●ブラウン氏の何気ない憂鬱 クリスマスは、アメリカ人にとって家族で集う日だ。 一年で最も郷愁を誘う日でもあろう。特に、大人にとっては。 ニューヨークに住むスティーブン・ブラウンは五十二歳。母親は老人ホームで恍惚の日々、父親は癌で先月亡くなった。 妻メアリと娘エダという家族を持ち、既に彼は立派な一家の長である。勤め先の商社ではそこそこの地位につき、中間管理職として多忙な日々を送っている。 「はぁ~、もうすぐクリスマスか」 帰路を急ぎながら、スティーブンは周囲の店がすっかり感謝祭からクリスマスへと、ディスプレイやセール掲示を変更していることに気づいた。 最近、販路拡大事業の責任者を任され、多忙な日々を送っていたので、あまり周りを見る余裕がなかったのだ。 華やかにクリスマスソングが流れる玩具屋の店先にある、野球セットを見てスティーブンは己の子供の頃を思い出す。 「俺は野球が好きだったなぁ。スタジアムにつれてってくれってよく親父にねだったもんだ……」 その親父ももうこの世にいない。妻や娘は野球には興味がなく、気づけば、すっかりスタジアムから遠ざかっている。 野球観戦の日は、必ず大好物のチキンを焼いてくれた母だが、今や息子の顔すら忘れているので、もうチキンなど焼けないだろう 妻のメアリが焼くチキンも決して悪くはないのだが、やはり母のチキンとはどこか味が違う。 しみじみしていると、ちらちら雪が舞い始めた。 玩具屋の隣は、セレクトショップだった。ショップの扉が開き、客が出て行くと、店内の香水の香りが外へと零れ、スティーブンの鼻孔をくすぐる。 そういえば今年のクリスマスプレゼントとして娘がリクエストしたのは、香水だった。娘ももう大学生になろうとしているのだ。 「俺も年とったなぁー……ん?」 ふとスティーブンは、店と店の間の細い空間にあるゴミ捨て場から美しい賛美歌が流れてくることに気づいた。 「チャリティの聖歌隊……がゴミ捨て場で歌うか? じゃあホームレスか?」 しかしどうにも心引かれ、スティーブンは音楽の方向へとふらふら歩いていく。 「……懺悔室?」 木製の大きな箱が、ぽつんとゴミ捨て場に置かれていた。粗大ゴミに出されたのだろうか……。 日本人が見れば、バリアフリー式の電話ボックスを連想しただろう。電話ボックスにしては豪奢だが。 街灯でスポットライトのように照らされた箱の中から、歌は聞こえているらしい。 箱には、ドアが付いていた。ふらふらと誘われるかのような足取りで、スティーブンはドアを開け、中に入ってしまう。 「!!」 そこには、頑健な体を誇る立派な父や、穏やかで若く聡明な母がいた。 それを見上げる自分は幼い。 箱の中だったはずなのに、周囲は懐かしい彼の実家の周辺になっていた。 贔屓チームのレプリカユニホームを着て、両親と手を繋いで歩く道の脇には、ステラ婆さんの売店があった。既に鬼籍のはずのステラ婆さんが、かつてのオバサンの姿で商売をしている。 「スティーブ、今日は帰ったらチキンね」 ステラ婆さんの売店で買ったチェリーボンボンを、屈んで手渡してくれながら、母が微笑む。 「わぁい、僕チキン大好きだよ、ママ! また野球つれてってねパパ!」 父が広い胸板を叩く。 「もちろんだとも、スティーブ!」 なんたる甘美な世界だろう。ここでは、楽しかったあの日々が繰り返されるのだ。 ずっとここにいたい! スティーブンは心からそう願った。 口うるさい妻も、金ばかりせびる反抗的な娘も、無理ばかり言う上司も、思い通りにならない部下も、この時代のスティーブンには関係ないことだ。 クリスマス迫るニューヨークで、スティーブン・ブラウン氏は行方不明になった。 ●おもひでは甘美か辛苦か 「今、ニューヨークで十数人、行方不明になっている」 と、『黄昏識る咎人』瀬良 闇璃(nBNE000242)が告げた。 「目撃者の証言から先方が調査した結果、どうも英国にあったはずの『マーレイ』というアーティファクトによる被害らしい。文献によれば、入った者に過去や未来の情景を見せるらしいんだが」 詳しい記述のある文献が、大英博物館の地下倉庫に眠っていたのは僥倖だった。 なぜイギリスにあったものが、ニューヨークにあるのかは定かではないが……ともかく今もマーレイの内部にいる被害者達を救わなくてはならない。 「箱を破壊して救出するしかない。外部から破壊すると、中に閉じ込められているアメリカ人十数人も無事ではすまない」 つまり内部からの破壊が必要だということだ。 「だが、異世界人は入れないようだから、フュリエは外部待機だ。入れば必ず、過去か未来の幻想を見せられる。幻想に打ち勝って、内部から穴を開ければこっちのものだ。中にいる一般人を引きずり出し、あとは外部から完膚なきまでに破壊すればいい」 何人でも入れるから、保険をかける意味でも、複数人が箱に入るべきだろう。 フュリエの『口と手は同時』キリエ・ウィヌシュカ(nBNE000272)が同行して外で待機するので、全員が箱の中に入っても問題ない。 だが誰一人として幻想に打ち勝てなければ、マーレイから出ることは叶わなくなる。 「……最終手段は、外部からの破壊しかない。箱自体は、キリエが一撃で破壊できる程度の脆さと予想されている」 リベリスタはフェイトがあるから重傷で済むだろう。しかし既に閉じ込められているアメリカ人は死亡を免れない。 闇璃は補足する。 「被害者達は戻りたくないようだが、彼らを待つ家族がいる。彼らのクリスマスは家族が一堂に集う日だ。誰かが欠けているのは辛いだろうな」 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:あき缶 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ EXタイプ | |||
