【妖怪問題】2ステップでイルカをフライにしなさい
●
――つまらん。
風の噂というのは実に厄介なしろもので、その噂が事実であるか確かめるようとするとひどく手がかかる。しかも、労を惜しんで調べたところで結局、わからないことの事が多い。
それでも、面彫師もとい、面彫士は淡く細いその噂が本当であると、なぜか思った。
幾つもの時代を越え、長きに渡り生きてきた面彫士であったが、数十年前に突如として現れた大妖は畏怖すべきものたちだった。まだ人であったころ、来訪神に対して抱いていたものと同じぐらいその圧倒的な力と存在感に畏敬の念を抱いている、いや、抱いていた。
――しょせんは人。我と同じく成り上がりであったか。
多くの妖を従え、束ねる存在であり、強大な力の持った妖が『大妖』ではなかったのか。人々に畏れられ、数多の時を経れば、いずれは『神』となるものではなかったのか。
面彫士は胡坐の内にある来訪神の面を、鋭い眼光で見つめ続ける。
やがて口から枯れたようなため息を漏らすと、木の上で小刀を躍らせ始めた。
――それでも、成せねばならぬ。
なぜなら、それが人としての一生とそれにまつわるささやかな幸福を一瞬にして奪われ、今日まで生かされ続けてきた理由に違いないのだから。
――我は神を造る神産みとなる。
●
「また出たわ」
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は間違っていた。正しくは「また出た」ではなく、「また出る」だ。
「どちらでも似たようなものでしょ。出現自体は決定事項なのだから」
もう少し夢見の感度が良ければね、と愚痴めいたことを言う。
「こんどは青鬼の面よ。イルカの女調教師を殺して被せているわ」
数日前、数名の覚者たちが動物園で古妖、いや、古妖が作りだしたと推測される鬼の面の妖具とそれを身につけた妖――ファイヴで調べたところ飼育員男性の遺体はすでに妖化していたらしい――を討伐したのだが、眩はそれと全くよく似た事件が水族館で起こる、と集まった覚者たちに告げた。
「今度の問題は『2ステップでイルカをフライにしなさい』よ。造った妖にそんな問題を解かせて、出題者はなにがしたいのかしら?」
それはともかくとして、青鬼の面が導き出した回答は、1で海水を抜いて代わりに油をイルカプールに入れ、2でプールに火を放つというものらしい。
「突っ込みどころが満載ね。注入側のバルブを閉めて、排水側のバルブを全開にすればとりあえず海水は抜けるだろうけど、そこへ入れる油はどこで調達してどうやって入れる気なのかしら。あと、すでにここまでに2ステップかかっているわね」
コピーされた資料を覚者に配ると、眩はにっこりと笑った。
「青鬼の面は施設の地下にいるわ。注入バルブすべて閉め、排水バルブをいくつか開けたところで職員に気づかれ、そのあと流血騒ぎがおこるのだけど……職員が殺されてしまう前に青鬼の面を討伐して頂戴」
プールに海水がなくなっても、イルカたちはしばらくの間は生きている。冬場は一回、夏場は数回、プールの水を抜いて清掃するので、驚いて暴れることもない。
もちろん、青鬼の面を討伐したら、すぐにバルブを開け閉めしてプールに海水を満たしてあげなくてはならないが。
「そうそう、戦闘中にパイプを破損しないよう気をつけて頂戴ね。狭い地下二階から、水中観察窓のある地下一階におびき寄せて戦うのも一つの手よ」
水中観察窓前におびき寄せることができれば、広い場所で戦える。やや暗くはなるが、水位の下がり具合を把握しつつ戦えるという利点もある。ただその場合は、人々を事前に退避させておくことと、アクリルガラスを割らないよう注意しなくてはならない。
「どうするかは任せるわ。早く終わったらイルカやアシカのショーを楽しんだり、水中レストランで食事をしたりしていいわよ」
水族館内の見学は自由、お土産を除くもろもろの経費はファイヴで全額落ちるそうだ。
――つまらん。
風の噂というのは実に厄介なしろもので、その噂が事実であるか確かめるようとするとひどく手がかかる。しかも、労を惜しんで調べたところで結局、わからないことの事が多い。
それでも、面彫師もとい、面彫士は淡く細いその噂が本当であると、なぜか思った。
幾つもの時代を越え、長きに渡り生きてきた面彫士であったが、数十年前に突如として現れた大妖は畏怖すべきものたちだった。まだ人であったころ、来訪神に対して抱いていたものと同じぐらいその圧倒的な力と存在感に畏敬の念を抱いている、いや、抱いていた。
――しょせんは人。我と同じく成り上がりであったか。
多くの妖を従え、束ねる存在であり、強大な力の持った妖が『大妖』ではなかったのか。人々に畏れられ、数多の時を経れば、いずれは『神』となるものではなかったのか。
面彫士は胡坐の内にある来訪神の面を、鋭い眼光で見つめ続ける。
やがて口から枯れたようなため息を漏らすと、木の上で小刀を躍らせ始めた。
――それでも、成せねばならぬ。
なぜなら、それが人としての一生とそれにまつわるささやかな幸福を一瞬にして奪われ、今日まで生かされ続けてきた理由に違いないのだから。
――我は神を造る神産みとなる。
●
「また出たわ」
眩(クララ)・ウルスラ・エングホルム(nCL2000164)は間違っていた。正しくは「また出た」ではなく、「また出る」だ。
「どちらでも似たようなものでしょ。出現自体は決定事項なのだから」
もう少し夢見の感度が良ければね、と愚痴めいたことを言う。
「こんどは青鬼の面よ。イルカの女調教師を殺して被せているわ」
