正しい音色で音楽を奏でようとするならば調律は必要不可欠だ。 例えば奏者の望むのが完全なモーツァルトならば一分の乱れも許容の外になるのは必然である。 「ケイオス様なら、きっと凄い表情をなさるに違いありませんしね」 あの神経質な音楽家は調律には一言所か、百言も持っていそうである。 重要なのはモーツァルトも人間の精神も、曲を奏でるに健全たる状態を求めているという事ばかりなのだが。 「さて、どう転びますか」 欧州の隠れ家に何年か振りに舞い戻ったアシュレイは大きな金色の瞳に昏い光を宿して呟いた。 人間の企み事は全てが思う通りにいく程完璧なものではない。 ましてやイレギュラーの塊、奇跡のバーゲンセールたる箱舟が相手ならば言うまでも無い。 しかし、想定される着地点に揺らぎを許せば、やりようはあるものだと彼女は考えている。 この百年も彼女にとって実に危険な追跡者だったグレゴリー・ラスプーチン(もとかれし)と、『次のステップに移ろうとしている自分の計画』に確実に邪魔になるアークをぶつける事は概ね損にはならない。 (グレゴリー様にとっては武力で解決するチャンスは或る意味で千載一遇でしょうからねぇ。 恐らく彼は非常に迅速な決断でアークとの対決を選ぶでしょう。不可避の格好で) アシュレイはアークが『夢見る紅涙』に彼程の価値を見出していない事を理解している。清濁併せ呑むアークが条件次第でそれを引き渡す可能性が低くない事も知っていた。故に彼女が動かすのはアークでは無く、あくまで自分が他人より深い部分で理解しているラスプーチンの側であった。 アークはラスプーチンがどれ位『死に怯えている』かを知らないし、彼に残された時間が長く無い事も実感をもって理解はしないだろう。或いは厳重な封印をかけられたとしても「突破すれば良い」と言うやも知れないが、同格の魔術師同士であっても他人の術を解除するのはそう容易いものではない。絶対に解かれない、とは言わないが、事その方面についてのアシュレイはラスプーチンより長じている。要するに彼にとっての問題は難問に相対するに際して何年、何十年、最悪或いはそれ以上の時を許容出来るかどうかに尽きる。 彼が手足に持つ組織がKGB(チェーカー)崩れである事も、奇襲という意味では期待に足る所であった。 (アーク側がどう出るかは流石に読めませんけどね。彼等は優秀ですから『気付く』でしょう) 彼女が友人達に残した置き土産は悪辣な毒である。 ラスプーチンには「『夢見る紅涙』は三高平市を離れたら爆発する」と説明したが――実はそれは完璧な説明では無い。アシュレイの用意した起爆条件は『空であろうと地下であろうとアーク本部から一定以上の距離を得た場合、爆発する』である。魔力を利用した神秘的爆弾の場合、条件付けがあった方が威力が勝るのは道理である。 フィクサードであるアシュレイが、直接的な悪意を働かせて本部を爆破しようとすれば万華鏡の探知は否めないが、単に爆弾を作ったまでならば神の目は関知しない。アークが対応してきた案件は数千にもそれ以上にも及び、その大半を自身の目で確認して来たアシュレイは、それが『フィクサードの活動全て』を視るものでない事を身を以って理解していた。 さて、この場合重要な距離が何を意味するかと言えば――有効範囲の問題だ。 爆弾の単純な爆発力は強固な三高平にダメージを与えるまでも、崩壊させるには到らないかも知れない。しかし、同時に撒き散らされる魔女の専門職――『呪い(プレゼント)』の方は別物だ。これは波長の合うアーティファクトに深刻なダメージを与えるものであり、物理的な阻害は然したる意味を持ち得ない。先述の通り、アシュレイが直接万華鏡に手を出そうとすれば事前の探知と厳重な阻止の網に掛かったのは自明の理だが、彼女は万華鏡のパターンをアークと同じか、それ以上にも理解しただけだ。その唯一の対抗馬が真白智親である事は言うまでも無い。 アシュレイのした事は『万華鏡(アーク)にとって有害なアーティファクトを作り、置いてきただけ』。 彼女の仕掛けた罠は『辛うじて万華鏡に探知されない範囲での最大限』である。 「まぁ、気付くでしょうね」 これらを逐一全てを説明して来た訳ではないが、四年の信頼感はアシュレイに確信をさせている。 そして、果たして彼女の読みは適切だった。 ほぼ同じ頃――アークの解析班はアシュレイが何故『夢見る紅涙』を置いて出たかを理解していた。 