良血種の退屈
●取り戻した翼
牧場へと続く道の途中で、その男は密かに涙ぐむ様子を見せた。
「いやはや、妙な気分にさせられるなぁ」
彼は競走馬の調教師である。彼がこの日遠路はるばる地方の牧場を訪れたのは、半年前に引退し現在は種馬として余生を送っているサラブレッド『ダスクサファイア』に会うためだった。手塩に掛けて育て上げた教え子とこうして旧交を温められることの感慨深さもあるが、何よりも久々に顔を合わせられるのが親心からか嬉しくて堪らず、思わず目を潤ませてしまった。
「あいつは親譲りでプライドの高い馬だった。まったく苦労させられたよ」
そんな感傷に浸っている男が牧場に立ち入った時にはしかし、出迎える者は一人もいなかった。
「ま、アポなしだしな」
と、その瞬間はそれほど疑問には思わなかったものの、歩を進めていくうちに違和感が男の胸に押し寄せてくる。入口近辺に設営された売店や休憩所のどこを見渡しても人の気配はなく、さながら廃墟めいた寂しさが充満している。
「従業員はどこだ? 皆が皆仕事をおろそかにしてたんじゃ馬が泣くぜ」
不安になった男は厩舎へと急ぐ。だが。
そこには一頭たりとも繁殖馬がいなかった。不可解なのはそれだけではない。囲いから屋根に至るまで、すっかり壊し尽くされている。
「なっ、なんだこりゃ!? 逃げ出したのか? いやしかし……何者かが手引きしてないとこんなふうな荒らされた現場にはならないはず。となると盗難か?」
調教師の経験からあれこれと思案を巡らせてみるも、依然答えは出ない。考えるよりも行動だと敷地内全体を歩き回り、広大な放牧場にまで足を運ぶと――そこでようやく、数多くの馬の姿を見た。
「なんだ、ここにいたのか」
安心したのも束の間、馬達を眺める男はすぐさま異常に気が付く。
「あれは……!?」
馬のほとんどは何かに怯えているかのように放牧場の隅で縮こまって芝を食んでいる。その中にあって一頭だけ、類稀な威圧感を放ちながら中央を堂々と疾走する、規格外に巨大な馬が存在していた。
容貌こそ異質極まりないが、男にはすぐに正体が分かった。雄々しく勇壮な走りっぷりに、青みがかった美しい毛並み。見紛うはずもない。
「ダスク! お前はダスクだな! 一体何があったんだ?」
ダスクサファイア。競走馬のいろはを一から仕込んだ牡馬。それがなぜこのような姿になっているのだろう。牧場全体が荒廃してしまっているのも何かしら関連性があるのだろうか。あらゆる疑念を抱えつつも、苦楽を共にした教え子の元に調教師の男は柵を乗り越えて走り寄ろうとする。
こちらへ向かってくる彼を視界に捉えた怪馬は鼻息を猛々しく噴き――
飛翔するかのごとく。
血統由来の並外れた健脚を飛ばし、失くした記憶の中にあるかつての恩師を轢き殺した。
●本命か対抗か
覚者達の前で耳にボールペンを挟んだ虱潰 みはり(nCL2000127)がおほんと咳払いをする。
「競走馬の夢ということで、雰囲気を作ってみたよ」
どうやら予想屋の真似をしているらしい。資料もわざわざ机上に広げず立て板に張り出している。
「えと、そんなわけで、妖化したのはサラブレッド。『ダスクサファイア』っていう名前で最近まで走ってたみたい。わたしはあまりよく知らなかったんだけど、結構有名なお馬さんなんだってね」
主要レースで戴冠したこともある駿馬なのだそうだ。しかし、デビュー時に期待されていた成績からすればやや物足りない生涯獲得賞金額であったようである。
「お父さんとお母さんから受け継いだ遺伝子が凄いから、もっと強いはずってファンの人達から思われてたみたい」
みはりが二重丸を二つ書いたその下に小さく丸を書いた。結局真価を完全に発揮する前に引退。まだまだ走り足りないというのに、隠居生活を余儀なくされていた。そうした強いフラストレーションが妖に身を落とす下地となったのかも知れない。
「今は昔のことを忘れちゃってて、凄く危険な状態だよ……とにかく足が速いから、勢いを乗せた体当たりには気をつけてね」
続いて出現地域についての情報を伝える。
「場所は北海道の牧場。妖は壊した厩舎から脱走して放牧場にいるよ。凄く広いところだから、スペースを気にする必要はないね……寒いけど。従業員の人達は全員避難してて空っぽだし、邪魔されることもなさそう。あと、他にもたくさんの馬がいるんだけど、厩舎が壊れちゃったからこの子達も渋々放牧場まで行ってるみたいなんだ。貰えなくなった餌の代わりに芝を食べないと死んじゃうからね」
ただし妖を恐れて端のほうで息を潜めているらしい。とはいえ戦闘が激しくなり他の馬を刺激するとてんやわんやになる可能性は否めない。その点も注意して欲しいとのこと。
「みんな、無事に帰ってきてね。わたしは何も出来ないけど……お祈りしてるよ」
そう言うみはりはとても眠そうであり、祈りを捧げられる余裕はなさそうに見えた。
牧場へと続く道の途中で、その男は密かに涙ぐむ様子を見せた。
「いやはや、妙な気分にさせられるなぁ」
彼は競走馬の調教師である。彼がこの日遠路はるばる地方の牧場を訪れたのは、半年前に引退し現在は種馬として余生を送っているサラブレッド『ダスクサファイア』に会うためだった。手塩に掛けて育て上げた教え子とこうして旧交を温められることの感慨深さもあるが、何よりも久々に顔を合わせられるのが親心からか嬉しくて堪らず、思わず目を潤ませてしまった。
「あいつは親譲りでプライドの高い馬だった。まったく苦労させられたよ」
そんな感傷に浸っている男が牧場に立ち入った時にはしかし、出迎える者は一人もいなかった。
「ま、アポなしだしな」
