ出してしまえば、人命にかかわる。
「見つけ次第、泥は焼こう」
隣で重々しく頷いたラーラは調査区の南側へ向かった。
日那乃は懐中電燈の灯りをつけると、翼を広げて空へ上がった。
一二三を欠くいま、遺跡全体を見渡し、いち早く泥どろを見つけることができるのは日那乃だけだ。調査区上空、やや北よりの場所で待機する。
「きらら、灯りをお願い」
守護使役が灯す火で足元を照しつつ、渚は東側に回る。
「では、おっさんは予定を変更して西へ行くとするかね」
北にはプレハブ小屋がある。囲いの外へ出ようとするならば、二階建てのけっして小さくはないプレハブを迂回するなり飛び越すなりしなくてはならない。多少は移動の障害になってくれるだろう。
全員が配置についた。調査区に顔を向けて立ち、異変を見張る。
間もなく、月が光る空から古妖出現の報が発せられた。
「南! 六体、ビスコッティさん、の、後ろ! 西南に三体、東に一体!」
ラーラは早速、守護使役のペスカから黄金の鍵を受け取ると、煌炎の書の封印を解いた。
「未調査の遺跡を壊すわけにはいきませんし、一般の方々を妖の脅威に晒すわけにもいきません。大変な依頼ではありますが、私にとってはどちらも守りたいものですし……」
泥どろの真の目的が何であれ、今回も全力で倒す。
決意をにじませた声で詠唱する。
「良い子に甘い焼き菓子を、悪い子には石炭を……イオ・ブルチャーレ!」
炎の波が周囲を昼のように照らしながら、地より湧き出た泥どろをまとめて焼き払う。
逝は長い足を生かしてあっという間に角を回り込むと、妖刀・悪食を振るって、調査区の中へ落ちようとしていた泥どろを纏め切りにした。
時を同じくして、東で、渚が妖器・インブレスの太い針を泥どろの額に刺す。
「霧! 東……浮きながら、向かってる」
「どんなつもりがあって外を目指してるのか知らないけどさ、私が来たからにはこの先には行かせないよ!」
渚は泥の塊から針を引き抜くと、点滅を繰り返しながら向かってくる霧にその先を向けた。
「ち、ちょっと!?」
謎の霧はまだ調査区の中を漂っている。ただ、移動しながら少しずつ浮き上がり、すでに渚の目の上にまで達していた。このままでは、翼をもつ日那乃以外、手が出せなくなってしまう。ただでさえ、物理無効と神秘無効を交互に切り替える面倒な体質だというのに――。
「桂木ちゃん! 構わないから、上から叩き落としておしまい! 人命最優先さね!!」
「うん、わかった」
日那乃は謎の霧に急接近すると、青発光が収まるのを待って、真上からギロチンよろしく薄い氷の刃を落とした。
「凍……って!」
狙い道理、霧が結晶化して妖の一部が遺跡の上に落ちていく。空に残った一部が日那乃の足に触れた。
すぐさま渚が癒しをつかさどる青い鳥を飛ばして回復させる。
攻撃に怯えた霧の残りが、D5トレンチの方へ戻り始めた。岩戸の中へ戻るつもりか。
逝は迷わず調査区の中に飛び降り、底岩戸へ続く穴の前に先回りした。
一方、日那乃に凍らされて固体化した霧の一部は、調査区の東の土壁をよじ登り始めていた。
ラーラが駆けつけ、指先より炎を流し飛ばして威嚇する。
妖は炎にあぶられて溶けて霧に戻り、すぐに青く光ってゼリー状の膜に覆われた。
「駄目!」
壁を登り切った妖の頭に、巨大な注射器が目にもとまらぬスピードで三度、振り下される。土壁の一部とともに妖は粉々に砕けた。
「落ち、て!」
日那乃が薄氷を飛ばして謎の霧の残りを凍らせる。
「眩ちゃんが行き先を気にしていたし……手短に」
逝は立ち上がった霧――凍った小人のようなものに短く問いかける。
「家に帰りたい? 違う……。ふむ。呼ばれた? イエスでもあり、ノーでもある……そうかね。誰に?」
底岩戸の穴から妖力波が断続的に四回、空気を震わせながら吹きだしてきて逝の背中を押した。
東南の方角へ頭を向け、次に西南の方角へ頭を向けたあと、妖は凍った体を伸ばして氷柱に変え、刺してきた。
数本が遺構を削り、D5トレンチの側壁を突き崩す。
バランスを崩しながらも逝は悪食を振り上げ、妖刃に謎の霧を食らわせた。
「のちほどお会いいたしましょう」
