● 今朝も、いつも通りに家を出て、同じ時間の電車に乗った。 満員電車に揺られながら、小さく溜め息をつく。ポケットから黒い石のブレスレットを取り出し、右の手首にはめた。金運や仕事運が良くなるお守りらしいが、どうにもご利益は薄いらしい。 妻には、仕事を失ったことを未だに言い出せずにいる。息子も、まだまだ手がかかる年頃だ。ただでさえ家事や子育てに追われている妻に、余計な心配をかけたくない。 とはいえ、誤魔化し続けるにも限界があるだろう。早いうち、新しい職場を見つけなければ。自分の肩には、親子三人の生活がかかっているのだ。 もう一度、今度は深く溜め息をつく。 ふと視線を上げると、網棚に置いてある鞄がやけに目についた。 そして、何故か確信する。この中には、現金の入った封筒がある――と。 その直後、電車が駅に着いた。俺の心に、悪魔が囁く。 ――今なら、この鞄を持ち去っても誰にも気付かれない。 俺は素早く右手を伸ばし、鞄を手に電車を降りる。 鼓動は激しく高鳴っていたが、自分でも驚くほどスムーズな動作だった。 周囲の誰にも気付かれることなく、俺はまんまと鞄を盗むことに成功する。 鞄の中には、やはり現金の入った封筒があった。 引き返すなら今のうちだという声と、これも家族のためだという声が、心の中でせめぎ合う。 葛藤の末に、俺は自分の新しい『仕事』を決めた――。 「新しい職場はどう?」 空になったグラスにビールを注ぎながら、妻が言う。 「まだ慣れないが、滑り出しは順調だ。給料も上がるし、これからは楽をさせてやれる」 俺が『仕事』を始めて数日。妻には前の職場を辞めたことをようやく打ち明けたものの、新しい『仕事』の真実は告げていない。こればかりは、話すわけにはいかなかった。 あれから気付いたことだが、どうやらこれは例のブレスレットの力らしい。 ブレスレットを身に付けていると、現金や金目の物がある場所と、それらを『安全に手に入れられるタイミング』がわかる。驚くことに手先も器用になるようで、財布をポケットから抜き取るくらいの芸当は難なくできるようになった。当然、誰にも気付かれはしない。 かくて、俺はスリや置き引きで生計を立てることにしたのだった。 人の物を盗んでいるという罪悪感はあるが、この不況では職を探すのも簡単ではない。 一家三人が暮らしていくための収入を得るには、現状ではこれが一番手っ取り早い方法だ。 「……ねえ。あなた、まだ隠し事してない?」 ビールの瓶をテーブルに置いた妻が、俺の顔を覗き込む。 俺は内心でどきりとしたが、平静を装って答えた。 「クビになったことを隠していたのはすまないと思う。でも、それだけだ。 ちゃんと仕事も見つけてきたし、心配するな」 「あなた、何でも一人で抱え込もうとするでしょう。 今度からは、ちゃんと言って。私だって、働くことはできるんだから」 「ああ」 後ろめたい思いを抱えつつビールを飲み干し、空になったグラスを置く。 瞬間、右手首にはめていたブレスレットから黒い靄のようなものが湧き上がった。 「な……っ」 驚く俺と妻の前で、黒い靄が三つの塊に分かれる。 その一つ一つが、鴉の頭を二つ持った『悪魔のような怪物』へと変化を遂げていった。 「何これ……」 呆然と呟いた妻を、悪魔たちが睨む。 「――郁子(いくこ)!」 俺は反射的に妻を突き飛ばし、悪魔たちの前に立ちはだかろうとした。 激痛が胸を貫き、妻の悲鳴が鼓膜を震わせる。 急速に視界が暗くなる中、リビングのドアが開く音が耳に届いた。 「お父さん、お母さん……?」 息子の声を聞き、最期の力を振り絞って叫ぶ。 「……逃げ、ろ……幹泰(みきやす)……っ!」 そして、俺の意識は永遠の闇に堕ちた。 ● 「急ぎの仕事だ。一刻を争うんで、ブリーフィング後すぐに出発してくれ」 集まった顔ぶれを見て、『どうしようもない男』奥地 数史(nBNE000224)は挨拶もそこそこに説明を始める。 「任務はアーティファクトの破壊と、それが生み出したE・フォース三体の撃破。 