1、5、E
●
――side a female office worker――
仕事を終えたとき、既に時刻は夜の十時を回ろうとしていた。
“私”は椅子に座ったまま大きく伸びをすると、軽い溜め息と共に席を立つ。
オフィスの中にはまだ数人の同僚が残っていたが、他人を気にしていてはいつまでも帰ることができない。
いかな繁忙期といえど、自分の限界は自分が一番よく知っていた。
「お先に失礼します」
誰にともなく呟いてタイムカードを切る。
どうせ残業分は集計の段階でなかったことにされるというのに、自分も律儀なものだ。
静かなホールを抜け、エレベータで一階へ。
オフィスビルから一歩出ると、夜風が身に沁みた。
近ごろ暖かくなってきたものの、この時間はまだ冷える。
不夜城のごときビルを一瞥して、隣のコンビニへと足を向けたようとした。
と。
視界の端に、オフィスの窓から誰かが手を振っているのを捉え、目を凝らす。
部長だ。
はっとしたときにはもう遅い。
ばっちり目が合ってしまったのが向こうにも分かったはずだ。
どうせ明日締めの案件が、この期に及んで手に負えなくなったのだろう。
諦めて、先ほどよりずっと大きな溜息をつく。
ビルに戻り、エレベータのボタンを押して、開いた扉から中に身を移した。
オフィスは三階にあるため、手慣れた動作で『3』のボタンを押す。
備えつけの手すりにぐったり腰を預けると、疲れきった両の目を強く閉じた。
自動で扉が閉まり、続けて浮遊感。
目を開けたとき、パネル上部に示されている階層はまだ『1』だった。
当然、すぐに表示が切り替わる。
切り替わるが――“私”は目を疑わずにはいられない。
次に表示されたのは、なんと『5』だったのだ。
「え……?」
いきなり五階になど辿り着けるはずもない。
故障か、それとも見間違いか。
背中に氷を入れられたような悪寒がする。
直感は“これが故障でも見間違いでもない”ことを告げている。
ひどい耳鳴りと冷や汗。
次にパネル上部に浮かび上がったものは――。
「うそ……エラーって何よ……」
――これまで見たこともない、『E』の一文字であった。
チャイムと共に扉が開く。
この世のものとは思えないほど沈んだ空気が宙吊りの匣へと流れ込む。
外から見たとき不夜城のごとく照っていた明かりは、ただのひとつも灯っていなかった。
●
――side You――
「皆さん、緊急事態です。府内で妖の手によるものと思われる失踪事件が起きました」
あらかじめ配られた資料に目を通していると、いつになく切迫した様子で久方真由美(nCL2000003)が飛び込んできた。
アイデンティティの間延びした口調も、いまはなりを潜めている。
「被害者は二十代前半の女性。現在は一名ですが、放っておけば事態の悪化は免れないでしょう」
会議室がにわかにどよめく。
既に事件が起きているということは、すなわち夢見が予知できなかった案件ということだ。
恐らく、真由美もそのことで自責の念に駆られているのだろう――普段とは全く異なる彼女の様子からも、それは明らかであった。
「夢見だって万能じゃないんだ。あまり気を落とさないほうがいいよ」
あなたの言葉に、しかし真由美は首を横に振った。
先ほどよりも思い詰めた顔に、嫌な予感が走る。
「私、少し前に見ていたんです。その夢を――」
「見て……いた?」
「ええ――でも、一人称の夢ってありますよね。現実と同じような視界の……あのときの夢はそのパターンでした。そして、状況が私に似すぎていたんです」
だから通常の悪夢と区別がつかなかったというわけか。
たしか真由美は普段、一般企業でOLとして働いていると聞く。
よく似た生活を送る赤の他人など、いない方がおかしいくらいだ。
現実との多少の乖離は“夢だから”で片づいてしまう。
悪い方向に重なってしまった偶然――。
しかし、資料を読んだあなたは漠然と違和感を覚えた。
本当に、夢の視点人物が自分でないことに気づくタイミングはなかったのだろうか。
エレベータといえば……。
「今思えば、パソコンがてきぱき使えていた時点で気づくべきでした……夢の中だって機械音痴は治りませんよね」
違う――そこではない。
真由美が予知夢を視たときから時間が経っているせいか、資料の曖昧さが思考を鈍らせる。
だが、この違和感の正体を掴むことこそ、妖を退ける最大の近道である気がした。
――side a female office worker――
仕事を終えたとき、既に時刻は夜の十時を回ろうとしていた。
“私”は椅子に座ったまま大きく伸びをすると、軽い溜め息と共に席を立つ。
オフィスの中にはまだ数人の同僚が残っていたが、他人を気にしていてはいつまでも帰ることができない。
いかな繁忙期といえど、自分の限界は自分が一番よく知っていた。
「お先に失礼します」
誰にともなく呟いてタイムカードを切る。
どうせ残業分は集計の段階でなかったことにされるというのに、自分も律儀なものだ。
静かなホールを抜け、エレベータで一階へ。
オフィスビルから一歩出ると、夜風が身に沁みた。
近ごろ暖かくなってきたものの、この時間はまだ冷える。
不夜城のごときビルを一瞥して、隣のコンビニへと足を向けたようとした。
と。
視界の端に、オフィスの窓から誰かが手を振っているのを捉え、目を凝らす。
部長だ。
はっとしたときにはもう遅い。
ばっちり目が合ってしまったのが向こうにも分かったはずだ。
どうせ明日締めの案件が、この期に及んで手に負えなくなったのだろう。
諦めて、先ほどよりずっと大きな溜息をつく。
