魂の煤
●燃え尽きる瞬間まで
麓に向けて吹き降ろしてくる六甲の緑風も、この時期ばかりは不愉快な熱気を含んでいた。
「ああ、ちくしょう。ちっとも涼しくなんかなりゃしないじゃないか」
木々の生い茂る散歩道をのそのそと歩いていた男が、半ば投げ槍になってぼやく。
無理もない。この暑さだ。街路に据えられた時計台の短針は十二を疾うに通り過ぎていたが、午後からは日も翳って穏やかになる、なんてこともなく、気温は上がり続ける一方だった。関西の避暑地として名高いここ六甲山といえども、連日の酷暑を綺麗さっぱり冷ましてくれるわけではない。
それでもまだ、豊かな自然の存在が鬱陶しさを和らげてくれてはいた。道脇に生えた不揃いな背丈の野草にしても、四方に立ち並ぶ椎の木にしても、遥か見上げた先の斜面に広がる山林にしても、鮮やかな新緑の色合いには爽快感がある。
足を止めて一度上げた視線のままで周囲を見てみると、木肌に張りついている蝉の抜け殻を発見した。
「そうか、もうとっくに蝉の鳴き始める頃なんだな」
その儚げな容貌にどことなく郷愁を覚える。
一方で、木々の根元に転がる蝉の死骸には微塵も興味を示さなかった。むしろ、それが忌まわしい存在であるかのように、積極的に視界から遠ざけてさえいた。
不思議な話だ。どちらも蝉が生きた証であるというのに、片方は夏の風物詩で、もう片方は気にも留められないどころか道端の塵の一種と化している。
強い風が吹き、抜け殻がカサリとごく小さな音を立てて落下した。木から剥がれ落ちた抜け殻は誰に知られることもなく草叢へと転がっていく。
仰向けの死骸だけが相変わらず命の名残を主張している。
ブウン――と、大振りな音が樹木上方で鳴った。葉が風で揺れる音にしては鋭く、鳥が飛び立つ音にしては重々しい、どこか不穏な気配を滲ませた響きだった。
居合わせた通行人がその音に気づいた時、首筋に何やら冷たい感触が降り注いできた。それが雫状の液体が上から垂れてきたためだと理解するまでやや時間を要した。
そして理解した時には、既に激しい吐き気と眩暈感に襲われていた。力なくよろめいて幾度も膝をつきそうになる。先程まで散々倦厭していた暑気すら忘れてしまうほどに苦悶する。
彼には知る由もない。この体調不良の原因を。液体を浴びた首筋の皮膚から、悪性の毒が体内に浸透してきていることを。
ブウン。また不気味な低音が響いた。今度は更に近くで聞こえた。
音の出所がようやく定かになった。霞んだ目で見た『それ』は、確かに羽を持つ昆虫の形をしていた。だが自然界に生息する昆虫にしては違和感を覚えるくらいに巨大で、そして何より不可解なのは、常識から外れた、殺気に満ちた速度で飛行していることだ――真っ直ぐに、こちらへと。
恐ろしかった。
溢れんばかりの生命力を剥き出しにして迫りくる飛来者を前にし、自身がひどく矮小な生き物であるかのように思えた。
けれど恐怖は持続しなかった。悲鳴を上げるほど精神的に追い詰められるより先に、『それ』は硬い図体を飛行する勢いのまま通行人の側頭部に叩きつけ、意識を奪い去っていったからである。
その激しい衝突が、何よりも強く。
何よりも強く燃え滾る魂の所在を訴えていた。
●夢見る者
「虫捕り。いいですねぇ、楽しそうで」
夏休み中の妹から貰ったという写真を見つめながら、椅子に座した久方 真由美(nCL2000003)は微睡むような表情をして呟いた。
大自然の中、虫捕り網片手にピースサインを見せる、弾けるような笑顔の少女が写っていた。なんでも先日クラスメイトと一緒に行ったキャンプでの一幕らしい。
「だけど、こっちの虫捕りはあまり楽しいものではないかも知れませんね」
柔和な顔つきのまま少々困ったように眉だけを寄せた。
ここは、覚者団体『F.i.V.E.』の活動のため五麟大学内に開放された研究室の一室である。起こり得る未来を夢として察知できる特殊な『儚』の因子を持つ真由美の呼びかけで集まった覚者たちも、それぞれ椅子に腰掛け、彼女の予見に耳を傾けていた。
「兵庫県の六甲山という地域に、妖が群れで現れるみたいです。この妖の付近で大声を出したり、長時間滞在したりすると、習性で襲い掛かってくると推測されます。それなりに人の通る場所ですから、放置は出来ません。被害の出る前に対処をお願いします」
夢の内容をまとめた手書きのメモに時折視線を送りながら説明を続ける。
「妖は虫の姿――もっと言うと、セミを大きくしたような姿をしています。原型がセミですので自由自在に飛び回りますし、動きの早い個体のようですから、くれぐれもご注意を」
ただ、と付け加える。
「攻撃自体は然程苛烈ではなさそうですね。体内の毒性物質を排出してくることもあるようですが、十分警戒していれば問題ないかと思います」
総じて、強力な個体ではないらしい。知性も低く集団での連繋もないとのことだ。
「あっ、そうそう。最後にひとつ、忠告です。『F.i.V.E.』の存在については内密にお願いしますね。他の隔者組織に動きを悟られかねませんから」
真由美は片目を閉じ、顔の前でぴんと人差し指を立ててみせた。
麓に向けて吹き降ろしてくる六甲の緑風も、この時期ばかりは不愉快な熱気を含んでいた。
「ああ、ちくしょう。ちっとも涼しくなんかなりゃしないじゃないか」
木々の生い茂る散歩道をのそのそと歩いていた男が、半ば投げ槍になってぼやく。
無理もない。この暑さだ。街路に据えられた時計台の短針は十二を疾うに通り過ぎていたが、午後からは日も翳って穏やかになる、なんてこともなく、気温は上がり続ける一方だった。関西の避暑地として名高いここ六甲山といえども、連日の酷暑を綺麗さっぱり冷ましてくれるわけではない。
