

拳が空を割き、己の顔面に激突する。
続いて腹。それも脇腹を正確にえぐるパンチだ。
ラッシュはまだ続く。胸や顎へと絶え間なく拳が叩き込まれていく。
その間、男は両腕をだらりとぶら下げたままだった。
そのくせ両足は地面から一歩たりとも動いていない。
ここまでのラッシュを食らって微動だにせずとは。相手の男も流石に焦りを感じたのか、てんてんとバックステップで距離をとった。
手足と尾が辰化した獣憑の覚者(トゥルーサー)である。質感としては大トカゲに近い。
改めて観察してみれば、相手は成人男性が見上げるほどの大男である。肩幅も広く、乱暴に伸ばした髪は肩にかかっている。
名は大門(だいもん)。強敵だ。焦りが汗になって沸きだし、頬をつたう。
一方の大門はトカゲの男をじっと見つめたまま、未だに動かなかい。
威圧感だけでたじろぎそうになるが、トカゲの男は退くわけにはいかなかった。
周囲を見渡せば、金網越しに沢山のギャラリーが自分たちを見物している。ヤジを飛ばす者や興奮に叫ぶ者、腕組みして沈黙する者や値踏みするように見つめてくる者。
態度は様々だが、誰の手にも同じような紙切れが握られているのが分かるだろうか。
「おいおいトガケ野郎! 下がってんじゃねえぞ、テメェにいくら賭けたと思ってやがる!」
「行け行け、死ぬ気で殴れ!」
後ろからヤジが飛んでくる。トカゲ男は罵声を吐くと、拳に炎を宿して大門の顔面へと助走をつけて殴りかか――。
「遅い」
ハンパな関西弁なまりの囁きがあったかと思うと、彼の拳が大門の顔面直前で止められていた。
それまで何人もの覚者を伸ばしてきた拳が、手のひら一枚で止まったのだ。
驚きに目を見開く彼に、大門はゆっくりと、そして小さく首を振る。
「遅い、軽い、んで弱いわ。ンな拳、俺にはまるで効かん」
途端。視界が反転した。
大門が彼の拳をひねり、彼の身体をまるごと天高く振り上げると、そのまま地面に叩き付けたのだ。
一瞬の静寂。
トカゲの男は完全に気を失っている。
静寂を静かに割って、老人が『小手返しか』と呟いた。
会場中に鐘の音が鳴り響いた。
「大門林太郎の勝利! 十覇達成ー!」
レフリーに腕をとられ、大門は自らの拳を天に掲げる。
だがここに天空などない。
まわりは金網。そのまわりは賭けのチケットを握ったギャラリーたち。その向こうはコンクリートでぐるりと覆われた壁があるだけだ。当然天井も、分厚い板と照明しか見えない。
閉鎖した空間でありながらしかし、場は興奮で埋まっていた。
マイクをとった男が額に血管を浮かべながら叫んだ。
「大門がまた伝説を塗り替えました! この連勝記録はどこまでも続くのか!? それとも、奴に止められてしまうのか!? そう、次こそは冷酷非道の殺人マシーン! 『チェンソーハンズ』ジェイの登場だー!」
盛大な拍手と煌々と光るライトを浴びて、両腕をチェーンソーにした付喪の男が現われる。
大門はそんな様子を、どこか遠い場所を見るように眺めていた。鼻を鳴らし、つまらなそうに顎を上げる。
そんな大門をニヤニヤとした顔で見つめながら、ジェイはホッケーマスクを顔に嵌めた。
ジェイの動作を合図にか、金網のリングが再び閉じられる。
うなりを上げて動き出す両腕のチェーンソー。
「余裕そうじゃねえか旦那ァ。だがアンタは稼ぎすぎた。俺の顔と名前を知ってるだろォ? 俺様はあまりに強すぎて相手をたびたび殺しちまうんだ。ついたあだ名が――」
鳴り響くゴング。
地を滑るように急接近する大門。
繰り出した正拳突きがホッケーマスクの中央をとらえ、粉砕。
ジェイは悲鳴をあげながら吹き飛び、金網を軽くひしゃげさせて停止。そのまま白目を剥いて気絶した。
「チェンソーハンズとちゃうんかい」
ため息と共に体勢を戻す大門。
わき上がるギャラリー。十一連覇を唱える声と歓声の中、大門は開かれた金網のリングからゆっくりと出て行った。
振り返ることもなく、ギャラリーたちを見ることもない。