ビルに戻り、エレベータのボタンを押して、開いた扉から中に身を移した。
オフィスは三階にあるため、手慣れた動作で『3』のボタンを押す。
備えつけの手すりにぐったり腰を預けると、疲れきった両の目を強く閉じた。
自動で扉が閉まり、続けて浮遊感。
目を開けたとき、パネル上部に示されている階層はまだ『1』だった。
当然、すぐに表示が切り替わる。
切り替わるが――“私”は目を疑わずにはいられない。
次に表示されたのは、なんと『5』だったのだ。
「え……?」
いきなり五階になど辿り着けるはずもない。
故障か、それとも見間違いか。
背中に氷を入れられたような悪寒がする。
直感は“これが故障でも見間違いでもない”ことを告げている。
ひどい耳鳴りと冷や汗。
次にパネル上部に浮かび上がったものは――。
「うそ……エラーって何よ……」
――これまで見たこともない、『E』の一文字であった。
チャイムと共に扉が開く。
この世のものとは思えないほど沈んだ空気が宙吊りの匣へと流れ込む。
外から見たとき不夜城のごとく照っていた明かりは、ただのひとつも灯っていなかった。
●
――side You――
「皆さん、緊急事態です。府内で妖の手によるものと思われる失踪事件が起きました」
あらかじめ配られた資料に目を通していると、いつになく切迫した様子で久方真由美(nCL2000003)が飛び込んできた。
アイデンティティの間延びした口調も、いまはなりを潜めている。
「被害者は二十代前半の女性。現在は一名ですが、放っておけば事態の悪化は免れないでしょう」
会議室がにわかにどよめく。
既に事件が起きているということは、すなわち夢見が予知できなかった案件ということだ。
恐らく、真由美もそのことで自責の念に駆られているのだろう――普段とは全く異なる彼女の様子からも、それは明らかであった。
「夢見だって万能じゃないんだ。あまり気を落とさないほうがいいよ」
あなたの言葉に、しかし真由美は首を横に振った。
先ほどよりも思い詰めた顔に、嫌な予感が走る。
「私、少し前に見ていたんです。その夢を――」
「見て……いた?」
「ええ――でも、一人称の夢ってありますよね。現実と同じような視界の……あのときの夢はそのパターンでした。そして、状況が私に似すぎていたんです」
だから通常の悪夢と区別がつかなかったというわけか。
たしか真由美は普段、一般企業でOLとして働いていると聞く。
よく似た生活を送る赤の他人など、いない方がおかしいくらいだ。
現実との多少の乖離は“夢だから”で片づいてしまう。
悪い方向に重なってしまった偶然――。
しかし、資料を読んだあなたは漠然と違和感を覚えた。
本当に、夢の視点人物が自分でないことに気づくタイミングはなかったのだろうか。
エレベータといえば……。
「今思えば、パソコンがてきぱき使えていた時点で気づくべきでした……夢の中だって機械音痴は治りませんよね」
違う――そこではない。
真由美が予知夢を視たときから時間が経っているせいか、資料の曖昧さが思考を鈍らせる。
だが、この違和感の正体を掴むことこそ、妖を退ける最大の近道である気がした。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.妖2体の討伐
2.一般人の救出
3.なし
2.一般人の救出
3.なし
初依頼のため、いささか緊張しております。
●敵情報(計2体)
①エレベータに出現した妖(ランク2・物質系)×1体
・瞳に畏怖を……全【ダメ無】【混乱】【呪い】 ※1
エレベータに乗った人々を亜空間に導く。
・絹肌に粟を……物近単[貫2:前100後50]
人の不安を具現化することで斬撃系の攻撃を行う。
②妖の虚影(ランク2・心霊系)×1体 ※2
・背筋に氷を……特近列【凍傷】
人の恐怖を具現化することで氷結系の攻撃を行う。
・肩に重石を……特遠列【負荷】
人の焦燥を具現化することで重力系の攻撃を行う。
※1……開幕先制で使用してきます(それ以外では使用しません)。
ただし、OPに示された情報から一人でも『1、5、E』の謎を解き、妖の正体(性質)を看破できれば、参加者全員がBS付与を完全無効化できます。
※2……妖①と常に逆側に存在しようとします。
妖①に対し全員が真っ向勝負を仕掛けると、妖②に対して無防備な背中を晒すことになります。
逆もまたしかりです。
●環境情報
・今回の妖は深夜に確認されたため、出現条件を満たすため深夜の出動となります。
・エレベータは定員8名で中程度のもの、エレベータホール、オフィスフロアはどの階も共通で各々5m×5m、25m×15mほどです。
・オフィスビルに勤務する人々はファイヴの働きかけで出停となり、妖に捕えられた者以外の一般人はいません。
・女性事務員は亜空間(“E”表示された階層)のどこかに捕縛されています。
・妖2体を討伐すれば亜空間は消滅し、捕われていた全員が元の空間の同じ座標に帰還します。
・エレベータや建物自体を破壊するなど、外部からの物理的な処理はファイヴのコンプライアンス的にできません。
●その他
仮に『1、5、E』の謎が解けず『瞳に畏怖を』を無効化することができなくとも、難易度『通常』から『難しい』になったりすることはありません。
あくまでも『通常』の範囲内で攻略のスムーズさに変化が起きるので、覚者の皆様にはお気軽に推理要素を楽しんでいただければと思います。
仮に謎解きを完全放棄したいわゆる脳筋パーティで来ていただいても、リプレイ内で謎の回答は必ず提示いたします。