勒・一二三(CL2001559)は仲間たちを見送ると、考古学研究所に戻った。遺跡調査に当たっていたスタッフたちから、これまでに解明していることを聞くためだ。
(「……削り取られた岩戸の模様が復元されていれば、『謎の霧』や岩戸の向こう側のことか少しは分かるでしょう」)
しかし、過度な期待は禁物だ。そう自分に言い聞かせながら地下階に降りた一二三は、御崎 衣緒(nCL2000001)博士が管理する研究室の戸を叩いた。
●
辺りは奥深く静かな遺跡の背景を原始林が縁取り、天平の文化遺産である社寺がこれを支え、なお古めいた街地のたたずまいと一体化していた。
「わかりやすく言えば『カビ臭い』のよ」
「おま……なんて言い方をするだよ」
『ゆるゆるふああ』 鼎 飛鳥(CL2000093)のあまりなものいいに 『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076) があわてて注意する。
「いいところじゃないか……銀色の板がめちゃくちゃ周りから浮きまくっているけどさ」
「ええ。このアルミの板がなければ、半年前に来た時とほとんど変わりませんね」
『赤き炎のラガッツァ』ラーラ・ビスコッティ(CL2001080)は、まるで時の流れが止まってしまったかのような古色の景色を見回した。禍々しさなどひとかけらも感じさせない、長閑な昼下がりだ。
「そっか、大妖の事件の影響がこんなところにも……遺跡とか考古学とかって詳しいことは分かんないけど、まだまだ自分達の知らないものが埋まってると思うとわくわくするよね」
『天使の卵』栗落花 渚(CL2001360)はポシェットの中から折りたたんだ紙を二枚取りだした。うち一枚数を広げる。ファイヴを出る前にプリントしておいた、遺跡周辺地域の地図だった。
「一悟くんは、こっちを回ってくれる? 私はこっち。回り切ったら合流して、一緒に南側を回って歩こうよ。はい、これ、一悟くんの分の地図ね」
「おう、サンキュー」
合流地点に赤いバツをつけると、日が暮れるまでに戻ってきます、と言い残して二人は住宅地へ向かった。
『冷徹の論理』緒形 逝(CL2000156)はアルミ板の壁の先に鎖で封じられている入口をみつけ、預かってきた鍵をポケットから取りだした。
「さ、中に入るわよ」
「重要な機材はないそうですが……軍手が残っているといいですね」
ラーラは調査区を自分の目で改めて調べるつもりでいた。専門家ではないゆえに固定観念にとらわれることなく、自由な発想で気づくことがあるかもしれない。遺跡の発掘現場そのものに興味もあった。もちろん、大切な文化財を壊さないように最低限のことは勉強してきている。
(「前にここへ来た時は夜で、しかも雨でしたし……今日は隅々まで調べて回りましょう」)
逝たちが歩きだすと、桂木・日那乃(CL2000941)はランドセルを背負い直した。中にはノートや筆記用具の他に、ファイヴで借りた近畿地図とノートパソコンが入っている。とっくにランドセルは卒業していたが、衝撃に強く、頑丈でたくさん荷物が入るカバンがこれしかなかったのだ。
日那乃と飛鳥は『謎の霧』が出るという夜まで、インターネットで遺跡そのものや周辺地域の情報を掘りだすことになっていた。
「鼎さん? どうか、した?」
歩き出してすぐ、日那乃は飛鳥がついてこないことに気づいて立ち止まった。
「パソコン……重い、の?」
「ううん。ちょっと……あの人に睨まれたような気がしたのよ」
飛鳥が指さした先に、あぜ道を去っていくブルゾン姿の中年男性がいた。あぜ道の向こうに黒いバンが小さく見えている。あれに乗ってきたのだろうか。
「発現、していない、ね。ここに、住んでいる……人?」
「む~。どうして睨まれたのかちっとも訳がわからないのよ。感じ悪いのよ」
もしかしたら憤怒者かもしれない、と日那乃は言った。
逝の黒スーツにヘルメット姿もなかなか人目を引くが、発現しているかどうかは一般人には分からない。それに比べて飛鳥のウサギ耳は発現者であることが一発で分かる。だから男は飛鳥を睨んでいたのではないだろうか。
「日那乃ちゃん、一悟たちに――」
「声、届かない……と、思う」
