造花の茨
●絶海
石膏を削り出す音だけが夜の工房を満たしていた。
埃塗れのアトリエの中央で、不健康を絵に描いたような痩せこけた形相の青年男性が彫像とひたすらに向き合い続けている。彫像は既に完成し切っているとしか思えないほど見事な仕上がりであり、艶かしい腰つきをした優美な女性の姿が象られていた。
にもかかわらず青年はナイフの使用を止めない。それどころか加熱していくばかりである。
丸みを帯びた部分はよりふくよかに、骨ばった部分はより華奢に、皮下に筋肉が透ける部分はよりしなやかに。幾ヶ所にも及ぶ石膏の面に対して様々な角度を付けてナイフを滑らせていく。
睫毛の一本一本まで彫り出そうかという徹底した仕事ぶりは、最早狂気としか言いようがない。
彫刻家が細部の調整に没頭する中、前触れもなく。
ぬるり、と。目の前にある無機質な石膏の塊が、独りでに動き出した。
青年は驚き、一度彫像から離れる。
それは人間と全く変わらない挙措だった。手足の動きに不自然さはなく、表情まで移ろいでいる。
――突如動き始めた像を眺める青年に、恐怖はなかった。むしろ底知れない喜びが俄かに沸き起こっていた。
「千紗? 千紗なのか!?」
逸る気持ちを抑えられぬまま彫像に呼び掛ける。返答はないが、しかし、自分がこの数年間頭の中に描き続けた姿を投影した彫刻品が、魂を吹き込められたかのように自在に動く様子を目の当たりにしては、冷静さを保ってはいられなかった。
現実的な光景ではない。けれど、そんなことはどうでもよかった。
常識的な物事の考え方なんて、込み上げてくる激情に身を窶し、残る人生の全てを彫刻に捧げることを決めた時点で、とうの昔に置き捨てているのだから。
「たとえ夢でも、こんな夢を見せてくれた神に感謝したい気分だ! 千紗、君は、孤独な僕を見兼ねて帰ってきてくれたんだな」
万感の思いで自らが彫り上げた作品を抱擁する。瞳を溢れ出る涙で濡らしながら。
女性の像は抱き寄ってきた青年の首の後ろに手を回し――。
そのまま強く締め付けた。
●命の輪郭
気鋭の彫刻家杉崎華深は比類なき俊才であると同時に理解し難いまでに病的だった。
誰との接触も持たず、寝食を忘れて何週間も工房に篭もるのはほんの序の口で、何よりも彼の仕事に向かう姿勢こそが常軌を逸していた。その製作工程は緻密を極め、傍目には過剰に思えるほど細部までナイフで意匠を凝らす。落ち窪んだ眼でじっと睨みつけて。
完璧主義者、と言えば聞こえはいいが、気の触れそうな長時間の作業を平然とこなせるあたり、どこか異常性を秘めていた。
だがそうして出来上がった作品は、隅々まで彫刻が施されているだけあって、さながら生命が宿っているかのごとき迫力を内蔵していた。モチーフが動物であれば今にも動き出しそうな躍動感が、人間であれば背徳的な美が、大々的に現れている。
特に、女性の柔らかな曲線を映し出した像の作成に力を注いでいた。
「そうするようになった契機が、三年前に起きた婚約者の死亡事故だそうです」
夢の内容から逆算して身辺調査を行った久方 真由美(nCL2000003)が、その結果をまとめた資料を読みながら告げる。
「とても皮肉な話です。彼が美術家として名前が売れ出したのも、恋人を亡くしてからなのですから」
生涯の伴侶と心に決めた女性の死。突然大きく胸に穿たれた喪失感を埋めるために、彫刻に対して異様な熱を込め出したことが、製作物の質の驚異的な向上に繋がったのだろう。
狂気の彫刻家はその実、悲壮な心象風景を作品を通して吐露する激情の表現者でもあった。
「今回、妖となったことが確認されたのは彼――杉崎華深の作品群です」
内訳は虎、大鷲、そしてかつての恋人の女性を模した石膏像。
「理性の類は皆無です。ただ、いずれも硬度が数段上昇していますから、根気強く攻撃し続けることが必要になるでしょうね。……像の損壊は避けられないとは思いますが、撃退が最優先です。討伐を経て依り代となった物体へと戻る事例もいくつか報告されてはいますが、絶対ではありません」
せっかく名の知れた彫刻家の一品だけに少々惜しい気もするが、やむなしといったところか。
「それでは、よろしくお頼みしますね」
早速妖退治の策を練り始めた覚者達に、真由美は柔和な笑みを向けた。
石膏を削り出す音だけが夜の工房を満たしていた。
埃塗れのアトリエの中央で、不健康を絵に描いたような痩せこけた形相の青年男性が彫像とひたすらに向き合い続けている。彫像は既に完成し切っているとしか思えないほど見事な仕上がりであり、艶かしい腰つきをした優美な女性の姿が象られていた。
にもかかわらず青年はナイフの使用を止めない。それどころか加熱していくばかりである。
丸みを帯びた部分はよりふくよかに、骨ばった部分はより華奢に、皮下に筋肉が透ける部分はよりしなやかに。幾ヶ所にも及ぶ石膏の面に対して様々な角度を付けてナイフを滑らせていく。
睫毛の一本一本まで彫り出そうかという徹底した仕事ぶりは、最早狂気としか言いようがない。
彫刻家が細部の調整に没頭する中、前触れもなく。
ぬるり、と。目の前にある無機質な石膏の塊が、独りでに動き出した。
青年は驚き、一度彫像から離れる。
それは人間と全く変わらない挙措だった。手足の動きに不自然さはなく、表情まで移ろいでいる。
――突如動き始めた像を眺める青年に、恐怖はなかった。むしろ底知れない喜びが俄かに沸き起こっていた。
「千紗? 千紗なのか!?」
逸る気持ちを抑えられぬまま彫像に呼び掛ける。返答はないが、しかし、自分がこの数年間頭の中に描き続けた姿を投影した彫刻品が、魂を吹き込められたかのように自在に動く様子を目の当たりにしては、冷静さを保ってはいられなかった。