■参加人数制限: 10人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2013年12月26日(木)22:14 |
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■メイン参加者 10人■ | |||||
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●無窮の遠に クリスマスイブのニューヨークは、雪だった。 しんしんと降り積む牡丹雪は、都会を絵に描いたような街を一気に絵本の世界に塗り替える。 さくさくと新雪を踏んで、街灯に照らされた白い道を歩いていたリベリスタたちは、果たして件のアーティファクトから流れる賛美歌を聴いた。 神が悩み苦しむ信者の辛い嘆きに耳を傾け、いかなる時もそばに寄り添うという歌が、月のない夜に静かに馴染む。 音に導かれるように、賑やかな大通りから路地へ。 そして、打ち捨てられたアーティファクトはあった。 荘厳なウォールナット製の懺悔室のごとき小部屋。それがアーティファクト『マーレイ』だった。 万事心得ている、『口と手は同時』キリエ・ウィヌシュカ(nBNE000272)はそっとマーレイの側面に立ち、周囲を見回す。 人気のない通りだ。邪魔はおそらくないだろうが、万一のことを考えてフュリエは警戒する。 それに彼女には、もう一つの任務がある。 誰も帰ってこれなければ、犠牲を払ってでもマーレイを破壊するという、任務が。 「……ちゃんと、帰って来てね」 眉をひそめ、キリエは箱に入ろうとする十人のリベリスタに告げた。 「一番に戻ってくる」 即答したのは、『神速』司馬 鷲祐(BNE000288)。安心しろとばかりに、キリエの頭を軽く叩いた。 他の者も何も言いはしないが、戻ってくるつもりなのは当然だ。 「一発も撃たずに済むのなら、それにこしたことはありません」 愛銃をケースの上から撫で、『クオンタムデーモン』鳩目・ラプラース・あばた(BNE004018)は呟く。 今回は己の幻想に打ち勝てば、あとは箱を壊す程度の力で全てが丸く収まるはずだ。 (戻りたいと思うほどの素晴らしい過去も、手に入れたいと思うほどの輝かしい未来も無い) あばたはそう思う。しかしきっとこの箱は、『甘美な夢』を見せるのだろう。このギガントフレーム(平凡で有害なエリューション)にも。 一方、『狂気的な妹』結城・ハマリエル・虎美(BNE002216)の表情は明るい。 (お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん) 虎美の脳内は、心から愛する兄の幻想を見る気に満ち満ちている。もはや今日は兄の夢を見に来たと行っていい。 (お兄ちゃん夢の中でも愛してる。どんな夢を見られるのか楽しみっ! ね、お兄ちゃん? ソウダネ) しかも脳内で兄と会話中である。 「ふむ、しかし。出てこないと最終的にどうなるのか。意外とホスピスには丁度良いかもな?」 と無表情に嘯くは『普通の少女』ユーヌ・プロメース(BNE001086)。クリスマスに夢とはなんともお誂えだと、呟く。 そしてさっさとマーレイのドアノブを握って中へと消えていった。 「過去も未来も見せるなんて。面白そうだ」 好奇心の塊である『クール&マイペース』月姫・彩香(BNE003815)は眠そうな青い瞳を一瞬閃かせる。 「クリスマスか。ボクが生まれた村では縁ない祭り」 黒い紙飛行機で手遊びをしながら、『赤子』赤 ぐるぐ(BNE004845)は言う。ニューヨークの街の、はしゃぎ具合が珍しいのか。ぐるぐは、先程からしきりに周囲を見回していた。 「さて、どんなお出迎えしてくれるか……楽しみだな」 これが終わったら、ブロードウェイでミュージカルといきたい。などと、『純潔<バンクロール』鼎 ヒロム(BNE004824)はもう仕事後の楽しみを考えていた。 『贖いの仔羊』綿谷 光介(BNE003658)をはじめとして、次々とリベリスタたちは臆することなくマーレイの中へと進み、『OME(おじさんマジ天使)』アーサー・レオンハートを最後に、後はキリエだけが現実世界に残った。 はぁと白い息を吐き、マフラーに鼻までうずめたキリエはマーレイに背を預けた。 「ほんとに、ちゃんと帰って来てね……」 見知らぬ土地にひとりぼっち。 感情を共有する仲間も居ない。 普段はそれが気楽で自由で楽しいと思う彼女も、冬と遠くの喧騒によって、寂しさを感じていた。 「はやく、ね……」 長い耳を垂らし元気のなさそうな彼女の周りを、黄色いフェアキィがクルンクルンと回って慰めた。 マーレイの中は真っ暗だった。 「まるで胎内巡りだね」 ぐるぐが寺院の地下迷路を例に出す。