それでもまだ、豊かな自然の存在が鬱陶しさを和らげてくれてはいた。道脇に生えた不揃いな背丈の野草にしても、四方に立ち並ぶ椎の木にしても、遥か見上げた先の斜面に広がる山林にしても、鮮やかな新緑の色合いには爽快感がある。
足を止めて一度上げた視線のままで周囲を見てみると、木肌に張りついている蝉の抜け殻を発見した。
「そうか、もうとっくに蝉の鳴き始める頃なんだな」
その儚げな容貌にどことなく郷愁を覚える。
一方で、木々の根元に転がる蝉の死骸には微塵も興味を示さなかった。むしろ、それが忌まわしい存在であるかのように、積極的に視界から遠ざけてさえいた。
不思議な話だ。どちらも蝉が生きた証であるというのに、片方は夏の風物詩で、もう片方は気にも留められないどころか道端の塵の一種と化している。
強い風が吹き、抜け殻がカサリとごく小さな音を立てて落下した。木から剥がれ落ちた抜け殻は誰に知られることもなく草叢へと転がっていく。
仰向けの死骸だけが相変わらず命の名残を主張している。
ブウン――と、大振りな音が樹木上方で鳴った。葉が風で揺れる音にしては鋭く、鳥が飛び立つ音にしては重々しい、どこか不穏な気配を滲ませた響きだった。
居合わせた通行人がその音に気づいた時、首筋に何やら冷たい感触が降り注いできた。それが雫状の液体が上から垂れてきたためだと理解するまでやや時間を要した。
そして理解した時には、既に激しい吐き気と眩暈感に襲われていた。力なくよろめいて幾度も膝をつきそうになる。先程まで散々倦厭していた暑気すら忘れてしまうほどに苦悶する。
彼には知る由もない。この体調不良の原因を。液体を浴びた首筋の皮膚から、悪性の毒が体内に浸透してきていることを。
ブウン。また不気味な低音が響いた。今度は更に近くで聞こえた。
音の出所がようやく定かになった。霞んだ目で見た『それ』は、確かに羽を持つ昆虫の形をしていた。だが自然界に生息する昆虫にしては違和感を覚えるくらいに巨大で、そして何より不可解なのは、常識から外れた、殺気に満ちた速度で飛行していることだ――真っ直ぐに、こちらへと。
恐ろしかった。
溢れんばかりの生命力を剥き出しにして迫りくる飛来者を前にし、自身がひどく矮小な生き物であるかのように思えた。
けれど恐怖は持続しなかった。悲鳴を上げるほど精神的に追い詰められるより先に、『それ』は硬い図体を飛行する勢いのまま通行人の側頭部に叩きつけ、意識を奪い去っていったからである。
その激しい衝突が、何よりも強く。
何よりも強く燃え滾る魂の所在を訴えていた。
●夢見る者
「虫捕り。いいですねぇ、楽しそうで」
夏休み中の妹から貰ったという写真を見つめながら、椅子に座した久方 真由美(nCL2000003)は微睡むような表情をして呟いた。
大自然の中、虫捕り網片手にピースサインを見せる、弾けるような笑顔の少女が写っていた。なんでも先日クラスメイトと一緒に行ったキャンプでの一幕らしい。
「だけど、こっちの虫捕りはあまり楽しいものではないかも知れませんね」
柔和な顔つきのまま少々困ったように眉だけを寄せた。
ここは、覚者団体『F.i.V.E.』の活動のため五麟大学内に開放された研究室の一室である。起こり得る未来を夢として察知できる特殊な『儚』の因子を持つ真由美の呼びかけで集まった覚者たちも、それぞれ椅子に腰掛け、彼女の予見に耳を傾けていた。
「兵庫県の六甲山という地域に、妖が群れで現れるみたいです。この妖の付近で大声を出したり、長時間滞在したりすると、習性で襲い掛かってくると推測されます。それなりに人の通る場所ですから、放置は出来ません。被害の出る前に対処をお願いします」
夢の内容をまとめた手書きのメモに時折視線を送りながら説明を続ける。
「妖は虫の姿――もっと言うと、セミを大きくしたような姿をしています。原型がセミですので自由自在に飛び回りますし、動きの早い個体のようですから、くれぐれもご注意を」
ただ、と付け加える。
「攻撃自体は然程苛烈ではなさそうですね。体内の毒性物質を排出してくることもあるようですが、十分警戒していれば問題ないかと思います」
総じて、強力な個体ではないらしい。知性も低く集団での連繋もないとのことだ。
「あっ、そうそう。最後にひとつ、忠告です。『F.i.V.E.』の存在については内密にお願いしますね。他の隔者組織に動きを悟られかねませんから」
真由美は片目を閉じ、顔の前でぴんと人差し指を立ててみせた。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.敵の全滅
2.なし
3.なし
2.なし
3.なし
深鷹(みたか)と申します。いよいよβシナリオ公開、アラタナルでの初依頼掲示ということで自分自身ドキドキとワクワクが混在しております。よろしくお願いします。
●目的
★妖四体の討伐
●地理について
★兵庫県・六甲山
標高1000m弱ある山塊地帯ですが、今回は比較的低地にあるハイキングコースが現場となります。
周囲には植物が繁茂していますが、通り道となる足場は舗装されているため、特に不備はありません。昼間であれば見通しもよく、夜間なら通行量が少なくなります。
歩行者に開放された区域なので道幅も十分です。脇道にそれて林間部に出ることもできますが、その場合は回避に若干のマイナス修正が掛かります。
時間帯の指定はありません。
●敵について
★妖(生物系) ×4
セミをそのままサイズアップさせたような外見です。体長は50cmほど。
開始時は樹木に留まっていて、人間の気配をはっきりと認識すると攻撃に転じてきます。