加えて、現場にいる一般人の救出になる」 アーティファクトの仮称は『マモンの腕輪』。お守りとして売られていたパワーストーンのブレスレットが革醒したものだ。 「時間がないから簡単な説明に留めるが……こいつを持っている人間は、現金や金目のものがある場所を感じ取れる上、スリや盗みが簡単に行えるようになる。 ただ、所有者を含め周りにいる人間の欲望を吸収する性質があって、その思念をもとにE・フォースを無作為に生み出す、と」 ひとたび出現したE・フォースは、近くにいる人間に見境無く襲いかかる。それは、アーティファクトの所有者であっても例外ではない。 「『マモンの腕輪』を所有していたのは、和野則之(わの・のりゆき)という男だ。 職を失って生活に困り、腕輪の力でスリや盗みを働いていたんだが…… 結果、本人はE・フォースに殺され、妻子も命の危険に晒される羽目になった」 どんなに急いでも、則之を助けることはできない。 妻子を救える可能性は辛うじて残されているが、妻の郁子はE・フォースの攻撃で瀕死の重傷を負い、息子の幹泰は倒れた両親を見て呆然と立ち尽くしている。 少しでも対応が遅れた場合、二人とも確実に命を落とすだろう。 「現場は一軒家のリビングだ。普通に玄関から入るのでは間に合わないから、正面の窓から突入するしかない。場合によってはガラスを叩き割ることになるが、この際やむを得ないな」 リビングの中央に則之と郁子が倒れており、その近くにE・フォースが三体。入口付近に幹泰が立っている。広さはそれなりにあるので、E・フォースの脇を抜けて幹泰や郁子を庇いに行くことはできる筈だ。 『マモンの腕輪』は則之が右手首にはめたままだが、アーティファクトを壊してもE・フォースは消滅しないため、破壊は後回しにした方が無難だろう。 「――妻子に苦労させまいと選んだ道が、スリや泥棒ってのも皮肉な話だ。 だが、それで二人が犠牲になって良い筈はない。……最悪でも、子供だけは助けてほしい」 どうかよろしく頼む、と言って、黒髪黒翼のフォーチュナは深く頭を下げた。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:宮橋輝 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 2人 |
■シナリオ終了日時 2012年10月15日(月)23:24 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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■サポート参加者 2人■ | |||||
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● 血の海と化したリビングの床に、和野夫妻が倒れ伏していた。 入口で立ち竦む少年――夫妻の一人息子である幹泰は、もはや言葉もない。 鴉の双頭を生やした三体の黒き悪魔たちが、彼に視線を向けた時。『宵闇に紛れる狩人』仁科 孝平(BNE000933)が、窓を破って飛び込んできた。 室内の惨状を目の当たりにして僅かに眉を動かすも、迷わず夫妻のもとに駆ける。 事態は切迫しており、もはや一刻の猶予も無い。だが。 「……まだ、最悪の事態にはなっていません」 自分に言い聞かせるように呟き、瀕死の和野郁子を庇う。後続のリベリスタ達が次々に突入する中、『ジーニアス』神葬 陸駆(BNE004022)が幹泰の守りについた。 「安心しろ、これ以上の不幸はもう起こらん」 目をつぶらに見開いた少年に声をかけ、彼の前に立つ。できれば人払いの結界を使っておきたかったが、一分一秒を争うこの状況では断念せざるを得なかった。もっとも、極端に騒ぎを大きくしない限りは、近隣の住人に気付かれる可能性は低いだろうが。 一家の長であり、アーティファクトの誘惑に負けて悲劇の切欠を作ってしまった男――和野則之が既に息絶えているのは、誰の目にも明らかだった。 