飛鳥は手を額にかざして遠くへ目を向けたが、風景の中に渚たちの姿は見当たらなかった。
●
調査員たちが使っていたプレハブはきちんと掃除されていた。どうしても一階は砂や砂利でざらざらしがちだが、隅々まできれいに掃かれており、おかげでスリッパを掃かなくても足の裏がざらつかなかった。
「あ、あった。よかった」
発掘現場には必ずあるトランシットなどの測量機器や暗視カメラ、パソコンの類はすべて運び出されていたが、軍手などの消耗品はそのまま棚に残されていた。
ラーラは棚から軍手を二組取りだして、一つを逝に差し出した。
「それで、その男は武器らしきものを携帯していたかね?」
受け取った軍手を皮手袋の上からつけながら、骨董屋の主は少女たちを振り返った。
「なかったのよ!」
「……判らない」
断言する飛鳥に対し、日那乃は慎重に報告する。
「ふむ。憤怒者と決めつけるには判断材料に乏しいわね。ただ単に発現者がキライな一般人かもしれないし」
実行部隊が全滅したイレブンに、覚者を襲おうなどと考える憤怒者はほぼいない。また、イレブンやその他有力な憤怒者組織が動いているのであれば、ブリーフィングで夢見が警告してくれていたはずだ。
「まあ、あの二人なら、大丈夫さね。それよりも、調査を始めよう」
日那乃たちが二階に上がると、逝とラーラはプレハブを出た。眼前に広がった一面の青に日差しが照り返し、目を刺激する。
最近、雨は降っていなかったが遺跡保護のために覆ったのだろう。ブルーシートが落下したり、風で飛んで行ったりしないように、四角い調査区域の端に点々と重しの白い土嚢が置かれていた。底岩戸に続く穴もブルーシートの下だ。
「これ、全部ははがしますか?」
「そうさね……夜、泥どろが出たときにシートがあると位置が把握しにくい。撤去しておこうかね」
土嚢の移動も力仕事だが、ブルーシートを引き上げて折りたたむのも結構な重労働だ。広い調査区の半分を開けるころには二人とも、腕のだるさと土埃にウンザリしていた。
その頃、プレハブの二階では――。
飛鳥がネットサーフィンに飽きていた。
分からなければネット検索しろ、と簡単に言う人たちがいるが、効率の良い検索の仕方を知っていなければなかなかお目当ての情報にはたどり着けない。たくさん上がってくる検索結果の真贋を見極める知識や知恵も必要になる。
電波障害が解消する以前から、この妖に閉ざされた国にもインターネットは存在していたが、パソコンや携帯電話そのものが普及し始めたのはごく最近の事だ。
小学生の飛鳥と日那乃はネット……どころかパソコン初心者だった。
「ああ、もう! それっぽいページに飛んでも、ほとんど知りたいことが書かれていないのよ!」
しかも通信速度が遅く、異常にページの表示が遅い。中には何も画面に出ていないうちから大音量でBGMを鳴らすページもあり、二人をイライラさせていた。
ちなみに、通信速度が遅いのは電波障害が残っていたり、外部からウイルスによる攻撃を受けていたり……しているためではなく、単に回線が遅いというだけの事である。
エレクトロテクニカのおかげで、パソコンの基本操作にこそ手間取らなかった日那乃でさえ、捗らない調査にはウンザリしていた。
「イライラをおさめるためには甘いものが大量に必要なのよ、ちょっとおやつを買いに行ってくるのよ!」
「あ、駄目。鼎、さん、勝手、に――」
日那乃は席を立った飛鳥に手を伸ばしたが遅かった。
トントントン、と軽やかに階段を駆けおりて行ったかと思うと、勢いよく引き戸を開けて、また締める音がベニヤ板の壁に響く。
外から「行ってきますのよ」という声が聞こえてきた。
(「もう……」)
日那乃はため息をついた。これまでに分かったことはほとんどないというのに、ひとりで調査を続けなくてはならない。
ランドセルから鉛筆とノートを取りだして、飛鳥が開いていったままのノートパソコンを覗き込む。二度手間を避けるために、検索ボックスに打ち込まれている単語を書き写した。
「何か、出てくる……と、いい、けど」
古妖、泥どろの名称そのものや、特徴を打ち込んで検索をかけると、先春に自分たちが解決した依頼に関する記事が表示された。すべて開いて目を通していたが、どれもこれも似たようなことしか書かれていない。