だがそれに返事をするものはいない。 狭い空間のはずなのに、ほぼ同時に入ったはずなのに、自分以外の人間が感知できない。 「なるほど、もうこの時点で他者に干渉できないってことね」 互いの夢には干渉できないことは、事前にフォーチュナから聞いていた。こういう理屈か、と『レーテイア』彩歌・D・ヴェイル(BNE000877)は呟く。 「クリスマス、か……」 (家族と、過ごしたいな……) 彩歌は、意図せずに思った。その思考はきっと、マーレイに届いているだろうとも、思った。 あばたは駄目で元々で千里眼を発動してみるも、やはり闇。ハイゼンベルクの暗視能力も機能しない。 手で探るも何も当たらない。ゆるゆると歩いて行けば、各々の網膜を光が灼いた。 「ああ、あれが……」 マーレイの幻想。 クリスマスカロルが遠くから微かに聞こえる。そしてクリスマスの奇跡が始まる。 ●降り積む、雪、やさしく 彩歌がハッと気づくと、目の前は灰色だった。 少しチリや車のガスで汚れた雪は、上の鉛色に近くなって、まるで天地が融け合ったようだ。 ブォオン……と通り過ぎて行く車の色だけが鮮やかで、染み入るような寒さに彩歌は少しだけ震えた。 「バス、来ないですね」 隣から聞こえる優しい声に、彩歌は目を見開き、おそるおそる声の方を見る。 ――嗚呼。これは。 彼女が彼だった時代の、あの十二月の思い出。ナイトメア・ダウンよりも二年も過去で、もちろんあの時、彼はこんな未来を想像などしていなかった。 それよりも心に刻まれていたのは。 「そうですね」 「失礼。焦れていらっしゃるのが目に見えて分かるもので……。でも、今からタクシーを呼ぶよりは、バスを待ったほうがいいですよ」 苦笑する見ず知らずの女性が微笑んで、焦りを顔ににじませているらしい彼を宥める。 「す、みません。あの、子供が生まれるんです。……私の」 「まぁ、そうなんですか」 それは焦りますよね、とまるで我が事のように女性は眉をひそめた。 木製のベンチで、二人はバスを待っている。 こんな日に限って、雪のせいで、交通ダイヤが乱れている。 「……日本語お上手ですね。すみません、外国の方だと思ったものですから」 沈黙に耐え切れなくなったのか、それとも退屈なのか。 女性は彼に話しかけ続ける。 「いいえ。その通りですからお気になさらないでください。この国の人には慣れないうちからたくさん助けてもらいました」 どうして初対面の人にこんなに話をしているのだろう。 焦燥の炎に舐められて、居ても立ってもいられないのかもしれない。 プロポーズに選ぶ指輪の話や、それと一緒に渡すつもりで花束を探したが、花屋を困らせるくらい悩んでしまった話を、つらつらとあふれるように話してしまった。 母親になっているであろう愛しい妻の話を、誰かに聴いて欲しかったのかもしれない。 もしくは、うんうんと聞いてくれる女性が、聞き上手なのかもしれない。 「子供が出来たって聞かされた時……柄にもなくはしゃいでしまって……」 「そんなものですよ、皆さん」 にこにこと女性は言う。 そして、笑顔のまま、女性は彼を覗きこんできた。 「こんな日々がいつまでも続けば良いと、そう願う?」 答えようとした。 「もちろん」 と、答えようとした。 その瞬間、目の前にクラクションを軽く鳴らしてバスが滑りこんできた。 彼が乗ろうとしている路線のバスだ。 プシュウと乗車口のドアが開く。 降車する人間は居ないらしい。窓から乗客たちが無表情に見下ろしている。 女性は動かない。この路線を待っているのではないようだ。 プーと発車ベルが鳴る。 ――ああ、乗らなくては。 この、何もない平穏な世界で、幸せな生活をおくる第一歩を踏み出すのだ。 だが、どうしても彼は……動けない。 一秒が、まるで一時間のような感覚。 彼は、いや、彼女は、彩歌・D・ヴェイルは知っている。 この後、彼に起きる全てを。 ナイトメア・ダウンの日、世界が崩壊するようなあの日に、強く願った『生きたい!』を。 このまま、このバスに乗れば、きっとナイトメア・ダウンは起きない。 起きないままで、平穏な世界が続く。死ぬような目にもあわない。 穏やかな妻と子との、平凡で普通で幸せな世界が広がるのだ。 妻と子に、全てを話す覚悟ができるまでの厳しい辛酸を、彼は舐めなくていい。 静止する世界。 あと一歩がどうしても……。 ●胎児は何故踊る ……ドックン……ドックン……。 ザアザアとまるでテレビの砂嵐のような音を、ぐるぐは聞いた。 眼を開くと、暖かく、そして赤黒い暗い世界が広がっていた。 窮屈だが、しかし苦しくはない。むしろぴたりとして心地が良い。 「ああ、ここは」 母の腹の中だ。 見たことのない母の、腹の中だけを見るとは。 と、ぐるぐは苦笑する。 幸せな過去を見せるらしいマーレイの幻想が、胎内とは。 しかし仕方ない。 ぐるぐは、両親を知らないのだ。 己の記憶をたどれば、親の記憶はこの場所しかないだろう。 伝え聞いた話しによれば、ぐるぐの母は、革醒者に殺されたという。 「それにしてもどうにも揺れるね」 そして、ドクンドクンという上から聞こえる音も、速く激しくなっていく。 「もしや、これは」 母が死ぬ日の夢……つまりぐるぐの誕生日の夢なのか。 ならば、このままたゆたっていれば、母の顔が見られるのだろうか。 見れた所で、死骸だが。 