常時浮遊しており地形効果は受けません。最大で5mの高度まで飛ぶことができます。飛行中はPCと同様の判定が行われます。
速度に優れていますが攻撃面・防御面は並です。攻撃手段は力任せにぶつかってくる『体当たり』と、上空から毒素を含んだ体液を投下する『無礼』の二種類で、これらをランダムに繰り出します。
知性はなく、本能のままに行動します。それゆえ例外的な行動パターンは存在しません。
ランク1。
『体当たり』 (物/近/単)
『無礼』 (特/遠/単/毒) ※低威力・低命中
『飛行』 (P/自)
今回はβシナリオということで、あまり難しい依頼ではありません。ただただシンプルに出てきた敵を全滅させれば成功です。
それではご参加お待ちしております。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:0枚 銅:0枚
金:0枚 銀:0枚 銅:0枚
相談日数
7日
7日
参加費
0LP[+予約0LP]
0LP[+予約0LP]
参加人数
8/8
8/8
公開日
2015年08月17日
2015年08月17日
■メイン参加者 8人■

●終焉
「――どうぞ、蝉の亡骸なども、踏んではやらないように」
●暗路
昼間の焼けつくような猛暑は、日没を経て、しっとりと肌に纏わりつく湿った熱へと色合いを変えていた。涼気を帯びた風がその暑さを洗い流し、今がまさに静の時間帯であることを示していた。
夜の六甲山はざわめく木々の調べに包まれ、物々しい雰囲気に満ちている。日中登山者で溢れていたハイキングコースを行き交う人影の数も、今やほぼ零に等しい。
計測結果に『ほぼ』と、いささか曖昧な副詞が付随したのは、それが全くの無ではないからである。夜闇を裂く懐中電灯の光がいくつか並んで浮かんでいる。湖面を舞う蛍にも似た小さな光の群れが、ハイキングコース上部に向けて少しずつ登り詰めていっていた。
その明かりを麓で見上げる少女が一人。
「順調みたい、ですかね」
栗毛の少女はかろうじて確認できる光点に視線を送りながらも、黙々と自身の作業を進めていた。
「よし、っと。これで大丈夫……です、ねっ」
とある注意を促す看板を蛍光塗料付きのバリケードテープで囲んだ先に吊り下げ、登山道入り口の封鎖を済ませると、ひとまずは安心したかのような声を漏らした。
揺れる光の正体が、夜間活動中の覚者のものであることを、『花日和』一色 ひなた(CL2000317)は知っている。なぜならば自分もまた所属と目的を同じくする仲間であり、そして覚者であるからだ。その事実は背に生やした純白の羽がはっきりと物語っていた。
「うむ、十全でありましょう。さあ、いざ、次なる現場へ!」
張りのある声を上げたのは、共に封鎖任務に当たっていた『暁の脱走兵』犬童 アキラ(CL2000698)である。所属を改めてからの初登板ということで、相応に情熱を傾けている様子だった。
「いやそれにしても、久々の実戦! 腕が鳴りますな!」
「ええ……ですけど」
はりきった姿勢を見せるアキラに、ひなたは少し案じるような表情を見せる。
「夜の山は、少し神秘的で……それ故に、何処か空恐ろしくも感じられます、ね……」
先程掲げた看板に記されているのは『妖駆除中。立ち入り禁止』の文字。
覚者が活動しているということはすなわち、この地に妖の気配が漂っているからに他ならない。
「お元気ですね」
通行人の有無を確認後、他の覚者と合流すべくだらだらと続く遊歩道を進む途中、『鏡花水月』月光・ローゼ・橘(CL2000392)が、やや先を行くゴシカルな洋装に身を包む人物に声を掛けた。
「もちろん。だってまだまだ、若いもの♪」
呼ばれた『時の賢者』小矢尻 トメ(CL2000264)は淑やかに振舞ったが、嬉しそうな様子は隠し切っていなかった。軽やかに跳ねた語尾には無邪気さすら滲んでいた。
時の牢獄に囚われた容姿こそ幼い童女そのものだが、齢にすれば白寿を数年後に控える老婆である。しかしながら微塵も疲れた様子を見せずに健脚を飛ばしている。それは肉体的な若々しさもあるが、年長者として、次世代のために尽力したいと願う思慮深さゆえでもあった。
「うん。だけど、無理は禁物。転んじゃうといけないからね」
進行方向の視界を開くように、または足元に不備がないかを確かめるように、手にしたライトで辺りを照らす月光。
その明かりが不意に交わる。
照らし出された先に立つのは、黒服の男。
「橘か」
「赤坂さん!」
最上部の進入経路を塞ぎ終えたばかりの赤坂・仁(CL2000426)がそこにいた。その長身の陰からは、『青炎の道標』七海 灯(CL2000579)も顔を覗かせている。仁は太陽の沈んだ今も律儀にサングラスを外すことなく、無論、ネクタイを緩めるような真似もしない。
「こちらの事前処置は完了した。そちらは?」
仁の顔を見上げながらトメが首肯で答える。
「人、全然いませんでしたね」
灯が溜息がちに呟く。徒労というより、安堵に近い溜息だった。道中、誰と出くわすこともなかった。やはり遅い時間帯に臨んだことが功を奏したのであろう。
「それじゃ後は、妖退治だけかな?」
「でしたら、急ぎ合流しましょう。どうやら妖を呼び寄せるには足りないみたいですから」
左耳の裏に平手を翳した灯が、砂利を踏む音以外も聴き取ってみるよう身振りで伝える。
月光が耳を済ませてみると、微かにではあるが聴こえてきた。
それは確かに朴訥な歌を唱和する歌声だった。
●塵芥に非ず
高柳 美鈴(CL2000031)は然程歌唱力に自信があるわけではなかった。
けれどこうして皆で声を揃えて歌っていると、集団心理に背中を押されてか、気後れするような思いはどこか遠く彼方へと飛び去ってしまったかのような感覚になる。
