●二重劇 破かれた思い出は紙屑のようなものだ。 「……」 一人で――広く持て余すようになったその部屋で彼/彼女は無言だった。 永遠に続くと思われた幸福の時間は今は無い。大したドラマも、前兆も無く。突然訪れた結末は何処にでも転がる有り触れた悲劇に過ぎなかっただろう。それが何よりも、誰のものよりも、計算され尽くした悪夢よりも堪えるのは――それが偏に己が身の上に降りかかった事件だから以外の何者でもあるまい。 「春花……/お姉ちゃん……」 灯りを落としたリビングで電源の入っていないテレビを見つめる。 御揃いで買ったお気に入りのベージュのソファーは過ぎた日と同じ優しさでもたれる身体を支えてくれはしたけれど、それも慰めになりはしない。 一人の時間とは、こんなに辛いものなのかと彼/彼女は痛感した。 あの夜に吐かれた/吐いた言葉の数々を、彼/彼女は、受け入れ/当然のものと看做している。故に大切な人はもう居ない。『二人同時に』失われてしまった。永遠に。 「罰が必要だ/よ」 何処までも乖離してしまった二人の間での共通認識は余りにも皮肉であった。 互いへ向ける感情を真逆に持ち、同じ結論を抱いている。 彼は自罰的に己を責め続け、少女は若年故の未熟さで他者だけを責め続ける。 他に呪えるもの等、存在しないから。彼/彼女は孤独だったから。 引き裂かれた写真の中だけで、三人の男女が笑っていた。 左側に短髪の男、寄り添う右側には長い黒髪の女。後ろから乗りかかるようにして二人の首に手を回しているのはそれより歳若く見える明るい髪の少女である。 だけど、登場人物はもう二人きり。 ●『フェルメールの天秤』 「ヨハネス・フェルメールの手によって、1662年から1663年の間に製作されたものと言われている。名前位は聞いた事があるかも知れないけど。一説には作品は女性の持つ世俗と聖性を描いたものとされているけれど、私は専門じゃないから良く分からない」 『リンク・カレイド』真白 イヴ (nBNE000001) の言葉は、そのアーティファクトの名付けの由来になったオランダの天才画家の一作についてのものである。 「フェルメール位は知ってるが……何でまたそんな呼び名に」 「悪趣味な冗談じゃない? 『黒い太陽』のお遊びの域は出ないと思うけど」 イヴの口にしたその異名は事件に不吉を約束する最悪のキーワードである。鬼才のアーティファクトクリエイターとして名高いウィルモフ・ペリーシュだが、その才能が間違った方向以外に発揮されない事をアークは嫌気が差す位に知っている。 「ウィルモフ・ペリーシュは多くの『願望機』と呼べるアーティファクトを造った。 願望機っていうのは要するに『願いを叶える為のアイテム』ね。手段は色々で、アプローチも様々。でも共通しているのは彼が願望機を作りたがってるって部分。 ……まぁ、それは余談なんだけど。どうも今回の品はその彼の後期型と言える作品みたい」 「どう違うんだ?」 「最大の違いは、効能かしら。多分に彼の趣味も混ざっているとは思うんだけど、ペリーシュの作品は大抵性格がとても悪い。『不滅の太陽』や『外科手術的幸福論』は使い手に不誠実だった。『不当な聖杯』はコストが酷く割にあわなくて、『零の明星』は何も生み出さなかった。 そういう意味では分類上は『赤か黒か』に近い、フェアなタイプ」 「フェア、ね」 イヴが口にしたのはアークが関わったW・Pシリーズの一部である。彼女が特別に言及した『赤か黒か』は選択し難い二者択一を使用者に求めるが、『片方は必ず上手くいく代わりに、もう片方は必ず上手くいかなくなる』という等価交換の品である。 「フェアって言っても悪辣じゃないって意味じゃないけどね。『黒い太陽』の造った『フェルメールの天秤』は使用者二人のバランスを保つ効果を発揮する。そして、二人の閉じた世界でのバランスを保ち続けるアーティファクト」 「分かり易く言ってくれ」 「……複雑なの」 イヴは「ごめんなさい」と告げて少し思案顔をした。 「天秤は左右の両皿を一つのセットにしてる。それが前提。 左の皿の持ち主を罰を与える分だけ、右の皿の持ち主に幸福を購う。但し、左の皿の持ち主、右の皿の持ち主、その双方がお互いにそれを理解し、望んでいない限りはその効力を発動しない。発揮される力の量も同じね」 「……? つまり、左皿の持ち主が自分が不幸になりたいと思わない限りは無害でいいのか?」 「そうなる。同時に右皿の持ち主が相手を不幸にしてでも自分が幸福になりたい、と思わない限りはその効果は発揮されない。