では、よろしくお願いいたします。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
6日
6日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
6/6
6/6
公開日
2016年04月09日
2016年04月09日
■メイン参加者 6人■

●
――side Wakakusa Wakana――
「一階からいきなり五階へ、そしてエラーを表示して止まったエレベータ……」
『ロンゴミアント』和歌那 若草(CL2000121)は、情報を確認するように呟く。
真由美が退室した後、会議室には若草の他に二名が残った。
資料をばさばさと読み荒らしたり、腕を組んで唸ったり、首を捻ったりと忙しい『デジタル陰陽師』成瀬 翔(CL2000063)。
顎に手を当てて無表情のまま資料の一点に目を落とす葉柳・白露(CL2001329)。
若草もそうだが、みな今回の依頼に違和感を覚えている様子である。
それでも――少しだけ、若草はこの状況が好ましいものに感じられた。
「翔くん、学校の勉強もそれくらい一生懸命になれたらいいのにね」
思わず心の声が漏れる。
「聞こえてんぞー」
「あら……声に出てたかしら」
こほんと咳払いをして、若草も資料を再読し始めた。
「…………」
「…………」
「……………………んー」
時計の秒針が何周かした頃、翔がおもむろに口を開く。
「あのさ、なんとなくだけど。この妖の正体って、かが――」
「――“鏡”なんじゃないかな?」
が、それを遮る形で、先にワードを口にしたのは白露だった。
翔は驚いたような顔から悔しそうな顔、そして怒りの顔へと目まぐるしく表情を変え、ついぞ白露に飛びかかる。
「俺も言おうと思ってたのにー!」
「言った者勝ちでしょ。こういうのはさ」
対する白露は意地の悪い笑みを浮かべて応戦。
往年のギャグ漫画めいた小競り合いが展開される。
「ちょ、ちょっと二人ともっ」
白露という掴みどころのない青年、よもや翔と精神年齢が一緒なのでは――と、仲裁しつつ苦笑を禁じ得ない若草だった。
「取り込み中すまないが、いま戻ったぞ」
気がつくと、そこには椿屋 ツバメ(CL2001351)が佇んでいた。
彼女の背後に納屋 タヱ子(CL2000019)の姿も見える。
「ああ、私は買い物に出ていたのだが……タヱ子とは公衆電話のところでばったり出くわしてな。一緒に戻ってきたんだ」
「わたしは思うところがあって、例の建物の管理会社に電話を入れていたのです。でも、残念ながら有力な情報は……」
そこに、勢いよく扉を開けて『家内安全』田場 義高(CL2001151)が帰還した。
「おめえら何ボサッとしてんだ! 妖の正体は“鏡”に違えねえ、すぐに身支度だ!」
「あーっ! おっさんまで俺のお手柄を!」
「誰がおっさんだ、おやっさんと呼べ!」
「ほとんど一緒じゃないですか……」
若草とタヱ子がハモる。
「そんなことより、俺はちっと気になって真由美んとこに行ってきたんだ。そしたらあいつ――」
そこで、義高は柄にもなく、少し声のトーンを抑えた。
「――自分でも気づいてねえみたいだったが、流暢にパソコンを操作してやがった。やっぱり、この一件……何かおかしいぜ」
●
――side Hakuro Hayanagi――
「なるほど、デジタル数字ね。ボクもそう思ってたんだ」
現場へ向かうワンボックスの中。
義高の推理を聞いて、白露は文句なしに同意した。
「お、オレだって……」
翔も乗ろうとするが、そうは問屋が卸さない。
「嘘だ。君は推理の根拠を“なんとなく”って言ってたじゃないか」
「オマエだって根拠は言ってなかっただろ!」
「オマエ? 未来の魔王のボク様に向かって随分な口を利くねぇ」
「牛の癖に……」
「は?」
再び往年のギャグ漫画になりかけたが、今回は義高の一瞥により一瞬で事態は沈静化した。
「話を纏めましょう」
若草が真剣な面持ちで話を戻す。
「義高さんの推理によれば、『1、5、E』はデジタル数字の『1、2、3』を鏡写しにしたもの。そして、タヱ子さんが管理会社から得た情報では、どうも死者絡みではないようだった……」
「以上の情報から、敵の正体は“鏡”で間違いなさそうだな。私はどうにも推理というやつが苦手で、難しく考えすぎてしまう」
「確かに、鏡だとすれば合点がいくことは多いです。夢でエレベータに乗った真由美さんが他人の視点だと気づかなかったのも、鏡が妖だったからですね」
ツバメとタエ子の総括に皆は同意したが――ひとり、義高だけは上の空のようだった。
「何か、思うところがあるのですか? 先ほどのお話といい……」
若草が聞く。
義高は何か言いかけたが――結局、首を振るに留まった。
「いや、俺もまだ確信があるわけじゃねえ。ことが済んだら自然とわかるはずだ」
赤信号で止まっていた車が、青になるや、すぐに発進する。
時刻は夜の九時半を回ったところ――間もなく現地に到着しようとしていた。
「鏡って、合わせ鏡、雲外鏡、紫鏡……何かと力を持ってるっていう話が多いよね」
白露は窓の外の闇を見て、薄く微笑みながら口にする。
「そいつらは普通、古妖に分類される。でも真由美さんは言ってた……“妖の手によるものと思われる”ってさ」
「……どゆこと?」
一同を代表するように翔が尋ねた。
「深い意味はないよ」
そんな白露を見て、義高だけが確信めいた顔で幾度か頷いた。
「あ、そうだ。みんなは右利き? 左利き?」
