●想像空想妄想虚妄→絶望 あいつが来る。 あいつが来る。 階段の下から。 カーテンの隙間から。 窓の影から。 部屋の隅から。 ベッドの暗がりから。 クローゼットの扉から。 あいつが来る。 あいつが来る。 朝の光が明るくとも。 昼が生に満ちていようとも。 夜になれば。 闇があればあいつが来る。 光のなんと脆弱な事か。 吹けば消える火の。 叩けば壊れる光の。 なんと儚い事か。 あいつが来る。 あいつが来る。 隠れなければ。 逃げなければ。 隠れなければ。 はやく、早く、早く早く!!!!!!!!!! ●恐怖←無力無為虚脱絶望 「アメリカにあるミステリーハウス……幽霊を恐れて増改築を繰り返した、という噂の館をご存知ですか? 今回はそんな感じの場所で鬼ごっこをしましょう。皆さんのお口の恋人断頭台ギロチンです」 指を立てて『スピーカー内臓』断頭台・ギロチン(nBNE000215)が笑う。 「場所は、とあるリベリスタ組織が拠点として使っていた洋館です。……彼らは、ナイトメア・ダウンにより壊滅。この洋館にはたった一人、その組織の構成員が住んで『いました』」 過去形となった彼は、数年前に死んだ。 道を塞いで壁を壊して抜け道を作って地下室を掘って誰かの部屋を作って自分の隠れる穴を開けて。 『強大な何か』に襲われ無力に殺されるという恐怖に囚われ、只管洋館に手を加え続けて死んだ。 本題はここからだ、とギロチンは薄い水色の瞳を細めた。件のリベリスタ組織が保管していたアーティファクトの一つが、その『彼』の思念と良くない共鳴をしたのだと。 「この洋館に泊まると、『謎の襲撃者』に追い掛け回され殺される夢を見ます。……夢で済むならいいんですけれど、神秘に耐性のない人の場合はこの『夢』は刺激が強すぎる。『夢』を『現実』と誤認して、肉体の方がショック死する危険性も否めなくてですね」 急を要する案件ではないが、放置しておくにも宜しくない。 「例のアーティファクトを壊せれば手っ取り早いんですが、その場所が『夢の中』で。自らの作り出した空間に潜んでいる、と言えばいいでしょうか。つまり壊すにしても一度は夢の中に入らないといけないんですよ。だからちょっとぼくらアークで人を集めて向かおう、という事で」 アーティファクトは強い思念に反応した。だから、もし発見して壊す事が叶わずとも――多くの『逃げて生き延びる』という強い意志が混ざれば、その効果自体が揺らぐだろう。 ただね。フォーチュナは言って、首を傾げた。 「この夢の中で、皆さんは本当に『無力な一人の人間』です。武器も持たず、神秘の力も持たず、獣の敏捷さも空を飛ぶ翼も血液のエネルギーを得る力も機械の頑健さもない。抗おうと立ち止まった時点で食われて終わり。そんな存在です」 夢の中では、身一つで、戦う術も持てない。 抗ってやろうと思っても、それすら叶わない。 追い掛け回され、逃げるだけ。 「『襲撃者』は立てる音と微かな気配以外何もありません。彼の『恐怖』を体現したものなので、具体的な姿かたちはないのでしょう。対抗しようとしても無駄です。捕まった時点で、ぼくらは得体の知れない恐怖に襲われて目覚めるだけ」 運命の恩寵を削る危険性はない、というのがせめてもの幸いだろうか。 「あはは、まあちょっとリアルなお化け屋敷と思って貰っても構いません。条件は一緒なのでぼくも頭数を増やす感じに参加しますよ。いやあ怖いですねえ!」 冗談めかして告げたギロチンは、そこですうっと目を細めた。 「でも、どうしても怖くなったら、目を閉じて屈んで下さい。――そこで悪夢は終わりです」 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:黒歌鳥 | ||||
■難易度:VERY EASY | ■ イベントシナリオ | |||
■参加人数制限: なし | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2013年06月16日(日)23:07 |
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● 毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩、毎晩。 あいつが来る。 ● 「みかりんの大冒険、はっじまっるよー!☆」 広いロビーの真ん中で、魅ヶ利は殊更に明るく叫んでみた。 中央から伸びる階段の各所にはランプが設置され、比較的明るい。 とは言え、昼日中ならば雰囲気があると感嘆の声すら漏らせそうなその場所は、夜に閉ざされたこの時間帯には酷く不気味であった。予想はしていたが、それを上回る勢いで。 赤い絨毯の敷かれた階段を昇る。一段、二段、三段……。 握ったドアノブは、異様に冷たかった。 鉅は溜息と共に、誰もいないリビングの椅子を引いた。気配はしない。まだしない。それどころか誰の気配もない。それなりの数のリベリスタが、館を訪れたはずなのだが。 ただ、未知の恐怖に対し隠れ続けるよりも、襲撃者に『追いかけられている』状況の方がまだ選択肢としては良い、と鉅は判断した。 「神秘の力があっても、大して強い訳でもないしな」 冗談半分、鉅はポケットに手を入れて煙草が入っていない事に、嘆息した。 「逃げる……将来社会から逃げようと頑張る僕にはうってつけの案件ですね」 低い通路を中腰で進みながら、萵苣は明らかに駄目人間な宣言を誇らしげにしてみせる。