因縁の香 最後の時
●香士の独白
今でも指先が、あの女の耳の後ろの小さな窪みに触れた瞬間を覚えている。微かに震えながら瓶の蓋を開けて、人差し指に香水を一滴落とした。
世界中で色んな女を手にかけてきたが、江戸のあの女は特別だった。きっと、あの宴にかかわったすべてのもの、時間が特殊だったのだろう。
女の名は確か……信乃(しの)、そう、橘 信乃だ。腹に三月にもならない子を宿していた。朱杯になみなみと注がれたサケと一緒に、漬けてみんなで飲み回したが、最後に杯を煽って我が子ごと飲み干した信乃の狂った目、淫靡にねじれた赤い唇がなにより印象的だった。掻っ捌かれた信乃の腹のなかで、血まみれの息子の頭が耳まで裂けた口で笑っていたっけ。
あれから数百年――。
ヨコハマで仇討ちの追っ手がかかっていると聞いたとき、鈴を捨てて半信半疑のまま日本を逃げ出したのだが、まさか、本当に信乃の夫が生きていたとは。
とにかく逃げよう。なに、日本の外から出てしまえばいくらでも逃げようがある。そのうち、覚者とかいう連中があのバケモノを殺してくれるだろう。
●とあるロシア人の独白
噺家について行ったのは単なる気まぐれだったが、おかげで面白い奴を見つけることができた。記憶が欠けた時間に醜態をさらしてしまったようだが、それはどうでもいい。いや、奴を殺せなかったのは大変残念なことだが。
居所がはっきりしている奴は後回しにして、アレを国への手土産に一旦、帰国することにしよう。
●某所
シベリアの広い範囲が、国民に何の説明もなく封鎖されたことがあった。人工衛星の実験の為なのか。はたまた核実験の為か。実際は、謎の疫病が発生し大流行の兆しを見せ始めていたのが理由だった。
封鎖後に行われた調査の末、未知の恐るべき細菌が確認された。人間に取り憑いておぞましいモンスターに変貌させるその細菌が、妖魔の作り出した物であることが判明すると同時に、当時の国は封鎖地域一帯を極秘で焼き払ったという。焼け跡はいつまでも、いつまでも、甘い香りがしたらしい。
「旧、ソ連時代のことですね」
古妖アイズオンリーは、机の向かいに座る大髑髏に報告書を差し出した。
骨の手が受け取りを拒むように突き出された。
「拝読させて頂いたところで……。それよりも橘殿は?」
「別件の調査に出しました。妻子の仇の一体を討ちたいという気持ちは痛いほどわかりますが、私にはまだ、暴走した彼を制御できるだけの力がありません。支配の爪を使っても……実力差がありすぎる」
大髑髏がゆるりと首を振る。
「拙僧もあのおぞましい事件に関わっておりました。今にして思えば、あの伴天連から送られた香を焚くようになって以来、気持ちがおかしくなった。いや、いまさらですな。しかし……代わりに客人をけしかけるのはいかがなものかと」
アイズオンリーは机の上から仮面を取り上げると、顔につけて口に浮かぶ笑みを隠した。
「大佐はお帰りになられました。国に戻るまでに何処で何をされようと、我々の知ったことではありません」
●新東京国際空港
電波障害が解消されてまだ半年もたたないというのに、国際便の離発着本数は日々増えていた。日本の領空内には飛行する妖が相変わらずいたが、電波障害によって引き起こされる様々な事故の発生数に比べれば、妖と遭遇する確率はかなり低い。
「――と、言うことで、新東京国際空港は海外へ出て行こうとする人々でごった返しているわ。バカが最後に、とバカなことをしでかす前に取り押さえて頂戴」
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は、うっとりとした表情で手にした骨を撫でた。
眩がいうバカ、とは手配中の古妖・香士のことではない。
「ミハイル・イリイッチ・リブロスキ大佐。空港で香士を追いつめて首を切り飛ばしたはいいけれど、逆に体を乗っ取られてしまうおバカさんよ。このまま死ぬぐらいなら、と自爆テロをやらかすの」
死傷者の数は五百人弱。さらに香士が持っていた「香水」の原液による二次災害が起こる。
「リビングデットが大量発生して、あっという間に広い空港内が地獄に変わっちゃうの」
眩は集まった覚者たちに顔写真を配った。
「それは香士の今の顔と大佐の顔。写真をどこで手に入れたかは聞かないでちょうだい。あと、前の事件で捕まえた男の証言で、香士はずっと『ギィと呼ばれていた』と言っていたそうよ。それから左利き。討伐の時に原液が入った小さな瓶を割らないよう気をつけてね。身に着けているはずだから。あ、大佐はCー4爆薬を仕込んだタイマー付き日本製トランジスタラジオと、液体爆薬を入れたワイン瓶をスーツケースの中に入れているわ。早めに取り上げて」
●某コンビニ
大髑髏をさんざん脅しつけて手に入れた写真を送信したあと、噺家は店を出て空を仰いだ。尾翼に赤く鶴のマークをつけた旅客機が、海の向こうへ飛び立っていくところだった。
今でも指先が、あの女の耳の後ろの小さな窪みに触れた瞬間を覚えている。微かに震えながら瓶の蓋を開けて、人差し指に香水を一滴落とした。
世界中で色んな女を手にかけてきたが、江戸のあの女は特別だった。きっと、あの宴にかかわったすべてのもの、時間が特殊だったのだろう。
女の名は確か……信乃(しの)、そう、橘 信乃だ。腹に三月にもならない子を宿していた。朱杯になみなみと注がれたサケと一緒に、漬けてみんなで飲み回したが、最後に杯を煽って我が子ごと飲み干した信乃の狂った目、淫靡にねじれた赤い唇がなにより印象的だった。掻っ捌かれた信乃の腹のなかで、血まみれの息子の頭が耳まで裂けた口で笑っていたっけ。