白露はさらに饒舌になる――どうやら気分がいいらしい。
「ボクら、たぶん敵のテリトリーで戦うことになるでしょ。鏡の世界って、利き手が反対になったりしてね」
●
――side Taeko Naya――
深夜のオフィスビルは暗闇に包まれ、完全に沈黙していた。
「お疲れ様です、覚者の皆様」
タヱ子が管理会社に電話した際、夜中にビルを開ける協力を申し出てくれたスタッフである。
「お疲れ様です。こんな夜分にありがとうございます」
「なあ……もしかしてオレら、納屋さんがいなかったら中に入れなかったんじゃ……」
「な、何言ってるのよ……その場合は私がちゃんと対応してたわよ……」
翔と若草のひそひそ話を尻目に、タヱ子と管理スタッフはビルの中へ一歩を踏み出した。
すぐに電気は灯り、無機質な空間に幾分か温かみが差す。
「学校の怪談とか、都市伝説とか、そういうの思い出すなぁ」
白露があちこちを物色しては、誰にともなく言った。
「三階に山を張るなら、階段で行ってもいいんじゃない?」
「どうでしょう。異空間である『E』階へはエレベータでしか行けないかもしれませんし……万が一、推理が外れていたら大きな時間のロスになります」
タヱ子の意見に、全員が賛成した。
八人乗りのエレベータに重装備の男女が計六名。
そこはかとなく寿司詰め状態の絵面が想像できるものの、背に腹は代えられない。
「じゃあ、行くぞ……」
生唾を飲み込んで、翔がエレベータの『▲』ボタンを押した。
開いた扉の向こうには――。
「――やっぱり、“ない”じゃねえか」
義高が眉をひそめる。
「俺は仕事柄、配達でビルやマンションのエレベータはよく使う。よっぽど小さいとか古い建物ならわかるが、この物件で“鏡がついてない”なんつーことはあり得ねえ」
不気味に静まり返る宙吊りの匣――誰からともなく、内部へ進入する。
最後に乗ったタヱ子が三階のボタンを押すまで、扉はついぞ自発的に閉まることはなかった。
「お気をつけて……」
見送る管理スタッフに手を振ると、すぐに匣は密室と化した。
一瞬の浮遊感があり、重力に逆らい始めたことを実感する。
すると、ほんの一瞬。
庫内の電気系統が明滅し、階層表示を睨んでいたタヱ子の視界が遮られた。
その一瞬の内に、『日』の字の右側にあった縦棒は左側へと移動している。
そして階層表示は『5』へ、そしてすぐに『E』へと――。
「見えた――」
しかし。
ひとりだけ抜け目なく、一瞬の暗闇の中に文字通り目を光らせていた者がいた。
「――気をつけて、みんな。妖の影、ひとつじゃなかったわ」
若草の助言に、全員の緊張が一気に高まる。
チャイムが木霊し――運命の扉がいま、目の前で開いた。
●
――side Yoshitaka Taba――
「なるほどな……こりゃ面食らうわけだ」
義高が普段の利き手と反対側の手を背中に回すと、ぴたりと斧の柄に指がかかった。
敵の正体を見抜けずに来ていたらと思うとぞっとしない話である。
ただでさえ、あらゆる照明の消えた異常に暗い空間――さぞ混乱を招いたことだろう。
「だめ、やっぱり電気つかない!」
「こっちもダメだ! ブレーカーはオンになってる!」
暗視を使用している若草と、耳慣れない青年の声。
「ん……誰だてめえ、敵か!」
「いやいや翔だよ、成瀬翔! こっちに斧を向けないで!」
「なんだ、声変わりしたら全然印象が違うもんだな。頼もしい限りだが、それはそうと――」
――どうやら明かりは自前で用意するしかなさそうだ、と義高は鞄に手を伸ばす。
しかし、それより先にランプのような光が周囲一帯を覆った。
「よし、テラ。そのままキープ」
「なるほど、椿屋の嬢ちゃんはなかなかどうして持ッてやがる。名前に花の字が入ってるだけはあるな」
「判断基準そこなのか……まぁ、お褒めに預かり光栄だが」
「ちょっと、よそ見しない」
ツバメの死角から空間を切り裂く爪が走る。
間一髪、白露の双刃が鮮やかな軌道でそれを受け止めた。
「うっわ……思ったより重いなぁ」
「やっとおでましか。鏡のバケモンなら物質系だろ、俺の斧の敵じゃねえ!」
「援護するぞ、脇は私が固める」
義高とツバメはやにわに猛攻をかけ、部屋の奥側へと妖を追い詰める。
「なんだ張り合いがねえ、防戦一方じゃ……」
斧を振りかぶったそのとき、義高はようやく妖の姿をまともに見た。
大きなどくろのような出で立ち。
そして、その“しゃれこうべ”は――あろうことか、義高自身の死に顔を彷彿とさせた。
「義高、見ては駄目だ!」
おそらくは直観的に目を逸らしたツバメが叫ぶ。
「海外で聞いたことがある。歴代の大統領にひとり、死の直前、鏡の中に自分の死に顔を見続けた者がいると――」
「ふたりとも、後ろにもう一体いる――これは受け切れないか……っ」
白露の声で振り返ったときには時既に遅し。
無数の氷弾が宙に浮かび、義高たちを狙い撃ちに――。
「ッ、させません!」
――しかけたが、割り込むように現れたタヱ子の二枚盾がそれを許さない。
「大丈夫ですか、皆さん。とても嫌な気配を感じましたが……」
「っははは、そういうことかよ。おめえさんの武器は人様の“負の感情”――それを具現化した爪やら何やらってわけだ」
田場は不敵に笑い、そして――鰐の牙の異名を持つ斧を構え直す。
「効かねえ効かねえ! 俺の心に傷をつけたきゃ、竜の爪でも持ってくるんだな!」
●
――side Kakeru Naruse――
「お前の相手は――」
「――私たちよ!」
後から現れた二体目の妖に、翔と若草が攻勢をかけた。
「ヒーロー参上! お姉さんを返せ!」