数日前、数名の覚者たちが動物園で古妖、いや、古妖が作りだしたと推測される鬼の面の妖具とそれを身につけた妖――ファイヴで調べたところ飼育員男性の遺体はすでに妖化していたらしい――を討伐したのだが、眩はそれと全くよく似た事件が水族館で起こる、と集まった覚者たちに告げた。
「今度の問題は『2ステップでイルカをフライにしなさい』よ。造った妖にそんな問題を解かせて、出題者はなにがしたいのかしら?」
それはともかくとして、青鬼の面が導き出した回答は、1で海水を抜いて代わりに油をイルカプールに入れ、2でプールに火を放つというものらしい。
「突っ込みどころが満載ね。注入側のバルブを閉めて、排水側のバルブを全開にすればとりあえず海水は抜けるだろうけど、そこへ入れる油はどこで調達してどうやって入れる気なのかしら。あと、すでにここまでに2ステップかかっているわね」
コピーされた資料を覚者に配ると、眩はにっこりと笑った。
「青鬼の面は施設の地下にいるわ。注入バルブすべて閉め、排水バルブをいくつか開けたところで職員に気づかれ、そのあと流血騒ぎがおこるのだけど……職員が殺されてしまう前に青鬼の面を討伐して頂戴」
プールに海水がなくなっても、イルカたちはしばらくの間は生きている。冬場は一回、夏場は数回、プールの水を抜いて清掃するので、驚いて暴れることもない。
もちろん、青鬼の面を討伐したら、すぐにバルブを開け閉めしてプールに海水を満たしてあげなくてはならないが。
「そうそう、戦闘中にパイプを破損しないよう気をつけて頂戴ね。狭い地下二階から、水中観察窓のある地下一階におびき寄せて戦うのも一つの手よ」
水中観察窓前におびき寄せることができれば、広い場所で戦える。やや暗くはなるが、水位の下がり具合を把握しつつ戦えるという利点もある。ただその場合は、人々を事前に退避させておくことと、アクリルガラスを割らないよう注意しなくてはならない。
「どうするかは任せるわ。早く終わったらイルカやアシカのショーを楽しんだり、水中レストランで食事をしたりしていいわよ」
水族館内の見学は自由、お土産を除くもろもろの経費はファイヴで全額落ちるそうだ。

■シナリオ詳細
■成功条件
1.イルカ6頭を助ける
2.人的被害を出さない
3.『青鬼の仮面』の破壊と妖の討伐
2.人的被害を出さない
3.『青鬼の仮面』の破壊と妖の討伐
●時間と場所
とある水族館。
昼です。
平日ですが、結構観光客が来場しています。
丁度一回目のイルカショーが終わった後で、メインプール前のスタジアムにはお客さんが少ししかいませんが、地下一階の水中観察窓前には大勢のお客さんがいます。
排水ろ過システム室三階に討伐対象の『青鬼の仮面』がいます。
●排水ろ過システム室
水族館の地下二階と地下三階にあり、地下二階の通路はすべて金網になっています。
また、低い天井や壁にも太いパイプがいくつも走っています。
排水ろ過システム室は地下一階の水中観察窓横の非常口からと、管理施設の地下三階のドアから入れます。
※地下二階の通路は大人が横並びで二人通れるだけの広さしかありません。
※異常に気づいた職員1名が、地下三階の扉から排水ろ過システム室に入ろうとしています。
止めなければ、『青鬼の仮面』と鉢合わせして殺されてしまいます。
●イルカプール
ショーが行われるメインプールのすぐ横にあります。
最大水深12メートル。
覚者到着から排水バルブを閉じるまで、1ターンに50センチずつ水位が下がって行きます。
完全に海水が抜けてしまってもイルカはしばらくの間生きています。
しかし、状態が長引けば長引くほど体にダメージが蓄積され、最終的には死んでしまいます。
※地下一階の水中観察窓の前は100人以上が入れるホールになっています。
出入口は2か所の非常口と合わせて4か所。
●古妖『青鬼の仮面』?
・青い顔で口から牙を出している面。額に金色で『?』マークが書かれています。
※前回の依頼で古妖が作ったと思われる自走する妖具であることが判明しています。
・黒のウエットスーツを着ています。足は素足です。
・元はイルカの調教師、市谷真由美でした。すでに死亡。
※前回のものよりもランクが上がって2になり、【青い炎】という攻撃を体得しています。
【超人的な跳躍力】……広いプールも一足飛び。
【超人的な馬鹿力】……クジラだって持ち上げられます。
【鉈】……物近単/切れ味抜群。研ぎたてです。
【ゴムホース2m】……物近列/水は出ません。これで叩かれると痛いです。
【青い炎】……神貫通2/口から青い炎を吹きだして焼きます。
●水族館
オルカはいませんが、海亀やその他世界中の海に生息する生き物が多数展示されています。
魚を見ながら食事を楽しめる地下一階のレストランと、海を見ながら食事を楽しめる一階のレストランがあります。
●NPC 保坂 環(nCL2000076)
特に指示がなければ地下一階で避難誘導を行います。
よろしければご参加くださいませ。
状態
完了
完了
報酬モルコイン
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
金:0枚 銀:1枚 銅:0枚
相談日数
8日
8日
参加費
100LP[+予約50LP]
100LP[+予約50LP]
参加人数
3/6
3/6
公開日
2018年10月10日
2018年10月10日
■メイン参加者 3人■

●
笛の音が鳴った。前足で敬礼するアシカの愛くるしい姿が、メインスタンド正面の巨大モニターに映し出された。歓声が沸き、続いて拍手の音がメインスタンドの裏手まで聞こえてくる。