これもある種のチームワークなのだろうと、美鈴は自身の胸の裡で咀嚼した。確かな連帯意識は個々を先導し、自然と歌声も溌剌としてくる。
やがて八人全員が合流すると、賑やかさは更に増した。
「しっかりと歌いましょ。ちゃんと大きな声じゃないと、妖に届かないかも知れないものね」
そう片目を閉じて語ったのはトメである。
「少し恥ずかしいけど、こういう風に歌うのも良いね」
「うむ。夏の夜にぴったりですな」
アキラと月光が歌の合間に軽い会話を交わす傍ら、『オスマンタスの逍遥』金木・犀(CL2000033)は合唱の輪から少し外れて、周辺の警戒を続けていた。当然妖の飛来に対してもだが、目撃者がいないかどうかにも意識を裂いていた。単なる覚者としてなら特別問題はないが、『F.i.V.E.』の存在を秘密裏にしておく必要がある以上、場合によっては、植物系守護使役の助力を得て記憶改竄することも念頭に置いておかねばならない。
仁もまた拳銃の引き金に指を掛け、警戒を強める。彩の因子による刺青の光がスーツ越しに透けているあたり、既に戦闘準備は整っているようだ。
照葉樹で彩られた暗緑に月光が混じる。深き夜闇が唯ひとつの象牙色を引き立たせている。
「……ああ」
嘆息めいた声を零す犀は、僅かな前兆を目ではなく肌に触れる空気の流れで感じ取った。
果たして歌い続けたことによる効果か、あるいは特定の場所に居続けたことによるものなのかは明瞭ではなかったが、いずれにせよ、『それ』は――妖は紛れもなく出現した。
ブウン、と。
方々で鳴り響いた騒々しい羽音が状況を変質させる。
限りなく蝉同然のフォルムをした四体の妖が、樹木を離れ宙へと浮かび上がった。
「来るっ……!」
即座にトンファーを握り締め臨戦態勢を取った灯の、制服の裾から覗く左腕に、淡い輝きを宿した白の紋様が走った。昂奮状態に因子が反応を示したことをありありと告げている。
皆に先駆けて反応した灯が最初に選択した行動は、内なる炎を焚き上がらせた『醒の炎』による身体能力及び動体視力の強化と、そして全身の発光であった。自らが光源となることで、見通しの悪い夜間戦闘においての礎を築く構えだ。
身体変化を起こしたのは何も灯だけではない。覚者達は各自、程度の大小こそあれど、因子に応じて戦闘に適した形態へと変容していた。
「装着! 戦斗機動!」
とりわけ、械の因子由来の機械化部位に加えて重厚な装甲服で全身を固めたアキラは、鉄壁の機動兵器を想起させる風貌を誇っていた。
背中の羽を大きく、悠々と広げ飛翔するひなたは、妖へと接近しその進攻を塞き止める。
「ええと、当たり前、ですけど、あまり、その、かわいくはない……ですね」
梟ほどもあるサイズをした昆虫の禍々しい容貌を前にして、少々困り顔を見せながらも、圧縮した空気で精製した弾丸による一撃を先制攻撃とばかりに見舞う。中空を浮遊する四体のうちの一体に命中し、堅実なダメージを負わせることに成功。
だが、妖がただ黙ってやられるだけの貧弱な存在であるならば、その危険性が日本全土に響き渡るはずがない。殺傷能力を有しているからこその脅威だ。此度彼女らが対峙している異形もまた、列記とした害的生命体である。特にこの連中は、破壊衝動という名の熱に浮かされて猛進する傾向が見られる。
妖どもは低空を保ったまま突進。前衛に立つ覚者のうち、アキラ、美鈴、ひなた、仁の四名が『体当たり』による物理攻撃を受ける。防御に長けた土行揃いのため、被害は現状のところは軽微であるが、かといって楽観視は出来ない。
だからこそ美鈴は攻勢に出る。
「私の力がどの程度のものなのか……この場を借りて見極めさせていただきます」
ブラウス越しに映る紫の透過光は、さながら胸に秘めた意志の発露のようであった。彼女にとってはこれが初めての実践であり、不安と緊張、そして少なからず期待する気持ちが渦巻いていた。
美鈴は、妖を目前に控えていても自分が驚くほど平静であることを認識した。その実情を考えられるだけの余裕さえ残っていた。とにかく今自分が最優先ですべき行動は、発光で戦線を支えている灯を守護することだろう。決断するや否や懐中電灯を大剣に持ち替え、刃で切りつけるというよりは鉄塊で叩き潰すように、精一杯の力でその刀身を地球外生物じみた妖の体躯へとぶつける。
反動。喰らわせたダメージに則した衝撃が手の平全面に広がる。
「あらあら、これは」
手応えは想像以上か、想像以下か。どちらにしろ、自分自身に戦う能力が十分にあることは確信できたようだった。
「……ああ、いえいえ、七海さんを守るのが目的、です。決して、自分の力の程度を試すためなどでは、ございません」
細めた目で美鈴は繕ってみせる。
仁は別段反応を示すことなく、ただ妖の様子のみを視界に収め、身体強化の持続が切れる前に『烈波』の精密射撃で反撃。ほぼ同時に、月光からの治癒術が届く。
「『無礼』だけは嫌だなぁ。だって蝉でご無礼って、ねぇ?」
少しだけ大人びた顔でわざとらしく苦笑しながら月光は呟くが、実際問題後衛にまで届く攻撃はこの布陣だと怖い存在だ。
中衛に位置する犀は黙々と自身の更なる防御力向上に努める。
「敵も一筋縄ではいきませんな! そうこなくては!」
自らを奮い立たせるアキラもまた、頑健な肉体を『蔵王』の鎧でより一層強固にした。
「……ふっ!」
トンファーで妖の突撃を受け止め、灯は歯を食い縛る。激突で生じた衝撃は、減衰を経てもなお武器の上から伝わってくる。常時発光で視界を確保し、その一方で高い反応速度を活かした先んじての味方のガードも行う彼女は、この戦況においては守りの要でもあった。
「飛ぶ暇も与えない」
