●おつかい ちたちたちた。 それは足音。小さな爪がアスファルトを叩く軽快な並足の音。 くるんと上向きに巻いた尾を右へ左へ揺らしながら、一匹の犬がまっすぐに道を行く。 ちたちたち……。 二手に分かれた道を前に、赤みがかった毛並みを持つその柴犬は立ち止まる。 左の道は、ご主人さまといつも行く道。地元の商店街へ行くのにいちばん近い道。蝶や綿毛を追いながら散歩する、街路樹の連なるのどかな道だ。しかし、 ばうわう! 低く野太い吠え声に、彼女はびくりと身を震わせて逃げるように右へと駆けた。 そう、左の道に面した家には黒くて大きな洋犬が居て、庭の柵から飛び出さんばかりの勢いで吠えついてくる。それでも、ご主人さまと一緒なら顔を上げ平然と通り過ぎることができた。 けれど今日の彼女は独りきり。 ちたっちたっちたっ。 右の道は大きな街へも続く道。灰色の四角いビルが立ち並び、車が吐く臭い息が鼻に衝く道。狭い歩道に停められた自転車と人の雑踏に押し出され、山のようなトラックが地面を揺るがし行き交う車道の脇を、彼女は走った。 「あっちは危ないから行ってはいけないよ」 ご主人さまは分かれ道でいつもそう言っていたけれど。 黒い洋犬の家の前を独りで通れない彼女は、おつかいのたびにこの道を行く。だから大丈夫。 湿気った風が雨を連れてくる日は、決まってつらそうに膝をさするご主人さま。「あずきや、また頼まれてくれるか」掛けられた声に彼女はすくっと立ち上がり、「わん!」と元気に応えたのだから。 広い道路に描かれた白いしましまは道を横切る場所の印だ。賢い彼女は知っている。 けれどこの道のしましまでは、なかなか車が止まってくれない。歩行者が少ないからこその押しボタン式横断歩道。途切れぬ車に立ち往生する彼女の黒い鼻先に、雨粒がひとつ、ぽつりと落ちた。 ざあざあと勢いを増す夕立のなか、昼と夜が混ざりはじめる曖昧な時間。わずかな車列の切れ目に飛び出した彼女は、迫り来るヘッドライトと、耳障りな急ブレーキの音に襲われ、声も上げずに宙を舞った。 ●おねがい 「わんこ」 少女はただそれだけを言ってモニターを指差した。 首に唐草模様の風呂敷包みを巻いた、小柄な柴犬が映し出される。いわゆる豆柴なのだろう、小さくとも立派な成犬である彼女は、名を『あずき』と云うらしい。 「飼い主の使いもこなせる賢いコ」 その日も独り、お使いに出て交通事故に遭う運命(さだめ)だと『リンク・カレイド』真白 イヴ(nBNE000001)は告げた。 しかし、この未来はアーティファクトに干渉されたがゆえのもの。 「そのアーティファクトの回収が、今回の仕事」 其れはあずきが首に巻いた風呂敷の中、がま口財布に入っている五円玉。赤いリボンの結ばれた、他愛も無い金運アップのお守りだ。 「でも、このアーティファクト—–『pittance』は、金運を上げる代わりに『他』を下げる。健康運や、……交通運」 商店街のくじが当たった代価は、彼女のご主人の持病、膝の痛みの悪化だった。交番に届けた財布の保管期間を過ぎて受け取ったお金の代価が、今度の事故なのだろう。 「割に合わない」 少女は短く言い切った。 彼らはたまたま手に入れたお守りを、何も知らず、何気なくがま口に入れてあるだけ。金ではない幸せが、二人にはもっと他にある。 「お願い、できる?」 小首を傾げてリベリスタを見つめた少女は、「ただ……」とわずかに声を落とした。 「このコは主人以外には簡単には懐かない。見知らぬ者なら尚の事。……最初はきっと、触らせてもくれないはず」 風呂敷包みにいきなり手を出そうとすれば当然のごとく、逃げられる。 本来は無闇に牙を剥いたりはしないけれど、強引にかかれば噛みつかれる可能性も否めない。