底岩戸・現
●
一枚岩の前に、鍵のような形をした土の塊が落ちていた。いけないことだと思いつつも、手袋をはめた手でそれを拾い上げ、懐中電灯の明かりを近づける。指の先でつつくと簡単に土が剥がれ落ちて、古錆びた金属の地が出た。
(「鱗? それとも――」)
ふと、足の下から、何かどろどろとした得体のしれないものが押し上げてくる気配があった。一瞬の息詰まりのあと、肩越しにそろりと後ろを見る。
――ひっ
明かりのついていない懐中電灯が振り下ろされ、額を割られた。
地面に倒れて仰向けになる。
手の中から鍵のような形をした遺物を取り上げられたあと、海鳴りとも地鳴りともわからない音が、生臭い匂いとともに闇の中を押し寄せてきた。
●
雨が降っていた。
櫓に取りつけられた照明の光が、銀糸を夜に浮かび上がらせている。肩を濡らした警察官たちが黙々と動き回り、青い合成樹脂製の防水シートを広げて土の上にかけていた。
これ以上、試掘溝の東側面が雨で崩れないようにというよりも、偶然掘り起こされた穴を見られないようにするためだ。合成樹脂製のシートで遮れるのは、せいぜい人の目ぐらいではあるが。
AAAの調査官、田辺万亀(たなべかずき)は、担架に乗せられて運ばれていく発掘調査員の遺体に手を合わせた。体の下半分がないので、布で隠された遺体は小さい。妖か、または古妖に食われたのだろう。
「まだ一人、あの下に埋まっているんですよね。主任調査員の笹垣先生が」
「らしいな。妖に食われてなければ、後で遺体が出てくるだろう」
田辺は、パートナーである木下信二(きのしたしんじ)調査官がさしかける傘の下で、煙草に火をつけた。
「生きている可能性は?」
新人の質問には答えず、田辺はただ煙を雨の中に吹きだした。
崩落が起こったとき、現場には三人の調査員しかいなかった。本日は朝から小雨が降っており、学生や主婦パートなどの補助員たちは、現場横のプレハブで遺物洗浄や分類などの内勤作業を行い、全員が定時に帰宅している。
いま、明かりのついたプレハブの中にいるのは、ただ一人の生き残りである大福寺汐里(おおふくじしおり)と、保護付添の婦人警官だけである。事故を奈良県警に通報したのは大福寺だ。
引き戸があいて、プレハブの中から婦人警官が出てきた。周りにいた警察官たちも、引き上げ始めている。そう……ただの事故ならともかく、妖が絡む事件となれば、警察の出る幕ではない。
「さて、大福寺さんに詳しい話を聞きに行くか」
「え、いいんですか? ファイヴを待たなくても」
田辺は顔をしかめると、口にくわえていた煙草を地面に落とした。じゅっ、と音をたてて火が消える。泥水を吸って、吸い殻が汚らしくなった。
木下を後ろに従えて歩き出す。
「ガキや門外漢が来たところで何ができる。どうせ、こっちに寄越してくるのは、まっとうな専門知識のある調査員じゃねえだろ。遺跡調査にしても、事件調査にしても……。憤怒者や妖との戦闘に関してはそれなりに実績を積んでいるらしいが、それだってここ一、二年のことだしな」
その戦闘に関しても、ガキどもにやらせる気はない、と田辺の鼻息は荒い。
田辺は発現者である。火行、暦の因子だ。ちなみに前世は北町奉行所の同心だったらしい。木下もまた、水行、翼の因子をもつ発現者だった。
「そんなことを言って――」
「いいんだよ。だいたい、ファイヴなんて、一民間の覚者組織じゃないか。一体、なんの権限があって……と、ご苦労様です」
去っていく警官たちに手を上げて挨拶し、田辺はプレハブの引き戸を開けた。
●
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は、壁にかかった時計に目を向けた。
「あと五分もしたら、AAAから協力依頼の電話がかかってくるはずよ。あちらはちょうど、警察から報告があったところじゃないかしら。さっきも話したけど、彼らが考えているよりもずっと事態は深刻になるのだけど……」
いまから十五分前のこと、眩はファイヴ所属の覚者たちに緊急招集をかけた。夢見の内容を伝えるためである。
もちろん、眩が見た予知夢の内容はAAAにも報告がされている。しかし――。
「妖か古妖が絡んだ事件と確定した段階で、田辺、木下の両隊員ともに用心から覚醒したわ。そう、例の電波障害のせいで二人に連絡が取れないのよ。AAA支給の携帯電話はともかく、なぜかプレハブに引かれた電話まで使えなくなっているっていうのが怪しいけど……。今すぐ向かえば二人とも助けられる」
指令室のドアが開かれ、ファイヴの職員がメモ用紙を手に駆け込んできて、眩にメモ紙を差し出した。
「AAAから正式に協力要請が来たわ。ここまでは夢見どうり。さて、いまから、依頼の要点をおさらいするからよく聞いてね」
AAAの調査隊員二名はプレハブに入ってすぐ、古妖・泥どろに取りつかれた大福寺に襲われる。まずは大福寺に取りついた古妖・泥どろを退治し、二人の安全を確保すること。
同時に、遺跡周辺の闇の中から複数の泥どろが、発掘調査地区全体を埋め戻そうと、たくさん湧いて出てくるので尽きるまで倒すこと。
「できればD5トレンチの東側面に開いた……いまは埋まっちゃってるけど、穴には一体も泥どろを近づけないで。あとあとの調査のために現状維持、汚染を防ぎたいの。それと、大福寺さんだけど、彼女はまだ泥どろに取りつかれているだけの状態だから、BS解除と回復を行いつつ攻撃すれば助けられる可能性があるわ。見込みはとても低いけれど」
だから、自分や仲間の身を危険にさらしてまで大福寺を助ける必要はない、と骨を抱く黒衣の夢見ははっきり口にした。
「穴の中に埋まっていると考えられている主任教授の生存はほぼ絶望的。この人はあとで掘り返すから、とにかく、泥どろを倒すことに全力を注いで。遺跡を守り抜いて頂戴」
●
発掘調査を専門に手掛ける土木工事の会社に、「先生」と呼ばれる一人の男が勤めていた。
現場で作業中止が決定してすぐ、ほかの作業員はマイクロバスに乗り込んで社に戻ったのだが、「先生」だけは直帰するといってバスには乗らなかった。
その後、彼の姿を見たものはいない。
一枚岩の前に、鍵のような形をした土の塊が落ちていた。いけないことだと思いつつも、手袋をはめた手でそれを拾い上げ、懐中電灯の明かりを近づける。指の先でつつくと簡単に土が剥がれ落ちて、古錆びた金属の地が出た。
(「鱗? それとも――」)
ふと、足の下から、何かどろどろとした得体のしれないものが押し上げてくる気配があった。一瞬の息詰まりのあと、肩越しにそろりと後ろを見る。
――ひっ
明かりのついていない懐中電灯が振り下ろされ、額を割られた。
地面に倒れて仰向けになる。
手の中から鍵のような形をした遺物を取り上げられたあと、海鳴りとも地鳴りともわからない音が、生臭い匂いとともに闇の中を押し寄せてきた。
●
雨が降っていた。
櫓に取りつけられた照明の光が、銀糸を夜に浮かび上がらせている。肩を濡らした警察官たちが黙々と動き回り、青い合成樹脂製の防水シートを広げて土の上にかけていた。
これ以上、試掘溝の東側面が雨で崩れないようにというよりも、偶然掘り起こされた穴を見られないようにするためだ。合成樹脂製のシートで遮れるのは、せいぜい人の目ぐらいではあるが。
AAAの調査官、田辺万亀(たなべかずき)は、担架に乗せられて運ばれていく発掘調査員の遺体に手を合わせた。体の下半分がないので、布で隠された遺体は小さい。妖か、または古妖に食われたのだろう。
「まだ一人、あの下に埋まっているんですよね。主任調査員の笹垣先生が」
「らしいな。妖に食われてなければ、後で遺体が出てくるだろう」
田辺は、パートナーである木下信二(きのしたしんじ)調査官がさしかける傘の下で、煙草に火をつけた。
「生きている可能性は?」
新人の質問には答えず、田辺はただ煙を雨の中に吹きだした。
崩落が起こったとき、現場には三人の調査員しかいなかった。本日は朝から小雨が降っており、学生や主婦パートなどの補助員たちは、現場横のプレハブで遺物洗浄や分類などの内勤作業を行い、全員が定時に帰宅している。
いま、明かりのついたプレハブの中にいるのは、ただ一人の生き残りである大福寺汐里(おおふくじしおり)と、保護付添の婦人警官だけである。事故を奈良県警に通報したのは大福寺だ。
引き戸があいて、プレハブの中から婦人警官が出てきた。周りにいた警察官たちも、引き上げ始めている。そう……ただの事故ならともかく、妖が絡む事件となれば、警察の出る幕ではない。
「さて、大福寺さんに詳しい話を聞きに行くか」
「え、いいんですか? ファイヴを待たなくても」
田辺は顔をしかめると、口にくわえていた煙草を地面に落とした。じゅっ、と音をたてて火が消える。泥水を吸って、吸い殻が汚らしくなった。
木下を後ろに従えて歩き出す。
「ガキや門外漢が来たところで何ができる。どうせ、こっちに寄越してくるのは、まっとうな専門知識のある調査員じゃねえだろ。遺跡調査にしても、事件調査にしても……。憤怒者や妖との戦闘に関してはそれなりに実績を積んでいるらしいが、それだってここ一、二年のことだしな」
その戦闘に関しても、ガキどもにやらせる気はない、と田辺の鼻息は荒い。
田辺は発現者である。火行、暦の因子だ。ちなみに前世は北町奉行所の同心だったらしい。木下もまた、水行、翼の因子をもつ発現者だった。
「そんなことを言って――」
「いいんだよ。だいたい、ファイヴなんて、一民間の覚者組織じゃないか。一体、なんの権限があって……と、ご苦労様です」
去っていく警官たちに手を上げて挨拶し、田辺はプレハブの引き戸を開けた。
●
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は、壁にかかった時計に目を向けた。