と、その瞬間はそれほど疑問には思わなかったものの、歩を進めていくうちに違和感が男の胸に押し寄せてくる。入口近辺に設営された売店や休憩所のどこを見渡しても人の気配はなく、さながら廃墟めいた寂しさが充満している。
「従業員はどこだ? 皆が皆仕事をおろそかにしてたんじゃ馬が泣くぜ」
不安になった男は厩舎へと急ぐ。だが。
そこには一頭たりとも繁殖馬がいなかった。不可解なのはそれだけではない。囲いから屋根に至るまで、すっかり壊し尽くされている。
「なっ、なんだこりゃ!? 逃げ出したのか? いやしかし……何者かが手引きしてないとこんなふうな荒らされた現場にはならないはず。となると盗難か?」
調教師の経験からあれこれと思案を巡らせてみるも、依然答えは出ない。考えるよりも行動だと敷地内全体を歩き回り、広大な放牧場にまで足を運ぶと――そこでようやく、数多くの馬の姿を見た。
「なんだ、ここにいたのか」
安心したのも束の間、馬達を眺める男はすぐさま異常に気が付く。
「あれは……!?」
馬のほとんどは何かに怯えているかのように放牧場の隅で縮こまって芝を食んでいる。その中にあって一頭だけ、類稀な威圧感を放ちながら中央を堂々と疾走する、規格外に巨大な馬が存在していた。
容貌こそ異質極まりないが、男にはすぐに正体が分かった。雄々しく勇壮な走りっぷりに、青みがかった美しい毛並み。見紛うはずもない。
「ダスク! お前はダスクだな! 一体何があったんだ?」
ダスクサファイア。競走馬のいろはを一から仕込んだ牡馬。それがなぜこのような姿になっているのだろう。牧場全体が荒廃してしまっているのも何かしら関連性があるのだろうか。あらゆる疑念を抱えつつも、苦楽を共にした教え子の元に調教師の男は柵を乗り越えて走り寄ろうとする。
こちらへ向かってくる彼を視界に捉えた怪馬は鼻息を猛々しく噴き――
飛翔するかのごとく。
血統由来の並外れた健脚を飛ばし、失くした記憶の中にあるかつての恩師を轢き殺した。
●本命か対抗か
覚者達の前で耳にボールペンを挟んだ虱潰 みはり(nCL2000127)がおほんと咳払いをする。
「競走馬の夢ということで、雰囲気を作ってみたよ」
どうやら予想屋の真似をしているらしい。資料もわざわざ机上に広げず立て板に張り出している。
「えと、そんなわけで、妖化したのはサラブレッド。『ダスクサファイア』っていう名前で最近まで走ってたみたい。わたしはあまりよく知らなかったんだけど、結構有名なお馬さんなんだってね」
主要レースで戴冠したこともある駿馬なのだそうだ。しかし、デビュー時に期待されていた成績からすればやや物足りない生涯獲得賞金額であったようである。
「お父さんとお母さんから受け継いだ遺伝子が凄いから、もっと強いはずってファンの人達から思われてたみたい」
みはりが二重丸を二つ書いたその下に小さく丸を書いた。結局真価を完全に発揮する前に引退。まだまだ走り足りないというのに、隠居生活を余儀なくされていた。そうした強いフラストレーションが妖に身を落とす下地となったのかも知れない。
「今は昔のことを忘れちゃってて、凄く危険な状態だよ……とにかく足が速いから、勢いを乗せた体当たりには気をつけてね」
続いて出現地域についての情報を伝える。
「場所は北海道の牧場。妖は壊した厩舎から脱走して放牧場にいるよ。凄く広いところだから、スペースを気にする必要はないね……寒いけど。従業員の人達は全員避難してて空っぽだし、邪魔されることもなさそう。あと、他にもたくさんの馬がいるんだけど、厩舎が壊れちゃったからこの子達も渋々放牧場まで行ってるみたいなんだ。貰えなくなった餌の代わりに芝を食べないと死んじゃうからね」
ただし妖を恐れて端のほうで息を潜めているらしい。とはいえ戦闘が激しくなり他の馬を刺激するとてんやわんやになる可能性は否めない。その点も注意して欲しいとのこと。
「みんな、無事に帰ってきてね。わたしは何も出来ないけど……お祈りしてるよ」
そう言うみはりはとても眠そうであり、祈りを捧げられる余裕はなさそうに見えた。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.ランク2妖一体の討伐
2.なし
3.なし
2.なし
3.なし
今回、割とオーソドックスな敵と戦場なので、攻略法は無限にあると思います。
●目的
★妖一体の撃破
●現場
★道内種馬牧場
北海道にある競走馬の繁殖地として知られている牧場です。
妖は終日放牧場で走り回っています。放牧場は非常に広く、足場は柔らかい芝生です。
放牧場には他にも馬がいますが基本的に怯えてるだけです。
従業員は全員妖を恐れて逃げ出しているので、他者を気にする必要は一切ありません。
営業が止まっているためコアな競馬ファンの客足も遠のいています。
活動開始時刻は自由です。
●敵について
★妖(生物系・ランク2) ×1
元々はサラブレッドであり、競走馬として活躍していました。青毛が特徴。
現在は突然変異の影響で巨大化しており世紀末覇者が乗ってそうな感じになっています。
優良血統のオスなのでかなりの資産価値があります。
説明不要の俊足で、移動距離が通常の倍(全力移動で最大40m)という特性があります。
しかも現役時代は末脚が自慢だったためかかなりのスタミナを持ちます。
素早さと持久戦適正を両立していると言えます。
攻撃は後ろ足での蹴りと、強烈な二種類の体当たりを行います。いずれも警戒必須。
『馬脚』 (物/近/単)
『突進・駆け抜け』 (物/遠/単/貫通3)
『突進・掻き乱し』 (物/近/列/貫通2)
解説は以上になります。ご参加お待ちしております。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