現実的な光景ではない。けれど、そんなことはどうでもよかった。
常識的な物事の考え方なんて、込み上げてくる激情に身を窶し、残る人生の全てを彫刻に捧げることを決めた時点で、とうの昔に置き捨てているのだから。
「たとえ夢でも、こんな夢を見せてくれた神に感謝したい気分だ! 千紗、君は、孤独な僕を見兼ねて帰ってきてくれたんだな」
万感の思いで自らが彫り上げた作品を抱擁する。瞳を溢れ出る涙で濡らしながら。
女性の像は抱き寄ってきた青年の首の後ろに手を回し――。
そのまま強く締め付けた。
●命の輪郭
気鋭の彫刻家杉崎華深は比類なき俊才であると同時に理解し難いまでに病的だった。
誰との接触も持たず、寝食を忘れて何週間も工房に篭もるのはほんの序の口で、何よりも彼の仕事に向かう姿勢こそが常軌を逸していた。その製作工程は緻密を極め、傍目には過剰に思えるほど細部までナイフで意匠を凝らす。落ち窪んだ眼でじっと睨みつけて。
完璧主義者、と言えば聞こえはいいが、気の触れそうな長時間の作業を平然とこなせるあたり、どこか異常性を秘めていた。
だがそうして出来上がった作品は、隅々まで彫刻が施されているだけあって、さながら生命が宿っているかのごとき迫力を内蔵していた。モチーフが動物であれば今にも動き出しそうな躍動感が、人間であれば背徳的な美が、大々的に現れている。
特に、女性の柔らかな曲線を映し出した像の作成に力を注いでいた。
「そうするようになった契機が、三年前に起きた婚約者の死亡事故だそうです」
夢の内容から逆算して身辺調査を行った久方 真由美(nCL2000003)が、その結果をまとめた資料を読みながら告げる。
「とても皮肉な話です。彼が美術家として名前が売れ出したのも、恋人を亡くしてからなのですから」
生涯の伴侶と心に決めた女性の死。突然大きく胸に穿たれた喪失感を埋めるために、彫刻に対して異様な熱を込め出したことが、製作物の質の驚異的な向上に繋がったのだろう。
狂気の彫刻家はその実、悲壮な心象風景を作品を通して吐露する激情の表現者でもあった。
「今回、妖となったことが確認されたのは彼――杉崎華深の作品群です」
内訳は虎、大鷲、そしてかつての恋人の女性を模した石膏像。
「理性の類は皆無です。ただ、いずれも硬度が数段上昇していますから、根気強く攻撃し続けることが必要になるでしょうね。……像の損壊は避けられないとは思いますが、撃退が最優先です。討伐を経て依り代となった物体へと戻る事例もいくつか報告されてはいますが、絶対ではありません」
せっかく名の知れた彫刻家の一品だけに少々惜しい気もするが、やむなしといったところか。
「それでは、よろしくお頼みしますね」
早速妖退治の策を練り始めた覚者達に、真由美は柔和な笑みを向けた。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.妖の全滅
2.NPC保護
3.なし
2.NPC保護
3.なし
決戦、ハロウィン、とイベントが相次ぎましたが、今回は至って普通の依頼です。
F.i.V.E.の通常業務みたいなものですね。
●目的
★妖計四体の討伐
●現場について
★工房
20m正方、天井は5mほど。照明は完備されているので夜間でも視界は万全です。
壁際には多くの石膏像が陳列されています。
大型の像であればその背後に隠れることも可能ですが、攻撃が加えられると崩壊します。
作戦開始は0:00~となります。
★NPC『杉崎華深(すぎさき・かふか)』
20代男性。亡くなった恋人の像を一心不乱に彫り続ける狂人じみた彫刻家です。
NPCは時間帯に因らず工房内にいます。
●敵について
総じてランク1の物質系であり、秀でた耐久力を保持しています。
★物質系妖(人型) ×1
女性をモデルに作られた彫刻が妖となったものです。
動作は鈍重ですがその一撃は重いです。接近戦を挑む際は要注意。
『くびをしめる』 (物/近/単)
★物質系妖(獣型) ×1
虎をモデルに作られた彫刻が妖となったものです。
バランスの取れたステータスに加え、BS付のスキルも使ってきます。
『爪』 (物/近/単)
『牙』 (物/近/単/出血)
★物質系妖(鳥型) ×2
鷲をモデルに作られた彫刻が妖となったものです。
常時飛行。素早さに長けていますが、その分攻撃性能は低めです。
『滑空』 (物/遠/単)
解説は以上になります。
それではご参加お待ちしております。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
7日
7日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
8/8
8/8
公開日
2015年11月21日
2015年11月21日
■メイン参加者 8人■

●灰と爪痕
「杉崎さん、ここは危険です」
よく通る、清廉な声音だった。
「どうか、騒ぎが収まるまでお部屋の外で待っていていただくことは出来ないでしょうか」
黴と埃の臭いが充満するアトリエを、束の間静寂が包んだ。女性像に向き合っていた工房の主たる杉崎華深は、突然現れた来訪者に驚きと怪訝が入り混じった昏い瞳を返す。
だらしなく開いた扉の前で第一声を発した『エピファニアの魔女』ラーラ・ビスコッティ(CL2001080)は、整然と並んだ石膏像の、その全てに見つめられているような錯覚を受けた。
「彼女に関係があるのか?」