「あと五分もしたら、AAAから協力依頼の電話がかかってくるはずよ。あちらはちょうど、警察から報告があったところじゃないかしら。さっきも話したけど、彼らが考えているよりもずっと事態は深刻になるのだけど……」
いまから十五分前のこと、眩はファイヴ所属の覚者たちに緊急招集をかけた。夢見の内容を伝えるためである。
もちろん、眩が見た予知夢の内容はAAAにも報告がされている。しかし――。
「妖か古妖が絡んだ事件と確定した段階で、田辺、木下の両隊員ともに用心から覚醒したわ。そう、例の電波障害のせいで二人に連絡が取れないのよ。AAA支給の携帯電話はともかく、なぜかプレハブに引かれた電話まで使えなくなっているっていうのが怪しいけど……。今すぐ向かえば二人とも助けられる」
指令室のドアが開かれ、ファイヴの職員がメモ用紙を手に駆け込んできて、眩にメモ紙を差し出した。
「AAAから正式に協力要請が来たわ。ここまでは夢見どうり。さて、いまから、依頼の要点をおさらいするからよく聞いてね」
AAAの調査隊員二名はプレハブに入ってすぐ、古妖・泥どろに取りつかれた大福寺に襲われる。まずは大福寺に取りついた古妖・泥どろを退治し、二人の安全を確保すること。
同時に、遺跡周辺の闇の中から複数の泥どろが、発掘調査地区全体を埋め戻そうと、たくさん湧いて出てくるので尽きるまで倒すこと。
「できればD5トレンチの東側面に開いた……いまは埋まっちゃってるけど、穴には一体も泥どろを近づけないで。あとあとの調査のために現状維持、汚染を防ぎたいの。それと、大福寺さんだけど、彼女はまだ泥どろに取りつかれているだけの状態だから、BS解除と回復を行いつつ攻撃すれば助けられる可能性があるわ。見込みはとても低いけれど」
だから、自分や仲間の身を危険にさらしてまで大福寺を助ける必要はない、と骨を抱く黒衣の夢見ははっきり口にした。
「穴の中に埋まっていると考えられている主任教授の生存はほぼ絶望的。この人はあとで掘り返すから、とにかく、泥どろを倒すことに全力を注いで。遺跡を守り抜いて頂戴」
●
発掘調査を専門に手掛ける土木工事の会社に、「先生」と呼ばれる一人の男が勤めていた。
現場で作業中止が決定してすぐ、ほかの作業員はマイクロバスに乗り込んで社に戻ったのだが、「先生」だけは直帰するといってバスには乗らなかった。
その後、彼の姿を見たものはいない。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.AAAの調査隊員二名の救助
2.遺跡を埋め戻そうとする古妖・泥どろ900体の撃破
3.古妖・泥どろをD5トレンチに近づけさせない
2.遺跡を埋め戻そうとする古妖・泥どろ900体の撃破
3.古妖・泥どろをD5トレンチに近づけさせない
奈良県、平城京近く。
夜。小雨が降っています。
※雨は夜明け近くまでずっと降っています……。
<調査区/遺跡発掘現場>
・調査区の広さは1,000㎡(六十畳)以上。
東西に長い長方形で、深さは平均2メートルです。
学校の25メートルプールが4つ(縦2、横2)の広さと思ってください。
・調査区の東西には高さ四メートルの金属製櫓が組まれています。
櫓の一番上に照明器具が取りつけられています。
照明が照らしているのは調査区内のみで、その周辺は真っ暗です。
・調査区のほぼ真ん中に東壁面が崩れたD5トレンチ(遺構)があります。
深さは六メートル。
※D5トレンチの東壁面に地中深く続く穴あり。現在、入口は土砂で埋まっています。
・日中、一時雨脚が強まった時間があり、足元はかなりぬかるんでいます。
汲水ポンプが稼働しているので、調査区域に水は溜まっていませんが……
モーターが壊されたり、電力が断たれたりなどすると、調査区内に雨水がたまっていきます。
・ポンプは調査区の東西南北四か所に設置されています。
※調査区内は真っ平ではありません。穴や溝がそこかしこにあり、でこぼこしています。
<調査区に併設された建物>
・調査区の南側に、二棟のプレハブ小屋が建てられています。
・休憩所
調査員や補助員たちが休むプレハブです。
二階建てで、床面積は畳10畳ほど。
一階は作業室兼休憩所(長机と長椅子が複数あり)。※ここに大福寺がいます。
二階に調査員の机と電話機、簡単なキッチン、更衣室があります。
階段はプレハブ内部にあります。
・遺物一時保管倉庫
作業員の休憩所と道具置き場、掘り出した遺物を一時保管しておく場所です。
倉庫は一階建てで、やはり畳10畳ほど。
発掘作業に必要なシャベルや手押し車、手バチ、ガリなどもここに保管されています。
ポンプや照明などの電源は、この倉庫から引かれています。
・トイレは簡易設置のものが二つ、プレハブの裏に置かれています。
●敵 古妖・泥どろ……900体
人の形で歩き回る泥の塊。
古妖ですが、ほとんど知性がありません。会話は成り立たないでしょう。
・900体の内、一体が大福寺という女性調査員に取りついています。
この一体はほかの泥どろよりも少し強いようです。
・のこり899体が、夜明けまで「時間を置いて」四方から遺跡に押し寄せて来ます。
あるときは北から10体。ある時は西から3体、南から9体が同時に……。
この残り899体の泥どろは弱いです。
発現したての人でも、ほぼ一撃で倒せます。
なお、日が昇れば、泥どろは発生しません。日光に弱いようです。
【生き埋め】……近単物。抱き着いて泥の中に沈め、窒息死させる。ラーニング不可。
【乗っ取り】……近単特。対象の口や耳、鼻から侵入し、寄生する。ラーニング不可。
【泥玉】……遠単物/ダメ0、鈍化、怒り。粘りのある泥の玉を飛ばす。
●AAA
・AAAの調査官、田辺万亀(たなべかずき)53歳。火行、暦の因子
錬覇法、炎撃、豪炎撃、炎柱を活性化。
ファイヴ到着時、腹を切り裂かれて出血中です。
休憩所一階、真ん中あたりにいます。
・AAAの調査官、木下信二(きのしたしんじ)24歳。水行、翼の因子
エアブリット、癒しの滴、癒しの霧を活性化。
ファイヴ到着時、癒しの滴を発動中。直後、泥の槍に貫かれて重傷を負います。
引き戸の前にいます。
●大福寺汐里(おおふくじしおり)、遺跡発掘調査員。26歳。一般人。
現在、泥どろの一体に取りつかれています。
BS解除と回復を行いつつ汐里(泥どろ)を攻撃、撃破すれば助けられる可能性があります。
※回復処理はまず、宿主である汐里から行われますが、攻撃処理は寄生している泥どろからダメージを与え、残りを汐里が受ける形になります。
取りつきの一体のみ、以下の攻撃手段も持っています。
【泥の剣】……近複物/出血。
【泥の槍】……近貫物/出血。
汐里にはまだ守護使役がついており、そのために田辺たちは攻撃を躊躇ってしまったようです。
休憩所一階の奥、壁際にいます。
●その他
仲間内で「先生」と呼ばれている作業員が一名、今朝から行方不明になっています。
穴に埋った笹垣主任調査員の生存確率は??%です。
●STより
899体の泥どろとの戦闘は朝まで続く持久戦です。
プレイング内容に寄って、次のシナリオ内容が変化する可能性があります。
よろしければご参加くださいませ。お待ちしております。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:1枚 銀:0枚 銅:0枚
金:1枚 銀:0枚 銅:0枚
相談日数
7日
7日
参加費
150LP[+予約50LP]
150LP[+予約50LP]
参加人数
10/10
10/10
公開日
2017年02月19日
2017年02月19日
■メイン参加者 10人■

●
白々しい光で照らされた調査区域の外はまったき闇で、まわりに民家の明かり一つ見えない。例外は休憩所として使われているプレハブの一階の弱々しい照明だけだ。
八重霞 頼蔵(CL2000693)は、ファイヴが手配したマイクロバスの中から外を窺った。
姿は見えずとも、周辺に潜む古妖の気は感じる。手分けして遺跡周辺の家をまわり、外に出ないよう警告するべきか迷った。
「雨の夜に遺跡を覗きに来るような物好きは……いないな」
「人払いの手間がない分、気持ちが楽だよね。しっかり遺跡の防衛に専念できるし」
『探偵見習い』工藤・奏空(CL2000955)は立ち上がって棚から荷物を降ろした。ボストンバックの中からヘッドライトを取りだして着ける。それから折りたたまれた透明のレインコートを取りだした。
「ありす待って。降りる前にこれを」
「ありがとう。でも、アタシも持ってきたから。傘なんかさして戦えないし、かといって濡れたくなかったしね」
『淡雪の歌姫』鈴駆・ありす(CL2001269)は、鞄から真っ赤なレインコートを取りだして羽織った。
「じゃあ、こっちだけでも。使い捨てカイロも用意してきたんだ。使って。みんなも、どうぞ」
「わぁ。奏空くん、気が利くね。私は両方もっていい?」
『天使の卵』栗落花 渚(CL2001360)は透明のレインコートに袖を通すと、マイクロバスを降りるありすを呼び止めた。
「清廉珀香をかけるから、ちょっとだけ待って。六分ぐらいで切れちゃうけど、また様子を見ながらかけ直すよ」
透明感のある清楚な香りを身に纏い、レインコートと使い捨てカイロを奏空から受け取った者から順にマイクロバスを降りていく。向かう先は、闇夜に白く浮かぶ調査区と、調査区に隣接して建つ二階建てのプレハブだ。
「皆が助けたり何だのするなら、其れをやり易いようにするのがおっさんの役目だねえ」
緒形 逝(CL2000156)は天を仰いだ。フルフェイスヘルメットを雨が小さく叩き、流れ落ちていく。逝の身長は二メートル弱。戦闘機の両翼のほとんどが、レインコートの下からはみ出ていた。