あれから数百年――。
ヨコハマで仇討ちの追っ手がかかっていると聞いたとき、鈴を捨てて半信半疑のまま日本を逃げ出したのだが、まさか、本当に信乃の夫が生きていたとは。
とにかく逃げよう。なに、日本の外から出てしまえばいくらでも逃げようがある。そのうち、覚者とかいう連中があのバケモノを殺してくれるだろう。
●とあるロシア人の独白
噺家について行ったのは単なる気まぐれだったが、おかげで面白い奴を見つけることができた。記憶が欠けた時間に醜態をさらしてしまったようだが、それはどうでもいい。いや、奴を殺せなかったのは大変残念なことだが。
居所がはっきりしている奴は後回しにして、アレを国への手土産に一旦、帰国することにしよう。
●某所
シベリアの広い範囲が、国民に何の説明もなく封鎖されたことがあった。人工衛星の実験の為なのか。はたまた核実験の為か。実際は、謎の疫病が発生し大流行の兆しを見せ始めていたのが理由だった。
封鎖後に行われた調査の末、未知の恐るべき細菌が確認された。人間に取り憑いておぞましいモンスターに変貌させるその細菌が、妖魔の作り出した物であることが判明すると同時に、当時の国は封鎖地域一帯を極秘で焼き払ったという。焼け跡はいつまでも、いつまでも、甘い香りがしたらしい。
「旧、ソ連時代のことですね」
古妖アイズオンリーは、机の向かいに座る大髑髏に報告書を差し出した。
骨の手が受け取りを拒むように突き出された。
「拝読させて頂いたところで……。それよりも橘殿は?」
「別件の調査に出しました。妻子の仇の一体を討ちたいという気持ちは痛いほどわかりますが、私にはまだ、暴走した彼を制御できるだけの力がありません。支配の爪を使っても……実力差がありすぎる」
大髑髏がゆるりと首を振る。
「拙僧もあのおぞましい事件に関わっておりました。今にして思えば、あの伴天連から送られた香を焚くようになって以来、気持ちがおかしくなった。いや、いまさらですな。しかし……代わりに客人をけしかけるのはいかがなものかと」
アイズオンリーは机の上から仮面を取り上げると、顔につけて口に浮かぶ笑みを隠した。
「大佐はお帰りになられました。国に戻るまでに何処で何をされようと、我々の知ったことではありません」
●新東京国際空港
電波障害が解消されてまだ半年もたたないというのに、国際便の離発着本数は日々増えていた。日本の領空内には飛行する妖が相変わらずいたが、電波障害によって引き起こされる様々な事故の発生数に比べれば、妖と遭遇する確率はかなり低い。
「――と、言うことで、新東京国際空港は海外へ出て行こうとする人々でごった返しているわ。バカが最後に、とバカなことをしでかす前に取り押さえて頂戴」
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は、うっとりとした表情で手にした骨を撫でた。
眩がいうバカ、とは手配中の古妖・香士のことではない。
「ミハイル・イリイッチ・リブロスキ大佐。空港で香士を追いつめて首を切り飛ばしたはいいけれど、逆に体を乗っ取られてしまうおバカさんよ。このまま死ぬぐらいなら、と自爆テロをやらかすの」
死傷者の数は五百人弱。さらに香士が持っていた「香水」の原液による二次災害が起こる。
「リビングデットが大量発生して、あっという間に広い空港内が地獄に変わっちゃうの」
眩は集まった覚者たちに顔写真を配った。
「それは香士の今の顔と大佐の顔。写真をどこで手に入れたかは聞かないでちょうだい。あと、前の事件で捕まえた男の証言で、香士はずっと『ギィと呼ばれていた』と言っていたそうよ。それから左利き。討伐の時に原液が入った小さな瓶を割らないよう気をつけてね。身に着けているはずだから。あ、大佐はCー4爆薬を仕込んだタイマー付き日本製トランジスタラジオと、液体爆薬を入れたワイン瓶をスーツケースの中に入れているわ。早めに取り上げて」
●某コンビニ
大髑髏をさんざん脅しつけて手に入れた写真を送信したあと、噺家は店を出て空を仰いだ。尾翼に赤く鶴のマークをつけた旅客機が、海の向こうへ飛び立っていくところだった。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.香士の撃退
2.リブロスキ大佐の逮捕
3.被害者を出さない
2.リブロスキ大佐の逮捕
3.被害者を出さない
昼。
新東京国際空港、出発ロビー。
香士はVIPラウンジでくつろいでいます。
覚者が空港に到着と同時に、AAAが出発ロビーの一部を閉鎖して、人払いを始めています。
そこまでおびき出してください。
大佐はVIPラウンジのすぐ近くで香士を探しています。
●敵、香士
人に取りついて体を乗っ取り、意のままに操る古妖・一つ目の悪魔です。
取りつかれた人間は、額に第三の目が開いているように見えます。
幾度体を取り換えても、「ギィ」と呼ばせていたみたいです。左利き。
香水原液が入った小さな瓶を身につけています。
【誘惑の香】特近列……混乱
【蠱毒の香】特遠列……毒
『快楽殺人者の夢』……魅了/殺人衝動を起こさせる香水。発現者や古妖、妖には効きません。
『快楽殺人者の夢/原液』……嗅いだ人は生きる屍となり人々を襲います。古妖、妖には無効。
・出シナリオ:『甘く甘く、悪は香る』
●ロシア人、ミハイル・イリイッチ・リブロスキ大佐
アイズオンリーがロシアより招いた客。
表向きはロシア人観光客。ちゃんと観光ビザで入国しています。
日本語がとっても上手。
一緒に来ていた仲間二人が、ある事件以降行方不明になっています。