リング裏の通路に紫のスーツを着た男が立っている。この地下闘技場を運営している男だ。呉羽(くれは)とかいうどこかの会社の社長だというが、大門には興味の無い話だった。
横に控えていた黒服が突きだしてくる札束をむしり取り、大門は横を通り過ぎていく。
「おおい、大門くん」
呉羽が声を上げ、大門はその場に立ち止まった。
立ち止まるだけだ。振り向きもしない。
そんな彼に呉羽は左右非対称の笑みを浮かべた。
人懐っこい表情に見えて、目だけが絶対的に笑っていない。
「挨拶くらいしてってよ。寂しいじゃないの」
「……あんたにかける言葉なんてあらへん」
僅かばかり振り返る大門。
呉羽は笑みを崩さぬまま歩き、彼の横で立ち止まった。
胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえる。横に立っていた黒服が素早くジッポライターを開き、彼の煙草に火をつけた。
煙を胸一杯に吸い込み、口の端からため息のごとくはき出す。
甘い香りを伴った煙が大門の顔にかかるが、大門は無表情を崩さない。
「つれないねえ、大門ちゃん。仲良くしようよ、なあ?」
呉羽は煙草をもう一本抜くと、大門へと差し出した。
「さっきの試合なに? 適当に戦って負けてって言ったじゃん。怪我しない程度にするからってさ」
「俺は八百長はせん。そう言うたはずや」
一方の大門は、煙草を受け取るどころか目すら合わせなかった。
「そこをなんとかさ。大門ちゃんのカラダが心配なんだよ。こうも連戦しちゃうとさ、すぐに身体壊しちゃうでしょ」
「あんなアホ寄越しといてよう言うわ」
呉羽の腕を押しのけるようにして再び歩き出す大門。
彼の背中を見送りながら、呉羽は持っていた煙草を黒服へと差し出した。
慌てて煙草を両手で受け取る黒服。その途端、呉羽は自分の咥えていた煙草の、それも燃えている部分を黒服の眼球に押し当てた。
顔を押さえてうずくまる黒服。
呉羽は遠ざかる大門の足音と黒服の悲鳴を聞きながら、胸ポケットから煙草の箱を取り出す。
空になっているのを見てはじめて、苦々しく顔を歪めた。
無数の人々が行き交う町を、紙袋ひとつ抱えて歩く大門。
彼の風体に道行く人たちが目を合わせないように顔を伏せるが、本人はまるで気にした様子はない。
大通りを横切り、小道へと入り、ビルとビルの間の隙間へと入る。
そのまま進み、中華料理店の裏口へと入り、営業中の厨房を抜け、更にいくつもの建物の間を抜けて歩く。
すると、全く手のつけられていない空き地へとたどり着いた。
地面は土が向きだしになり、端にはゴミとなった電化製品が放置されている。
広さにして3平方メートル程度だろうか。
その中央。小型冷蔵庫に幼い少女が腰掛けていた。
小型の携帯ゲーム機を持って、なにやら真剣に遊んでいるようだ。
「なんや、またゲームかいな」
「あっ」
少女はゲーム機から顔を上げ、華やいで笑った。
「おじさん、おかえり!」
「おう。土産や」
紙袋からリンゴを一個取り出して放る。慌ててキャッチする少女。
「わあ、ありがと!」
ゲーム機をそばに置いて、早速リンゴにかじりつく。
そんな少女を見て、大門は穏やかに笑った。
「急にがっつくな。ほんまにお前はよく食うやつやな」
「お腹がすくとイライラするから」
「なんやそら」
きびすを返す大門。
「また出かけるの?」
「いや、オタコスんところに顔出してくるだけや。そろそろ夕方ンなるから、家に帰っとき」
「……うん」
夜は妖(アヤカシ)が多く出る時間だ。武装した人間の集まる都会であってもまだ安全ではない。
大門は少女へ改めて振り返ると、手を振りながらその場を後にした。
後にしたと言っても、すぐそばのドアを潜って地下への階段を進んだ先である。
薄暗い地下を進み、スチール製の扉を開ける。
そこはより一層薄暗い部屋だった。
強い埃と脂の臭い。さほど広くも無い部屋には一面に意味不明なポスターが貼られている。巨大な人型ロボットやデコレーションドレスやステッキを装着した少女などのアニメイラストである。この部屋の主が貼ったもので、むろんそいつの趣味だ。