あとからバスを降りて来た『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)が、レインコートをかぶりながら逝に言う。
「緒方店長、もう濡れているじゃん。それだけ体がでかいと、市販のレインコートじゃあ間に合わないんだな」
「肩が濡れて冷えないだけ上等。おっさんはこれで十分さね。ああ、ありがとうね工藤ちゃん」
逝は窓の向こうでレインコートを配る奏空に手を振った。
『赤き炎のラガッツァ』ラーラ・ビスコッティ(CL2001080)は、降車ドアの横に立って現場を見渡した。
「まさか発掘調査でこんな事が起こるなんて……よほど隠したいものが埋まっているんでしょうか」
「それはオレも思ったぜ。古妖が埋め戻しに来るなんて、一体何を掘り返しちまったんだ?」
深夜の現場に怒声が聞こえたのはそのときであった。
「いまは考えている時ではありませんね。これ以上、犠牲者を出さないために……急ぎましょう!」
お先に、といって一悟とラーラは連れ立ってプレハブへ向かった。
「おっさんもがんばるわよ。さて、準備はいいかね、みずたまや。お互い、持久戦は得意だろう? 天候は小雨。足元は泥濘状態、水分多く不安定といった所かね。雨で体力が持っていかれやすいから注意かな」
逝が走り出してすぐ、『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)たちが慌ててマイクロバスから飛び出してきた。
「どっちの先生が埋まっているのかわからないけど、どっちも助けたいのよ。だいふくさんも」
「……要は敵を殺せばいいんだろう? 任せろ。殺すのは得意だ」
これが初任務となる『ボーパルホワイトバニー』飛騨・直斗(CL2001570)の呟きに、奏空が苦笑を返す。
「うん、泥どろはどんどん倒さないとね。朝までしっかり頑張って、遺跡を守りきろう」
直斗は妖刀・鬼哭丸沙織を覆っていた純白の布を解くと、泥の中に落とした。
「何にせよ、依頼完遂の為なら全力を尽くす。……姉さんの形見に血を吸わせてやれないのは残念だがな。ところで、お前。そこで何をしている?」
直斗はマイクロバスから少し離れた闇の中で、地面にビニール傘を突きたてている桂木・日那乃(CL2000941)を指さした。
「ん?」
ざくざく、ぐちゃぐちゃ……。
振り返った日那乃の顔は影に覆われていた。雨を弾くフードの縁が、櫓の上のライトの光を微かに拾って白い線を引いている。その周りを、守護使役のマリンがゆったりと雨に濡れる尾を振りながら泳ぎ回っていた。
ざくざく、ぐちゃぐちゃ……。
すっかり柔らかくなった泥土の中にビニール傘をさしたまま、今度はぐるぐるとかき混ぜ始めた。
「……泥……こねて、る」
ぐちゃぐちゃ、ぐるぐる……。
「ひ、日那乃ちゃん、ちょっと怖いのよ。ホラーなのよ」
「ふふふ……もう、終わった、から。行きましょう」
まずは一体。
闇にまぎれてDトレンチの穴に近づこうとしていた泥どろが地に帰った。
残り、八百と九十九体――。
●
「おっと、そこまでだ」
頼蔵はプレハブの中に飛び込むと、腹を押さえて上体を折ったAAA調査官、木下信二の腕を引いて後ろへさげ、古妖に取りつかれた大福寺汐里の前に出た。
「ナンダ、オ前、タチハ? 底ノ岩戸ヲ開キニ来タカノカ?」
「ほほう。たしかに貴様は特別のようだな。聞かれもしないのに情報をあっさり漏らすあたり、頭の出来は外のお仲間とさほど変わりがないようだが。泥どろというだけに、貴様の頭にも泥が詰まっているのだろう?」
ふっと、笑いを漏らして人差し指でこめかみの横を叩く。
「黙レ!!」
だん、と床を震わせる強い踏み込み。同時に、泥の剣が薙がれた。
初手は防衛に専念すると決めていた頼蔵は、あっさりと剣先をかわした。
「底の岩戸だ? なんだ、それは!」
床に倒れていたもう一人のAAA調査官、田辺万亀が机に手をかけて立ちあがった。拳を固めて炎を纏わせ、剣を手にする大福寺を攻撃しようと前に出たが、寸前で思いとどまったようだ。
「おっさん、いいから一旦下がってくれ。話はあとで聞けばいいから!」
木下をプレハブの外へ連れ出した一悟が、戸口で叫ぶ。
「大福寺さんは古妖に取りつかれているんだ。彼女はオレたちが助ける!」
「ちっ……ファイヴか」
よそ見をした田辺を狙って、大福寺が泥玉を飛ばした。
一悟が田辺に飛びついて床に押し倒す。
泥の玉は一悟の後頭部を掠めるように飛んで、窓ガラスに当たって砕けた。
二人への追撃の気配を察した頼蔵は、素早く大福寺に接近すると足払いをかけて転ばせた。
大福寺は倒れざまに泥の槍を突きあげて、ダークスーツの上等な生地に穴をあけた。
「……ビスコッティ君、解析はまだか?」
「もう少したけ待ってください」
ラーラは意識をスキャン対象に集中させた。見開かれた目の、網膜上の棒細胞や円錐細胞の一個一個から、神秘の波動をスキャンの対象に飛ばされる。波動をあてられた敵から情報がフィードバックされて、ラーラの脳内で処理されていった。
「ごめんなさい、遅くなりましたなのよ。頼蔵おじさん、いま治してあげるのよ」
駆けつけ一番、飛鳥はロッドを振るって癒しの術を発動させた。
頼蔵の頭に命の星の涙滴がしたたり落ちる。脇腹の傷がたちまち癒えて、塞がった。
「判明しました! 物理に対する耐久性はほぼゼロ。覚者の力で殴りに行くと、オーバーダメージが大きく大福寺さんまで殺してしまいかねません」
「じゃあ、特殊スキルだけでやるっきゃないな」
田辺の上から立ちあがった一悟は、トンファーを守護使役の大和に預けた。
大福寺も立ちあがって剣を構える。両手で柄を握りしめ、まっすぐ剣先を入口に立つ飛鳥に向けた。
ラーラがさりげなく横に動いて飛鳥を庇う。
大福寺は攻撃目標を一悟に切り替えた。
「奥州君、来るぞ。ビスコッティ君、攻撃と回復の順番を指示してくれ」
「その前に、田辺捜査官……」
ラーラは、一悟の横で膝をついたまま立ちあがろうとしない田辺へ顔を向けた。
「貴方をスキャンさせてください。いやなら、手出しをしないでいただけますか? 大福寺さんを助けるために」
ラーラはここに来るまでに断りを入れて、プレハブ突入組をスキャン。各自のデータを手に入れていた。具体的な数値が分かったわけではないが、大体のイメージは掴めている。先程、スキャンし終えた大福寺と泥どろの情報と合わせて考えれば、最善の攻略方法が見つかるだろう。
だが、初対面の田辺はまったく未知数だ。このままでは、田辺を攻撃ローテーションに組み込むことはできない。
泥の唾を口から飛ばしながら、大福寺が一悟に突撃を仕掛けた。
一悟が両腕を固めて防御態勢をとる。
「がっ!?」
切っ先が一悟の両腕を割り裂いて胸に届く寸前、膝をついていた田辺が低い位置から大福寺の腹に業火に包まれた拳を叩き込んだ。
大福寺の体が吹っ飛んで天井に当たり、落ちる。
「田辺!!」
「怒鳴るな。話は聞いていた。特殊スキルならいいんだろう?」
田辺がゆらりと立ち上がる。
「あんたらから見ると俺もエナミーかもしれんが……スキャンはなしだ、お嬢ちゃん。大人しく下がっているよ。ファイヴのお手並み拝見しようじゃないか」
「……ラーラお姉さん、だいふくさんを回復させますか?」
背中を強張らせたラーラに、飛鳥が小声で伺う。
「え、ええ。お願い。一旦、リセットしましょう」
「はい、な
のよ。それっ!」
飛鳥は一悟の腕の傷もついでに直すために、癒しの霧を広げた。プレハブの中が一瞬、白く煙る。
「おっ……田辺さん、助けてくれてありがとうな。一応、礼を言っておくぜ」
一悟は田辺を庇うように前に出て、霧の中で身構えた。
「ふん。民間人を庇ういつもの癖で体が勝手に動いただけだ。礼には及ばん」
霧が晴れると、プレハブの壁を背にして大福寺が槍を構え立っていた。
「では、改めてやるとしよう。ビスコッティ君、指示を頼む」
●
「ごめんね、みんな。遅くなって」
奏空は土手の上から飛び込むと、器用にバランスを取って立ち、ぬかるんで滑りやすく穴だらけの調査区を歩いてDトレンチ南側へ向かった。
「遅かったわね。何をしていたの?」
ありすは妖気のアンテナを広げ、土手の向こうへ視線を向けて警戒しながら尋ねた。守護使役ゆるの力をかりて、地面から三十センチほど浮かんでいたが、土手の向こう側まで見通せない。
「日那乃が一体、バスの近くで泥どろを倒したよ。地面を這って遺跡に近づこうとしていたみたい」
「ふうん……喋れないけど何も考えていないってわけじゃないのね。ホント、厄介ね」
奏空は守護使役のライライさんに上空からの偵察をお願いし、自分は超聴力を活性させた。
「いる?」と、ありすに問う。
「いっぱいね。周りにまんべんなく沢山いすぎて、どこにどれだけって指定できない状況よ。どこから湧いてくるんだか……。それにしても、どうして全体をこんなに深く掘り下げたのかしら。だいたい今、アタシたちが立っているのは何世紀ごろの地面なの?」
雨を弾く透明のフードの下で苦笑いしながら、さあ、と答える。
「そっか、同族把握の感度が良すぎるっていうのも困りものだね。でも、一体たりともDトレンチに近づかせないよ。絶対、守りぬいてみせる」
ありすは一瞬だけ、雨を落とす空へ目を向けた。
「そうね。工藤クンのライライさんもだけど、桂木サンと木下サンが空から古妖の動きを見張ってくれるのは助かるわ」
渚はDトレンチから少し離れたところに立ち、守護使役きららが灯す火で外壁を眺めていた。防水シートが一部めくれており、断面がむき出しになった部分があったのだ。
(「こうしてみると、地層の波が面白いな。土によってこんなにはっきりと色が違うんだ……」)
じっと、目を凝らしていると、壁に打ち込まれた釘に結ばれたナイロン製の青糸が微かに震えた。高さの目安に引かれたものだ。その青糸の下を、泥の筋が流れ落ちていく。地層の矩形が壁から消えていた。一体、いや、二体!