かっこいいポーズと共に謳い上げ、翔はチラッと、期待を込めた眼差しで若草を見る。
「いや……やらないわよ?」
「うっそ、なんで!?」
そうこうしているうちに、二体目の妖は音もなく距離を取った。
一体目の妖から見ると、眼前には義高と白露とツバメ、その次にタヱ子、その奥に翔と若草、最後に二体目の妖という構図である。
「なるほど、合わせ鏡ってやつか」
ミサンガとスマホを握り締めつつ翔は呟く。
先ほど白露も言っていたが、合わせ鏡は小学校でも噂になったことがあった。
夜中にやると異界に引き込まれるとか、死んでしまうとか、物騒な話がほとんどだ。
ともかく、目の前の現実はあまり芳しくはない。
「隊列が三列になるなんて。近接組(あちら)はまだしも、こちらはちょっと、人数的に不利ね」
若草もまた、シリンダーつきのロングソードを構えながら言った。
不利なシチュエーション……ヒーロー的には美味しいところである。
「やるっきゃない! オレたちが足止めしなきゃ。しなきゃ、どうなる? や、やられる……っ。責任重大だ……くそ、身体が言うことをきかない……っ」
「ちょっと! なに速攻で術中にはまってるの!」
「……水底の奇蹟、彼の者に癒やしと施しを――」
翔の頭上から、たらいを返したように聖水が降り注ぎ、翔の精神を瞬く間に浄化した。
「納屋さんありがと……ちょっと水のかけ方が雑だった気もするけど。よし、気を取り直して!」
五芒の印を結び、気を高める。
「雷を牙と為し、電を爪と為す――黒雲より醒めよ、稲妻の獅子ッ」
瞬く間に生成された漆黒の雲から、野生の獣めいて飢えた電撃が妖を襲う。
「おお、派手にやるじゃねえか坊主! 俺たちも負けてらんねえな」
「おっさん! こっちは多分、時間稼ぎで手一杯だ。そっちから……くっ」
翔の肩を氷が掠めた――後ろに気を配る余裕はなさそうだ。
「援護するわ、翔くん。何とか持ちこたえるわよ!」
ロングソードの鍔に気を込め、刃全体に霊力を帯びさせる若草。
「これなら心霊系でも斬れるわ――さあ、かかってきなさい!」
●
――side Tsubame Tsubakiya――
異空間に突入してから、およそ三分が経過していた。
密度の濃い時間はダンスに似ている。
違いといえば、永遠に続くことを願う時間なのか――はたまた瞬時に過ぎ去ることを望む時間なのか、だ。
「被害者が心配だな。さっさと終わらせてしまおう」
狼の紋章を宿した大鎌――構えた姿は、まさに死神である。
もう一体の妖に対峙しているのが暗視持ちの二人でよかった。
テラの明かりの範囲を意識しなくていいぶん、目の前の敵に集中できる――。
「その鎌いいな……ちょっと魔王っぽい。でも、うちの子たちも負けてないよ」
「へへ、俺の鰐とあんたの狼。どっちが先に仕留めるかな」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、義高が左に、ツバメが右に、高速で散開した。
眼前の白露は二刀でもって、直線的に妖の懐へ飛び込む。
対する妖は金切り声を上げ、白露に向けて強大な爪を刺し穿った。
その爪の先端は他の人間をもろとも巻き込まんと伸ばされたが、タヱ子の盾が鉄壁をもって護り抜く。
「痛みは共有します――我が生命を具現、解体、再構築。液化、気化、霊子化の別を問わず彼の者に捧ぐ」
「ったた……助かるよ。魔王への道は険しいねぇ。さて、いいかげん鏡は鏡らしくしてもらおう――」
「噛み砕けギュスターヴ!」
「裂き千切れ白狼!」
左右からの、息の合った同時斬撃。
妖はここに至り、ようやく気づいたことだろう。
“鏡は背後を映せない”。
「む、浅いか――範囲を取った得物ゆえ、仕方ないな」
「なあに、こりゃ運だ。たまたまこいつが背を向けたのが俺だっただけのこと」
狼と鰐の牙に深々と抉られ、妖は実体ごと、音を立てて飛散した。
「さて――てめえにぴったりの手向けの花を用意してやる。087-4939(オハナ・ヨクサク)によろしく頼むぜ」
本体を失い、絶叫するは背後の虚影。
「ようやく背中を取られずに済むな」
振り向きざま、ツバメは第三の目から援護射撃を放つ。
「向こうは片づいたのね。ツバメさん、ナイス!」
不意を突かれた虚影の晒した僅かな隙を、若草が霊気の斬撃でさらに拡げた。
「今よ、翔くん!」
「ふたりとも、サンキュ! よーし。再び命ず――翔け抜けろ、雷霆の百獣王!」
――――――――。
「鬼、灯……?」
目を覚ました女性の一言目はそれだった――ツバメの人魂を見てのことだろう。
「鬼灯ってのは彼岸から此岸への目印になる植物だな。こりゃおあつらえ向きだ」
義高は言って、身を屈めた。
「ぴーちゃんは元気か?」
不思議な問いかけに、女性は小首を傾げる。
「そうか――いや、何でもねえ。これでもう大丈夫だ」
そのやり取りで、さすがにツバメも気づいた。
この女性の未来を視ていた真由美は、一人称の夢であったためか、“半分”鏡の世界に取り残されていたのだろう。
入れ違いになったこちらの女性の“半分”は、辻褄合わせのために真由美の識閾下へと潜んでいたわけだ。
異空間が消滅したことで、その歪みも修正されたらしい。
「さあ、一日も飲まず食わずでは辛かろう」
買っておいた食品を取り出す。
鞄の類は持ち合わせていないから――生憎と、チョコレートあたりが限度だが。
若草もまた、女性に微笑みかける。
「立てるようになったら、一緒に下へ降りましょうね。あのエレベータはもう、大丈夫です」
『1、5、E ――瞳にifを――』 Mission Cleared.