幹泰は辛うじて無傷だが、郁子は即死を免れたのが幸運と思えるほどの重傷だ。場合によっては、郁子を諦めて幹泰の救出に専念する必要があると全員が承知していたが、だからといって最初から見捨てるつもりは無い。 悪魔の姿をしたE・フォースのうち、最も郁子に近い一体に接近した『やったれ!!』蛇穴 タヱ(BNE003574)が、愛用の鋼糸“清姫”に自らのオーラを込める。その名が持つ伝説の如く、炎の蛇と化した鋼糸が赤い光を帯びた。 「どーだよ、この影野郎……アタシの清姫で燃えろ!」 高熱を孕んだ糸が悪魔を絡め取るも、状態異常への耐性を持つ敵の動きを封じるには至らない。誘惑の視線がタヱを射抜いた瞬間、彼女はカウンターで悪魔に傷を穿つ。 窓の傍に立った『いつか出会う、大切な人の為に』アリステア・ショーゼット(BNE000313)が詠唱を響かせ、室内を聖なる神の息吹で満たした。敵の攻撃を受けた仲間だけではなく、郁子にも癒しを届けて彼女の命を繋ぐ。『断魔剣』御堂・霧也(BNE003822)が、ガラスの破片を踏みしめながら敵に迫った。 荒っぽい突入になったが、家屋の被害に頓着する余裕はない。悪魔を睨み、霧也は斬馬刀を構える。 「……やってくれたな、クソ悪魔。テメェ等、勿論覚悟は出来てるよな?」 血の色に染まった刃が、タヱの前に立つ双頭の悪魔に喰らいついた。『シトラス・ヴァンピール』日野宮 ななせ(BNE001084)が、母子の脱出経路を確保すべく別の一体をブロックする。 「わたしが壁になりますっ」 彼女はそう告げると、“Feldwebel des Stahles(鋼の軍曹)”と名付けた巨大なハンマーに破壊のオーラを込めた。雪崩の如き勢いで繰り出された連撃が、悪魔を激しく打ち据える。残る一体に接敵した『住所不定』斎藤・和人(BNE004070)が、無骨な大型拳銃の銃把で敵を殴りつけた。 則之の遺体と、彼が右手首にしたままのアーティファクト『マモンの腕輪』を視界の隅に映し、「クビを誤魔化す為、ね」と呟きを漏らす。 和野則之という男の心情について、和人はある程度正確に推し量ることができた。 不安、恥、保身、情けなさ、逃避――それらで思考がないまぜになり、追い詰められていたとしたら、腕輪の力に縋るのも無理はないと思う。たとえ、明らかな犯罪行為とわかっていても。 「勿論罪は罪だが……同情しなくもねぇぜ」 鉄塊の如き大剣を携えた『紅炎の瞳』飛鳥 零児(BNE003014)が、ななせの前の敵を目掛けて走った。 「家族を想う気持ちは、本当だったはずなんだ」 盗みは決して許されることではないが、則之が必死に一家の生活を支えようとしていたのは理解できる。ならばせめて、彼の愛した妻子だけは自分達の手で救ってみせよう。 零児の闘気を集めた大剣が一閃し、黒き悪魔を吹き飛ばした。 ● 仲間達が道を開いたのを見て、陸駆は幹泰の腕を強く引いた。 倒れた両親を凝視したままの少年に、やや強い口調で声をかける。 「貴様の母も必ず助ける」 陸駆が指で示した先には、郁子を抱え上げるタヱの姿があった。体格差の問題で微妙に足を引きずる形にはなるが、細かいことは気にしていられない。 「でも……お父さんが……」 なおも動こうとしない幹泰を、陸駆は力ずくで引き離しにかかる。悪魔の放った呪いの炎が、少年を庇う陸駆の背を焼いた。 「お母さんについててあげて!」 邪を払う光で仲間の状態異常を消し去りながら、アリステアは幹泰に退避を促す。 「大怪我してるけど絶対に助かるから、お母さんに『頑張って』て声かけてあげて。 お父さんは……多分大丈夫だから!」 気休めに過ぎないと承知しているが、それでも言わずにはいられない。 和野親子を庇う二人を背に立ち、防御に徹するななせが“鋼の軍曹”を振るって敵を食い止める。悪魔の攻撃で手傷を負おうと、高い耐久力を誇り、自己再生能力を有する彼女が揺らぐことはない。 「ぜったいに助けないと、ですっ」 決意とともに、鉄鎚の柄を握る両手に力を込める。