「泥どろ発見! この保健委員腕章にかけて、素早く的確に排除します!」
巨大な注射器を構え持つと、渚は壁に突撃した。泥どろの背にずぶりと注射針を突きたて、神秘の劇薬を注入する。
刺された泥どろの背に巨大なコブができる。コブはたちまち乾燥し、ひび割れ、ぱん、と音をたてて弾け飛んだ。
「お日さま成分たっぷりの特注お薬だよ。これで一体残らず退治しちゃうんだから。覚悟しなさい!」
調査区まで降りて来たもう一体は、奏空が滅相銃で撃って倒した。遺跡に新しい穴がいくつか空いてしまったが、それは見逃してもらうしかない。
「東側に二体発見! 櫓を倒そうとしています」
AAAの木下が東を指さしながら叫んだ。
「あ、ライライさんも見つけたって。え、北側から5体スクラムを組んで走ってくる!?」
日那乃が広げた傘を倒して西を示した。
「こっち……から、も来た。一体だけ。だけど、他のより大きい?」
上空の偵察部隊から報告を受けて、逝は西に、直斗は東に走る。
「泥どろラガーズはありすちゃんに任せたわよ! おっさんはでかいの潰しに行くー」
「いいわよ、任せて。カラッカラの焼け土にしてあげるわ!」
ありすは泥どろたちが土手の縁に立つタイミングに合わせて、下から燃え盛る炎の柱を出現させた。
激しく水蒸気が吹き上がった。水分を飛ばされた泥どろが、崩れながら調査区の中へ落ちていく。
乾いた土の塊の上に、雨が落ちて染み込み、黒く変色してただの泥になった。
逝は西の櫓に肩から体当たりしようとしていた泥どろの前に立ちはだかった。早く喰わせろ、と手にした妖刀・悪食が身もだえする。
「どうどう、悪食ちゃん。まだ始まったばかりさね。いまからゲップがでるほど食べさせてあげるわよ。まあ頑張って一晩中お掃除しよう」
野球のバットを構えるように、悪食を立てて持つ。泥どろの泥臭い息がフルフェイスを曇らせるほど引きつけておいて、腰を回した。
悪食の刃が雨粒を断ち切りながら、闇に美しい銀の弧を描く。上らか下へ、切り落とすようなスイングで泥どろを二つに切り分けた。
命を絶たれた古妖は、悪食の刃の上で、体を水と泥のしぶきに変えて翼のように広げた。一拍遅れて、ずずっと妖刀の中へ吸い込まれていく。
「おや、もう……次が来たわよ。ひい、ふう……あら、ま。団体で来た」
黄色い強化プラッチックの下で、逝の暗視モードの目が青く光った。
メアリー・ポピンズよろしく、傘をさした日那乃が逝の横に降り立つ。
「西南方面、任せて。まとめて、流す、から。回復は、AAAの人がやってくれる、みたい」
「はいよ。おっさんは、西北からくるやつを悪食に食わせようかね」
ちょうど反対側では、直斗が鞘から妖刀を抜き放ったところだった。
「俺の前で勝手はさせん。土に戻るがいい」
左右から櫓の足に取りついてゆすぶりかけていた二体のうち、一体が両腕を上げて直斗に向かってきた。抱き着いて体内に埋め込む気だ。
直斗はとっさに姉の形見を振って、頭の上から倒れこんできた敵を斬り払った。まるで像を斬るように、胴から二つに斬られた泥どろが、水しぶきを上げて足下に転がる。だが、それだけでは終わらない。のこるもう一体が、死角から直斗の上に覆いかぶさってきた。
「ふん、甘い!」
直斗は鬼哭丸沙織を突きだして、古妖をくし刺しにした。
だが、それがいけなかった。死の直前に力を振り絞った泥どろが、直斗の上に落ちてきたのだ。
直斗に妖刀を抜く暇はなかった。巻き添えを避けるには、手放して体ごと避けしかない。
「くそっ!」
転がるようにして避けると、泥どろが鬼哭丸沙織に貫かれたまま地面に倒れ込んだ。
その直後。闇の中から新手の敵が、素手になった直斗めがけて束で襲い掛かってきた。
「伏せて!」
いつの間にか、奏空が調査区から上がってきていた。略式滅相銃・業型を右左に振って弾幕を張る。
弾に弾かれ、泥しぶきとなって飛び散る敵の後ろから、またしても泥どろ!
直人は泥の中から妖刀を拾い上げたばかり、奏空は銃弾の装填が間に合わない。あせる二人を無視して横を素通りし、泥どろたちは次々と調査区へ飛び込んでいった。
「何度来ても無駄よ。Dトレンチの穴の先になにがあるのか知らないけど、近づけさせないから」
ありすは召炎波を放った。ごぉ、と音を立てて炎の波が泥どろたちを飲み込み、焼き固める。
できの悪い陶器人形を、渚が巨大注射器を振るって砕いた。
「みんな、集まって。ここでもう一度、清廉珀香をかけ直すから」
夜は長い。日の出はまだまだ先だ。
「予防措置は……もう少しあとで。戦闘を重ねてみんなの注意力が下ってきてからにするね」
「今度は南、プレハブの横から湧いて出て来たぞぅ」
逝が西端から声を張り上げる。
休憩所と倉庫の間から、ぐるぐると腕を振り回して泥玉を投げつつ、三体の泥どろが突貫して来た。
休憩所の横からは二体、倉庫の横からも二体。やはり泥玉を見つけた覚者に向けて投げつつ走ってくる。
プレハブの扉が勢いよくひかれて、ラーラが休憩所から飛び出してきた。一悟と飛鳥が後に続く。
「真ん中から出て来た三体はお任せください! ありすさんたちは北から来る泥どろの迎撃をお願いします」
「俺は右をやる、飛鳥は左のやつを頼む!」
「はい、なのよ!」
ラーラは金色の鍵を守護使役ペスカから受け取ると、煌炎の書の封印を解いた。
「良い子に甘い焼き菓子を、悪い子には石炭を……イオ・ブルチャーレ!」
詠唱とともにラーラの左手の上で炎が渦巻き玉を成す。敵に向けて解き放たれたそれは、暴れ狂う紅き炎の奔流となって空を駆け、怒れる獅子に姿を変えて紅蓮の牙を泥どろたちに突きたてた。
哀れ。
古妖たちは怯える間もなく炎の獅子にかみ砕かれて、塵と化した。
同時に反対側、北の土手の上に奏空が召喚した雷神の矢が青光りしながらざんざと降り注いだ。
直斗が放った雷獣が、偶然にも雷帝の怒りを逃れた泥どろに牙を剥いて回る。
それでも抜けて来た泥どろは、ありすと渚、逝と日那乃がDトレンチの手前で一体ずつ始末した。
「これでも食らいやがれ!」
一悟は炎を纏わせたトンファーを振るって、泥どろたちの前に火柱を立ちあげた。
休憩室の横から出て来た二体の古妖は、突如出現した火柱に驚いて、慌てて立ち止まった。前を炙られてぽろぽろと干からびた土の皮膚を落としながら、後ずさり、ついで踵を返す。
「逃がすかよ!」
一悟は自ら作った炎の柱を突っ切ると、全身に紅蓮の帯を纏わせたまま、逃げていく泥どろの背にトンファーを叩き込んだ。
「泥んこは即、流すべし!」
あすかは水晶のロッドを振り上げて、頭上に巨大な水龍を呼び出した。降りしきる雨を纏って銀色のオーラを放つ水龍が、倉庫の横から出て来た泥どろに向けて大きな口を開ける。
「水龍さん、やっちまってくだせいなのよ!」
飛鳥の命を受けた水龍は、ダムの放水を思わせる勢いで二体の泥どろに迫り、喰らった。食われた泥どろたちは、龍の内部に渦巻く凄まじい水流で体を粉々に砕かれ、泥水となって闇の向こうへ押し流されて行った。
「お待たせしました。今から私たちも遺跡の防衛に加わります。休憩を取る人は取ってください」
逝は梯子を上ると、調査区を回り込んでプレハブの前へ来た。
「大福寺ちゃんは? 無事かね?」
「はい。大変でしたが、なんとかお助けすることができました。いま、中で八重霞さんと田辺さんが彼女の世話をしています。あ、緒方さんが一番で休憩を取られますか?」
「それはよかった。うん? おっさんは休憩しないよ。昔取ったなんとかで、一晩中、悪条件の中で戦い続けても苦にはならないのよ。おっさんよりも……」
逝はフルフェイスを調査区の中にいる女性陣に向けた。振り返ったありすと視線が合う。お先にどうぞ、と手でプレハブの入口を示した。
「アタシ? アタシはここをビスコッティさんに任せて、ポンプの護衛に回るわ。それにしても、これをずっと朝までってホント気が滅入るわね。適当なところで休憩は頂くから、栗落花サンか桂木サン、お先にどうぞ」
「私も、今のうちに交霊術で試したいことがあるから後でいいよ。日那乃ちゃん、どうぞ」
少し雨脚が弱まったきたためか、泥どろの攻撃がぴたりとやんでいた。
これまでに倒した数は、大福寺に取りついていた一体を含めて百体ほど。残り八百体が調査区の回りの闇の中で息をひそめてこちらの隙を伺っている。
「じゃあ、遠慮なく。温かいお茶、入れて持ってくるね」
日那乃がプレハブに入ると、奏空は袖をめくって腕時計を見た。
時刻は午前零時ちょうど。
夜明けまであと六時間半――。
●
「手を貸せ……とは言えないな。何分『民間人』なのでね。其処は貴方の義務感と良識に期待するしかないが。さて、如何するかね?」
田辺は頼蔵の問いかけを受けて、片眉を上げた。
肩に防寒ジャンパーを羽織り、パイプ椅子に座って、まったくの無表情で宙を見つめている大福寺に聞こえないよう、低く絞った声をだす。
「どうするもこうするもねぇだろう。あんた、被害者からの聴き取り調査の経験は?」
「……あるといえばある。警察の、とは違うが商売柄、人から話を聞きだすことには長けているつもりだ」
田辺は、私立探偵か、と小さく鼻を鳴らした。
頼蔵はあえて無視した。冷たい目で田辺を見下す。
「だが、ここは貴様に譲ろう。まさか、聞きだしたことをAAAの独り占めはしないだろ?」
「心配ならそこで聞いていろ。口出ししないでいてくれればいい」
「よかろう。こんどはそちらのお手並み拝見といこうではないか。せいぜい彼女から、有益な情報を聞きだしてくれ」
二人の間に走った緊張を機敏に感じ取り、大福寺が身を震わせた。
休憩を取るために日那乃がプレハブに入ってきた。一目見て場の状況を把握するなり、冷たい声で言い放つ。
「なに、してるの? 大福寺さん、怖がっている、よ。やめて」
日那乃にきつくたしなめられてしまった。