「イルカショーは中止になっちゃったんだな」
柵に張られた手書きのポスターを見て、『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)が低く呟いた。
「しかたないのよ。調教師のお姉さんがいなくなったから……しばらくショーはできないのよ」
シャッターが切られる音を聞いて、『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)は、後ろに立つ保坂 環(nCL2000076)へ顔を向けた。
保坂は一眼カメラで手書きのポスターを撮っていた。ポスターは隅を止めたテープが剥がれており、ペラペラと音をたてて風にめくられている。
≪「調教師、急病のため――」≫
黒の太い油性ペンで書かれた文字が、下からめくり上げられた紙で隠された。続きの文字と下に小さく続けられた内容は、見なくても想像できる。ただ、紙がめくれる音があまりにも寂しげだったので、飛鳥はため息をついて目をそらした。
長い時間をかけてイルカたちと信頼関係を築いてきた人間――殺されて妖にされた調教師は名前を中山 碧といい、この水族館に勤めて十年になるベテランだった。事前にファイヴから入れた連絡で、水族館側は初めて、これまで無遅刻無欠勤だった碧の死と妖化を知った。
だが、イルカたちは碧の死をしらない。教えようもない。彼らはただ、碧かいなくなった、とだけ思うのだろうか。
それはイルカたちにとっても、碧にとってもとても悲しいことだ、と飛鳥は思った。
顔を暗くした飛鳥の肩に、勒・一二三(CL2001559)が優しく触れる。
「僕たちが止めましょう。碧さんの魂もイルカたちも……誰も傷つかないように」
起こってしまった悲劇はもう取り消せない。しかし、これから起きる悲劇は未然に防ぐことができる。いや、防がねばならない。
「いくぜ、ひふみん。飛鳥、保坂さん、観察窓前で会おう」
「なるべく上へ追い込むようにいたしましょう。聞くと地下三階の部屋は狭くて戦いにくそうでしたしね」
先に歩きだしていた一悟が振り返って一二三を呼んだ。
「では、行って参ります」
一二三は駆け足で一悟を追った。二人並んでスタンド横に立つ管理棟の中へ消える。
地下三階からこの下にある排水ろ過システム室で、いまこの時もイルカたちの水槽の水を抜くために青鬼の面をつけた碧―妖がバルブを緩めているはずだ。狭い排水ろ過システム室で戦えば、排水や給水のパイプを破損させてしまう恐れがある。そうなればイルカたちだけでなく、水族館中の魚や海獣たちの命が危険にさらされてしまうだろう。
だから覚者たちは青鬼の面と碧を、スタントの真下にある、地下の水槽観察窓前に追い込む作戦を立てた。一悟と一二三が下から上へ追い立て、飛鳥と保坂が逃げないように退路を塞ぎながら迎え撃つ。……が、その前にやっておかなくてはならないことがある。
「よろしくお願いします」と、保坂は傍に控えていた警備員と職員たちに頭を下げた。
職員たちもぎこちない動きで頭を下げる。一番の年長者、水族館の館長らしき人物が前に一歩進み出てきた。
「スムーズに避難して戴けるよう、出口門を前開にしています。逆に討伐が終わるまではお客さんを入れないよう門を閉めました」
「ありがとうございますなのよ。危ないことはあすかたちが引き受けます。妖が上がってきたらお客さんが残っていてもすぐに逃げてください」
ショーの中止でイルカたちのダイナミックな水中の動きを観察することはできないが、となりのイルカ槽でのんびりと泳ぎまわる姿は見ることはできる。せっかくきたのだから、と観察窓の前は子連れの若い夫婦やカップルたちで賑わっていた。まずはこの客たちを速やかかつ安全に退避させなくてはならない。
「保坂さん、いきましょうなのよ」
こんどこそ元凶を追いつめて、次は必ずやっつける。
飛鳥は静かに闘志をかき立てると、保坂や職員たちとともにスタンドの地下一階へ降りていった。
●
「いる?」
我ながら間抜けな質問だ、と一悟はドアノブをゆっくりと押し下げながら思った。ファイヴに所属する夢見の情報制度は驚くほど高い。夢見が地下二階にいる、と言ったならいるに決まっている。まあ、ごくたまに違うこともあるが。
「いますよ。はっきりと感じます」
一悟の問いに至極真面目に答えを返すと、一二三は第三の目を隠すようにキャスケットのツバを軽く引き下げた。今日は僧侶服ではなく、黒スキニーに前を開けた濃紺の開襟シャツというコーディネイトだ。開襟シャツの下は白のTシャツ。長い髪は先の方で緩く纏めてある。
「僕が後ろからサポートします。怪我を気にせず、ガンガン妖にぶつかっていってください」
「あ、いや……なるべく痛い目に遭いたくないんだけど」
「何を言っているのです、いっちー。男の子でしょ? さあ、行って下さい」
菩薩のような笑みを浮かべて友の背を押す。
「なんだかなぁ~」
一悟はわざと音を立ててドアを開いた。
排水ろ過システム室の中に踏み込む。上から金属の軋む音が聞こえて来た。
見上げる。
網目状の渡し通路越しに、青鬼の面と目があった。
「ファイヴだ!! 馬鹿なことは今すぐやめろ、水槽の水を抜いたらイルカたちが死ぬじゃねえか!」
ドスを利かせた声を出して本気で凄む。すぐ上にいる妖にではなく、一悟はこのくだらない茶番を仕掛けた古妖に腹を立てていた。
階段の白い手すりを掴んで金属板のステップに足をかける。そこから一気に駆け上がろうとしたとき、驚くべきことが起こった。