何枚も検索ページをめくってたどり着いたゴシップ系のニュースサイトで、『ニギハヤヒと泥に沈んだ磐船』という記事を見つけた。が、これは遺跡とはあまり関係がなさそうだ。たんに『泥』という単語が引っ掛かって出てきたのだろう。物語の主となる場所も生駒山の山頂で、この遺跡がある大和盆地ではない。
それでも何か気にかかり、大まかな内容をノートに書き写していく。
(「大和盆地は十連五芒星環による『縄張り結界』? 何を、封じて、いる……のか、書いて、ない。レイ……ラインって?」)
解らない単語ばかりだ。ひとつひとつ調べたいところだが……。
いつの間にか部屋の中が暗くなっていた。プレハブの窓から見える空一面、茜色に染まっている。
日那乃は照明をつけるためにパイプ椅子から立ち上がった。スイッチを入れる。
明るくなった室内を何気なくみまわしていると、机の上にぽつんと置かれた黒電話に目がとまった。
一二三から連絡がない。ファイヴでなにかあったのだろうか。
(「……それに、鼎さんも。遅い」)
間もなく太陽が山の向こうに沈み、盆地が闇で満たされる。暗くなるにつれて気温が下がって来た。ストーブに火をつけながら、ふと、一悟と渚の二人も帰ってきていないことに気づく。
日那乃の胸に底知れぬ不安がこみ上げてきた。
●
「ありがとうございます。助かりました。あ、危険なので早めにご帰宅くださいね」
渚がそう告げると、和服の女性はペコリと頭を下げてスーパーの方向へ歩いていった。
地図を開いて、女性に教えてもらった自治会長の家を確かめる。これまでに尋ねた家は留守が多かった。帰宅時間を狙って再度訪問している時間はない。どうしたものかと、途方にくれていた時に、先ほどの女性と出会い、そう言うことであれば、と自治会長の家を教えてもらったのだ。
歩き出してほどなく、子供100当番の黄色い旗が掲げられた門に行き当たった。この地域の自治会長、河田さんの家だ。インターホンを押して訪問を告げると、頭の禿げあがった人のよさそうな老人が出てきた。
「こんにちは。ファイヴの栗落花 渚といいます」
近くの遺跡で夜に凶悪な妖が発生することを告げ、地域住民に夜間外出をしないように警告して欲しいと頼んだ。
「それは大変だ。さっそく電話しましょう」
二つ返事で快く引き受けてくれた老人を呼び止める。
「あの、失礼ですが昔からこのあたりにお住まいですか? 遺跡に関する昔話など、何かご存じでしたら教えてください」
老人は唸った。
「そういうことは神社かお寺さんに行って聞いたほうがいいよ。調査していた人たちに聞くとか」
自分が受け持つ地区にあった小さな神社にはもう行って話を聞いている。神主からは、河田老人と同じことを聞かされていた。
渚は協力の礼をいい、自治会長の家を後にした。
プリントアウトした地図を見ながら、小春日和の狭い路地裏を歩く。
「お姉ちゃん、いい人で強い?」
えっ、と驚いて立ち止まり、声のした方へ顔を向ける。
生垣の横からおかっぱ頭の女の子が顔を覗かせていた。その目はじっと渚に据えられていたが、虚空を見つめているようにも思える。生気のない顔の横に白い塊、浮遊系の守護使役が浮かんでいた。
「お姉ちゃん、いい人で強い?」
少女はもう一度、同じことを口にした。
渚の足の横を枯れ草が転がっていく。
「うん! 強くていい人、覚者だよ」
わずかに躊躇った後、渚は笑顔で応えた。
「ここに……描いてもいい?」
何を、と言いながら一歩、少女に向かって足を踏み出した。とたん、少女が画用紙を突きだす。
「だめ、こないで。バリアの中に入らないで!」
(「バリアって……線が地面に引いてあるだけなんだけど。この子、結界が作りたいのかな?」)
ふっと浮かんだ微笑みが、画用紙に書かれた絵を見た瞬間に凍った。
「この前、二かいのマドから板のむこうにいるのを見たの。……でも、みんな信じてくれない。夢をみたんだって。あそこはふあぃぶのちょうさいんがいるから、こんな妖がいるはずないって」
クレヨンで描かれた稚拙な絵。だが、見間違えようもないほど妖の特徴をよく捉えて描かれている。