7日
7日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
8/8
8/8
公開日
2016年02月28日
2016年02月28日
■メイン参加者 8人■

●芝の麒麟児
ひゅう、と寒気を乗せて吹いてきた北風は、一面の芝を波打たせるより先に切り裂かれた。
人為的な草原の中央に陣取る妖は人間達の姿を見るや否や、前後の蹄を高らかに打ち鳴らして疾駆した。
「随分とそそっかしいのね。ヨインやワビサビもないじゃない!」
双眼鏡を首から紐で吊るした『デブリフロウズ』那須川・夏実(CL2000197)は急転直下の状況に驚くと共に、心の奥で少しだけ悲哀を覚える。眼前の人間に対する明確な殺意という形で示された理性の崩壊の事実は、夢を追う人々のために走る誇り高き競走馬だった時代の記憶が塵芥ほども残されていないという、紛うことなき証拠であったからだ。
牧場を象る矩形の隅でひっそりと佇む馬群を刺激しないよう、逆側の方向から接近を試みた覚者達だったが、妖の闘争本能たるや凄まじく、互いの様相を把握するなり即座に交戦状態となった。
盾で守りを固めた納屋 タヱ子(CL2000019)は懐中電灯の光を当て、自分のほうへ向かってくるように誘導する。軽快な足取りで左右にステップを踏んでいた『緋焔姫』焔陰 凛(CL2000119)は覚醒して急襲に備えながらも、難儀そうに後頭部を掻く。
「このままレース……とはいかへんやろなぁ。穏便に済ませられるはずもないしな」
「すぐに来てくれたほうが有難いわ。早く終わらせましょ。他の馬達も困るし、アタシだってこんな寒い所に長居したくないもの」
と体を震わせる『溶けない炎』鈴駆・ありす(CL2001269)は場合によってはと握っておいた小石を投げ捨て、かじかんだ指を吐息で暖める。豊かな地熱に支えられた温暖な場所で育った彼女には、この北海道の乾き切った冷気は肌に合わないらしい。
「内側はいいから、外側をもっと暖めてほしいわ」
ありすは火行の力を向上させる『醒の炎』に少々注文を付けた。
覚者達が陣形を整える間にも妖は距離を詰めてくる。
異常なまでに肥大化した体格ばかりに目を引かれるが、美しく、かつ躍動感に溢れた走り様は、かつて場内で見た頃と何ら変わりないように『鉄仮面の乙女』風織 紡(CL2000764)には思えた。
「斤量の制約から解き放たれてますからね。こりゃ買い時ですよ」
迫り来る妖の気配を前に紡は黒鉄の仮面を被りながら、パドックを眺めている時の独特の緊張感を思い返して嘯く。
「ま、それはそれとして、しっかり囲んでやるです」
特注のナイフを手に、隙間の空いた方角を埋めるように前へ。
猛進してきた妖は挨拶代わりに、真正面に立つ覚者――タヱ子へとその巨体を卓越した速度に任せてぶつけ、一切の加減なく駆け抜けると、くるりとUターンして再度突撃。
盾の後ろに隠れて衝撃を緩和するタヱ子は、弾き飛ばされないように大きく足に力を込める。激しく踏み締められた足元の芝生がべろりと捲れ上がる。
「……耐えはしましたが、無視できるほどではないですね」
ずば抜けた頑丈さを誇る彼女ではあるが、その代償として敏捷性を捧げている。此度の機動力に長けた妖相手ではほぼ確定で手数の面で遅れを取ることになる。
もっとも、『相手だけが続けて行動できる』というのは、何も不利益のみではない。
攻撃を与えた側である妖の体に、二つ擦り剥けたような跡が残されている。すなわち、タヱ子が秘密裏に展開していた超硬度の防護壁との衝突によって、少なからず抵抗を受けていたのだ。直接的な攻撃手段を持たないタヱ子からすれば、希少なダメージ源である。
「だけど、本当は……」
傷つけるのが辛い。こうするしかないとは理解していても、タヱ子は自責の念からか下唇を噛む。サラブレッドの血統ゆえに生まれながらに競走馬としての期待を背負った彼は、言うなれば人のために命を費やしてきたのと同じ。そんな生涯を送ってきた馬を、人の手によって殺さなくてはならない。いくら現在は妖化してしまっているとはいえ、そう考えると心苦しかった。
「ヨユーとガマンは別だわ。転ばぬ先の杖はイカガかしら?」
状態を見て夏美が治癒の術を封じた水滴を届け、タヱ子の頭上に降り注がせる。滴は優しくシャワー状に広がり、全身に掛かっていた負担を跡形もなく消し去った。
「……ありがとうございます」
「デキる女はいつだって冷静であるべきなのよ」
夏美は一度タヱ子に視線を送ってから妖を見やる。ダスクサファイア――それが妖の元となった競走馬の名前だ。馬自身も忘れてしまっているその名を、夏美は胸に留める。
強攻を止めて一時休息する妖に、予期せぬ方向から刺突が飛ぶ。ただの一撃では終わらず、それは瞬きほどの刹那に二度妖の体を突き刺した。早業を繰り出したのは揚々と西洋の槍を担いだ『だく足の雷鳥』風祭・雷鳥(CL2000909)。
「いい走りっぷりじゃない。よっぽど暇してたのね」
敵の動向を見計らった覚者達が徐々ににじり寄り、包囲を完成させる。他方で雷鳥は一旦微妙に距離を取り、ヒットアンドアウェイの姿勢を窺わせる。
「わたしも最近すっとろい連中ばかりで飽き飽きしてたから、好都合ってもんさ。いいぜ、好きなだけ付き合ってやんよ。加速した命が燃え尽きるまでね」
ニッと口角を上げた快速自慢の獣憑の足は、走ることに特化した――しなやかな筋肉で構成される馬の脚部のそれであった。
「ワーオ、本当に大きな馬デスネー!」
足を止めた妖を、『恋路の守護者』リーネ・ブルツェンスカ(CL2000862)はやや離れた位置から、好奇心を持って観察する。規格外の体躯こそ変異の影響ではあるが、威風堂々とした居振る舞いや光沢のある毛並み、微風でもなびく艶やかな鬣からは、サラブレッドが本来持つ気品も見て取れた。