――side Wakakusa Wakana――
「一階からいきなり五階へ、そしてエラーを表示して止まったエレベータ……」
『ロンゴミアント』和歌那 若草(CL2000121)は、情報を確認するように呟く。
真由美が退室した後、会議室には若草の他に二名が残った。
資料をばさばさと読み荒らしたり、腕を組んで唸ったり、首を捻ったりと忙しい『デジタル陰陽師』成瀬 翔(CL2000063)。
顎に手を当てて無表情のまま資料の一点に目を落とす葉柳・白露(CL2001329)。
若草もそうだが、みな今回の依頼に違和感を覚えている様子である。
それでも――少しだけ、若草はこの状況が好ましいものに感じられた。
「翔くん、学校の勉強もそれくらい一生懸命になれたらいいのにね」
思わず心の声が漏れる。
「聞こえてんぞー」
「あら……声に出てたかしら」
こほんと咳払いをして、若草も資料を再読し始めた。
「…………」
「…………」
「……………………んー」
時計の秒針が何周かした頃、翔がおもむろに口を開く。
「あのさ、なんとなくだけど。この妖の正体って、かが――」
「――“鏡”なんじゃないかな?」
が、それを遮る形で、先にワードを口にしたのは白露だった。
翔は驚いたような顔から悔しそうな顔、そして怒りの顔へと目まぐるしく表情を変え、ついぞ白露に飛びかかる。
「俺も言おうと思ってたのにー!」
「言った者勝ちでしょ。こういうのはさ」
対する白露は意地の悪い笑みを浮かべて応戦。
往年のギャグ漫画めいた小競り合いが展開される。
「ちょ、ちょっと二人ともっ」
白露という掴みどころのない青年、よもや翔と精神年齢が一緒なのでは――と、仲裁しつつ苦笑を禁じ得ない若草だった。
「取り込み中すまないが、いま戻ったぞ」
気がつくと、そこには椿屋 ツバメ(CL2001351)が佇んでいた。
彼女の背後に納屋 タヱ子(CL2000019)の姿も見える。
「ああ、私は買い物に出ていたのだが……タヱ子とは公衆電話のところでばったり出くわしてな。一緒に戻ってきたんだ」
「わたしは思うところがあって、例の建物の管理会社に電話を入れていたのです。でも、残念ながら有力な情報は……」
そこに、勢いよく扉を開けて『家内安全』田場 義高(CL2001151)が帰還した。
「おめえら何ボサッとしてんだ! 妖の正体は“鏡”に違えねえ、すぐに身支度だ!」
「あーっ! おっさんまで俺のお手柄を!」
「誰がおっさんだ、おやっさんと呼べ!」
「ほとんど一緒じゃないですか……」
若草とタヱ子がハモる。
「そんなことより、俺はちっと気になって真由美んとこに行ってきたんだ。そしたらあいつ――」
そこで、義高は柄にもなく、少し声のトーンを抑えた。
「――自分でも気づいてねえみたいだったが、流暢にパソコンを操作してやがった。やっぱり、この一件……何かおかしいぜ」
●
――side Hakuro Hayanagi――
「なるほど、デジタル数字ね。ボクもそう思ってたんだ」
現場へ向かうワンボックスの中。
義高の推理を聞いて、白露は文句なしに同意した。
「お、オレだって……」
翔も乗ろうとするが、そうは問屋が卸さない。
「嘘だ。君は推理の根拠を“なんとなく”って言ってたじゃないか」
「オマエだって根拠は言ってなかっただろ!」
「オマエ? 未来の魔王のボク様に向かって随分な口を利くねぇ」
「牛の癖に……」
「は?」
再び往年のギャグ漫画になりかけたが、今回は義高の一瞥により一瞬で事態は沈静化した。
「話を纏めましょう」
若草が真剣な面持ちで話を戻す。
「義高さんの推理によれば、『1、5、E』はデジタル数字の『1、2、3』を鏡写しにしたもの。そして、タヱ子さんが管理会社から得た情報では、どうも死者絡みではないようだった……」
「以上の情報から、敵の正体は“鏡”で間違いなさそうだな。私はどうにも推理というやつが苦手で、難しく考えすぎてしまう」
「確かに、鏡だとすれば合点がいくことは多いです。夢でエレベータに乗った真由美さんが他人の視点だと気づかなかったのも、鏡が妖だったからですね」
ツバメとタエ子の総括に皆は同意したが――ひとり、義高だけは上の空のようだった。
「何か、思うところがあるのですか? 先ほどのお話といい……」
若草が聞く。
義高は何か言いかけたが――結局、首を振るに留まった。
「いや、俺もまだ確信があるわけじゃねえ。ことが済んだら自然とわかるはずだ」
赤信号で止まっていた車が、青になるや、すぐに発進する。
時刻は夜の九時半を回ったところ――間もなく現地に到着しようとしていた。
「鏡って、合わせ鏡、雲外鏡、紫鏡……何かと力を持ってるっていう話が多いよね」
白露は窓の外の闇を見て、薄く微笑みながら口にする。
「そいつらは普通、古妖に分類される。でも真由美さんは言ってた……“妖の手によるものと思われる”ってさ」
「……どゆこと?」
一同を代表するように翔が尋ねた。
「深い意味はないよ」
そんな白露を見て、義高だけが確信めいた顔で幾度か頷いた。
「あ、そうだ。みんなは右利き? 左利き?」
白露はさらに饒舌になる――どうやら気分がいいらしい。
「ボクら、たぶん敵のテリトリーで戦うことになるでしょ。鏡の世界って、利き手が反対になったりしてね」
●
――side Taeko Naya――
深夜のオフィスビルは暗闇に包まれ、完全に沈黙していた。
「お疲れ様です、覚者の皆様」
タヱ子が管理会社に電話した際、夜中にビルを開ける協力を申し出てくれたスタッフである。
「お疲れ様です。こんな夜分にありがとうございます」
「なあ……もしかしてオレら、納屋さんがいなかったら中に入れなかったんじゃ……」
「な、何言ってるのよ……その場合は私がちゃんと対応してたわよ……」
翔と若草のひそひそ話を尻目に、タヱ子と管理スタッフはビルの中へ一歩を踏み出した。
すぐに電気は灯り、無機質な空間に幾分か温かみが差す。
「学校の怪談とか、都市伝説とか、そういうの思い出すなぁ」