腹越しに声が聞こえる。 怒号だ。 母を探し追い求めている声が聞こえる。 心臓の音はますます激しく、破れるのではないかと思うくらい。 逃げ場所を探して、寒村を走り回る母を、ぐるぐは哀れに思う。 彼女は己の生命と、大事な胎子たるぐるぐのために、逃げまわっているのだから。 どうにかしてやりたい……が、ぐるぐが腹を食い破って出てしまえば、やはり母は死んでしまう。 それに今は胎児のぐるぐに何かが出来るとも思えぬ。 八十一のぐるぐなら、インヤンマスターの力できっと彼女を護れたろうが。 母にはどう転んだ所で、生きた顔には会えぬという、虚しい夢だ。 母親が死ぬ記憶をこのまま見せつけられるのか。 それがマーレイが選んだぐるぐの『抜け出したくない記憶』なのか。 ――産まれたくないとでもいうのだろうか。 生まれなければ、母は死なないのか。 「大丈夫だからね」 腹の上から、優しい声が聞こえた。 「大丈夫よ、大丈夫よ赤ちゃん……」 恐怖に震えながらも、必死で胎子を励まそうとする女の声が。 ――ああ、なるほど。 この声は、もっと聞いていたい。 ぐるぐはアーティファクトの意図に得心する。 母親を呼びたいと思った。 怒りも絶望も、遠すぎて思えなかった自分の記憶が、いま、直にぐるぐの感性に訴えている。 母親の記憶を少しでも刻みたいのは、全ての赤子の望みであろう。 ●恒久の未来 八十余年もの過去を見ているものがいれば、はるか未来を望んだものもいる。 ユーヌは己など存在しない世界に意識だけたゆたっていた。 空にギラつく太陽は、既知のものより巨大で、地表はジリジリと焼けてひび割れているのに、意識だけの存在である彼女には暑いも寒いも感じられぬ。 わずかに藁のようになった茶色い下生えや、少し触っただけで崩れ落ちそうなくらい乾燥した樹木の残骸がかろうじて自立している以外に、植物もない。 岩すらも強い日光の元、ボロボロと砕け、砂になっていき、見渡すかぎりに砂漠。山が砂になり、風に運ばれ世界に均一に広がって、とうとう大地は嵩を増し、都市は埋もれたらしい。 わずかに先のほうが見える総ガラス張りのビルが日光を反射して、ギラつく。 熱射の昼は、すぐに極寒の夜になるだろう。だが、その繰り返しも、いずれは昼だけになって、とうとう地球は肥大する太陽に飲み込まれ、太陽はすべての従える惑星を飲み干して、矮星になる。 天文学の本で読んだ地球の末路を、白骨化した偶蹄目の遺骸を見下ろし、ユーヌの意識は思い出していた。 この幻想は、その途中なのだ。 なぜこの幻想を見ているのか――おそらくは、彼女が見たいものは『日常の果て』だったから。求める未来はきっと、現実世界の未来では到底到達できないものなのだろう。 すべてが滅びきってしまった世界は、意外に悲しくない。 悠久の時をユーヌは見届けていくのだ。 ――それはまるで、恋。 静かだ。 静かに、滅びていく。 この未来は、彼女の知りたいことが飛ばされている。 彼女が、この物足りなさに気づくのはまだ、先。 ●なけなし、かけねなし 「おはよう、ヒロム。もう朝だよ。寮母さんがご飯だって呼んでるよ」 粗末なベッドの中のヒロムを覗き込む、同い年の少年。 「あ、うん」 廊下にでれば、かすかに漂ってくる味噌の香りに、ヒロムは頬をほころばせた。 いわゆる『マトモ』な朝食を食べるのが日常になったのは、ヒロムにとってつい最近のことなのだ。 母親と居るときは、廃棄寸前のパンをもそもそ齧ることが出来れば御の字の生活だった。 そんな生活に疲れ果てて、母親は精神に異常をきたし、ヒロムを殴って家ごと燃やして、一緒に消えてしまおうとしたわけだが……なんとかこの孤児院に引き取ってもらえて、ヒロムは生きている。 生まれた時から地獄のような生活だったから、世間が『粗末だ』と思う孤児院の生活も、彼にとっては極上の幸せだった。 なにより誰も殴らない。 「はーい、おはよう、ヒロムくん!」 寮母さんがヒロムの茶碗に白米を盛ってくれる。 「わぁヒロムお兄ちゃん、おはよう! 今日は私と遊んでくれる約束だよね!?」 「えーっ、ボクが遊ぶんだよぅー」 皆が優しい。皆が仲良くしてくれる。 まだ少し火傷が引きつるが、ヒロムは笑顔で、どちらが一緒に遊ぶかで喧嘩になりそうな少年と少女を引き離す。 「皆で遊ぼう! なっ」 これは幻想だ。ヒロムはよくわかっている。 これはまだ、ヒロムが日本で生まれ日本で死ぬと、心から信じていた頃の記憶だ。 辛かった幼少期の闇に差し込んだ一筋の光。 それが、この孤児院だった。 この孤児院は、これからしばらく後に、地上げの標的にされ、様々な嫌がらせを多方面から受ける。 孤児院を救うべく、ヒロムは博徒になるのだ。 今のヒロムの眉間から左頬にかけての切り傷は、博打に負けた代償だ。 だが、幻想の中のヒロムに火傷や痣はあれども傷はない。 博打など程遠い世界の、平和で穏やかな日々を過ごす、ようやく『平凡』に近づけた幸せな子供。 楽しかった、遠い日々だ。時々懐かしむこともある。 そんな懐かしい日々が今、実感を持って目の前に広がっている! (ちがう、げんそうだ……でも) 「ヒロム!」 「ヒロムくん!」 「お兄ちゃんっ」 懐かしい顔達が、自分を笑顔で呼ぶ。 皆がヒロムを必要としてくれて、好きでいてくれて、ヒロムを承認していた。 