盗みを犯したとはいえ、ある意味では則之も『マモンの腕輪』の力にのまれた被害者と言えるかもしれない。 まして、何も知らない郁子と幹泰には何の罪もないのだ。夫や父を失った上に命まで奪われるのは、あんまりな仕打ちではないか。 自らを中心に複数の魔方陣を展開した小鳥遊・茉莉(BNE002647)が、爆発的に高めた魔力を一息に解き放った。高速の詠唱により実体化した黒き鎖が、空中から悪魔たちに襲いかかる。ベルギー製の自動拳銃“Five-seveN”を構えた『モンマルトルの白猫』セシル・クロード・カミュ(BNE004055)が、脅威の早撃ちで鴉の瞳を貫いた。 赤き魔具と化した斬馬刀を操り、霧也が悪魔に一撃を加える。暗黒の瘴気で纏めて薙ぎ払いたいところだが、敵味方の位置関係を考えるに今回は微妙に使い難い。 振り返り、陸駆に引っ張られるようにしてリビングを出る幹泰を見る。小さな肩が震えているのに気付いて、霧也は喉まで出かけた謝罪の言葉を飲み込んだ。 「――まだ泣くな、踏ん張れ。 今、傍に居てお前のお袋を守ってやれるのは、俺達じゃねー。……お前だ」 優しい言葉で心を救えるほど、自分は上等な人間ではない。今は、やるべきことを示して背中を叩き、少年が非情な現実に一時でも立ち向かえるように祈るばかりだ。泣き言や罵倒は、後でいくらでも聞いてやれる。 「やれるよな、男の子?」 念を押す霧也に、幹泰は小さく頷いた。その横顔を見て、タヱは複雑な思いに駆られる。金が無かったがゆえに、自分を残して消えた母親のことが、ふと脳裏に浮かんだ。 そして、『家族』を失ったあの日、ただ震えているしかできなかった自分の姿も――。 ぶんぶんと頭を振り、タヱはずり落ちかけた郁子の体を抱え直す。今は、生きている二人を安全な場所に逃がさなくてはならない。話は全部、それからだ。 リビングから庭に出た後、さらに家の裏側に回る。この場所なら、敵の攻撃が届くことはないだろう。 「……ねえ、お父さんは……?」 地面に寝かされた郁子の傍らに座り、幹泰が陸駆を見上げる。 陸駆は表情を変えることなく、「大丈夫だ」と告げた。 「ここでおとなしくしておくのだ。そうすれば怖いものはいなくなる。 絶対に戻ってきてはいけないぞ」 しっかり言い聞かせた後、タヱと二人でリビングに戻る。自分達の背を見つめる幹泰の視線を、陸駆は痛いほどに感じていた。 リベリスタ達は三体の敵をリビング中央に押し込め、ブロックを交えながら前衛で囲む形を取る。 敵の視線を外側に向け、かつ、一度に視界に入る味方の数を抑えることで、混乱を招く誘惑の視線の脅威を減らそうというのだ。家具などで遮蔽を取ることは難しいが、回復役の要であるアリステアへの射線を前衛で遮れば、状態異常で戦線が崩壊するリスクは極限まで抑えられる。 黒き悪魔の一体が、鴉の瞳で和人を睨んだ。則之を死に追いやった手刀が、翳した盾の合間を縫って和人を突く。あらゆる防御を貫き通す一撃が、彼の内臓を深々と抉った。 「――悪い、後ろに下がるな」 自らの運命を削って体勢を立て直し、後退しつつ愛用の大型拳銃を構える。銃口から飛び出した弾丸が、最も傷が深いと思われる悪魔を正確に捉えた。 リビングを出た和野親子が充分に離れたタイミングを見計らって、零児が敵に向き直る。 「これで敵の殲滅に専念できるな」 彼の闘気が爆発した瞬間、鉄塊の如き大剣が唸りを上げて双頭の悪魔に襲いかかった。鴉の黒い羽根が、暴風に翻弄される木の葉のように舞い散る。 「狙いを集中させていきましょう」 身体能力を極限まで高め、全身を速度に最適化した孝平が、敵のブロックを維持しつつ床を蹴った。多角的な軌道で壁、天井と跳び、頭上から黒き悪魔を強襲する。 肩口に鋭い斬撃を浴びせられた悪魔は、二つの嘴から怪鳥の雄叫びを放った。 ● 親子の避難を終えた陸駆とタヱが、割れた窓から再びリビングに戻る。 リベリスタ達は、回復を担当するアリステアを除く全員で敵に攻撃を加えていった。 「……革醒したアーティファクトってーのはホント碌なモノがねーな。 