「やはり私は外に出よう。切れた電話線も見て確認しておきたいし、朝から行方不明だという「先生」のことも気がかりだ。ちょっとプレハブの周りを調べてみるか。桂木君、あとを頼む」
「わかった。聴き取りは、ちょっと、待って。二階でお茶、入れて、くるから」
日那乃が温かい紅茶が入ったマグカップとスプーンを三組、盆にのせて戻って来た。田辺がぼそりと、コーヒーがよかったと零す。
「贅沢、いわない。大福寺さん、お砂糖、いる?」
戸棚から拝借してきたスティックシュガーを差し出す。
大福寺は首を横に振った。
日那乃を書記にして事情徴収が始まった。田辺はまず、名前や仕事など、簡単な経歴を尋ねることで、大福寺の緊張を解きにかかった。一通り事実関係を聞き終えたところで、大福寺に紅茶を勧め、自分もマグカップに口をつけた。
このタイミングで日那乃は席を立ち、二階に上がった。火をつけて湯を沸かし、戸棚で見つけた紙コップに緑茶を入れる。ラップをかぶせて盆にのせ、一階に戻った。
「ほかの人と、書記、交代する、ね」
田辺に声をかけてから、雨の降る夜へ出ていく。
替わりに奏空がプレハブに戻って来た。
小休止を挟んで、古妖たちの波状攻撃が再開していた。防衛についている覚者たちは、調査区の四方から緩急をつけて押し寄せてくる泥どろに対処するため、気力を使う複数攻撃を連発。いきおい、奏空は調査区の中を駆けまわり、己の気力を仲間たちに分けて回らざるを得なかった。
「ふぅ。疲れた……。日那乃から話は聞いているよ。書記しながら、僕もお茶を飲んで暖まってもいいかな?」
それからも時々休憩をはさんでは調書を取る者が入れ替わったが、聞き役は一貫して田辺が受け持った。
トタンの壁を打つ雨粒の単調なリズムに、戦いの音が時折アクセントをつける。大福寺はマグカップを両手で持って、田辺の質問に耳を傾ける。
「……それで、笹垣さんたちはどうして調査区に降りていったんですか?」
「音が……海鳴りのような……調査区から聞こえてきたんです。はじめは雷が鳴っているのだと思っていました。ですが……」
急に生臭い匂いがして、背中に悪寒が走ったのだという。三人が三人とも同時に窓の外へ顔を向けると、調査区をうっすらと黒い霧のようなものが覆っていのが見えた。その黒い霧は、Dトレンチにかけられた防水シートの下からでていた。
「シートが一部めくられていて、穴の端が見えていました。その時はいまよりもずっと雨が強くなっていましたが……笹垣先生と石山先生は、ふたりで様子を見に行ったんです」
田辺の肩がぴくりと動いた。
隣に座っていたありすも目をほんの少し細める。
(「黒い霧が這っていた上に雨脚が強まっていた……。結構距離があるのに、どうして穴から霧が出ているって判ったのかしら?」)
たぶん、田辺も同じ疑問を感じたはずだ。だが、田辺はそのことには触れず、別の質問に移った。
「それが八時過ぎのことだったんですね? ところで午後五時にアルバイトたちを帰してから三時間、大福寺さんたちはここで何をしていたのですか?」
「調査報告書のまとめなど、いろいろと。やることはたくさんありますから……」
ここでも田辺は詳細を聞き出そうとはしなかった。では、と本題を切り出す。
「古妖に襲われたときのことを話してください」
大福寺は田辺の目を避けるようにうつむいて、視線を床へ落とした。
わっ、と声が調査区で上がったのはその時である。
●
一悟は倉庫へ行くと、シャベルと防水シートを集めた。
配電盤を探してベルトコンベアの電源を入れる。掘り起こした土を調査区の外へ出すためだ。プラスチックの手ざるでいちいち土を運びだす暇も人もいない。
道具を抱えて調査区へ戻った。
「おっさん、ちょっと見てこようか? 直せるものなら直すけど?」
「電話線は鋭利な刃物か何かですっぱりと断ち切られていた。……絶縁テープで巻いて治るものではないだろう? それより、まただ。また来たようだぞ」
頼蔵は逝くとともに数体の泥どろを倒したところで、休憩から戻って来た直斗に受け持ちを引き継ぎ、Dトレンチの前に戻った。
音を立ててベルトコンベアが動き始める。
「持って来たぜ。……まだ生きていてくれればいいけどな」
頼蔵は一悟が差し出したシャベルを受け取った。
あんなひどい雨の夜に大学教授がたったふたりで発掘現場に行き、土砂崩れにあった。緊急を要することが起こっていたに違いない。
「奥州君、それは必要ない。むしろ手バチのほうが……その小さな鍬のようなものだ。ここは粘土質だからな。そのほうがいい。いや、いつぞや採掘屋に付き合った事があってね、多少は、な」
渚と飛鳥が防水シートを広げて屋根を作った。
「私と飛鳥ちゃんの2人で、交霊を心みたんだけど反応なかったよ。ここには死者が埋まってなかったみたい」
「塞がった穴を透視で覗いてみたのよ。土ばっかりだったのよ。けっこう深くまで崩れているようです」
やるか、と一悟はシャベルを穴に突き立てた。もとの壁まで削って広げないように注意しながら、頼蔵とふたりで黙々と土を掘り返していく。穴をふさいでいる土は柔らかく、掘りやすかった。
二メートルごとに飛鳥に先を透視させては、ときどき掘り手を変わってもらって休憩をとった。その間も、穴の外では戦闘が続いていた。
「もうそろそろ抜けてもいいんじゃね? 十メートルは掘り進んでいるぜ」
「そうだな、そろそろ――」
土の壁が薄く崩れたかと思うと、先に空間があり、その先にまた壁があった。下を見ると穴か開いている。穴の壁に脚立が立てかけられていた。
一悟が守護使役の能力を使って、危険なガスが穴の中に蔓延していないか調べた。
「大丈夫だな。ちょっとみんなに知らせておこう」
送受心で状況を仲間たちに知らせた。ついでにもう一人か二人、手を貸してほしいと頼む。怪我人の運び出しと、万が一、下で未知の敵と戦闘になったときの用心のためだ。
逝と直斗がやって来た。
「……降りるか」
垂直に穴を下りて、また北へうねうねと数十メートル。背をかがめてぬかるむ通路を進んでいくと、前方から石を砕くような打撃音が断続的に聞こえてきた。
急に天井が高い小部屋のような空間に出た。正面の突き当りに巨大な石の扉があり、少し隙間が開いている。隙間から渦巻く時空をのぞかせた巨大な岩戸の右下隅で、動く影があった。
「待てっ!」
直斗が剣の柄に手をかけて走り出した。間に合わないと判断して抜刀、剣戟を飛ばす。
ぎゃっ、と悲鳴が上がり、直後に岩戸が閉じられた。
直斗は岩戸のすこし手前で倒れていた人を飛び越えると、その勢いのまま、閉まった岩戸に激突した。
砕かれ、削られて、こぼこになった岩肌に手を強く叩きつける。
「くそ! もう少し早ければ、入れたかもしれないな」
「飛騨ちゃん、向こう側に行けなくてよかったわよ。脅しでもなんでもなく、戻れなくなっていたぞぅ」
隙間から見えた空間に別の依頼任務でアレに入った時と同じものを感じた。スワンプマンの――。
逝はフルフェイスの中でそっと息を漏らすと、巨大な岩戸を見上げた。
心配してやってきた渚が、隣に並びたつ」
「詳細はここの調査を待たないと分かりませんね。大福寺さんの証言と合わせて」
一悟は岩戸の前に倒れていた人を抱き起した。
男の顔を見て、息を飲む。
「どうかしたかね、奥州ちゃん?」
「この男……たぶん『先生』だ。他の依頼で、ちらっと見た。笹垣先生じゃない」
●
九百体の泥どろすべてを倒し切ったのは、日の出の少し前。
穴から運び出された『先生』は、搬送先の病院で死亡判定が下された。
白々しい光で照らされた調査区域の外はまったき闇で、まわりに民家の明かり一つ見えない。例外は休憩所として使われているプレハブの一階の弱々しい照明だけだ。
八重霞 頼蔵(CL2000693)は、ファイヴが手配したマイクロバスの中から外を窺った。
姿は見えずとも、周辺に潜む古妖の気は感じる。手分けして遺跡周辺の家をまわり、外に出ないよう警告するべきか迷った。
「雨の夜に遺跡を覗きに来るような物好きは……いないな」
「人払いの手間がない分、気持ちが楽だよね。しっかり遺跡の防衛に専念できるし」
『探偵見習い』工藤・奏空(CL2000955)は立ち上がって棚から荷物を降ろした。ボストンバックの中からヘッドライトを取りだして着ける。それから折りたたまれた透明のレインコートを取りだした。
「ありす待って。降りる前にこれを」
「ありがとう。でも、アタシも持ってきたから。傘なんかさして戦えないし、かといって濡れたくなかったしね」
『淡雪の歌姫』鈴駆・ありす(CL2001269)は、鞄から真っ赤なレインコートを取りだして羽織った。
「じゃあ、こっちだけでも。使い捨てカイロも用意してきたんだ。使って。みんなも、どうぞ」
「わぁ。奏空くん、気が利くね。私は両方もっていい?」
『天使の卵』栗落花 渚(CL2001360)は透明のレインコートに袖を通すと、マイクロバスを降りるありすを呼び止めた。
「清廉珀香をかけるから、ちょっとだけ待って。六分ぐらいで切れちゃうけど、また様子を見ながらかけ直すよ」
透明感のある清楚な香りを身に纏い、レインコートと使い捨てカイロを奏空から受け取った者から順にマイクロバスを降りていく。向かう先は、闇夜に白く浮かぶ調査区と、調査区に隣接して建つ二階建てのプレハブだ。
「皆が助けたり何だのするなら、其れをやり易いようにするのがおっさんの役目だねえ」
緒形 逝(CL2000156)は天を仰いだ。フルフェイスヘルメットを雨が小さく叩き、流れ落ちていく。逝の身長は二メートル弱。戦闘機の両翼のほとんどが、レインコートの下からはみ出ていた。
あとからバスを降りて来た『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)が、レインコートをかぶりながら逝に言う。