「私も一度ダスクちゃんに乗ってみてリーネ軍を率いてみたいデスネー! ……でもソレはちょっと無茶なお願いカモデスネー」
妖は猛り狂った声でいななき、混濁した瞳で覚者達を睨みつけた。
外観以上に、人間に対しての高すぎる敵愾心が自然界の動物から大きく逸脱している。退治の他に手段はない。愛護の感情ではどうすることも出来ないのは、リーネ自身も承知していた。
「あっという間に来るからぬくぬくしてる暇もなかったじゃん! まったく急かしてくれるぜ!」
直刀の峰で肩を叩く不死川 苦役(CL2000720)が妖の顔を見上げる。
英霊の力の証である真紅の双眸が凶悪な妖の眼と交錯する。
「覚悟しな馬面! 綺麗に捌いて美味しい馬刺しにしてや……やっぱ血抜き面倒だからパスね!」
口ではそう言うが苦役の狙いは着実に体力を消耗させるための外出血である。射程を確認してから細身の愛刀で斬りつけ、禍々しき刃を剛性の体毛で覆われた皮膚に届かせる。そこで留まることなくもう一段階押し込み、皮下肉まで裂いた――感触が確かにあった。掌全面に伝わってきた手応えに、苦役は唇を歪めて満足げにカッカと喉を鳴らす。行動はすぐさま目に見える結果として表れ、妖側面に刻まれた傷口から粘ついた血液が零れ落ち始める。
「……行くわよ、開眼」
同様に搦め手で仕掛けるのは、五指を開いた左手に第三の目を浮かび上がらせる術士、ありす。針穴を穿つような鋭い眼光を具象化させて一直線に伸ばし、遠く離れた妖に照射する。
「アタシはすぐにでも帰りたいの。呪われてくれるまで続けるんだから、早く折れたほうが楽よ」
アンタも余計に苦しみたくはないでしょう、とありすは頑固な眼差しで諭した。
「引退が悔しかったのも分かるし、ストレス溜まってるのも分かってやれるけど、妖になってしもうた以上は討たん訳にはいかんからな。堪忍やで」
このまま攻めを継続したい凛が狙いをつけたのは競走馬の生命線である脚。その部位目掛けて、素早く二連続の攻撃を叩き込む――凛の家系の流派で呼ぶところの『廻焔』を喰らわせる。
皮膚を切り裂いた鋭利な感覚と、強く跳ね返してくる反発が同時に刀を通して伝わった。
「硬いな。流石に長年鍛えとるだけあるわ」
生物系の妖は自らの筋肉そのものが鎧である。一太刀で断てるほど柔ではない。
「なら二発、三発、お見舞いしてやるですよ。単賞より複賞のほうが当てやすいのと同じです。あたしは配当のでっかい買い方のほうが好きですけど」
突剣に持ち替えた紡が英霊の力を乗せた重い斬撃を浴びせ、着々とダメージを累積させる。『プロパル』で保護された純白のワンピースは激しい戦闘の最中だというのに泥撥ねのひとつもなく、無論、返り血にも染まっていない。ただひたすら思考を暴走させて、刃物を振り回す暴虐的なスタイルで、内に秘めた衝動に突き動かされるまま暴力に没頭する。そうしている間の紡の瞳は依然として、片耳に付けたイヤリングに類した純真無垢なエメラルドの輝きを放っている。
包囲が成立しているこの好機を逃してはならないと、中衛からリーネは照準を合わせる。書物のページを開き、そこに記された因子の技を唱える。
「ウーン、動物に向けて撃つのはヤッパリ心が痛みマスガ……ダスクちゃん、ゴメンデスヨ!」
戸惑いながらも波動弾を発射するリーネ。命中と同時に妖が苦悶に満ちた鳴き声を漏らした。自身の固有属性である土行のみならず水行にも精通しているリーネが、二つの術式を扱い、二つの力を転化させられる優れた能力者ということもあり、発生した波動の威力は絶大。加えて驚異的なのはその燃費の良さで、負担はごく少量である。
「やられてクレマシタカネー?」
不安げに様子を窺ってみるリーネだったが、妖の殺戮本能は未だ削がれていない。前足で軽く芝を蹴る仕草をした後、その場を巡回するように疾走して群がる覚者達をまとめて弾き飛ばす。その攻撃は後方に控える夏美とありすには届かなかったが、大きく戦況を掻き乱した。
「いい加減引っ掛かってよね!」
ありすが幾度目かの怪光線を発射する。
「まだ虫の居所が収まらないなら、受けて立ちます」
防衛線をガッチリと固め、突破されまいと大盾を手に身構えるタヱ子。せっかく築いた優位を手放すわけにはいかない。後ろ足で蹴りを入れられるが、それも防ぎ切る。
「うわ、っとぉ!? こいつよー、陣形崩す気満々じゃんか! その手には乗るか! 絶対包囲解いてやんないからな! 追っかけるのしんどいし!」
妖が辺り構わず走り回る陰で苦役は芝生上に花を生成し、そこから漂う独特の臭気を嗅がせることで脱力を試みる。身体機能を緩慢にさせる花の香りで溢れた区間を走っているうちに妖は違和感を覚えたらしく、足を止めた後もしきりに鼻の辺りと、そして爪先を気にする。
明らかに集中力が欠かれていた。
呪いをもたらす光線を撃ち続けたありすの根気が実を結んだのもあるだろう。
「これって多分センザイイチグーよね。でも焦りはキンモツ。今のうちに治療するわね」
自軍の怪我の状況をチェックしながら的確に回復を行う夏美。鞘に納めたままの杖刀をステッキのように軽やかに振り、前衛が満遍なく追っていた傷を広範囲に渡る『癒しの霧』で一気に立て直す。その甲斐あって、敷いていた包囲網が崩れる事態には至らなかった。
夏美は息を荒げる妖に視線を送る。
「記憶がなくなっちゃったって、アナタはダスクサファイアなのよ」
妖は目の色を変えていた。まだ走れる――その強い意志だけで自らを奮い立たせている。
「そうやって走り続けたいって思ってるのがショーコよ。だからワタシ、アナタをダスクって呼ぶわね。走り足りないなら走れば良い。ワタシ達がアイテしたげる」