正体はロシア極東軍管区、第14独立特殊任務旅団・ウスリースク所属の軍人。
【対神秘・マカロフ6p9ピストル(消音拳銃)】……物・遠単
【対神秘・ナイフ】……物・近単
その他、システマ格闘術を体得。
スーツケースの中に、Cー4爆薬を仕込んだタイマー付き日本製トランジスタラジオと、液体爆薬を入れたワイン瓶を入れて持ち歩いています。
・出シナリオ:『【 函 】函士』、『甘く甘く、悪は香る』
●STコメント
よろしければご参加ください。お待ちしております。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
8日
8日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
6/6
6/6
公開日
2017年02月16日
2017年02月16日
■メイン参加者 6人■

●出国ロビーにて
『淡雪の歌姫』鈴駆・ありす(CL2001269)は、髪を結わえた濃紺のリボンの端を手で跳ね上げた。手すりに背を預け、大混雑する出発ロビーをぐるりと見回してから、はん、と荒く息をつく。
ダーゲットの一人、リブロスキー大佐がまだ見つかっていなかった。図体のデカさから、すぐに見つかると思っていただけに、よけいにイライラが募る。
額に開いた第三の目が怒りに燃えていた。
目の前で自爆テロなどさせてなるものか。
「自分さえ良ければってやつ、嫌いなのよ、アタシ。実力があるやつがやる愉快犯じみたことはホント災害のようなもの。いい迷惑じゃない?」
隣で一緒にターゲットを探していた緒形 逝(CL2000156)に憤りをぶつける。
「全くもう……ありすちゃんの言う通りさね。とにかく、ロシア人も含めてこの国から出さんぞ」
迷惑なんてレベルじゃない。第二の祖国であるこの国も人も守ると誓った。いまはまだ未来の出来事であっても――未遂に終わらせはするが、夢見がキャッチした未来は護人たる自分への宣戦布告に等しい。
フルフェイスの下で目を剣呑に細めると、逝は手を上げてVIPラウンジへエレベーターで上がっていく香士側の担当者たちへ合図を送った。
<「ミーシャは先に連れて行くから、香士側は少し間を置いておくれ」>
送受心で送られた逝の思念声は飄々としており、あくまで穏やかだった。
間髪入れず、『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)の返事が、逝とありすの頭の中に響く。
<「了解。大佐のことは緒形店長とありすに任せるぜ」>
黒のジーンズに、フードにファーがついたモッズコート。ニット帽からのぞくのは赤茶けた髪。一悟は鈴の恋人役をやると張りきっていたが、掛け慣れていないサングラスと真新しいスーツケースを引く姿は、恋人と言うよりも鈴の弟といったほうがまだ通じそうだ。
<「こっちもすぐ香士を連れて行くぜ」>
鈴役をやる『マジシャンガール』茨田・凜(CL2000438)は、前回の真っ赤なドレス姿から一転、落ち着いた色合いの着物に錦の帯を締めていた。VIPルームを利用する上客に相応しい、ぐっと落ち着いた雰囲気を出している。心なしか、帯が緩いように見えるが……。
<「クマさんを見つけたらすぐお知らせしますのよ」>
こちらは送心で。目を向けると、モコモコした白のケープを羽織った『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)が親指を立てていた。
飛鳥はひとり、エレベーター付近で香士が降りてくるのを待つことになっていた。なんでも香士がエレベーターで下ってきた時に試したいことがあるらしい。待っている間に、三階フロアでクマさんこと大佐を探してくれるという。
その飛鳥の前を、袈裟を脱いだ勒・一二三(CL2001559)がゆったりとした足取りで通り過ぎていく。
ダークスーツに桃色のネクタイ、純白のマフラー。派手な色のアーガイル模様の靴下をはいた足は、黒のオックスフォード・シューズに包まれている。腕にはトレンチコート。これが一二三なりのVIPファッションらしい。
「こんなこといっちゃなんだけど、みんな見事にスタイルがバラバラね。同時に香士に近づいて怪しまれないかしら?」
ありすが第三の目を細める。
不安の波をかぶった守護使役のゆると人魂が、ツインテールの横でゆらゆらと揺れた。
「大丈夫さね。たぶん。勒ちゃんは凛ちゃんたちから少し離れて様子をみるっていっていたし……。まあ、香士のことはあっちに任せて、こっちはこっちで、さっさとミーシャを見つけて、148番ゲートまで引っ張って行こう」
人的被害を最小限に留めるため、AAAが最端にある148番ゲート付近を封鎖、人払いを済ませて待機中だった。
三階出国ロビーが何時にもまして混雑しているのは、急な搭乗ゲート振り替えによる混乱のためである。
「ええ、そうね。まずはミハイルを……って、緒方サン?」
逝はロビーに背を向けて、ガラスの向こうの滑走路を移動する旅客機を見ていた。いや、その手前、146番の搭乗ゲートの前に並んだ人の列を見ていた。背景に、青地に黄色、飛び立つ鶴が描かれた尾翼がちらりと見える。
あの列の中に大佐はいないはずだ。大佐はVIPルームの近くで香士を探している、と夢見が言っていた。だから、いま、搭乗ゲート付近にターゲットの姿があるはずがない。
「緒方サン?」
返事なし。彫像のように固まって、微動だもしない。フルフェイスの横に浮かぶ守護使役のみずたまさえも、ぴたりと空で静止していた。