主人から預かった大事な荷物を不審者に奪われそうになれば、守ろうと必死になるのも道理。 「……だけど、このコは賢いコ」 フォーチュナは言った。『伝わらない』コではない、と。 「人の行動を見て信じられる相手と判断すれば、少しずつ、心を許すわ」 例えば困ったときに助けてくれた人。危ないときに救ってくれた人。優しくしてくれる、好意を感じられる……。信頼を勝ち得るためには、多少の演出も必要だ。 そして、そんな行動を積み重ねることで、彼女の警戒心は徐々に薄れていくだろう。 「だから、できれば……穏便に」 わんこを助けてあげて欲しいの。 最後の最後に、少女は指令を離れたちいさな願いを口にした。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:はとり栞 | ||||
■難易度:EASY | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 4人 |
■シナリオ終了日時 2011年07月26日(火)21:26 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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■サポート参加者 4人■ | |||||
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●右手にやんきー ばうわう! 通りに響く野太い声。 ちたっちたっちたっ。 アスファルトを蹴る小さな足音。 現場に着いた『泣く子も黙るか弱い乙女』宵咲 瑠琵(BNE000129)は、いささか緊張の面持ちで駆けてくる一匹の柴犬を横目に、素知らぬ顔ですれ違う。 赤茶けた毛並みと、木賊色の風呂敷包み。間違いない、この犬こそが『あずき』だろう。 アーティファクトは回収せねばならぬが——。 運命の悪戯が無くとも、このままではいずれ本当に事故に遭いかねない。右の道を逆行し三叉路へ出た幼女は、左の道へ踏み込んだ。 黒い洋犬は静かなものだ。ふむ、とわずかに顎を引く。 「あずきも罪な女——もとい、わんこかも知れんのぅ……」 一方、軽快な爪音は右の道をしばらく進んだところでリズムを止めた。 リーゼントに長ラン、下駄をキメこんだ人間が道のど真ん中にしゃがみこんでいる。 あずきは前にも見たことがあった。ぞろ長い上着や極太ズボンの、威圧的な若い雄の群れを。 遠巻きに様子を窺うあずきを、『空蛇』アンリエッタ・アン・アナン(BNE001934)は予習してきた日本の技『ウ○コ座り』で、眼光鋭く睨みつける。鏡の前で練習を重ねた、通称『ガン飛ばし』である。 「おい、おまえ、飛んでみろよ」 さらに秘伝の殺し文句。 こう言えば無償で小銭をいただけると、調べはついている。 彼女が一歩踏み出せばあずきも一歩飛び退り、風呂敷包みの中からチャリンとかすかな音が響いた。 あずきが脇を抜けようと道の右端へ寄れば右へ、左へ避ければ左へ、不良は素早い反復横跳びで行く手を阻む。 それを電信柱の陰から見守る人影があった。 「柴犬……尻尾……もふもふ……」 ついだだ洩れた心の声に、ハッと口元を押さえる『Kryl'ya angela』エレオノーラ・カムィシンスキー(BNE002203)。 そして周囲を見渡し、うーん、と柳眉を寄せる。 超絶的な反射神経をも駆使するリベリスタをただの犬が躱せるはずもない。助ける者はこの場に無く、あずきは独り立ち往生するばかり。このままでは好感度GETはおろか、わんこのおつかいも叶わない。 思案の末、エレオノーラは柱の陰から飛び出した。 