対して攻めの要と呼べるのは、左右に陣取ったアキラと仁の両者である。攻撃対象を均一化し、連携して一体一体撃ち抜いていく様は壮観だった。
「可及的速やかに殲滅する」
「ご協力、いたします」
そこへ更にひなたが加勢するのだから、標的となった妖からすれば堪ったものではない。美しく真白いひなたの翼は、神性さえも漂わせている。その翼から放たれる空気弾も然り。鋭利極まりない威力を有しているというのに、清純な風としか言い表しようがなかった。
「二時の方角、撃てぇ! おお! 僭越ながら一機撃墜させていただきました!」
上々の戦果だとアキラは捉える。
後方からはトメと月光の二人が絶えず体力管理を行ってくれているので、万全の体制で臨むことが出来ていた。直接戦闘を行う覚者の躍動は、回復役の献身的な支援あってと言えよう。
「これならば……どうでしょう?」
力任せとも言える剣撃を幾度となく繰り返していた美鈴も、継続の甲斐あって妖の一体を斬り伏せることに成功した。体術のセンスに関しては彼女は屈指のものがある。『無頼』の重圧で動きを鈍らせ、相手の行動の上から叩く作戦も効いた。
ほぼ全てにおいて順調だった。唯一の懸念材料といえば、灯へのダメージの過剰蓄積と。
「っ! ……はぁ」
その灯のガードを担っている犀の状態だ。この二人に敵の攻撃機会が集中している。
「大丈夫ですか? あまりご無理は……」
アッシュの髪の少女に灯は声を掛ける。
「障りないよ。こんなのは掠り傷の範疇さ」
弱音を吐くことなく、ただひたすらに一対の盾を翳して妖の『体当たり』から耐え続ける。
血腥いことは嫌いだ。
覚醒した自分の手を見る度に、犀はそう思い返させられる。
それが身勝手な思想であることくらい、犀は重々承知している。けれど命を奪うという行為の責任の重さも、同じくらい理解している。
人も動物も、妖相手だって、この手で誰かを傷つけてしまうことへの恐怖が拭えない。
戦いに向いた性格があるのであれば、自分はそれに当て嵌らないだろう。
だから、せめて。せめて皆を守れる強固な盾にはなろう。
犀は身を呈して妖の突進を食い止める。
目の前で誰かが傷つけられることも嫌いだ。
「その気持ち、凄く分かるわ」
背中に浴びせられた台詞と共に、全身に刻まれた外傷が癒えていくのを犀は知覚した。
「私の前でもたくさんの人が通り過ぎていったもの」
振り向いた先に立っていたのは、長い手足を優雅に振るう令嬢。しなやかな金色の髪と深いブルーの瞳、そして時折見せる可憐さを残した挙措から、トメが覚醒した姿であることは明らかだった。
時の束縛から解き放たれたそれは、ありえたかも知れない自身の未来。夢とも現とも付かない姿。
「戦いはあんまり好きじゃ無いけれど、誰かが怪我をしちゃったらイヤだもの。辛い時はトメばあちゃんにお任せしなさい」
光を放つ灯の負傷状態には常に気を配っていたトメだったが、彼女を縁の下で支えている犀も同様に相当の負荷が掛かっていることを察したらしく、急ぎ治癒の霊力で満ち溢れた『癒しの滴』を送ったようだ。
「……ありがとうございます」
犀はそれ以上トメに向けての言葉を続けなかったが、その分態度で示した。盾を構え直し、味方を守衛し続ける意志を見せる。奮戦する若者の後ろ姿を見守るトメは、自然と頬を緩める。
淑女は自慢の脚をタンゴのように上げて、次なる符術を唱えた。
残る二体の妖には、集中砲火が降り注いでいた。当初四体で分散していた攻めの手が、単純計算で倍加しているのだから、それも当たり前の話だ。妖は死の淵に瀕してなお恐れを知らず果敢に向かってきていたが、飛ぶ高度は明らかに低下していた。
「殴る! 殴って殴って、殴りますぞ!」
アキラは今では肉弾戦を仕掛けていた。ほぼ常時身体強化を行っていたために、気力をかなり消耗していたが、体力はまだまだ有り余っている。
「たまには攻撃でも良い所を見せないとね!」
妖が半数に減った分、回復の手が空いた月光がいよいよ攻撃へと打って出る。よくしなる和弓の弦をきりきりと引き絞り、放つ。ただでさえ敵が衰弱していたところに、不意に飛ばした一撃。凛とした残心の余韻が、十分な手応えを証明していた。
「残るは一体。終わらせます!」
灯が気合を入れ直す。彼女が扱う炎行は、本来苛烈な攻撃を持ち味とする術式。その炎行の力を発現した『五織の彩』は、青い焔で灯のトンファーを包み上げた。蒼炎を帯びた得物を左腕で握り締めると、くるくると回転させ――。
振り翳し。
振り下ろし。
――叩きつける! 素早く、精緻に。
闇夜に二条の閃光が走った。それは灯の刺青と炎が、妖の腹部への最短経路を通過することで描いた、儚くも鮮やかな軌道だった。
墜落した妖の死骸に、不思議と惨めさは漂っていなかった。
それは魂が燃え尽きた後に残る煤だった。
●跡
「完遂か?」
「です、ね」
仁とひなたはそれぞれ取り外してきた看板を見せ合い、今回の依頼における全ての行程が完了したことを確認した。
看板の撤去も済ませ、帰り支度を始めようかという時、トメが持参した緑茶と和菓子を振る舞った。
「お疲れ様。トメばあちゃんも皆が無事で安心よ。少し、休憩していかないかしら?」
既にトメの容姿は立派な淑女から幼い少女のものに戻っている。ハイキングコースだけあって、足を休めるベンチの数には事欠かなかった。
「ご助力、ありがとうございました」
緑茶が注がれた容器を受け取りながら、癒し手のトメと、そして自身のガードを行ってくれた美鈴と犀に謝礼を述べる灯。
「いいの。私こそ感謝したいくらいだわ」
トメはふふ、と孫を見つめるような眼差しで微笑んだ。
ふと、麓側から足音が近づいてきていることに意識が向いた。懐中電灯を持ち、蛍光カラーの襷を肩に掛けた服装を見る限り、どうやら深夜の利用者らしい。丸きり涼しくなってから散歩する人達がいてもおかしくはない。