坂道から転げ落ちるように破滅に一直線じゃねーか」 血色に染めた斬馬刀で敵の活力を啜りながら、霧也が忌々しげに吐き捨てる。縦横無尽に宙を翔け、蜂の如く鋭い一撃を見舞う孝平が、視線を前に向けたまま口を開いた。 「まさか自分の入手したもので家族を危機に陥らせることになるとは、 則之さんも思いもよらなかったでしょうね」 その声色はあくまでも落ち着いていたが、孝平とて何も感じぬわけではない。 たとえば、仮に則之が独身であったなら。職を失った時、彼は『マモンの腕輪』に頼っただろうか? 家族を想う心が根底にあると思えばこそ、それが愛する者に仇をなした皮肉を感じずにはいられなかった。 「――滑稽な悲劇だ」 極細の気糸で悪魔の瞳を貫き、陸駆が呟く。 「強欲の悪魔にそそのかされ、挙句すべてを失うなんて救いがなさすぎるではないか」 再びE・フォースが生まれる可能性を考えて『マモンの腕輪』から撃ち抜いてやろうかとも考えたが、彼の立ち位置からは敵に遮られて射線が通らない。E・フォースは三体のみというフォーチュナの言葉を、今は信じるしかないだろう。 「和野則之の選択は間違っていた、しかし和野則之が守りたかった二人は僕の矜持にかけて守ろう」 万が一、幹泰が言いつけを破ってリビングに戻った時のことを考え、陸駆は入口と窓を警戒する。 完全なハッピーエンドは望めずとも、完全な悲劇を止めることが、天才たる自分の役目だ。 欲望を煽る誘惑の視線が前衛たちを射抜き、防具を貫く手刀が体力を貪欲に削る。 ほぼ同時、天から降り注ぐ砂金の幻が後衛に立っていたセシルを包んだ。たちまち呪いの炎が上がり、彼女の全身を焼く。運命の恩寵がなければ、おそらく戦闘不能に陥っていただろう。 アリステアが、癒しをもたらす聖神の息吹を仲間の全員に届ける。包囲の輪から離れ、窓際に立つ彼女の位置からは、血溜りに沈んでいる則之の姿がよく見えた。 (欲があって、それを満たす為の条件が揃っていて、ばれないときたら。 つい『魔が差す』というのはあるよね) きっと、彼も自分に言い訳を続けてきたのだろう。「妻子がいるから」、だから「仕方ない」と。 「……罰があたったんだとしたら、大きな罰だね」 紫色の瞳が、僅かに揺らぐ。意思ある影を足元から伸ばしたタヱが、やりきれないといった様子で表情を歪めた。 「お金さえあれば、と思いたいンですけどね」 そうもいかないのが、世の中の常なのだろうか。 「ちくしょー……あーもー!」 溢れる感情をぶつけるように、タヱは死の印を眼前の悪魔に刻む。白い翼を羽ばたかせて天井近くを舞う茉莉が、再び血の黒鎖を解き放った。 「動きは止められませんが、効いているはずです」 鎖の濁流が、三体の悪魔を次々に呑み込む。大きく踏み込んだ零児が、裂帛の気合を込めて鉄塊の如き大剣を振り上げた。無限機関を宿す右目が、彼の闘気に呼応して紅の炎を輝かせる。 生死の境界を分かつ一撃が、双頭の黒き悪魔を叩き潰し――その命運すらも断ち割った。 「このまま畳み掛けるぞ!」 敵の消滅を見届け、零児が声を上げる。リベリスタ達は勢いに乗り、残る二体に攻撃を仕掛けた。 和人が、頑強な改造拳銃から弾丸を吐き出して悪魔の頭を撃ち抜く。常人の目に留まらぬスピードで刃を閃かせた孝平が、淀みなき音速の斬撃で激しく追い打ちをかけた。 ここまで守りに専念してきたななせが、満を持して“鋼の軍曹”を構え直す。 「さぁ、いきますよっ!」 愛らしい少女の姿からは俄かに想像できぬ破壊のエネルギーが、小柄な体の隅々にまで満ちた。 「これがわたしの、全力全開――!」 決して止まらぬ雪崩の連続攻撃が、敵を圧倒する。 大きく弧を描いたハンマーが胴に叩き込まれた時、黒き悪魔は跡形もなく消え去った。 最後の一体に向けて、セシルが銃の狙いを定める。 「欲望とは充足されることで快楽へと昇華するものよ。 それがただ無尽蔵に吸収するだけとなると終わりの無い徒競走と一緒」 アーティファクトとしては二級品、欲深を自認する彼女とて、このようなモノは願い下げだ。 