尋ね返す華深は、彫像を少しだけ自分の近くに寄せた。その所作から察するに、既に何かしら変調が起きたのだと思われる。
ラーラは尚も、扇動力に溢れた声で続ける。
「こんな時間に急にお邪魔した非礼を詫びます。ですが、どうしてもお伝えしなければならないことが……ここに置かれた彫刻品のいくつかは、妖と化してしまっています。ですから」
その像から離れてください――そう口にするのが、酷く心苦しかった。華深が作り上げた彫像は限りなく人の造形に近く、その肌に触れる華深の繊細な手先にもまた、執念を超えた悲壮な慕情が漂っていた。
歪んだ愛情表現を目の当たりにする賀茂 たまき(CL2000994)にはまだ、恋人を失うことの喪失感がどれほどのものか理解が及ばなかった。分かったつもりになって同調したところで、偽りの慰めしか投げかけられない。想像が経験を超えることは決して起こり得ない。
けれど、教えなくてはいけない真実がある。無機質で乾いた、非情な現実を。
「そこに居るのは貴方の恋人さんではなく、恋人さんの形を模した『妖』……バケモノで、ニセモノです……」
喉から絞り出した言葉の陰で、華深のそばに守護障壁を張ったのは、たまきに出来る精一杯の配慮だった。
木椅子に腰掛けた華深は未だ話半分で虚ろな目をしている。しかし。
「っ! 下がって!」
指崎 心琴(CL2001195)の大声が屋内全体に反響する。
華深が脇目を振っている間に、女性を象った石膏像は動作を再開していた。細く、それでいてまろやかな曲線を保った腕が華深の首へと伸びる。
先に気付いた心琴は注意喚起と同時に、守護使役から受け取った旋盤駆動式の兵器を手に、間に割って入るべく走り出した――が、それよりも早く、快速を飛ばした『百合の追憶』三島 柾(CL2001148)が身を呈して妖の魔手から華深を防護していた。
「いい加減勘付いただろ。あれはお前が愛した女じゃない」
首に絡み付いてきた彫像を強引に跳ね飛ばした後、呆ける華深の胸倉を掴み、活を入れてその瞳を覗き込む柾。
少し遅れて心琴と、『蒼炎の道標』七海 灯(CL2000579)が駆けつける。依然として恋人の像から目を離さない華深を、可能な限り遠ざけて。
「あなたの恋人はあんなに乱暴だったのですか? あまつさえあなたの死を願うような」
灯は自分の質問に首を振って欲しかった。誤認を断ち切ってもらいたかった――それでも未練に囚われた華深は、現実と虚構の狭間で溺れ続けている。
「彼女は……一緒に堕ちてくれる人間を探しているのかも知れない。それが僕なのだとしたら」
先立たれた男の世迷言はしかし、痛切な響きを含んでいた。
「あれは妖だ、お前の好きな人じゃない! 一度死んだら命はもう二度と帰らないんだぞ!」
だから掛け替えのないものなんだ、と心琴は説く。かつて自分が諭されたように。
尚も対話を続けようとするが、それを制する声が掛かった。
「話を付けてる場合じゃなさそうだ」
柾が一旦説得を打ち切り、指の骨を鳴らす。工房を満たす空気の流れが明らかに一転していた。覚者達は触覚と視覚と、そして聴覚で他の彫刻からも異変を感じ取る。
大鷲を模した像は、その翼が硬い石膏で作られているとは思えない流麗な羽ばたきを。
そして虎を模した像は咆哮を始めていた。
●視えない傷
怪異としか呼びようのない光景が広がっていた。
石膏製の彫像が複数、自律して活動している。肉食獣の四肢。猛禽類の翼。全てにおいて実物と相違ない運動を取っている。何よりも――美しい女性を象った彫刻が見せるあまりに自然な挙動の数々は、不気味の谷を越えていた。
「作品が、妖になっちゃうなんて……執念の、結果……なのかな……?」
――因子の力で心も補えたらと、『罪なき人々の盾』明石 ミュエル(CL2000172)は密かに思う。覚醒した機械の身体をどれだけ硬質化させても、怯えの拭えない心は脆いままだ。
「それだけ、精魂を込めたものを……壊しちゃうんだね……」
握ったハンドガンに紫苑の眼差しを落とす。
製作者はどう感じるだろうか。ただでさえ、失った恋人の姿をしているというのに。
「悲しむ、よね……アタシだったら、悲しいもん……」
突如作品が動き出すという異常に対して、故人が生き返ったと思い込むほど正気を逸してしまっているのだから、破壊しようものならその心的外傷は計り知れない。
「人間って奴は自分の信じたいものを信じたがるからな。世界はそんな都合よく出来てねえってのに、ったく」
湿っぽい雰囲気を払拭する、厭世的なぼやき声。
「狂気の芸術家が蘇らせた、夜な夜な動き回る死別した婚約者の彫像ねぇ。三流カストリ誌が囃し立ててそうなオカルトだな」
女性像が餌食を求めて緩慢に彷徨う様を前に、煙草の吸い口を噛み潰しながら『ゴシップ記者』風祭・誘輔(CL2001092)は世を儚む。
「当たり前だが、なんの関連性もないけどな。死んじまった者は戻らねえ。それがこの世の理屈だ」
自嘲にも似た誘輔の言葉は、背後に佇む華深に向けてなのか、それともただの独り言なのか曖昧だった。彼の視線が捉えているのは、奇怪な妖達のみである。
人型は一旦放置し、天井付近を飛び交う色彩の失せた二羽の大鷲に右腕部の銃口を向ける。
大まかに狙いを定め、掃射。穿たれた銃創からは血ではなく、白い粉が舞う。
「御覧ください。鳥や獣も動いているじゃないですか。ですから恋人の像が動き始めたのは想いが通じたとかではなく、単なる偶然でしょう」
背中越しに華深に呼び掛ける『アイティオトミア』氷門・有為(CL2000042)は脚部に融合させたギミック式の戦斧で水平に薙ぎ払い、獣型の突破を喰い留める。