白露があちこちを物色しては、誰にともなく言った。
「三階に山を張るなら、階段で行ってもいいんじゃない?」
「どうでしょう。異空間である『E』階へはエレベータでしか行けないかもしれませんし……万が一、推理が外れていたら大きな時間のロスになります」
タヱ子の意見に、全員が賛成した。
八人乗りのエレベータに重装備の男女が計六名。
そこはかとなく寿司詰め状態の絵面が想像できるものの、背に腹は代えられない。
「じゃあ、行くぞ……」
生唾を飲み込んで、翔がエレベータの『▲』ボタンを押した。
開いた扉の向こうには――。
「――やっぱり、“ない”じゃねえか」
義高が眉をひそめる。
「俺は仕事柄、配達でビルやマンションのエレベータはよく使う。よっぽど小さいとか古い建物ならわかるが、この物件で“鏡がついてない”なんつーことはあり得ねえ」
不気味に静まり返る宙吊りの匣――誰からともなく、内部へ進入する。
最後に乗ったタヱ子が三階のボタンを押すまで、扉はついぞ自発的に閉まることはなかった。
「お気をつけて……」
見送る管理スタッフに手を振ると、すぐに匣は密室と化した。
一瞬の浮遊感があり、重力に逆らい始めたことを実感する。
すると、ほんの一瞬。
庫内の電気系統が明滅し、階層表示を睨んでいたタヱ子の視界が遮られた。
その一瞬の内に、『日』の字の右側にあった縦棒は左側へと移動している。
そして階層表示は『5』へ、そしてすぐに『E』へと――。
「見えた――」
しかし。
ひとりだけ抜け目なく、一瞬の暗闇の中に文字通り目を光らせていた者がいた。
「――気をつけて、みんな。妖の影、ひとつじゃなかったわ」
若草の助言に、全員の緊張が一気に高まる。
チャイムが木霊し――運命の扉がいま、目の前で開いた。
●
――side Yoshitaka Taba――
「なるほどな……こりゃ面食らうわけだ」
義高が普段の利き手と反対側の手を背中に回すと、ぴたりと斧の柄に指がかかった。
敵の正体を見抜けずに来ていたらと思うとぞっとしない話である。
ただでさえ、あらゆる照明の消えた異常に暗い空間――さぞ混乱を招いたことだろう。
「だめ、やっぱり電気つかない!」
「こっちもダメだ! ブレーカーはオンになってる!」
暗視を使用している若草と、耳慣れない青年の声。
「ん……誰だてめえ、敵か!」
「いやいや翔だよ、成瀬翔! こっちに斧を向けないで!」
「なんだ、声変わりしたら全然印象が違うもんだな。頼もしい限りだが、それはそうと――」
――どうやら明かりは自前で用意するしかなさそうだ、と義高は鞄に手を伸ばす。
しかし、それより先にランプのような光が周囲一帯を覆った。
「よし、テラ。そのままキープ」
「なるほど、椿屋の嬢ちゃんはなかなかどうして持ッてやがる。名前に花の字が入ってるだけはあるな」
「判断基準そこなのか……まぁ、お褒めに預かり光栄だが」
「ちょっと、よそ見しない」
ツバメの死角から空間を切り裂く爪が走る。
間一髪、白露の双刃が鮮やかな軌道でそれを受け止めた。
「うっわ……思ったより重いなぁ」
「やっとおでましか。鏡のバケモンなら物質系だろ、俺の斧の敵じゃねえ!」
「援護するぞ、脇は私が固める」
義高とツバメはやにわに猛攻をかけ、部屋の奥側へと妖を追い詰める。
「なんだ張り合いがねえ、防戦一方じゃ……」
斧を振りかぶったそのとき、義高はようやく妖の姿をまともに見た。
大きなどくろのような出で立ち。
そして、その“しゃれこうべ”は――あろうことか、義高自身の死に顔を彷彿とさせた。
「義高、見ては駄目だ!」
おそらくは直観的に目を逸らしたツバメが叫ぶ。
「海外で聞いたことがある。歴代の大統領にひとり、死の直前、鏡の中に自分の死に顔を見続けた者がいると――」
「ふたりとも、後ろにもう一体いる――これは受け切れないか……っ」
白露の声で振り返ったときには時既に遅し。
無数の氷弾が宙に浮かび、義高たちを狙い撃ちに――。
「ッ、させません!」
――しかけたが、割り込むように現れたタヱ子の二枚盾がそれを許さない。
「大丈夫ですか、皆さん。とても嫌な気配を感じましたが……」
「っははは、そういうことかよ。おめえさんの武器は人様の“負の感情”――それを具現化した爪やら何やらってわけだ」
田場は不敵に笑い、そして――鰐の牙の異名を持つ斧を構え直す。
「効かねえ効かねえ! 俺の心に傷をつけたきゃ、竜の爪でも持ってくるんだな!」
●
――side Kakeru Naruse――
「お前の相手は――」
「――私たちよ!」
後から現れた二体目の妖に、翔と若草が攻勢をかけた。
「ヒーロー参上! お姉さんを返せ!」
かっこいいポーズと共に謳い上げ、翔はチラッと、期待を込めた眼差しで若草を見る。
「いや……やらないわよ?」
「うっそ、なんで!?」
そうこうしているうちに、二体目の妖は音もなく距離を取った。
一体目の妖から見ると、眼前には義高と白露とツバメ、その次にタヱ子、その奥に翔と若草、最後に二体目の妖という構図である。
「なるほど、合わせ鏡ってやつか」
ミサンガとスマホを握り締めつつ翔は呟く。
先ほど白露も言っていたが、合わせ鏡は小学校でも噂になったことがあった。
夜中にやると異界に引き込まれるとか、死んでしまうとか、物騒な話がほとんどだ。
ともかく、目の前の現実はあまり芳しくはない。
「隊列が三列になるなんて。近接組(あちら)はまだしも、こちらはちょっと、人数的に不利ね」
若草もまた、シリンダーつきのロングソードを構えながら言った。
不利なシチュエーション……ヒーロー的には美味しいところである。
「やるっきゃない! オレたちが足止めしなきゃ。しなきゃ、どうなる? や、やられる……っ。責任重大だ……くそ、身体が言うことをきかない……っ」
「ちょっと! なに速攻で術中にはまってるの!」
「……水底の奇蹟、彼の者に癒やしと施しを――」
翔の頭上から、たらいを返したように聖水が降り注ぎ、翔の精神を瞬く間に浄化した。