まぁ、右は兎も角左は中々無いよね」 リベリスタは頷いた。 一般的に考えて、自分が不幸になりたい人間は滅多に居ない。イヴの言う通り、誰かを犠牲にする事で得る幸福に胡坐をかける人間は居てもである。 「使い手を選ぶ品なのは間違いない。最初に言った通り、ペリーシュは色々な角度で願望機を作っているから、その試作の一環なんだと思う。唯ね、道具はそれを使える者の所に現れるのよ。特に彼の作品は自分の意志を持ったアーティファクト達だから」 「その厄介な条件に当て嵌る奴が居た、と」 「鳴瀬貴之さん、三十三歳の男性と、鈴木朱音さん、十六歳の女の子ね。『フェルメールの天秤』の左皿は彼の元に、右皿は彼女の元にある。鳴瀬さんには恋人が居たんだけど、その鈴木春花さんは朱音さんのお姉さん。彼がハンドルを握っていた自動車事故で亡くなっているの」 「……」 「事故自体はそう酷いものじゃなくて……目の前を横切った動物を避けようとした鳴瀬さんがハンドルを誤った……というものだったみたいだけど、運が悪かった。 春花さんと朱音さんは早くに親を亡くしていて、二人で寄り添って生きていたみたい。朱音さんにとっては歳の離れた鳴瀬さんは頼れるお兄さんか、お父さんみたいなものだったのかも。かなり懐いていたみたいなんだけど」 そこまで聞けばリベリスタにとっては十分だった。 悔いても悔やみ切れない絶望を抱える人間に甘言を囁くのが『W・P』だ。そこには善意は無く、『幸福を購う』と言ってもそれが救いになる可能性は極めて低い。 「任務は回収か?」 「どちらかと言えば消去ね。天秤は使用者と一体化するタイプだから。 使用者が拒否すれば消滅するし、使用者どちらかが死亡しても消滅する。 この点は『不滅の太陽』と同じ感じ」 イヴの言葉にリベリスタは頷いた。 この世界のハッピー・エンドは在庫不足だ。 だが、隠された在庫を探し出す為にリベリスタは居るのではないか―― |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:YAMIDEITEI | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ EXタイプ | |||
■参加人数制限: 10人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年11月08日(土)22:58 |
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■メイン参加者 10人■ | |||||
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●天秤のバランスの話 「もう少しだけでも……手心があれば、どれだけの救いになるんだろうな」 ポツリと呟いた『どっさいさん』翔 小雷(BNE004728)の一言は、紛れも無い彼の本音だった。 「もう少しだけでも……少しだけでも、な」 苦笑いを浮かべた彼が不器用に二度呟いたその言葉は、彼に、彼女に、そして自身にも向いていたのかも知れない。 世の中には何も悪くないのに、全てを失う人間が多過ぎる。 かつてフィクサードに両親を奪われ、なけなしの居場所すら炎の中に奪われた自分も。今回、アークの任務の切っ掛けになった不幸な事故も。必然では無く、偶然めいていて。それが故に如何にも虚しい。 両皿に載せられた錘の重さは凡そどれ位なのだろうか。 魂の重さを21.262グラムであると語った誰かは居たけれど――実際の所、その真偽は確かめようもない。 世界は一見に均衡を保っている。如何なる理不尽が存在しようとも、如何なる不条理が幅を利かせていようとも、それらは全てケセラセラだ。澱まない川の流れのように進み行く時間は後悔の時間を時に認めず、やり直しの利く過去も又無いのだから――望む望まないに関わらず『世界は均衡を保つ他は無い』。 もし、そこに些かの例外が存在し得るとするならば。 それは人の世の営みに類するものではないだろう。 慈悲深き神の愛か、ないしは皮肉な悪魔の囁きか。 世の中に溢れる善と悪の数を数えてみたならば、多くの場合、どちらになるのかは自明の理と言えるのだが。 「『黒い太陽』は碌なことしませんね。世界はバランスで保たれているというのに、そこんところ分かってない」 「……まぁ、そういう事よね」 溜息にも似た調子で呟いた『Average』阿倍・零児(BNE003332)に応えた『ネメシスの熾火』高原 恵梨香(BNE000234)は単純過ぎる二択に迷う余地を持たなかった。