蹄が大地を蹴る音が響いた。怒涛の勢いで妖が強行突破に打って出る。
「でも、こっちにだけは行かせないんだから!」
●未完の大器の完結
残る気力を振り絞って全速で駆け出した妖の推進力たるや凄まじく、眼前に立っていた凛を跳ね飛ばし、そのままの勢いでリーネをも巻き込んだ。
土の鎧を緩衝材にしていたリーネは、突進自体は上手くいなして致命傷を免れたものの――
「アリャリャ、ダスクちゃんが行っちゃいマシタネー!」
強引に戦線を打開した妖の後背部が徐々に遠のいていく光景を目の当たりにする。
「おわっとと、ほんま暴れ馬にはかなわんわ」
凛は激突によって生じた痛みに若干顔をしかめるも、研ぎ澄まされた平衡感覚を頼りに体勢を保ち、決して転倒はしなかった。そのまま前傾姿勢になり、袴の裾を絞って走り始める。
「追うで!」
「え~!? 走んの!? 俺現代っ子だから体力ないっての!」
と言いながらも苦役も続く。とはいえ、『韋駄天足』を所持する凛と、その更に先を行く妖には追いつけない。仕方なく茨が張り巡らされた植物の種を剣先から射出し、遠距離から攻めの手を重ねる。
「今からで……間に合うでしょうか?」
同じく『韋駄天足』を持つタヱ子だったが、対応に遅れてしまった。一歩目に数秒ばかりのタイムラグがある――それは競争において致命的な差。
妖が向かう先は夏美のいる地点。持久戦を担っているのはこの者だと野性の本能で嗅ぎつけた。
「ダスク! 自分が何だったか思い出して!」
少女の声は理性を失った獣には届かない。
しかし、夏美を目指した妖の足取りもまた。
目的地までには及ばない。
辿り着くことが出来なかった。
回転していた脚部の動作は遮られた。鋭いカカト蹴りの一撃によって。
妖は不意に加えられた負荷に足を掬われ、横倒しになる。
「走るだけで戦えるなんてうらやましい生物だねぇ。こちとらいちいち技使わないといけないってのに」
妨害に成功したのは逸早く参上した雷鳥であった。得物を地面に突き立てた神速の女傑は四肢の中で唯一ヒトが残っている左手の指を折り曲げ、骨を鳴らす。
「流石の速さだね、でも残念、相手は史上最速の風祭雷鳥さんだよ、逃げられるわけないっしょ」
妖が体を起こす様子を眺めながら、右手のスモールシールドを翳して告げる。
「しかしこの牧場、すっげー走りやすいね。馬用なだけあって午の獣憑のわたしにも適してるんだねぇ……ん? なに怪訝そうな顔してるのさ。別にあんたより足が速かったわけじゃないよ」
ただ、と雷鳥は勝ち誇る。
「反応の速さで勝ってたってだけ」
動体視力を背景に相手の出方を察することが出来れば、先の先を取れる。要は単純にスタートを切る早さで上回っていた、というカラクリだ。
「もう! そんな突っ込んできたら風で寒いじゃないの!」
ありすは風を切って走り寄ってきた妖に大層立腹した様子だった。もっともそれは身の危険を感じてというよりは、寒風に煽られたことに対する苛立たしさのようである。
「存分に罰を受けることね。さあ、燃やしてあげるわ。覚悟なさい」
開眼していない右手から、自身の髪色と同じ、澄んだ緋色の火を放つありす。灼熱の炎は火の粉を撒き散らしながら妖の体表面を覆う毛と鬣を無慈悲に焼き払う。勝気な言動をしているだけあって、術式の扱いには覚えがあるようだ。凄絶な燃焼作用である。
「どんな名馬もいつかは引退するもんよ、あんたはそのタイミングが悪かっただけだね」
身悶えする妖に向けて、雷鳥が鋭く尖った槍の先端を突きつける。
即死できるよう心臓部に狙いを定める。
雄叫びを上げるかのごとく勇ましく背筋を反らして反動を付けてから放たれたその攻撃は、人の力を超えた獣の因子スキル『猛の一撃』。
それは同じ馬の性質を持つ雷鳥からの、せめてもの餞なのかも知れない。
「はぁ、はぁ……馬は好きですけど、追いかけっこは疲れます」
凛とタヱ子に続いて、ようやく雷鳥に追いついた紡は汗を拭う。時間にして十数秒ほどではあるが、その間に戦局は終幕を迎えていた。息つく間もないとはこのことだろう。
突進による被害は、夏美に代わってリーネが味方の回復を済ませている。尾を引くダメージは残っていなかった――表面上は。
妖の死骸は穏やかではなかった。美しかった青毛の皮膚には幾つも傷が刻まれ、汚泥めいた血で塗り潰されている。絶命したことで肥大化していた身体が通常の生物大まで萎縮しているのも悲壮さに輪を掛けた。
「仕方ないとはイエ、ヤッパリやり切れマセンネー!」
リーネには胸の中を埋め尽くすもやもやとした感情のぶつけ先が分からなかった。元々がただの馬である生物を手に掛けたことを、動物好きの彼女はどうしても痛ましく思ってしまう。
弔ってやることしか出来ない、と雷鳥はどこか寂しげに言うと、生き様に敬意を示して静かに瞼を閉じた。
よく似たもどかしさを覚えたタヱ子は遺体の傍で手を合わせる。
「名前で呼ばせてください……ごめんなさい、ダスクサファイア」
「あんたの走り、心に刻ませてもろうたで」
俯いていた凛は顔を上げて鎮魂歌を口ずさむ。
「ダスク、ねえダスク。アナタの名前よ? それくらいは憶えときなさいよ」
夏美の口ぶりからは悔しさが滲んでいた。かつての名馬はダスクサファイアとしては死ねなかった。だからせめて、自分だけでも彼の形跡を記憶しておかなければならない。自分まで忘れてしまったら、ダスクサファイアとして葬ることも出来なくなってしまう。
「忘れたまま……なんて……ゼッタイ! ダメだもの!」
そこで涙腺が一気に緩んだ。ドライに徹し切れない夏美の頬を人肌の滴が伝う。何かの死に面して背伸びし続けることは、十歳の少女には酷だった。