「やっだーわんわんかわいいー、なでなでしたいですぅ!」 「なんだおまえ」 不良のていを崩さぬアンリエッタが身構える。ひるがえった長ランの裏で蛇の刺繍が牙を剥く。手にはぬらりと光る飛び出しナイフ。 対するエレオノーラは素手の拳を腰に当て、えへんと胸を張った。 「あなた、そんなに乱暴だとおんなのこにモテないですよぅ、めっ」 互いの視線が交錯し、ノリと勢いで戦端が開かれる。 たたかいはしれつをきわめた。 ぐーでぱんち。 ないふのえでなぐる。 運命をも削り合う壮絶な死闘。 くずおれたアンリエッタが気合いで立ち上がったその瞬間、漁夫の利が股下をサッとくぐり抜ける。 「あ」 ちたっちたっちたっ。 遠ざかる背に目を奪われ動きの止まった彼女は、 「あぁん急には止まらないですぅー!」 鈍い衝撃に脳を揺さぶられ——、 昏倒した。 ●迫るぱぱらっち なんだかよくわからなかったけれど、とにかくおつかいを果たさねば。 混み合う大通り。ヴンと真横を通る車の風におひげを煽られながら、あずきはいつものように緊迫の車道脇を走り抜ける。 曲がり角の先は何故だか妙に人が少なかった。 カシャッ。 カシャカシャ、カシャッ。 あずきはその音を知っている。ときどき向けられもする、小箱のような機械の音。 しかし今日の音は間断無く鳴り続け、ものすごい勢いで迫ってくる。耳をぴこぴこ動かし振り向いたあずきに、カメラを構えた男がよろめいた。 凛々しくまっすぐな瞳。 包みを背負い誇らしげな立ち姿。 それでいて、可憐に巻いた尾は歩くたび、ぴょこりぴょこりと愛らしく揺れる。 「くそっ、飼い主さん爆発しろ」 打ち震えるように呟いた男は、すぐに額を押さえてかぶりを振った。 「いや……駄目だ、そんなことを考えてはいけない」 現在の彼女が在るのは飼い主さんの深い愛情があってこそ、と独り言ちる。 「むしろ、飼い主さんありがとう」 ……ちたちたちた。 チラと一瞥しただけで何事も無かったかのように進むあずき。 だが、男——『fib or grief』坂本 ミカサ(BNE000314)は瞬く間にその眼前に回り込んだ。一眼レフ、デジタルカメラ、携帯電話にデータメモリーまで完備した彼は、眼鏡を光らせ撮らせてくれと迫る。 「時間は取らせないよ、まあ三時間程度かな」 「あー! こんなとこにいたですぅ」 そのとき、乱入してきた声にあずきは反射的に飛び退いた。写真がブレる。 「おうちにきてくれたら、おかしあげるのですぅ」 「……ちょっとキミ、邪魔なんだけど」 抱きつかんばかりにあずきを追い回すエレオノーラに、ミカサの声が低くなった。 俺はファインダー越しなのに。俺だって前脚握手やお耳ぴこぴこしたいのに。大人だからがまんしてるのに。 「わんわんをもふもふするのはエレーナの役目ですぅ!」 高々と言い切られて心が波立つ。そのうえあの尻尾に、くるんてところに指を入れたくなるあの尻尾にまで手を出そうなんて。 戦いは或る意味で必然であった。 あずきを激写するフレームにインしてくる期間限定少女をちぎっては投げ、ちぎっては投げ。しまいには屍がふたつ、街角に転がった。 道を塞いで横たわる屍を前に、あずきはしばし思案する。 ぽつり。 鼻先に落ちた雨粒に天を仰げば、おそらはどんより暗い顔。今日はなんだか時間を取られてばかりで、黒い雲にもう追い付かれてしまった。 躊躇っている暇は無い。 ふに。 あずきは少女を踏み越え先を急いだ。 ●雨のしましま ちたっぴしゃっちたっぱしゃっ。 地面にぽつぽつ点描を描いた雨はすぐに勢いを増し、街も大気も水の色に染めあげた。 それでも刺客は構わず現れる。 「ボク、よく君だけでお使いに行くの知ってるんだよ……」 いちいち人通りが減るのは不可思議な結界の効力だと、あずきは知らない。 