長く神秘界隈に関わっている心算だが、善良なそれというものは余りお目にかかっていない。大抵の場合、それは悪辣で容易な破滅を孕んでいる。 「ましてや、それがウィルモフ・ペリーシュのものならば」 「分かってませんよ、まったく」 脳裏を過ぎる幾つもの記憶に恵梨香の表情は自然と苦いものに変わっていた。 極度にバランスを追求する零児の感覚と彼女の嫌悪感は同じものではないかも知れないが、何れにせよペリーシュの被造物が酷く悪い方にバランスを傾かせているのは揺ぎ無い事実である。 多くの無辜の人間の運命をその圧倒的な力で歪めてきたペリーシュは筋金入りの悪魔である。この世界の闇には『本物の悪魔』が紛れているのは殆ど疑う余地も無い確信ではあるが――比喩にしても彼は殆ど遜色あるまい。否、悪魔とされる超越存在が、例えばあのキースの使役する魔神のようなものであると考えるなら。契約を遵守する彼等は、それより幾分か上等である可能性は否めまい。 「お姉ちゃんが死んで、義理のお兄ちゃんは生きてて、妹、かぁ。なんだか……私みたい。 私はお姉ちゃんと暮らした記憶も無いし、やっと本当のお父さんに会えたくらいだけどさ」 『謳紡ぎのムルゲン』水守 せおり(BNE004984)は唇に指を当て、少しの思案顔をしていた。 リベリスタ十人が今日赴く任務は『アーティファクトの消滅』である。零児、恵梨香が言及した通りかの『黒い太陽』によって造られたそのアーティファクトは人の運命を狂わせる魔性である。天秤の左皿を持つ者を不幸にする代わりに、その右皿を持つ者に幸福を与える――『フェルメールの天秤』は、しかし非常に癖のある品物だ。 「相手を不幸にしてまで幸せを望む――幸せのために相手を不幸にする。 バランスは良いかもしれませんけれど、誰かの幸せのために誰かを犠牲にするようなそんな等価交換はいらないのです」 大きな瞳の憤慨の色を浮かべる『ぴゅあわんこ』悠木 そあら(BNE000020)は断固とした調子で言った。 (自分のせいで大事な人を殺してしまった――その苦しみはわからないわけではないのです。 決して、自分のせいじゃない。けれど自分があの時ああじゃなかったらと…… 後悔して苦しんで……そんな苦しみから救ってあげられれば良いなって……) 暑い夏の日、『あの時』の両親の顔を思い出せば――そあらの想いは一層の事強くなる。 「うん……アーティファクトは余計だよね」 「自罰意識と他罰意識が伴わなきゃ動かないなんて、酷い欠陥品なんだろうけどねぇ」 頷いたせおりに相槌を打った『足らずの』晦 烏(BNE002858)はやれやれと肩を竦めた。 『フェルメールの天秤』の効能はそあらが言うものであるが、烏の言及通り、それは通常その性能を発揮し難い特徴を持っている。不幸を受ける左皿と、幸福を受ける右皿の両方互いがそれを望まない限りはこのアーティファクトは力を持たないのだ。一方的な幸福を受け取る右皿の方はいざ知らず、通常不幸を受け取る左皿の人間はそれを承服しないというのは想像に難くあるまい。 だが。 「全く、損なメンタリティだ。 罰を償うことを不幸になることで代替して贖罪したつもりになってる…… そんなの、そんなの……両方が不幸になってるだけなのに。最初から『不幸』だけに傾いた天秤なのに」 唇を噛んだ『覇界闘士<アンブレイカブル>』御厨・夏栖斗(BNE000004)は、そう言いながらも『左皿を受け入れた』鳴瀬貴之という男のやり切れなさを理解している。何よりも大切な、自分よりも大切な誰かが自分の手の先から零れ落ちていく感覚を、絶望を、喪失感を。彼は自身の経験として知っていたからだ。 「こんなの、絶対におかしいのに」 「……されど、人間は難しい、か。 咎める気持ちも、嘆く気持ちも理解は出来るんだがね。それでも失われたものは戻ってこない。 人は一つところで立ち止まっているままではいられない。受け入れて進んでいくしかない。 ……でもまぁ、これは第三者の説教だわな」 ゆっくりとした口調で夏栖斗を諭した年長の烏は赤いマスクの下で苦笑いを浮かべていた。 人生には傷がつきものだ。実際の所、飄々とした態度を崩さない彼の人生も傷と痛みばかりで彩られている。しかして、烏は『生の理不尽さ』なる事項を割り切ぬ方がおかしいと。そう言える程、言う程に狭量な男では無い。 ガラクタである『フェルメールの天秤』を機能させる――させてしまう『事情』は何処にでも転がっている悲劇だ。寄り添って生きてきた姉妹と、一人の男。