「……おや、貴方がたも夜のハイキングですか?」
犀は一瞬だけ警戒心を抱くが、すぐに解いた。この和やかな場面を目撃されたところで、ハイキング中に休んでいる登山者としか思われないだろう。
ひとつ息を吐くと、少しだけ物憂げな顔で彼らに告げる。
「夜道は視野が狭まります。足許にお気をつけて――どうぞ、蝉の亡骸なども、踏んではやらないように」
「――どうぞ、蝉の亡骸なども、踏んではやらないように」
●暗路
昼間の焼けつくような猛暑は、日没を経て、しっとりと肌に纏わりつく湿った熱へと色合いを変えていた。涼気を帯びた風がその暑さを洗い流し、今がまさに静の時間帯であることを示していた。
夜の六甲山はざわめく木々の調べに包まれ、物々しい雰囲気に満ちている。日中登山者で溢れていたハイキングコースを行き交う人影の数も、今やほぼ零に等しい。
計測結果に『ほぼ』と、いささか曖昧な副詞が付随したのは、それが全くの無ではないからである。夜闇を裂く懐中電灯の光がいくつか並んで浮かんでいる。湖面を舞う蛍にも似た小さな光の群れが、ハイキングコース上部に向けて少しずつ登り詰めていっていた。
その明かりを麓で見上げる少女が一人。
「順調みたい、ですかね」
栗毛の少女はかろうじて確認できる光点に視線を送りながらも、黙々と自身の作業を進めていた。
「よし、っと。これで大丈夫……です、ねっ」
とある注意を促す看板を蛍光塗料付きのバリケードテープで囲んだ先に吊り下げ、登山道入り口の封鎖を済ませると、ひとまずは安心したかのような声を漏らした。
揺れる光の正体が、夜間活動中の覚者のものであることを、『花日和』一色 ひなた(CL2000317)は知っている。なぜならば自分もまた所属と目的を同じくする仲間であり、そして覚者であるからだ。その事実は背に生やした純白の羽がはっきりと物語っていた。
「うむ、十全でありましょう。さあ、いざ、次なる現場へ!」
張りのある声を上げたのは、共に封鎖任務に当たっていた『暁の脱走兵』犬童 アキラ(CL2000698)である。所属を改めてからの初登板ということで、相応に情熱を傾けている様子だった。
「いやそれにしても、久々の実戦! 腕が鳴りますな!」
「ええ……ですけど」
はりきった姿勢を見せるアキラに、ひなたは少し案じるような表情を見せる。
「夜の山は、少し神秘的で……それ故に、何処か空恐ろしくも感じられます、ね……」
先程掲げた看板に記されているのは『妖駆除中。立ち入り禁止』の文字。
覚者が活動しているということはすなわち、この地に妖の気配が漂っているからに他ならない。
「お元気ですね」
通行人の有無を確認後、他の覚者と合流すべくだらだらと続く遊歩道を進む途中、『鏡花水月』月光・ローゼ・橘(CL2000392)が、やや先を行くゴシカルな洋装に身を包む人物に声を掛けた。
「もちろん。だってまだまだ、若いもの♪」
呼ばれた『時の賢者』小矢尻 トメ(CL2000264)は淑やかに振舞ったが、嬉しそうな様子は隠し切っていなかった。軽やかに跳ねた語尾には無邪気さすら滲んでいた。
時の牢獄に囚われた容姿こそ幼い童女そのものだが、齢にすれば白寿を数年後に控える老婆である。しかしながら微塵も疲れた様子を見せずに健脚を飛ばしている。それは肉体的な若々しさもあるが、年長者として、次世代のために尽力したいと願う思慮深さゆえでもあった。
「うん。だけど、無理は禁物。転んじゃうといけないからね」
進行方向の視界を開くように、または足元に不備がないかを確かめるように、手にしたライトで辺りを照らす月光。
その明かりが不意に交わる。
照らし出された先に立つのは、黒服の男。
「橘か」
「赤坂さん!」
最上部の進入経路を塞ぎ終えたばかりの赤坂・仁(CL2000426)がそこにいた。その長身の陰からは、『青炎の道標』七海 灯(CL2000579)も顔を覗かせている。仁は太陽の沈んだ今も律儀にサングラスを外すことなく、無論、ネクタイを緩めるような真似もしない。
「こちらの事前処置は完了した。そちらは?」
仁の顔を見上げながらトメが首肯で答える。
「人、全然いませんでしたね」
灯が溜息がちに呟く。徒労というより、安堵に近い溜息だった。道中、誰と出くわすこともなかった。やはり遅い時間帯に臨んだことが功を奏したのであろう。
「それじゃ後は、妖退治だけかな?」
「でしたら、急ぎ合流しましょう。どうやら妖を呼び寄せるには足りないみたいですから」
左耳の裏に平手を翳した灯が、砂利を踏む音以外も聴き取ってみるよう身振りで伝える。
月光が耳を済ませてみると、微かにではあるが聴こえてきた。
それは確かに朴訥な歌を唱和する歌声だった。
●塵芥に非ず
高柳 美鈴(CL2000031)は然程歌唱力に自信があるわけではなかった。
けれどこうして皆で声を揃えて歌っていると、集団心理に背中を押されてか、気後れするような思いはどこか遠く彼方へと飛び去ってしまったかのような感覚になる。
これもある種のチームワークなのだろうと、美鈴は自身の胸の裡で咀嚼した。確かな連帯意識は個々を先導し、自然と歌声も溌剌としてくる。
やがて八人全員が合流すると、賑やかさは更に増した。
「しっかりと歌いましょ。ちゃんと大きな声じゃないと、妖に届かないかも知れないものね」
そう片目を閉じて語ったのはトメである。
「少し恥ずかしいけど、こういう風に歌うのも良いね」
「うむ。夏の夜にぴったりですな」