最初に撃墜すべきは前衛を越えていく鳥型の二体である、というのが全員の了解だが、接近戦に特化した有為は現状手出し出来ない。ゆえに迫り来る妖のブロックに注力。
「遠くの相手は、私が!」
壁際の像の陰から身を乗り出すラーラ。遠距離戦を得手とする彼女は指を翳し、鳥型の妖と斜線を結ぶと、魔力を具現化させた簡易術式で撃ち抜く。
術式に抵抗を持つ物質系でありながら十分なダメージを与えられたのは、F.i.V.E.でも有数の魔術師足り得る彼女ゆえである。しかし、本来の破壊力がどれほどのものかを重々把握している当人からすれば、納得のいく成果ではない。
「まだまだ……っ!」
迸る魔力の奔流の行き場を探していると、ふと視界に薄らと掛かる霞に気が付いた。
心琴が生じさせた霧が次第に空中全体を覆い始めていた。宙を飛行する猛禽はその影響を多大に受け、纏わりつく粘性の水滴によって適切な防御姿勢を奪われる。
「今のうちに一気に片付けるといいぞ! 僕も頑張る!」
率先して雷撃を大鷲に降り注がせ、本来効きづらいであろう術式の威力を示すことでその提案を補強する。焦げ目は罅割れとなり、確かなダメージの余波が見て取れる。
そうなれば――出すべき結論はひとつ。
「大人しくしてください!」
ひゅん、という軽快な音を立てて灯は鎖分銅を投擲し、大鷲の片脚に巻きつかせた。懸命に逃れようとする妖に、覚者達は集中砲火を浴びせる。
妖に向けてミュエルが射撃した部位が、大きく爆ぜた。天行の術でさえ効果があるのだから、実弾を用いた銃撃ならば、尚更だ。
束縛されていない個体には、銀髪の魔女がじっくりと照準を定めていた。先程仕留め切れなかった悔恨を、今まさに晴らす時。
「良い子に甘い焼き菓子を、悪い子には石炭を……イオ・ブルチャーレ! 」
紅蓮の炎。それこそが自身の本質だ。
一喝と共に、大きく開かれたラーラの掌から業火を圧縮した弾丸が放たれる。消し炭――とまではいかないまでも、活動を停止させるには十分な一撃だった。
生命力を剥奪された二羽の大鷲は地に墜ちると、落下の衝撃で砕け散った。石膏の欠片が辺りに散乱し、視認の範囲でない細やかな粒子が立ち昇った。
その粉塵に紛れて、意識の外から虎を模した妖が突進を仕掛けてくる。
立ち塞がった誘輔によって強烈な打撃を叩き込まれる。僅かに怯むが、それでも疾駆を止めない。
激しい殺戮衝動をその牙に乗せて発散させる。誘輔は咄嗟に変化部位である右腕を差し出す。
事前に肉体強化を重ねておいた分、傷は深くない。とはいえ機械化し切っていない裂けた肌からは鮮血が流れ出ている。
「それ以上の暴虐は看過できませんね」
自らのテリトリーであることを察知した有為が猛獣の対処に当たる。破片の散らばる床を抜群の平衡感覚で走り抜け、安定を保ったまま重厚極まりない刃を振り下ろす。脳天を捉えたその斬撃は、硬化した石膏製の皮膚を叩き割った。
機に乗じて開いた左手で妖の眉間を貫き、その生命活動に終止符を打った誘輔は、次第に出血が治まり始めている事実と、鼻腔をくすぐる清潔感のある香りを知覚する。
心身を落ち着かせる清らかな芳香の出所は、ミュエルだ。
「悪い、世話掛けたな」
「大、丈夫……?」
不安げに見つめるブロンドの少女の問いに、誘輔は笑いながら憎まれ口で答えた。
「この程度の怪我、妬けた情婦に刺されるよりマシだ」
増進した自然治癒力によって塞がれた傷跡の、その周辺にべたりと貼りついた血糊を払う。
「血か。はっ、こりゃあいい。これが生きてるってことだからな、杉崎」
後ろを振り返り、呆然とし続ける彫刻家と初めて視線を合わせる。
「アンタの恋人は血じゃなくて粉が通っているのか? そうじゃないだろうよ」
有為もまた、澄んだ青の瞳を向けた。
「杉崎さんが作りたかったのは、本当にこんなものだったのでしょうか」
混ざり合った石膏片を拾いながら訊く。有機生命体のように動いていた虎も、大鷲も、変容した彫刻に過ぎなかったことは、この無味乾燥とした残骸を見ても明らかである。
残る彫像は、人の姿を模した一体。
「私は人の心を推し量るといったことが得意な方ではないので、状況判断になりますが――貴方が形に残したかったのは想い人の記憶であって、その人そのものではなかったでしょう」
華深の目に映る恋人の像は、明らかに自身の意志で蠢いている。
仮に本当に死者の魂が帰ってきたのだとして、彫り始めた当初、こうした絵図を予見できていただろうか。最初はただ、自分の感情を無垢にぶつけていただけではないか。
「きっと、物言わぬ像に純粋な作者の想いが込められるからこそ、人々の心を揺るがせるのだと思います。自我を持った彫刻は、作者の手を離れてしまったと言えます」
沈着冷静を気取る有為だったが、言葉の節々から熱が漏れ出ていた。
「僕は……」
「時間はあります。答えを決めておいてください」
少女は妖の前に立つ。
●瓦礫の檻
華深は混乱していた。頭で分かっていることを、心が受け付けていなかった。強い眩暈感と、吐き気に襲われる。狂乱とも泣き言とも付かない幽かな声が喉から零れ出る。
悲痛な様子の芸術家から、決してたまきは無視しなかった。常に前線に立ち続け、人型の妖との接触を許さないよう細心の注意を払った。
「恋人の顔をした貴方に……絶対に杉崎さんはやらせません!」
小柄な体躯からは想像できない力強い声音で制して、妖の足取りを鈍らせる。挙動が重くなったところを更に灯が鎖で縛り上げることで、完全なる拘束が成立する。
「今です!」
「了解しました! イオ・ブルチャーレ!」
ラーラが脚部に狙いを絞って火炎を浴びせる。