「納屋さんありがと……ちょっと水のかけ方が雑だった気もするけど。よし、気を取り直して!」
五芒の印を結び、気を高める。
「雷を牙と為し、電を爪と為す――黒雲より醒めよ、稲妻の獅子ッ」
瞬く間に生成された漆黒の雲から、野生の獣めいて飢えた電撃が妖を襲う。
「おお、派手にやるじゃねえか坊主! 俺たちも負けてらんねえな」
「おっさん! こっちは多分、時間稼ぎで手一杯だ。そっちから……くっ」
翔の肩を氷が掠めた――後ろに気を配る余裕はなさそうだ。
「援護するわ、翔くん。何とか持ちこたえるわよ!」
ロングソードの鍔に気を込め、刃全体に霊力を帯びさせる若草。
「これなら心霊系でも斬れるわ――さあ、かかってきなさい!」
●
――side Tsubame Tsubakiya――
異空間に突入してから、およそ三分が経過していた。
密度の濃い時間はダンスに似ている。
違いといえば、永遠に続くことを願う時間なのか――はたまた瞬時に過ぎ去ることを望む時間なのか、だ。
「被害者が心配だな。さっさと終わらせてしまおう」
狼の紋章を宿した大鎌――構えた姿は、まさに死神である。
もう一体の妖に対峙しているのが暗視持ちの二人でよかった。
テラの明かりの範囲を意識しなくていいぶん、目の前の敵に集中できる――。
「その鎌いいな……ちょっと魔王っぽい。でも、うちの子たちも負けてないよ」
「へへ、俺の鰐とあんたの狼。どっちが先に仕留めるかな」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、義高が左に、ツバメが右に、高速で散開した。
眼前の白露は二刀でもって、直線的に妖の懐へ飛び込む。
対する妖は金切り声を上げ、白露に向けて強大な爪を刺し穿った。
その爪の先端は他の人間をもろとも巻き込まんと伸ばされたが、タヱ子の盾が鉄壁をもって護り抜く。
「痛みは共有します――我が生命を具現、解体、再構築。液化、気化、霊子化の別を問わず彼の者に捧ぐ」
「ったた……助かるよ。魔王への道は険しいねぇ。さて、いいかげん鏡は鏡らしくしてもらおう――」
「噛み砕けギュスターヴ!」
「裂き千切れ白狼!」
左右からの、息の合った同時斬撃。
妖はここに至り、ようやく気づいたことだろう。
“鏡は背後を映せない”。
「む、浅いか――範囲を取った得物ゆえ、仕方ないな」
「なあに、こりゃ運だ。たまたまこいつが背を向けたのが俺だっただけのこと」
狼と鰐の牙に深々と抉られ、妖は実体ごと、音を立てて飛散した。
「さて――てめえにぴったりの手向けの花を用意してやる。087-4939(オハナ・ヨクサク)によろしく頼むぜ」
本体を失い、絶叫するは背後の虚影。
「ようやく背中を取られずに済むな」
振り向きざま、ツバメは第三の目から援護射撃を放つ。
「向こうは片づいたのね。ツバメさん、ナイス!」
不意を突かれた虚影の晒した僅かな隙を、若草が霊気の斬撃でさらに拡げた。
「今よ、翔くん!」
「ふたりとも、サンキュ! よーし。再び命ず――翔け抜けろ、雷霆の百獣王!」
――――――――。
「鬼、灯……?」
目を覚ました女性の一言目はそれだった――ツバメの人魂を見てのことだろう。
「鬼灯ってのは彼岸から此岸への目印になる植物だな。こりゃおあつらえ向きだ」
義高は言って、身を屈めた。
「ぴーちゃんは元気か?」
不思議な問いかけに、女性は小首を傾げる。
「そうか――いや、何でもねえ。これでもう大丈夫だ」
そのやり取りで、さすがにツバメも気づいた。
この女性の未来を視ていた真由美は、一人称の夢であったためか、“半分”鏡の世界に取り残されていたのだろう。
入れ違いになったこちらの女性の“半分”は、辻褄合わせのために真由美の識閾下へと潜んでいたわけだ。
異空間が消滅したことで、その歪みも修正されたらしい。
「さあ、一日も飲まず食わずでは辛かろう」
買っておいた食品を取り出す。
鞄の類は持ち合わせていないから――生憎と、チョコレートあたりが限度だが。
若草もまた、女性に微笑みかける。
「立てるようになったら、一緒に下へ降りましょうね。あのエレベータはもう、大丈夫です」
『1、5、E ――瞳にifを――』 Mission Cleared.
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
『頭脳派マッスル』
取得者:田場 義高(CL2001151)
『一級ムードメーカー』
取得者:成瀬 翔(CL2000063)
『シスタークローバー』
取得者:和歌那 若草(CL2000121)
『一騎双璧』
取得者:納屋 タヱ子(CL2000019)
『性別:魔王』
取得者:葉柳・白露(CL2001329)
『鬼灯の鎌鼬』
取得者:椿屋 ツバメ(CL2001351)
取得者:田場 義高(CL2001151)
『一級ムードメーカー』
取得者:成瀬 翔(CL2000063)
『シスタークローバー』
取得者:和歌那 若草(CL2000121)
『一騎双璧』
取得者:納屋 タヱ子(CL2000019)
『性別:魔王』
取得者:葉柳・白露(CL2001329)
『鬼灯の鎌鼬』
取得者:椿屋 ツバメ(CL2001351)
特殊成果
なし

■あとがき■
『あとがき』
まさか一瞬で正体を看破されるとは……さすが覚者の皆様です。
次回の謎はもう少し趣向を凝らしてみましょうか。
ともあれ、ここまでお読みいただきありがとうございました。
またお会いできる日を楽しみにしております。
p.s.MVPは最初に敵の正体の“根拠”を提示してくださった田場さんとさせていただきました。
まさか一瞬で正体を看破されるとは……さすが覚者の皆様です。
次回の謎はもう少し趣向を凝らしてみましょうか。
ともあれ、ここまでお読みいただきありがとうございました。
またお会いできる日を楽しみにしております。
p.s.MVPは最初に敵の正体の“根拠”を提示してくださった田場さんとさせていただきました。