男が不幸な偶然の積み重ねで姉(こいびと)の命を奪ってしまった時、崩壊の歯車が噛み合ってしまっただけ。冗長であり来たりな悲劇は然したるドラマも持たないけれど、多くの人間にはそれで十分な程度の意味は持っている。それだけの事。 「……そう、ですよね」 口元に曖昧な笑みを浮かべて『贖いの仔羊』綿谷 光介(BNE003658)は頷いた。 (無情な交通事故。かけがえのない人の喪失。 恋人か家族かという違いや、加害意識の有無の違いはあれども。 生き残ってしまった自分を責める心は、きっとボクも貴之さんも同じ――) 彼はどんな時も他人の為に力を尽くさねばならないというある種の強迫観念に囚われている。『他人の気でいられない事件』はそんな彼のルーツを少なからず思い出させるものだった。自身のみならず、他の誰かの手を借りて、心を借りて。今、自身の両足で立っている光介は――立ち上がれない人間の気持ちが誰より分かる。 「……罪と罰。被害者と応報感情。職業柄、そういうのは嫌って程見てきたが…… 破界器なんざ持ち出さなくても、結局これは人間社会の命題なのさ」 結末を決めかねる物語に挑まんとするリベリスタ達をほぐすように 『ウワサの刑事』柴崎 遥平(BNE005033)が言った。 「だが、俺はお巡りさんだからな。善良な市民を助けるのが仕事だからな」 理屈を捏ねるのも大事だが、刑事は体が資本なのだ。 動けるだけ動いて、やれるだけやって――残った結果に満足出来ればこれ以上の話は無いだろう。 人間社会の命題はさて置いて、刑事の命題がそこにあるのは間違い無いし、惑わない。 (かの天秤と同名の絵画の中には、鮮烈なブルーと聖なる真理、或いは神の裁きとしてのVanitas(空虚)があり――) 『茨の冠』リリ・シュヴァイヤー(BNE000742)は何時か見たフェルメールを頭の中に思い描いた。 ――Vanitas vanitatum omnia vanitas (何という虚しさ、何という虚しさ、総ては虚しい) 連想した聖書の一節から彼女が思いを馳せるのは鳴瀬貴之と鈴木朱音に等しく訪れる終章的破滅である。 聖職にある者として、これを看過出来ようか。これを寛恕出来ようものか。 答えが間違いなく否ならば。 「――さあ、『お祈り』を始めましょう」 聖女の薔薇の唇が紡ぐのは、悪魔に挑む時と同じ――勇壮の歌ばかり。 ●右皿 『フェルメールの天秤』という神秘に触れた少女――鈴木朱音は自分が非日常の世界に足を踏み入れた事を自覚していたのかも知れない。 「ちょっとお邪魔するね? 私は水守せおり。一コ上の十七歳だよ」 「こんにちは、朱音ちゃん。天秤って聞いて心当たりはあるんじゃない?」 故に『傍目に見れば怪しいと言わざるを得ない』来訪者―― 『どうしてか自分の事を理解しているらしい』せおりや夏栖斗等、雰囲気も年恰好にもばらつきがあるリベリスタ達の呼びかけも、彼女にとっては然して違和感のあるものとは映らなかったようだった。 「……鈴木朱音。貴方達は知ってるみたいだけど」 自分をじっと見てそう言った朱音にせおりは「まあね」と軽く応じた。 朱音からすれば同年代の少女に見えるせおりがそこに居たのは僅かに安心感を感じられる理由になったかも知れない。そこは同じ同年代といっても雰囲気の鋭い恵梨香辺りには余り望み難い効果でもあろう。 「『天秤』というのが、私が拾ったものを指すのだとしたら、心当たりはあるわよ」 元々の快活で物怖じしない性格も影響しているのだろうが、朱音は見知らぬリベリスタ達の来訪にも堂に入った所があった。その内心や心情が半ばヤケになってのものではないとは――言い切れないが。 「貴方達は何者?」 「僕達は怪しい者じゃない。君の呪縛を解きに来たんだ」 「……へぇ。『何処かの王子様』みたいに? もう暫く前なら、信じてあげたかったかも知れないけど」 朱音の表情にやや険が強いのは元々の気質であるというよりは事情の影響が大きいだろうか。やはりこれも元々の人となりを詳しく知らないリベリスタ達に言い切れる事では無いが、その可能性は高いように思える。彼女が言葉に力を込めた『何処かの王子様』の揶揄する所は訳知りのリベリスタ達にとっては想像に容易い話だ。 「貴方は賢い子のようだからハッキリ告げるけど――それは決して良いものではないわ」 こういう時は異性よりも同性が強いものか。逡巡した夏栖斗に代わり、恵梨香が話を切り出した。 「此の世の理屈で理屈がつかないような品物を、実際に手にしたならば……分からなくは無いでしょう。 私達の存在も、それが如何に特別なものであるかという事も。 