心が満たされて、晴れやかな笑顔を見せている幼い自分を自覚し、ヒロムは胸が痛くなる。 もう少しだけ、彼にこの幸せを見せてあげたい。 急がなきゃ、出て行かなくちゃ、でも……でも……あとちょっとだけ、あと少しだけ、あと……。 ずるずると、幻想の暖かな世界にとどまってしまう――。 ●流れ行く音符の中で 光介は、立派なオーディオ機器の前にあるCDラックの前で、騒ぐ二人を見ている。 この二人を、光介は深く知っている。 (父さんと、姉さんだ) 二人の背中をソファに座って眺める。 ソファとオーディオの間には、でんとダイニングテーブルが鎮座していて、オードブルセットやチキン、ケーキなど、ささやかでも立派なパーティーの準備がちゃんと整っている。 これは、クリスマスの記憶だ。 まだ光介が、アークに入って戦いに身を投じる前の記憶なのだ。 だからまだ彼の頭に羊の角はない。なにより、父と姉が生きている。 「祝祭の意味を考えるとな……」 と豊富なクラシックの棚を眺めて思案している父親はクラシックマニア。子供をよくコンサートに連れて行ってくれた。 「いいじゃない、ノリがいい方が。せっかくのパーティーなんだから!」 と姉は悩む父親の脇をすり抜け、オーディオにジャズをセットする。 スウィングする音楽、サックスとコントラバスがシンクロし、ピアノが乗って行く。 「あっ!」 「ふふっ、早い者勝ちよ。ね、光介も、ノリがいい方がいいでしょ?」 ぱたぱたと姉が光介に駆け寄り、手を差し出す。 ああ、いつもながら、こんな小さな小競り合いとも呼べないような言い合いが、好きで……大事にしたくて……。 「せっかくのクリスマスにふさわしい曲をだ……」 「もう! いいから食べよ! おいで光介」 まだ渋る父親を快活にいなし、明るい笑顔で姉は光介の手を握った。 ぐいと引っ張って立ち上がらせる姉の、弾けるような笑顔。 振り仰げば、父親がしょうがないなと慈愛に満ちた笑顔でこちらを見守っている。 「そうだな、楽しいのがいいな。さあ、冷めないうちに食べよう」 父親が席につく。 早く早くと姉が光介を椅子に座らせようとする。 もう現実には居ない優しい二人との時間だ。 あの日、コンサートの帰路の道中で、事故にあって光介以外は皆死んでしまったのだから。 「ボクは……」 こんなきれいな手じゃないんだ。いっぱい血を浴びたんだよ。 「どうしたの、光介。っお腹痛いの?!」 心から心配してくれる姉を見て、光介は口を開けなくなる。 戻らなければという理性の声はか細い。 戻りたくない。この幸せだった世界は、現実には二度と起き得ないのだから。 この幻想の中でだけ、まだ父親と姉は微笑んでいる。 「ううん。食べよう」 一緒にいたい……。ずっと一緒に。 二人を代償に生き残ってしまった贖罪を全うしなくてはならないことはわかっている。 でも、この世界でなら消えてしまった二人を見続けられるのだ。 あの渇望していた世界が手に入るのだ。 ここは、光介が『誰かの役に立』たなくてもいい世界。光介が光介であるだけで、全てが許される世界。 「あのさ、……ボク、ずっとここにいていい?」 「何を言うのよ、変な光介」 「当たり前じゃないか。親はずっと子供には一緒にいてほしいと思うものだよ」 この笑顔に抗うすべが、見つからない。 ●未来に鐘が鳴るなり 虎美が目を開くと、白亜の教会が目の前にそびえていた。 わかる。 これは、兄の結婚式の日……つまり未来だ。 「相手は私……なわけないよね」 見下ろす自分の服は、白ではない。しかし、今から着替えるような普段着でもない。式に参列するべく壮麗に飾ったワンピースだ。 病的とも言えるほど兄を愛している虎美だが、恋路に勝機があるような状態ではないことも分かっている。 だから、なんとなく、花嫁が自分ではないという展開は予想がついていた。 「相手は誰なのかな」 今の虎美が知っている、あの無表情な小さい女だろうか、それともあの女は将来的に兄とは別れる(当然兄がフるのだ。虎美の兄がフラレるわけがない)のか。 式の直前という未来に飛ばされた虎美には、式にこぎつけるまでの紆余曲折を知らない。 しかし、おそらくはかなり揉めたであろう。 花嫁が虎美でない時点で、虎美がかなり暴れたのは、自分のことだから手に取るようにわかる。 なのに、騒いだ当人が式に参列しようとしている事実に、虎美は苦笑した。 「三高平に来るまで私以外は認めなかったお兄ちゃんを選んでくれた人だもんね……」 心の何処かでは、彼女を認めているのだ。と思う。認めている事自体に、心が揺らがないではないが。 「笑って、お祝いしよう」 式が台無しになって困るのは、最愛の兄だから、兄に迷惑を掛けたくはない。 虎美がどれだけ迷惑をかけても、笑って受け入れてくれる兄だからこそ。 「顔、ひきつっちゃいそうだな……でも、お兄ちゃんならわかってくれるよね。だって私はお兄ちゃんのこと一番よくわかってるし、お兄ちゃんは私の事一番良く知ってるもん。そうだよ、だからお兄ちゃんは私のものなんだよ。……なんで他の女に盗られないといけないの?」 ゆらぁり。 虎美のオッドアイが怪しく光る。 「そうだよ、なんで? なんで笑って譲ったげないといけないわけ? だって私『の』お兄ちゃんだよ? お兄ちゃんだって私が一番で最高だって言ってるじゃん脳内で言ってるじゃん。