かくして走ることを宿命づけられた種の血は絶えた。
覚者が戦い続けることを運命として与えられた存在かは、誰にも分からない。
ひゅう、と寒気を乗せて吹いてきた北風は、一面の芝を波打たせるより先に切り裂かれた。
人為的な草原の中央に陣取る妖は人間達の姿を見るや否や、前後の蹄を高らかに打ち鳴らして疾駆した。
「随分とそそっかしいのね。ヨインやワビサビもないじゃない!」
双眼鏡を首から紐で吊るした『デブリフロウズ』那須川・夏実(CL2000197)は急転直下の状況に驚くと共に、心の奥で少しだけ悲哀を覚える。眼前の人間に対する明確な殺意という形で示された理性の崩壊の事実は、夢を追う人々のために走る誇り高き競走馬だった時代の記憶が塵芥ほども残されていないという、紛うことなき証拠であったからだ。
牧場を象る矩形の隅でひっそりと佇む馬群を刺激しないよう、逆側の方向から接近を試みた覚者達だったが、妖の闘争本能たるや凄まじく、互いの様相を把握するなり即座に交戦状態となった。
盾で守りを固めた納屋 タヱ子(CL2000019)は懐中電灯の光を当て、自分のほうへ向かってくるように誘導する。軽快な足取りで左右にステップを踏んでいた『緋焔姫』焔陰 凛(CL2000119)は覚醒して急襲に備えながらも、難儀そうに後頭部を掻く。
「このままレース……とはいかへんやろなぁ。穏便に済ませられるはずもないしな」
「すぐに来てくれたほうが有難いわ。早く終わらせましょ。他の馬達も困るし、アタシだってこんな寒い所に長居したくないもの」
と体を震わせる『溶けない炎』鈴駆・ありす(CL2001269)は場合によってはと握っておいた小石を投げ捨て、かじかんだ指を吐息で暖める。豊かな地熱に支えられた温暖な場所で育った彼女には、この北海道の乾き切った冷気は肌に合わないらしい。
「内側はいいから、外側をもっと暖めてほしいわ」
ありすは火行の力を向上させる『醒の炎』に少々注文を付けた。
覚者達が陣形を整える間にも妖は距離を詰めてくる。
異常なまでに肥大化した体格ばかりに目を引かれるが、美しく、かつ躍動感に溢れた走り様は、かつて場内で見た頃と何ら変わりないように『鉄仮面の乙女』風織 紡(CL2000764)には思えた。
「斤量の制約から解き放たれてますからね。こりゃ買い時ですよ」
迫り来る妖の気配を前に紡は黒鉄の仮面を被りながら、パドックを眺めている時の独特の緊張感を思い返して嘯く。
「ま、それはそれとして、しっかり囲んでやるです」
特注のナイフを手に、隙間の空いた方角を埋めるように前へ。
猛進してきた妖は挨拶代わりに、真正面に立つ覚者――タヱ子へとその巨体を卓越した速度に任せてぶつけ、一切の加減なく駆け抜けると、くるりとUターンして再度突撃。
盾の後ろに隠れて衝撃を緩和するタヱ子は、弾き飛ばされないように大きく足に力を込める。激しく踏み締められた足元の芝生がべろりと捲れ上がる。
「……耐えはしましたが、無視できるほどではないですね」
ずば抜けた頑丈さを誇る彼女ではあるが、その代償として敏捷性を捧げている。此度の機動力に長けた妖相手ではほぼ確定で手数の面で遅れを取ることになる。
もっとも、『相手だけが続けて行動できる』というのは、何も不利益のみではない。
攻撃を与えた側である妖の体に、二つ擦り剥けたような跡が残されている。すなわち、タヱ子が秘密裏に展開していた超硬度の防護壁との衝突によって、少なからず抵抗を受けていたのだ。直接的な攻撃手段を持たないタヱ子からすれば、希少なダメージ源である。
「だけど、本当は……」
傷つけるのが辛い。こうするしかないとは理解していても、タヱ子は自責の念からか下唇を噛む。サラブレッドの血統ゆえに生まれながらに競走馬としての期待を背負った彼は、言うなれば人のために命を費やしてきたのと同じ。そんな生涯を送ってきた馬を、人の手によって殺さなくてはならない。いくら現在は妖化してしまっているとはいえ、そう考えると心苦しかった。
「ヨユーとガマンは別だわ。転ばぬ先の杖はイカガかしら?」
状態を見て夏美が治癒の術を封じた水滴を届け、タヱ子の頭上に降り注がせる。滴は優しくシャワー状に広がり、全身に掛かっていた負担を跡形もなく消し去った。
「……ありがとうございます」
「デキる女はいつだって冷静であるべきなのよ」
夏美は一度タヱ子に視線を送ってから妖を見やる。ダスクサファイア――それが妖の元となった競走馬の名前だ。馬自身も忘れてしまっているその名を、夏美は胸に留める。
強攻を止めて一時休息する妖に、予期せぬ方向から刺突が飛ぶ。ただの一撃では終わらず、それは瞬きほどの刹那に二度妖の体を突き刺した。早業を繰り出したのは揚々と西洋の槍を担いだ『だく足の雷鳥』風祭・雷鳥(CL2000909)。
「いい走りっぷりじゃない。よっぽど暇してたのね」
敵の動向を見計らった覚者達が徐々ににじり寄り、包囲を完成させる。他方で雷鳥は一旦微妙に距離を取り、ヒットアンドアウェイの姿勢を窺わせる。
「わたしも最近すっとろい連中ばかりで飽き飽きしてたから、好都合ってもんさ。いいぜ、好きなだけ付き合ってやんよ。加速した命が燃え尽きるまでね」
ニッと口角を上げた快速自慢の獣憑の足は、走ることに特化した――しなやかな筋肉で構成される馬の脚部のそれであった。
「ワーオ、本当に大きな馬デスネー!」
足を止めた妖を、『恋路の守護者』リーネ・ブルツェンスカ(CL2000862)はやや離れた位置から、好奇心を持って観察する。規格外の体躯こそ変異の影響ではあるが、威風堂々とした居振る舞いや光沢のある毛並み、微風でもなびく艶やかな鬣からは、サラブレッドが本来持つ気品も見て取れた。