「緒方店長、もう濡れているじゃん。それだけ体がでかいと、市販のレインコートじゃあ間に合わないんだな」
「肩が濡れて冷えないだけ上等。おっさんはこれで十分さね。ああ、ありがとうね工藤ちゃん」
逝は窓の向こうでレインコートを配る奏空に手を振った。
『赤き炎のラガッツァ』ラーラ・ビスコッティ(CL2001080)は、降車ドアの横に立って現場を見渡した。
「まさか発掘調査でこんな事が起こるなんて……よほど隠したいものが埋まっているんでしょうか」
「それはオレも思ったぜ。古妖が埋め戻しに来るなんて、一体何を掘り返しちまったんだ?」
深夜の現場に怒声が聞こえたのはそのときであった。
「いまは考えている時ではありませんね。これ以上、犠牲者を出さないために……急ぎましょう!」
お先に、といって一悟とラーラは連れ立ってプレハブへ向かった。
「おっさんもがんばるわよ。さて、準備はいいかね、みずたまや。お互い、持久戦は得意だろう? 天候は小雨。足元は泥濘状態、水分多く不安定といった所かね。雨で体力が持っていかれやすいから注意かな」
逝が走り出してすぐ、『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)たちが慌ててマイクロバスから飛び出してきた。
「どっちの先生が埋まっているのかわからないけど、どっちも助けたいのよ。だいふくさんも」
「……要は敵を殺せばいいんだろう? 任せろ。殺すのは得意だ」
これが初任務となる『ボーパルホワイトバニー』飛騨・直斗(CL2001570)の呟きに、奏空が苦笑を返す。
「うん、泥どろはどんどん倒さないとね。朝までしっかり頑張って、遺跡を守りきろう」
直斗は妖刀・鬼哭丸沙織を覆っていた純白の布を解くと、泥の中に落とした。
「何にせよ、依頼完遂の為なら全力を尽くす。……姉さんの形見に血を吸わせてやれないのは残念だがな。ところで、お前。そこで何をしている?」
直斗はマイクロバスから少し離れた闇の中で、地面にビニール傘を突きたてている桂木・日那乃(CL2000941)を指さした。
「ん?」
ざくざく、ぐちゃぐちゃ……。
振り返った日那乃の顔は影に覆われていた。雨を弾くフードの縁が、櫓の上のライトの光を微かに拾って白い線を引いている。その周りを、守護使役のマリンがゆったりと雨に濡れる尾を振りながら泳ぎ回っていた。
ざくざく、ぐちゃぐちゃ……。
すっかり柔らかくなった泥土の中にビニール傘をさしたまま、今度はぐるぐるとかき混ぜ始めた。
「……泥……こねて、る」
ぐちゃぐちゃ、ぐるぐる……。
「ひ、日那乃ちゃん、ちょっと怖いのよ。ホラーなのよ」
「ふふふ……もう、終わった、から。行きましょう」
まずは一体。
闇にまぎれてDトレンチの穴に近づこうとしていた泥どろが地に帰った。
残り、八百と九十九体――。
●
「おっと、そこまでだ」
頼蔵はプレハブの中に飛び込むと、腹を押さえて上体を折ったAAA調査官、木下信二の腕を引いて後ろへさげ、古妖に取りつかれた大福寺汐里の前に出た。
「ナンダ、オ前、タチハ? 底ノ岩戸ヲ開キニ来タカノカ?」
「ほほう。たしかに貴様は特別のようだな。聞かれもしないのに情報をあっさり漏らすあたり、頭の出来は外のお仲間とさほど変わりがないようだが。泥どろというだけに、貴様の頭にも泥が詰まっているのだろう?」
ふっと、笑いを漏らして人差し指でこめかみの横を叩く。
「黙レ!!」
だん、と床を震わせる強い踏み込み。同時に、泥の剣が薙がれた。
初手は防衛に専念すると決めていた頼蔵は、あっさりと剣先をかわした。
「底の岩戸だ? なんだ、それは!」
床に倒れていたもう一人のAAA調査官、田辺万亀が机に手をかけて立ちあがった。拳を固めて炎を纏わせ、剣を手にする大福寺を攻撃しようと前に出たが、寸前で思いとどまったようだ。
「おっさん、いいから一旦下がってくれ。話はあとで聞けばいいから!」
木下をプレハブの外へ連れ出した一悟が、戸口で叫ぶ。
「大福寺さんは古妖に取りつかれているんだ。彼女はオレたちが助ける!」
「ちっ……ファイヴか」
よそ見をした田辺を狙って、大福寺が泥玉を飛ばした。
一悟が田辺に飛びついて床に押し倒す。
泥の玉は一悟の後頭部を掠めるように飛んで、窓ガラスに当たって砕けた。
二人への追撃の気配を察した頼蔵は、素早く大福寺に接近すると足払いをかけて転ばせた。
大福寺は倒れざまに泥の槍を突きあげて、ダークスーツの上等な生地に穴をあけた。
「……ビスコッティ君、解析はまだか?」
「もう少したけ待ってください」
ラーラは意識をスキャン対象に集中させた。見開かれた目の、網膜上の棒細胞や円錐細胞の一個一個から、神秘の波動をスキャンの対象に飛ばされる。波動をあてられた敵から情報がフィードバックされて、ラーラの脳内で処理されていった。
「ごめんなさい、遅くなりましたなのよ。頼蔵おじさん、いま治してあげるのよ」
駆けつけ一番、飛鳥はロッドを振るって癒しの術を発動させた。
頼蔵の頭に命の星の涙滴がしたたり落ちる。脇腹の傷がたちまち癒えて、塞がった。
「判明しました! 物理に対する耐久性はほぼゼロ。覚者の力で殴りに行くと、オーバーダメージが大きく大福寺さんまで殺してしまいかねません」
「じゃあ、特殊スキルだけでやるっきゃないな」
田辺の上から立ちあがった一悟は、トンファーを守護使役の大和に預けた。
大福寺も立ちあがって剣を構える。両手で柄を握りしめ、まっすぐ剣先を入口に立つ飛鳥に向けた。
ラーラがさりげなく横に動いて飛鳥を庇う。
大福寺は攻撃目標を一悟に切り替えた。
「奥州君、来るぞ。ビスコッティ君、攻撃と回復の順番を指示してくれ」
「その前に、田辺捜査官……」
ラーラは、一悟の横で膝をついたまま立ちあがろうとしない田辺へ顔を向けた。
「貴方をスキャンさせてください。いやなら、手出しをしないでいただけますか? 大福寺さんを助けるために」
ラーラはここに来るまでに断りを入れて、プレハブ突入組をスキャン。各自のデータを手に入れていた。具体的な数値が分かったわけではないが、大体のイメージは掴めている。先程、スキャンし終えた大福寺と泥どろの情報と合わせて考えれば、最善の攻略方法が見つかるだろう。
だが、初対面の田辺はまったく未知数だ。このままでは、田辺を攻撃ローテーションに組み込むことはできない。
泥の唾を口から飛ばしながら、大福寺が一悟に突撃を仕掛けた。
一悟が両腕を固めて防御態勢をとる。
「がっ!?」
切っ先が一悟の両腕を割り裂いて胸に届く寸前、膝をついていた田辺が低い位置から大福寺の腹に業火に包まれた拳を叩き込んだ。
大福寺の体が吹っ飛んで天井に当たり、落ちる。
「田辺!!」
「怒鳴るな。話は聞いていた。特殊スキルならいいんだろう?」
田辺がゆらりと立ち上がる。
「あんたらから見ると俺もエナミーかもしれんが……スキャンはなしだ、お嬢ちゃん。大人しく下がっているよ。ファイヴのお手並み拝見しようじゃないか」
「……ラーラお姉さん、だいふくさんを回復させますか?」
背中を強張らせたラーラに、飛鳥が小声で伺う。
「え、ええ。お願い。一旦、リセットしましょう」
「はい、な
のよ。それっ!」
飛鳥は一悟の腕の傷もついでに直すために、癒しの霧を広げた。プレハブの中が一瞬、白く煙る。
「おっ……田辺さん、助けてくれてありがとうな。一応、礼を言っておくぜ」
一悟は田辺を庇うように前に出て、霧の中で身構えた。
「ふん。民間人を庇ういつもの癖で体が勝手に動いただけだ。礼には及ばん」
霧が晴れると、プレハブの壁を背にして大福寺が槍を構え立っていた。
「では、改めてやるとしよう。ビスコッティ君、指示を頼む」
●
「ごめんね、みんな。遅くなって」
奏空は土手の上から飛び込むと、器用にバランスを取って立ち、ぬかるんで滑りやすく穴だらけの調査区を歩いてDトレンチ南側へ向かった。
「遅かったわね。何をしていたの?」
ありすは妖気のアンテナを広げ、土手の向こうへ視線を向けて警戒しながら尋ねた。守護使役ゆるの力をかりて、地面から三十センチほど浮かんでいたが、土手の向こう側まで見通せない。
「日那乃が一体、バスの近くで泥どろを倒したよ。地面を這って遺跡に近づこうとしていたみたい」
「ふうん……喋れないけど何も考えていないってわけじゃないのね。ホント、厄介ね」
奏空は守護使役のライライさんに上空からの偵察をお願いし、自分は超聴力を活性させた。
「いる?」と、ありすに問う。
「いっぱいね。周りにまんべんなく沢山いすぎて、どこにどれだけって指定できない状況よ。どこから湧いてくるんだか……。それにしても、どうして全体をこんなに深く掘り下げたのかしら。だいたい今、アタシたちが立っているのは何世紀ごろの地面なの?」
雨を弾く透明のフードの下で苦笑いしながら、さあ、と答える。
「そっか、同族把握の感度が良すぎるっていうのも困りものだね。でも、一体たりともDトレンチに近づかせないよ。絶対、守りぬいてみせる」
ありすは一瞬だけ、雨を落とす空へ目を向けた。
「そうね。工藤クンのライライさんもだけど、桂木サンと木下サンが空から古妖の動きを見張ってくれるのは助かるわ」
渚はDトレンチから少し離れたところに立ち、守護使役きららが灯す火で外壁を眺めていた。防水シートが一部めくれており、断面がむき出しになった部分があったのだ。
(「こうしてみると、地層の波が面白いな。土によってこんなにはっきりと色が違うんだ……」)
じっと、目を凝らしていると、壁に打ち込まれた釘に結ばれたナイロン製の青糸が微かに震えた。高さの目安に引かれたものだ。その青糸の下を、泥の筋が流れ落ちていく。地層の矩形が壁から消えていた。一体、いや、二体!