走って逃げ続けるのは苦手だ。ならば隠れながら進めばいい。 「怖いですか? 怖いですよ、僕の才能が。あとちょっと可愛さが」 暗闇でちょっとポーズを決めてみても一人。足が震えている。怖いのを紛らわすのも、そろそろ限界だ。 誰かと共にいるのは、幸いであっただろう。 「にゃーにゃにゃにゃっにゃー」 楽しげな、けれど少々音を外したひよりの小声の歌が雪佳の隣で流れる。さんはい。見上げるようにして促された続きに、雪佳は軽く笑って返した。ひよりは不服気に口を尖らせるも、また楽しげに歌い始める。 雪佳が今日握るのは刀ではなくひよりの手。戦えない事実は酷く心細くはあるけれど――決してこの手は見捨てない。共に逃げ延びる。 黙ってしまえば、沈黙の恐怖が忍び寄る。例え繋いだ掌が温かいものだとしても。 奇妙な小部屋で目覚めたアリステアと涼の夜は、まず狭い階段を降りる所から始まった。 屋根裏部屋にも似たその部屋。小さな窓から差し込む光は、確かに美しいのに、その美しさすら恐ろしい。月光に照らされたアリステアの目に涙が光るのを見て、涼が囁いた。 「大丈夫さ。一晩生き残れば良いんでしょ」 「……う、うん」 涼も、これを全く平気だと言える程に胆力が備わっている訳ではないが、それでも少しでも安心させる為に、そっと握る手の力を強くした。 こきり、と首を回して、弐升は気付いたら立っていた廊下の先を見据える。 「真に迫ったお化け屋敷ねぇ。この界隈だと現実にご対面ですし、ねぇ。そーでしょ、ギロチンさん」 「あはは、だから今回も皆さんにお願いしてるんですよ」 笑うフォーチュナはいつも通りだ。弐升の口調の軽さも何も変わらない。 「それじゃ、適当に気を付けて」 「はーい、阿野さんもまた、朝に」 それが夢の中か現実かは、分からねども。 目覚めたらそれは現実だろうか。夢の中で目覚める事もあるのならば、区切りはどこだろうか。 ふと、夜中に目を覚ますのと同じ感覚で目を開いた姓は、掛け布団を引き剥がし起き上がる。 開いた扉、伸びる廊下は、果たして寝る前はこんなに長かっただろうか? ともかく、今の内に目的の物を探さねばならない。追われればそんな余裕もないだろうから。 「……けど、何を壊せば良いんだろ」 考えながら、足を踏み出す。姓の視界に入ったのは、震える人影だ。 「ししし神秘の能力が封じられたって、知恵と経験は、きっ、消えにゃい!」 祈るような形に指を組んだ美月は、暗い廊下の先を見ながら噛み噛みで自身を鼓舞する言葉を呟いていた。化け物なんて怖くはない。圧倒的な危機なんて、今までも乗り越えて来たじゃないか。リベリスタだ。そんなもの、慣れっこじゃないか。こんな洋館と、恐怖になんか負けやしない。 そう決意して、振り返った美月が見たのは、人影。 「い」 ぶわっと鳥肌が立つ。襲撃者の姿は見えない、と言われたが――暗い廊下に立ち、自らに迫ってくる白い服に長い黒髪――それを『仲間』と咄嗟に判断するのは、実際難しい。 「嫌だああああああ!?」 「あ」 まあ、それが何か別のものに見えたとして。 別に、寝巻きのままだった姓に他意はなかったのだから。仕方のない事だ。 夢を見る場所。悪夢を見る場所。即ち、眠りにつく場所。 「此処が……夢の中か!」 がばっと起き上がった義光は、真剣な表情で腕を組む。一日の最後、人生の最期、けしからん本を隠す所、人が無防備になる場所。それは寝室だ。義光のそれがそこに隠されているかどうかはともかくとして。つまり、思念の元はそこに存在するのではないかと考えたのだ。 現状確認は大事である。義光はまず、扉に手をかけて……。 「ヌウッ!?」 開かない。扉が開かない。すうっと冷える体とは裏腹に、鼓動ばかりが激しく熱を上げていた。 ガタン。ガタン! 音。何かを破壊する音。半壊していた扉の木材を蹴って取り外し、構えた虎鐵は先を見据える。 「この空間では拙者の怪力もさして意味はないようでござるから」 力自体は人の身となっても強い方ではあろうが、それも強力な人外の前では無意味に等しいだろう。 だとしても、それでパニックを起こしてしまえば相手の思うツボだ。 虎鐵は『何か』の餌となる為に来た訳ではない。戦えずとも、アーティファクトを破壊する為には武器があった方が良かろう。木材を手に、虎鐵はゆっくり歩き出す。 掘られているのは、地下への通路。 建築用の大きな工具を使った訳ではあるまい。シャベルか、それに類するものか。 死に物狂いで作った、生きる為の道だ。 「人が生きようとする力は、凄いものだな」 頭の地図にその道を書き加えながら、優希は廊下を歩く。例え繋がりが薄かろうと、無駄になる事はないだろう。 抜け道の先では、古い瓶が埃を被っている。幾つかは封を切ったまま机に置かれている。 それは気を紛らわす為に栓を開けた、過去の主の名残なのか。ひんやりとする地下のワインセラーで、五月(メイ)はフラウの手を握った。 「フラウはこういうの平気か? 俺は少し怖い」 「んー、あぁ、単なるお化け屋敷ってーなるとともかく、神秘が関わるとそこまでは」 壁に灯る明かりの範囲は、時に小さく暗闇を消し切れない。さて、ここを出て何処を探そう。何処がいいだろう。書庫で埃を被った御伽噺を、小さなその手ですくい出してみようか。万一はぐれたって大丈夫、きっと再び巡り合える。 少女の姿をした二人の背後で――ゆらり、風のないはずの地下で、光が揺れた。 気配に声を震わせたメイに、フラウは帽子のつばを上げて笑う。 