「私も一度ダスクちゃんに乗ってみてリーネ軍を率いてみたいデスネー! ……でもソレはちょっと無茶なお願いカモデスネー」
妖は猛り狂った声でいななき、混濁した瞳で覚者達を睨みつけた。
外観以上に、人間に対しての高すぎる敵愾心が自然界の動物から大きく逸脱している。退治の他に手段はない。愛護の感情ではどうすることも出来ないのは、リーネ自身も承知していた。
「あっという間に来るからぬくぬくしてる暇もなかったじゃん! まったく急かしてくれるぜ!」
直刀の峰で肩を叩く不死川 苦役(CL2000720)が妖の顔を見上げる。
英霊の力の証である真紅の双眸が凶悪な妖の眼と交錯する。
「覚悟しな馬面! 綺麗に捌いて美味しい馬刺しにしてや……やっぱ血抜き面倒だからパスね!」
口ではそう言うが苦役の狙いは着実に体力を消耗させるための外出血である。射程を確認してから細身の愛刀で斬りつけ、禍々しき刃を剛性の体毛で覆われた皮膚に届かせる。そこで留まることなくもう一段階押し込み、皮下肉まで裂いた――感触が確かにあった。掌全面に伝わってきた手応えに、苦役は唇を歪めて満足げにカッカと喉を鳴らす。行動はすぐさま目に見える結果として表れ、妖側面に刻まれた傷口から粘ついた血液が零れ落ち始める。
「……行くわよ、開眼」
同様に搦め手で仕掛けるのは、五指を開いた左手に第三の目を浮かび上がらせる術士、ありす。針穴を穿つような鋭い眼光を具象化させて一直線に伸ばし、遠く離れた妖に照射する。
「アタシはすぐにでも帰りたいの。呪われてくれるまで続けるんだから、早く折れたほうが楽よ」
アンタも余計に苦しみたくはないでしょう、とありすは頑固な眼差しで諭した。
「引退が悔しかったのも分かるし、ストレス溜まってるのも分かってやれるけど、妖になってしもうた以上は討たん訳にはいかんからな。堪忍やで」
このまま攻めを継続したい凛が狙いをつけたのは競走馬の生命線である脚。その部位目掛けて、素早く二連続の攻撃を叩き込む――凛の家系の流派で呼ぶところの『廻焔』を喰らわせる。
皮膚を切り裂いた鋭利な感覚と、強く跳ね返してくる反発が同時に刀を通して伝わった。
「硬いな。流石に長年鍛えとるだけあるわ」
生物系の妖は自らの筋肉そのものが鎧である。一太刀で断てるほど柔ではない。
「なら二発、三発、お見舞いしてやるですよ。単賞より複賞のほうが当てやすいのと同じです。あたしは配当のでっかい買い方のほうが好きですけど」
突剣に持ち替えた紡が英霊の力を乗せた重い斬撃を浴びせ、着々とダメージを累積させる。『プロパル』で保護された純白のワンピースは激しい戦闘の最中だというのに泥撥ねのひとつもなく、無論、返り血にも染まっていない。ただひたすら思考を暴走させて、刃物を振り回す暴虐的なスタイルで、内に秘めた衝動に突き動かされるまま暴力に没頭する。そうしている間の紡の瞳は依然として、片耳に付けたイヤリングに類した純真無垢なエメラルドの輝きを放っている。
包囲が成立しているこの好機を逃してはならないと、中衛からリーネは照準を合わせる。書物のページを開き、そこに記された因子の技を唱える。
「ウーン、動物に向けて撃つのはヤッパリ心が痛みマスガ……ダスクちゃん、ゴメンデスヨ!」
戸惑いながらも波動弾を発射するリーネ。命中と同時に妖が苦悶に満ちた鳴き声を漏らした。自身の固有属性である土行のみならず水行にも精通しているリーネが、二つの術式を扱い、二つの力を転化させられる優れた能力者ということもあり、発生した波動の威力は絶大。加えて驚異的なのはその燃費の良さで、負担はごく少量である。
「やられてクレマシタカネー?」
不安げに様子を窺ってみるリーネだったが、妖の殺戮本能は未だ削がれていない。前足で軽く芝を蹴る仕草をした後、その場を巡回するように疾走して群がる覚者達をまとめて弾き飛ばす。その攻撃は後方に控える夏美とありすには届かなかったが、大きく戦況を掻き乱した。
「いい加減引っ掛かってよね!」
ありすが幾度目かの怪光線を発射する。
「まだ虫の居所が収まらないなら、受けて立ちます」
防衛線をガッチリと固め、突破されまいと大盾を手に身構えるタヱ子。せっかく築いた優位を手放すわけにはいかない。後ろ足で蹴りを入れられるが、それも防ぎ切る。
「うわ、っとぉ!? こいつよー、陣形崩す気満々じゃんか! その手には乗るか! 絶対包囲解いてやんないからな! 追っかけるのしんどいし!」
妖が辺り構わず走り回る陰で苦役は芝生上に花を生成し、そこから漂う独特の臭気を嗅がせることで脱力を試みる。身体機能を緩慢にさせる花の香りで溢れた区間を走っているうちに妖は違和感を覚えたらしく、足を止めた後もしきりに鼻の辺りと、そして爪先を気にする。
明らかに集中力が欠かれていた。
呪いをもたらす光線を撃ち続けたありすの根気が実を結んだのもあるだろう。
「これって多分センザイイチグーよね。でも焦りはキンモツ。今のうちに治療するわね」
自軍の怪我の状況をチェックしながら的確に回復を行う夏美。鞘に納めたままの杖刀をステッキのように軽やかに振り、前衛が満遍なく追っていた傷を広範囲に渡る『癒しの霧』で一気に立て直す。その甲斐あって、敷いていた包囲網が崩れる事態には至らなかった。
夏美は息を荒げる妖に視線を送る。
「記憶がなくなっちゃったって、アナタはダスクサファイアなのよ」
妖は目の色を変えていた。まだ走れる――その強い意志だけで自らを奮い立たせている。
「そうやって走り続けたいって思ってるのがショーコよ。だからワタシ、アナタをダスクって呼ぶわね。走り足りないなら走れば良い。ワタシ達がアイテしたげる」
蹄が大地を蹴る音が響いた。怒涛の勢いで妖が強行突破に打って出る。