一体、逝は何を見ているのだろう。
ありすが搭乗ゲートの列を注視したその時――。
<「クマさん発見! こっちに来るのよ!」>
少しおくれて、逝にも飛鳥の送心が届いたらしく、ようやくフルフェイスがありすに向けられた。
「さ、狩に行くわよ」
●連れだし
凛は航空会社が発行したラウンジクーポン(偽物)とゴールドカード(中名義のもの)を一悟から受け取ると、笑顔を添えてカウンターのスタッフに提示した。少々、挙動不審な一悟を後ろに従えて、落ち着いた足取りでラウンジの奥へ向かう。
少し遅れて入ってきた一二三も同じくカウンターで、偽造ラウンジクーポンとゴールドカード(やはり中名義のもの)を提示して中に入った。凛たちからつかず離れずの距離を取って歩く。互いの連絡は一悟を中継点とした送受心だ。
凛が先頭に立って、テレビが見られる席から飛行機が眺められる窓際を順に見て回った。しかし、香士が見つからない。
一二三はフライトスケジュールを確認するフリをして手帳を開き、香士だという男の顔写真を確認した。
<「うーん、いませんねぇ。まさかと思いますが、体を入れ替えているのでは?」>
<「そうやったとしても、自惚れが強いあいつのことやから、凛を見かけたらぜったい自分から近寄ってくるに違いないんよ。ここで場所があっていればなんやけど」>
だな、と口で言って、一悟は目ざとくみつけた食事コーナーへ向かった。
呆れながらも凛と一二三が後を追う。
「ここなら三人で固まっていてもおかしくないだろう。自然に時間も潰せるし。万が一、香士に先に出られたとしても、下で飛鳥が見張っているから大丈夫だ」
何が大丈夫なのかよく分からない。ただ単に、一悟はただで飲み食いしたいだけのような気がする。飛鳥がここにいれば、間違いなくケンカになっていたはずだ。
「凛……鈴もお腹がちょっとすいているし、ちょうどよかったかも。……しっかりふたり分食べんとね」
最後に小声でつけくわえられた一言を聞いて、一二三は、おや、と眉をひそめた。横目でそっと凛を伺う。
だが、一悟は格別気にはならなかったようだ。
「ふたり分って、どこがちょっとなんだよ。がっつり食う気じゃんかよ。気をつけないと太るぜ」
凜に思いっきり肩を拳でどつかれながらも、皿にサンドイッチを乗せる手を止めない。凜もチキンサンドをトングで挟んで皿に移した。一二三は同族把握でフロアを探索しながらオレンジジュースを手に取る。
<「あ、いましたよ。左手……シャワールームから出できたところのようですね」>
眩の外部協力者がファイヴに送ってよこした写真と同じ顔。いまの香士がいた。前に寄生していた男よりも老けてみえる。顔も平凡だった。
急な逃亡でえり好みしている暇などなかったのだろう。加えて、追われる者特有の緊張や焦りもかなり影響しているようだ。シャワーを浴びた後だというのに、さっぱりした感じはなかった。
<「凛が声をかけて連れ出すから、ふたりともフォローお願いね」>
<「任せてください。ここで「快楽殺人者の夢」を撒かれても、僕が解除しますから」>
<「よし、行こうぜ」>
凜は最後の一口をアイスティーで流し込こんだ。
休む場所を探す香士の後ろからゆっくりと近づき、声をかける。
「ギィ?」
香士は弾かれたように体をけいれんさせると、勢いよく振り返った。驚きに「すべての」目を見張る。
「す、鈴?」
「よかった。やっぱりギィやったんやね。ひどいわ、また鈴を置いて一人で行こうとしてたん?」
凜は香士の腕をとると、強引に引いて歩き出した。
「こんな華族の人が使うようなところは慣れてないので落ち着かないんよ。場所を変えへん? 人のいてない、いい場所かあるから」
最初は体を強張らせていた香士だったが、徐々に持ち前の自惚れが出てきたようだ。VIPラウンジを出るころには、なれなれしく凛の腰に腕を回していた。
「でも、どうしてここにいると分ったんだい?」
「そ、それは……」
「オレが調べてやったんだよ」
後ろで一悟が乱暴な口をきいた。
香士が首を回す。
「キミは?」
凜は一悟が余計なことを言いだす前に先手を打った。
「甥っ子。鈴の妹の孫の子で一悟っていうんよ。ギィを探しに一緒に……」
<「フランス。一二三がフランスって言えってさ。ギィって名前はフランスだって」>
「フランスに行こうと思って。鈴、海外旅行は初めてやから」
「ふうん……じゃあ、あそこのラウンジに来たのは偶然なんだ。あ、もしかして飛行機も一緒? チケットを見せてごらん」
同じフライトであるわけがない。だいたい誰も航空チケット自体を持ち合わせていなかった。AAAの手配で特別に警備室から、出国ロビーへ出ているのだから。
「どうしたんだい。はやく見せて」
「あ、危ない!」
エレベーターを降りたところで、よそ見しながら駆け寄ってきた飛鳥と香士がぶつかった。
香士が上着の上から左ポケットを手で押さえる。
「ご、ごめんなさいなのよ!」
にやり、と笑うと飛鳥はそのまま走り去って行った。
一二三も飛鳥が走って行った方へ歩いていく。ふたりは目につかないところで合流し、戻ってきて、香士の退路を断つことになっている。
「……まったく、これだから人の子は嫌いなんだ」
「まあまあ。チケットはあっちで見せるんよ。はやく行きましょう」
●数分前
大佐は完全に写真の男に気をとられていた。
それでも念には念を入れ、守護使役の力を借りて床から数ミリ、体を浮かせて接近する。
声をかけながら、とんとん、と背中を指でつついた。脂肪と筋肉の厚みを考えて、少し強めに。
「おじさま、少しよろしいかしら?」
“Чto?”