だが、じりじりと迫り来る少女が何かを狙っていることは判る。その狙いがこちらに向いていることも。 『愛を求める少女』アンジェリカ・ミスティオラ(BNE000759)は猫派だが、犬が嫌いなわけではない。死ぬ命を救えるのならば見過ごすことはできなかった。 ごめんね、と内心で告げつつも無表情に囁く。 「今月お小遣いがピンチなんだ……」 財布を狙う悪役は激しい雨のなかで目を凝らしたが、わんこを守る者の姿は見当たらない。 その戸惑いが生んだわずかな隙に、あずきは駆けた。 あずきは学んだのだ。得体の知れない人間からはさっさと逃げたほうが得策だと。 「あっ、待っ……」 逃げるあずきと、追うアンジェリカ。 「危ないのですぅ! まだ渡っちゃだめですぅ!」 視界もけぶるほどの夕立のなか、両手を広げた人影が突然見えて、あずきは慌てて急停止する。 人影にぶつかる寸前、どうにか止まったあずき目の前で、人影の向こう、すぐそこを雨水を跳ね上げて車の列が通過した。 追ってきた少女も肝を冷やしたように息を呑んでいたが、『ぴゅあで可憐』マリル・フロート(BNE001309)が立ちはだかり、『三高平の肝っ玉母さん』丸田 富子(BNE001946)がギロリとひとにらみすると、「覚えてるんだよ……!」とあっさり逃げ去った。 身を打つ大粒の雨がふいに途切れ、見上げたあずきは差し掛けられたアクアブルーの傘を目にする。目が合えばマリルはにこっと微笑み、横断歩道の歩行者ボタンを押した。 そういえば、ここのしましまでも人間が居れば車は止まった。ご主人さまの「待て」の声を思い出し、あずきはしましまの前でちょこんとおすわりをする。 「もう直ぐ渡れるからの?」 待つ間、同じ目線にしゃがみこんできたのはどこかですれ違った女の子。 合流した瑠琵を交えた二人と一匹はやがて、鬼の形相から一転、菩薩の笑みで黄色の旗を振るみどりのおばちゃんに守られ青信号を無事渡りきる。 ●だいじなところ 「お使いかぇ? 偉いのぅ」 「あたしも商店街にお使いなのですよぅ」 ちたぴたしたちた。 雨上がり、まだらに水たまりの残る道。 ほがらかに話しかけてくる二人は、少なくとも悪い人間ではなさそうだ。しかし世の中そう甘くない。というか今日は妙に障害が多い。 犬も歩けば悪人に当たる。あずきはすぐまた、いかにも害悪っぽい人物を目撃することとなる。 「あ? ナニ? こんだけって、約束違くね? なぁ。俺そーゆー約束破る奴が一番嫌いなんだよねえ」 例によって丁度良くひとけの失せた細道で、『素敵な夢を見ましょう』ナハト・オルクス(BNE000031)が『Last Smile』ケイマ F レステリオール(BNE001605)の襟首を締め上げている。 下から舐め上げるように睨めつけ顔を寄せて凄むさまはやたら手慣れており、搾り取れぬ獲物を蹴り飛ばし次を探す素早さも熟達したもの。 からの財布を投げ捨てると、彼は通りすがりのワン公の風呂敷包みに目を付けた。 「……あっれ、なんですかねその、後ろの。なんかイイ物持ってンの? ん?」 口角は薄く引き上げても目は笑っていない。 むしろ、 あずきちゃあああああん。あああくるくるしたしっぽかわいいねえええおめめくりっくりだねええええ肉球むにらせてくださいよおおお! ……という、にくきうくんくんしたい衝動など一切、欠片も、全っ然無いかのように感情を排した目。 ともあれ、あずきはアブナイと察し身を低くして後ずさる。 「あずきちゃんはぁは……コホン、やめなよ! 怯えてるやないか!」 緊迫した空気のなか、ケイマは勇敢にも間に入りあずきを庇った。なにか雑音も混じっていたが、「あ?」と目を眇めたナハトの意識があずきから逸れたのは確かだ。 