なにこれ、こんな未来認めないよ? 嘘だよ? 嘘に決まってるでしょ? 本当の未来はずーっっとずぅううーっと虎美とお兄ちゃんが仲良く二人で添い遂げるに決まってるでしょ幸せな結婚式するんだよお兄ちゃんと私の結婚式だよ素敵になるに決まってるよこんなの絶対おかしいよおかしすぎるからだってお兄ちゃんは私の愛するお兄ちゃんであってどこの女のものでもないに決まってるわけでそんなお兄ちゃんが私以外の女と一緒になろうと思うわけない絶対ないこれは陰謀だわこれは絶対陰謀私とお兄ちゃんを引き剥がす罠でしょ……」 ぶつぶつぶつぶつと虎美は教会の前でつぶやき続け、とうとうカッと目を見開き、天を仰いで絶叫した。 「ぶちこわしてやる!!!!」 血走った目で荷物を探る。 未来の自分もリベリスタだ。いついかなるときにエリューションの事件に巻き込まれるかもしれないと、護身用に武器は持っていた。 いつも使っているものとは違うが、スターサジタリーとして不自由ない立ち回りができる銃である。 「よし殺そうすぐ殺そう。すぐに助けてあげる未来のお兄ちゃん。こんなくだらない未来はぶち壊すよ。それが終わったら現実のお兄ちゃんとの結婚式の準備にかかるから、まってて現実のお兄ちゃん」 虎美はニイと笑うと、銃を構えてチャペルへと突入していく。 悲鳴がそこかしこからほとばしる。それを聞き流して、探すは兄の妻となる誰かさん。 「ふふふっ、せきにんとってよね、お兄ちゃんっ」 その顔は、可憐だった。 ●荒野に吼える アーサーは、家族を知らない。 物心というものが付く前に、かの組織に攫われてしまったから。 自分を生み出した人間は別にいると知った時、当然アーサーは会うことを望んだ。 だが、組織は叶えてくれなかった。 むしろ、アーサーの望みを、彼を意のままに使うための道具にしたのだ。 例えるなら、馬の鼻先にぶら下げた人参。 目の前にある現実味のある報酬なのに、どれだけ必死に疾走っても、永遠に届かない。 「家族に会いたいんだろう? だったら任務は遂行してもらわんとな」 アーサーは、頑張っていればいつかは肉親に会えるのだと信じて、言われるがままに人を殺して生きていたのだ。 しかし、生きているアーサーは成長し、大人になる。 大人になれば、夢物語は所詮夢であることが分かる。 そう、いつまでたったって、組織は家族になど会わせないということが。 だから脱走した。追手から逃れ、ひたすら探したのは家族の手がかり。 確信は持てずとも、それらしき一家を探し当てた時、アーサーの心中は大いに乱れた。期待と不安、そして何より歓喜が渦巻いて。 …………アーサーは、その大いに乱れた心中の時間に戻されていた。 「確かに、これが俺の人生で一番幸せだった瞬間かもしれないな」 この後、何が起きるか悟ったアーサーは俯いて苦笑した。 今日は、一九九九年八月十三日。 アーサーが意を決して、己の家族を訪問する日だ。 そして、静岡県東部で発生した大規模フォールダウン『ナイトメア・ダウン』の日だ。 この日、アーサーが呼び鈴を鳴らし、誰かが応答してドアを開けようとした瞬間に、フォールダウンは起きた。 すべてが無になり、アーサーは結局己のルーツについて何も知らぬまま、生きている。 生きてきた意味も、生きていく理由も喪失しながら。 「……今、何時だ?」 はたとアーサーは気づいた。 ナイトメア・ダウンを防ぐなんて大それたことは不可能だ。しかしあと少し、もう少しだけ訪問が早ければ――アーサーは家族の顔を声を知ることが出来た。 この世界なら、やり直せるのだ。 「急ごう」 アーサーは走りだす。あの日の記憶は鮮明に覚えている。だから、道に迷うことはない。 一分、いや一秒でもいい。あの時よりも早く動くことができれば! 今のアーサーは、帰る場所も家族もある。愛犬シリウスが彼の唯一だ。 アーサーは、もうナイトメア・ダウンの傷跡を飲み込めている。 犯した罪も家族への思慕も飲み込んで、シリウスとささやかな幸せが点在する貴重な今を歩んでいける。 もう自分を責めたり否定したりすることもなくなった。なぜならシリウスが全幅の信頼と親愛を寄せる存在がアーサーだからだ。愛犬が肯定する自分を否定などできない。正も負もすべてがアーサーを形作るものだと納得もできている。 だが、それは……家族のすべてを諦めたわけではない。 幻想でもいい。一瞬でもいい。 この後に続く出来事は悲劇であろうとも。 知ってしまったあとで喪失してしまう悲しみは、何も知らないまま失うことよりも重いかもしれなくても。 アーサーはひた走る。 あの一度しか歩いたことのない、しかし忘れようのない道のりを。 ●海より深く山より高く まず知覚したのは、美味しそうな香り。 彩香が気づくと、目の前には湯気を立てる肉じゃがとご飯、そして味噌汁が並んでいた。 (ここは……) 予想外の光景に一瞬戸惑った彩香の耳に、信じがたい声が飛び込む。 「どうしたの、彩香。お箸が進んでいないけれど」 今は亡き母親の優しい声に、彩香は目を見開く。 眼前に並んで座るのは、会えなくなって久しい両親だった。 「また学校で嫌がらせをされたの?」 心配そうに覗きこんでくる母に、 「彩香は個性的だからな。でもいいんだよ、個性があることは決して悪いことじゃないんだ。彩香は彩香のままでいいんだよ。