●DIVE 世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。 ――バートランド・ラッセル。 ぱたぱたと軽い足音が複数重なり、甲高い子供特有の歓声が聞こえてくる窓。 窓はそれ以外にも、どこか埃っぽい陽光をくれる。 南中を過ぎて、あとは落ちるだけの太陽が、熱と光を地球に渡している時間。 とはいえ、そんなものは室内でブルーライトを浴びている『デ ファクト フィクサード』鳩目・ラプラース・あばた(BNE004018)には関係ない。 世界には時差がある、いかなる時もインターネットの中の出来事は泡沫のように浮かんでは消えていくのだ。 あばたはそれを掬えるだけ掬い、興味があれば掘り下げることが日課だ。 一般的に言えば、昼下がりにネットサーフィンを嗜んでいる。ということになるが。 今日も、0と1の世界へ飛び込む――。 瑣末な事象をかき分けていき、あばたは、一人の個人情報に触れた。 あばたの口元がニヤリと歪む。 『斎藤 俊樹』。あばたが小学生だった頃、一度だけ同じクラスになった少年。 彼女にとって、斎藤少年は特段印象に残っているわけではない人物だったが、暇つぶしに彼の近況を探ることにした。 それはいともたやすいこと。 なぜなら彼女は電子の妖精の力を持っている。彼女にとって、WEBの世界はこの現実よりも容易に動ける場所なのだ。 ●DOUBT 斎藤少年は、あばたの同級生だから、今22歳だ。 斎藤氏は少々危機意識の低い人物らしく、ネットに大量に個人情報が落ちていた。 不用意にボトボトと情報を落としている彼が悪い、とばかりにあばたは斎藤家の内情を探っていく。 まずは家族構成。 22歳で家庭を持ち、一男一女をもうけているとは、なかなか早熟だ。 こんなに若いと、きっと借家住まいだろう。 マイホームが夢だが、今はアパート住まいが精一杯。 一体どんな仕事をしているのか。 銀行員として職は持っているので、金に困っているわけではないが、夢の一軒家を建築すべく、株に投資を考えている。 そういえば、趣味はなんだっけ。 趣味はゴルフ。趣味と言うよりは、仕事の都合上必要だからやっているのだろう。 「……?」 しかしあばたは思う。 あまりにも、情報が容易に手に入りすぎる。 しかも、あばたが疑問を抱いた瞬間に、答えがひっかかる。 まるで、ヘンゼルとグレーテルの『パンくずの道』のようだ。さしずめ、あばたはそれをついばむ小鳥である。 ゾッと、した。あばたは、とうとう思い当たったのだ。 ――斎藤俊樹は、作られた情報だ。 と。 そもそも、本当に斎藤俊樹という少年は、あばたのクラスメイトだったのか? クラスメイトだったという設定自体、今作られたのではないか? あばたは斎藤俊樹という人間から手を引いた。 このまま追いかけていくのは危険だ。どこへ誘導されるか分かったものではない。 ●BLOCK あばたは確信した。 『世界を改変できる存在』が、あばたを見ている。 確実にあばたを釣り上げ、今まさにあばたで『遊んだ』。 あばたは、パソコンの前で乾いた喉へ無理くり唾を送り込んだ。 『世界を改変できる存在』に、心当たりがある。 それは、あばたがずっと追い求めた敵だ。 追い求めた者が、今あばたを狙っている。 ならば。 あばたは、同じ電子の妖精の力を持つ者として、立ち向かうことを選んだ。 だが、世界はあばたをあざ笑うかのように書き変わっていく。 あばたの知人であるはずの人物の名前が、記憶のものと違う。変わっていく。性別が、特徴が変わっていく。 だが、その違和感が、しばらくすると消えている。 さっきまで違和感を覚えていたのが嘘のように、普通の事として認識してしまう……。 その肝心の違和感すら、すでに残滓。 真夏の日のかき氷のように、消えていく。 もしかして――あばたの記憶さえ、書き換えている? ●ESCAPE だめだ、……敵わない! あばたは敗北を認めざるを得なかった。 このままでは、あばたは原形をとどめないくらいに改変され、それが当然とされてしまう。 あばたは『世界を改変できる存在』から逃亡を試みようとした。 だが、ブラウザを落としたはずなのに、またブラウザが立ち上がり、人工音声の哄笑がスピーカーからほとばしる。 その哄笑を表現するかのごとく、ウィンドウが無数に開いては、情報を目の前で改変していく。 ウィンドウを何度閉じても、無数に開いていく。 いくら試みても、強制終了コマンドが効かない。 ファイヤーウォールが機能しない。 ウェブサーバは既に暴走している。 ハードディスクに大量に書き込まれていく『改変されたあばたの情報』。 しかし、それはすぐに掻き消え、そしてあばたは、改変内容を当然として受け入れていく自分に気づく。 早起きで遅寝だとか、根は糞真面目で嘘がつけないとか、本当に以前からそうだったのだろうかと疑問に思う間もなく、あばたの情報が書き換えられていく。 まるで防火シャッターを落とされていくが如く、逃げ道を遮断されていく。 まるで釈迦の手の上の孫悟空だ。 だめだ、この世界に逃げ場がない。 このままでは、あばたは、あばたではなくなる。 焦る。焦る。 焦る。焦る。焦る。焦る 焦る。焦る。焦る。焦る。焦る。焦る。焦る。焦る。焦る。 『あばたって、誰?』 「!!!」 気づけば、あばたはLANの線とコンセントを引き抜いていた。 真っ暗になったパソコンのディスプレイを見つめ、あばたはゼイゼイと肩で息をする。まるで疾走したかのように息苦しい。 服は冷や汗でびっしょりと濡れていて、差し込む光は温かいはずなのに、寒い。 外から、ぱたぱたと軽い足音。 続いて、甲高い子供特有の歓声。 ……ほんとうに? 本当に息苦しい? 本当に寒い? 本当に聞こえている? ねえ、この世界、もしかして……。 文字だけの、一次元の創られた世界じゃない? |