なんと、妖が片言で喋ったのだ。
「す……ぐ、に、死なナい……ワ、よ」
微かに流れる低いハム音を押さえ、青い仮面をつけた顎の下からしたたり落ちる血のポタ、ポタっという音が、覚者の耳に大きく響く。
「み、碧さん……もしかして、生きて――」
「違う、いっちー! ランクが上がりかけているんです!」
一二三は腰を落としながら一悟の赤シャツの裾を掴み、引っ張った。
直後、二人の頭の上を鉈がかすめ飛んで行き、音をたてて壁に食い込んだ。
妖からの宣戦布告にかっと頭に血を登らせた一悟が、今度こそ階段を駆け上がる。
青鬼の面はさっと踵を返すと、渡し廊下の端へ向かって駆けだした。走りながらに、壁沿い這うパイプをゴムホースで力いっぱい叩きつけていく。破れこそしなかったものの、パイプのいくつかはグニャリと大きく曲がってしまった。下手にバルブをいじって水圧をあげると、亀裂が入って破水するかもしれない。
「この野郎っ!」
「女性ですよ!」
「なに冷静に突っ込み入れてんだよ、ひふみん!」
地下一階へ上がる階段の手前で青鬼の面は立ち止まり、口からいきなり青い炎を吹きだした。一悟は反射的に炎を纏ったトンファーを前に突き出して、伸ばされた炎の舌を割り裂いた。炎と炎が渦巻き、貪欲に空気を貪り食って轟音を発する。
「いっちー!!」
狭い排水ろ過システム室いっぱいに広がった光と熱を払うように、一二三は舞った。
●
飛鳥は非常口のドアの前にいて、ドーンという爆発音を聞いた。わずかに遅れて床が揺れる。
水族館スタッフの指示にしたがって粛々と退避していた客たちが足を止め、ひっと、短く悲鳴をあげて体を低くした。水槽の水にも爆発の振動が伝わったらしく、イルカたちがせわしなくターンを繰り返しながらメチャクチャに泳ぎだす。水位はすでに保坂の胸のあたりまでさがっていた。
保坂は観察窓を背にしたまま、ざわつくフロアの端から穏やかな声で、「なんでもありません。指示に従って上へ移動してください」と人々に呼びかける。
「スタッフのみなさんも避難してくださいなのよ」
飛鳥も保坂に倣って声を出しながら、逃げる人々を守るため、非常口と階段の間に立った。
「飛鳥ちゃん――」
「来たのよ。ドアから離れてくださいなのよ」
言葉にしたとたん、乱暴にドアが開かれ、白い煙が大きな観察窓の前に流れ込む。ほっそりとした体に青鬼の面をつけた女性がフロアに駆けこんできた。そのまま真っ直ぐ階段へ素足を向ける。
「ファイヴなのよ! いざ、尋常に勝負なのよ!」
階段の前に立つように、と素早く保坂に目配せする。飛鳥は覚醒すると、水晶のロッドの先を声に振り返った青鬼の面へ向けた。
水が迸り、牙をむく龍の頭になって妖に襲い掛かった。至近距離から毎分二四〇〇リットル、ドラム缶にして約十二本の放水量をまともに食らって華奢な体が吹き飛ぶ。
青鬼の面は壁に体を張りつけたまま、ズルズルと体を床に落とした。だが、意識を失ったわけではないようだ。体を低くしてほとんど這うような姿勢で、保坂が前を塞ぐのとは別の階段に向かおうとする。
飛鳥は全力で先回りした。
「どこにも行かせないのよ!」
保坂が階段の前から空気の刃を飛ばして妖の行く手を塞ぐ。飛鳥はたっと床を蹴って妖に近づくと、ウサギさんキックを顎下に入れた。
青鬼の面が仰け反る。
「ぬぬぬ! 面を取れなかったのよ――っ!!?」
ゴムホースで皮膚を叩く強烈な音がし、飛鳥は足を薙ぎ払われた。小柄な体が空で一回転する。一瞬の事で受け身が取れず、飛鳥は肩から床に落ちて呻いた。
妖は首を回して水位の下がった観察窓をみた。素早く立ちあがり、ガラスに鼻先を押し付けて集まっていたイルカたちに向かって駆けだす。ガラスを割る気だ。
保坂は飛鳥と妖、どちらへ向かうか一瞬判断に迷った。
「飛鳥の手当を!!」
一悟が非常口から飛び出してきた。妖の足にタックルし、馬乗りになって身柄を押さえた。
「このっ!」
トンファーを青鬼の面に叩きつけた。ゴッという音とともに衝撃の反動で妖の頭が跳ねる。古妖が作った面の中央に、小さなヒビが入らなかった。
イルカたちが一斉に歯を鳴らした。分厚いガラス越しにぎちぎちという音が聞こえてくる。いや、実際には聞こえるはずがない。聞こえたような気がしただけだ。大好きな飼育員が暴力を受けたことに抗議しているのか……。
再び腕を振り上げた瞬間、牙の見える口から再び青白い炎が吹きだされ、一悟の頭を包んだ。妖がブリッジして一悟を体の上から落とす。
イルカたちは尾びれですっかり低くなった水をしきりに跳ね上げ、喜んだ。
「恐ろしい面をつけていても彼らには判るみたいですね、彼女の事が」
息を弾ませ戻ってきたた一二三が、一悟を助け起こす。
「ちくしょう! それじゃ、まるっきりオレたちのほうが悪もんじゃねぇか」
「まあまあ……。それより、避難は完了しています。お客さんたちは全員、施設の外へ出ました」
一二三は排水ろ過システム室で破損したパイプを修復してから地上に出て、スタジアムの裏を回り込んでここに降りて来たのだ。
自分と一悟が受けたダメージを癒すため、飛鳥が降らせる神秘の雨が薄暗いフロアに銀の糸を引く。
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ!!」
「たしかにそうですね」
一二三は青鬼の面に入った小さなヒビを狙って、第三の目から怪光線を発した。面が二つに割れて床に落ちる。
青鬼の面は、裏から伸び出た触手を動かし、すぐに妖の体に這い上ろうとした。
「マジ、気持ちわりいな」
「同感なのよ!」