彼等は独自の調査でアシュレイの罠を察知したし、アシュレイの罠が引き起こす事態を読み切れない以上は軽挙には及び難い。牽制球が彼等を釘付けにするのは彼等自身の優秀さが最大の要因である。 アシュレイ側からすれば、真の目的に最も重大な障害足り得るアーク、そして万華鏡が深刻なダメージを受けるならばそれは歓迎出来る事柄だし、ラスプーチンが勝ってしまっても一向に構わない。勿論、彼が負けても――自分としては追っ手が減るのだから万歳だ。 予定通りとは言えないが、ウィルモフ・ペリーシュの究極研究が大詰めを迎えた今、勝負はこれからである。 (『ヴァチカン』……じゃなかった、チェザーレ様も色気を見せてますしね。話は動かざるを得ないでしょう) 逆を言えばイレギュラーなラスプーチンの接触も怪我の功名かも知れない。究極研究はアシュレイにとって最も重大な優先事項だ。失敗の許されないミッションなのだ。だから―― 「――調律は必要です」 取り留めない、言い訳めいた思考を打ち切るように呟いたアシュレイは表情の苦味を明るいものへと差し替えた。 苦渋ならば罪が許される等とは幻想だ。心を痛めれば裏切りが肯定される等有り得ない。 遠い昔、自分に夢を語った篤実な政治家も。歴史の闇に葬られた俊英の怪僧も。誰より純粋で不器用だった殺人鬼も。『裏切りの魔女』を受け入れてくれた優しいあの街も――彼女は全てのものを『目的』より下に置いて生きてきた。その目的がかつてと四年前からで――別のものに変わっていたとしても、アシュレイ・ヘーゼル・ブラックモアは誰よりもフィクサードだった。世界さえ自分の為に侵す、本物のフィクサードに違いなかった。 故に、悩むな。錆びるな。その調律は七百余年の最後に必要不可欠だ。 「……ム……」 感傷に浸るアシュレイの眉が不意にピクリと動いた。 『隠れ家』は魔術的に外界と隔絶されている。アシュレイの術式に守られたその場所は彼女の望まぬ相手を近付ける事は殆ど無い――それが余程の相手である場合を除いては。 彼女は退避を考えるが、探知への接触と実際の突破のタイミングは尋常ではない程に速かった。 「簡易なものですからね。『余程の相手』なら別ですけど」 外見よりずっと厳重な木の扉を開いてアシュレイの前に現れたのは一組の男女のペア。 一人は寡黙なる能吏アルベール・ベルレアン。もう一人は苛烈なる忠犬セシリー・バウスフィールド。 バロックナイツにおける『黒騎士』と『白騎士』。『疾く暴く獣』ディーテリヒの走狗である。 「邪魔をする」 「本当に邪魔ですよ」 冷静なアルベールにアシュレイは珍しく毒吐いた。 「貴方方がこの場に来たという事は――」 二人が『武装』している事を確認し、アシュレイは口元を歪めた。 バロックナイツの性格からしてアシュレイの行動は罪には問われまい。だが、何をしても良いという事は何をされても文句が言えないという事とも同義である。もし盟主――ディーテリヒの命令があれば、両騎士は迷い無く自分を害するだろうし、荒事への保険だったジャックは今はもう居ないのだ。 「流石と言うか何と言うか……良く見つけましたね」 「愚か者め。魔女如きが神(ディーテリヒ様)に対抗出来ると思うなよ」 「……成る程、いい答えです。初めてセシリー様に共感したくなりました」 発言自体は底の浅い、偶然に違いないが。神なる男、その物言いはアシュレイの琴線を派手に弾く。 「同行して貰おう」 「……同行、ですか」 「我が主が、貴殿を召喚している」 「選択権は?」 「無い。言っておくが――『塔の魔女』。私を先んじられる者が此の世に居ると思うなよ」 セシリーの言葉にアシュレイは苦笑した。確かに単なる速さ比べでは相手が悪過ぎる。ついでに言えばセシリー一人ならば強行突破も考えられなくは無いが、アルベールには勝ち目が無い。 セシリーはアシュレイが空間転移の気配を見せたなら、本気で殺しに来るだろう。 「……それで、私に何の用です?」 「我々は伝えるのみ。主に問うがいい」 「……つれませんねぇ」 苦笑したアシュレイは「さて、どうなるか」と思案した。 呼び出すという事は何らかの用があるという事は分かる。だが相手はあの読めない男だ。 大仰な宣告と共に断罪されても驚かないし、何を言い出すのかはまるで分からない。 「ベルリン地下聖堂には、鬼が出るのか、蛇が出るのか――」 |