貴方はそれの声を聞いたかも知れない。甘言を囁かれたかも知れないけれど――」 「ありのままには聞いたわよ。左皿が不幸になる代わりに、右皿は持ち上がるって。 ……実際、笑えるわよね。私は天涯孤独になったって言うのに――お金にも何にも困らない。 お姉ちゃんが居て、『あの人』が居た時よりも、ずっと。おかしな話だわ!」 半笑いでまくし立てるように告げた朱音の調子に恵梨香の柳眉が少し動いた。 本件の場合、大人しく右皿を廃棄して貰えるならば万々歳なのだが、朱音がかなり精神的に昂ぶっているのは見るからに明らかである。彼女の精神状態は不安定で、かつ攻撃的なのは端的なやり取りからもすぐに分かった。 「……それを破棄して欲しい。私達の要求はそれだけよ」 「強要される理由があるのかしら」 「……その辺りを説明するには時間が少し足りないわ」 朱音は偶然に神秘世界の深淵を覗いてしまっただけであって、そこに知識がある訳では無い。 神秘世界の構造、アークの成り立ちや、アーティファクトの危険性について言葉を並べるのはそう難しい事ではないが、現状の朱音の様子からすればあれこれと話をぶつけた所でいい結果は招くまいと推測出来る。 (……どうする? いえ、まだ『これから』ね……) 任務の完了がアーティファクトの消失を以って承認される以上は、究極的に言うならば『同化した使い手の処理』でも事足りるのは事実だが、冷徹な判断力を持つ恵梨香とてそれを積極的に望んでいる訳では無い。 「天秤(さばき)を自ら手放して頂ければ最良、ですが。まずは少し、話を聞いては頂けませんか?」 「今度はシスター様なの」 「……そう、有り難いお話は出来ないかも知れませんが。 それでも、どうしてもお伝えしない事があるのです」 リリは軽く微笑んで朱音を見た。状況を共有し、察しているのはリベリスタ達全員である。 彼等は朱音と強い関わりがある訳では無いが、これまでも理不尽と戦ってきた存在だ。誰かが道に迷った時、踏み込んではいけない場所まで進もうとした時――それを阻止する理由は旧知や聖職だから、では無い。 「……帰って、って言って帰ってくれる雰囲気には見えないわ」 「帰りませんよ」 「なら、選択の余地が無いじゃないの」 消極的に自身の言い分を肯定した朱音にリリは「ありがとうございます」と応じた。 彼女は少女らしい不安定さと不機嫌さを隠し切れない朱音に言う。 「罪には罰があって然るべきです。 復讐や、他人を犠牲にしても幸せを求める事も今の私には――否定できません」 「されたくもないわ」 「分かっています。私もしようとは思わない、『したくありません』から」 純粋培養の外に出たリリは、かつて程の聖女性を持ち得ない。 されど、かつてよりは随分と――人間らしい感情で判断する事が出来るようになっている。 「ですが、正解の無い物事にも問い掛ける事は可能です。 もし、貴女がこのまま――そう、破滅に到るまで。鳴瀬様を恨み抜き、罰し抜いたとして……そこに何が残るでしょうか」 月並みと言ってもいい――しかし、これ以上無い状況への直言に朱音は答える事をしない。 「好きな人を憎み続けるのは……果たして、幸せな事なのでしょうか。 御自身を辛く、貶め続ける事になりはしないのでしょうか」 「辛いわ。とても。毎日が嫌になる。 どんなに楽しい事をしても、笑えない。美味しいものを食べても――味なんてしないの。 辛いわ、どんな時より。ひょっとしたら、お姉ちゃんを亡くした時よりも。 でもね、そう言われて『はい、そうですね』でスッキリ出来ると、貴方は思うの?」 リリは堰を切ったような切り返しに少しだけ表情を歪めた。 朱音と貴之の関係とは又違うかも知れないが――かつて自分も恋をした。叶わなかった恋をした。 今となっては、懐かしく思える話だが……あの当時、彼を少しも恨まなかったとは言い切れない。もう少し言うならば、確かに自分は彼を憎んでいた筈だ。聖職にありながら、それを律する事は出来なかった。 今はそれを後悔していても――感情とはそういうものだ。ましてや相手が齢十六の少女に過ぎないならば。 ……時は優しい。自然に任せれば、二人は何時かは和解出来たかも知れない。 その時間を認めず、性急を強いたのは――『フェルメールの天秤』以外の何者でも無かろう。 それが、御厨夏栖斗にはどうしても許せない。許し難い。 「人の運命の天秤はプラスマイナスでゼロになるっていうよ。 それが自分だけなら言う事は無い。でも、他人の天秤まで神秘で傾けてそうとは言わない。言い切れない。 