女の、泣き声が聞こえる。 不愉快な女の――弱っちい泣き声が耳の奥まで滑り込んできて、何とも言えない苛立ちをこの俺に与えてくる。 女の睫に宿る露は大粒。止め処なくぽたぽたと流れ落ち、地面に水溜りを作ろうとしているかのようだ。 人生の最後、幕を迎えてこのザマか。最後はそんな顔なのか。 ――どうして…… 泣き言は聞き飽きた。 何故、どうして。そりゃあ、運命だからだろ? ――して、神様は…… 信じないと口にした――神様に縋るから、何時もお前は弱いんだ。 何て馬鹿な女だろう。何て単純な女だろう。 右の頬を叩かれて左の頬を差し出すのは馬鹿。右の頬を叩かれた事すら忘れてるようじゃ救いが無い。 俺は口の端を歪めて、美貌を悲しみの一色に染める女の耳元に囁く。掠れる声で小さく囁く。 ――え……? 目を見開く女の顔が愉しかった。 全く想像もしていなかっただろう――場違いな言葉は十分な効果を発揮したのだろう。 その言葉は或る意味でこの女にとって望外で、或る意味でこの上無い嫌がらせになっただろうか。 悪い冗談に聞こえただろう。同時に最後に向ける言葉としては上等なモンになっただろう。 ――え。――、結婚、って…… 死が二人を別つまで。 それはもう今すぐの話になるんだろうが、な――嗚呼、死が二人を別つまで。 ミス・ブラックモア。 呼びかけられる度に、訂正をしていた頃もある。 転寝をしていた私は、目元にこびりついた水分の正体に気付いて思わず苦笑した。 机で眠ってしまったのは何時だったか。どれ位、時間が経ったか。 ……泡沫の夢より、どんな長い時間が過ぎただろう。 理屈の上ならば七百年余、体感でいうならば気の狂いそうな永遠。 高名な魔術師も、偉大なる王にも。人間には賞味期限があるという。人間が人間でいられる時間はたかだか数百年。肉体の不滅を達成しても、魂の磨 耗は防ぎ得ない。それはあのラスプーチンも、或いは『黒い太陽』や『疾く暴く獣』ですら同じだろう。 無論、唯の人間でしかなかったアシュレイ・ヘーゼル・ブラックモアも然りである。『ひとつの目標に向けて一心不乱の努力を続けられる時間等、たかが数百年に過ぎない』。つまる所、どれ程の願いも、情熱も。暗い沼の底に引きずりこまれてしまえば、もう二度と光を見る事はないのだろう。 「……薄情なんですかね、私は」 他人はそうではないと言うだろう。 実際に私は『とても面倒臭い女』だ。それは確かだと考えている。 だが、自分の中ではそれを言い切れるだけの自信がない。四年以上も前に喪失している。 どんな悪徳を尽くしても、神を超えんとする誰の所業に縋っても、叶わない願いは叶わない。 唯一の願いが徒花だったと言うのならば、叶う願いを探したのは必然だったと言える。 私の『妥協』と『軌道修正』は本来の私の願いの逆を行くものだ。 恐らくは誰も理解しないし、語った所で身勝手を謗られるばかりなのは分かり切っている。 でも、それでも。私は行動を止める心算は無いし、『例え友人達と敵対する事になっても』これを完遂せねばならぬと心に決めている。 「エクスキューズ、ですね」 そう、確かに全ては言い訳である。基督教的な善悪論では無知は最も重い罪ともされるが、私的に言うならば『分かっていてやる方が余程酷い』と考えている。そういう意味では私が最悪なのは間違いない。 『塔の魔女』の行く先は茨の道だ。 間もなく、魔女の喜劇は最高潮を迎えるだろう。地上で最も大それた野望を抱くに相応しく数多の困難が立ち塞がり、不可能状況は山積している。綱渡りに綱渡りを重ねて辿り着いた現況さえ、未だ目的の達成を約束していないのは言うまでも無い。 (……さてさて) ルビコンの河はとうの昔に渡り終えた。 願わくば渡る河はレテのそれだったなら良かったのに――私は視線を宙に遊ばせた。 裏切りの魔女にも限度がある。盟主(ぜったいきょうじゃ)を出し抜く方法は、一つも頭に浮かばなかった。 ※『閉じない穴』の影響で崩界度が87→89に上昇しました! |