だが部屋の主の趣味を最も顕著に表しているのは、部屋の奥に集められた十台近いディスプレイである。よく分からない数字やらグラフやら映像やらが流れていて、その全てに彼は視線を走らせ続けていた。
絶望的な肥満体型で、顔に埋まるような眼鏡をかけている。眼鏡にはディスプレイの青白い光が反射し、絶えず動いている。
彼が大門にオタコスと呼ばれている男である。本名は小杉というが、濃い趣味のせいでニックネームが先行して伝わっているのだ。
「おかえり大門。今回も稼いできたみたいだね」
「まあまあや」
そう言って、大門は彼のデスクに札束を放り出した。
横目でちらりと見る小杉。
「ねえ、それ、もしかしてだけど……稼いだ分の全額あるよね」
「全額や」
「それ全部、もしかしてだけど……」
「子供らに使ってやってくれや」
小杉は当然のこと、大門にも子供などいない。
いるのは彼らがかつて入っていた児童施設の子供たちである。
各地でおこる妖や憤怒者、隔者による事件は後を絶たない。これらをまとめて五行被害などと呼ぶが、そういった被害で家や家族を失った子供は多く、妖討伐抗争の爪痕もあり、すぐに国が抱えきれるレベルを超えた。それゆえ、どこの施設も経営難に見舞われている。借金取りに日々脅かされている所も珍しくないそうだ。
「あのねえ大門。匿名で寄付し続けるのだって難しいんだよ? それにキミはもっと自分のことにお金を使うべきだ。なんなら、キミの好きそうなアニメDVDをプレゼントしてあげたっていい」
「いらんわそんなもん。それより……」
大門は小杉の椅子に手をかけ、中央のディスプレイを覗き込んだ。
「次の試合はどうなっとる」
「ええ? もう次の話かい? 今日終えてきたばかりじゃないか」
「つべこべ言わんとはよ言え」
「せかさないでよ、恐いなあ!」
小杉は情けない顔をすると、脇に置いてあったコーラのペットボトルを一気飲みした。
ついでにハンバーガーを一口で頬張り、両手をそのままキーボードに添える。
脂肪まみれの指だというのに、まるで機械仕掛けのように高速でキーボードを叩いていく。
画面にはインターネットブラウザが表示され、ブックマークしたサイトへ接続した。
接続に若干の時間はかかるものの、そうストレスのある長さではない。
やがて黒背景に白文字だけの掲示板サイトが表示された。顔をしかめる大門。
「一日中こんなモン見てよく目が潰れんもんや」
「別に一日中見てないよ。それに、このくらい日本じゃ普通だよ普通。ま、アメリカや中国はもっと進んでるんだけどさ。あーあー電波が好きに飛ばせる国に住みたいなー。電話代だってバカにならないし」
心にも無いトーンで述べつつ、目的の掲示板を表示させる。
普通では世に出回らない情報が書かれた掲示板である。いわゆるアンダーグラウンドBBSだ。
大門が荒稼ぎしている地下闘技場の情報もここには流れてきている。
「どれどれ……翼人の女だって。術式は水行だから……うーん、誰かなあ。もっと情報絞れないかな」
「そこまで分かればええ」
「名前くらい知っときたくないの?」
「興味ないわ。どうせ大したことないやろ」
余裕のある大門の口ぶりに、小杉は不安げな顔をした。
「……ねえ大門、最近強くなりすぎてない?」
「そうか? ンなことないやろ」
「あるって。キミが戦ったチェンソーハンズのジェイはね、連勝ストッパーとして有名だったんだよ。勝っても負けても相手の身体をボロボロにするって評判で……」
「それホンマか? 俺のパンチ一発で沈んだで。デマとちゃうんか」
「マジ情報だよ。本当なら無傷で勝つ筈ないんだ。覚者の成長にだって限度があるもの」
大門は自分の頭の中でこれまでの戦いを反芻してみた。
「確かに強くなっとるのは確かやけど……」
「ボクは不安なんだよね。大門が破綻者(バンク)になっちゃうんじゃないかってさ」
そう言って、小杉は海外の動画サイトにアクセスした。
流石に時間がかかるようで、アクセスを諦めてローカルの動画ファイルを開く。