ねえ、そこまで他人の天秤を傾けて得た幸福を君は幸福と呼べるの? ねえ、朱音ちゃん。君は満足してないじゃないか。 その罰はいつまで続くの? 相手が死ぬまで? 相手が死んで、お姉さんも死んで、空っぽになった朱音ちゃんのこころは何が満たしてくれるの? 君は――その次、『誰を』恨むの?」 答えは一つ。自分自身だと夏栖斗は思う。 「……誰かを憎むという事は、唯辛いだけの事だ。 憎めば楽になったとしても――憎しみはその場に留まらない。延焼して、全てが灰になるまで燃え盛る。 そうして心を歪めれば――取り返しがつかなくなるのは、分かるだろう。 お前は、お前の姉が――優しかった姉が。お前に恋人を憎み続けて欲しいと思っていると、そう思うのか?」 厳しい顔でそう口にした小雷は言わずもがな、その言葉が言葉だけでは相手に届かない事を理解している。まさに親を殺され、居場所を奪われ、彼が全てを憎みかけた頃――目の前に犯人がいたとして、抑えが効いた筈が無い。どれ程に自己を抑え付けようと努力しても、どれ程に理屈で間違っていると分かっていても。 「……お前は、今幸せじゃないと言っただろう。それが答えじゃないのか」 「そうね。春花さんはそれを喜ばないし、貴方の気持ちは晴れていない。結局は――そういう事なんでしょう」 一度は兄と慕った彼を彼女が憎むのは反動であろうと小雷、恵梨香は考える。やり切れない怒りが、何処にぶつけていいか分からない絶望が――唯、分かり易いはけ口を的に噴出している。朱音が踏み止まる為に、貴之という存在が必要だったに過ぎないという事。 (……言いたくは無いけれど、これだからこの、男は……) 恵梨香は少しだけ憤慨した。優しさは事実だ。だが、履き違えている。 責める朱音も、受け入れた貴之も――形こそ違えど他方に甘えているに他なるまい。 貴之が為すべきだったのは向かい合って――居場所を作る事だった筈だ。自分にとっての――の、ように。 「……あのね、私もお姉ちゃんが死んじゃってるんだ」 口を真一文字に結んだ朱音が小さく息を呑んだのは、せおりのそんな一言だった。 「……朱音ちゃんと違って、義理のお兄ちゃんとは関係ないところでなんだけどね。 うちは家庭事情が複雑でお姉ちゃんとは暮らしたことが無いけど…… それでも、確かに『家族』が居なくなったって知った、実感した時はすっごく悲しかったよ」 「そう……」 良く回る朱音の口がせおりの言葉に対してだけは悄然としていた。 今の彼女には間違ってもそれを「分からない」とは言えない。他人の話を聞いただけで僅かながらに涙ぐむ彼女は、それを明らかに自分の境遇に重ねていた。 「……すぐに、自分みたいにって言うつもりはないけど…… 義理のお兄ちゃんになる筈だった人なんだ。少しずつ話し合って少しずつ許していけないかな? お姉ちゃんを死に追いやった相手を許せないのも分かるけど、けどね……」 「……破棄して、欲しい」 押し黙った朱音にもう一度恵梨香は言った。 如何に言葉を尽くしても、他人の言葉である事に違いは無い。 揺れる瞳の中には大粒の涙が潤んでいる。 自分達の言葉が少なからず少女に響いたのは分かっていたが――彼女は不出来な憎悪を捨て切れていない。 捨てられる筈が無い事は分かっていた。分からない筈は無かった。 リベリスタは誰も。一度ならず、人を、運命を殺したい位憎んだ者が大半なのだから。 ●左皿 「自分のせいで大事な人を亡くしたと苦しまないでほしいです。朱音さんだってわかっているはずです」 「ああ」 真摯なそあらの必死の一言を、穏やかで疲れた笑みが包み込む。 「あなたのせいじゃない、あれは事故だったって。悲しみをぶつける所がなくてあなたに甘えているのです」 「君の言う通りなんだろう。きっと、朱音も何時かは分かってくれる筈だ。そう思う」 「だけどね」と続ける貴之は、言葉とは裏腹に全てに諦念しているように見えた。 「……確かに、僕だけに責任があった訳じゃないだろう。 運も悪かった。どうしてこんな目に遭わなければいけないのか、そう思ったのも事実だ。 だが、それは僕に責任が無かったという免罪符にはならないだろう? 五人のリベリスタ達が不安定で感情的な朱音にアプローチする一方で、残る五人のリベリスタ達は、この事件のもう一人の当事者『左皿』の鳴瀬貴之と相対していた。少女らしい未熟さと反発を前に出す朱音の説得も厄介な仕事ではあったが、落ち着き、冷静に考えた結果、諦念している貴之もまた強敵だった。 