「うちはね、例え何の力がなくなっても、メイを守るから」 「す、すまない、オレは無力だ」 「大丈夫。メイが信じてくれるだけで、勇気がもらえる。戦えるから」 「……うん。手を離すなよ? 絶対に離すなよ?」 息を吸って、吐いて、いち、にの、さん。 鬼ごっこの、始まりだ。 ゆらり。ゆらゆら。ゆら。 シャワーカーテンが揺れている。 背を伝う汗を感じながら、未明は一歩後ろへと下がった。 「……早速死亡フラグじゃないの、これ」 未明が起き上がった場所は、バスルーム。 乾いたタイルから身を起こした彼女の鼻に届いたのは、鉄錆の臭い。耳に届いたのは、滴る音。目に入ったのは、カーテンの向こうから、タイルの隙間を這う様に侵食してくる水。 あの水は、窓から差し込む僅かな光に照らされたあれは、『黒く』見えないか? なあ、あれは本当に、水なのか? シャワーカーテンの向こうにある息遣いは誰の、『何の』ものなのか? 「無理」 もし万一、気付かれていないとしたってこれ以上、この場所にいるのは不可能だ。 踵を返し、扉を開いた未明の背中、何かが声を上げた。 ああ?;p@あφt89гおpjhgせw■■■■□□――!! それは声だったのか。理解出来ない、人の範疇を超えた何か。 鼓膜を震わせる衝撃が――背を抉られる様な衝撃を受けた未明の耳に、館の全てに、響いた。 ● 「……何や、今の」 エントランスの壷を覗き込んでいた椿は、顔を上げる。数々のオカルトを嗜む彼女にとって、この『リアルな夢』は一種のアトラクションに過ぎなかった。 姿の見えぬ襲撃者の恐怖は、いまいちピンとこない。外見がグロテスクであれば、生理的嫌悪を催すものであればまだ分かる。それはぞっとしない。 けれど、全く見えないのであれば、『それ自体』は恐怖なのだろうか。 未だ理解し得ない椿の背中を、悪寒が走る。身に感じるそれは、紛う事なき危険信号(レッドシグナル)。 思わず屈んだ。目の前の壷が割れた。走る三本線。いや、四本線? 間違いない。『何か』はすぐ近くにいる。だが顔を上げた先の鏡には――椿以外、何も映ってはいない。 「ここで終わっても詰まらんしなぁ……!」 走り出す。コンパスの小さい足を全力で使い、扉を開き、 目の前にあったのは、暗闇。 生臭い。臓物の臭い。 鼻先にそれを感じながら、椿の意識は唐突に途絶えた。 息が上がる。全力ではないにしても、蓄積すれば疲労に変わった。 最初から『逃げる事』に主眼を置いた桐の背には、今や『何か』がぴったりと張り付いている。 扉を開いて、後ろ手で閉じた。更に隣のドアを開きっぱなしにして、逆側のドアに飛び込んだ。 うまく引っ掛かってくれたのか、気配が遠ざかっていく。 息を吐いた。落ち着ける為に速度を緩め、歩きへと変える。 「追われて逃げる。理由と目的は十分ですね」 だが、それはいつまでなのか。出入り口を目指してはいるものの、桐の行く手に広がるのは只管部屋と廊下だけ。だとしても、隠れる事は思考にない。 次の扉も越えて、更に走って走って、考えてドアノブに手を伸ばした桐は、木製の扉に突然入った亀裂に目を上げる。 逃げる暇はない。扉を食い破って、現れた『それ』が、桐の体に食い込んだ。 丁度別の扉から出たばかりのミミミルノは、襲われる光景を見た。まるで存在自体がまやかしのように、体の半ばから引き裂かれて消える桐を。 こわくない。ぜんぜんこわくない。サポーターを目指す身としては、怖がっている人を助けないといけないのだ。立ち止まる訳にはいかない。そうだ、こわくない。こわくな、……。 「む、りですっ」 目を閉じて屈んだミミミルノの体は、何かに弾き飛ばされたかのように宙に浮いた。 月光が唯一の光。 扉を全て閉ざされた廊下で、小鴉はぱちりと眼を開く。 手を壁に付ける。冷たい石の感触。冴え渡る月光は青白く冷たく……道を示してはくれるが、安らぎとはならない。がたん、と遠くで聞こえた気がする。誰かが後ろにいる気がする。 「やべぇな、ドツボに嵌ってる気がするぞ」 どこまで気のせいなのか、どこまで本当なのか。ともかく探し物を引き当てるか、朝まで逃げ延びるかしない限り、鬼ごっこは捕まって終わりだ。 小鴉は息を吸って、歩き出す。その背に気配が迫り来るのを感じながら。 「はい、シュスカ・イン・ナイトメアです。いや~怖いですねえ」 「何その恥ずかしいネーミング」 どこかうきうきとした調子さえ見せる竜一に、シュスタイナは溜息を吐いた。可愛い可愛いと言いながら握られる手は、悪態を吐きながらもとりあえずそのままにさせておく。別に、怖いからではないのだ。ここでぐだぐだしてても面倒なだけで。そういう事で。 「んー、普通にエントランスから回ってみましょうか?」 「うむ、保管していたアーティファクト、という事から増築した部分にはないと……」 竜一の言葉が止まる。握った手が、少し強く引かれた。同時に、灯りが消える。一つ。二つ。三つ。 「結城さん、早く逃げ……」 「くっ、シュスカたん、ここは俺に任せて行くんだ!」 消え逝く明かりに目を向けるシュスタイナの手を離し、竜一はその背を押した。瞬間躊躇ったシュスタイナだが、すぐに走り出す。 「朝まで絶対逃げ切るから、足止め宜しくね!」 「任せろ、俺が信じる君を信じろ!」 緊張を解すためか、どこか芝居がかった調子で親指を立てる竜一を振り返らず、シュスタイナは小さな扉を抜けた。灯りが消える。竜一の周囲が、暗闇に閉ざされる。 「へっ! こいよ、バケモノ!」 