映像にはナイフを持った男が暴れている様子が映っている。場所は日本の都内のようだ。
男は周囲へ無差別に斬りかかっている。
「なんやこれ、酔っ払いか?」
「大門、キミはものを知らなすぎるよ。五行界では常識だよ? 破綻者って言って、五行の力に飲み込まれた覚者のことさ」
「ふうん……」
映像の男は暫くの間狂ったように暴れていたが、徐々にその動きが鋭くなり、力強くなっていった。
だが強さに応じて男の人間性は失われていき、しまいにはかろうじて人間の形をした獣と化していた。
周りの呼びかけなどまるで通じていない。正真正銘のバケモノだ。
その様子に、大門の背筋にぞくりとしたものが走った。
「恐ろしいだろ? 一旦破綻者になったらもう絶対に元には戻らないんだ」
「絶対にか」
「絶っ対っにだよ! そりゃあどっかで軽度の破綻者を覚者に戻す実験が成功したってウワサはあるけど、ボクはデマだと睨んでるね。そんな便利な技術があるなら公表されてなくちゃおかしいだろ?」
「どうやろな。悪いことに利用するヤツもおるかもしれんで」
「かもね。ま、本当にあったらの話だけど」
別のハンバーガーに手を伸ばす小杉。
それを会話の切り上げ時と受け取って、大門はモニターから離れた。部屋の扉を開けて出て行こうとする。
「あれ、もう行くの? テレビ見ていこうよ。今日は魔法少女モノと特撮の二本立てだよ?」
「いらんわ。それより鍵くれ」
「はいはい。今日はひいらぎホテルの505号室だよ。場所分かる?」
引き出しから出した鍵を投げて渡す小杉。
「おう、いつもおおきにな」
大門はそれを受け取って、部屋を出て行った。
……出て行ってから、数十秒。
足音が遠くなっていったのを確認してから、小杉はディスプレイのひとつに目をやった。
画面には電子メールの受信シグナルが出ている。
メールを開くと、奇妙な英数字の列が並んでいた。それをコピーして別のソフトウェアに入力。すると、このような文章に変換された。
『ダイモンをワナにはめるジュンビはできたか? クレハ』
小杉はそれを暫く見つめてから、文字を入力する。
『ジュンチョウに。ひいらぎ505。 コスギ』
文章を先程のような英数字の列に変換すると、それをメールにのせて送信した。
それから暫くしてから、部屋の電話が鳴り始める。
受話器をとる。
「ボクだ、呉羽さん? やめてくれよ、なんでわざわざ電話なんか……」
受話器を耳と肩に挟んで固定しつつ、キーボードを叩き始める。
「えっ!?」
だがその手が止まり、受話器を取り落としそうになった。
慌てて受話器を握りしめ、耳に当てる。
「ちょっと待ってよ! 大門は殺さない約束じゃないか! お、お金は返す、だから……もしもし! もしもし!? そ、そんな……!」
受話器からは通話の終わった音だけが聞こえてくる。
それに混じって、背後でグラスの砕け散る音が聞こえた。
ゆっくりと振り返る小杉。
半開きのドア。
床に散らばるオレンジジュースとグラスの破片。
そして。
トレーを力なく傾けた少女が立っていた。
「い、いまの……聞いて、た?」
引きつった笑顔を作る小杉。
少女はすぐに身を翻し、部屋から飛び出していった。
アスファルトの地面に倒れ伏す大門。
頭から流れた血が広がっていく。
起き上がろうと震える手で地面をつくが、その手をナイフが貫通した。
獣のような悲鳴があたり一面に響き渡った。
ここは防護シャッターによって守られた地下駐車場である。
だが車は一台も停まっておらず、そこにいる人間も大門と数人の黒服……そして呉羽だけだった。
「大門ちゃんさあ、俺にこんなことさせないでって前に言ったじゃん。なんで言うとおりにしてくれないの。こんなんじゃさあ……」
大門の手に刺さったナイフを踏みつける。
果物ナイフのようなお優しいものではない。人間の首を切断できるほどのものである。当然大門の手は真っ二つに割けていた。そんなナイフの柄を踏めば……丁度、裁断機にかけたようになる。
「殺すしかなくなっちゃうじゃん」