円錐型の弾丸が、悪魔を易々と貫く。迫り来る破滅を告げる零児の一撃が、そこに炸裂した。 「――さっさと消えろ、クソ悪魔!」 霧也の叫びが、空気を震わせる。赤き斬馬刀の一閃が、欲望の悪魔に止めを刺した。 ● 敵の全滅を確認した後、ななせが則之の遺体から『マモンの腕輪』を抜き取った。 「壊す前に、少し貸してもらえないか」 彼女から腕輪を受け取った零児が、それをつぶさに調べ始める。単なる偶然かもしれないが、アーティファクト化したアクセサリーが店頭で売られているとしたら大問題だ。 外観からは手掛かりが得られず、零児は腕輪をななせに返す。できれば郁子にも話を聞きたかったが、あの怪我ではまだ意識は戻っていないだろう。 「では、壊しますね」 「――ああ」 短いやり取りの後、ななせは鉄鎚を力の限り振り下ろす。 一家に悲劇を生んだアーティファクトは、原型を留めぬほどに砕け散った。 ななせが、大きく息を吐く。これで犠牲者の無念が晴らせるとは、到底思わないけれど――。 則之に歩み寄ったタヱが、彼の遺体を抱え上げる。 せめて子供の目に触れないよう、今だけでもどこか別の部屋に隠しておきたかった。 (いつか全てを知る事になるとしても、今はしんどいだろ……) 小柄な彼女に代わって、孝平が「手伝いますよ」と則之を運ぶ。 アリステアが窓からカーテンを外し、奥の間に横たえられた遺体にかけた。 血に汚れた顔を拭いてやり、冥福を祈る。 「せめて安らかに、ね」 和人が、則之の傍らに膝を突いた。 「幾つの夜を、眠れず過ごした――?」 家族に心配をかけまいと、何度、食欲のわかない胃に食事を押し込めてきただろう? 毎朝、玄関で自分を送る妻の姿に、どれだけ心を痛めただろう? 死者の耳に届かぬことを承知で、彼は言葉を紡ぐ。 「……ゆっくり休めよ、旦那」 そっと立ち上がったアリステアが、ふと天井を見上げた。 「お父さん、お母さん、かぁ……」 リベリスタ達が室内を整えて庭に出ると、幹泰はじっと郁子の傍に座っていた。 聖神の息吹で命の危機は脱したものの、郁子は未だ昏睡から覚めていない。幹泰はそんな母を見つめたまま、一言も口を利こうとしなかった。 (……何て言やァいいのかな。クソッ) 人除けの結界を展開してアークの事後処理班の到着を待ちつつ、タヱが内心で毒づく。本当のことなど、言えるはずがない。 その時、幹泰が口を開いた。 「お父さん、死んじゃったんでしょ」 思わず表情を凍らせるタヱの前で、陸駆が幹泰に歩み寄る。 「ああ、嘘をついた。それでも貴様を助けることが、僕らの使命だからな」 子供は、時に敏感だ。父が既にこの世のものではないことを、心のどこかで悟っていたに違いない。 唇を噛み、黙って俯く幹泰に、和人が声をかけた。 「親父がなんで死んだか知りたいか、坊主」 ぎょっとするタヱをよそに、幹泰は彼を見上げてこくりと頷く。 ありのままの真実を、和人は子供にもわかる言葉で簡潔に伝えた。 本当は、則之の異変に気付きながらも、夫とそれを分かち合えなかった郁子にこそ教えてやりたかったのだが――。 「坊主、親父のこと軽蔑するか?」 全てを語った後、和人は幹泰に問う。親が犯罪に手を染めた事実にショックを受けたのか、少年は固く口を噤んでいた。 「お前は真っ直ぐ生きろ。で、何時の日か、あんたと違って俺はこうなれたぜって言ってやれ」 ――出来るな、坊主。 和人の言葉を聞き、幹泰が小さくしゃくり上げる。 この時、ようやく彼は父の死を受け止められたのかもしれない。 「精々救われた命を大事にするがいい」 掌に爪が食い込むほど拳を強く握り締め、陸駆が幹泰に背を向ける。 「旦那じゃねーが、実際複雑だぜ……」 天を仰いだ霧也の呟きが、夜気に吸い込まれていった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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