一悟と飛鳥がすかさず駆け寄って、面を粉々に叩き割る。
触手――太いミミズの束のようなそれは一瞬にして干からび、縮こまって、ゴムの燃えカスのようになった。
面を失った妖の額には穴があった。前回倒した象の飼育員と同じだ。
妖ガボガボと口から腐り始めた血をガスとともに吐き出し、くるりと体を反転させるて観察窓に手をつく。飼育員のあまりに変わり果てた姿に、イルカたちは怯え、観察窓の前から退いた。
手のひらを返したイルカたちに腹を立てたのか、それとも自分を殺した古妖の命題にいまもこだわっているのか、妖は分厚い観察窓をバンバンと手で叩き、炎を吐きつける。
水槽の水はほとんど残っていない。五十センチあるかないかだ。妖にガラスを割られてしまったら、再注入ができなくなってしまう。
「やめろ! あんた、飼育員だったんだよな……本当は……死んでも、可愛がっていたイルカを自分の手で殺しくない、そうだろ?!」
一悟は反撃覚悟で妖の腕をとり、強引に引っ張ってフロアの中央へ振り飛ばした。
もうこれ以上、碧に意に反したことはさせくない。心を鬼にして全力で倒す。
「いまなのよ!」
飛鳥の掛け声で、四人は一斉に攻撃を放った。
保坂が空気の刃で妖の腕を切り落とし、一二三が怪光線で胸を撃ちぬく。
一悟が炎の柱で妖化した体を焼き、飛鳥の放った水龍が黒焦げの遺体を異次元へ運び去った。
「ごめん、助けてあげられなくて」
再びガラスの前に集まってきたイルカたちに、死んでしまった緑に、一悟は詫びた。
●
水槽に水を入れるため、一悟と一二三は排水ろ過システム室へ降りていった。
「こんどこそ元凶を追いつめて次は必ずやっつけるのよ。プンプン」
飛鳥は怒りながら、保坂と二人で焦げ跡にスタッフが持ってきてくれたブルーシートを被せた。
観察窓のフロアはこのまま閉めるらしい。イルカショーも中止。当然といえば当然か。だが、水族館側は二時間後に再び客を館内に入れるという。魚たちの水槽にはまったく影響がなかったし、メインスタンドにも損害は出ていないので、ペンギンやアシカたちのショーは問題なく行えるという判断だ。
飛鳥は立ちあがって観察窓へ目を向けた。安全点検が終わったのだろう。一悟たちがバルブを回したらしく、水槽の水位が少しずつ上がり始めている。
「じゃあ、これはこのままにして……話を聞きに行こうか」
「ついでに裏側でお仕事見学もさせてもらうのよ。それに……ペンギンさんのエサやりもやりたいのよ」
自分が連絡するまで水族館側は事件にまったく気づいていなかった。古妖は誰の注意も引くことなく碧を殺害し、青鬼の面をつけて妖化、来た時と同じように去って行ったのだ。スタッフ全員に話を聞いて回っても、有意義な情報は得られないような気がする。
(「何か見つかるといいのだけど……動物園のときみたいに」)
それも期待薄だと諦めていた。現場に証拠品を残すという致命的なミスを、慎重に動き回っている古妖が犯すとは思えないのだ。
「それでもベストはつくすのよ。あ、保坂さん、あすかがペンギンさんたちにエサを上げているところ、ちゃん写真に撮ってくださいね、なのよ」
どうせなら今日を台無しにされたすべての人々に代わって存分に楽しもう。そうしているうちに、すっきりとしない気分も晴れるはずだ。
飛鳥は保坂の手を取ると、階段を上がった。
「よし、大丈夫そうだな」
一悟たちは後を水族館のスタッフ――眩の夢見では妖に殺されるはずだった二人の男性に後を引き継いだ。
「怖がらなくても大丈夫です、もう妖はでません。では、メインスタンドを調べに行きましょうか、いっちー」
一二三がスタッフに言ったことは本当だったし、その時点では知る由もなかった。まだ古妖、面彫士が水族館内にとどまっていることを。
ともあれ、ふたりはメインスタンドへ向かった。
「碧さんが襲われたところから見て回った方がいいんじゃね?」
一悟が至極もっともなことを口にする。
「ええ。ですが、今の時点では碧さんがどこで襲われたのか分かりませんよね。ファイヴと警察の調査をまたないと……なので、陽があるうちにメインスタンドを見て回りましょう」
なぜなら面彫士は下見をしているに違いないから。
「問題を考えたのが先なのか、ここに目をつけたのが先なのか。いずれにしても事件を起こす前に一度は下見に来ているはずです。ミトス、上から調べてくれませんか?」
守護使役のミトスが空から、一悟と一二三は手分けしてスタンドのベンチの下を見て回った。
「なにもないな」
「ですね。移動しましょう」
腹が減った、その前に何か食べようぜ、という一悟に苦笑しつつ、一二三はミトスを呼び戻した。
スタンドを降り、魚たちが泳ぐ様子が見られるというレストランへ向かう。
「でも、営業していますかね」
「五時からまたやるっていってたぜ。お、あと、一分……ほら、門の前でたくさんお客さんが待っている」
一悟が指をさす。一二三が顔を向けたとき、ちょうど門が開かれた。
警察官が前に立つドアへ好奇の目を向けながら、客たちがぞくぞくと入ってきた。報道陣もたくさんいる。
「――あっ」
一二三は歩きだした一悟の襟首をつかんで引き止めた。
人の流れに逆らって門から出て行こうとする男から、同族の気配がひしひしと伝わってくる。が、すぐに姿を見失ってしまった。
「な、なんだよ急に!」
「……すみません。見失ってしまいました」
「へ? 何を?」
一二三は黙って拳を固く握る。
胸の悪くなるようなことを繰り返す悪魔のような古妖は、穏やかで優しい……仏のような顔をしていた。