「やっ、やめろ、やめてくれ。彼女は……」
彫像の前に進み出て攻撃の手を妨げようとする華深の肩を、柾が掴んだ。
「馬鹿な真似はするんじゃない。お前にまで危険が及ぶぞ」
「死なせたくないんだ、もう二度と」
「生きてるも死んでるもない。あれは別の存在だ! なのに何故、あの子が手加減したか、お前には分かるか?」
柾は妖ではなく、後方に控えるラーラに目を向けるよう指摘した。言われたままに直視すると、魔女は真紅の瞳の中に悲しみの色を浮かべていた。
「亡くなった恋人を想って彫った像がもし動き出したら……私も同じ立場なら、きっと思いが通じたと思ってしまうかも知れません」
その心境を慮っているからこそ、ラーラは決して顔だけは燃やさなかった。感情の整理が付いていないうちに、恋人の面影を炎の中に隠してしまうことだけは、どうしても気が引けた。
「でも、大事なのは杉崎さんの安全ですからね。せめて足止めだけでも……」
華深はラーラから目線を切り、柾の手を振り解くと、力なく歩き出した。
「ち……千紗」
方角は、在りし日の婚約者の元。
「千紗、君が何か言ってくれ。君の言葉が……」
保護役を担っていた心琴と柾は急いで抑止を試みる――だが、それに先駆けて。
「……ぐっ、げほ……っ!」
敵の動向を誰よりもつぶさに観察していたたまきが介入していた。妖の両手は彼女の折れてしまいそうなほど華奢な首に掴みかかっていたが、二重に施した防御術式によって大事には至らなかった。
「この腕さえ、なければ……!」
たまきは自分の首を握る腕を逆に掴み返すと、全ての指先に圧力を込め、最小限の動作による『零距離の打撃』で粉砕。
自由を取り戻すと、まずは華深を軽く押して中衛のミュエルがいる辺りにまで後退させる。
「恋人さんのこと……よく、思い出して……。あんなふうに、人を襲うような人じゃ、なかったよね……?」
濁った猜疑心を緩和させながらミュエルが諭す。彼女の傍らは、不思議と安らぎに溢れている。
「どうして、傷ついてまで――」
まだ諦め切れない華深だったが、小さな背中が懸命に、かつ雄弁に語るのを目にする。
「本物の恋人さんは……もうこの世には居ません。だけど、きっと、貴方の側にいて、まだ見守っていると思います。ふとした瞬間に壊れてしまいそうな、今の貴方が心配だから……」
艶やかな黒髪をなびかせる少女は、まだ少し絞首の余韻に苦しみ咳き込んでいる。けれど、言葉を途切れさせはしなかった。
「……だから……退いてください……」
たまきは肩を震わせて思いの丈を伝えた。
「いつまで砕けた心の破片に埋まっているんだ。お前も胸の底では認めているんだろう、彼女がもういないことを」
柾が再び華深と視線を交差させる。
「お前が妄執に囚われている限り悲劇は終わらないんだ。今から俺が清算させてやる。醒めた目で現実を見たければ、覚悟を決めて頷け」
柾は内側で燃え盛る炎を滾らせながら返事を待つ。
「あれは彫刻だ……ただ、僕が作っただけの」
ようやく華深が下した答えに、柾は安堵に近い表情を覗かせた。
「赤の他人である俺が何故親身になってやってるか、ついでに教えておこうか。……同じだからだ。俺とお前は」
言い捨てて妖に向かう柾に、華深は何か訊きたげに顎を上下させていたが、やり取りはそれ以上生まれなかった。
あの笑顔も、声も、暖かさも。二度と触れる機会はない。瞼を閉じて想いを馳せても、それは自分にとって都合のいい幻影が浮かんでくるだけだ。
記憶は枯れることのない造花に過ぎない。その茨に苛まれていては、未来永劫前進することは出来ない。
「同じなんだよ――本当にな」
婚約者を失う悲しみ。それは他の誰でもない、死別という過去の枷に繋がれた柾が理解していた。
「杉崎、よく見ておけ。これが俺とお前の約束だ」
柾は拳に体内で練成した気を送る。
存分に集中を重ねた末に。
ただの一撃で石膏像の胴体を砕き割った。
有為は粉塗れの工房を見渡しながら、こめかみを軽く掻く。
「彫刻、かなり派手に壊してしまいましたね。資産価値を考えたら賠償責任も凄いことになりそうですが」
華深は売り物ではないから構わない、と笑った。笑顔ではあったが、どこか覇気がなかった。迷いを断ったとはいえ、恋人を模した彫刻が砕け落ちるショックは大きかったのだろう。
「お前、人気の彫刻家なんだってな。他の彫刻も今にも動きそうでそわそわするぞ」
工房に残った彫像を眺めながら、純真な気持ちで心琴は語りかける。
「僕も今日からお前のファンだ! 僕だけじゃない。お前の作品が見たい人は一杯いるんだから、ここで終わっちゃダメだぞ」
「……ああ、そうだね」
元気づける少年の応援に、ようやく青年は穏やかな笑みを滲ませた。
「楽しみにしておくよ。お前の大切だった人が好きだった作品を、俺も見てみたいからな」
柾も同意する。
「これからは悲しい作品ではなく、幸せな作品を作ってください」
「その時は取材させてくれ。アンタが婚約者を像の形で生かしたように、俺が活字の中で永遠に生かし続けてやる」
今後の健勝を祈る灯と、名刺を渡す誘輔。華深は粉塵の山の中から、壊れた彫刻の頭部を掬い、それを薄汚れたテーブルの上に置いた。
胸像だけになってしまったそれは、寝顔のように優しい表情で止まっていた。
「杉崎さん、ここは危険です」
よく通る、清廉な声音だった。
「どうか、騒ぎが収まるまでお部屋の外で待っていていただくことは出来ないでしょうか」
黴と埃の臭いが充満するアトリエを、束の間静寂が包んだ。女性像に向き合っていた工房の主たる杉崎華深は、突然現れた来訪者に驚きと怪訝が入り混じった昏い瞳を返す。