「この隙に逃げるですぅ」 マリルの助言はそつがない。 斯くして、尊い犠牲を払い一行は危機を脱する。 「よ、弱いものいじめかこわる……ぐふっ!」 「うっせ黙れこの」 「ちょっと何回蹴——、あ、あ、そこだけはやめっ……!!」 「やだ、これちょっと楽しい」 声は町のざわめきに紛れ、次第に耳を後ろに向けても聴き取れなくなっていく。充分離れた地点で一度振り返ったあずきは、 ……わん! 身を挺してくれた若者の遠く小さくなった姿にひとこえ吠えた。そしてあとはもう、振り返らずに走り去る。 ●はじめての 「こんにちは、かわいい柴犬のお嬢さん」 商店街のアーチの下で声をかけてきた見知らぬ人。本日の各種経験からあずきはついつい身構えたが、傍のマリルが歓迎する様子を見、ひとまず観察をすることとする。 付かず離れず、一方的に踏み込んではこない『百の獣』朱鷺島・雷音(BNE000003)の態度は、あずきの張り詰めた気を幾分やわらげた。 「ボクも、したことがあるんだ。おつかい」 すごく不安で、緊張して。でも優しい人が助けてくれた。手伝ってくれた。 そのとき自分もそう在りたいと思ったんだ、と足並みを揃えて歩く彼女は言った。 普通の人と違う、己の異質な力が最初は恐ろしくもあった。 「だけど、この力があるから誰かの役に立てる。そう思ったら——」 ふふ、と頬をゆるめて笑う。同じ想いを持つ者に囁く秘め事のように。 嬉しかった。 貰うばかりじゃない。こんなちいさな自分でも、誰かのためになれる。 「君もそうだろう? ご主人様の役に立てるのが、嬉しいんだろう?」 人間の言葉はよく解らないけれど、知っている発音はいくつか聞こえた。ご主人さま。お手伝い。うれしい。 雷音が自身のことを言っているのか、あずきのことを言っているのか、あずきには理解するのは難しかったが、なにかとても幸せそうなことを語りかけているのは感じる。 なんだか、はやくご主人さまのもとへ帰りたくなった。 わぅあうあうおぅ。 目的の万屋の前で、馴染みの店主にメモと財布を委ね商品——湿布や楊枝、歯磨き粉などを用意してもらう間もあずきは伏せたり立ったりじたじたと、待ちきれぬと訴える。 「今日はやけに急かすねぇ? ホラじっとして、結ぶから」 風呂敷の結び目をきゅっと締めた店主に「はいOK」と背を叩かれると、あずきは弾けるように駆けだした。 ちったかちったか。 膨らみを増した風呂敷包みを背負い、帰路を目指すあずきに突如飛びかかる黒い影。 不意を突かれたにも関わらず、鈍器はあずきに掠りもせず、ブン、と頭上を通り過ぎた。 「おまえなんてボコボコにしてやるんだから……!」 フライパン片手に逆恨みに燃えるアンジェリカだったが、袋小路に追い詰めたと思ったところでトントンと肩を叩かれる。 見れば、ぷぅと頬を膨らませたマリル、がおーと脅す雷音、さらに瑠琵。三対一、形勢は一気に逆転する。 「わーん……!」 滝の涙を流し無様に両手を上げて逃げだすさまはもはや様式美。 その完成された去り際に思わず見蕩れていた一同に、今度は激しい吠え声が浴びせられた。 わん! わわんわん!! 吠える犬。それも人の犬を借りたとあっては制御は困難だ。すみませんですぅ、と犬を引き寄せ口を押さえ込もうとした『ラブ ウォリアー』一堂 愛華(BNE002290)が逆に犬に咬みつかれたそのとき、誰より身を強張らせたのは事態を予定していた愛華ではなく、あずきだった。 吠えつく犬。 剥かれた牙。 滴る血と、悲鳴。 愛華が犬を引きずり去ったあと、もそっと現れた次なる悪人は『人間失格』紅涙・りりす(BNE001018)であった。 嫌悪をも物ともしないりりすが強引に手を出したとはいえ、普段ならまず逃げるなりもがくなりできたはずなのに。 