大佐はありすを見て首をひねり、それから、笑い顔を作って日本語で話しかけてきた。
「何か私に御用ですかな、お嬢さん」
じっと目を覗き込んだが、相手に変化は現れなかった。
この男の心は強い欲望で固められている――。
ありすはとっさのひらめきで作戦を切り替えた。これはただ額の目を見せて気を引くよりも、香士を騙った方がいいかもしれない。
「あるとも。いいや、逆にそっちがオレに用があるんじゃないのか」
大佐が手にしていた写真を裏から指ではじき、それから右手で額の髪を開いて第三の目を見せた。
「そいつは廃棄した。意味は解るよな? ……人間風情が何の用だ。力が欲しくて、オレと契約でも交わしたいのか?」
大佐は声もなく笑った。人の口というものはこんなにも大きく広がるものだろうか、と思わせるほど、口の端を持ち上げて。
頭からばりばり食べられそうな気がして、ありすは体を引いた。
「だとしたら?」
「ここは人が多い。……あっちにいい場所がある。行こう」
<「逝おじさん! ありすお姉さんがクマさんを連れて行っちゃうのよ」>
逝はメッセージを携えてきた航空会社のスタッフに礼を言った。それから慌てるでもなく、ゆったりと奇妙な二人ずれのあとを追う。
飛鳥から送心で話しかけられなければ、大佐と連れ立って148番ゲートへ向かうありすの背を危うく見失うところだった。
(「ふむ。これを書いたのは……さっき感じた視線の持ち主かね? おっさん、知り合いに泣きほくろの女なんていないぞぅ。どうして彼女はおっさんがミーシャにこれを渡すと思ったのか。みずたま、解るかね?」)
守護使役はフルフェイスの横で、困ったように体を波打たせただけだった。
破り取られたメモ紙には英語で、血族の掟を忘れるな、と口紅で書かれている。色はダークチェリーだ。まったく意味が解らない。
前方、エレベーターのまえで足を止めて、ありすとリブロスキが揉めだした。大方、二階で待機しているAAAの連中でも目にしたのだろう。
「はいよ、みずたま。言われなくともわかっているさね」
メモの謎を解くのは後にして、逝は走り出した。
●討伐
今、ここで爆発が起こったとしても、人的被害はかくれんぼもろくにできないAAAだけだろう。それはいいが――いや、よくないが、それよりも爆発させたことで大騒ぎになるのはまずい。このあと、そう間を置かず、仲間たちが香士を連れてやって来るのだ。
ありすは爆弾の入ったアタッシュケースに手を伸ばした。
大佐が半身を引いて大きな体の後ろに隠す。
「騙したな!」
「そうよ。即興の芝居を見抜けないなんて、ロシアの軍人は案外間抜けね」
顔を赤黒くした大佐が、右足をするどく蹴り上げる。
「――!!?」
驚愕に目と口を開いた大佐の顔が、ありすの前で弧を描いて落ちていく。
逝がクマのような背を蹴り倒したのだ。
顔面からの倒れ込みを避けようとして、大佐は体を捻った。アタッシュケースが振り回される。
「ありすちゃん!」
「わかってるわよ」
ありすは床の数ミリ上を旋回して振り上げられたアタッシュケースを掴むと、強引に抱き寄せた。
跳ね起きた大佐の顎を、またも逝が蹴り上げた。
巨体が回りながらエスカレーターを転がり落ちていく。
「おや、ミーシャ。頑張るやるじゃないの」
大佐はすばやく体勢を立てなおした。群がってきたAAAたちを足払いでなぎ倒し、第二陣を肘内、掌底打ちで退ける。
アタッシュケースを持ってエレベーターを駆け下ったありすが、第三の目から怪光を発して丸太のような太い脚を撃ちぬいた。
右手で傷口を押さえて止血しなから、大佐が逃げ場を求めて走り出す。
「ミーシャ、ミーシャ。お友達と土産が如何なったか知りたくない?」
逝は逃げる肘を掴んで引き寄せ、肩を脇に入れて巨体を背に乗せた。腕を掴んだまま体を深く折って床に強く叩きつける。
大佐はぐう、と息を吐き出した。が、気は失わなかった。憎悪に滾るまなざしを逝に向け、なおも立ちあがろうとする。
「そうだ、これ。ミーシャに。泣きホクロの君から伝言よ」
ポケットから取りだしたメモを開いて、目の前に差し出た。
大佐はメモから顔をあげると、フルフェイスの奥を覗き込もうと目をこらした。
「まさか、お前も? そんな馬鹿な。仇は……Чёрт!!」
「ダメっ!」
自決の気配に気づいたありすが、手刀を太い首へ叩き入れたが間に合わなかった。舌を噛み切られた舌から大量の血が出て床を汚す。
ありすはAAAの隊員たちに命じて、担架を持ってこさせた。
「ぼうっとしてないで、早く運んで。手当が間に合えば死なせずに済むわ!」
「低予算テロのマネしよって……瓶の中身はPLXかスラリーだろう。どれ、引き渡しの前に最低限の処理ぐらいはおっさんがやっておこうかね」
運ばれていく前に大佐の体をまさぐって鍵を探し出した。
バチン、と肉を打つ小気味いい音が、どこか上の方で響く。
アタッシュケースを開いたところで今度は、がん、と大きな音がした。
数分前を再現するかのような動きで、エスカレーターを人が転がり落ちてきた。
落ちてきたのは、片頬を紅葉の形に腫れ上がらせた香士だった。
胸を手で押さえて立ちあがり、ゲボゲボと咳き込んで血を吐く。どうやら肋骨が折れているようだ。まともに圧撃を食らったらしい。
香士の上着の左下が、何かに噛みつかれて食いちぎられていた。右太ももから下が血でべったりと汚れているが、大佐の太ももにも同じ傷があることから、破眼光で撃ちぬかれたことが解る。
「原液が入った瓶はころんさんが食べてくれたのよ!」
三階の手すりから身を乗り出して、飛鳥が叫んだ。
その横に一二三の顔が現れる。
「ほかの香水瓶も取り上げています!」
一悟と凛がエスカレーターを下ってきた。