アキラと月光が歌の合間に軽い会話を交わす傍ら、『オスマンタスの逍遥』金木・犀(CL2000033)は合唱の輪から少し外れて、周辺の警戒を続けていた。当然妖の飛来に対してもだが、目撃者がいないかどうかにも意識を裂いていた。単なる覚者としてなら特別問題はないが、『F.i.V.E.』の存在を秘密裏にしておく必要がある以上、場合によっては、植物系守護使役の助力を得て記憶改竄することも念頭に置いておかねばならない。
仁もまた拳銃の引き金に指を掛け、警戒を強める。彩の因子による刺青の光がスーツ越しに透けているあたり、既に戦闘準備は整っているようだ。
照葉樹で彩られた暗緑に月光が混じる。深き夜闇が唯ひとつの象牙色を引き立たせている。
「……ああ」
嘆息めいた声を零す犀は、僅かな前兆を目ではなく肌に触れる空気の流れで感じ取った。
果たして歌い続けたことによる効果か、あるいは特定の場所に居続けたことによるものなのかは明瞭ではなかったが、いずれにせよ、『それ』は――妖は紛れもなく出現した。
ブウン、と。
方々で鳴り響いた騒々しい羽音が状況を変質させる。
限りなく蝉同然のフォルムをした四体の妖が、樹木を離れ宙へと浮かび上がった。
「来るっ……!」
即座にトンファーを握り締め臨戦態勢を取った灯の、制服の裾から覗く左腕に、淡い輝きを宿した白の紋様が走った。昂奮状態に因子が反応を示したことをありありと告げている。
皆に先駆けて反応した灯が最初に選択した行動は、内なる炎を焚き上がらせた『醒の炎』による身体能力及び動体視力の強化と、そして全身の発光であった。自らが光源となることで、見通しの悪い夜間戦闘においての礎を築く構えだ。
身体変化を起こしたのは何も灯だけではない。覚者達は各自、程度の大小こそあれど、因子に応じて戦闘に適した形態へと変容していた。
「装着! 戦斗機動!」
とりわけ、械の因子由来の機械化部位に加えて重厚な装甲服で全身を固めたアキラは、鉄壁の機動兵器を想起させる風貌を誇っていた。
背中の羽を大きく、悠々と広げ飛翔するひなたは、妖へと接近しその進攻を塞き止める。
「ええと、当たり前、ですけど、あまり、その、かわいくはない……ですね」
梟ほどもあるサイズをした昆虫の禍々しい容貌を前にして、少々困り顔を見せながらも、圧縮した空気で精製した弾丸による一撃を先制攻撃とばかりに見舞う。中空を浮遊する四体のうちの一体に命中し、堅実なダメージを負わせることに成功。
だが、妖がただ黙ってやられるだけの貧弱な存在であるならば、その危険性が日本全土に響き渡るはずがない。殺傷能力を有しているからこその脅威だ。此度彼女らが対峙している異形もまた、列記とした害的生命体である。特にこの連中は、破壊衝動という名の熱に浮かされて猛進する傾向が見られる。
妖どもは低空を保ったまま突進。前衛に立つ覚者のうち、アキラ、美鈴、ひなた、仁の四名が『体当たり』による物理攻撃を受ける。防御に長けた土行揃いのため、被害は現状のところは軽微であるが、かといって楽観視は出来ない。
だからこそ美鈴は攻勢に出る。
「私の力がどの程度のものなのか……この場を借りて見極めさせていただきます」
ブラウス越しに映る紫の透過光は、さながら胸に秘めた意志の発露のようであった。彼女にとってはこれが初めての実践であり、不安と緊張、そして少なからず期待する気持ちが渦巻いていた。
美鈴は、妖を目前に控えていても自分が驚くほど平静であることを認識した。その実情を考えられるだけの余裕さえ残っていた。とにかく今自分が最優先ですべき行動は、発光で戦線を支えている灯を守護することだろう。決断するや否や懐中電灯を大剣に持ち替え、刃で切りつけるというよりは鉄塊で叩き潰すように、精一杯の力でその刀身を地球外生物じみた妖の体躯へとぶつける。
反動。喰らわせたダメージに則した衝撃が手の平全面に広がる。
「あらあら、これは」
手応えは想像以上か、想像以下か。どちらにしろ、自分自身に戦う能力が十分にあることは確信できたようだった。
「……ああ、いえいえ、七海さんを守るのが目的、です。決して、自分の力の程度を試すためなどでは、ございません」
細めた目で美鈴は繕ってみせる。
仁は別段反応を示すことなく、ただ妖の様子のみを視界に収め、身体強化の持続が切れる前に『烈波』の精密射撃で反撃。ほぼ同時に、月光からの治癒術が届く。
「『無礼』だけは嫌だなぁ。だって蝉でご無礼って、ねぇ?」
少しだけ大人びた顔でわざとらしく苦笑しながら月光は呟くが、実際問題後衛にまで届く攻撃はこの布陣だと怖い存在だ。
中衛に位置する犀は黙々と自身の更なる防御力向上に努める。
「敵も一筋縄ではいきませんな! そうこなくては!」
自らを奮い立たせるアキラもまた、頑健な肉体を『蔵王』の鎧でより一層強固にした。
「……ふっ!」
トンファーで妖の突撃を受け止め、灯は歯を食い縛る。激突で生じた衝撃は、減衰を経てもなお武器の上から伝わってくる。常時発光で視界を確保し、その一方で高い反応速度を活かした先んじての味方のガードも行う彼女は、この戦況においては守りの要でもあった。
「飛ぶ暇も与えない」
対して攻めの要と呼べるのは、左右に陣取ったアキラと仁の両者である。攻撃対象を均一化し、連携して一体一体撃ち抜いていく様は壮観だった。
「可及的速やかに殲滅する」
「ご協力、いたします」
そこへ更にひなたが加勢するのだから、標的となった妖からすれば堪ったものではない。美しく真白いひなたの翼は、神性さえも漂わせている。その翼から放たれる空気弾も然り。鋭利極まりない威力を有しているというのに、清純な風としか言い表しようがなかった。
「二時の方角、撃てぇ! おお! 僭越ながら一機撃墜させていただきました!」
上々の戦果だとアキラは捉える。