両手を広げた竜一の耳に――骨の折れるような音が、首から聞こえた。 「よ、良かったですね、かわいい僕を追っかけまわす事ができるんですよ」 震える足で、萵苣は床を蹴った。暗闇を抜けた先で見たのは、消えていく月光。判断は早かった。即座に背を向けて走り出した。 生き延びるのに大切なのは、一つ。諦めないことだ。生存本能に従い、諦めず逃げるのだ。 この夢で、萵苣の判断は間違いなく正答の一つだっただろう。 けれど時に、運命は人を裏切る。縺れた足が、萵苣を床に倒した。背に何かが乗る。 萵苣の叫び声が、廊下に木霊した。 びくん、とまおが跳ねる。そんな彼女の背を、ヘンリエッタは優しく叩いた。 「まお、はここ、こここわくなないです」 「大丈夫。何があっても絶対傍にいるよ」 裾を掴んでこくこく頷くまおに、ヘンリエッタは微笑んだ。震える自らの手を悟られないように、小さな手をぎゅっと握る。温かさは、まおにもヘンリエッタにも強さを与えてくれるはずだ。 アーティファクトを探して壊せば、この悪夢は終わる。 だから大丈夫、大丈夫。手を握ったまま、二人はゆっくり扉を開いて廊下を駆け出した。 開いた扉に、夏栖斗は飛び込む。大した距離ではないのに息は既に切れていて、己の無力を思い知った。そのせいで、届かなかった数々も。 けれど、無力だから無価値という訳ではない。きっと、何かは出来るはずだ。 息を吐いた夏栖斗の横の扉が、開く。 「!」 「……おっと」 駆け出す準備をした夏栖斗の前に現れたのは、鉅だ。人の姿をしていても、追われる疑心暗鬼は一瞬の警戒を齎し――それが鉅にとって致命傷となる。 夏栖斗の目の前で、鉅の胸に穴が開いた。血も飛ばず開いた穴の後ろには、何も見えない。 今度は迷わず、来た扉へと駆け戻った。背に気配を感じる。『何か』が後ろに張り付いてくる。 けれどそれは、望む所。 「見つけてやるよ、お前自身を……!」 誘導の先に、『お前』……限りない恐怖を受けてしまったアーティファクトがいると、信じながら。 鬼ごっこではなく、かくれんぼ。 見つけてやろう、『彼』を。 明るい鼻歌、水音。 ホラーと言えば無駄なシャワーシーン。ならばアイドルたる明奈以外に誰がそれを行うというのか。 「ギロギロさんもぱんつで入ればいいよー」 「ギロチンさんってば役得ー!」 「ははは勘弁して下さいガチで捕まりますから」 猫足バスタブに釣られて現れたとらと一緒に、扉向こうのフォーチュナをからかいながら明奈は天井を向いた。視聴者サービスサービス。湯気もちゃんと仕事しているので全年齢問題なし。 「よーし、バスソルトいっぱい入れるよ☆」 棚に手を伸ばすとらから、明奈が一瞬視線を外したその瞬間、明かりが消えた。 ぼぢゃん。重い物が水に落ちる音に思わず飛び上がるが、とらがバスソルトを袋ごと落としたのだろう。そうだ。大丈夫だ。明り取りの窓から入る僅かな光に目を慣らしながら、声を掛ける。 「やだな、こんな暗かったら折角のサービスシーンも無駄だよね、え……?」 返事がしない。目が慣れてくる。誰もいない湯船にぶくぶく浮かぶ泡。底から浮かび上がってくる色。黒い色。バスソルトが溶けたんだ。そう決まってる。とらは湯船に沈んで隠れたのだろう。その内息切れして顔を上げるに違いない。 だからそう。 いつの間にか生温い水を垂れ流すだけになったシャワーヘッドを強く握り、振り被る。 それを打ち付けるより早く、明奈の視界は反転し――次いで、完全なる暗幕に包まれた。 義光は寝室で、気付かず荒くなった息を抑えていた。 この場にいる『自分以外』の存在。振り向いてはいけない。確かに、何かがいる。 振り向いてはなら、 コン、コン。 「――!?」 響いたノック。思わず振り向いた義光の目には、何も映らなかったけれど――『死』の予感は、その鼻先に香って、すぐに消えた。 扉が、開く。 「……?」 『誰もいない』寝室に久は首を傾げた。確かに先程まで、物音がしたはずなのに。 そう、寝室には夜に思念が篭るはずだ。義光と同じ予想を立てた久は、部屋を一つ一つ覗いていたのだけれど、未だ誰とも出会っていない。 部屋を見回す。朝を待つ気はない。アーティファクトを破壊して終いだ。別に他意はない。早く仕事を済ましてしまいたい以外にはない。他意はない。繰り返すが、ない。 とは言え、物が分からなければ探索というのは捗らない訳で……『誰かが探索した跡のある』この部屋を再度探す必要性はあるまい。 溜息を一つ吐いて、『部屋に背を向けた』久を襲ったのは、とてつもなく嫌な予感。 駆け出すよりも早く、彼の首筋に、酷く冷たい何かの爪が、触れた。 客室の扉から身を出したリコルは、視界の先で久の姿が掻き消える様子に扉を閉める。 多い客室。その割には整っていない内装。誰かを招く気は、あまりなかったのだろう。 数多と増えたこの部屋を作った主は、ナイトメア・ダウンを引き起こし、無数の犠牲を積み上げたミラーミスの圧倒的な力に、恐怖と傷を刻まれてしまったのだろうから。 気の毒な話だ。悪夢を延々と見続けて、現実の境目を失ってしまった。 近付く気配に息を殺しながら、クローゼットと窓をほんの少しだけ開ける。 そして自身は、ベッドの下に。絨毯の下を掌で探りながら、考える。 この洋館の中核をなすものとは、何なのだろう。鍵か、はたまた災厄を振り撒き希望だけを残したパンドラの箱か。 分からない、けれど。ベッドの傍らで止まってしまった気配に、リコルは目を細め……一か八か、駆け出した。 応接室の椅子に座った状態で、五月はぱちりと目を覚ます。