笛の音が鳴った。前足で敬礼するアシカの愛くるしい姿が、メインスタンド正面の巨大モニターに映し出された。歓声が沸き、続いて拍手の音がメインスタンドの裏手まで聞こえてくる。
「イルカショーは中止になっちゃったんだな」
柵に張られた手書きのポスターを見て、『五麟マラソン優勝者』奥州 一悟(CL2000076)が低く呟いた。
「しかたないのよ。調教師のお姉さんがいなくなったから……しばらくショーはできないのよ」
シャッターが切られる音を聞いて、『ゆるゆるふああ』鼎 飛鳥(CL2000093)は、後ろに立つ保坂 環(nCL2000076)へ顔を向けた。
保坂は一眼カメラで手書きのポスターを撮っていた。ポスターは隅を止めたテープが剥がれており、ペラペラと音をたてて風にめくられている。
≪「調教師、急病のため――」≫
黒の太い油性ペンで書かれた文字が、下からめくり上げられた紙で隠された。続きの文字と下に小さく続けられた内容は、見なくても想像できる。ただ、紙がめくれる音があまりにも寂しげだったので、飛鳥はため息をついて目をそらした。
長い時間をかけてイルカたちと信頼関係を築いてきた人間――殺されて妖にされた調教師は名前を中山 碧といい、この水族館に勤めて十年になるベテランだった。事前にファイヴから入れた連絡で、水族館側は初めて、これまで無遅刻無欠勤だった碧の死と妖化を知った。
だが、イルカたちは碧の死をしらない。教えようもない。彼らはただ、碧かいなくなった、とだけ思うのだろうか。
それはイルカたちにとっても、碧にとってもとても悲しいことだ、と飛鳥は思った。
顔を暗くした飛鳥の肩に、勒・一二三(CL2001559)が優しく触れる。
「僕たちが止めましょう。碧さんの魂もイルカたちも……誰も傷つかないように」
起こってしまった悲劇はもう取り消せない。しかし、これから起きる悲劇は未然に防ぐことができる。いや、防がねばならない。
「いくぜ、ひふみん。飛鳥、保坂さん、観察窓前で会おう」
「なるべく上へ追い込むようにいたしましょう。聞くと地下三階の部屋は狭くて戦いにくそうでしたしね」
先に歩きだしていた一悟が振り返って一二三を呼んだ。
「では、行って参ります」
一二三は駆け足で一悟を追った。二人並んでスタンド横に立つ管理棟の中へ消える。
地下三階からこの下にある排水ろ過システム室で、いまこの時もイルカたちの水槽の水を抜くために青鬼の面をつけた碧―妖がバルブを緩めているはずだ。狭い排水ろ過システム室で戦えば、排水や給水のパイプを破損させてしまう恐れがある。そうなればイルカたちだけでなく、水族館中の魚や海獣たちの命が危険にさらされてしまうだろう。
だから覚者たちは青鬼の面と碧を、スタントの真下にある、地下の水槽観察窓前に追い込む作戦を立てた。一悟と一二三が下から上へ追い立て、飛鳥と保坂が逃げないように退路を塞ぎながら迎え撃つ。……が、その前にやっておかなくてはならないことがある。
「よろしくお願いします」と、保坂は傍に控えていた警備員と職員たちに頭を下げた。
職員たちもぎこちない動きで頭を下げる。一番の年長者、水族館の館長らしき人物が前に一歩進み出てきた。
「スムーズに避難して戴けるよう、出口門を前開にしています。逆に討伐が終わるまではお客さんを入れないよう門を閉めました」
「ありがとうございますなのよ。危ないことはあすかたちが引き受けます。妖が上がってきたらお客さんが残っていてもすぐに逃げてください」
ショーの中止でイルカたちのダイナミックな水中の動きを観察することはできないが、となりのイルカ槽でのんびりと泳ぎまわる姿は見ることはできる。せっかくきたのだから、と観察窓の前は子連れの若い夫婦やカップルたちで賑わっていた。まずはこの客たちを速やかかつ安全に退避させなくてはならない。
「保坂さん、いきましょうなのよ」
こんどこそ元凶を追いつめて、次は必ずやっつける。
飛鳥は静かに闘志をかき立てると、保坂や職員たちとともにスタンドの地下一階へ降りていった。
●
「いる?」
我ながら間抜けな質問だ、と一悟はドアノブをゆっくりと押し下げながら思った。ファイヴに所属する夢見の情報制度は驚くほど高い。夢見が地下二階にいる、と言ったならいるに決まっている。まあ、ごくたまに違うこともあるが。
「いますよ。はっきりと感じます」
一悟の問いに至極真面目に答えを返すと、一二三は第三の目を隠すようにキャスケットのツバを軽く引き下げた。今日は僧侶服ではなく、黒スキニーに前を開けた濃紺の開襟シャツというコーディネイトだ。開襟シャツの下は白のTシャツ。長い髪は先の方で緩く纏めてある。
「僕が後ろからサポートします。怪我を気にせず、ガンガン妖にぶつかっていってください」
「あ、いや……なるべく痛い目に遭いたくないんだけど」
「何を言っているのです、いっちー。男の子でしょ? さあ、行って下さい」
菩薩のような笑みを浮かべて友の背を押す。
「なんだかなぁ~」
一悟はわざと音を立ててドアを開いた。
排水ろ過システム室の中に踏み込む。上から金属の軋む音が聞こえて来た。
見上げる。
網目状の渡し通路越しに、青鬼の面と目があった。
「ファイヴだ!! 馬鹿なことは今すぐやめろ、水槽の水を抜いたらイルカたちが死ぬじゃねえか!」
ドスを利かせた声を出して本気で凄む。すぐ上にいる妖にではなく、一悟はこのくだらない茶番を仕掛けた古妖に腹を立てていた。
階段の白い手すりを掴んで金属板のステップに足をかける。そこから一気に駆け上がろうとしたとき、驚くべきことが起こった。
なんと、妖が片言で喋ったのだ。
「す……ぐ、に、死なナい……ワ、よ」