「泥どろ発見! この保健委員腕章にかけて、素早く的確に排除します!」
巨大な注射器を構え持つと、渚は壁に突撃した。泥どろの背にずぶりと注射針を突きたて、神秘の劇薬を注入する。
刺された泥どろの背に巨大なコブができる。コブはたちまち乾燥し、ひび割れ、ぱん、と音をたてて弾け飛んだ。
「お日さま成分たっぷりの特注お薬だよ。これで一体残らず退治しちゃうんだから。覚悟しなさい!」
調査区まで降りて来たもう一体は、奏空が滅相銃で撃って倒した。遺跡に新しい穴がいくつか空いてしまったが、それは見逃してもらうしかない。
「東側に二体発見! 櫓を倒そうとしています」
AAAの木下が東を指さしながら叫んだ。
「あ、ライライさんも見つけたって。え、北側から5体スクラムを組んで走ってくる!?」
日那乃が広げた傘を倒して西を示した。
「こっち……から、も来た。一体だけ。だけど、他のより大きい?」
上空の偵察部隊から報告を受けて、逝は西に、直斗は東に走る。
「泥どろラガーズはありすちゃんに任せたわよ! おっさんはでかいの潰しに行くー」
「いいわよ、任せて。カラッカラの焼け土にしてあげるわ!」
ありすは泥どろたちが土手の縁に立つタイミングに合わせて、下から燃え盛る炎の柱を出現させた。
激しく水蒸気が吹き上がった。水分を飛ばされた泥どろが、崩れながら調査区の中へ落ちていく。
乾いた土の塊の上に、雨が落ちて染み込み、黒く変色してただの泥になった。
逝は西の櫓に肩から体当たりしようとしていた泥どろの前に立ちはだかった。早く喰わせろ、と手にした妖刀・悪食が身もだえする。
「どうどう、悪食ちゃん。まだ始まったばかりさね。いまからゲップがでるほど食べさせてあげるわよ。まあ頑張って一晩中お掃除しよう」
野球のバットを構えるように、悪食を立てて持つ。泥どろの泥臭い息がフルフェイスを曇らせるほど引きつけておいて、腰を回した。
悪食の刃が雨粒を断ち切りながら、闇に美しい銀の弧を描く。上らか下へ、切り落とすようなスイングで泥どろを二つに切り分けた。
命を絶たれた古妖は、悪食の刃の上で、体を水と泥のしぶきに変えて翼のように広げた。一拍遅れて、ずずっと妖刀の中へ吸い込まれていく。
「おや、もう……次が来たわよ。ひい、ふう……あら、ま。団体で来た」
黄色い強化プラッチックの下で、逝の暗視モードの目が青く光った。
メアリー・ポピンズよろしく、傘をさした日那乃が逝の横に降り立つ。
「西南方面、任せて。まとめて、流す、から。回復は、AAAの人がやってくれる、みたい」
「はいよ。おっさんは、西北からくるやつを悪食に食わせようかね」
ちょうど反対側では、直斗が鞘から妖刀を抜き放ったところだった。
「俺の前で勝手はさせん。土に戻るがいい」
左右から櫓の足に取りついてゆすぶりかけていた二体のうち、一体が両腕を上げて直斗に向かってきた。抱き着いて体内に埋め込む気だ。
直斗はとっさに姉の形見を振って、頭の上から倒れこんできた敵を斬り払った。まるで像を斬るように、胴から二つに斬られた泥どろが、水しぶきを上げて足下に転がる。だが、それだけでは終わらない。のこるもう一体が、死角から直斗の上に覆いかぶさってきた。
「ふん、甘い!」
直斗は鬼哭丸沙織を突きだして、古妖をくし刺しにした。
だが、それがいけなかった。死の直前に力を振り絞った泥どろが、直斗の上に落ちてきたのだ。
直斗に妖刀を抜く暇はなかった。巻き添えを避けるには、手放して体ごと避けしかない。
「くそっ!」
転がるようにして避けると、泥どろが鬼哭丸沙織に貫かれたまま地面に倒れ込んだ。
その直後。闇の中から新手の敵が、素手になった直斗めがけて束で襲い掛かってきた。
「伏せて!」
いつの間にか、奏空が調査区から上がってきていた。略式滅相銃・業型を右左に振って弾幕を張る。
弾に弾かれ、泥しぶきとなって飛び散る敵の後ろから、またしても泥どろ!
直人は泥の中から妖刀を拾い上げたばかり、奏空は銃弾の装填が間に合わない。あせる二人を無視して横を素通りし、泥どろたちは次々と調査区へ飛び込んでいった。
「何度来ても無駄よ。Dトレンチの穴の先になにがあるのか知らないけど、近づけさせないから」
ありすは召炎波を放った。ごぉ、と音を立てて炎の波が泥どろたちを飲み込み、焼き固める。
できの悪い陶器人形を、渚が巨大注射器を振るって砕いた。
「みんな、集まって。ここでもう一度、清廉珀香をかけ直すから」
夜は長い。日の出はまだまだ先だ。
「予防措置は……もう少しあとで。戦闘を重ねてみんなの注意力が下ってきてからにするね」
「今度は南、プレハブの横から湧いて出て来たぞぅ」
逝が西端から声を張り上げる。
休憩所と倉庫の間から、ぐるぐると腕を振り回して泥玉を投げつつ、三体の泥どろが突貫して来た。
休憩所の横からは二体、倉庫の横からも二体。やはり泥玉を見つけた覚者に向けて投げつつ走ってくる。
プレハブの扉が勢いよくひかれて、ラーラが休憩所から飛び出してきた。一悟と飛鳥が後に続く。
「真ん中から出て来た三体はお任せください! ありすさんたちは北から来る泥どろの迎撃をお願いします」
「俺は右をやる、飛鳥は左のやつを頼む!」
「はい、なのよ!」
ラーラは金色の鍵を守護使役ペスカから受け取ると、煌炎の書の封印を解いた。
「良い子に甘い焼き菓子を、悪い子には石炭を……イオ・ブルチャーレ!」
詠唱とともにラーラの左手の上で炎が渦巻き玉を成す。敵に向けて解き放たれたそれは、暴れ狂う紅き炎の奔流となって空を駆け、怒れる獅子に姿を変えて紅蓮の牙を泥どろたちに突きたてた。
哀れ。
古妖たちは怯える間もなく炎の獅子にかみ砕かれて、塵と化した。
同時に反対側、北の土手の上に奏空が召喚した雷神の矢が青光りしながらざんざと降り注いだ。
直斗が放った雷獣が、偶然にも雷帝の怒りを逃れた泥どろに牙を剥いて回る。
それでも抜けて来た泥どろは、ありすと渚、逝と日那乃がDトレンチの手前で一体ずつ始末した。
「これでも食らいやがれ!」
一悟は炎を纏わせたトンファーを振るって、泥どろたちの前に火柱を立ちあげた。
休憩室の横から出て来た二体の古妖は、突如出現した火柱に驚いて、慌てて立ち止まった。前を炙られてぽろぽろと干からびた土の皮膚を落としながら、後ずさり、ついで踵を返す。
「逃がすかよ!」
一悟は自ら作った炎の柱を突っ切ると、全身に紅蓮の帯を纏わせたまま、逃げていく泥どろの背にトンファーを叩き込んだ。
「泥んこは即、流すべし!」
あすかは水晶のロッドを振り上げて、頭上に巨大な水龍を呼び出した。降りしきる雨を纏って銀色のオーラを放つ水龍が、倉庫の横から出て来た泥どろに向けて大きな口を開ける。
「水龍さん、やっちまってくだせいなのよ!」
飛鳥の命を受けた水龍は、ダムの放水を思わせる勢いで二体の泥どろに迫り、喰らった。食われた泥どろたちは、龍の内部に渦巻く凄まじい水流で体を粉々に砕かれ、泥水となって闇の向こうへ押し流されて行った。
「お待たせしました。今から私たちも遺跡の防衛に加わります。休憩を取る人は取ってください」
逝は梯子を上ると、調査区を回り込んでプレハブの前へ来た。
「大福寺ちゃんは? 無事かね?」
「はい。大変でしたが、なんとかお助けすることができました。いま、中で八重霞さんと田辺さんが彼女の世話をしています。あ、緒方さんが一番で休憩を取られますか?」
「それはよかった。うん? おっさんは休憩しないよ。昔取ったなんとかで、一晩中、悪条件の中で戦い続けても苦にはならないのよ。おっさんよりも……」
逝はフルフェイスを調査区の中にいる女性陣に向けた。振り返ったありすと視線が合う。お先にどうぞ、と手でプレハブの入口を示した。
「アタシ? アタシはここをビスコッティさんに任せて、ポンプの護衛に回るわ。それにしても、これをずっと朝までってホント気が滅入るわね。適当なところで休憩は頂くから、栗落花サンか桂木サン、お先にどうぞ」
「私も、今のうちに交霊術で試したいことがあるから後でいいよ。日那乃ちゃん、どうぞ」
少し雨脚が弱まったきたためか、泥どろの攻撃がぴたりとやんでいた。
これまでに倒した数は、大福寺に取りついていた一体を含めて百体ほど。残り八百体が調査区の回りの闇の中で息をひそめてこちらの隙を伺っている。
「じゃあ、遠慮なく。温かいお茶、入れて持ってくるね」
日那乃がプレハブに入ると、奏空は袖をめくって腕時計を見た。
時刻は午前零時ちょうど。
夜明けまであと六時間半――。
●
「手を貸せ……とは言えないな。何分『民間人』なのでね。其処は貴方の義務感と良識に期待するしかないが。さて、如何するかね?」