些か埃っぽいその部屋。 「洋館で巻き起こるミステリー、ですね」 黒を基調とした五月の服装は、どことなくこの洋館の不気味な雰囲気にもそぐう。さて、このま無事にメイドが謎解き――となれば良いのだが。 「日記とか写真とか、貴重品とか……」 謎を解くのに過去を探るのは重要だ。そこから違和感を導き出して、見つけ出せれば。そう考える五月の耳に、がりがりと壁を引っ掻くような音が聞こえた。 危険の予兆に最も暗い場所……暖炉の中へと、潜り込む。次いで、壁が壊される音。 息を殺す五月。が、気配は暖炉の前で、ぴたりと止まる。気付かれて、いる。 覚悟を決めた五月は、暖炉の上部、煙を逃す煙突を登るべく手を伸ばすけれど――その足を、何かが掴んで引き摺り下ろした。 壁を引っ掻く音は、隣の子供部屋で遊ぶ黎明にも聞こえている。 「おもちゃいーっぱいで、すてきすてきね、とってもすてき!」 けれど気にした風もなく、些か古びた人形を手に黎明は笑った。無目的に逃げ回るのは好きではない。逃げて逃げて疲れてしまうのは好ましくはない。だからか弱い女の子の黎明は、お部屋で大人しく人形遊びをして過ごすのだ。 けど。『何か』はそれを見逃してはくれないらしい。黎明は包丁を手に握る。おままごとの包丁だ。殺傷力なんて欠片もない。それでも死ねない。生き残る。 「こんばんは、ご飯はいかが!」 包丁を逆手に構えた黎明は、ゆっくりと開いた扉に向かい――そう、笑った。 カーテンが揺れている。闇に多くを支配された廊下は、糾華とリンシードの足を瓦礫と言う障害物で遮った。 類稀なる感覚を人を離れた能力を知った後で失うという恐怖は事の外、糾華の精神を追い詰めるに足るものだった。いや。それは『本来の』彼女を現すものだったのかも知れない。 弱々しく感じる糾華の手を強く握り、リンシードは聞こえた音から離れるように走り続けた。息切れする体に飛び込んだ先は、無数の人形が並ぶ部屋。子供が抱くのに丁度いいサイズから、糾華やリンシードを越える大きさまで、大小も和洋も様々な人形が置かれている。 仲間がいっぱい。本当に小さな声で呟いたリンシードに、糾華は眉を寄せる。仲間、であるものか。こんな状況で、こんな部屋に、彼女と一緒になんて来たくなかったけれど……生憎、ここは行き止まりだ。気配が消えるまで、隠れるしかない。 「大丈夫です、お姉様……」 「……ありがとう、リンシード」 糾華の笑みは、ほんの少しぎこちなかったけれど。リンシードも、笑っている。それは無機質な瞳をした、部屋の人形とは違う。 「大丈夫よね? 貴女と一緒なら……大丈夫よね」 「はい。私の手を握っていれば、一晩なんてあっという間ですよ」 糾華の髪にそっと触れた手は、温かかった。 息が切れる。何かが追いかけて来る。 転びそうになりながらも必死で走るアリステアに、涼は目を細めた。 「アリステア。キミは先に行くんだ」 「……やだ。一緒にいるもん」 涙声で、それでも首を振る彼女の手を涼は強く引く。押し出すようにして前にやり、姿は見えねども、追いかけて来る何かに向けて両腕を広げた。この先には、進ませまいと。例え一秒でも、彼女が逃げる時間を作ろうと。 衝撃は一瞬だった。何かの爪か腕かに薙がれた涼の首から上は掻き消えて――立ち止まって、目を見開いてしまったアリステアの網膜はそれを最後に焼き付けて、途絶えた。 「来た来た来た来た来たぁ……っ!」 探る内に現れた気配。恐怖で思わず笑い出しそうになりながら、机を跳び越え椅子を蹴倒し魅ヶ利は走る。だが、足音は止まらない。壁を引っ掻く音がすぐ傍で聞こえる。 「……ふむ、ここまでじゃな。割と楽しめたぞ」 少々裏返った声は、息切れのせいにして。魅ヶ利はぎゅっと、目を閉じた。 足音だ。背後から、左右から、足音が聞こえる。迎え撃てない。戦えない。それでも。 「群体筆頭アノニマス、有象無象で結構」 扉を目前に、弐升は振り返る。手には途中の部屋で拝借したインク壷。 最後の最後に、端役だとしても、一太刀浴びせなければなるまい。 「舐めるなよ」 駆け回る気配が、一つ途絶えた。 同時に勢い良く開いた扉を前に、セッツァーは目を閉じる。 ここに残るそれが少しでも安らぐならば、彼は恐怖ではなく鎮魂の為に声を発そう。 魂が安らかに眠る為の、子守唄。 流れ出すそれが、しばし部屋に満ち――そして唐突に、途切れた。 部屋にはもう、誰もいない。 ● 「此処が物置、か……?」 蝋燭を手に物置を目指して歩いていた拓真は、その部屋の異様さに足を止めた。 日常を写した無数の写真。小指の爪よりも小さな文字で、壁に床に天井に掘り込まれた祈りの言葉。洋の東西を問わず、数多の宗教の聖句がびっしりと刻まれていた。 もしこれが、本当に存在する部屋だったならば、どれだけの手間と時間が費やされたのだろう。中心に置かれたソファーは色褪せてくたびれている。 主は仲間の写真と祈りの言葉に囲まれたこの部屋で、何も無いこの部屋で、ソファに座って只管朝を待っていたのだろうか。それは、正気の域に含まれる行為だったのだろうか。 思わず一歩引いた背に、何かが当たる。振り返った先には――。 「……悠月?」 「拓真?」 「お邪魔して悪いね、俺もいるよ」 思わず顔を見合わせた二人に、快が手を上げて笑う。 「そうか、だが此方は何も……」 三人の耳に届いたのは、咆哮。決して友好的ではないことだけが伝わる音。扉は、部屋を抜けた先に三つ。音は大きくなっていく、足音は大きくなってくる。