後方からはトメと月光の二人が絶えず体力管理を行ってくれているので、万全の体制で臨むことが出来ていた。直接戦闘を行う覚者の躍動は、回復役の献身的な支援あってと言えよう。
「これならば……どうでしょう?」
力任せとも言える剣撃を幾度となく繰り返していた美鈴も、継続の甲斐あって妖の一体を斬り伏せることに成功した。体術のセンスに関しては彼女は屈指のものがある。『無頼』の重圧で動きを鈍らせ、相手の行動の上から叩く作戦も効いた。
ほぼ全てにおいて順調だった。唯一の懸念材料といえば、灯へのダメージの過剰蓄積と。
「っ! ……はぁ」
その灯のガードを担っている犀の状態だ。この二人に敵の攻撃機会が集中している。
「大丈夫ですか? あまりご無理は……」
アッシュの髪の少女に灯は声を掛ける。
「障りないよ。こんなのは掠り傷の範疇さ」
弱音を吐くことなく、ただひたすらに一対の盾を翳して妖の『体当たり』から耐え続ける。
血腥いことは嫌いだ。
覚醒した自分の手を見る度に、犀はそう思い返させられる。
それが身勝手な思想であることくらい、犀は重々承知している。けれど命を奪うという行為の責任の重さも、同じくらい理解している。
人も動物も、妖相手だって、この手で誰かを傷つけてしまうことへの恐怖が拭えない。
戦いに向いた性格があるのであれば、自分はそれに当て嵌らないだろう。
だから、せめて。せめて皆を守れる強固な盾にはなろう。
犀は身を呈して妖の突進を食い止める。
目の前で誰かが傷つけられることも嫌いだ。
「その気持ち、凄く分かるわ」
背中に浴びせられた台詞と共に、全身に刻まれた外傷が癒えていくのを犀は知覚した。
「私の前でもたくさんの人が通り過ぎていったもの」
振り向いた先に立っていたのは、長い手足を優雅に振るう令嬢。しなやかな金色の髪と深いブルーの瞳、そして時折見せる可憐さを残した挙措から、トメが覚醒した姿であることは明らかだった。
時の束縛から解き放たれたそれは、ありえたかも知れない自身の未来。夢とも現とも付かない姿。
「戦いはあんまり好きじゃ無いけれど、誰かが怪我をしちゃったらイヤだもの。辛い時はトメばあちゃんにお任せしなさい」
光を放つ灯の負傷状態には常に気を配っていたトメだったが、彼女を縁の下で支えている犀も同様に相当の負荷が掛かっていることを察したらしく、急ぎ治癒の霊力で満ち溢れた『癒しの滴』を送ったようだ。
「……ありがとうございます」
犀はそれ以上トメに向けての言葉を続けなかったが、その分態度で示した。盾を構え直し、味方を守衛し続ける意志を見せる。奮戦する若者の後ろ姿を見守るトメは、自然と頬を緩める。
淑女は自慢の脚をタンゴのように上げて、次なる符術を唱えた。
残る二体の妖には、集中砲火が降り注いでいた。当初四体で分散していた攻めの手が、単純計算で倍加しているのだから、それも当たり前の話だ。妖は死の淵に瀕してなお恐れを知らず果敢に向かってきていたが、飛ぶ高度は明らかに低下していた。
「殴る! 殴って殴って、殴りますぞ!」
アキラは今では肉弾戦を仕掛けていた。ほぼ常時身体強化を行っていたために、気力をかなり消耗していたが、体力はまだまだ有り余っている。
「たまには攻撃でも良い所を見せないとね!」
妖が半数に減った分、回復の手が空いた月光がいよいよ攻撃へと打って出る。よくしなる和弓の弦をきりきりと引き絞り、放つ。ただでさえ敵が衰弱していたところに、不意に飛ばした一撃。凛とした残心の余韻が、十分な手応えを証明していた。
「残るは一体。終わらせます!」
灯が気合を入れ直す。彼女が扱う炎行は、本来苛烈な攻撃を持ち味とする術式。その炎行の力を発現した『五織の彩』は、青い焔で灯のトンファーを包み上げた。蒼炎を帯びた得物を左腕で握り締めると、くるくると回転させ――。
振り翳し。
振り下ろし。
――叩きつける! 素早く、精緻に。
闇夜に二条の閃光が走った。それは灯の刺青と炎が、妖の腹部への最短経路を通過することで描いた、儚くも鮮やかな軌道だった。
墜落した妖の死骸に、不思議と惨めさは漂っていなかった。
それは魂が燃え尽きた後に残る煤だった。
●跡
「完遂か?」
「です、ね」
仁とひなたはそれぞれ取り外してきた看板を見せ合い、今回の依頼における全ての行程が完了したことを確認した。
看板の撤去も済ませ、帰り支度を始めようかという時、トメが持参した緑茶と和菓子を振る舞った。
「お疲れ様。トメばあちゃんも皆が無事で安心よ。少し、休憩していかないかしら?」
既にトメの容姿は立派な淑女から幼い少女のものに戻っている。ハイキングコースだけあって、足を休めるベンチの数には事欠かなかった。
「ご助力、ありがとうございました」
緑茶が注がれた容器を受け取りながら、癒し手のトメと、そして自身のガードを行ってくれた美鈴と犀に謝礼を述べる灯。
「いいの。私こそ感謝したいくらいだわ」
トメはふふ、と孫を見つめるような眼差しで微笑んだ。
ふと、麓側から足音が近づいてきていることに意識が向いた。懐中電灯を持ち、蛍光カラーの襷を肩に掛けた服装を見る限り、どうやら深夜の利用者らしい。丸きり涼しくなってから散歩する人達がいてもおかしくはない。
「……おや、貴方がたも夜のハイキングですか?」
犀は一瞬だけ警戒心を抱くが、すぐに解いた。この和やかな場面を目撃されたところで、ハイキング中に休んでいる登山者としか思われないだろう。
ひとつ息を吐くと、少しだけ物憂げな顔で彼らに告げる。
「夜道は視野が狭まります。足許にお気をつけて――どうぞ、蝉の亡骸なども、踏んではやらないように」
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし
