●良く晴れた夜の出来事 頭上には無数の星が瞬いている。 見上げた先に吸い込まれそうな、と呼べば相応しい夜空。 息を呑むような美しさは他に何と表現すれば良いのだろう。 その日、その夜を彼女は『星辰の揃う時』と呼んだ。 恐怖神話に語られる、絶望の浮上するタイミングだ。数多くの愛好者(フリーク)を持つ、かの世界観においても特別な意味を持つその単語は、本来今夜の主演たる少女――ラトニャ・ル・テップとは無関係なものである。 しかして、冗談半分にそれを口にした彼女が司る結末は、本家本元(クトゥルフ)による神殿(ルルイエ)の浮上と大した差があろう筈も無かった。 自身をして「マサチューセッツからやって来た」と称したラトニャは、全てを嘲り笑うニャルラトテップの神性のままに今夜を迎え入れたのだ。 「ほほ、実に気分の良い夜じゃ」 広い公園の中には、この世界で『遊ぶ』彼女がついぞ感じた事の無いような濃密な神秘の気配に溢れていた。 「様子見も些か飽いた故にな」 故に、喰らう。 ラトニャの軽妙な調子はこの世界に死刑宣告を下したにしては、余りにも呆気無く、爪先程の感慨を持っても居ないものだった。 今夜、ラトニャの世界とボトム・チャンネルは結合するだろう。 混ざり合って一つになる――そう呼べば聞こえはいいが、それは捕食に他なるまい。 偉大にして傲岸不遜なる彼女が最も強くその神性を発揮出来る状況は整っている。 この世界は階層世界の底であるとされているが、その境目を隔絶する薄紙は事の他、防備として機能しているのだ。世界が崩界を望まぬ以上、世界修正力とも呼ぶべき運命は外界からのウィルスを何処か排除しようとしている節がある。だが、例外的にこの世界が『外』と親和してしまった時、この免疫機能は正常な働きを奪われてしまう。健康な人間の体を悪性腫瘍が蝕むかのように、世界が持ち合わせる抵抗力が機能しない事がある。 『特異点化』と呼ばれる現象は、影響を受けるばかりのこの世界が『外』と強く縁を結んでしまう状態だ。極短い期間、極狭い範囲でのみ生じ得るこの状況は必ずしも大きなトラブルを巻き起こす事は無いが、日本のリベリスタにとっては決して看過出来ず、又他人事の顔をしていられるものではないのは明白だった。 前回、『特異点』が最高潮を迎えたのは強襲バロック(じゃっくのせいや)。多くの『賢者の石』の出現が事前に観測されたのも同様の状況である。我が身の内に爆弾を抱えた日本(アーク)に二度目の機会が訪れたのは必然であるからだ。 「十分に時はくれてやったぞ、箱舟よ。それから、久方振りの『玩具』も来るか」 口元に手を当て、鈴の鳴るような声で笑うラトニャは己が敗北等微塵も想定していない。彼女のみならず、神とはそういうものなのだが――己以外の全てを見下すという意味において、彼女は相当に有名な神性であるのは間違いない。 「忠犬よな」 彼女の嘲笑の的は力の無い人間も、誇り高き箱舟も、『招かれざるキャスト』さえも区別しない。 「――『どれもこれも』。人間とは面白いの。 さて、いじましい努力の跡でも見せて貰う事としようかの!」 ●復讐のラピス・ラズリ 「神の目は不明を看破するが、時に完全な結論は用意しない。 だが、状況を当て嵌めれば答えは自ずと見えてくる。つまり、今回はそんな話になる訳だ」 ブリーフィングのリベリスタにそう告げてきたのは、アークの司令代行を務める『戦略司令室長』時村 沙織 (nBNE000500) だった。フォーチュナではない彼は通常個別の現場には顔を出さないが、アークにとって重要な作戦が行われる時は、リベリスタに直接ブリーフィングを行う事もある。その辺りの事情は何も沙織を例に挙げずとも、この場に同席する面子を見れば最初から結論は出ていると言えるのだが。 「万華鏡が今回観測したのは『閉じない穴』を中心にした一帯の『特異点化』よ。そのタイミングでラトニャが現れたという事は――恐らくその狙いは、『特異点化』を利用した世界侵食って所でしょう。周到な儀式の様子が確認されている以上、それは彼女にとっても大仕事になるレベルの事業なんでしょうから」 シトリィン・フォン・ローエンヴァイスが口にした戦慄の事実は、憶測に過ぎない。だが、仮にそれが正解だったとしても不正解だったとしても暗澹たる未来は大した違いがないだろう。 三ツ池公園の中心地にラトニャ出現の報がもたらされたのはやはりと言うべきか突然の出来事だった。平素の守備戦力で彼女に対抗するのは不可能だ。壊滅を避け、周辺地への被害影響を抑える形でこれを撤収させたアークは即座に臨戦の構えを用意していた。元よりここ暫くの情勢から来たる決戦の予感はあったのだ。アークとオルクス・パラストは強く連携し、この時を待っていたとも言える。 リベリスタは決して手をこまねいて右往左往していた訳では無い。欧州リベリスタ界の重鎮であるシトリィンがアークのブリーフィング・ルームに居る事がその証左だ。 「この戦いは日本が舞台になるが、我々も全力を尽くさせて貰う。 信頼すべき盟友を見捨てる心算も無いし、我々にも事情があるからな。 ……ラトニャ・ル・テップは欧州神秘界の暗部だ。『暗黒の森』の二の舞だけは許さん。人間が『たかが数百年』でどれだけ進歩したかを彼女は知るだろう」 『格上殺し』セアド・ローエンヴァイス (nBNE000027) の言葉にシトリィンの柳眉が歪んだ。不幸な全滅の中の生き残り――リベリスタならば珍しい事ではないのだろうが、それがシトリィンならば尋常な事では無い。今回について言うならば、オルクス・パラストが総力を挙げて日本(アーク)を援護せんとしているのは、彼女の意向を強く反映している部分はかなり大きいのだろう。 「まぁ、友軍の心算なのか日本のマフィアもちらほら見えるが」 「作戦を説明する」 一つ咳払いをした『クェーサーの血統』深春・クェーサー(nBNE000021)に注目が集まった。 「我々の作戦目的は三ツ池公園に出現したラトニャ・ル・テップをこの世界から排除する事だ。しかし、多角的に情報を分析した結果、ボトム・チャンネルの人類が現時点で彼女を葬るのは恐らく不可能であろうという結論が出ている」 核ミサイルをブチ込もうとも、階位障壁の前には無力である。神秘の力を携えるリベリスタならば可能性はあるのかも知れないが、ラトニャは雨垂れが石を穿つ時間を与えてはくれまい。 「だが、此方側の異世界行は困難な状況に期待を向けるべき光明を示してくれた。 朱鷺島・雷音(BNE000003)、蜂須賀 朔(BNE004313)両名が神との謁見より持ち帰った情報は、少なくとも我々が取るべき手段を教えてくれるものになった」 「出し抜くって事か」 「そうなる。ラトニャとて愚かでは無い。猫が鼠を弄ぶように――遊んでいる奴の事だ。我々が何らかの手段を用意している事は理解しているだろうがな。 だが、その想定を上回れば奴のふざけた気質は慢心にしかならん。 奴は己の力を理解している。確信しているが故に、脆さもある」 リベリスタは深春の言葉に頷いた。少なくともそれに縋らなければ負けが確実ならば、『それはそうである』として話を進めない理由は無い。 「我々の作戦は三段構えだ。 まず、公園内に存在する敵性生命体をリベリスタが破壊する。 同時にラトニャの目論む儀式の要を破壊する作業に移る。ラトニャを排除出来なければ儀式の破壊は気休めにしかならないが、万が一仕留め損ねた時の保険も必要だからだ。 ――更に我々は非常手段として『クトゥグァ』の召還を決定した」 「――――」 リベリスタは思わず息を呑む。 クトゥグァと言えばその神性はラトニャにも劣らない、正真正銘の化け物(ミラーミス)だ。火の特性を持つ破壊の塊をボトム・チャンネルに呼び込めば何が起きるか保証は無い。 「奴の世界『フォウマルハルト』にリベリスタが縁を結んでいたのが奏功した。ノーデンスから授かった『呪文』と『特異点化』の影響があれば、不完全なそれを召還するチャンスがある。むしろこの場合は不完全で良かったと思うべきだが」 深春は「この作戦は別働隊が担当する事になっている」と先を続ける。 「『クトゥグァ』に期待するのはラトニャの戦力、余力を削り落とす事だ。天敵である『クトゥグァ』の気配を奴は確実に嫌う。両巨頭を等しく疲弊させ、作戦はいよいよ肝の部分に差し掛かるという訳だ。 ――結論から言えば、この場に集まったお前達の仕事はラトニャをこの世界から追い出す事になる」 「追い出す?」 「ノーデンスの与えたもう一つの武器がこの『ネクロノミコン』だ」 モニターの中に魔術書が映し出された。リベリスタ達が受け取った時点では力の塊に過ぎなかった異界のアーティファクトが具現化を果たしているのだ。 「この『ネクロノミコン』は、ラトニャの能力を一時的に激減する事が出来る。 不死不滅の奴は抑え付けても倒れないだろうが、機能が低下した瞬間を狙えば穴に追い落とす位は可能だと見る。作戦の重要な部分は、そこだ」 「……?」 疑問を浮かべたリベリスタに深春は言った。 「穴の先――リベリスタ達が先に冒険した『ドリームランド』の時間の流れは、この世界の時間軸とは全く異なると見られている。 宇宙創成のビッグバンが凡そ百四十億年前だったとして、宇宙的神話に語られる連中の時間尺度は、地球における知的生命体の単位では無いだろう。『ドリームランド』でノーデンスは言ったらしいのだ。『永い時間を戻してやる』と。 大雑把に異世界行が一ヶ月程度の出来事だったと仮定した時、向こうの世界と此方の世界で神が永いと言う程の時差が生じたとするならば……これは仮の話になるが。一千万年の時間が流れたと仮定した時、一日で出現する時差は凡そ三十三万年。一時間で出現する時差は一万三千八百年。一分で出現する時差は二百三十年だ。 無論、数字は仮説に過ぎないが、この時ラトニャは僅か一分のロスでこれだけの時間を我々と隔絶される。奴が時間を多く手間取れば万歳だし、仮に大本の数字が違っても幾ばくかの猶予は得られる訳だ。まぁ、『夢見人』クラネス殿の存在を考えるに『時間が加速するのは目覚めた時』である可能性も否めないがね」 リベリスタは小さく唸った。 成る程、次元を移動するミラーミスもそうなれば形無しだ。 ノーデンスがそうしたようにラトニャが時を弄れる可能性はゼロではないが、ノーデンスがラトニャの対抗する可能性を否定しなかった以上、それは無いと信じる他は無い。 「『クトゥグァ』の援護射撃と『ネクロノミコン』を持ってしてもラトニャは手強い。その上、制御不能の大砲と、制御不能の魔術書は人間には過ぎた武器だ。『ネクロノミコン』が機能するのは使い手の生命力、精神力が持つ間だけ。使った人間の命は全く保証出来ない。だが、今回は」 「私が使うわ」 深春の言葉をシトリィンが遮った。 「制御を手放せば被害を撒き散らすのよね、それは。 ……私も死にたくはないけどね、自分の復讐戦で誰かに死んでくれなんて言うのは真っ平。それに今現在の力で言うならば、私以上のリベリスタはここには居ないでしょう?」 「……作戦はシトリィン殿がどれだけ『粘れるか』でも左右される。 恐らくは自身の危機に本気になるラトニャから彼女を守る事が重要だ。 シトリィン殿は『ネクロノミコン』の制御以外の行動は全く取れないと考えていい。 加えて護衛のリベリスタには、シトリィン殿を『持たせる為』に力を貸して貰わなければならない。其方の準備は『塔の魔女』が行うそうだが」 恐らくはアーク史上最大の――あの『混沌組曲』をも越える紙一重の作戦にリベリスタ達の肌が粟立った。どれ程の奇跡が重なれば朝は来るのか。運命はどれ程の試練をこの一夜に求めているのか、それは神ならぬ人間には分からない。 「公園外への影響も私が防護結界で抑える予定ですが、正直な所ゼンッゼン自信が無いって言うか多分絶対ムリなので其方にも部隊を回して貰う事になってます。 ……まぁ、ラトニャ様についてはその位なんですけど」 『塔の魔女』アシュレイ・ヘーゼル・ブラックモア (nBNE001000) は少し言い難そうな仕草をしてから、やがて溜息と共に口を開いた。 「占ったら、何かこんなん出たんですけど」 ――星辰の夜、運命の夜、聖書の獣の目が光る。 ●良く晴れた夜の出来事II 「……分かっているな?」 「分かっている!」 繰り返される男の静かな小言にもう沢山だと言わんばかりの声が答える。 「我々の仕事は――」 「――だが、全ては時と場合によるものだ。 ディーテリヒ様も『危急の際はお前に任せる』と仰って下さった」 「……」 『黒騎士』は直情径行たる『白騎士』の言葉に深い溜息を吐いた。 主の言葉は正確には「お前達に任せる」である。ついでにより厳密にその意図を汲むならば、彼は彼女を慮って『達』をつけた訳であって。『黒騎士』が察するに、本来意味的には『主は自分に任せた』ものと判断している。 (……しかし、これ程の戦いになるならば) 見極めねばなるまい。『万が一』箱舟が勝利したとなれば、これは捨て置ける話では無い。『バロックナイツ』は兎も角、『ディーテリヒ・ハインツ・ティーレマン』に被害が及ぶような事は万が一にも看過出来ない。そういう意味ではあの『The Terror』の暴挙も見過ごしたい話ではないのだが…… (ディーテリヒ様には何かお考えがある筈だ) 『黒騎士』は何時飛び出してもおかしくない『白騎士』の様子をきちんと見張りながら沈思黙考の顔を見せる。 主が『ヨハネの黙示録』を有しているのは知っている。 彼は他者の知り得ない遠大な預言を行動の指針にしているに違いない。 ならば、『あの』最強最悪のラトニャの暴挙さえ、止める必要は無いと言うのだろうか―― 頭を振った『黒騎士』は詮無い考えをそこで止めた。 何れにせよ、騎士の務めは主を忠実に守り抜く事だ。 守られる必要がある人間かどうかはさて置いて、正直を言えば剣士たる彼もアークのリベリスタに興味が無い訳では無い。 「全ては、運命の赴くままか」 こんなにも、乱れた夜だから。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:YAMIDEITEI | ||||
■難易度:VERY HARD | ■ イベントシナリオ | |||
■参加人数制限: なし | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年07月15日(火)23:19 |
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●ゼロコンマ 「これほど明確に世界の危機を誘発するとは…… 流石はミラーミス、流石は神という所でしょうか。だが混沌、人は存外、往生際も悪いし小ずるいぞ?」 静かなるアラストールの言葉は半ば賞賛めいていて、半ば呆れたものであり、同時に譲らない意志を感じさせるものであった。 戦争において――闘争においてその行く先を決定付ける最大の項目は当然ながら戦力である。 戦争は数だと称する者も居る。いや、質だと主張する者もあっただろう。戦争の世紀のハイライトでシャーマンとティーゲルのどちらがより実戦的であったかという議論には、故人たるリヒャルト少佐辺りは大いなる持論を持っているに違いないが、さりとて、論じる者をしても求め行き着く先は同じ『最大戦力』なのである。或る者は敵に倍する数が最強の戦力を形作ると考えた。そして別の者は、群がる低質を圧倒的に駆逐出来る能力こそが至上の戦力であると考えていたに過ぎない。 改めて語るまでも無く戦いは戦力の多寡で決まる。少なくとも数限りなく繰り返されてきた総ゆる闘争の中で、絶望的なまでのそれを覆し得たケースは殆ど存在しまい。子供の喧嘩であろうと、国同士の威信をかけた戦争であろうと、生命・種の生存競争であろうとだ。 そういう意味では――星辰の夜と称された今夜、運命の舞台に上がったリベリスタ達は過去最大級に深刻な事態に直面していると言う他は無いのだろう。今夜のリベリスタ達の敵は『神』だった。それも知らない名前では無い。仮に『原典』の全てを肯定するならば、争う事自体が無謀な正真正銘の災厄だという。 彼我の戦力差は、同じ盤上にあるそれとは全く異なる。或いはリベリスタの百倍も千倍も――それ以上にもなろうかという敵の力は純粋純然たる事実として余りに無慈悲で強大過ぎる。 全ての闘争が戦力で決まると言うならば、確かめるだけ愚かだと唾棄したくなる程に。 『絶望的な戦い』はとうの昔その発端を開いていた。ざわめく公園内の空気が、誰かの苦鳴の声が、突き刺さるような殺気と胸を焼く吐き気の数々が。今夜、僅かな時間の間にこの場所で起きた――起きている戦いの性質を誰にも強く知らしめている。 ――敵の名はラトニャ・ル・テップ。 かの『ニャルラトテップ』のアナグラムと言えばそれで全ての説明は足りる。 果たして、公園内を跋扈する『異物』の質量はリベリスタ側必死の掃討にも関わらずその密度を増す一方だった。 撃って出る事により積極的な戦闘を展開する戦闘部隊を編成して尚、後方に届く敵の数は――全体の戦況をリベリスタ側に理解させるに十分過ぎる。 事実としてラトニャはまだ大いに遊んでいるような状態にも拘らず、後方に位置する本隊の心臓部の周辺には間断なく敵が押し寄せている状態であった。 「時間を稼ぐ事もまた戦いか。そういう戦いも悪くは無いが……」 「シトリィンとは。初めて見る顔では無いが、中々珍しい相手との仕事になるな」 ウラジミール、そして結唯がちらりと視線を投げた巨大魔方陣の中心には、浮遊する『ネクロノミコン』と傍に佇むシトリィン・フォン・ローエンヴァイスが立っている。 「ローエンヴァイス伯、御助力させていただきます。 ローエンヴァイス伯とニャルラトテップ……ラトニャの因縁は、私達にとって――私にとって余り他人事ではありませんから。ニャルラトテップ……『ミラーミス』への復讐。立場も経緯も違いますが『R-TYPE』を討たんと願う者にとってそれは魂から共感できる戦いです」 「その辺り、室長達も意識しているかもしれませんね」と言った悠月にシトリィンは「ええ」と頷いた。 「……で、これが『ネクロノミコン』か。 今回は個人的な貸しにして――死なん程度には頑張るとするか?」 結唯は「あら? 私が貸すのではなくて?」とかわしたシトリィンに薄く笑む。 リベリスタ達の目的は悪神ラトニャ・ル・テップに一杯を食わせる事である。 彼女(ニャルラトテップ)に天敵であるミラーミス『クトゥグァ』をぶつけ、切り札たる『ネクロノミコン』で縛り、時間の流れの違う異界の彼方へと追放する――『世界を救う唯一の方法』は、言葉にすれば容易いが、現実に変えられる確率を真剣に問えば一パーセントにも満たないのは確実だ。 「直接、恩返しをするにはいい機会だな」 シトリィンを守るように展開した護衛部隊のリベリスタ達の中でも晃は意気軒昂な所を見せていた。 普段の彼女は守って恩返しを出来たりするような人間ではない。 だが、今回今夜に限って言えば彼女の余力は全て『ネクロノミコン』に注がれなければならない。 「ここは通さん!」 白崎式双鉄扇を両手で広げた晃は彼女には指一本触らせぬと堅牢なる構えを取る。 彼はクロスイージス。ならば賭けるのは全額。守り抜く為の戦いなら、燃え尽きるのも又本望。 「いつも守られながら戦うアタシが命を賭けられる場所なんてコレくらいしかないからね~♪」 普段は火力役として『守られる事が多い』陽菜も、今度の戦いでは守る側の一員である。 「シトリィンさんにはこれからもアークとオルクス・パラストの為に頑張って貰わないとだし。 シリアスな展開だけど、愁嘆場にはさせないからね。アタシのこの名にかけて!」 「……そうねぇ。まだ開けていないワインもあるし」 『こんな時だからこそ』努めて明るく振舞う陽菜が軽く言うと、シトリィンが僅かな笑みを漏らした。 「これが奴の『挨拶(プリヴィエート)』といった所か?」 ウラジミールが睥睨したそれは『人間のようなもの』であり、『獣のようなもの』であり、『虫のようなもの』である。それ等のディティールが正常なそれとは決して結び付かない程に嫌悪感を煽る異質であるのはさて置いて。その何れもが『ラトニャであり、ラトニャではない一部』だと言うのだから何の洒落にもなりはしない。一目見るなり敵と分かる異形の数々はリベリスタ達の視界の中で時に膨張し、時に分裂し。彼等を嘲り笑うかのように、希望ごと何もかもを飲み込もうとするかのように襲い掛かってくる。 「それでも――自分は自分の仕事させて貰うぞ」 だが、礼には礼を、そう言わんばかりなのはウラジミールである。 サルダート・ラドーニが捩れた女の外れた顎を振り払う。隙間を縫うように伸ばされたカラテルが女の眉間を抉ってその脳漿――らしきもの――をアスファルトの上にばら撒いた。 蛍光ピンクの『それ』を指差して笑ったのは小さな人間の顔を持つ数センチばかりの虫達だった。 「……気持ち悪いっ……!」 歳若い少女でいながら、数多くの修羅場を越えて来たアンジェリカがその柳眉を歪めた。 生理的な嫌悪感は如何な歴戦のリベリスタであろうとも否めない。彼女の持つ鋭敏な五感は――それ等の『表情』をよりハッキリと彼女に伝え、舌なめずりをする『音』を鼓膜の奥へと届けたのだから尚の事。 「近寄らせないよ、絶対に――」 星辰の夜を少女の抱く赤い月が照射した。 不気味な鳴き声を上げる虫達は呪光にシュウシュウと煙を上げ、それでもケタケタと笑っている。 獣のように四足になった老人が、地面を蹴る。 同時に赤ん坊の顔を持つ蛇が滑るようにアスファルトを進んでいく。 焼き払われた虫達がミミズのようにのたうち、うぞうぞと蠢いている。 ウラジミールに突き倒されたかに見えた女は、丁度プラナリアのように二つ裂け、分かれる所だった。 「どいつもこいつも――!」 吐き気を催す邪悪に立ち向かうラグナロクの呼び声を統べるゲルトが、襲撃する敵を間一髪盾で阻んだ。 一声裂帛の気合で敵を弾くゲルトは、ふと父の言葉を思い出した。 ――俺はあの女が大嫌いだ。だが……あの女が本気になった時はその力を貸してやれ―― (この機会が『その時』という訳か?) 今回の事件は日本にとっても他人事ではない。世界的に見てもそれは同じだ。 故に純粋にシトリィン個人への助力かと問われれば微妙な話にはなるのだが…… 日本がそうであるのと同じように、ドイツのリベリスタも一枚岩という訳では無い。シトリィンは名声と同じだけ悪名を持つ女であり、少なくともハルトマンの家と彼女は友好的な関係では有り得なかった。 ゲルトはハルトマンの家とシトリィンの間に何があったかを良く知らない。 だが【鋼鉄の血】として戦場に轡を並べるゼルマの口振りを見れば想像はつくというものだ。 「此度は力を貸してやろう雌狐。泣いて感謝せよ、報酬は貴様の首で良いぞ」 「碌な相手じゃないな。だが――俺は俺の役目を果たす!」 曰く「若い頃には散々オルクスには邪魔をされたもの」らしい。そんな叔母の暴力的な言葉に軽く苦笑いを浮かべるも、ゲルトは自分達にヒラヒラと手を振って見せたシトリィンを「貴方は貴方の役目を果たせ」と激励した。 「全く、ドイツから来て早速最悪の事態にでくわしたもんだわ……」 混沌の現場に実戦経験の薄いフラウナハは重い溜息を吐く。 「素敵な夜ですが――月が綺麗だと声にした所でムシケラ共は理解しない」 薄い唇に酷薄な嘲笑が浮かぶ。葵の白い指先が闇に流した極細の鋼が敵の影を切り裂いた。 「わたくしの主のお粗末な頭でも理解できると言うのに……此の世には存外に『それ以下』も多いようで」 「――って、今! 明らかに酷い事言われたよな、俺!」 「気のせいです」 「まっ、葵が酷いのは今に始まったコトじゃねー訳だが」 死地に立つ葵と駿河――主従の二人は掛け合いを見せながらも背を預け合うかのように互いの隙と死角を埋めていた。 「さーて、今宵限りの大仕事だ。覚悟は出来てるか? ――俺は出来てる、何てな!」 「言っておきますけど……」 「死んだら殺しますよ、だろ? でもな。守られっぱなしとか勘弁だぜ!」 そう気を吐いた駿河が葵に接近しかけた敵を炎熱の体当たりで蹴散らさんとする。 「とりあえず護るって事です」 その一方で堅牢な守備力を誇る小梢が殺到した敵の集中攻撃を振り払っている。 共に出撃した仲間は無事だろうか? この先に待ち受けるものを越える事が出来るだろうか? 世界は朝を迎える事が出来るのだろうか――? 何れも詮無い愚問。保証の無い希望に過ぎない。 だが、だからこそなのだ。葵は、駿河は、 「シトリィンさんにも――皆にも、絶対に近づけさせないよ!」 (今回ばかりは――ルアを最優先にとはいかねぇが…… ……いや、ルアはもう十分に強くなったから。俺が庇ってやらなくても、ルアは……) それでも同じ戦場で互いの姿を視界の中に捉える双子――ルアとジースは、 「またミラーミスを相手にすることになるとは悪夢だぜ。 だがこの戦い、負ければ本当に崩界だ。絶対に諦めるわけにはいかないぜ!」 「フィクサードと争っていると忘そうになりますが、フェイトは世界が我々を受け入れてくれた証。 本来は、こうした事態に抗するためなのかもしれませんね」 修羅場へと共に臨み、互いの想いを以心伝心で受け取る山田中修一、修二の兄弟は――今、ここに立つリベリスタ達は、大切な誰かの為に戦っていた。己の掌が如何に小さく、掬い取れるものが極僅かである事を知りながら。それでも、今力を尽くしていた。 「本当に。一体どんな鬼門なのかしらね、この公園」 オルガノンから伸びる無数の気糸を巧みに操る彩歌が半ば呆れたように口にする。 只の都市部の公園の一つだったこの三ツ池公園が運命の中心地に変わったのは、かれこれ三年以上も前の出来事である。日本に最初の墓標を立てた伝説――ジャック・ザ・リッパーは見果てぬ野望を抱いてこの公園を訪れた。彼と――彼の協力者であった『塔の魔女』アシュレイの企みを発端に実に数奇な経緯を辿る事となった。 異世界との接続、戦争の中心、そして世界滅亡の分水嶺。 世界中に点在する伝説級の霊地にも勝らんとするこの場所は全てを引き寄せ、飲み込む――或る種の貪欲な呪いさえ思わせた。獣が全てを吸い込まんとするように飢えている。 短い時間の間に余りにも因縁が積もり過ぎたのだろう。 渦巻く情念が濃色のように滲んでいるように感じられたのは――あながち錯覚とも言い切れまい。 (……こういう時に怒るべき人間が、一番怒る資格が無いのよね、仕方ないけど) 内心で零した彩歌がその脳裏に思い浮かべたのは、今ここには居ないアシュレイの事である。 (でもあれはね、1888年にはもう寝ていたんでしょう? 星辰の揃う時なんて言っても、あの邪神はあの夜の事を何も知らずに、ただこの場で遊ぼうとしてるだけ。 だから、あの魔女(バカ)は、もっと怒っても良かったのよ――) 一度目のバロックナイトを呼んだ女が、裏切った男に寄せていた想いを彩歌は何となく理解していた。 故に今この場に居ないアシュレイを想い、届かない言葉を投げる。少なからず愛した男を切り捨てる壮絶なまでの覚悟で開かれた『混沌』を面白半分に遊ばれている彼女は――きっと怒っているような気がしていた。 ●防波堤 「にゃーっはっはっはっは! なんかこう、すごい燃える! 張り切っていこうぞ!」 場違いとも言える玲の高笑いは、まるで迫り来る絶望を笑い飛ばすかのような響きを感じさせた。 その大きな瞳を爛々と輝かせた少女は或る意味で――この状況にこそ陶酔しているかのようですらあった。 「取り敢えずぶっ飛ばせばいいんだよねっ! ……と、言う訳で木漏れ日浴びて育つ清らかな新緑――魔法少女マジカル☆ふたば参上!」 「にゃはははははは! 緋月の幻影! いざ参らん!」 対抗馬(?)たる双葉の名乗りに愉快そうに大笑した玲が持ち前のスピードで地面を蹴った。 素早く肉薄した彼女は、ブクブクと泡立つ肉の塊に強かな銃撃を加えている。 「魔を以って法と成し、法を以って陣と成す。我描く軌跡にて其を屠る力をせん――」 高らかな詠唱より魔陣を展開。更なる集中を重ね、一撃の時を待つ双葉をちらりと眺めてほくそ笑む。 「うむうむ、攻撃は最大の防御也ってのぅ……!」 【宵咲】を率いるのは言うまでも無く当主の瑠琵である。 彼女の言葉は現状の正鵠を射抜くものだった。この戦いはあくまで勝利条件を満たす為の手段に過ぎない。本質は彼女の言う通り『防御』――即ち時間を稼ぐ事になるが、守るだけで守れないのが現実だ。 「長丁場となりそうで御座ぇますな。攻めには守りも必要でやしょう。 勿論、守りにゃ攻めも――こりゃ、必然で御座ぇましょうなぁ」 飄々とした調子で嘯いた偽一がその手の杖を一度強く握り返す。 彼の影より分離した符術の駒は敵の芸当に比すれば『ささやかなる手品』だが構わない。 「切られ役って云うのは案外難しいもんですさねぇ」 ……敵の質量が無限にして膨大であるという事実は、最終的な敗北を約束している。無数とも言える敵の一つ一つが膨張し、分裂し、新たな脅威へと姿を変えるなら、鼠算のように増える敵が減る事はあるまい。 『ラトニャの化身』と呼ばれる力の塊の正体をリベリスタは正しく理解してはいなかったが、その自由意志持たぬラトニャの一部がこの世界を侵す癌細胞である事は本能的に察していた。 「ミラーミスが歪夜の一人だとはな……最早何でもありだな、あの集団は。 しかし、下手をすれば歪夜の陰険眼鏡の時よりも数が多い……いや、再生だけじゃなく増えるなら。 戦いは数だと誰かが言っていたが……物量と質が一定以上だと、これは最悪か」 ハイ・グリモアールを開き、拡散する雷術で敵陣を灼いたシルフィアが半ば独白めいて呟いた。 彼女の言の通りである。アークにとって数の暴力の恐怖は、ケイオス・"コンダクター"・カントーリオで通った道ではあるが、彼は『本体』という明確な弱点を持っていた。また操る最大数は一定であった筈だ。 一方でラトニャはそれとは大いに異なる。まずラトニャの最大の問題、そして強味は『本体』である。そして、彼女の化身も実に厄介だ。存在するだけで世界の調律を急速に乱し続けるそれは、主の性質と同じように最悪極まる。増殖性革醒現象を早回しにするかのような『増殖性崩界現象』たる『彼女達』は放って置けばそれそのものが世界を侵食した状態を作り出しかねない。これを前に唯退く事は座して死ぬにも等しいと言えた。故に先の玲や瑠琵を含めたアーク数十人のリベリスタとオルクス・パラストの精鋭部隊は、敵を積極的な戦闘で減らさんと死力を尽くしているという訳だ。 「私のような凡人がまさか神と戦う事になるとは考えもしなかった。 だが何が相手であろうが私が守るべきものは変わらない。私の世界に――神などという存在は不要だ!」 このボトムにおいてとうの昔に『神は死んだ』。確かに侠治の見てきた世界は時に救われないものだった。 だが、この戦場に立ち仲間を支える事を選んだ彼はそれを捨てたものとは思っていない。 「触らぬ神になんとやらとも言うっすが……ま、それは今更っすしね。寧ろ稼ぎ時やと考えよか。 へっへっへ、温存組の嬢様方旦那様方、露払いは任したって下さいましなあ! ……ま、たっぷり恩に着てくれるとぉ、有難いでやんすねえ? にひひひひ!」 夕奈の台詞は露悪的だが、何処まで本気かは分からない。 命あっての物種と考えるならば――彼女の言う『儲け』も究極のギャンブルに過ぎない。 鉄火場に力あるドクトリンを点す夕奈の存在が仲間の助けになるならば、これは正義そのものだ。 自身等を飲み込もうとする厄災に更なる一歩を踏み込む事は尋常ではないが、玲に双葉、瑠琵や侠治、夕奈を含め、尋常なる者は最初からラトニャと戦おうとは思わぬのだから揺らがぬ高揚も必然か。 「……我々が堕ちれば世界が墜ちる。ココが世界の分水嶺。正念場」 凛とした居住まいで真っ直ぐに前を見る雷慈慟は高潔な決意に満ちていた。 彼の一挙一投足は否が応無く、戦士達を引き付ける。神算の鬼謀と強烈なカリスマめいた指揮能力はリベリスタ達の力を限界以上に引き出すまさに異能である。 「好機と捉えろ――この戦場、敵首魁に届くぞ!」 ファミリアで使役した梟は彼の目となり戦場全体を俯瞰している。 故に分かるのだ。星辰の夜の戦いは――ここまで出来過ぎる位に出来ている。 問題のラトニャは兎も角、ここまでのリベリスタ連合軍の戦いは完璧に近い。各所のアザーバイドは多数が沈黙しており、この世界を破壊せんとしていた儀式も一先ず破壊されている。 故にラトニャに届けば、終わる。終わらせるチャンスがある。 未来永劫に渡って続くであろう『ラトニャ・ル・テップによる災厄』をこの手で止める事が出来る。 「行け――未来を勝ち取る為に!」 言外に強く意味を込めた雷慈慟は元軍属である。 やる前に敗るる事等考えない。唾棄すべき敗北主義は――彼からは最も遠い感情だ。 それはあのラトニャ・ル・テップと欧州で遭遇した後も何一つ変わっていない。 「ほれ、負けるな」 「『塔の魔女』に両騎士に――何よりラトニャ。本当に――忌々しいわね」 殊更言われるまでも無い。夜に白い翼が開く。 低空飛行で射線を取る氷璃の形良い唇が瑠琵の号令に応えて美しき詠唱を紡ぎ上げる。 「――気に入らないなぁ。 気に入らないから無貌の神をぶち殺そう。千も貌があるのなら千匹全部ぶち殺そう!」 銀色にたゆたう薄氷色と銀色に宿る緋色のユニゾンを織り成すのは同じく『宵咲』の名を持つ灯璃である。 (『アイツ』と一緒なのも気に入らないけど……るびねーさまのお願いだから我慢しなきゃ……!) 年齢とは不相応な幼気を感じさせる灯璃は少女のなりに似合わぬ圧倒的な嗜虐性を有している。 「お月様がこんなに赤くて綺麗な夜だもん。こんな夜は血で血を洗う殺し合いに限るよ! うふふ、あははははっ! あはははははははははははははははは――ッ!!!」 瑠琵(コンダクター)の指揮下で唸りを上げた葬操の黒鎖と常闇の侵食が増殖しかけた有象無象を消滅させる。 「もっと、もっと灯璃を楽しませて!?」 「醒めない夢はないのだから。 悪夢の夜はもうお仕舞い。いえ、私達が終わらせる。 この世界を崩界させる訳には行かないわ――!」 特別仲の悪い『同胞』は、互いにまるで違う目的を抱えながらも、同じ結末を紡いでいる。 『血族』の長たる瑠琵はそんな二人を楽しげに眺めて「ほほ」と小さく笑っている。 「言うておくが、ラトニャ。おぬしは追放程度では済まさぬぞ?」 その赤い双眸は遥か彼方――空間を揺るがし、圧倒的な存在感を放つ大穴の端に腰掛けた少女を射抜いていた。 「追放等では済まさん。追放如きではいよいよつまらぬ。 我が世界に害を為そうとするモノならば――神であろうと悪魔であろうと滅ぼさねばならぬ。 千の貌を総て屠り、無貌の神を殺すとしようかぇ?」 「それ最高!」 神は不可能だと告げたが、生憎と瑠琵は神を素直に信仰するような性質では無い。 歓声を上げた灯璃に目を細めた彼女に賛同する者は他にも居た。 「同感だぜ」 燃えるような赤毛が満ちる力に逆立つように揺れていた。 「神だろうとなんだろうと叩き切るまでだ。 相手が異界の神であり異なる世界の理だってんなら――俺の最終目的にうってつけの物差しだぜ。 アレに成す術がなく負けるようならな。俺なんてモンは最初から唯の愚者の妄想よ!」 一声吠えたランディはその巨躯に相応しい大斧を構えて敵陣の真ん中へと飛び込んだ。 無数に蠢く化身達は愚かな獲物の愚挙に笑い、即座にこれに群がりかかるも―― 「おらあああああああああああああああああああッ――!」 空間を揺るがすような彼の怒声、大渇と共に放たれた烈風の渦に叩かれその動きを悉く縫い止められてしまう。 「リアル童貞(Nyarlathotep)はいろんなとこで会いすぎて。 ぶっちゃけ結構慣れちゃって、もうSAN値も減らないねー。 ラブクラフト御大は『最も強い恐怖とは未知』って言ってるのに……有名税って怖いねー」 トレードマークとも言える漆黒魔眼のハルバードを構えた岬が軽やかに笑っていた。 「トリックスターがその役を捨てるのは退場フラグだって……教えてやろうぜー、アンタレス!」 言葉に応えた訳では無かろうが、アーティファクトの魔力が一層強く揺らめいた気がした。 彼女は彼女の意に応える己が相棒を頼みに、乱れた戦場を切り裂いていく。 (あいつは全く、いつも通りに突っ走って行きやがって…… こういう舞台は正直向かねえが、あいつを放っておくっつー訳には行かねーんだよなぁ!) こういう場所だからこそ躍動する妹の姿に心配を隠せない兄・史がこれにすかさず注意を送った。 攻防一体の槍斧(ハルバード)で無双の動きを見せる彼女に比して、魔術師たる史は酷く打たれ弱い。正直を言えば乱戦は苦手中の苦手であり、その能力は安全圏から最も効率良く発揮されるのだが…… 「――やらせるかッ! つーか触んな! むしろ舐めるなッ!!!」 平素のからかうような態度はかなりのシスコンの裏返し。 巨大な化身が岬にその舌を伸ばした時――吠えた兄の魔術は特別痛烈に敵を突き刺した。 「おー、やるな。馬鹿兄ィ!」 「間抜けなんだよ、みさきちは」 兄の心、妹知らずか。予想外にいい所を見せた兄に「サンキュー」と笑った岬に史はフンと鼻を鳴らす。 「砂糖に群がるアリみてーに次から次へとキリがねえ害虫どもだぜ。 めんどくせえし、くそ鬱陶しいけどほっといたらもっとめんどくせえ事になるんだよなぁ…… しょうがねぇ、今夜だけトコトン付き合ってやるよ、クソ共が」 「わたしがどれだけちっぽけか、なんて。エラそうに言っていただかなくても知ってるさ。 でも、生きてきた。フィクサードと戦って、アザーバイドと戦って、ミラーミスと戦って、負けて負けて負けて、それでも―― アンタが神だとしても、このちっぽけな意地を砕かせない。 例え、ここで命を使い尽くしてもだ。やる、もんか」 悪態を吐き捨てながら大暴れする瀬恋、自身で「ちっぽけ」と語る誇りを決して捨てない涼子が止まらない。 「喰らえ、神代の大蛇の牙を以って――」 荒れ狂う八岐大蛇の鎌首は、彼女等の――そして、この福松の勘気に触れた愚か者を逃がす事は無い! 「――吹き飛びやがれッ!」 個の制圧――確実に化身を叩き潰す事と面の制圧、即ち可能な範囲の効率を以って場を支配する事の双方がリベリスタ陣営には求められていた。ラトニャの化身はラトニャ自身でありながらラトニャ自身では無いという。彼女から切り離された力は、あくまで独立した動作を取るがこれを破壊する事が彼女の力を削ぐ事に繋がる以上は焼け石に水と嘆いている暇も無いという事だ。 「全く、賑やかな事ですよ。 これで実質敵が一人だってんだから恐れ入ります。 ミラーミスか……まあ、そりゃそうです。そりゃあ規格外ですよね だけど……まあ、すいませんけど私そう言うデカい話ってピンと来ないんですよね!」 惚けたようなうさぎの物言いは死を間近にした鉄火場でも変わらない。 (でも、貴女達が私と私の周りの人間にとって害悪なのは分かるし、実感もあります。 だから――私は戦いますよ。私か、貴方が根を上げるその時まで) うさぎの影が神速にブレる。超の付く加速で残像さえ残したうさぎは目前の敵を次々と薙ぎ倒した。 士気は高いが、無数の敵に相対するリベリスタ達は大小様々な傷や消耗を負い続けている。 そんな戦況を必死で支えるのは癒し手たるそあらであった。 「シトリィンさんの若かりし頃の宿敵……! あたし達の力がどこまで助力になるかわからないですが精一杯支援のお手伝いをさせてもらうです!」 彼女の紡ぐ奇跡の力は柔らかく仲間を包む賦活の風だ。 折れるな、と自陣を激励する声無き声に戦士の意気は沸き立った。 ――やれやれ。人間(リベリスタ)とは兎角無駄な努力を好むのう―― 辺りに響いた老婆と少女の声の混ざった――奇妙な軽侮をリベリスタ達は取り合わない。 「久し振りだが……ラトニャ。今度は逃げないぜ、最後まで相手をさせて貰う。本当の……決着をつける為にな!」 全ては無為と侮る彼女に声を張ったのは、欧州で彼女と相対したクロトであった。悪夢めいたあの村の事件で一敗地に塗れ、銀咲嶺(たいせつななかま)を失った痛恨を知っているが故に彼の意気は強い。 「笑うなら好きなだけ笑え。たかが玩具の悪足掻きがどれ程か、後で驚くなよ?」 化身の一が妙な液体を滴らせながらクロトを襲うも、彼はこれを氷付けにするお返しで食い止める。 一方で「それはそれは楽しみじゃな」と微笑むラトニャは当初からの余裕をまるで崩していなかった。己以外の何もかもを食い止めたとて無意味と言わんばかりの彼女の自意識は、傲慢であり、事実そのものであるのだろう。 「そう簡単に、くれてやりませんよ」 この世界も、運命も――そう言わんばかりのアイカはその全身に確かな熱量を滾らせている。 彼女はアークが未来を切り開く為に得た力の申し子。 アークリベリオンと呼ばれる極東の守護者は、まさに箱舟の意志を体現する者なのだ。 ――あたしから……あたしの守りたいものを奪い! 悲しみを作って、大事なものを壊して、誰かの涙を流そうとするなら! 相手が何だろうと関係無いッ! この拳と、命で! 全てぶち壊してやるッ! 「かかって来いッ!」 「いい意気だ。しかし、アレも随分と――言いたい放題言ってくれるな」 セアドはラトニャの余裕に鼻を鳴らす。 実力差を痛感しているのは確かでも、気に入るかどうかは別である。 「負けていられん、我々も」 彼が率いるオルクス・パラストの部隊は実戦的な精鋭達である。 作戦の鍵であるシトリィンに敵を近付けないのがこの場の戦士達の役割だが、彼女の夫であるセアド、そして同胞部下であるオルクス・パラストの面々は特に燃えるものを感じているだろう。 「セアド様、今回は皆様の御助力をさせて頂きたく思います」 「連携が命ですからねー。私と、えなちゃんも!」 「……桃子さんとのどう連携するのですか><」 敢えてオルクス・パラスト側と作戦行動を共にするファウナ、連絡役の桃子と彼女のお守り(?)のエナーシア。その辺りはアーク側も良く分かっている所である。 (それにしても星辰の揃う時、ねぇ…… 殊更に言い立てる程には良い夜という訳ではないのだわ。 夜は常に、良い夜なのだから――) 薄い唇にやや酷薄な笑みを乗せ、口角をほんの少し持ち上げる。 「故にこの夜だって高々何時もの日常なのだわ。それでは、千の貌を刮いで行くお仕事と参りませうか!」 自陣の後方から放たれた凶弾はエナーシアのばら撒く死の御手である。 「ぐぬぬ、へんな形の敵! しかも全部ラトニャですか! なんと面妖な! 手を貸すですよ! セアドのおっちゃん! いくですよ、新兵器! ヒンメルンアレス!」 高らかに声を上げたイーリスが何時もと同じように真正面から敵にぶつかる。 「はいぱー強いおっちゃんと一緒に、はいぱー強い敵と戦えばきっと私! もっと強くなれるのです!! だいねーやんみたいに、強く!!!」 イーリスは力強く得物を振るう。 「セアドのおっちゃんは、なんと! ひげなのです! 強そうなのです! しかもドイツ人なのです! わたしもドイツ人なのに! おっちゃんの事はじめてみたのです! おっちゃん! ひげ! 一緒にいくで――」 「――恩に着ている!」 セアドが言葉を被せる事でイーリスの台詞を止めたのは隠れたファインプレーかも知れない。 「お気にならさず。我々も万に一つも、失う訳にはいかないのですから」 夢の世界の縁もあるが、それだけではない。フュリエであるファウナにとってアークは大恩人だ。同時にこの世界に存在する志ある人々(リベリスタ)達は、彼女にとって好ましい人々なのだ。 アークのこの後を考えても、この世界の――ひいてはラ・ル・カーナの事を考えてもセアドやシトリィン、オルクス・パラストの面々をここで失うのは余りに大きな損失であった。 「――この世界、『ボトム・チャンネル』において私達の持つ割賦の力は珍しいものの様子ですから!」 オルクス・パラスト隊の派手な戦闘を支えるのは、フィアキィの織り成す美しきオーロラである。ミステラン特有の能力はアーク、或いはフュリエのみが扱える専売特許の一つだった。 「散れッ!」 セアドの魔剣が破壊的な黒色のオーラを撒き散らす。 オルクス・パラストの面々がアークと同じく敵陣を一気呵成に叩きにかかる。 「いきますわよ!」 「――はいっ!」 クラリスが呼び声を向けた先は改めて確認するまでも無く亘である。 多くの場合と同じく、今夜も彼は彼女と共にある。 赤味を帯びた月の下、些か趣の無い形ではあるが――ダンスの相手は決まっていた。 (死が失う事が怖くない筈がない…… でも一緒に生きようとクラリス様は言ってくれた。 なら滑稽で甘くて良い一歩踏み出そう。 最愛の人とその人の大切な方達を命を賭け守り……時に守って貰い生き抜こう……!) 翼を持つ戦士達が夜を舞う。 抜群のスピードを生かした亘の身のこなしが影を追った化身達を翻弄した。 未だ動き出さぬラトニャを隙一つ無く見据える彼は、恐らくは以前よりも強くなった。 我が身を呈して――命を賭して誰かを守る事は美しいが、時に自己満足にしかならない事を知っていた。 (足りない部分を補ってみせる。抱く自身と盟友の夢を現実にするべく。 守り刃を振るえ、神さえ絶て、その為に全ての刹那を翔け抜けろ――!) 存在感を発揮した青い翼にセアドが「ほう」と感心の声を漏らした。 「クラリスも良い御仁を見つけたものだ」 リベリスタ達の戦いは大いに賞賛するべきものだったと言えるだろう。 戦線を高く維持する事で後背の危険を減じさせる彼等は勇気ある挑戦者である。 「行くわよ、三千さん!」 「はいっ、ミュゼーヌさん!」 勇ましきミュゼーヌの構えたマスケットリボルバーが轟音を吐き出す。 戦士に十字の加護を与える三千と共に――彼女はこの分水嶺を譲る心算は全く無い。 「大丈夫、貴方はそのまま癒し続けて……私が、貴方の障害の全てを排除するから!」 「ありがとうございます!」 瞬間に瞬間を重ね、戦いの時間は加速していく。 ミュゼーヌの青い目が彼方で嘲るラトニャを捉えた。 「只のアザーバイド風情が――この世界を、運命を弄ぶ事の愚かしさを……思い知らせてあげる!」 彼女は敗れざるもの。彼女のルーツとなった誇るべき血と同じように。 ――我願うは星辰の一欠片。 その煌めきを以て戦鎚と成す。我、指し示す導きのままに敵を打ち、討ち、滅ぼせ! 我望む鉄槌の星よ(マレウス・ステルラ!) 「人類を――侮らないで!」 ヒロインは吠えた。双葉の導きで降る星の輝きにも負けじと鮮烈に。 ●Baloque Night on The Balolue Knights 戦闘の喧騒から幾らか離れた公園の片隅は状況の外れ。 星辰の夜の招かれざる客は、リベリスタ陣営、ラトニャその両方にとって不確定性の未来を秘めていた。 「リベリスタ、新城拓真。かの歪夜の黒騎士、アルベール・ベルレアンとお見受けする」 「……」 良く通る拓真の呼びかけに赤と青のオッドアイが視線を動かした。 「卿等にも都合がある事は理解するが――此度の戦い、横入りは止めて頂きたい。 無理に押し通ると言うなれば、剣士として勝負して貰う事になる」 厳然たる調子で言う拓真は、視線に捉えた敵の実力をまさに今、その肌で感じ取っている。 しかし、威圧的に言った拓真は敵を食い止めようとしながらも『交渉』の破綻を余り憂いてはいない。 (まさか、疾く暴く獣の騎士殿が退くとは言うまい……?) それは剣士の業で本能だ。剣を使う相手としてこれ以上の相手等、他の何処にも望めまい。 その技を目の当たりにする事然り、仮に勝ち目無かったとしても敗れる事を含めても然りである。 「貴方方は今回の件に関わりないと思うのですが? できればお引取り願いたい。仲間意識をお持ちでしたら仕方ないですが」 続いてやや慇懃無礼さを感じさせる口調で静かにそう告げたのは、桐である。 二つの人影を阻むように展開したリベリスタ達は拓真や桐を含め、虎の子の戦力が十数名。 (バロックナイツ二人をこの人数で止めるなんて、無茶もいいとこだよ……) とは言え、内心で悠里が呟いた通りである。貴重な戦力を少なからず割いたのは確かでも、それが状況に十分かどうかを問えば、無論の事十分では有り得ない。 その辺りが今回の件の難しい所と言えるのだが―― 「ミラーミスにも興味はあるがこっちも面白そうだ。態々日本まで来たんだ、物見遊山という訳じゃねェよなァ? 犬っころが何の用だ?祭りの盛り上がりに水を差すのは無粋だぜ?」 「仲間意識等は無い。それは我等も『彼女』も同じ事。私が従うのは主のみ。 主は、彼女の援護は命じてはおらぬし――そうする事が意に沿う事も無かろう。 我等の目的を述べるならば、見極める事に他ならない」 獰猛な笑みを見せた銀次に応えた重厚なバリトンがやけに通る。 静かにゆっくりとした声で応えたのはリベリスタ達の前方に立つ二人の内――黒衣の騎士の方だった。 予想外のキャストとして今夜に出現したのは、『黒騎士』アルベール・ベルレアンと『白騎士』セシリー・バウスフィールドの二人である。バロックナイツが使徒と言えば一名でもこれまでアークを苦しめ続けた難敵である。彼等をアークが打倒せしめたのは――アシュレイの存在も含め――彼等が一枚岩では無かったからだ。アルベールとセシリーは、ラトニャを援護するような様子は見せては居ないようだったが、この二人が強い信頼に結ばれた存在である事は、アーク側に強いプレッシャーを感じさせたのは言うまでもない。 火急の緊急事態にこれだけの戦力を割く事を余儀なくされたのはアークにとって痛い。 だが、彼等の動向が不明である以上は捨て置く訳にもいかない……状況が難しい舵取りを迫ったのは確かである。 「……私達もアレの対応に全力ですから貴方の主へのどうこうは今回は無いと思いますが」 慎重に言葉を選んだ桐が油断無く視線を二人に送る。 彼が見た所で言うならばアルベールは言葉の通りに落ち着いたものである。 恐らくは今回の闖入でアーク側のリベリスタと遭遇する事は十分に想定していたのだろう。肌を突き刺すような冷たい存在感は確かに魔人のものだが、現時点では強い敵意は感じられない。 しかして…… 「……アンタがそうか。『この世で一番速い女』は」 鷲祐を良く知る仲間の誰かが苦笑した。彼の興味が何処を向いているか等、最初から概ね知れている。 呟いた鷲祐が見据えた女の方――セシリーの雰囲気はアルベールのそれとは随分違う。 「ラトニャ・ル・テップがどうしようと興味は無いが、我々を――ディーテリヒ様の名の下に集うバロックナイツを幾度も愚弄してくれた貴様等の方はその限りではない!」 聞くからに『面倒臭い』宣言と共に鼻を鳴らした彼女は、余り冷静なタイプには見えない。 ……と、言うより下馬評通り直情径行で非常に短絡的なタイプにしか見えないと言った方が良い。 不慣れかつ不向きな任務に余程のフラストレーションを溜めたのだろうか。「フフン」と得意顔をする彼女は、実にノビノビとしたものだ。 (……其の侭傍観してくれてればいいのに、御仕事増やしてくれちゃってぇ……) 「これは駄目だ」とばかりに頭に手をやった喜平が密やかに溜息を吐き出した。 バロックナイツのデータや人となりは或る程度アシュレイに聞いてはいたが、セシリーについては有り難くない程度にはその情報は正しいものだったようだ。彼女は二十代半ば程と聞くからそれも当然なのかも知れないが…… 「愚弄した心算は無いけどねぇ、どっちかって言えば喧嘩売られた方な訳で……」 飄々とした態度を崩さない喜平はちらりとアルベールの動向を確認し、話を攪拌した。衝突が始まれば実力差は否めない。それを十分に計算に入れている彼は、最初からこの場を引き伸ばすやり方を考えている。 (無様だろうが雑魚にも雑魚なりの格好のつけ方がある。結果、一秒でも二秒でも長く止め置いたら俺の勝ちかな――) 何せ現時点でこの使徒二名が完全な敵に回らない保証は無い。 最悪の事態をも想定していた喜平としては、一先ず話が出来ている現況は望ましい位だ。 危ういバランスの上に成り立つ今夜にこんな異物が加わればアークの描いた青写真は崩壊しかねない。 「騎士は忠する者と心得る。黒騎士殿が忠するのはディーテリヒ殿で相違ないか? 願わくは彼に忠する理由をお聞かせ願いたい!」 「……貴殿も騎士道を知る者とお見受けする。安く語れば言葉は堕ちる事も御理解頂けるものと思うが?」 「確かに。だが、貴方程の人物が従うと決めているのだ。興味が無いと言えば嘘になる」 「人が人に惚れる時、その理由は万人に届くものにはなるまい。私はかの方に大義と理想を見ている。 貴殿が己が道を正義、正道とするのと同じようにな」 「成る程、感謝する」 互いに似た所を持つツァインとアルベールのやり取りはスムーズなものだった。 どうも蚊帳の外になったセシリーの機嫌が如何にも悪くなったのは余談といった所だが。 「……出来れば、このまま回れ右して帰って欲しいんだけど……」 「出来ぬ相談だ。我等は歪夜の目。今夜が如何な結末を迎えようとも、それを見極めぬ心算は無い。 それがディーテリヒ様より我等、両騎士に下された主命なればこそ」 悠里の言葉に断言したアルベールにセシリーが頻りに頷いた。尻尾は激しく揺れている。 (アルベールは退却しない。でも、今のは受け取り方によっては『見ているだけ』とも取れるけど……?) 悠里は考える。だが、「見ているだけ」と言う敵を信用出来るかどうかは別問題だ。彼等はここに彼等としてあるだけでアークの警戒対象。これだけの戦力を引き付けてしまう存在感はラトニャに利する。 対決か、回避か。 対決するならばどう対決するか? 回避ならば何処まで譲るか信じるか? 両騎士とアーク陣営のやり取りはタイト・ロープの上を行くようなものであった。或いは激突を回避する道も僅かながらにはあったのかも知れないが、この難しい状況は万人が納得出来る最適解を共有する事を許してはくれていなかった。 (飼い主想いで立派な心算かおい? 思慮浅ぇ勘違いの駄犬、無能な随行人。ココまでくりゃ飼い主こそが実は……って奴か? 何にせよそんな極端な変人ばっかが神秘界隈じゃハバ効かせてんだ。 世も末だ。ソレよか何より分かってる事もある) 実に冷めた目で敵を見る火車は、唇を尖らせるようにして言った。 「ハナっから自己完結。意にも解しちゃいねぇんだ――オメェ等はよ。 早く帰ってクソして寝てろ。黙って静かに引き篭もってりゃ見逃してやるって言ってんだ。 主ってのは言い訳の理由、キャンキャンうるせえ犬相手じゃ――これ以上の話はできねぇな!」 「ボクはこの中で一番弱い。でも、アナタたちなんかの相手には充分だよ。漁夫の利闇討ち騙し討ち。力に任せて大暴れ。そんなことしかできない弱虫が誇りだ誉れだ言いながら振りかざす騎士道なんか、殺されたって認めない!」 火車の口にした罵詈雑言は実に安い挑発だった。 一方で遥の口にした言葉は彼女の一本気な性格を現した唯の感情の迸りに過ぎなかった。 だが、それら『挑発』は元より飛び出しかねない勢いだったセシリーを爆発させるには十分だったらしい。 つまる所、遅かれ早かれ、こうなる可能性は最初から否めなかった。リベリスタ側にもコンセンサスが無かった以上、この状況は確定的だったと言えるのだろう。 「――アルベール、これまでだ。止めても無駄だぞ!」 次の瞬間には、鋭く声を発したセシリーの全身から白色のオーラが噴き出していた。 一方で小さな溜息を吐いたアルベールは動き出す構えを見せていない。 「命を削って新たな強敵(とも)を歓待せねばならぬ。全力上等!」 正直を言えば、麗香は「それでこそ」と快哉を上げたい位の気分である。 「今宵、この戦場はアークとオルクス・パラストの舞台です。敵対するなら――邪魔はさせません」 リセリアは不動の黒騎士の姿を確認して読みが正しかった事に安堵する。『監視』という彼等の任務から分析して割り出したこのポイントが比較的戦況に影響を与えにくい事も確認済みだ。 彼女等を含めたリベリスタ達は爆発的に高まった緊張感に咄嗟に戦闘の構えを取っていた。 「自分は忠するもの定まらず騎士に無く…… なれどこの場に起つ義在らば……ツァイン・ウォーレス、お相手仕るッ!」 ツァインの視界の中で銀色の長い髪が逆立つ。犬歯を剥き出した女は成る程、伝説の魔狼を思わせる。 「フェンリルってカッコイイよな、龍治の方がもっとカッコイイけどさ!」 「……馬鹿な事を」 僅かな興味からこの戦場に出向いた龍治は、屈託無くそう言った木蓮に思わず微かな苦笑を漏らしていた。 セシリー・バウスフィールドは絶影の最速剣士と名高い。ならば己の照準が何処まで通用するか――確かめてみたかったのは『彼が雑賀龍治であるが故』に他ならない。 「来る――ッ!」 カッと目を見開く。 その瞬間に全ての神経を研ぎ澄ませていた鷲祐の叫び声と目の前で起きた『消失』は同時の出来事だった。 アスファルトを蹴り上げるその音が彼女の動きより遅れて生じている。 人間の動体視力で捉えるには限度を超えた――そのスピードに鷲祐は大いに歓喜する。 (嬉しいぞ、セシリー・バウスフィールド!) 青い電光を纏った鷲祐は、超速の世界でセシリーに相対する。 常人が反応出来ぬ長い刹那の中で彼は吠えた。 俺の最大速力。そして―― 「この速さに! 獣同士のシンプルな世界に、人心も邪神も不要だッ! そうだろう、セシリー!」 彼が無遠慮に繰り出した最大最強の大技は同じ歳への挨拶。全てを集約した竜鱗細工。 だが。 「――お前は『遅すぎる』」 音速の壁を打ち砕く無数の竜の鱗が虚しく銀狼の影だけを貫いた。残像さえ残した超高速はあろう事かジャック・ザ・リッパーにさえ賞賛させた鷲祐のスピードを子供のように置き去りにしている。 「司馬さんッ!」 誰かの警告が飛んだのと時間が正常に動き出したのはほぼ同時だった。 冷たい瞳が鷲祐を見下ろす。短く呻いた彼が背から血を流して前に突っ伏した。 彼の背に刻まれた傷は複数。目視する事叶わぬ瞬間の攻防が意味するのは一つ。 「鷲祐君の『後ろ』を取った……!?」 乾いた声の悠里が乾いた声で呟いた。「それも三発……いや、四発か」。 「フン。手間をかけさせる……今のでも致命傷を『外す』とは」 「先程の言葉は訂正して貰うぞ……!」 辛うじて起き上がる鷲祐。舌を打ったセシリーの次の動きをリベリスタ側は当然待ちはしない。 「邪魔すんなら退場させるしかねぇ――!」 火車の繰り出した紅蓮の炎が敵影を炙る。 殆ど同時にその好機を狙い、小さく跳躍したリセリアの切っ先が青い魔剣と絡み硬質の音色を紡いだ。 「ここから先には進ませない――この場所で情けない姿を見せる訳にはいかないんだ!」 悠里は吠えた。 「ここが、僕が! 境界線だ!」 強烈な冷気を秘めた氷鎖拳が唸りを上げる。 見事なスウェーバックは悠里の拳を空振りに終わらせる。 しかし結果とは対照的に自身の予想よりも一歩半分力強く伸びたその技にセシリーは柳眉を歪めていた。 踏み込んだ遥の刃に短くバックステップしたセシリーを銀次が追う。 「逃がす訳ねぇだろ――」 彼の猛烈な大技が地面を抉り、破壊力の余波が彼女の髪をふわりと揺らした。 同時に桐と拓真、そして喜平にツァインが、不動のアルベールを抑えるポジションに収まっていた。 「鬱陶しいッ!」 「いいや? 『鬱陶しい』では終わらせん」 「俺様も忘れないでくれよ!」 一喝したセシリーにニヒルに笑んだのは『スナイパーラヴァーズ』――龍治、そして木蓮である。 極限まで集中力を研ぎ澄ませた龍治の目は超速のセシリーの影すらも捉えていた。 先んじて放たれた木蓮の狙撃が彼の助けになる。彼女の反応速度は理解した。『しらふ』で当てるのは悔しくも微妙だが、この瞬間ならば――自身が勝る! 半ば自分に言い聞かせるようにした龍治の狙撃が今度こそ身を捻ったセシリーの体を掠めた。 「やっぱ、龍治が一番だな!」 ポタリと血を零した彼女は快哉を上げた木蓮とは対照的に少なからず驚いた顔を隠していない。 「アルベール、コイツ等――」 「――四人の使徒が敗れたのはフロックではない。余り油断するな、セシリー」 「……そのようだ」 使徒二名に相対するリベリスタ達は合計十三名。 どう計算しても分のある相手では無いが――何も出来なかった頃とはまるで違う。 どの顔もタダで負ける心算等は微塵も無い。 ●始まり。 元より人の身でラトニャを屠る事は難しい。だが、人の身は力のみに拠らぬ無限の可能性を秘めている。 リベリスタ本隊の決死の戦いは全てやがて来る一つの好機を生かす為のものだった。 終わりを知らない長い戦いを彼等は良く堪えた。 『それ』は唯の始まりに過ぎなかったが――少なくともリベリスタ達は奇跡なくしては到達し得ないスタートラインに立つ事を許されるだけの戦いを展開してきたのだ。 「嫌な臭いがしやがると思ったら……そういう事かぇ!」 星辰の夜に訪れた最初の転機は――初めてあのラトニャの余裕の表情を乱れさせるものになった。 完全にラトニャの化身に支配されていた三ツ池公園の空気が変わっている。彼女の支配が薄れた訳ではない。しかし同じだけこの地を制圧せんとする存在感がそれを塗り潰そうと怒りの咆哮を上げている。 『クトゥグァ』と呼ばれる火の神(ミラーミス)は『原典』においてニャルラトテップの天敵とされる存在だ。圧倒的な破壊力と暴虐、同時に何よりもラトニャに強く向く嫌悪感を同時に有する神は――言ってしまえばリベリスタ達よりも余程ラトニャの敵と呼ぶに相応しい。 「……面倒な……」 初めて苛立ちらしい苛立ちを見せたラトニャが吐き捨てた。 穴の淵に佇んだ彼女の体から生まれ出でたその欠片はその密度を数倍にして蠢き出した。 彼女の狙うのは『クトゥグァ』の阻止。そして―― 「遊び過ぎたわ。リベリスタ共め」 ――一緒の空気を吸う事も嫌な位に大嫌いな高慢ちきを呼び出した事に対しての報復であった。 『クトゥグァ』の調子が不完全なのは直ぐに察したが、それでもソレを止めるには多大な力が必要だ。予想以上に粘るリベリスタ側に業を煮やした彼女は、遂に自身が動き出す事で状況を終わらせにかかったのである。 「さあ、お出でなさったぜ!」 明らかに変わった空気を察して声を上げたのは辰砂灰燼を振るい、存分に暴れてきた影継だった。小さくない傷を幾度も受け、少なくない疲労をその身に蓄積している彼だが、持ち前の超強気はこんな時だからこそ、より一層の磨きをかける。 「この俺が! 俺達が! アンタの敵だぜ、ニャルラトホテプ――!」 「不快な、虫が……!」 百メートル以上の距離と戦いの喧騒に隔てられても影継の挑発はラトニャに届いていた。 彼がそう読んだ通り、この状況に挑発を見過ごさなかった少女の像が彼の目前に出現する。 「待ってたぜ、御大将! アンタ相手にビビってるようじゃ、R-TYPEを撃退した先達にも顔向けできねぇ」 影継のみならず、周囲のリベリスタ達が遂に始まったラトニャ本体との戦いにその表情を引き締めた。 「抜かせ、小童!」 繰り出された死の大鎌が影継を狙う。到底受け切れない鋭すぎる一撃は肩口から激しく彼を切り裂くも、よろめいた彼は淵に紙一重で踏み止まった。 「生憎と、体の頑丈さには……自信があるんでな」 「おのれ……腹立たしい程に振るう力が小さいわ!」 力の相当部分を『クトゥグァ』の抑えに向けた彼女の持つポテンシャルは本来のものよりずっと小さい。時折、彼女が顔を歪めるのは恐らく――夜空を赤く焦がす炎の咆哮が化身を焼き尽くしているからだ。全体としては大きなものではなかろうが、リベリスタ側が消耗と引き換えに化身を削ぎ落としたのもこの期に及べば効いていない事は無いだろう。 彼女はリベリスタ側に何らかの企みがある事を承知していた。 だが、流石に自分の世界に『あんなもの』を引き込むとは思って居なかったに違いない。 とは、言え。 「かはッ――」 激しく血を吐いた影継は相当の深手だ。 「駄目だよ。こんなのは、駄目だ……! 怖いけど、駄目だ。絶対、死なないで――!」 美月はガタガタと震えながらもこの場を退く事はせず、必死に賦活の力を紡ぐが、それでも十分ではない。 (逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ――いや、僕は逃げないっ!) ならばと新たな号令を出した雷慈慟の声に従い、激しく集中打を加えにかかるリベリスタ達。 「些細な足止めね。所詮は私の力なんて――」 鈴鳴る声で詠唱したイーゼリットの魔術がラトニャに突き刺さる。 「分かっているのよ。でもね、くすくす…… 姉妹達よりは少し上手くやってみせるわよ? あの子達、本当に本当にどうしようもなく途方もない馬鹿だから。何をしでかすか分からないけど!」 「俺様ちゃんは秩序が好きだよ。なによりも、ね。 ぐちゃぐちゃに混ざった世界でぐちゃぐちゃになった状態での殺しなんて――美学の欠片もないって話!」 「ドーカン、ドーカン★ まー崩界とかマジ勘弁だしー冷やかし中年でもちょっとはこうして来ちゃう、ってモンだよねぇ!?」 「そうそう」 「殺人鬼ちゃんおひさー。どーよ最近良い殺しできてルー↑?」 葬識と甚内の何時ものコンビがここが仕事場とばかりにラトニャを抉り、切り裂いた。 「アンタが神だとしても、このちっぽけな意地を砕かせない。例え、ここで命を使い尽くしてもだ!」 「くだらぬ、くだらぬ。妾の不滅を知らぬ主等かぇ? 全てくだらぬ強がりに過ぎぬな!」 怒鳴るように打撃を叩き付けた涼子を傲慢な神が笑い飛ばす。 少女のなりの皮膚を裂かれ、骨を砕かれ、肉を切り裂かれても彼女は動じない。 「邪魔じゃ――」 『肉塊』の一声と共に衝撃波が現れた。 周囲に集ったリベリスタ達を吹き飛ばした『それ』はブクブクと泡立ちながら元の形へと再生していく。 傷も、破れた服も元通りに。効いていない訳では無いが、攻撃力を頼りに倒すのは余りにも気が遠い。 「……それにしてもお節介な糞爺めが。『アレ』が出るとなると、或いは……」 ラトニャの姿は気付けばあの醜女のものへと変わっていた。 更に続くリベリスタ達の猛攻を跳ね飛ばし、場を再度睥睨したラトニャが注意を彼方に向けた。 彼女の視線の先にはアシュレイが刻んだ巨大魔方陣と浮遊する『ネクロノミコン』、そしてシトリィンが在る。 「成る程な、流石に妾が『残した』だけはあるわ!」 「美人さんに群がりたがるのは怪物でも神様でも一緒なんだねぇ!」 合点いったとばかりに猛るラトニャに葬識――そしてリベリスタ達が襲い掛かる。 彼女の注意がシトリィンに向けられた以上、後方の危険は一気に高まったと言えるだろう。 しかし、力が落ちている影響もあるのだろうが、猛攻に晒される彼女は即座の転移をしていない。 未だ健在なるラトニャの化身達は『無駄な努力』を本体にぶつけるリベリスタ達を激しく攻撃した。 (神が相手だろうが俺のやる事は変わらない。 癒し、守り、戦線を支える――それだけだ。誰も死なせはしない。死なせて、たまるかッ!) 守りを捨て攻めざるを得ない状態に仲間達は容易に傷付く。 だが、ユーグは吠えた。力の限り、声の限りに叫んで全てをさらわんとする大波に正面から立ち向かう。 「ここを突破出来ると思うなよ、化け物め――!」 癒し手の矜持が、戦士の覚悟が。本来ならば敵う筈も無い神を一時縫い止める。 『クトゥグァ』が化身を潰す程にラトニャの力は弱くなる。もう少し――あと少し。彼女の力が最も小さくなった時に『ネクロノミコン』を発動するのが至上なのだ。故にリベリスタ達は死力を尽くし、時を稼ぐ。 だが、そんな彼等の健闘も永劫続くものでは無い。 弱体化したとしても相手はラトニャ・ル・テップである。 現状をもってしてもその能力は革醒者とは違うステージにあった。 幾度目か彼女より伸びた肉鞭がリベリスタ陣を激しく薙ぎ払う。傷付き、それでも立ち上がり――運命にさえ縋って彼女に抗じたリベリスタ達の数が大分減っていた。 傷付いた仲間を前に化身への対応を余儀なくされる彼等の集中打が徐々に緩む。 「……骨を折らせよって……」 珍しく感嘆とも悪態ともつかぬ声を漏らしたラトニャは後方へと遂に転移を果たした。 中心部にシトリィンを置く魔方陣はリベリスタ達の希望の全てだ。 ニタリと笑みを見せたラトニャの姿は今度は少女のそれに変わっている。 「この方が、恐ろしいじゃろう? 主は」 ラトニャが楽しげに呼びかけるのは幾重のリベリスタ達に守られたシトリィンだ。 「主は、忘れた事等無かったじゃろう?」 「ええ、正直ね。怖くて仕方ないわよ」 シトリィンは言葉を返す。粘性のラトニャとは対照的に涼やかに。 「でもね、覚えておきなさい。糞婆。私は、やられたらやり返す主義なのよ――!」 シトリィンの啖呵が引き金になったようにリベリスタ達は動き出す。 元より後方への襲撃は織り込み済みだ。これまで化身を駆除してきた護衛部隊が今度はラトニャに対抗するだけ。 とは言え、この位置に属していた恐山部隊はそこまで付き合う様子は無い。 むしろこれまでは比較的真面目に戦っていた方が意外と言えば意外であるのだが…… 「はい、皆さん! ちょっと退却! 距離を置いてアークを援護だ! 主に回復支援までね!」 安全第一の工事帽を被り、拡声器で声を張る千堂に快は苦笑いする。 「お前ってそういう奴だよな。だが、命で恩を売られても、釣り合うものは返せない! 任せろ――こんな守戦ならいよいよ俺の本分だ」 魔方陣の中心部では『守護神』と称される快が笑みを見せた。 「クロスバー顔負けの守備を見せてやるぜ」 「後、どれ位だ?」 「多分、もう少し」 短い言葉を交わしたシトリィンに小雷は告げる。 「前の任務で奴の配下に同郷の仲間を目の前で殺された。 死んだ同胞に顔向けするためにも俺はこの戦いには生きて勝つつもりだ。 お前も――死ぬな。死んでくれるな。仇討ではなく、過去との決別と仲間の死が無駄ではないと証明の為。 そう、決して死ぬんじゃないぞ――!」 雄叫びを上げた小雷がラトニャに仕掛けていく。 彼だけではない。この瞬間に残された力を振り絞るリベリスタ達が絶望に相対していく。 小梢の守りが木っ葉のように砕かれた。リベリスタは怯まない。 (くそ、段々と力が抜けていくぜ。息を吐くことさえ、肺の中が熱く溶けていきそうだ――!) 腹に潜り込んだ肉鞭が内臓をこね回した。こみ上げる熱い何かと共に生命力を吐き出したジースの姿に、ルアが慟哭する。だが、リベリスタ達は止まらない。 悪夢のような光景が広がる。逃げ損ねた彰人の体をラトニャの殺意が一息に捩じ切っても―― 無数に枝分かれした触手を分身したかのようなカバーリングを見せた快が弾き飛ばした。 「俺が居る限り――立ってる限り、雷音ちゃんには触れさせないッ!」 「こんな、こんな戦い……ッ……!」 大きな瞳を心なしか潤ませた陽菜が力ある一撃を放つ。 長いようで短く、短いようで長い戦いはどれ位続いただろうか? そして――貴重な時の彼方に、待ち望んだ時は訪れる。 「あの村で出会ったラトニャは、そりゃあもう別格の強さだったさ。 けどな『それがどうした』だ! どんなに強くて絶望的な奴が相手だろうと…… 勝利の可能性が1%でもあればもぎ取ってみせる。それがアークだぜ! シトリィン、俺らを信じろ! 皆で勝とうぜ! さあ、復讐の時間だぜ!」 力の限りに激励したラヴィアンがシトリィンを狙った肉鞭を魔力障壁で弾き飛ばした。 「助かったわ、皆。さあ、行くわよ――糞婆ッ!」 噛み付くように言ったシトリィンが目を大きく見開く。 彼女と繋がった『ネクロノミコン』がひとりでにページを開き、圧倒的な力の奔流をもたらした。 おおおおおおおおおお……! 亡者の怨嗟が如き呼び声が大気を揺るがす。 これまで如何なる攻撃に直面しようとも崩れなかったラトニャの余裕が消え失せた。 呪いの響きは彼女を縛り付ける枷と変わる。 「……のれ、……小娘ッ……!」 「さあ、糞婆。私が……くたばるまで付き合って貰うわよ……?」 蒼白な美貌を苦しげに歪めるシトリィンが憎々しげに呟いたラトニャに微笑む。 奇跡を幾重に重ね、作戦はここまで成った。 後は大詰め――決して間違えてはならぬ大詰めを残すばかり! ●終わり。 「――全ての状況は整いました。 今こそあの忌まわしき混沌に私達の力を示し、この世界より追い出す時です!」 澱んだ生臭い空気を――少女(ミリィ)の凛とした声が貫いた。 「任務開始。さぁ、戦場を奏でましょう――」 彼女の金色の瞳が見据える先には醜悪なる異形。より本質を近付いた異物がある。 触腕、鉤爪、手を無数に蠢かせる肉塊が生意気な人間への怨嗟に吠える。 力の過半を抑え込まれたラトニャは――人間の擬態を捨て、巨大な異形へと変化していた。 「あれぞクトゥルフ神話ですよ宮部乃宮さん! ……あれ? どこです」 恐怖よりも高揚を感じさせる調子で『相方』に言葉を投げた黎子は、彼が現場に居ない事を今更に気付いた。 「アレは怖いか?」 櫻霞は答えを知りながら敢えて傍らに立つ櫻子に問うた。 「何せ、札付きの邪神だ。ミラーミスと呼ばれるだけはある」 「いいえ」 頭を振った櫻子の答えはこれまでも――今夜も全く微動だにしない断固たる決意を隠していない。 「私は櫻霞様のお側で自分の出来る事をするだけです」 実際の所、より純粋な力を感じさせる化け物への変化はその実、彼女の焦りを感じさせるものだった。 戦場に溢れた彼女の化身は『ネクロノミコン』の発動で力を減じている。その事実そのものがラトニャの力の大幅な低下を如実に示すものなれば、虚仮おどしめいたその姿は、恐怖する者を容易に飲み込む事は出来ても、勇者の正気を奪うには力が足りまい。 「いい答えだ。ミラーミスだというのなら好都合。俺の力が通じるか使わせて貰うまで」 櫻霞の不敵なその表情は冷静な彼には珍しい、微かな怒気を秘めていた。 「この世界を侵食する? 舐めるなよバロックナイツ第四位!」 同じく黎子は目をすっと細め、朗らかな彼女からは想像もつかぬ程冷たく低くせせら笑った。 「まあ、異界の神であろうが、這い寄る混沌であろうが。 上から見下す人は好きじゃありません。依然変わらず。不思議な魔法で酷い目に遭わせます」 宙空に浮かび上がる不条理のルーレットは彼女の最大最高の本気を意味するものだ。 一秒毎に激しく生命力を失うシトリィンが倒れればそれまで。リベリスタ達の最後の戦いは、『ネクロノミコン』を発動したシトリィンを支え抜き、この醜悪な肉塊を時空の果てに追放する事。 「恐怖神話……私は、彼らからの『侵略』を知っている。 認識を、常識を、根底から揺さぶり塗り替える『侵略』を知っている。 だから……だからこそ、アレはこの世界から放逐しなければいけない。 私達が得た日常を、掛け替えの無い世界を、護り維持する為に――」 「神話は詳しくないので……貴方の活躍は知らないんです。 強いて言うなら、気になるのはその私に似た青い髪……ですかね? でも、お姉様との日常を壊すモノならバロックナイツでもミラーミスでも……全部潰して見せます」 只管、全力、全開で。 「行くわよ、リンシード、異界の神とやらに吠え面かかせてやりましょう!」 「はい、お姉様……必ずお守りします……!」 糾華とリンシードは、この時を待っていた。遂に溜め込んだ己の力を開放した。 戦場に舞う【黒蝶】の乙女達は血で血を洗う死地においても奇妙な程に麗しい。 されど、可憐とする他は無い彼女達に見蕩れれば待っているのは破滅のみ。それだけの力は備えている。 「さあ、恐山の皆。今がチャンスだからね、一気に攻撃するよ――! 恩着せは誠実が何より。一に信頼、二に実利。三四も五もバランス良くね!」 リベリスタ有利の気配を感じたのか、調子良く再び攻勢に転じた風見鶏はさて置いて。 「……本当にタメになりますね。これが戦力以上のバランス。 バランスによる力。バランスは世界を救う。高まれ、僕の平均力!」 何故か千堂の感銘を受けている零児がここぞとばかりに動き出す。 リベリスタ陣営には、その為だけに多くの力を温存してきた戦士達が居た。 唇を噛んで苦境の仲間を信じ、ここまで力を残してきた戦力が存在していた。 全ての余力をここに注ぎ、醜悪な神を追い詰めんとする――戦士達は最大の好機に躍動する。 「なぁ、今のバランスどうよ? 恩は買った! 返すかどうかは未定! そんなもんでいいよね、僕らの関係は。利用させてもらうよ――」 早口で言った夏栖斗の放った蹴撃が間合いを潰して肉塊に突き刺さる。 枷の影響かダメージを隠せないそれが後退する。彼の動きに【星屑】のチームを編成する面々が続く。 「やれやれ上の世界からはゴミばかりが雪崩れ込むものだな。押し返して後始末、元から断てないのは面倒だが――」 何時もと同じようにユーヌが外見には全く似合わない手酷い悪態を吐き出した。彼女の指先が緻密精密なる符術を組み上げた。動き出す影人は敵に向かう仲間を――せおりを、義衛郎を守る助けとなる筈だ。 (胸裏に埋めた積怨の火を、蒼白く燃やす夜が来た。 オレの大事な者を害した奴に報いを受けさせねば、一歩だって進めやしない!) 静かに燃える青い炎のような義衛郎の情念はあの『クトゥグァ』の炎にも劣るまい。 ラトニャの化身を文字通り消失させた圧倒的火力は、ボトム・チャンネルの人の身の中で再現している。 「其処の青いお嬢さんに比べたら地味だが――オレの飛び切りを食らえ!」 一撃一撃に積日の怒りを込めた斬撃が肉塊をまさに切り刻む。三徳極皇帝騎の刃はこの悪を決して許さない。 そして或る意味で――その義衛郎に勝るとも劣らない程の意志を発揮したのはせおりだった。 「星辰の揃いに数えられぬ星屑も、集まれば天狼星や寿老星よりも強い光になるの。 いくよ、女神様……文字通りの血戦なのっ!」 鮮烈な声が不吉な夜を切り裂いた。 仲間達の攻撃に続き、巨体目掛けて踏み込んだ彼女は持てる力の全てをこの瞬間にぶつける覚悟だった。 「伊達男のお兄さんに比べたら技も錬度もまだまだだけど、これが私の一発芸ッ!」 せおりの抱く力は運命に干渉するものだ。 瀬織津姫に込められた荒ぶる魂は、『悪しきひめさま』を根元から断ち切らんとする一撃。 太刀の輝きは、破邪の力の行使の如く。猛烈な威力が肉に潜り、その一部をこの世界から吹き飛ばした。 おおおおおおおお……! ラトニャに纏わり付く怨嗟の声が強くなる。 音により織り成された小規模結界の変化はシトリィンの快哉だ。 リベリスタ達の見事な攻撃に彼女の気力が増している事が伺われた。 されど、距離は遠い。この巨体を――あの場所まで誘導しなければならないのだから大事である。 リベリスタ達は互いに連携しながら、一つのゴールを目指していた。 「息子も見てる事だし、な。偶にはかっこいい所を見せてやらねぇと――」 より厳密に言うならば息子に負けてなるものか、という想いもある。 この世界を守る事は彼を、そして娘の雷音を守る事に相違ない。 子供の将来を守るのは父親として当然だ――気炎を上げた虎鐵の重い斬撃が爆発的な威力を発揮した。 「らとにゃんらとにゃん! ああ……こんな『どうしようもない』感じになっちゃって!」 半ば本気で――美少女から肉塊へ変わってしまった彼女を嘆き、『全部本気で』一撃を見舞う。 嘯いた竜一の破壊力は虎鐵のそれに勝るとも劣らない。 「ふふふ、俺の右手の封印が疼くぜ…… そもそも、ラトニャンたちが俺に勝てるわけないんだよね。 俺の中の原初の混沌が言ってるぜ。おとといきやがれ、ってな!」 心の中だけで「……ホントに来るのは改心してからでお願いします」と付け足した彼は刃を振るう。 「我は祈りに応じる者! 祈りとは、か細く、儚く、とるに足らぬ、茫洋なる願いなり。 なれど、人が思い、命が想い、数多すべての最後のよすが――」 己が存在を問い掛けるようなアラストールの声は、まるで己に捧げる『祈り』であるかのようだった。 「祈りこそが我が存在。ならば、我はこの夜の数多の祈りに応え、理不尽に抗う力の一つとならん!」 ラグナロクの凱歌を従えた大いなる騎士がこの世界にも秩序を示す。 祈りの剣の軌跡は瘴気を裂いて――おぞましき邪神の不滅を声高らかに否定した。 ――舐めるな、余り妾を舐めるなよ。貧弱なボトムの埃風情が――! 圧倒的な瘴気が肉塊より噴き出した。 攻めかかるリベリスタの一部を吹き飛ばし、その足を止める程の威圧である。 ラトニャは腐ってもラトニャのままだった。現時点においても――自由の大半を縛られた状態であったとしても、リベリスタ達に暴虐の嵐で対抗する。弱りに弱った彼女の機能は大半が停止された状態だが、それでもフェーズ4エリューションすら比較にならぬ程の戦力を有しているのは確かであった。 (……っ、でも、抑え切ってみせる……ッ!) 怒りでその濃度を増したラトニャの存在感に『ネクロノミコン』を維持するシトリィンがよろめいた。 彼女が出力を強めたのだ。不利な綱引きは承知の上、ラトニャの能力を限界まで縛り付けている。 「大丈夫ですかっ!?」 「……ええ、これからよ」 思わず声を上げた美伊奈にシトリィンが少し力無く微笑んだ。 自身の体を支えるようにした美伊奈にシトリィンは「有難う」と呟いた。 「私はあまり強くないけど……このやり方なら、役に立てるかなって。 私の力、私の命、私だけの物じゃないから、全部は……無理だけど…… でも、出来る限りいっぱい……あげます。どうか使って下さい……!」 シトリィン程の存在をしても、恐ろしい程に早い消耗にリベリスタ陣営は臍を噛む。 アシュレイが描いた魔法陣が決意を見せた美伊奈から運命とも呼ぶべき存在力を吸い上げていく。 『ネクロノミコン』の維持は焼け石に水の継ぎ足しを可能な限り続ける他は無い、悪辣な現実を帯びている。 「……ん……っ……」 美伊奈の漏らした声は確実な――苦痛の声だ。 同時に彼女はシトリィンが責め苛まれる痛みをこの瞬間完全に理解した。 『一部』である今の瞬間さえこれならば、彼女は―― 「シトリィンさんは……自分の『塔』を壊した相手に…… 正面から、立ち向かっている……凄い……ですね……」 『ネクロノミコン』の維持は戦い。だが、それはラトニャに相対するリベリスタ達も同じである。 人語で現す事の出来ない呪いの音色がリベリスタ達の精神を撃ち抜く。 肉柱から無数に突き出た触腕、鉤爪、手――伸縮自在のそれ等が彼等を襲う。 「切り札、伝家の宝刀、奥の手、秘密兵器。カッコイイわよね、そう言うの。 途中までサボれて、美味しいとこだけ持っていくって素敵。 ……ま、その分危険を負う事になるんでしょうけど」 嘯いたソラは必要最低限の緊張感と平常心――つまりいつも通りの自身を努めて保っていた。 普段の姿や性格からは信じられない位の冷静さを見せる彼女だが、これも別に余所行きではない。ソラ・ヴァイスハイトの中には元々そういう所がある。普段見せるかどうかは全く別問題だというだけだ。 翼の加護で仲間を援護し、傷付いた彼等を癒すソラの一方で、 「少年が英雄に憧れるように。少女が姫に憧れるように。 蜂須賀の人間は神殺しに並ならぬ感情を抱いている――分かるか? 神よ。 君には分からんだろうな、君は『偉大なる神性』故に!」 平常とは程遠いテンションを全く隠す事無く、嬉々と刃を振るうのは朔である。 「いいぞ、無貌の神。征くぞ無貌の神! 私の目的は以前変わらず討滅だ!」 爛々と輝くその瞳はどんな時よりも輝いている。もしこの美しい女と『付き合える』幸運な男が居たとしても――少なからぬ嫉妬の種には困らぬ程にだ。恐らくはどんな艶時も彼女をこれ程には高ぶらせまい。 「人の言葉を繰り。人の姿を取り。人と交わる。結果、出し抜かれる事になってもの。何故か?」 同様に、饒舌なる真珠郎は黙らない。 「結局ヌシは人が羨ましいのじゃろ。だが千と無貌。どれだけ他人の姿を真似ようがヌシの本質は無貌。 真に変わる事などできぬ。ま、我は神ではない。神の本音を外した処で何の痛痒もないがの。 だが、友達いない寂しがりも気の毒じゃ。後学の為に我がたっぷり遊んでやろう。感謝せい!」 凡そ恐怖という感情からは程遠い蜂須賀、紅涙という『人種』は恐怖を司る存在からすれば面白くも何とも無い存在――可愛げの無い存在に違いあるまいが、多かれ少なかれ戦場で力を尽くすリベリスタは同じか。 真珠郎がその両手に備えた力ある破界器が自身に伸びた『腕』を斬り飛ばす。 「風になれ、恐怖も傲慢も吹き飛ばす風に!」 クロトの一撃が敵を押す。 「ふむ、理屈は良く分かりませんが、確かに『対抗策』ですな。これならば何とかなろうかというもの。 我々も一気に行きますかな山……那由他さん」 「私の大好きなことの一つは可愛い子と戯れることです。 大丈夫、殺し合いだって全然問題ないですよ? ……今のアレが可愛いかどうかは兎も角ですけど」 好機に攻勢を仕掛けたのは、九十九と珍粘――【揺籃歌】のペアも同じくである。 その手に奈落を抱いた九十九と珍粘、二人のダークナイトが共に渾身の一撃でラトニャを撃つ。 「此処で引いても、世界が終わるのなら後が有りませんからな。 ならば、前に出るのみ。一つ未来を斬り拓いてみますかのう――!」 「ふふ、そんな風にも言えたんですね」 何時に無い気合を見せた九十九をからかうように珍粘が笑った。 まさに今この瞬間、最大攻勢を記録したリベリスタ陣営の士気は最高潮まで高まっていた。 最後に獲物を仕留めるのは技術でも、武器でもない。結果がどう転ぼうと、後悔だけは無いように――やれる事は全てやる。出せる力は残さずに出す。この局面に意志の力以外の何を頼れよう。 シンプル極まる、戦闘論理と呼ぶ事さえおこがましい原則が、事実この夜の全てを支配していた。 「この世界は姉さんが命と引き換えにして守った世界です。 私の友達や仲間が、過ごしている世界です。 この世界を守ってみせます。ミラーミスを追い返すぐらい、やってみせます! 私達はリベリスタなのですから――」 感傷めいたセラフィーナの声が言葉のみには終わっていない。 「私一人だけじゃない! これが皆の! 絆の力です!」 彼女の想いをレイズしたその技の切れ、重みは彼女の限界を問い、引き出すそれ。 爆発的な攻勢は極短期間の内にラトニャの巨体を閉じない穴の付近まで押し戻していた。完全な自由が無い彼女は或いはリベリスタ側の何らかの意図に気付いていたのかも知れないが、これを完全に防ぐ事が出来ないでいた。多勢に無勢に加え、その為に作戦を練り上げたリベリスタ達は周到だった。激しいノックバックを見舞った虎鐵が「教育に悪いんだよ、消えちまえ」と唾を吐き捨てた。 おおおおおおおお……! 勝負の時は訪れていた。 「もう終わりか? 妾は貴様が果てるのを傍で見れるなら愉快極まりないがな!」 挑発めいた激励を投げるゼルマにシトリィンは舌を打つ。 「小娘は、黙って前を向いていなさいな……!」 丁々発止としたやり取りは字面を見れば威勢が良いが、シトリィンの声は余り張ったものではない。 仄暗き咆哮を上げる『ネクロノミコン』を支える彼女は既にラヴィアンに支えられて辛うじて立っている状態だった。然して長くは無いこの時間――短い好機を作り出すに捧げられたモノは決して小さくない。 「ネクロノミコンは、到底、私が扱える代物ではありませんが……」 「……元々、誰かに異能の力を分けるのが得意分野だからな。 アシュレイが作ってくれたフェイトのバイパス、最大限に利用させてもらうぜ」 微かな笑みを見せた修一も修二もかなり余裕を失っていた。 シトリィンのみならばここまでの時間を耐える事は不可能だったと言えるだろう。 アシュレイの描いた魔法陣が彼女に力を貸す――リベリスタ達の運命を力を吸い上げ続けている。 修一の言葉を補足するなら「それでも出来る事があって良かった」だが、不当な聖杯の如くレートの手酷い『浪費』は、しかし他の代替の無い唯一の方法でしかない。 「さぁ、最後まで廻していくぜ!」 だが、晃はこれに躊躇する構えは無かった。 いや、彼だけでは無い。この場にあるリベリスタの多くが既にある種の覚悟を決めていた。 (例え今討つ事が叶わずとも、放逐に成功さえすれば……っ……) 命賭けの助力が今にも崩れそうな体を酷く蝕んでも、悠月はそれでも倒れない。 「然るべき――人智を超えた神の業であろうと――手段を用いる事で『ミラーミス』に抗する事も可能だ、という証左になる。これは、私達の……」 運命に翻弄されるばかりの人間の、可能性を賭けた戦いと彼女は知る。 ラトニャも最早必死なのだろう。それでも出現した化身が魔法陣を脅かす。 「頑張って……!」 砲撃手たる陽菜がシトリィンを庇うように必死の応戦を展開した。 「あの有名な『ネクロノミコン』を見れたのだものね――」 シトリィンに力のバイパスを繋ぐティオは魔術師故にこの場に存在する奇跡の大きさを実感している。 肩で息をするティオは戦闘行動を殆ど取っていないが、その消耗は或いは最前線以上に大きい。 (でもこの魔法陣、本当に……何も裏が無い?) ティオにも深淵たる『塔の魔女』の術式は理解出来なかったが――そこに警戒がない訳ではない。 「はーい、皆の味方アシュレイちゃんが来ましたよー」 「チコもバッチリ仕事したのだ!」 防護結界を張る自身を護衛していたチコーリアと共にアシュレイが姿を見せたのはこのタイミングの出来事だ。 「全体の戦況は上手くいったみたいなのだ。『クトゥグァ』の火力も小さくなった」 「なので、こうして馳せ参じた訳ですよ。あはは、私戦いませんけどね!」 チコーリアに「ありがとうございます」と頭を下げたアシュレイはマイペース。 (今度は何を企んでいるの? アシュレイ……!) 相変わらず底を見せない魔女の挙動に柳眉を吊り上げたのは、あくまで彼女を警戒する恵梨香であった。 「あいかわらず、信用させないことには定評があるわよね、この魔女」 苦笑した海依音が瞑目し、祈りを捧げた。普段は神に祈る事を大層嫌う彼女が『機械仕掛けの奇跡(デウス・エクス・マキナ)』を求めたのは、特別な事実である。 「誤解しないでくださいね。目の前で死なれちゃ困るって話です! マイウォレットから泣く泣く出費! 出血サービス! ここまでやってんですから、倒れることは許しませんよ!」 「……無理はしないで……は、我ながらナンセンスか」 「こちらとて死ぬ気は無い……が、雑兵には雑兵なりの命の使い方がある!」 やや自嘲気味に言ったシトリィンにキャルが力強い声で言った。「見縊るな」と言わんばかりである。 「お前が自身の復讐戦に他の命を犠牲にさせまいと思うと同様に、こちらとて自国の問題で他組織の長を犠牲にさせるわけにはいかないんだよ。お前には――まだ生きていてもらう必要が有る!」 厳しく言ったキャルは内心では、 (個人的には、肩の重荷を下ろしてセカンドライフを楽しんでもらいたい所だけどね) と、心優しい所を持つ男である。 「……粘りやがって、あの婆……!」 怜悧なる美貌に焦りの色が濃い。 自身程には大きな力を持たない他のリベリスタ達が生命に障るだけの注力を続けている事をシトリィンは痛い程理解していた。このまま続けば……どうなってしまうかも。 「神という概念をみた。理解なんかできない。 それに比べれば自分達はちっぽけに過ぎない。集まらなければ大きな力にはならない。 でも――ボク達は今こうして集まっている」 焦燥を隠せないシトリィンに穏やかに雷音が言った。 「シトリィン、微力ながら力添えをする。生きて、愛しい人へもう一度会うために。 夢見がちな女たちの願いが世界を救うなんて素敵だろう――?」 夢を歌う可憐な歌姫――アンジェリカが微笑む。 「ボクは生きる事が好き。だけどそれはこの世界がこの世界のままであってこそなんだ。シトリィンさんにそれが出来るなら、ボクの命も、魂も、フェイトも、全て分け与えるよ。だから負けないで。あんなロリババァの思い通りにさせないで!」 アーデルハイトは言った。同じくドイツを故国とする同郷の女は、夫を持つ女は言った。 「今宵が最期などと思われませぬよう。 素敵な旦那様、忠実な臣下、信頼する仲間、親愛なる隣人。大切な夢を抱いて新たな夢を見ればいい。 我々は生きている。この醜くも美しい世界に飽いてはいないのだから。 ――歌いましょう、高らかなる凱歌を、『ラピスアイズ』の帰還と門出を。 踊りましょう? 土となるまで、灰となるまで、塵となるまで」 ……確かに彼女等リベリスタ達に決意を問えば死すらも恐れないやも知れない。 だが、それが故にシトリィンは内心で彼等に詫びた。 (夫を……セアド達を前に出したのは、私のエゴだったわ。ごめんなさいね) 彼女はオルクス・パラストの首魁として最悪の状況を想定していなかった訳ではない。自身を支えにかかるアークのリベリスタ達が『取りそうな行動』も理解していた心算だ。故に同胞は前に出した。彼等もこの場に在れば恐らくは同じ結論を選んだだろうが――それを嫌ったのは事実である。 ラトニャ・ル・テップは強大だ。 追い込まれながらもその凄味は衰えない。『ネクロノミコン』は或いは力の負荷に震えている。 後何分――いや、何秒最大出力が続くかの保証は無く。 運命の天秤はあちらとこちらを激しく揺れ動き、未だ最後の態度を決めかねていた。 前線の誰かが倒された。身を挺して魔法陣を守るゲルトが肩の肉を食い千切った化身に絶叫した。 星辰の夜は、まさに『決断』を求めていた。 果たしてシトリィンは覚悟を決めた。『あの方法なら』。 せめてもそれが責任であると考えた。この死線に可愛い後輩(アーク)を巻き込んだ責任は取らねばならない。 「私は、この時を待っていた気がするよ」 だが――彼女がそれを果たすより先に穏やかな口調で言ったのは、他でもないイセリアだった。 剣姫とは名ばかりで――滅多に抜いた所さえ見せやしない。昼行灯のような女の顔が何時もと違う。 「欠け逝く順、数がもしも選べるのなら――その権利が与えられるのなら。 数は少ないほうがいい。 重要でないほうがいい。 妻ではないほうがいい。 子ではないほうがいい。 妹ではないほうがいい。 そうだろう? シトリィン殿」 「待ちなさい、それは私が……っ……!」 最初からイセリアはそれを考えてここに来た。 故に彼女はこの無慈悲なバイパスの上で積極的に己を『浪費』した。 命さえ惜しまずに尽力した、ではない。最初から死ぬ気で力を注いできた。 まさに最終局面でシトリィンが決断した『方法』を最も戦いから遠い女は最初から見越していたのだ。 「端役一世一代の見せ場だぞ、主役(ヒロイン)は素直に譲るものだ」 冗句めかしたイセリアの言葉は運命転回の始まりとなる。『敢えて極限まで運命を捧げてからの歪曲運命黙示録』は起きる保証のある確定的な奇跡。同時に確定的な死に他ならない。 ボトム如きとせせら笑うラトニャ本体に直接それが通用しなかったとしても――『ネクロノミコン』を強く咆哮させる事位は出来よう。この場で命を注いだ『皆』の運命を僅かばかり戻す事位は叶うだろう。 「未来はお前達の手に。さらば」 しゃらん、と。 澄んだ音を立ててブロウ・ヒュムネIIが引き抜かれた。 剣姫の抜いた蒼き賛歌は――戦場の全てのリベリスタを讃え、唯一つの敵を許さない! おおおおおおおおおおおおおおおおお――! イセリアの名を呼んだ誰かの声が『ネクロノミコン』の咆哮にかき消され、永遠にもう届かない。 光に包まれた彼女が『消滅』するのと同時に『ネクロノミコン』は過去最大の出力を発揮している。 その直後。 ――誇り給え。諸君らの神狩は成った―― 男とも女とも取れる厳かなる声が戦場を制圧した。 彼方の空に打ち上げられた炎の球が無数の矢となりこの戦場に降り注ぐ。 火の神の賞賛たるその一撃は無差別なように見えながら、悉くラトニャとその化身だけを貫いた。 ――おのれ、おのれッ! 馬鹿げておる! こんな花火で! 主等のお遊びで妾が……妾が滅びる筈は無い! 『最後の嫌がらせ』程度の攻撃を加えた『クトゥグァ』もこれを受けたラトニャも万全からは程遠い。 だが、本来の彼等が歯牙にもかけぬ程度の小さな力が状況を動かしたのは確かだった。 「知ってるよ」 短くアズマが呟いた。 「知ってる。お前はどうせ滅びない」 『ネクロノミコン』と火炎の圧力に負け、穴の淵まで追いやられた肉塊は当初よりサイズが萎んでいる。 跳躍した彼女は自身に向けられた鉤爪に足を抉られ、それでもそのまま彼女に一撃を浴びせ掛けた。 「これは――アークだけの一撃じゃない。この世界の命運をかけた一撃だ!」 最後の一押しが巨体のバランスを大きく崩した。暗黒の洞に落ちていく肉塊。 彼女は一斉にゲートを破壊しにかかるアークのリベリスタ達の所作を見てそれを完全に理解した。 ――そういう事かぇ! それに思い当たらなかったのは余りにも彼女が長く生き過ぎたからだろう。 余りにも人間とは違う時間に隔絶されていたからだろう。彼女の常識は人間とは余りにもかけ離れていたからなのだろう。 ラトニャは百年の重みを理解していなかった。 彼女の最大の慢心は自分と別個の意味と考えなかった事! ――させぬ……! 閉じ行く穴の淵を肉塊から突き出た少女の白い小さな手が掴んだ。 本体は穴の向こうだが、その手が此方に残っている。 彼女は強引に戻ってくる心算なのだ。自身と繋がったその手が時間を共にする空間に。 ほんの僅かの猶予があればこの企みは成っただろう。 だが、これを読んでいた者が居たのはラトニャの誤算だった。 「おかえり神様。だが、やっぱりさようならだ」 再び時空を切り裂かんとするそれを最後の最後、決め手として控えていた烏の精密無比なる弾丸が木っ端微塵に吹き飛ばした。 「此方では使い古されたフレーズじゃ。次は『夢で逢いましょう』」 「会いたくないさね」 洒落た真珠郎が烏に「そうか?」と首を傾げた。 ――忘れるな、妾は必ず…… 戯言は終いまでは続かない。 消滅したリンク・チャンネルは時を完全に鎖したのだ。 「三高平の地で星辰が正しき位置に揃うねぇ。実におめでたい神様だった」 よりによって、この場所を選ぶとは。 そう言う彼を詰る術をこの世界より『一時』失われたラトニャは有していない。 嘘のように静けさに包まれた星辰の夜に紫煙が燻る。 「なぁ、神様。今でもいい夜だったって思うかね――?」 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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