凄まじいスピードで、迫ってくる。 拓真が投げようとした蝋燭を、快が奪う。瞬いた彼に、快は笑った。 「行け。振り返るなよ!」 そのまま、快は駆け出した。足音の聞こえる通路の直線上、最も追い掛けられる可能性の高い場所へ、目立つ灯りを持ち。 「……ああ、何が何でも生き延びてやる!」 拓真の声が聞こえ、二人が左右へと別れた足音が聞こえる。そうだ、それでいい。一番大きな足音は、快の後ろだ。 「――こっちだ、来いよ!」 例え、戦う術がなくたって、無力だって。誰かを護る事はできるから。 間近に迫る足音に向けて、最後の意趣返しとばかりに、快は振り返らず蝋燭を放り投げた。 「い、今の声……」 落ち着かなさげに視線を動かした木蓮に、龍治はそっと口の前に指を立てた。 静かに。その仕草にはっとした様にこくこくと頷いた彼女に、龍治も頷きを返す。 龍治の最優先目標は、二人で逃げ延びる事だ。不利益を招く行為は、可能な限り最小限にしなくてはならない。ハンドサインを提案した龍治に感心したように木蓮は目を輝かせていたが――実際、無力な人間として追い掛け回されるような場所に立つのは龍治とて初体験であった。先を覗き、物音が遠いのを確認すると指で手招く。 それを幾度繰り返しただろうか。時折聞こえる『人』の声は、仲間のものだろうか。 気配が近い。すぐ傍にいる。少し震える木蓮を、龍治は抱き寄せた。 落ち着かせる言葉も掛けられないが、温もりは安心となるだろう。 大丈夫。傍にいる。木蓮もその手に、自分の手を重ねた。 守りたい。守られて嬉しい。どちらも欠けて、なるものか。 だから軽く笑って、手を握る。 仕草の意味は、全力で逃げろ。 一呼吸だけ、タイミングを合わせて――龍治と木蓮は、一斉に駆け出した。 「ギロチンちゃん、怖かったりしない?」 「ぼくは嘘吐きですけど、怖くないって言ったら嘘になりますね」 「じゃ、仕方ないなあ!」 扉の先で出会ったギロチンの手を、ルナはぎゅっと握った。ルナはこう見えてもギロチンよりずっと長く生きているお姉ちゃんなのだ。だから怖くても言う訳にはいかない。 そう、それに。 「ねっ、ギロチンちゃん、怖いだけなんてつまらないよ。楽しいもの、探そう?」 持ち前の好奇心か、どこかワクワクしているのも否めない。追いかけられて、怖がって、それで終わりなんて勿体無い。だからいっそ、楽しいことを探してみよう。 「じゃあ、次に合流するまでに、探しておきましょう」 「うん、ちゃんと逃げるんだよ!」 迫り来る気配。二股に分かれた道。一瞬だけ目配せして、二人は笑い合った。 床を抉る足音が聞こえる。追い詰められた先は、何もない部屋だ。 息せき切った様子に振り返れば、そこに居たのは。 「夏栖斗!?」 「虎鐵!? 逃げ、」 体は勝手に動いた。叫ぶ息子の手を引いて、虎鐵は入れ替わるように前に出る。 振り向いた夏栖斗の先で、虎鐵の姿が一瞬で消えて――そして夏栖斗の視界も、闇に堕ちる。 姓は再び、廊下を駆けていた。 「こういうときは、二人で行動するに限りますわ」 そう言っていた由良とは、先程別たれた。足に自信はある、と笑った彼女だったが、恐らくこの分では、捕まったのだろう。 曲がりくねった廊下を走って、扉を抜けて、只管撒こうと走るけれど、気配は張り付いて離れない。横道に白い姿を見つけ、追おうとした姓に、とうとう、手が伸びた。 夢だ。そう思えば、そんなに怖くはないだろう。 そう考えていた寝る前の自分を殴り飛ばしたい。 悠里は歯の根の合わない体を叱咤し、必死で館を駆けていた。アーティファクトを探す余裕なんてありはしない。彼の元来のその性質は臆病に寄る。無力な状態で追い回されて平静を保てる程に精神力は強くない。近付いてきた足音は二つあったような気もしたが、定かではなかった。 飛び込んだ先の部屋に、蝋人形が並んでいる事に顔を一瞬引き攣らせるも、背に腹は変えられぬ。 息を殺して、足音が遠ざかるのを待つ。遠くなった。離れて行った。 が、顔を上げた悠里は奇妙な事に気付く。蝋人形が、全て悠里を見ている。入った瞬間からそうであったか? そんな筈はない。けれど居並ぶ人形が、熱の通らぬ視線が彼を見ている。 瞬いた。 気のせいだ。悠里の方を向いているのは数体だけ。疑心暗鬼に苛まれている。安堵に溜息を吐いて、部屋を出て――ぞわりと全身に鳥肌が立つ。 あいつの気配だ。腰が抜けたようになって、うまく走れない。 早く、早く、早く早く早く朝に、朝になって、でも、それで? はた、と悠里は気付いてしまった。立ち止まってしまった。 また、夜になったらあいつが来るのに。 朝を待って、どうなるんだ? ● 明日の夜は本当にあの化け物が来るかも知れない。 明後日の夜は本当に殺されるかも知れない。 明々後日の夜は、夜がこないかも知れない。 これは夢と安心していたら現実かも知れない。 次は、本当かも知れない。 ● ぼんやりとした牙緑の意識。この部屋は見覚えがある。前に来た事がある。 さて、いつ来たのだろう? 誰かと話していて、『彼』は先程席を立って――。 ぱちり。目を瞬かせた。豪華な調度品。柔らかなソファー。けれど部屋は、どうしようもなく不気味だ。 「……ヤバい」 何を思い出せなくとも、それだけは思い出した。逃げなければならない場所であった。 ソファから勢い良く立ち上がり、玄関へと。ここから逃れなければならない。 けれど。足が、うまく進まない。俊敏であるはずの動きが、奪われたかのように動けない。 だとしても逃げなくては。