奇跡に触れた事から、奇妙な来訪者とその言い分を前向きに受け入れたのは朱音と同じだが、此方は強くリベリスタの言葉を否定しないながらも容易に肯定する事は無く、会話は淡々と進められていた。 「偶然だ不運だって言ってもねぇ。その理不尽さには割り切れるもんじゃない」 「僕は君達を知らないが、君達はきっと気持ちの良い人達なんだろうね」 「……よして欲しいね。おじさん達は、そんなにいいもんじゃないよ」 『覆面を外した』烏は疲れ果てた貴之の顔をじっと見た。 部屋の中を見ればすぐに分かる程度に生活は荒れ切っている。元々は几帳面な性格だったのだろうが――伸びた無精髭にせよ、散らかった室内にせよ。彼が内的に荒んでいる事を証明するには十分過ぎた。 「……それがまずいモンだって事は想像がついてただろ。少なくとも君の場合は、彼女よりもずっと分かり易い。君が今貧乏神につかれたような状態なのは、全部それの所為なんだから」 「ああ」と頷いた貴之は自らの胸に手をやった。 「話は『本人』にも聞いたから分かってるよ。別に僕もこうなりたくてなった訳じゃないけれど。 彼女が望んでいる限りは、それはきっと僕の望みでもあるんだろう。これは、卑怯な転嫁なんだろうけど」 苦笑した貴之が語るのは朱音と同じ事実である。 『フェルメールの天秤』はその有り様からして騙し討ちのような手段を取りようがない。それは正直に己の性能と効能を告げて、両者に承服させなければ力を発揮する事が出来ないからだ。 『憎悪を捨てられない』朱音はそれを手放し難く、『朱音を見捨てられない』貴之はそれを手放し難い。 「……貴之さんが自身を犠牲にする事で罪を贖いたいと思う気持ち。分かるとはいいませんが、分からないでもありません。 しかし、それは認めていい類の判断ではないと思うのです」 誠心と誠意をもって語りかける零児は説得というものが感情と論理、思いやりと厳しさの両面――バランスから成り立っているものである事を良く理解していた。 「このような道具に頼って得た幸福で、朱音さんは救われません。 貴方が全ての不幸を背負って堕ちたとしても、不条理を解消出来なければ彼女も後に続くだけでしょう。 釣り合っているようでいて――その天秤は傾いていくだけ。酷くバランスを欠いている。 消失した時のみ、バランスが購われるものならば――貴方は勇気を出さなければならないでしょう」 そう言う零児に貴之は耳を傾けている。 「ボクらは……いくらか同じ種類の言葉を交わせると思うんです――」 そう言った光介に貴之はゆっくりと視線を向けた。 「――そう。この『生還の罪』を償うやり方について」 光介が事故よりの『生還』を罪と呼んだのは自身の体験によるものだ。 彼の抱える事情はある意味で――貴之に極めて近い。 自身の言を切っ掛けに起きた事故で自身だけが助かった――それは間違いなく偶然でしか無く、悲劇でしか無く、光介に帰する責任等何処にも無かったのは間違いない。だが、実際の所彼はそう感じなかった。 「ボクからは、罪を感じ、心に病むのをやめろとは到底言えません。 それをボクが言う事は他の誰よりもきっと、相応しくない。 ボク自身が出来ていると言い切れない事を他の誰かに説教出来る程――ボクは強くいられませんから」 「でも」と光介は言う。 「敢えてボクだから言える事もあると思います。 敢えてボクが貴方に言える事があるとするならば――アーティファクトによる不幸の引き受けは。 或いは罪の償いとしては……ぬるくはありませんか?」 挑発的な一言は、しかしこれまで以上に貴之の琴線を弾いたように見えた。 「待っていれば不幸が向こうからやってきてくれる。甘んじて受ければいい。 それは『楽』な贖いではないですか? それは貴方の『罪』に相応しいでしょうか?」 光介は敢えてそれを『罪』と称した。事故の日より彼がずっと考えていた事だ。 (ボクはあの日からずっと。家族を捨て置いて生き延びてしまった罪深い自分が、生きていても良い瞬間を求めています。 他人を癒して、生きててもいいんだと一瞬感じて。 すぐこれだけでいいはずがないと絶望して。あがいて、あがいて、あがいて……それでも生きてます) 語らぬまでも万感を込め、光介は言った。 「――天秤を置いて、終わらない贖いを始めませんか?」 「警察関係で悪いけどな、これも被害者ケアの一環だと思ってくれ」 言葉を発せない貴之に遥平は何とも言えない難しい表情を浮かべていた。 「ここに拳銃がある。ああ、手帳もこっちにあるけどな。 そう、この拳銃ってのは――警官にとっちゃ命より大事にするべきものでな。 誰か他人に触らせるようなものじゃない。