微かに流れる低いハム音を押さえ、青い仮面をつけた顎の下からしたたり落ちる血のポタ、ポタっという音が、覚者の耳に大きく響く。
「み、碧さん……もしかして、生きて――」
「違う、いっちー! ランクが上がりかけているんです!」
一二三は腰を落としながら一悟の赤シャツの裾を掴み、引っ張った。
直後、二人の頭の上を鉈がかすめ飛んで行き、音をたてて壁に食い込んだ。
妖からの宣戦布告にかっと頭に血を登らせた一悟が、今度こそ階段を駆け上がる。
青鬼の面はさっと踵を返すと、渡し廊下の端へ向かって駆けだした。走りながらに、壁沿い這うパイプをゴムホースで力いっぱい叩きつけていく。破れこそしなかったものの、パイプのいくつかはグニャリと大きく曲がってしまった。下手にバルブをいじって水圧をあげると、亀裂が入って破水するかもしれない。
「この野郎っ!」
「女性ですよ!」
「なに冷静に突っ込み入れてんだよ、ひふみん!」
地下一階へ上がる階段の手前で青鬼の面は立ち止まり、口からいきなり青い炎を吹きだした。一悟は反射的に炎を纏ったトンファーを前に突き出して、伸ばされた炎の舌を割り裂いた。炎と炎が渦巻き、貪欲に空気を貪り食って轟音を発する。
「いっちー!!」
狭い排水ろ過システム室いっぱいに広がった光と熱を払うように、一二三は舞った。
●
飛鳥は非常口のドアの前にいて、ドーンという爆発音を聞いた。わずかに遅れて床が揺れる。
水族館スタッフの指示にしたがって粛々と退避していた客たちが足を止め、ひっと、短く悲鳴をあげて体を低くした。水槽の水にも爆発の振動が伝わったらしく、イルカたちがせわしなくターンを繰り返しながらメチャクチャに泳ぎだす。水位はすでに保坂の胸のあたりまでさがっていた。
保坂は観察窓を背にしたまま、ざわつくフロアの端から穏やかな声で、「なんでもありません。指示に従って上へ移動してください」と人々に呼びかける。
「スタッフのみなさんも避難してくださいなのよ」
飛鳥も保坂に倣って声を出しながら、逃げる人々を守るため、非常口と階段の間に立った。
「飛鳥ちゃん――」
「来たのよ。ドアから離れてくださいなのよ」
言葉にしたとたん、乱暴にドアが開かれ、白い煙が大きな観察窓の前に流れ込む。ほっそりとした体に青鬼の面をつけた女性がフロアに駆けこんできた。そのまま真っ直ぐ階段へ素足を向ける。
「ファイヴなのよ! いざ、尋常に勝負なのよ!」
階段の前に立つように、と素早く保坂に目配せする。飛鳥は覚醒すると、水晶のロッドの先を声に振り返った青鬼の面へ向けた。
水が迸り、牙をむく龍の頭になって妖に襲い掛かった。至近距離から毎分二四〇〇リットル、ドラム缶にして約十二本の放水量をまともに食らって華奢な体が吹き飛ぶ。
青鬼の面は壁に体を張りつけたまま、ズルズルと体を床に落とした。だが、意識を失ったわけではないようだ。体を低くしてほとんど這うような姿勢で、保坂が前を塞ぐのとは別の階段に向かおうとする。
飛鳥は全力で先回りした。
「どこにも行かせないのよ!」
保坂が階段の前から空気の刃を飛ばして妖の行く手を塞ぐ。飛鳥はたっと床を蹴って妖に近づくと、ウサギさんキックを顎下に入れた。
青鬼の面が仰け反る。
「ぬぬぬ! 面を取れなかったのよ――っ!!?」
ゴムホースで皮膚を叩く強烈な音がし、飛鳥は足を薙ぎ払われた。小柄な体が空で一回転する。一瞬の事で受け身が取れず、飛鳥は肩から床に落ちて呻いた。
妖は首を回して水位の下がった観察窓をみた。素早く立ちあがり、ガラスに鼻先を押し付けて集まっていたイルカたちに向かって駆けだす。ガラスを割る気だ。
保坂は飛鳥と妖、どちらへ向かうか一瞬判断に迷った。
「飛鳥の手当を!!」
一悟が非常口から飛び出してきた。妖の足にタックルし、馬乗りになって身柄を押さえた。
「このっ!」
トンファーを青鬼の面に叩きつけた。ゴッという音とともに衝撃の反動で妖の頭が跳ねる。古妖が作った面の中央に、小さなヒビが入らなかった。
イルカたちが一斉に歯を鳴らした。分厚いガラス越しにぎちぎちという音が聞こえてくる。いや、実際には聞こえるはずがない。聞こえたような気がしただけだ。大好きな飼育員が暴力を受けたことに抗議しているのか……。
再び腕を振り上げた瞬間、牙の見える口から再び青白い炎が吹きだされ、一悟の頭を包んだ。妖がブリッジして一悟を体の上から落とす。
イルカたちは尾びれですっかり低くなった水をしきりに跳ね上げ、喜んだ。
「恐ろしい面をつけていても彼らには判るみたいですね、彼女の事が」
息を弾ませ戻ってきたた一二三が、一悟を助け起こす。
「ちくしょう! それじゃ、まるっきりオレたちのほうが悪もんじゃねぇか」
「まあまあ……。それより、避難は完了しています。お客さんたちは全員、施設の外へ出ました」
一二三は排水ろ過システム室で破損したパイプを修復してから地上に出て、スタジアムの裏を回り込んでここに降りて来たのだ。
自分と一悟が受けたダメージを癒すため、飛鳥が降らせる神秘の雨が薄暗いフロアに銀の糸を引く。
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ!!」
「たしかにそうですね」
一二三は青鬼の面に入った小さなヒビを狙って、第三の目から怪光線を発した。面が二つに割れて床に落ちる。
青鬼の面は、裏から伸び出た触手を動かし、すぐに妖の体に這い上ろうとした。
「マジ、気持ちわりいな」
「同感なのよ!」
一悟と飛鳥がすかさず駆け寄って、面を粉々に叩き割る。