「もう終わりやね。ここで鈴さんの仇を取らせてもらうんよ」
この体はダメだ、と悟ったか。
香士が額から抜け出して、黒い翼をひろげた。空を飛んで包囲を突破するつもりだ。
「逃がすかっ! お前のせいで滅びることになった猿人たちの仇も討たせてもらうぜ!」
一悟がピストルの形にした指の先から練り固めた気を飛ばし、香士を撃った。
「やれ、汚い花火ですね。下種に相応しい最後ではありましたが……。この方はお気の毒に」
一二三は床に倒れている、亡き骸に手を合わせて頭を垂れた。
一悟と飛鳥も一緒に手を合わせて冥福を祈る。
凛は腹に手をそっとあてると、ガラスの向こうに広がる空へ目を向けた。
(「あそこで凛が鈴さんと出会えたんは、血の導きやったんかもね。仇、討ったよ……」)
●余談
病院からファイヴ本部に大佐の死亡連絡が入った後、眩宛てで依頼担当者たちにFAXが届いた。
感謝いたすと一言そっけなく書かれた達筆の下に、子どもが描いたようなへたくそな字と6個の楕円が描かれている。
――大キライなクマしんだ。
――山にチョコレートないからかわりにドングリあげるね。
――ありがとう。
おこん、おこん
『淡雪の歌姫』鈴駆・ありす(CL2001269)は、髪を結わえた濃紺のリボンの端を手で跳ね上げた。手すりに背を預け、大混雑する出発ロビーをぐるりと見回してから、はん、と荒く息をつく。
ダーゲットの一人、リブロスキー大佐がまだ見つかっていなかった。図体のデカさから、すぐに見つかると思っていただけに、よけいにイライラが募る。
額に開いた第三の目が怒りに燃えていた。
目の前で自爆テロなどさせてなるものか。
「自分さえ良ければってやつ、嫌いなのよ、アタシ。実力があるやつがやる愉快犯じみたことはホント災害のようなもの。いい迷惑じゃない?」
隣で一緒にターゲットを探していた緒形 逝(CL2000156)に憤りをぶつける。
「全くもう……ありすちゃんの言う通りさね。とにかく、ロシア人も含めてこの国から出さんぞ」
迷惑なんてレベルじゃない。第二の祖国であるこの国も人も守ると誓った。いまはまだ未来の出来事であっても――未遂に終わらせはするが、夢見がキャッチした未来は護人たる自分への宣戦布告に等しい。
フルフェイスの下で目を剣呑に細めると、逝は手を上げてVIPラウンジへエレベーターで上がっていく香士側の担当者たちへ合図を送った。
<「ミーシャは先に連れて行くから、香士側は少し間を置いておくれ」>
送受心で送られた逝の思念声は飄々としており、あくまで穏やかだった。
間髪入れず、『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)の返事が、逝とありすの頭の中に響く。
<「了解。大佐のことは緒形店長とありすに任せるぜ」>
黒のジーンズに、フードにファーがついたモッズコート。ニット帽からのぞくのは赤茶けた髪。一悟は鈴の恋人役をやると張りきっていたが、掛け慣れていないサングラスと真新しいスーツケースを引く姿は、恋人と言うよりも鈴の弟といったほうがまだ通じそうだ。
<「こっちもすぐ香士を連れて行くぜ」>
鈴役をやる『マジシャンガール』茨田・凜(CL2000438)は、前回の真っ赤なドレス姿から一転、落ち着いた色合いの着物に錦の帯を締めていた。VIPルームを利用する上客に相応しい、ぐっと落ち着いた雰囲気を出している。心なしか、帯が緩いように見えるが……。
<「クマさんを見つけたらすぐお知らせしますのよ」>
こちらは送心で。目を向けると、モコモコした白のケープを羽織った『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)が親指を立てていた。
飛鳥はひとり、エレベーター付近で香士が降りてくるのを待つことになっていた。なんでも香士がエレベーターで下ってきた時に試したいことがあるらしい。待っている間に、三階フロアでクマさんこと大佐を探してくれるという。
その飛鳥の前を、袈裟を脱いだ勒・一二三(CL2001559)がゆったりとした足取りで通り過ぎていく。
ダークスーツに桃色のネクタイ、純白のマフラー。派手な色のアーガイル模様の靴下をはいた足は、黒のオックスフォード・シューズに包まれている。腕にはトレンチコート。これが一二三なりのVIPファッションらしい。
「こんなこといっちゃなんだけど、みんな見事にスタイルがバラバラね。同時に香士に近づいて怪しまれないかしら?」
ありすが第三の目を細める。
不安の波をかぶった守護使役のゆると人魂が、ツインテールの横でゆらゆらと揺れた。
「大丈夫さね。たぶん。勒ちゃんは凛ちゃんたちから少し離れて様子をみるっていっていたし……。まあ、香士のことはあっちに任せて、こっちはこっちで、さっさとミーシャを見つけて、148番ゲートまで引っ張って行こう」
人的被害を最小限に留めるため、AAAが最端にある148番ゲート付近を封鎖、人払いを済ませて待機中だった。
三階出国ロビーが何時にもまして混雑しているのは、急な搭乗ゲート振り替えによる混乱のためである。
「ええ、そうね。まずはミハイルを……って、緒方サン?」
逝はロビーに背を向けて、ガラスの向こうの滑走路を移動する旅客機を見ていた。いや、その手前、146番の搭乗ゲートの前に並んだ人の列を見ていた。背景に、青地に黄色、飛び立つ鶴が描かれた尾翼がちらりと見える。
あの列の中に大佐はいないはずだ。大佐はVIPルームの近くで香士を探している、と夢見が言っていた。だから、いま、搭乗ゲート付近にターゲットの姿があるはずがない。
「緒方サン?」