父さんも母さんも、このまんまの彩香が大好きなんだから」 苦笑しながらも励ましてくれる父。 (こう来たか……、これは確かに甘美な薬のようだ) 革醒する前から奇妙な好奇心の塊だった彩香は、普通を尊ぶ日本の社会で浮いていた。 普通のこどもとは、興味の方向が違っていた。 怪我をして痛がるかと思えば、人体の血の巡り方に興味をいだき、教材園のうさぎが死ねば、悲しむ同級生たちを尻目に、『死』とはなにかを考え始めたり。 冷血だとか、宇宙人だとか、心ない言葉を浴びせられ、時には暴力を振るわれることもあった。 しかし、両親だけは彩香を認めてくれていた。理解しようと努力してくれていた。 両親がどれだけ幼い彼女の支えになったか、例えようもない。 両親はたしかに、彼女の居場所だった。 エリューションが起こした事故に巻き込まれ、家族を失った彼女にとって、かつての居場所はどれだけ渇望しても、二度と手に戻らない甘美なものだ。 黙りこむ彩香をどう思ったか、両親の表情はどんどん心配の色を濃くしていく。 「やっぱり辛そうよ……? 辛いなら無理しなくていいのよ」 「父さんは明日は休みだしどこかに遊びに行こう。博物館好きだよな?」 両親と手をつないで、探究心が満たされる博物館に行くことが、どれだけ幸せだったか! 別れの言葉を言わなくては。と彩香は何度も口を開きかける。 なのに、両親の顔を見るとどうしても……。 (あの時言えなかった別れの言葉は……もう少しあとでも……) 甘い甘い世界にいても、彩香が望む神秘の探求は叶わない。 だからここにいてはいけない。 別れを告げなくてはいけない。 「お父さん、お母さん……育ててくれてありがとう。もっと知りたいことを見つけたよ。だから……] その先の言葉を言う前に、世界は凍りつき、そしてビシリ。鏡に罅が入ったかのように割れる。 「っ!」 言いたかった別れの言葉が、今回もまた告げられないのだと彩香は悟る。 もう届かなくても、罅割れた両親の虚像へ叫ぶ。 「だから、行ってくる!!」 最後まで言い切る前に、割れた世界は破片になって飛び散った。 あとは闇――の中を、被害者救命のために慌ただしく動く仲間たち。 彩香は押し黙る。幻想を噛みしめるように。 ●時流疾駆 「過去に興味はない。未来を見せてみろ。……正直、どちらにも興味はないんだがな。見せないことには、納得しないんだろ、マーレイ」 鷲祐は闇に向かって言葉を放ってみせる。 幻想など、ただの障害だ。 「十五人、助ける。なんと、言われても」 彼が思うことは、任務遂行だけだ。 それに、外に残してきたフュリエは知らない仲ではないから、心配ではないといえば嘘になる。 そもそも外に一人残しているというのは、一般的な戦術としてはあまり褒められたものではない。 フォーチュナは大丈夫だとは言っていたものの。ここは万華鏡の範囲外、フォーチュナが知り得ないことも平気で起こりうる。 鷲祐はナイフを握る。何が出てこようが、切り開くと念じて。 すると、彼の呼びかけに呼応するように闇が光を放った。 「大好きだよ」 不意に耳に飛び込んだ言葉に、鷲祐は驚愕した。 「こ、こは……」 己の家? ウッドチャックと名付けられた木の上、自分が仲間と建てたツリーハウスの中だ。 今はまだ家具もあまりない状態のはずなのだが、この幻想の中の家はなかなかどうして、家財道具がちゃんと揃っている。 (ずいぶん近い未来を持ってきたもんだな……) 家の状態から言って、おそらくは現在から一年も経過していないのではないだろうか。 自分の周囲には、好き勝手にものを飲み食いし、どんちゃん騒ぐ仲間たちがぎっしり。 「ここにいると楽しい」 と皆が笑っている。 「鷲祐さん」 「司馬」 「鷲祐」 「司馬ちゃん」 口々に皆が、鷲祐を呼んで、話しかけてくる。それに律儀に応答しながらも、鷲祐は戸惑っていた。 これではまるで今と代わり映えのしない世界ではないか。 (……これが俺が出たくないと思う幻想の内容だというのか、マーレイ) 友情、信頼、愛に満ち満ちて、一人ではないと実感できる空間で、鷲祐は目を閉じた。 (一人は、嫌だったからな) 彼の生い立ちは平凡だ。穏やかな一般家庭で革醒するまで、普通の人間として生きてきた。だから平凡なりに優しさも暖かさも知っている。 「いってらっしゃい。体には気をつけるのよ、鷲祐」 「お前は男だ。俺が信じる俺の息子だからな」 「……俺はアンタを兄とは認めない」 「兄貴なら出来るって、思ってるよ」 温かい家族に背を向けて一人になることを、自ら選んで、誰よりも速く駆け抜けてきたつもりだ。 だが、今、そして近い将来も、鷲祐は一人ではないのだろう。 「友達なんですから、甘えていいんですよ」 誰かが言った言葉に、鷲祐は銀の目を見開く。 「煩エッ!!」 友人の顔に突き立てるナイフ。 「そいつはそんなことは言わねえっ! 俺達は、甘え合うような仲じゃない、そいつは腐ってもそんなバカげた生ぬるいセリフは言わねえんだ、マーレイ!!」 それが己の深層意識が望む夢の関係であると薄っすら気づきながらも、 「うおおおおおおおあああああああああああああッッ!!」 慟哭して、気付きに背を向ける。 「俺の甘えで落とす命があることはッ、俺が許さんッ」 深層意識であろう幼い鷲祐に、鷲祐は心のなかで背を向けた。 (お前がいることを、俺は否定しない。