響き渡る悲鳴。
しかし対妖用に作られた防護シャッターを越してまで外に響きはしなかった。
大門の顔の前にかがむ呉羽。
「なんか言うこと、あるんじゃない?」
左右非対称の薄笑いを浮かべる呉羽に、太門はアザだらけの顔で答えた。
「……くたばれや」
呉羽は無言で立ち上がり、そして周囲の黒服に顎で合図した。
一斉に懐から銃を取り出す黒服たち。
ただの銃ではない。大口径の回転拳銃だが、既存のどんな銃ともとれない。
「大門ちゃんは知ってるかなあ。皇室警備隊に正式採用されるはずだった幻の銃でさ。タケミカズチっていうんだってさ。さすがにこれにかかったら、覚者だって死んじゃうよねえ……」
呉羽が手を上げて、下ろす。
それだけで黒服たちは容赦なく引き金をひいた。
このとき大門の脳裏にあったのはなんだったのか。
後悔。怒り。恨み。憎しみ。そのどれでもなかった。
あったのは、ただの純粋な渇望である。
渇望。
もしくは、業。
もっと強くなりたい。
もっと力がほしい。
もっと戦いたい。
もっと。
業は力を呼び、力は業となり、業はさらなる力を呼ぶ。
そうして生まれた力の渦に大門は身を任せた。
ただそれだけだ。
それだけのことで、彼は自らに迫る全ての銃弾を跳ね返していた。
突然の事態に慌てふためく黒服たち。そんな彼らの顔面を掴み、握りつぶし、壊れたスプリンクラーのようになった彼らを地面に捨てた。
後じさりしながら首を振る呉羽。表情は半笑いだ。
「大門ちゃん、それ、ヤバイいでしょ」
呉羽の言葉は聞こえていない。
逃げようとする黒服たちの腕を掴み、めちゃくちゃに振り回して破壊していた。
「破綻者に堕ちちゃあさ、死ぬよりつらいでしょ」
「……足らん。戦い、足らん」
他人の血で真っ赤になった腕をぶら下げて呉羽へと歩み寄る太門。
残るは呉羽一人だ。
この後、彼はこの場の全員をむごたらしく殺し、ホテルの客と従業員も全て殺し、外へ飛び出し、破壊という破壊を振りまくバケモノとなる……筈だったが。
「そのタイマン、俺が引き受けた」
知らぬ声が響いた。
世界は非情である。
悲鳴の多くは誰にも届かず、悲劇の多くは報われない。
ゆえに世界に悲しみがあり、不幸がある。
だがもし。
もし全ての悲鳴を聞きつけ、すべての悲劇を報いる者がいるとしたら。
夢見の言葉を背に受けて、全ての悲しみと不幸に立ち向かう者たちがいるとしたら。
彼らはきっと、やってくる。
「だから今は、俺だけを見ていろ」
全てを知った顔をして、前触れもなく突然現われるのだ。
声につられて振り返る大門。
赤一色となった彼の目に、その男は大きく見えた。
とはいえ身長は大門よりやや低めで、よく鍛えてはいたが大柄ということもない。
目つきが悪い以外はそこらの男と変わらず、身につけているものもストーンブレスレットと腕時計くらいのものだ。服装も黒いTシャツジーンズというありきたりなものである。
だがしかし。
ただならぬ覚者の風格を彼は、全身から解き放っていた。
「お前……強いんか」
「さあな。だが、鍛えるのが趣味だ。満足はさせられると思うが」
「ぬかせや!」
暴風の如く殴りかかる大門。
対して男は身を乗り出し、鋭いパンチを繰り出した。
拳は激しい炎を纏い、爆発的な威力で大門の顔面へヒット。
と同時に男の顔面に大門のパンチがヒットした。
最も勢いをつけたはずの大門がのけぞり、一方の男はファイティングポーズを崩さない。
大門が体勢を戻すその前に、男はどこからともなく大型の斧を出現させた。
斧に炎が灯り、全体へと広がる。そして男は斧を野球のバットのように強くスイングした。
刃の部分が大門の腹にヒット。常人ならば上下に分割されていそうなものだが、太門は鋼のように身体を硬化させてガード。しかし衝撃は殺しきれずに吹き飛び、コンクリートの柱に激突した。
波紋状に広がるヒビ。
それを見て、呉羽は一目散に逃げ出した。
逃げる呉羽をあえて見逃しつつ、男は大門へ追撃。
斧を再び振りかざし、全力で叩き込む。