「お姉ちゃん強いなら……お守りにする。妖の隣に描いてもいい?」
画用紙の左半分に描かれていたのは、通称つぎはぎ女。認識名パッチワークレディと呼ばれるランク4の妖だった。
●
ブルーシートを撤去した後、ラーラは調査区を一回りしてD5トレンチへ降りた。
人間の生々しい営みの痕跡と、流れ去りはしたが決して消えることのない時間が作った断層の分線の一本にそっと指を這わせる。
土層図を作るため一定の高さごとに張られた黄色いビニール線の下に、時が刻んだ見事な歴史的文様が息づいていた。ところどころにつけられた新しく小さな穴は、分層ごとの土の色調や性質、含有物を調べるためにサンプルを採られたあとだ。
ゆっくりと底岩戸への入口に向かって体を横に移動させる。
(「自然堆積なら自然と忘れ去られて、不自然な一括堆積なら故意に誰かが埋めたんだってことが分かるはず――ああ、やっぱり」)
第一層には粘土と砂などが重なっている。粘土は中世の水田、砂は水田をおそった洪水で流されてきたもののようだ。トレンチ近くの遺構から、中世の人々が、洪水で被害を受けては水田を作り直したことがわかっている。
第二層は石灰岩の角礫を多く含んでいる。第三層、第四層と少しずつ厚みを変えながら積み重なる土層がいきなり第三層のあたりから暗青灰の土で断ち切られていた。
何かを立てようとして土地を掘り起こし、見つけてしまったのか。埋め立てに使った土はどの地層のものとも異なる。
底岩戸に続く穴がある暗青灰色粘土質が縄文時代の遺物が入る層で、その上の黄褐色土は弥生時代の初頭頃までには溜まっていたものだろう。
ラーラは掘り返された斜面の土を、取りだしたペレットナイフの先で軽く削り取った。採取した土に鼻を近づけて嗅ぐ。
嫌な臭いがした。
暗視を活性化して、遺構に開けられた穴をくぐった。壁に注意を向けながら、慎重に斜面を下っていく。
ひんやりとした空気が足首を霞めた。前の依頼の後で、壁や天井は崩落を防ぐために鉄パイプを組んだ柵でところどころ補強されていたが、それが急に心細いものに感じられだした。急に壁がじっとりとしだしたように思え、天井が下がったような気がする。
(「気のせい気のせい……」)
小さく活を入れると、ラーラは再び坂を下りだした。
途中の壁面には何も書かれていない。暗青灰の粘土質な土壁が延々と続く。ところどころで大きめの礫が壁の表面に顔を出しているが、意図されたものではなさそうだ。
途中の竪穴を梯子で降りて、横穴を進む。横穴は暗青灰の土から岩壁に代わっていた。明らかに作りが違う。期待をこめて壁や天井に目を向けると、人工的につけられた微かな線を見つけた。
(「唐草の内に象形文字……ローマ字のようにも見えるし、あ、これ漢字かも?」)
未と読める模様の近くに甲の様な模様を見つけたが、他に漢字のような模様は見当たらなかった。
穴の奥、底岩戸のある大きな洞の中に動く人影を認め、軽く会釈する。が、人影――逝は何かに気を取られているようだ。岩戸の前で体を屈めて何かを取っている。
ラーラはもう少しだけ岩壁を調べることにした。
●
戦いの邪魔にならないように土嚢をアルミ板の外へ一時的に移動させた逝は、プレハブに懐中電燈を取りに戻った。一本だけ、机の引き出しの中に残されていたのだ。
それから真っ直ぐD5トレンチに降りて、懐中電燈の細い光を頼って地の底にある底岩戸の前まで来ていた。
(「嫌な感じがするねえ……」)
「先生」と覚者たちに呼ばれていた悪党の死体は、とっくに底岩戸の前から引き上げられている。殺された場所が場所だけに、線香も花も添えられていない。寂しい限りだ。たとえ遺跡の中でなかったとしても、男をともらう者がいたとは思えなかった。
(「噺家ちゃんがきていた可能性は……いや、それはないわね。縁が続いていたなら、なんだかんだといっても助けに来ていただろうし」)
所詮は捨て駒だったのだろう。噺家たちはこの遺跡とは関係がない。それにしても、と逝は別の古妖に思いをはせる。
(「あの泥は前回、岩戸を開ける為に湧いたんでしょ。問題の霧は岩戸を開けずに湧いた……として」)
――その前提が間違っていたとしたらどうかね?