返事なし。彫像のように固まって、微動だもしない。フルフェイスの横に浮かぶ守護使役のみずたまさえも、ぴたりと空で静止していた。
一体、逝は何を見ているのだろう。
ありすが搭乗ゲートの列を注視したその時――。
<「クマさん発見! こっちに来るのよ!」>
少しおくれて、逝にも飛鳥の送心が届いたらしく、ようやくフルフェイスがありすに向けられた。
「さ、狩に行くわよ」
●連れだし
凛は航空会社が発行したラウンジクーポン(偽物)とゴールドカード(中名義のもの)を一悟から受け取ると、笑顔を添えてカウンターのスタッフに提示した。少々、挙動不審な一悟を後ろに従えて、落ち着いた足取りでラウンジの奥へ向かう。
少し遅れて入ってきた一二三も同じくカウンターで、偽造ラウンジクーポンとゴールドカード(やはり中名義のもの)を提示して中に入った。凛たちからつかず離れずの距離を取って歩く。互いの連絡は一悟を中継点とした送受心だ。
凛が先頭に立って、テレビが見られる席から飛行機が眺められる窓際を順に見て回った。しかし、香士が見つからない。
一二三はフライトスケジュールを確認するフリをして手帳を開き、香士だという男の顔写真を確認した。
<「うーん、いませんねぇ。まさかと思いますが、体を入れ替えているのでは?」>
<「そうやったとしても、自惚れが強いあいつのことやから、凛を見かけたらぜったい自分から近寄ってくるに違いないんよ。ここで場所があっていればなんやけど」>
だな、と口で言って、一悟は目ざとくみつけた食事コーナーへ向かった。
呆れながらも凛と一二三が後を追う。
「ここなら三人で固まっていてもおかしくないだろう。自然に時間も潰せるし。万が一、香士に先に出られたとしても、下で飛鳥が見張っているから大丈夫だ」
何が大丈夫なのかよく分からない。ただ単に、一悟はただで飲み食いしたいだけのような気がする。飛鳥がここにいれば、間違いなくケンカになっていたはずだ。
「凛……鈴もお腹がちょっとすいているし、ちょうどよかったかも。……しっかりふたり分食べんとね」
最後に小声でつけくわえられた一言を聞いて、一二三は、おや、と眉をひそめた。横目でそっと凛を伺う。
だが、一悟は格別気にはならなかったようだ。
「ふたり分って、どこがちょっとなんだよ。がっつり食う気じゃんかよ。気をつけないと太るぜ」
凜に思いっきり肩を拳でどつかれながらも、皿にサンドイッチを乗せる手を止めない。凜もチキンサンドをトングで挟んで皿に移した。一二三は同族把握でフロアを探索しながらオレンジジュースを手に取る。
<「あ、いましたよ。左手……シャワールームから出できたところのようですね」>
眩の外部協力者がファイヴに送ってよこした写真と同じ顔。いまの香士がいた。前に寄生していた男よりも老けてみえる。顔も平凡だった。
急な逃亡でえり好みしている暇などなかったのだろう。加えて、追われる者特有の緊張や焦りもかなり影響しているようだ。シャワーを浴びた後だというのに、さっぱりした感じはなかった。
<「凛が声をかけて連れ出すから、ふたりともフォローお願いね」>
<「任せてください。ここで「快楽殺人者の夢」を撒かれても、僕が解除しますから」>
<「よし、行こうぜ」>
凜は最後の一口をアイスティーで流し込こんだ。
休む場所を探す香士の後ろからゆっくりと近づき、声をかける。
「ギィ?」
香士は弾かれたように体をけいれんさせると、勢いよく振り返った。驚きに「すべての」目を見張る。
「す、鈴?」
「よかった。やっぱりギィやったんやね。ひどいわ、また鈴を置いて一人で行こうとしてたん?」
凜は香士の腕をとると、強引に引いて歩き出した。
「こんな華族の人が使うようなところは慣れてないので落ち着かないんよ。場所を変えへん? 人のいてない、いい場所かあるから」
最初は体を強張らせていた香士だったが、徐々に持ち前の自惚れが出てきたようだ。VIPラウンジを出るころには、なれなれしく凛の腰に腕を回していた。
「でも、どうしてここにいると分ったんだい?」
「そ、それは……」
「オレが調べてやったんだよ」
後ろで一悟が乱暴な口をきいた。
香士が首を回す。
「キミは?」
凜は一悟が余計なことを言いだす前に先手を打った。
「甥っ子。鈴の妹の孫の子で一悟っていうんよ。ギィを探しに一緒に……」
<「フランス。一二三がフランスって言えってさ。ギィって名前はフランスだって」>
「フランスに行こうと思って。鈴、海外旅行は初めてやから」
「ふうん……じゃあ、あそこのラウンジに来たのは偶然なんだ。あ、もしかして飛行機も一緒? チケットを見せてごらん」
同じフライトであるわけがない。だいたい誰も航空チケット自体を持ち合わせていなかった。AAAの手配で特別に警備室から、出国ロビーへ出ているのだから。
「どうしたんだい。はやく見せて」
「あ、危ない!」
エレベーターを降りたところで、よそ見しながら駆け寄ってきた飛鳥と香士がぶつかった。
香士が上着の上から左ポケットを手で押さえる。
「ご、ごめんなさいなのよ!」
にやり、と笑うと飛鳥はそのまま走り去って行った。
一二三も飛鳥が走って行った方へ歩いていく。ふたりは目につかないところで合流し、戻ってきて、香士の退路を断つことになっている。
「……まったく、これだから人の子は嫌いなんだ」
「まあまあ。チケットはあっちで見せるんよ。はやく行きましょう」
●数分前
大佐は完全に写真の男に気をとられていた。
それでも念には念を入れ、守護使役の力を借りて床から数ミリ、体を浮かせて接近する。
声をかけながら、とんとん、と背中を指でつついた。脂肪と筋肉の厚みを考えて、少し強めに。
「おじさま、少しよろしいかしら?」
“Чto?”