脳裏に蘇る先程の恐怖。 立ちすくみ、実際に触れられるか否かで、あずきはやってしまった。 怯える犬ほど危険なもの。鼻筋に皺を寄せ牙を見せる最大限の威嚇は、同時に、来ないでという悲鳴でもある。 本気で人を咬んだことなんてなかった。 無我夢中で感触なんてわからない。 一拍置いてにじむ鉄の味。血のにおい。 牙を食い込ませたままどうにもできずにいるあずきを、りりすはただ見つめた。 引っ掛けた衣服で牙を痛めぬよう手足を露出して臨み、だけど咬まれたのはほんの指先。それでも、無理に引き抜くなど有り得ない。 「去ね! この、さ・め・ハ・ダぁぁー!!」 固まった時間を打ち破ったのは、瑠琵の叫びだった。ハッと我に返ったあずきが口を開き指を離す。 すかさず渾身のとろろ芋殴打がりりすの玉の肌をなぶった。擂り下ろされた滑らかなとろろが宙を舞う。 たまらず撤退した悪人は、しばらく肌が痒いという業を負って数日を過ごすだろう。 ●ぷれいばう ちた、ちた、ちた。 気が動転し考えぬまま足が慣れた道へ向いたのか。あるいはご主人さまとの記憶に縋ったか。自然といつもの街路樹の連なる散歩コースへ入ったあずきは、 ばうわう! やがて響いた低い吠え声に思い出したように立ち尽くす。 「大丈夫ですぅ。大きなわんこには立ち向かう勇気ですぅ」 たたっと先を行ったマリルが、洋犬の庭の前で明るく呼びかけた。 人間には目も呉れず前脚で柵を掻き、隙間から鼻先を突き出し、あずきへと吠え続ける黒い洋犬。 「莫迦者! それでは逆効果なのじゃ!」 一喝。 「おなごを怯えさせて如何する! おのこならドンと構えて居れと言うておろうに!!」 柵越しに叱咤する瑠琵に、洋犬はわふわふと口ごもるような声を出した。時間を費やし多少は手懐けられているらしい。 マリルがここぞと手招けば、すかさずあずきも地を蹴った。 う、わふ、ばふっ。 駆け抜けざま、柵の中を並走する洋犬を盗み見たあずきは、思わずきょとんと首を伸ばす。 両手でばふんと地面を叩き頭を低く腰を高くして吠えていた彼。 いつもご主人さまだけを見て彼を見ないようにしてたけど、……これは、これからは、尻尾のひとつぐらい振ってあげてもいいかもしれない。 三叉路を抜ければ、おうちはもうすぐ。 背後の足音が止まり、耳がぴょこりと後ろを向いた。 「お荷物が乱れてますから、包み直すですぅ」 振り返ったあずきは近付くマリルをじっと見上げる。 盗らないですよぉ、と風呂敷に手が伸びたとき、あずきは一歩、二歩、下がったけれど……、逃げなかった。 手早く回収したアーティファクトはすとんとマリルのポケットへ。 安堵の息を零した雷音が、代わりにと、てのひらを開く。 「幸せのお守りだ。もらってくれるかな?」 鼻先を寄せたあずきが不思議そうに小首を傾げて見つめたのは、仲間からも預かった五つもの五円玉。それぞれにちいさなリボンがきちんと、可愛らしく、ある物は少し縒れたりもして——結ばれていた。 飼い主さんは驚くだろうか。 いや、「頂き物かい? 良かったねぇ」と笑ってくれる気もする。 ちたっちたっちたっ。 あずきが走り出せば、がま口財布に納められた五円玉たちが響き合う。 暮れなずむ街にはぽつぽつと明かりが灯りはじめた。 三人のみならず密かに戻ってきた通りすがりや悪役も見守ったわんこの姿は、一歩ごとに速度を上げ、ご主人さまの待つおうちを目指して、まっすぐに、まっすぐに駆けていった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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