「ん? いま何かいったかね?」
逝は頭の斜め上に浮かぶ守護使役にフルフェイスの面を向けた。
みずたまはゼリー状の体をフルフルと震わせて否定した。
気のせいにしてはやけにはっきりと聞こえた。いや、直接脳で感じたと言った方が正しい。
体を回してあたりに隈なく視線を這わせたが、ほかに誰もいなかった。もしや、介入によって夢見の予知が狂い、例の霧が早くも出て来たか。
しかし、妖気はまったく感じなかった。
「とりあえず、いまのは無視するとしよう。どれ――」
懐中電燈を底岩戸に向ける。弱く黄色く弱々しい光が、計らずしも削り取られた模様の無残さを鮮明に浮きあがらせた。
底岩戸は巨大な一枚岩だ。削り取られているのは岩戸の下部だけで、文化財を破損させた犯人はこの戸を開いて向こう側へ逃げ込んでいる。
ギリギリまで下がってなんとか岩戸全体を視界に納めると、戸の表面に三本の柱が見てとれた。柱と柱の間を細い支柱が繋いでいる。それに六つの円。恐らく削り取られている下部にも柱が伸び、同じような円が配置されていたに違いない。
(「はて……どこかで見たような気がするぞ」)
こんどは岩戸に近づいて、一番近いところにある――といっても頭の遥か上の円に懐中電燈の光をあてた。
逝は光によってできた影の中に、円にそって掘り込まれた深い溝を見出した。一番上のほうは分からないが、六つ円すべてに溝がある。もしかすると、あの円ははめ込み式かもしれない。下をよくよく見ると、削り取られた部分にちょうど六つの円と同じ大きさの凹みを見つけた。
「みずたまや、ちょっとそこのへこみに張りついて、型を取っておくれ」
守護使役は指示された場所で岩戸に密着すると、体を窪みに合わせて変形させた。
「おしりを壁と同じ高さで平にして。そうそう、そのまま、そのまま……」
体を屈めてみずたまの端に指をひっかけ、そっと窪みから外した。
みずたまの体は、一部深く削り取られた部分を除いて、目に見えない繊細な模様まで写し取っていた。分かりやすいように、体を変化させて表面の模様を強調してもらう。
「鏡……青銅の鏡みたいですね、それ」
後ろにラーラが立っていた。
「そっちは何か見つかったかね?」
「岩の壁に唐草と文字らしき模様をいくつか見つけました。それに虫とか動物のような模様も。たぶん、ここを調査していたスタッフも見つけているはずですが……その鏡を見て、いま、ピンときたものがあります。緒形さんが手にしているそれは、方格規矩鏡ではないでしょうか」
逝は微かに首を傾げた。方格規矩鏡と言われてもさっぱりだ。
「青銅の鏡といえば神獣鏡や三角縁神獣鏡が有名ですが、弥生時代から前は内行花紋鏡や方格規矩鏡が古墳の副葬鏡でした。地層とも年代がほぼ合致しています」
ラーラは、ここを見てください、とみずたまの表面を指さした。
くすぐっかったのか、みずたまが形を保ったまま細かく震える。
「これ、少しぐらい我慢おし。それで、ここが何か?」
「ここの紐周りの方格内に私が壁で見つけたのと同じ模様――十二支の文字が入っているのが分かりますか?」
逝は象形文字のようなものの中に、比較的わかりやすい文字があるのを認めて頷いた。
「そして、十二支で方角を定めた四方に四神が配されています。東の青竜、南の朱雀、西の白虎、北の玄武……やはりこれは方格規矩鏡に違いありません」
「では、ここには本来、青銅の鏡がまっていたということかね?」
鏡を持ち去ったのは間違いなく笹垣主任調査員だろう。調査員の大福寺がつぎはぎ女にさらわれていなければ、はっきりと確認が取れたはずだ。
逝はもう一度、みずたまを窪みにはめ込んだ。
「ふむ、魔鏡か。光を反射させて壁を照らすと、照らされた場所に文字や絵が浮かび上がるという」
しかし、底岩戸の正面は穴だ。竪穴と繋がっている端まで鏡に反射した光が届いたとしても、鮮明な像を岩肌に浮かばせるとは思えなかった。それに底岩戸が地表に出ていたときには先に壁などなかった可能性がある。
「一体、何に反射させていたのかねえ」
逝はみずたまのおしり――鏡に当たる部分に懐中電燈の光を当てた。ぼんやりとした光が跳ね返って、正面に立っていた逝の体を包み込む。
「お、緒形さん!?」
淡い光の中で、逝の体が霧の様なものに象られ、二重にぶれていた。重なった状態は長く続かず、霧のようなものがすっと横にずれた。
――やあ、アレクセイ。ここは「初めまして」ということろかね?