今度はヒビでは済まない。コンクリートの柱が砕け、大門は地面を転がった。
汗をぬぐって斧を下げる男。
「どうだ。満足できそうか」
「……もっとや」
むくりと起き上がる大門。
「もっと、もっともっと……も、ど、ぐ、う、ぐ!」
身体を痙攣させ、肩や腕を徐々に変容させていく。
破綻者の深度が進んでいるのだ。このままでは完全に自我が五行の力に飲み込まれてしまうだろう。
男は。
「俺の身が危険だとは聞いているが……やむをえん」
その場に斧を放り捨て、再びファイティングポーズをとった。
「来い。『戦って』やる」
「ぐ、うううおおおおおおおおおおおおお!」
岩の塊と化した腕が振り込まれる。
男の腹にヒット。腕でガードはしたものの、男は激しく吹き飛ばされた。
コンクリートの柱を一発で粉砕し、転がる。起き上がろうとした男の頭を鷲づかみにして、大門は地面に叩き付けた。砕けて散るアスファルト。
そのまま引きずるように走っていく大門。男は顔面で地面をえぐり、十数メートルのラインを作った。
最後に壁めがけて放り投げられ、更に腕を強烈なパワーで踏み砕かれた。
骨が砕ける音が、外まで響く。
が、しかし。
男はゆらりと起き上がり、片腕でファイティングポーズをとりなおす。
「もっとだ。もっと来い」
「ぐうううううう!」
顔面を殴りつける大門。
飛び散る血。
壁に後頭部から叩き付けられる男。
「な、ん――!」
首を掴み、締め上げ、そして大門は真っ赤な目から黒い涙を流した。
「なんで、そこまで、してくれる……!」
苦しげに呻きながらも、男はぎこちなく笑う。
「戦いたかったんだろう? 人のために、誰かのために。俺も、『そう』だからだ」
「ぐ……!」
「思い出せ。お前が戦いたかった理由を。手段に、力に、とらわれるな」
大門の力がわずかに鈍る。
男は肘でもって彼の腕をへし折って離脱。流れるように腹へ拳を叩き込む。
「だから今は」
思わず身体を曲げる大門。
「俺が、お前のために戦ってやる!」
下がった顔面めがけ、男は強烈なアッパーカットを繰り出した。
大門は一歩二歩と後じさり、そして仰向けに倒れた。
ぐったりと動かなくなった大門。
男は折れた自らの腕を庇いながら、彼へと一歩踏み出した。
そこへ。
「ころさないで!」
一人の少女が割り込んだ。
腕を大きく広げ、男の前に立ち塞がる。
幼く、小柄な少女である。男にかかれば数秒とたたずに殺すことができるような、か弱い子供である。
しかし男はびくりと身体をこわばらせ、どころか少女から数歩後じさりした。
「おじさんはいい人なの。だから、おねがい」
「……」
男は暫く黙りこくっていたが、すぐに静寂はやんだ。
駐車場へ黒塗りのワゴン車が猛スピードで滑り込んできたからだ。
男は頷き、少女へと歩み寄る。
「大丈夫だ。殺さない。俺はそいつを救いに来た」
「……」
目つきの悪い男だ。人を簡単に殴りそうな目をしている。
だが少女はその目の中に、優しさと一抹の悲しみを見た。大門によく似た目だ。
男は少女を通り過ぎ、大門を抱え上げる。
「可能性は百パーセントじゃない。だが……きっと、こいつをお前の元に返してみせる」
男は力尽きた大門を車にのせ、駐車場から消えた。
どこから来たのか、どこへ行くのか。
誰にも何も告げぬまま。
二ヶ月後。
大通りを横切り、小道へと入り、ビルとビルの間の隙間へと入る。そのまま進み、中華料理店の裏口へと入り、営業中の厨房を抜け、更にいくつもの建物の間を抜けて歩いた先に、全く手のつけられていない空き地がある。
その中央。捨てられた小型冷蔵庫に腰掛けた少女が、はたと顔を上げた。
彼女の手の中に放られるリンゴ。
「なんや、今日はゲームしとらんのかい」
そこには、かつてのまま。覚者のままの大門がいた。
少女は華やぐように笑って、言った。
「おじさん、おかえり!」
第参話:破綻者(バンク)

※世界観ノベルにはFiVEメンバーと思しきキャラクターが登場いたします。
ノベル上でのみの特別演出としてお楽しみ下さい。