「でも、こっちにだけは行かせないんだから!」
●未完の大器の完結
残る気力を振り絞って全速で駆け出した妖の推進力たるや凄まじく、眼前に立っていた凛を跳ね飛ばし、そのままの勢いでリーネをも巻き込んだ。
土の鎧を緩衝材にしていたリーネは、突進自体は上手くいなして致命傷を免れたものの――
「アリャリャ、ダスクちゃんが行っちゃいマシタネー!」
強引に戦線を打開した妖の後背部が徐々に遠のいていく光景を目の当たりにする。
「おわっとと、ほんま暴れ馬にはかなわんわ」
凛は激突によって生じた痛みに若干顔をしかめるも、研ぎ澄まされた平衡感覚を頼りに体勢を保ち、決して転倒はしなかった。そのまま前傾姿勢になり、袴の裾を絞って走り始める。
「追うで!」
「え~!? 走んの!? 俺現代っ子だから体力ないっての!」
と言いながらも苦役も続く。とはいえ、『韋駄天足』を所持する凛と、その更に先を行く妖には追いつけない。仕方なく茨が張り巡らされた植物の種を剣先から射出し、遠距離から攻めの手を重ねる。
「今からで……間に合うでしょうか?」
同じく『韋駄天足』を持つタヱ子だったが、対応に遅れてしまった。一歩目に数秒ばかりのタイムラグがある――それは競争において致命的な差。
妖が向かう先は夏美のいる地点。持久戦を担っているのはこの者だと野性の本能で嗅ぎつけた。
「ダスク! 自分が何だったか思い出して!」
少女の声は理性を失った獣には届かない。
しかし、夏美を目指した妖の足取りもまた。
目的地までには及ばない。
辿り着くことが出来なかった。
回転していた脚部の動作は遮られた。鋭いカカト蹴りの一撃によって。
妖は不意に加えられた負荷に足を掬われ、横倒しになる。
「走るだけで戦えるなんてうらやましい生物だねぇ。こちとらいちいち技使わないといけないってのに」
妨害に成功したのは逸早く参上した雷鳥であった。得物を地面に突き立てた神速の女傑は四肢の中で唯一ヒトが残っている左手の指を折り曲げ、骨を鳴らす。
「流石の速さだね、でも残念、相手は史上最速の風祭雷鳥さんだよ、逃げられるわけないっしょ」
妖が体を起こす様子を眺めながら、右手のスモールシールドを翳して告げる。
「しかしこの牧場、すっげー走りやすいね。馬用なだけあって午の獣憑のわたしにも適してるんだねぇ……ん? なに怪訝そうな顔してるのさ。別にあんたより足が速かったわけじゃないよ」
ただ、と雷鳥は勝ち誇る。
「反応の速さで勝ってたってだけ」
動体視力を背景に相手の出方を察することが出来れば、先の先を取れる。要は単純にスタートを切る早さで上回っていた、というカラクリだ。
「もう! そんな突っ込んできたら風で寒いじゃないの!」
ありすは風を切って走り寄ってきた妖に大層立腹した様子だった。もっともそれは身の危険を感じてというよりは、寒風に煽られたことに対する苛立たしさのようである。
「存分に罰を受けることね。さあ、燃やしてあげるわ。覚悟なさい」
開眼していない右手から、自身の髪色と同じ、澄んだ緋色の火を放つありす。灼熱の炎は火の粉を撒き散らしながら妖の体表面を覆う毛と鬣を無慈悲に焼き払う。勝気な言動をしているだけあって、術式の扱いには覚えがあるようだ。凄絶な燃焼作用である。
「どんな名馬もいつかは引退するもんよ、あんたはそのタイミングが悪かっただけだね」
身悶えする妖に向けて、雷鳥が鋭く尖った槍の先端を突きつける。
即死できるよう心臓部に狙いを定める。
雄叫びを上げるかのごとく勇ましく背筋を反らして反動を付けてから放たれたその攻撃は、人の力を超えた獣の因子スキル『猛の一撃』。
それは同じ馬の性質を持つ雷鳥からの、せめてもの餞なのかも知れない。
「はぁ、はぁ……馬は好きですけど、追いかけっこは疲れます」
凛とタヱ子に続いて、ようやく雷鳥に追いついた紡は汗を拭う。時間にして十数秒ほどではあるが、その間に戦局は終幕を迎えていた。息つく間もないとはこのことだろう。
突進による被害は、夏美に代わってリーネが味方の回復を済ませている。尾を引くダメージは残っていなかった――表面上は。
妖の死骸は穏やかではなかった。美しかった青毛の皮膚には幾つも傷が刻まれ、汚泥めいた血で塗り潰されている。絶命したことで肥大化していた身体が通常の生物大まで萎縮しているのも悲壮さに輪を掛けた。
「仕方ないとはイエ、ヤッパリやり切れマセンネー!」
リーネには胸の中を埋め尽くすもやもやとした感情のぶつけ先が分からなかった。元々がただの馬である生物を手に掛けたことを、動物好きの彼女はどうしても痛ましく思ってしまう。
弔ってやることしか出来ない、と雷鳥はどこか寂しげに言うと、生き様に敬意を示して静かに瞼を閉じた。
よく似たもどかしさを覚えたタヱ子は遺体の傍で手を合わせる。
「名前で呼ばせてください……ごめんなさい、ダスクサファイア」
「あんたの走り、心に刻ませてもろうたで」
俯いていた凛は顔を上げて鎮魂歌を口ずさむ。
「ダスク、ねえダスク。アナタの名前よ? それくらいは憶えときなさいよ」
夏美の口ぶりからは悔しさが滲んでいた。かつての名馬はダスクサファイアとしては死ねなかった。だからせめて、自分だけでも彼の形跡を記憶しておかなければならない。自分まで忘れてしまったら、ダスクサファイアとして葬ることも出来なくなってしまう。
「忘れたまま……なんて……ゼッタイ! ダメだもの!」
そこで涙腺が一気に緩んだ。ドライに徹し切れない夏美の頬を人肌の滴が伝う。何かの死に面して背伸びし続けることは、十歳の少女には酷だった。
かくして走ることを宿命づけられた種の血は絶えた。
覚者が戦い続けることを運命として与えられた存在かは、誰にも分からない。