――ん、おっさん?
――おっさんは……光りを拒絶する「闇」に密やかに息衝く言霊、沼男だよ。アハハハ!
他の人格が具現化した存在だといわれても、逝はさほど驚かなかった。どうやら霧の声が聞こえていないらしいラーラをそっと背の後ろに隠し、冷淡かつ平らな声で問いかける。
「さっきの声はお前さんかね? あれはどういう意味か教えてもらおうか」
――ほんとうはもう解っているくせに。
――古妖と妖は似て非なるものさね。
――あの泥は岩戸を開ける為に湧いたんじゃない。逆だ、逆。あれは……
そこで懐中電燈の電池が切れた。
●
日没直後の暗に沈む道を、渚は全速力で遺跡まで駆け戻った。
おかっぱの女の子に、つぎはぎ女は私たちファイヴが必ず倒すから安心していいよ、と言って別れ、一悟と約束した合流地点に向かったのは三時間も前の事だ。
空が夕焼けに染まりだしても現れない一悟に業を煮やした渚は、反対側の地区に向かい一悟を探して歩いた。が、どこにもいない。一軒一軒、家を訪ねて話を聞いて回ったが、誰も一悟の姿を見ていなかった。
道の反対側から慌てて走ってくる一二三と出会ったのはその時だ。
「いっちーが……奥州さんが、人と妖の集団に襲われて瀕死です。偶然、倒れているところを見つけた鼎さんが懸命に治療して……僕は、途中で……」
飛鳥が意識を失う直前に一悟から話を聞きだしていた。ランク1相当のつぎはぎの犬一匹と、妖を従えた複数の人間たちに突然囲まれ、襲われたのだという。「人の革新の為」といいながら、見たこともない武器で殴りかかってきたらしい。
渚は迷った末に、一二三を残していくことにした。
身動きの取れない一悟と治療にほとんど源素を使い切っている飛鳥の二人だけにしておくと、もし、件の集団が戻ってきた時に守り切れなくなる。どちらかが残らねばならないのなら、遺跡のほうに少しでも戦力となれる者が戻るのが最適解だろう。そう考えての決断だった。
土嚢が高く積まれた出入口のバリケードを飛び越すと、渚はプレハブを目指した。あんなものは昼にはなかったのに、とちらっと後ろを振り返りながら引き戸に手をかけた。
「聞いて! 底岩戸の模様は『セフィロトの樹』に酷似しているんだって! 逆さらしいけど。それでね、一悟くんが大変――って、あれ? 日那乃ちゃん、だけ?」
「栗落花さん、は、一人? それに……『セフィロトの樹』って? もしかして、碌さんと、一緒、だった?」
とにかく落ち着いて、と日那乃が椅子を勧める。
ひと息ついたところにラーラと逝が戻ってきた。
「奥州さんと一緒ではないのですか?」
渚は多少話が前後しながらも、近くの住宅地でパッチワークレディの目撃証言を得たこと、一悟が謎の集団に襲われたことについて話した。
「珍しいケースだけど、おっさんたちの介入で予知の内容が少し変わったみたいね。それで……奥州ちゃんをここへ運んでは来られなかったのかね?」
「それも考えたんだけど……一悟くん、まったく意識がないみたいだから。ここへ運んで、もし、戦闘に巻き込んでしまったら、と思って。あ、ファイヴに連絡しなきゃ!」
「もう、した……よ」
日那乃が階段を降りながら言った。いつの間にか二階へあがって、報告と緊急回収の連絡をしていたらしい。
「欠員のバックアップは?」
ラーラが聞くと、日那乃は横に首を振った。
「今から……無理。間に合わない、て……」
「しかたがありませんね。もう、霧がいつ出てきてもおかしくない時間ですし、外に出ましょう」
幸いというべきか。謎の霧が出てくる場所ははっきりとしている。D5トレンチを見張っていれば見逃すことはない。
問題は――。
泥どろを排除すべきか、逝はプレハブを出るギリギリまで迷い続けた。七人揃っていれば様子見もできただろうが、沼男が言いかけたことを検証する余裕はない。万が一にも謎の霧を遺跡の外へ出してしまえば、人命にかかわる。
「見つけ次第、泥は焼こう」
隣で重々しく頷いたラーラは調査区の南側へ向かった。