触手――太いミミズの束のようなそれは一瞬にして干からび、縮こまって、ゴムの燃えカスのようになった。
面を失った妖の額には穴があった。前回倒した象の飼育員と同じだ。
妖ガボガボと口から腐り始めた血をガスとともに吐き出し、くるりと体を反転させるて観察窓に手をつく。飼育員のあまりに変わり果てた姿に、イルカたちは怯え、観察窓の前から退いた。
手のひらを返したイルカたちに腹を立てたのか、それとも自分を殺した古妖の命題にいまもこだわっているのか、妖は分厚い観察窓をバンバンと手で叩き、炎を吐きつける。
水槽の水はほとんど残っていない。五十センチあるかないかだ。妖にガラスを割られてしまったら、再注入ができなくなってしまう。
「やめろ! あんた、飼育員だったんだよな……本当は……死んでも、可愛がっていたイルカを自分の手で殺しくない、そうだろ?!」
一悟は反撃覚悟で妖の腕をとり、強引に引っ張ってフロアの中央へ振り飛ばした。
もうこれ以上、碧に意に反したことはさせくない。心を鬼にして全力で倒す。
「いまなのよ!」
飛鳥の掛け声で、四人は一斉に攻撃を放った。
保坂が空気の刃で妖の腕を切り落とし、一二三が怪光線で胸を撃ちぬく。
一悟が炎の柱で妖化した体を焼き、飛鳥の放った水龍が黒焦げの遺体を異次元へ運び去った。
「ごめん、助けてあげられなくて」
再びガラスの前に集まってきたイルカたちに、死んでしまった緑に、一悟は詫びた。
●
水槽に水を入れるため、一悟と一二三は排水ろ過システム室へ降りていった。
「こんどこそ元凶を追いつめて次は必ずやっつけるのよ。プンプン」
飛鳥は怒りながら、保坂と二人で焦げ跡にスタッフが持ってきてくれたブルーシートを被せた。
観察窓のフロアはこのまま閉めるらしい。イルカショーも中止。当然といえば当然か。だが、水族館側は二時間後に再び客を館内に入れるという。魚たちの水槽にはまったく影響がなかったし、メインスタンドにも損害は出ていないので、ペンギンやアシカたちのショーは問題なく行えるという判断だ。
飛鳥は立ちあがって観察窓へ目を向けた。安全点検が終わったのだろう。一悟たちがバルブを回したらしく、水槽の水位が少しずつ上がり始めている。
「じゃあ、これはこのままにして……話を聞きに行こうか」
「ついでに裏側でお仕事見学もさせてもらうのよ。それに……ペンギンさんのエサやりもやりたいのよ」
自分が連絡するまで水族館側は事件にまったく気づいていなかった。古妖は誰の注意も引くことなく碧を殺害し、青鬼の面をつけて妖化、来た時と同じように去って行ったのだ。スタッフ全員に話を聞いて回っても、有意義な情報は得られないような気がする。
(「何か見つかるといいのだけど……動物園のときみたいに」)
それも期待薄だと諦めていた。現場に証拠品を残すという致命的なミスを、慎重に動き回っている古妖が犯すとは思えないのだ。
「それでもベストはつくすのよ。あ、保坂さん、あすかがペンギンさんたちにエサを上げているところ、ちゃん写真に撮ってくださいね、なのよ」
どうせなら今日を台無しにされたすべての人々に代わって存分に楽しもう。そうしているうちに、すっきりとしない気分も晴れるはずだ。
飛鳥は保坂の手を取ると、階段を上がった。
「よし、大丈夫そうだな」
一悟たちは後を水族館のスタッフ――眩の夢見では妖に殺されるはずだった二人の男性に後を引き継いだ。
「怖がらなくても大丈夫です、もう妖はでません。では、メインスタンドを調べに行きましょうか、いっちー」
一二三がスタッフに言ったことは本当だったし、その時点では知る由もなかった。まだ古妖、面彫士が水族館内にとどまっていることを。
ともあれ、ふたりはメインスタンドへ向かった。
「碧さんが襲われたところから見て回った方がいいんじゃね?」
一悟が至極もっともなことを口にする。
「ええ。ですが、今の時点では碧さんがどこで襲われたのか分かりませんよね。ファイヴと警察の調査をまたないと……なので、陽があるうちにメインスタンドを見て回りましょう」
なぜなら面彫士は下見をしているに違いないから。
「問題を考えたのが先なのか、ここに目をつけたのが先なのか。いずれにしても事件を起こす前に一度は下見に来ているはずです。ミトス、上から調べてくれませんか?」
守護使役のミトスが空から、一悟と一二三は手分けしてスタンドのベンチの下を見て回った。
「なにもないな」
「ですね。移動しましょう」
腹が減った、その前に何か食べようぜ、という一悟に苦笑しつつ、一二三はミトスを呼び戻した。
スタンドを降り、魚たちが泳ぐ様子が見られるというレストランへ向かう。
「でも、営業していますかね」
「五時からまたやるっていってたぜ。お、あと、一分……ほら、門の前でたくさんお客さんが待っている」
一悟が指をさす。一二三が顔を向けたとき、ちょうど門が開かれた。
警察官が前に立つドアへ好奇の目を向けながら、客たちがぞくぞくと入ってきた。報道陣もたくさんいる。
「――あっ」
一二三は歩きだした一悟の襟首をつかんで引き止めた。
人の流れに逆らって門から出て行こうとする男から、同族の気配がひしひしと伝わってくる。が、すぐに姿を見失ってしまった。
「な、なんだよ急に!」
「……すみません。見失ってしまいました」
「へ? 何を?」
一二三は黙って拳を固く握る。
胸の悪くなるようなことを繰り返す悪魔のような古妖は、穏やかで優しい……仏のような顔をしていた。
■シナリオ結果■
成功
■詳細■
MVP
なし
軽傷
なし
重傷
なし
死亡
なし
称号付与
なし
特殊成果
なし