だらしなく開いた扉の前で第一声を発した『エピファニアの魔女』ラーラ・ビスコッティ(CL2001080)は、整然と並んだ石膏像の、その全てに見つめられているような錯覚を受けた。
「彼女に関係があるのか?」
尋ね返す華深は、彫像を少しだけ自分の近くに寄せた。その所作から察するに、既に何かしら変調が起きたのだと思われる。
ラーラは尚も、扇動力に溢れた声で続ける。
「こんな時間に急にお邪魔した非礼を詫びます。ですが、どうしてもお伝えしなければならないことが……ここに置かれた彫刻品のいくつかは、妖と化してしまっています。ですから」
その像から離れてください――そう口にするのが、酷く心苦しかった。華深が作り上げた彫像は限りなく人の造形に近く、その肌に触れる華深の繊細な手先にもまた、執念を超えた悲壮な慕情が漂っていた。
歪んだ愛情表現を目の当たりにする賀茂 たまき(CL2000994)にはまだ、恋人を失うことの喪失感がどれほどのものか理解が及ばなかった。分かったつもりになって同調したところで、偽りの慰めしか投げかけられない。想像が経験を超えることは決して起こり得ない。
けれど、教えなくてはいけない真実がある。無機質で乾いた、非情な現実を。
「そこに居るのは貴方の恋人さんではなく、恋人さんの形を模した『妖』……バケモノで、ニセモノです……」
喉から絞り出した言葉の陰で、華深のそばに守護障壁を張ったのは、たまきに出来る精一杯の配慮だった。
木椅子に腰掛けた華深は未だ話半分で虚ろな目をしている。しかし。
「っ! 下がって!」
指崎 心琴(CL2001195)の大声が屋内全体に反響する。
華深が脇目を振っている間に、女性を象った石膏像は動作を再開していた。細く、それでいてまろやかな曲線を保った腕が華深の首へと伸びる。
先に気付いた心琴は注意喚起と同時に、守護使役から受け取った旋盤駆動式の兵器を手に、間に割って入るべく走り出した――が、それよりも早く、快速を飛ばした『百合の追憶』三島 柾(CL2001148)が身を呈して妖の魔手から華深を防護していた。
「いい加減勘付いただろ。あれはお前が愛した女じゃない」
首に絡み付いてきた彫像を強引に跳ね飛ばした後、呆ける華深の胸倉を掴み、活を入れてその瞳を覗き込む柾。
少し遅れて心琴と、『蒼炎の道標』七海 灯(CL2000579)が駆けつける。依然として恋人の像から目を離さない華深を、可能な限り遠ざけて。
「あなたの恋人はあんなに乱暴だったのですか? あまつさえあなたの死を願うような」
灯は自分の質問に首を振って欲しかった。誤認を断ち切ってもらいたかった――それでも未練に囚われた華深は、現実と虚構の狭間で溺れ続けている。
「彼女は……一緒に堕ちてくれる人間を探しているのかも知れない。それが僕なのだとしたら」
先立たれた男の世迷言はしかし、痛切な響きを含んでいた。
「あれは妖だ、お前の好きな人じゃない! 一度死んだら命はもう二度と帰らないんだぞ!」
だから掛け替えのないものなんだ、と心琴は説く。かつて自分が諭されたように。
尚も対話を続けようとするが、それを制する声が掛かった。
「話を付けてる場合じゃなさそうだ」
柾が一旦説得を打ち切り、指の骨を鳴らす。工房を満たす空気の流れが明らかに一転していた。覚者達は触覚と視覚と、そして聴覚で他の彫刻からも異変を感じ取る。
大鷲を模した像は、その翼が硬い石膏で作られているとは思えない流麗な羽ばたきを。
そして虎を模した像は咆哮を始めていた。
●視えない傷
怪異としか呼びようのない光景が広がっていた。
石膏製の彫像が複数、自律して活動している。肉食獣の四肢。猛禽類の翼。全てにおいて実物と相違ない運動を取っている。何よりも――美しい女性を象った彫刻が見せるあまりに自然な挙動の数々は、不気味の谷を越えていた。
「作品が、妖になっちゃうなんて……執念の、結果……なのかな……?」
――因子の力で心も補えたらと、『罪なき人々の盾』明石 ミュエル(CL2000172)は密かに思う。覚醒した機械の身体をどれだけ硬質化させても、怯えの拭えない心は脆いままだ。
「それだけ、精魂を込めたものを……壊しちゃうんだね……」
握ったハンドガンに紫苑の眼差しを落とす。
製作者はどう感じるだろうか。ただでさえ、失った恋人の姿をしているというのに。
「悲しむ、よね……アタシだったら、悲しいもん……」
突如作品が動き出すという異常に対して、故人が生き返ったと思い込むほど正気を逸してしまっているのだから、破壊しようものならその心的外傷は計り知れない。
「人間って奴は自分の信じたいものを信じたがるからな。世界はそんな都合よく出来てねえってのに、ったく」
湿っぽい雰囲気を払拭する、厭世的なぼやき声。
「狂気の芸術家が蘇らせた、夜な夜な動き回る死別した婚約者の彫像ねぇ。三流カストリ誌が囃し立ててそうなオカルトだな」
女性像が餌食を求めて緩慢に彷徨う様を前に、煙草の吸い口を噛み潰しながら『ゴシップ記者』風祭・誘輔(CL2001092)は世を儚む。
「当たり前だが、なんの関連性もないけどな。死んじまった者は戻らねえ。それがこの世の理屈だ」
自嘲にも似た誘輔の言葉は、背後に佇む華深に向けてなのか、それともただの独り言なのか曖昧だった。彼の視線が捉えているのは、奇怪な妖達のみである。
人型は一旦放置し、天井付近を飛び交う色彩の失せた二羽の大鷲に右腕部の銃口を向ける。
大まかに狙いを定め、掃射。穿たれた銃創からは血ではなく、白い粉が舞う。