けど、今からこれをアンタに渡そうと思ってる」 「……?」 遥平は半ば強引に貴之に自らの拳銃を握らせた。 ニューナンブM60の重みに彼はいよいよ怪訝そうな顔をする。 「俺もアンタと同じ、罰せられるべき男だ。『十五年前』にカミさんを死なせた。天災でな。 俺の責任では無かったかもしれん。だが、守れなかった事は、死なせた事は事実だ。 鳴瀬さん、アンタと同じくな――俺は警官で、誰かを守る力を持っていた筈なのにだ。 アンタが罰せられるべきなら、アンタと同じく俺も誰かに罰せられるべきなんだろう。 アンタそれで俺を撃ってくれないか」 遥平の言う『天災』が何を指すのかをリベリスタ達は知っている。 十五年の時を経た彼が、もう一度『天災』に向き合わざるを得なかった事も。 故に彼の言葉は言葉以上に真摯に熱を帯び、誰かの胸を容易に打つ。 「……出来ない」 「…………すまんな、言葉が過ぎた。けどな、鳴瀬さんが言ってるのは、こういう事なんだ。 おっさん同士でも出来ない事を、子供に任せちゃいけない。感情も時間も過ぎていくばかりで戻らないからだ。 罰は、何のためにあると思う? 一つは法を犯した者への応報。一つは罪に対する抑止力。 最後の一つはな……罪を犯した人間が罪と向き合い、次に同じ事をしないようにするため。 それが、償いだ。鳴瀬さんに必要な罰は、三つ目だ。 もし、アンタに罪があるとするなら――向き合わなかった事だ。 子供のかんしゃくを全て受け入れて、残った人間同士の時間を放棄した事だ。 月並みな言葉だがな――生きてる人間は、死んだ人間の分まで、精一杯生きる義務があるんだ。幸せになる義務があるんだよ。 自棄にならずに前を見ろ。写真の中の朱音さんを、一人残された春花さんを、真っ直ぐ見れるように」 リベリスタ達の言葉は当事者ならぬ彼岸からのものだったかも知れない。 確かに関係者ならぬ誰が言葉を尽くした所で、深い絶望を晴らすには到らないのだろう。 しかし。 「僕から言えるのは唯一つ。大事なのはバランスです!」 激励するように力強く言い切る零児の言葉は、 「朱音さんがあなたの死をもって償えと願い…… それが本当になってしまったら、朱音さんは今以上に苦しみを背負うことになるですよ。 朱音さんのためにもあなたは生きてそばで支えてあげることだと思うです。彼女もきっとそれが理解できるです。 あたしの仲間も、朱音さんの説得をしているです!」 全てを理解しても真っ直ぐに必死なそあらの声は、 「君一人であるならばまぁ、死ぬのも破滅するのもいいかも知れん。 だが、君には春花君の妹さんの朱音君がいる。君は彼女を一人にしたいのか? 君がやるべきことは彼女からの罰を受け入れることではない。 付き合ってやりゃいい。百の善行によってその罪を償うべきさな――あの、妹さんの傷が癒えるまでね」 冷静でありながら大人の思いやりと諫言を交えた烏の言葉は。 奇跡は起こさないまでも、売り切れていたハッピーエンドに在庫の問い合わせをする位の意味はあったのだろう。 「……分かった」 短い言葉を感謝に代えた貴之はリベリスタ達一人一人の顔を見回して言った。 「僕は、『左皿』を放棄する」 ●写真 破り捨てられた写真にセロテープ。 「……」 珍客の去った一人の部屋で鈴木朱音は溜息を漏らした。 無言の彼女の見つめる写真の中では、確かに『三人』が笑っている。 ――ちょっと、写真撮るのにふざけないでよ! ――へへー、いい雰囲気でいさせるもんか。精々お邪魔虫になりますよ! ――ちょっと、朱音! ――いいじゃないか。妹が出来たみたいで僕も嬉しいんだから。 ――あー、やっぱ話が分かる! いいなぁ、貴之さん本当に素敵で! お姉ちゃんと別れたらすぐ教えて下さいね! ――朱音ッ!!! 笑える位に馬鹿馬鹿しいやり取り。 冗談で、でも少しだけ本気で……彼等(リベリスタ)に何か言われる度に胸が張り裂けそうになった。 許して貰えるのだろうか、と思う。 同時に、自分は許せるのだろうか、とも考えた。 右胸から消えた『天秤』の気配は戻らない。朱音は強く目元を擦った。 ――君が一歩を踏み出せば、変わることが出来る。ねえ、君は、君たちは『幸せ』になっていいんだよ。 一人きりの夜だけど。 鈴木朱音は御厨夏栖斗と名乗った少年のそんな言葉を、信じてもいいような、そんな気がしていた。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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