だが、お前の言いなりになるのは、……ガキだった俺に。本当の過去の俺に、失礼だろ? だから認めてはならないんだよ、お前を) 「俺はここから出る! この脚を、落としてでも!」 動かない脚にナイフをつき下ろす。 瞬間、世界は消し飛んで、闇が戻った。 「……ハァッハアッ、ぬ、けた……か」 「遅いですよ、司馬様」 肩を上下させる鷲祐を、冷静な盲点のないガラスのような目であばたが見下ろしていた。 ●穴に顔をつっこんだ駝鳥のごとく あばたがふと気が付くと、街の中だった。 ショウウィンドウに写った己の姿は、極普通の人間だ。ギガントフレームでも、メタルフレームでもない、黒髪で少し色素の薄い瞳を持つ平凡な少女。幻視を使っている自覚もない。 過去の幻想にいると、あばたは悟る。 (戻りたいような過去はないはずですが) 手にしたプラスチックバッグの中には、ジャンク品の増設用メモリが入っていた。うまく使えれば儲けものだ。早く試したい、と急いで帰路につく。 「おかえりなさい、ご飯できてるわよ」 家では母親が優しく出迎える。出来立ての食事の香りがあばたの鼻腔をくすぐった。 「お、おかえり。どうだ? いい掘り出し物はあったか?」 読んでいた新聞を畳んで、父親がリビングに入ってきたあばたに笑顔を向けた。 あばたのネットサーフィンやプログラミングといったギークな趣味を、父親は寛容に認めてくれている。 ――楽しい。と、素直に思った。 母手ずからの旨い夕飯を腹に収めて、戦利品を試そう。そして今日もネットを巡回するのだ。 楽しい楽しい学生時代…………。 「都合のいい……」 あばたは、繰り広げられる世界を唾棄した。 あばたは覚えている。 学校では虐められ、大好きなパソコンを触る時間は短かった。 こんな楽しかった瞬間など一瞬もいいところだった。 過去はどの時点でも、あばたにとって辛いことが多い。 革醒すれば、師匠に攫われて修行に明け暮れさせられ、クソのほうがマシな仕事ばかり。 「こんな都合のいい世界、プロアデプトとして認められる世界じゃないです」 あばたは、体を探る。これが革醒前の過去だとしても、幻想は現実ではないことをプロアデプトの論理的思考は知っている。 だから体には、ほら、シュレーディンガーとマクスウェルがある。 マクスウェルをおもむろに引き抜いて、ロングバレルの先にある銃口を下顎へ当てる。 迷うことなく引く引き金。 炸裂するマズルフラッシュと轟音に続いて、あばたは激痛を感じ、そして世界は闇に戻った。 「やはり。これが一番手っ取り早いと思いました」 エリューションの彼女にとって、これしきは致命傷ではない。仲間の誰かしら回復を持っている者がいるだろう。光介は確かホーリーメイガスだったはずだ。全て終わったあとで回復してもらえば、問題なかろう。 そこまで一瞬で判断し、あばたは再び暗視ゴーグル越しに千里眼を試す。 マーレイの魔力から逃れた彼女の目には、手に取るようにこの部屋の中がわかった。 目にも留まらぬスピードで銃を抜いて、壁を狙い撃つ。 見事に大穴が空いた。 外から、ウギャアと驚愕する同行のフュリエの悲鳴が聞こえた。 「一般人を出すぞ、手伝え! 多すぎるんだよ!!」 あばたは外へ続く穴へと怒鳴りつけた。 その時、足元で鷲祐が起き上がる。 悪夢から醒めたかのように、息を荒げる彼の膝にはナイフが突き立っていた。 彼もあばたと同じ方法で世界を壊したらしい。 「……ハァッハアッ、ぬ、けた……か」 「遅いですよ、司馬様」 二人の幻想破壊により、マーレイの呪力が崩壊していく。 リベリスタを含め、すべての人々の幻想が粉砕され、夢はことごとく醒めた。 ●We wish you a Merry Christmas マーレイに取り込まれたアメリカ人を全員救出し、リベリスタはマーレイを木片の山に変えた。 「みんな、帰ってきてくれてありがとだよ!!」 心底嬉しそうなキリエの目尻が濡れている気がするが、あくびか雪がついたせいにしておいてやる。 光介があばたと鷲祐の怪我を癒やし、今回ほぼ何の損害もなく任務を遂行できたことを確認しあう。 「あとちょっとだったのに……」 虎美はチッと舌打ちをして、何やら悔しげだ。 「俺も、あと少しだったが……あれでよかったんだろう。早く帰ってシリウスたんをもふもふしたいぞ」 アーサーも何やら思うところがあったようだが、その表情は安堵のそれである。 「メリークリスマスだな」 ぐるぐは路地から見える大通りの商店に飾られている時計を確認して、頷いた。 「あぁ、もう日付がかわっていたのか」 鷲祐がぐるぐの視線を追って、納得したように頷くと、無事にもう一度十一人揃った仲間を見回して、 「メリー・クリスマス」 と告げる。 「では行こう。名残惜しい者もいるかもしれないが、現実という世界へな」 ユーヌが踵を返す。 「ちょっと、仕切らないでよね」 ムッとして虎美が抗議しつつも後に続く。 そして彼らはクリスマスの喧騒から取り残されたニューヨークの片隅に背を向ける。 それぞれのもう来ない過去や、来るかもしれない未来に別れを告げて。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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