「御覧ください。鳥や獣も動いているじゃないですか。ですから恋人の像が動き始めたのは想いが通じたとかではなく、単なる偶然でしょう」
背中越しに華深に呼び掛ける『アイティオトミア』氷門・有為(CL2000042)は脚部に融合させたギミック式の戦斧で水平に薙ぎ払い、獣型の突破を喰い留める。
最初に撃墜すべきは前衛を越えていく鳥型の二体である、というのが全員の了解だが、接近戦に特化した有為は現状手出し出来ない。ゆえに迫り来る妖のブロックに注力。
「遠くの相手は、私が!」
壁際の像の陰から身を乗り出すラーラ。遠距離戦を得手とする彼女は指を翳し、鳥型の妖と斜線を結ぶと、魔力を具現化させた簡易術式で撃ち抜く。
術式に抵抗を持つ物質系でありながら十分なダメージを与えられたのは、F.i.V.E.でも有数の魔術師足り得る彼女ゆえである。しかし、本来の破壊力がどれほどのものかを重々把握している当人からすれば、納得のいく成果ではない。
「まだまだ……っ!」
迸る魔力の奔流の行き場を探していると、ふと視界に薄らと掛かる霞に気が付いた。
心琴が生じさせた霧が次第に空中全体を覆い始めていた。宙を飛行する猛禽はその影響を多大に受け、纏わりつく粘性の水滴によって適切な防御姿勢を奪われる。
「今のうちに一気に片付けるといいぞ! 僕も頑張る!」
率先して雷撃を大鷲に降り注がせ、本来効きづらいであろう術式の威力を示すことでその提案を補強する。焦げ目は罅割れとなり、確かなダメージの余波が見て取れる。
そうなれば――出すべき結論はひとつ。
「大人しくしてください!」
ひゅん、という軽快な音を立てて灯は鎖分銅を投擲し、大鷲の片脚に巻きつかせた。懸命に逃れようとする妖に、覚者達は集中砲火を浴びせる。
妖に向けてミュエルが射撃した部位が、大きく爆ぜた。天行の術でさえ効果があるのだから、実弾を用いた銃撃ならば、尚更だ。
束縛されていない個体には、銀髪の魔女がじっくりと照準を定めていた。先程仕留め切れなかった悔恨を、今まさに晴らす時。
「良い子に甘い焼き菓子を、悪い子には石炭を……イオ・ブルチャーレ! 」
紅蓮の炎。それこそが自身の本質だ。
一喝と共に、大きく開かれたラーラの掌から業火を圧縮した弾丸が放たれる。消し炭――とまではいかないまでも、活動を停止させるには十分な一撃だった。
生命力を剥奪された二羽の大鷲は地に墜ちると、落下の衝撃で砕け散った。石膏の欠片が辺りに散乱し、視認の範囲でない細やかな粒子が立ち昇った。
その粉塵に紛れて、意識の外から虎を模した妖が突進を仕掛けてくる。
立ち塞がった誘輔によって強烈な打撃を叩き込まれる。僅かに怯むが、それでも疾駆を止めない。
激しい殺戮衝動をその牙に乗せて発散させる。誘輔は咄嗟に変化部位である右腕を差し出す。
事前に肉体強化を重ねておいた分、傷は深くない。とはいえ機械化し切っていない裂けた肌からは鮮血が流れ出ている。
「それ以上の暴虐は看過できませんね」
自らのテリトリーであることを察知した有為が猛獣の対処に当たる。破片の散らばる床を抜群の平衡感覚で走り抜け、安定を保ったまま重厚極まりない刃を振り下ろす。脳天を捉えたその斬撃は、硬化した石膏製の皮膚を叩き割った。
機に乗じて開いた左手で妖の眉間を貫き、その生命活動に終止符を打った誘輔は、次第に出血が治まり始めている事実と、鼻腔をくすぐる清潔感のある香りを知覚する。
心身を落ち着かせる清らかな芳香の出所は、ミュエルだ。
「悪い、世話掛けたな」
「大、丈夫……?」
不安げに見つめるブロンドの少女の問いに、誘輔は笑いながら憎まれ口で答えた。
「この程度の怪我、妬けた情婦に刺されるよりマシだ」
増進した自然治癒力によって塞がれた傷跡の、その周辺にべたりと貼りついた血糊を払う。
「血か。はっ、こりゃあいい。これが生きてるってことだからな、杉崎」
後ろを振り返り、呆然とし続ける彫刻家と初めて視線を合わせる。
「アンタの恋人は血じゃなくて粉が通っているのか? そうじゃないだろうよ」
有為もまた、澄んだ青の瞳を向けた。
「杉崎さんが作りたかったのは、本当にこんなものだったのでしょうか」
混ざり合った石膏片を拾いながら訊く。有機生命体のように動いていた虎も、大鷲も、変容した彫刻に過ぎなかったことは、この無味乾燥とした残骸を見ても明らかである。
残る彫像は、人の姿を模した一体。
「私は人の心を推し量るといったことが得意な方ではないので、状況判断になりますが――貴方が形に残したかったのは想い人の記憶であって、その人そのものではなかったでしょう」
華深の目に映る恋人の像は、明らかに自身の意志で蠢いている。
仮に本当に死者の魂が帰ってきたのだとして、彫り始めた当初、こうした絵図を予見できていただろうか。最初はただ、自分の感情を無垢にぶつけていただけではないか。
「きっと、物言わぬ像に純粋な作者の想いが込められるからこそ、人々の心を揺るがせるのだと思います。自我を持った彫刻は、作者の手を離れてしまったと言えます」
沈着冷静を気取る有為だったが、言葉の節々から熱が漏れ出ていた。
「僕は……」
「時間はあります。答えを決めておいてください」
少女は妖の前に立つ。
●瓦礫の檻
華深は混乱していた。頭で分かっていることを、心が受け付けていなかった。強い眩暈感と、吐き気に襲われる。狂乱とも泣き言とも付かない幽かな声が喉から零れ出る。
悲痛な様子の芸術家から、決してたまきは無視しなかった。常に前線に立ち続け、人型の妖との接触を許さないよう細心の注意を払った。
「恋人の顔をした貴方に……絶対に杉崎さんはやらせません!」