日那乃は懐中電燈の灯りをつけると、翼を広げて空へ上がった。
一二三を欠くいま、遺跡全体を見渡し、いち早く泥どろを見つけることができるのは日那乃だけだ。調査区上空、やや北よりの場所で待機する。
「きらら、灯りをお願い」
守護使役が灯す火で足元を照しつつ、渚は東側に回る。
「では、おっさんは予定を変更して西へ行くとするかね」
北にはプレハブ小屋がある。囲いの外へ出ようとするならば、二階建てのけっして小さくはないプレハブを迂回するなり飛び越すなりしなくてはならない。多少は移動の障害になってくれるだろう。
全員が配置についた。調査区に顔を向けて立ち、異変を見張る。
間もなく、月が光る空から古妖出現の報が発せられた。
「南! 六体、ビスコッティさん、の、後ろ! 西南に三体、東に一体!」
ラーラは早速、守護使役のペスカから黄金の鍵を受け取ると、煌炎の書の封印を解いた。
「未調査の遺跡を壊すわけにはいきませんし、一般の方々を妖の脅威に晒すわけにもいきません。大変な依頼ではありますが、私にとってはどちらも守りたいものですし……」
泥どろの真の目的が何であれ、今回も全力で倒す。
決意をにじませた声で詠唱する。
「良い子に甘い焼き菓子を、悪い子には石炭を……イオ・ブルチャーレ!」
炎の波が周囲を昼のように照らしながら、地より湧き出た泥どろをまとめて焼き払う。
逝は長い足を生かしてあっという間に角を回り込むと、妖刀・悪食を振るって、調査区の中へ落ちようとしていた泥どろを纏め切りにした。
時を同じくして、東で、渚が妖器・インブレスの太い針を泥どろの額に刺す。
「霧! 東……浮きながら、向かってる」
「どんなつもりがあって外を目指してるのか知らないけどさ、私が来たからにはこの先には行かせないよ!」
渚は泥の塊から針を引き抜くと、点滅を繰り返しながら向かってくる霧にその先を向けた。
「ち、ちょっと!?」
謎の霧はまだ調査区の中を漂っている。ただ、移動しながら少しずつ浮き上がり、すでに渚の目の上にまで達していた。このままでは、翼をもつ日那乃以外、手が出せなくなってしまう。ただでさえ、物理無効と神秘無効を交互に切り替える面倒な体質だというのに――。
「桂木ちゃん! 構わないから、上から叩き落としておしまい! 人命最優先さね!!」
「うん、わかった」
日那乃は謎の霧に急接近すると、青発光が収まるのを待って、真上からギロチンよろしく薄い氷の刃を落とした。
「凍……って!」
狙い道理、霧が結晶化して妖の一部が遺跡の上に落ちていく。空に残った一部が日那乃の足に触れた。
すぐさま渚が癒しをつかさどる青い鳥を飛ばして回復させる。
攻撃に怯えた霧の残りが、D5トレンチの方へ戻り始めた。岩戸の中へ戻るつもりか。
逝は迷わず調査区の中に飛び降り、底岩戸へ続く穴の前に先回りした。
一方、日那乃に凍らされて固体化した霧の一部は、調査区の東の土壁をよじ登り始めていた。
ラーラが駆けつけ、指先より炎を流し飛ばして威嚇する。
妖は炎にあぶられて溶けて霧に戻り、すぐに青く光ってゼリー状の膜に覆われた。
「駄目!」
壁を登り切った妖の頭に、巨大な注射器が目にもとまらぬスピードで三度、振り下される。土壁の一部とともに妖は粉々に砕けた。
「落ち、て!」
日那乃が薄氷を飛ばして謎の霧の残りを凍らせる。
「眩ちゃんが行き先を気にしていたし……手短に」
逝は立ち上がった霧――凍った小人のようなものに短く問いかける。
「家に帰りたい? 違う……。ふむ。呼ばれた? イエスでもあり、ノーでもある……そうかね。誰に?」
底岩戸の穴から妖力波が断続的に四回、空気を震わせながら吹きだしてきて逝の背中を押した。
東南の方角へ頭を向け、次に西南の方角へ頭を向けたあと、妖は凍った体を伸ばして氷柱に変え、刺してきた。
数本が遺構を削り、D5トレンチの側壁を突き崩す。
バランスを崩しながらも逝は悪食を振り上げ、妖刃に謎の霧を食らわせた。