あの扉の先には、玄関があるはずだ。 「……は」 微かに苦笑。扉の先は、見た事もない廊下と並ぶ扉の数々。けれど、逃げなければ。 逃れなければ――前を見据え、走り出す彼の背に、何かが齧り付いた。 長い。 廊下は只管、長かった。気配がずっと、付いてくる。 苛立ち紛れに叩いた壁。常ならば炎を纏い、石壁を砕くはずのその拳は、鈍い音を立てるだけ。拳が熱い。酷く痛む。 「なんだってんだ! オイ!」 音は近付いてくる。どうして自分は逃げるのか。戦えばいいだろうに。 舌打ちをする火車の視界に、人影が映る。 「誰だ!」 「ひっ……!」 「朱……」 呼びかけた名。違う、と吐き捨てて、逃げようと勧める黎子に首を振った。 「冗談じゃねんだよ! 逃げん! 戦う!」 「た、戦って、勝っても死んじゃったら意味ないでしょう……」 叫ぶ火車とは対照的に、黎子は首を振って嫌だと呟く。その間にも気配は、すぐ傍に迫っていた。戦う気が彼女にないのは、明白だった。 「クソ……!」 逡巡は、ほんの一瞬。火車は、黎子の手を取り駆け出した。 近い。近い。一方的な鬼ごっこは、現状鬼が強いらしい。 優希は駆けながら、心を蝕む圧迫感と絶望を振り払った。捕まれば一撃で終わり。死んでしまえばそこで終わりと言う絶望。 それと戦う術など、今の優希は持ち得ない。力を持っていたって、それはいつだって付き纏う。 だから、戦いは特別な力を持たずともできるのだ。今回は、生き抜く事。 拳でもって迎え撃つ事だけが、戦いではない。 故に彼は走る。走る。 「俺は、戦う事を諦めはしない!」 ドアノブを握った手が、『何か』に背から引き摺られて引き剥がされた瞬間も。 優希はそう叫んで、前を向いていた。 まおの喉の奥から声が漏れた。怖くない。嘘だ。怖い。怖い。手元が震える。小さな金庫は開け放たれて、中にあるのは恐怖を綴った無数の紙。 昼ならばそこは、明るいのだろう。大きな窓からは、冴え冴えとした月光が差し込んでいた。 けれど、カーテンに隠れたその『向こう』に、何かがいる。 「ヘンリエッタ様」 「オレが、守るから」 ヘンリエッタがそっと、まおを胸に抱いた。硝子の割れる音は、その数瞬後。 硝子の破片が、月光にきらきらと輝く光景を最後に……まおの視界は、暗くなった。 「この書斎を調べるつもりだけど、ご一緒にいかが?」 既に息の切れ気味のフォーチュナにそう笑って珠々璃は手招く。 悪夢の中に存在する本。一体何が記されているというのか? 好奇心であり、アーティファクト探索の手がかりになるかも知れない。 「これは普通ね。そっちはどう?」 「図鑑とかですねえ」 とは言え、考え自体は冷静でも怖くないわけではない。だからこのお喋りフォーチュナがいたのは幸いと言えよう。だが、机の上の本、手書きのそれに手を伸ばした途端、背後から声とは違う大きな音。 「ひゃ!? ちょ、ギロチンさ……え?」 ドミノのように傾いた本棚の向こう、先程までいたはずの背の高い姿が、いない。 同時に、足音が聞こえる。ギロチンではない。もっと大きな、何かだ。 珠々璃はぎゅっと胸に日記を抱いて、書斎を飛び出した。 握る手。がっちりと握られたそれは、些か動き難いけれど……普段とは違う姿も、また一興。 「怖いの大丈夫って」 「幽霊自体は怖くない」 喜平の声を途中で遮り、プレインフェザーは首を振った。幽霊が怖くないのと、『いきなり脅かされる』のに耐性があるのとはまた違う。 「! 今のは……いや、気のせいだろ」 「……楽しんでるな?」 いやいや。そういえば前にこんな洋館に肝試しに言った連中の話を聞いてね? 恐怖を紛らわすためかはたまたプレインフェザーの怯える姿を見たいのか、確実に後者な訳だが手は離さずに喜平は棚や扉を開けていく。 表情は変えないまでも、時折強く握られる手に軽く笑っていた喜平は、けれど唐突に、プレインフェザーを抱き上げた。 「え、おい」 「夢の中だとしても……大事な人の一人ぐらいは、何とかね」 いきなり俗に言うお姫様抱っこをされて、本日一番の驚いた表情をした彼女に唇を上げて微笑み――喜平はカンテラを投げ捨てて、階段を目指して駆け出した。 握る手が汗で滑る。燭台を囮に駆けるひよりと雪佳の背後には、足音が迫っていた。 ひよりが躓いたその瞬間、手が離れる。 「ひより!」 声が遠い。暗闇で手を伸ばしても、そこにいない。 どこかの部屋に入ってしまったのか、道が別たれてしまったのか。 足音は大きい。雪佳のものではない足音がする。すぐ近くで。いけない。逃げて貰わないと。 そのまま遠くへ、気付かずに遠くへ。逡巡から口を噤んだひよりの耳に、歌が届く。先程は笑って流された、ひよりの歌が。 雪佳の歌が近付いてくる。消えていないと、ここにいると呼ぶ確かな証。 「にゃー……」 聞こえた声に向けて伸ばした手。触れ合う温もり。 少しだけ目が慣れて、涙の向こうに雪佳を捉えたひよりの視界が、暗く染まった。 ● ほんの少しの油断もならない。暗闇は、無数の罠を仕掛けている。 「フフフ……まさかここまで凶悪なお化け屋敷とはな」 「ごめんなさいシビリズ、痛かった?」 「聞く前にどいてはくれないか」 「シビリズ様、羽衣様、大丈夫でございますー?」 下へと通じる穴が存在したのだろう。手を握っていた勢いのまま、シビリズと羽衣の二人が転落した。この分では、二人とも無事そうだが……どうしたものか。離れてしまった手を求めて彷徨わせる。指先に触れた。伊藤だろう。 どうするか考えるべくぴこぴこ揺らした永遠の耳に届く、涙声。 