小柄な体躯からは想像できない力強い声音で制して、妖の足取りを鈍らせる。挙動が重くなったところを更に灯が鎖で縛り上げることで、完全なる拘束が成立する。
「今です!」
「了解しました! イオ・ブルチャーレ!」
ラーラが脚部に狙いを絞って火炎を浴びせる。
「やっ、やめろ、やめてくれ。彼女は……」
彫像の前に進み出て攻撃の手を妨げようとする華深の肩を、柾が掴んだ。
「馬鹿な真似はするんじゃない。お前にまで危険が及ぶぞ」
「死なせたくないんだ、もう二度と」
「生きてるも死んでるもない。あれは別の存在だ! なのに何故、あの子が手加減したか、お前には分かるか?」
柾は妖ではなく、後方に控えるラーラに目を向けるよう指摘した。言われたままに直視すると、魔女は真紅の瞳の中に悲しみの色を浮かべていた。
「亡くなった恋人を想って彫った像がもし動き出したら……私も同じ立場なら、きっと思いが通じたと思ってしまうかも知れません」
その心境を慮っているからこそ、ラーラは決して顔だけは燃やさなかった。感情の整理が付いていないうちに、恋人の面影を炎の中に隠してしまうことだけは、どうしても気が引けた。
「でも、大事なのは杉崎さんの安全ですからね。せめて足止めだけでも……」
華深はラーラから目線を切り、柾の手を振り解くと、力なく歩き出した。
「ち……千紗」
方角は、在りし日の婚約者の元。
「千紗、君が何か言ってくれ。君の言葉が……」
保護役を担っていた心琴と柾は急いで抑止を試みる――だが、それに先駆けて。
「……ぐっ、げほ……っ!」
敵の動向を誰よりもつぶさに観察していたたまきが介入していた。妖の両手は彼女の折れてしまいそうなほど華奢な首に掴みかかっていたが、二重に施した防御術式によって大事には至らなかった。
「この腕さえ、なければ……!」
たまきは自分の首を握る腕を逆に掴み返すと、全ての指先に圧力を込め、最小限の動作による『零距離の打撃』で粉砕。
自由を取り戻すと、まずは華深を軽く押して中衛のミュエルがいる辺りにまで後退させる。
「恋人さんのこと……よく、思い出して……。あんなふうに、人を襲うような人じゃ、なかったよね……?」
濁った猜疑心を緩和させながらミュエルが諭す。彼女の傍らは、不思議と安らぎに溢れている。
「どうして、傷ついてまで――」
まだ諦め切れない華深だったが、小さな背中が懸命に、かつ雄弁に語るのを目にする。
「本物の恋人さんは……もうこの世には居ません。だけど、きっと、貴方の側にいて、まだ見守っていると思います。ふとした瞬間に壊れてしまいそうな、今の貴方が心配だから……」
艶やかな黒髪をなびかせる少女は、まだ少し絞首の余韻に苦しみ咳き込んでいる。けれど、言葉を途切れさせはしなかった。
「……だから……退いてください……」
たまきは肩を震わせて思いの丈を伝えた。
「いつまで砕けた心の破片に埋まっているんだ。お前も胸の底では認めているんだろう、彼女がもういないことを」
柾が再び華深と視線を交差させる。
「お前が妄執に囚われている限り悲劇は終わらないんだ。今から俺が清算させてやる。醒めた目で現実を見たければ、覚悟を決めて頷け」
柾は内側で燃え盛る炎を滾らせながら返事を待つ。
「あれは彫刻だ……ただ、僕が作っただけの」
ようやく華深が下した答えに、柾は安堵に近い表情を覗かせた。
「赤の他人である俺が何故親身になってやってるか、ついでに教えておこうか。……同じだからだ。俺とお前は」
言い捨てて妖に向かう柾に、華深は何か訊きたげに顎を上下させていたが、やり取りはそれ以上生まれなかった。
あの笑顔も、声も、暖かさも。二度と触れる機会はない。瞼を閉じて想いを馳せても、それは自分にとって都合のいい幻影が浮かんでくるだけだ。
記憶は枯れることのない造花に過ぎない。その茨に苛まれていては、未来永劫前進することは出来ない。
「同じなんだよ――本当にな」
婚約者を失う悲しみ。それは他の誰でもない、死別という過去の枷に繋がれた柾が理解していた。
「杉崎、よく見ておけ。これが俺とお前の約束だ」
柾は拳に体内で練成した気を送る。
存分に集中を重ねた末に。
ただの一撃で石膏像の胴体を砕き割った。
有為は粉塗れの工房を見渡しながら、こめかみを軽く掻く。
「彫刻、かなり派手に壊してしまいましたね。資産価値を考えたら賠償責任も凄いことになりそうですが」
華深は売り物ではないから構わない、と笑った。笑顔ではあったが、どこか覇気がなかった。迷いを断ったとはいえ、恋人を模した彫刻が砕け落ちるショックは大きかったのだろう。
「お前、人気の彫刻家なんだってな。他の彫刻も今にも動きそうでそわそわするぞ」
工房に残った彫像を眺めながら、純真な気持ちで心琴は語りかける。
「僕も今日からお前のファンだ! 僕だけじゃない。お前の作品が見たい人は一杯いるんだから、ここで終わっちゃダメだぞ」
「……ああ、そうだね」
元気づける少年の応援に、ようやく青年は穏やかな笑みを滲ませた。
「楽しみにしておくよ。お前の大切だった人が好きだった作品を、俺も見てみたいからな」
柾も同意する。
「これからは悲しい作品ではなく、幸せな作品を作ってください」
「その時は取材させてくれ。アンタが婚約者を像の形で生かしたように、俺が活字の中で永遠に生かし続けてやる」
今後の健勝を祈る灯と、名刺を渡す誘輔。華深は粉塵の山の中から、壊れた彫刻の頭部を掬い、それを薄汚れたテーブルの上に置いた。
胸像だけになってしまったそれは、寝顔のように優しい表情で止まっていた。

■あとがき■
MVPは弱り目の青年に活を入れた柾さんに。