田辺は頼蔵の問いかけを受けて、片眉を上げた。
肩に防寒ジャンパーを羽織り、パイプ椅子に座って、まったくの無表情で宙を見つめている大福寺に聞こえないよう、低く絞った声をだす。
「どうするもこうするもねぇだろう。あんた、被害者からの聴き取り調査の経験は?」
「……あるといえばある。警察の、とは違うが商売柄、人から話を聞きだすことには長けているつもりだ」
田辺は、私立探偵か、と小さく鼻を鳴らした。
頼蔵はあえて無視した。冷たい目で田辺を見下す。
「だが、ここは貴様に譲ろう。まさか、聞きだしたことをAAAの独り占めはしないだろ?」
「心配ならそこで聞いていろ。口出ししないでいてくれればいい」
「よかろう。こんどはそちらのお手並み拝見といこうではないか。せいぜい彼女から、有益な情報を聞きだしてくれ」
二人の間に走った緊張を機敏に感じ取り、大福寺が身を震わせた。
休憩を取るために日那乃がプレハブに入ってきた。一目見て場の状況を把握するなり、冷たい声で言い放つ。
「なに、してるの? 大福寺さん、怖がっている、よ。やめて」
日那乃にきつくたしなめられてしまった。
「やはり私は外に出よう。切れた電話線も見て確認しておきたいし、朝から行方不明だという「先生」のことも気がかりだ。ちょっとプレハブの周りを調べてみるか。桂木君、あとを頼む」
「わかった。聴き取りは、ちょっと、待って。二階でお茶、入れて、くるから」
日那乃が温かい紅茶が入ったマグカップとスプーンを三組、盆にのせて戻って来た。田辺がぼそりと、コーヒーがよかったと零す。
「贅沢、いわない。大福寺さん、お砂糖、いる?」
戸棚から拝借してきたスティックシュガーを差し出す。
大福寺は首を横に振った。
日那乃を書記にして事情徴収が始まった。田辺はまず、名前や仕事など、簡単な経歴を尋ねることで、大福寺の緊張を解きにかかった。一通り事実関係を聞き終えたところで、大福寺に紅茶を勧め、自分もマグカップに口をつけた。
このタイミングで日那乃は席を立ち、二階に上がった。火をつけて湯を沸かし、戸棚で見つけた紙コップに緑茶を入れる。ラップをかぶせて盆にのせ、一階に戻った。
「ほかの人と、書記、交代する、ね」
田辺に声をかけてから、雨の降る夜へ出ていく。
替わりに奏空がプレハブに戻って来た。
小休止を挟んで、古妖たちの波状攻撃が再開していた。防衛についている覚者たちは、調査区の四方から緩急をつけて押し寄せてくる泥どろに対処するため、気力を使う複数攻撃を連発。いきおい、奏空は調査区の中を駆けまわり、己の気力を仲間たちに分けて回らざるを得なかった。
「ふぅ。疲れた……。日那乃から話は聞いているよ。書記しながら、僕もお茶を飲んで暖まってもいいかな?」
それからも時々休憩をはさんでは調書を取る者が入れ替わったが、聞き役は一貫して田辺が受け持った。
トタンの壁を打つ雨粒の単調なリズムに、戦いの音が時折アクセントをつける。大福寺はマグカップを両手で持って、田辺の質問に耳を傾ける。
「……それで、笹垣さんたちはどうして調査区に降りていったんですか?」
「音が……海鳴りのような……調査区から聞こえてきたんです。はじめは雷が鳴っているのだと思っていました。ですが……」
急に生臭い匂いがして、背中に悪寒が走ったのだという。三人が三人とも同時に窓の外へ顔を向けると、調査区をうっすらと黒い霧のようなものが覆っていのが見えた。その黒い霧は、Dトレンチにかけられた防水シートの下からでていた。
「シートが一部めくられていて、穴の端が見えていました。その時はいまよりもずっと雨が強くなっていましたが……笹垣先生と石山先生は、ふたりで様子を見に行ったんです」
田辺の肩がぴくりと動いた。
隣に座っていたありすも目をほんの少し細める。
(「黒い霧が這っていた上に雨脚が強まっていた……。結構距離があるのに、どうして穴から霧が出ているって判ったのかしら?」)
たぶん、田辺も同じ疑問を感じたはずだ。だが、田辺はそのことには触れず、別の質問に移った。
「それが八時過ぎのことだったんですね? ところで午後五時にアルバイトたちを帰してから三時間、大福寺さんたちはここで何をしていたのですか?」
「調査報告書のまとめなど、いろいろと。やることはたくさんありますから……」
ここでも田辺は詳細を聞き出そうとはしなかった。では、と本題を切り出す。
「古妖に襲われたときのことを話してください」
大福寺は田辺の目を避けるようにうつむいて、視線を床へ落とした。
わっ、と声が調査区で上がったのはその時である。
●
一悟は倉庫へ行くと、シャベルと防水シートを集めた。
配電盤を探してベルトコンベアの電源を入れる。掘り起こした土を調査区の外へ出すためだ。プラスチックの手ざるでいちいち土を運びだす暇も人もいない。
道具を抱えて調査区へ戻った。
「おっさん、ちょっと見てこようか? 直せるものなら直すけど?」
「電話線は鋭利な刃物か何かですっぱりと断ち切られていた。……絶縁テープで巻いて治るものではないだろう? それより、まただ。また来たようだぞ」
頼蔵は逝くとともに数体の泥どろを倒したところで、休憩から戻って来た直斗に受け持ちを引き継ぎ、Dトレンチの前に戻った。
音を立ててベルトコンベアが動き始める。
「持って来たぜ。……まだ生きていてくれればいいけどな」
頼蔵は一悟が差し出したシャベルを受け取った。
あんなひどい雨の夜に大学教授がたったふたりで発掘現場に行き、土砂崩れにあった。緊急を要することが起こっていたに違いない。
「奥州君、それは必要ない。むしろ手バチのほうが……その小さな鍬のようなものだ。ここは粘土質だからな。そのほうがいい。いや、いつぞや採掘屋に付き合った事があってね、多少は、な」
渚と飛鳥が防水シートを広げて屋根を作った。
「私と飛鳥ちゃんの2人で、交霊を心みたんだけど反応なかったよ。ここには死者が埋まってなかったみたい」
「塞がった穴を透視で覗いてみたのよ。土ばっかりだったのよ。けっこう深くまで崩れているようです」
やるか、と一悟はシャベルを穴に突き立てた。もとの壁まで削って広げないように注意しながら、頼蔵とふたりで黙々と土を掘り返していく。穴をふさいでいる土は柔らかく、掘りやすかった。
二メートルごとに飛鳥に先を透視させては、ときどき掘り手を変わってもらって休憩をとった。その間も、穴の外では戦闘が続いていた。
「もうそろそろ抜けてもいいんじゃね? 十メートルは掘り進んでいるぜ」
「そうだな、そろそろ――」
土の壁が薄く崩れたかと思うと、先に空間があり、その先にまた壁があった。下を見ると穴か開いている。穴の壁に脚立が立てかけられていた。
一悟が守護使役の能力を使って、危険なガスが穴の中に蔓延していないか調べた。
「大丈夫だな。ちょっとみんなに知らせておこう」
送受心で状況を仲間たちに知らせた。ついでにもう一人か二人、手を貸してほしいと頼む。怪我人の運び出しと、万が一、下で未知の敵と戦闘になったときの用心のためだ。
逝と直斗がやって来た。
「……降りるか」
垂直に穴を下りて、また北へうねうねと数十メートル。背をかがめてぬかるむ通路を進んでいくと、前方から石を砕くような打撃音が断続的に聞こえてきた。
急に天井が高い小部屋のような空間に出た。正面の突き当りに巨大な石の扉があり、少し隙間が開いている。隙間から渦巻く時空をのぞかせた巨大な岩戸の右下隅で、動く影があった。
「待てっ!」
直斗が剣の柄に手をかけて走り出した。間に合わないと判断して抜刀、剣戟を飛ばす。
ぎゃっ、と悲鳴が上がり、直後に岩戸が閉じられた。
直斗は岩戸のすこし手前で倒れていた人を飛び越えると、その勢いのまま、閉まった岩戸に激突した。
砕かれ、削られて、こぼこになった岩肌に手を強く叩きつける。
「くそ! もう少し早ければ、入れたかもしれないな」
「飛騨ちゃん、向こう側に行けなくてよかったわよ。脅しでもなんでもなく、戻れなくなっていたぞぅ」
隙間から見えた空間に別の依頼任務でアレに入った時と同じものを感じた。スワンプマンの――。
逝はフルフェイスの中でそっと息を漏らすと、巨大な岩戸を見上げた。
心配してやってきた渚が、隣に並びたつ」
「詳細はここの調査を待たないと分かりませんね。大福寺さんの証言と合わせて」
一悟は岩戸の前に倒れていた人を抱き起した。
男の顔を見て、息を飲む。
「どうかしたかね、奥州ちゃん?」
「この男……たぶん『先生』だ。他の依頼で、ちらっと見た。笹垣先生じゃない」
●
九百体の泥どろすべてを倒し切ったのは、日の出の少し前。
穴から運び出された『先生』は、搬送先の病院で死亡判定が下された。