「ううう。こわい、こわいよ……永遠さん、手を離さないでね絶対離さないでね約束だよ!」 伊藤だ。 それは間違いない。 けれど。 もちろん、と返そうとした永遠の声が止まる。シビリズと羽衣の声は階下から聞こえた。 伊藤の声は『前から』聞こえた。 じゃあ 今、『隣で』永遠の手を握っているのは だぁれだ? 握られた掌が、めきゃりと嫌な音を立てた気がしたが、 永遠に声を上げる暇は、なかった。 「……永遠さん? どうしたの、手が冷た」 そんな伊藤の声が、遠くに聞こえる。 「永遠さん? 永遠さん!? やだよ、なんで、誰だよお前――!?」 隣にいるのは、だぁれだ。 「館モノのホラーって、何でドアとか窓を壊して逃げないのかなって疑問だったのよね」 「真っ暗な屋外を走るのと室内とどっちがマシかって事ですかね……」 「この前見た映画なんて、罠を逆手にとってボコボコにしてたわよ」 「何の映画ですかそれ」 本棚の先、抜け道に押し込められたギロチンを引っ張り出したエレオノーラは軽く笑った。 「あら……?」 拾い上げた日記。それは珠々璃が持ち出した一冊。捲ろうとするが――響く足音。息遣い。 咄嗟に机に隠れ潜んだエレオノーラは、くすりと笑う。こんな風に隠れるなんて、まるで母のお気に入りの皿を割った時の様ではないか。 子供の頃のそれは、今の状況に足る恐怖だったのだろうか。足音。気配。血の臭い。止まる足音。 「ギロチンちゃん。どっちが追いかけられても、恨みっこなしよ」 「ええ、勿論」 シビリズと羽衣は、小さな明かりが灯るだけの地下通路を走っていた。 上から聞こえた伊藤の絶叫。顔を見合わせた彼らは走り出し、気配に付き纏われながら長い通路を走っていた。 見える扉。一本道。襲撃者は早い。曲がりくねった道ならばともかく、直線での勝ち目は。 考える。羽衣はくるりと振り向いてシビリズを背後に押し出した。 「かみたそばりやー!」 説明しよう。かみたそバリヤとは神々の黄昏(ラグナロク)を使う(だが今回は使用不可)のシビリズを盾にする行為だ! 「ごめんねシビリズ、羽衣、羽衣の身が可愛いの……!」 「これはバリアではなく肉盾というかいけに」 え。 最後の一音を残さずに、羽衣の掌から重さが消える。熱が消える。唐突に。ごぎゃり。聞こえたのは何の音だろう。夢だとしても、余り考えたくはない。無駄口を放棄して踵を返す。無駄口を叩く相手は、『もういないに違いない』のだから。 金属の輪を掴む。開いた。が、そこは階段だ。斜めに傾ぐ羽衣の体を、何かが掴んだ。 鋭い鉤爪があった様にも、岩の様にも、太く強い獣の様でもあったけれど。 首元に熱い何かが走って、羽衣の感覚はそこで終わった。 亘は、廊下を駆けていた。逃げっ放しは性に合わない。けれど横道から顔を出したエレオノーラが、彼に向けて本を放ったのだ。一瞬だけ目の合った彼は、何かに引きずり込まれるようにして横道に消えてしまった。 だから、亘は走っている。走りながら、渡された日記を捲くる。最後のページには、ほんの僅かな言葉だけが記されていた。 あそこで、待とう。 地の底で、共に朽ちよう。 つまり、これは。読む為に下がったスピード。傍に迫る息遣いに、亘は叫ぶ。 「地下室に!」 亘の声が、廊下に響く。 誰かに伝わっただろうか。この声は、誰かに届いただろうか。 そうだ。届いた。そう信じる。誰かの助力になったのだと。 ● 足が縺れる。握った手は、自分が躓いたせいで離れてしまった。 鼻を啜って走る。足が縺れる。終わりか。彼の足を引っ張って、それで終わりだ。 ごめんなさい。その一言も伝えられなかった。息が切れる。走れない。 僅かな段差に再び躓いて、終わりだと目を閉じた瞬間、黎子の手を誰かが引いた。小さな隙間に引き寄せた。目が、赤を捉える。 目を見開いた黎子に対し、火車は些か不機嫌そうに、口元に指を当てた。 気配が、横を走り去って行く。闇が少しだけ、薄らいでいた。 蝋燭が灯る机に、本が置いてある。 広げられた本。ここで綴られた主の最後の日記。恐怖の集大成。 描かれているのは恐怖。喪失の恐怖。強大な存在への恐怖。無力な自分への恐怖。 「……悪夢の残した傷跡の、一つ」 ナイトメア・ダウン。正しく悪夢に相応しい『現実』を齎した埒外の絶望。 悠月が地下室を選んだのに、確たる理由はない。だが、多くが隠れ潜むのに適していると思う場所を、恐らく『彼』も選んだはずだ。 日記は、三分の一を残して終わっていた。扉の入り口に、気配。 暗闇では、『絶望』が待っている。 悠月は、ゆっくり目を閉じた。 「この絶望の夢は、終わりです」 ページを蝋燭の火に翳す。あっという間に、火が回る。 断末魔はなかった。 静かに、一人の男の絶望は――燃えて消えた。 眩しさを感じて、美月はぼんやりと目を開く。 何かに追いかけられて、走って逃げて……そして、ここは? 目を擦る。どうやら廊下だ。朝だ。気配はしない。何の気配もしない。誰の気配もしない。 「ね、ねえ……みんな、どこ……?」 どこまで、夢だったのだろうか。 どこから、現実なのだろうか。 分からない。 けれど、夜は明けて――わるいゆめは、これでおしまい。 目を擦りながら歩く美月の行く先を、朝日が照らす。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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