大佐はありすを見て首をひねり、それから、笑い顔を作って日本語で話しかけてきた。
「何か私に御用ですかな、お嬢さん」
じっと目を覗き込んだが、相手に変化は現れなかった。
この男の心は強い欲望で固められている――。
ありすはとっさのひらめきで作戦を切り替えた。これはただ額の目を見せて気を引くよりも、香士を騙った方がいいかもしれない。
「あるとも。いいや、逆にそっちがオレに用があるんじゃないのか」
大佐が手にしていた写真を裏から指ではじき、それから右手で額の髪を開いて第三の目を見せた。
「そいつは廃棄した。意味は解るよな? ……人間風情が何の用だ。力が欲しくて、オレと契約でも交わしたいのか?」
大佐は声もなく笑った。人の口というものはこんなにも大きく広がるものだろうか、と思わせるほど、口の端を持ち上げて。
頭からばりばり食べられそうな気がして、ありすは体を引いた。
「だとしたら?」
「ここは人が多い。……あっちにいい場所がある。行こう」
<「逝おじさん! ありすお姉さんがクマさんを連れて行っちゃうのよ」>
逝はメッセージを携えてきた航空会社のスタッフに礼を言った。それから慌てるでもなく、ゆったりと奇妙な二人ずれのあとを追う。
飛鳥から送心で話しかけられなければ、大佐と連れ立って148番ゲートへ向かうありすの背を危うく見失うところだった。
(「ふむ。これを書いたのは……さっき感じた視線の持ち主かね? おっさん、知り合いに泣きほくろの女なんていないぞぅ。どうして彼女はおっさんがミーシャにこれを渡すと思ったのか。みずたま、解るかね?」)
守護使役はフルフェイスの横で、困ったように体を波打たせただけだった。
破り取られたメモ紙には英語で、血族の掟を忘れるな、と口紅で書かれている。色はダークチェリーだ。まったく意味が解らない。
前方、エレベーターのまえで足を止めて、ありすとリブロスキが揉めだした。大方、二階で待機しているAAAの連中でも目にしたのだろう。
「はいよ、みずたま。言われなくともわかっているさね」
メモの謎を解くのは後にして、逝は走り出した。
●討伐
今、ここで爆発が起こったとしても、人的被害はかくれんぼもろくにできないAAAだけだろう。それはいいが――いや、よくないが、それよりも爆発させたことで大騒ぎになるのはまずい。このあと、そう間を置かず、仲間たちが香士を連れてやって来るのだ。
ありすは爆弾の入ったアタッシュケースに手を伸ばした。
大佐が半身を引いて大きな体の後ろに隠す。
「騙したな!」
「そうよ。即興の芝居を見抜けないなんて、ロシアの軍人は案外間抜けね」
顔を赤黒くした大佐が、右足をするどく蹴り上げる。
「――!!?」
驚愕に目と口を開いた大佐の顔が、ありすの前で弧を描いて落ちていく。
逝がクマのような背を蹴り倒したのだ。
顔面からの倒れ込みを避けようとして、大佐は体を捻った。アタッシュケースが振り回される。
「ありすちゃん!」
「わかってるわよ」
ありすは床の数ミリ上を旋回して振り上げられたアタッシュケースを掴むと、強引に抱き寄せた。
跳ね起きた大佐の顎を、またも逝が蹴り上げた。
巨体が回りながらエスカレーターを転がり落ちていく。
「おや、ミーシャ。頑張るやるじゃないの」
大佐はすばやく体勢を立てなおした。群がってきたAAAたちを足払いでなぎ倒し、第二陣を肘内、掌底打ちで退ける。
アタッシュケースを持ってエレベーターを駆け下ったありすが、第三の目から怪光を発して丸太のような太い脚を撃ちぬいた。
右手で傷口を押さえて止血しなから、大佐が逃げ場を求めて走り出す。
「ミーシャ、ミーシャ。お友達と土産が如何なったか知りたくない?」
逝は逃げる肘を掴んで引き寄せ、肩を脇に入れて巨体を背に乗せた。腕を掴んだまま体を深く折って床に強く叩きつける。
大佐はぐう、と息を吐き出した。が、気は失わなかった。憎悪に滾るまなざしを逝に向け、なおも立ちあがろうとする。
「そうだ、これ。ミーシャに。泣きホクロの君から伝言よ」
ポケットから取りだしたメモを開いて、目の前に差し出た。
大佐はメモから顔をあげると、フルフェイスの奥を覗き込もうと目をこらした。
「まさか、お前も? そんな馬鹿な。仇は……Чёрт!!」
「ダメっ!」
自決の気配に気づいたありすが、手刀を太い首へ叩き入れたが間に合わなかった。舌を噛み切られた舌から大量の血が出て床を汚す。
ありすはAAAの隊員たちに命じて、担架を持ってこさせた。
「ぼうっとしてないで、早く運んで。手当が間に合えば死なせずに済むわ!」
「低予算テロのマネしよって……瓶の中身はPLXかスラリーだろう。どれ、引き渡しの前に最低限の処理ぐらいはおっさんがやっておこうかね」
運ばれていく前に大佐の体をまさぐって鍵を探し出した。
バチン、と肉を打つ小気味いい音が、どこか上の方で響く。
アタッシュケースを開いたところで今度は、がん、と大きな音がした。
数分前を再現するかのような動きで、エスカレーターを人が転がり落ちてきた。
落ちてきたのは、片頬を紅葉の形に腫れ上がらせた香士だった。
胸を手で押さえて立ちあがり、ゲボゲボと咳き込んで血を吐く。どうやら肋骨が折れているようだ。まともに圧撃を食らったらしい。
香士の上着の左下が、何かに噛みつかれて食いちぎられていた。右太ももから下が血でべったりと汚れているが、大佐の太ももにも同じ傷があることから、破眼光で撃ちぬかれたことが解る。
「原液が入った瓶はころんさんが食べてくれたのよ!」
三階の手すりから身を乗り出して、飛鳥が叫んだ。
その横に一二三の顔が現れる。
「ほかの香水瓶も取り上げています!」
一悟と凛がエスカレーターを下ってきた。
「もう終わりやね。ここで鈴さんの仇を取らせてもらうんよ」
この体はダメだ、と悟ったか。
香士が額から抜け出して、黒い翼をひろげた。空を飛んで包囲を突破するつもりだ。
「逃がすかっ! お前のせいで滅びることになった猿人たちの仇も討たせてもらうぜ!」
一悟がピストルの形にした指の先から練り固めた気を飛ばし、香士を撃った。
「やれ、汚い花火ですね。下種に相応しい最後ではありましたが……。この方はお気の毒に」
一二三は床に倒れている、亡き骸に手を合わせて頭を垂れた。
一悟と飛鳥も一緒に手を合わせて冥福を祈る。
凛は腹に手をそっとあてると、ガラスの向こうに広がる空へ目を向けた。
(「あそこで凛が鈴さんと出会えたんは、血の導きやったんかもね。仇、討ったよ……」)
●余談
病院からファイヴ本部に大佐の死亡連絡が入った後、眩宛てで依頼担当者たちにFAXが届いた。
感謝いたすと一言そっけなく書かれた達筆の下に、子どもが描いたようなへたくそな字と6個の楕円が描かれている。
――大キライなクマしんだ。
――山にチョコレートないからかわりにドングリあげるね。
――ありがとう。
おこん、おこん
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし
