電話線の切られた電話機が、真鍮のベルをけたたましく鳴らした。 「……私です」 『あ、お久しぶりですグレゴリー様! アシュレイちゃんですよー』 アンティークと呼んで障りがないほどの古めかしい受話器を取り上げたグレゴリー・ラスプーチンは、耳を突く女の声、かつて聴き慣れたその声に眉根を寄せた。 もとより激しい感情はあまり露にしない性質である。だが、いざアシュレイに触れ、反応がその程度で済んだのは彼自身にとっても意外ではあった。 「実にお久しぶりです。もし状況が許せば、一度お会いしたかったのですが」 『あははー、私もグレゴリー様とゆっくりお話ししたいんですけれど、なかなか忙しくて』 この『どこにも繋がっていない電話』に介入してきたことそれ自体は、ラスプーチンにとってはさほど驚くべきことではない。かつてこの女が彼の傍らに在った時から、既に彼と配下とを繋ぐ魔術回線は存在していた。術式は刷新されているものの、アシュレイであれば容易ではなくとも繋げることができるだろう。 問題は、なぜ今このタイミングで、ということだ。 「日本の友人の下を辞したとお伺いしましたが。今はどちらに……とは聞いても野暮でしょうね」 『いい女には概して秘密が多いものですよ。 それに、今日はグレゴリー様にお得な情報をお持ちしたんです。私の居場所なんかより、ずっと』 ご冗談を、と彼は鼻を鳴らす。確かに、彼女が齎そうとしているものは結果としてラスプーチンに有利に働くのかもしれない。だが、この女が態々彼のために動いたかのような言い草は心外であった。 その内容を聞く前に断言しても良い。塔の魔女は、他でもない自分自身のために、再びかつての情夫に接触をしてきたのだと。 「姿を現す気が無いのであれば、もう貴女とお話しする必要もないでしょう。私の手は必ず貴女を追い詰める。今度こそ――」 『――『夢見る紅涙』は、アークの手の中にあります』 ひゅ、と息を呑む。 グレゴリー・ラスプーチンともあろう者が、この一瞬、完全に虚を突かれていた。彼が求めて止まない血の宝玉。かつて彼の手の内に在り、そして失われた秘儀の鍵。 それは彼が欲して、欲して、欲し抜いて止まない『永遠の命』に到る唯一無二の道であると確信している。 だが、魔女がそれを手放すはずが無いのだ。それは確信。あの魔女の妄執を欠片でも知るならば―― 『嘘じゃありませんよー。グレゴリー様には随分ご迷惑をおかけしましたから、お返ししようと思って。アークの皆様とは随分仲良しになったそうですから、預けてきました』 思わず身を乗り出しながらも、警戒の念をありありと滲ませるラスプーチン。それも無理はあるまい。『あれ』を手にすることが出来なければ、彼を待つのは緩慢な破滅だけなのだから。 「……何が、狙いです?」 『いいえ、何にも。本当に、お詫びのつもりなんですよ。 アークの皆さんが間違って壊さないようにアシュレイちゃんがちょいと仕掛けを。 一つはかんたん、壊したり、三高平から動かしたらだいばくはつ! のお手軽ギミック。もう一つは条件封印です。 前者はグレゴリー様に解き方をお伝えしておきますので、封印の方は解除してもらってから受け取ってくださいね』 問いに応えて電話越しに耳を打つのは、遠い昔に聞いたのと同じ、鈴のような笑い声。 全てを破滅させて昏く嗤う、『塔の魔女』の声。 『封印解除の方法は――――です! 条件不問。わあ、とってもかんたんですね☆』 「『神の目』の使徒は、流石の魔女にとっても大いなる警戒対象と見える――」 言いたいだけを言いっ放し、アシュレイが通話を一方的に遮断してしばらく。 「――なるほど。またも一杯食わされたというところですか」 天井を睨めつけていたラスプーチンは、苦い色を滲ませて呟いた。此度の魔女の動きは、ラスプーチンの動きを逆手に取った意趣返しに相違あるまい。とすれば、アークとの交渉を纏めることができなかったのは痛手だったと言えよう。魔女を狩り出すことが出来ればそれでよし、とした自らの不明を恥じるより他にない。 言い訳をするならば、これまで友人付き合いをしていた連中に『そこまで』するかとも言えるが……彼の場合、心底からアシュレイはそういう女だと確信していたのだから、やはり何を述べる余地も無いか。 「セルゲイでは肩書きが余計な警戒を招きすぎる。ソウシという劇薬を投入すべきシーンでもない。少々無骨に過ぎるとはいえ、エイミルが妥当なところだと思ったのですがね」 アークとの先の交渉について決裂の要因を探るならば、塔の魔女アシュレイへの評価に隔たりがありすぎたということだろう。 魔女は必ず、明日にでも裏切ると確信し、そうなれば穴の制御方法の安全性などと悠長に言っている場合ではないと考えていた彼やエイミルと、アシュレイの裏切りにはまだ期日的余裕があるという暗黙の前提の上で、より安全な方法の保証を欲したアーク。無論、組織的な性格が理由になった面もあるだろう。 結果として、キース・ソロモンというジョーカーを引き当てたアークは当面即座の破滅だけは回避した様子だが――このイレギュラーが生じ得なかった場合、アークにとっても非常に危険なものだった筈だ。ラスプーチンにしてみれば、なぜあの魔女をあてにできたのか、という惑いの方が強い。 ……尤も、ラスプーチンが誠実極まる交渉者かと言えばそういう事は無いのだが。自身をしてキース・ソロモンより幾分か熱心に対応すれば、彼と同じかもう少しマシな手当ては出来ただろうとは思うが、逆説的にキース・ソロモンが解けなかったパズルならば、自分が対応しても即座にクリア出来ない難題になるのは間違いないからだ。 「彼らとは、遣り合うつもりはなかったのですが……」 魔女の言を信じるならば、もはやアークとの和平の道は残されてはいない。彼女の仕掛けた封印はあまりにも悪辣で、双方ともに譲ることができる要素が今度こそ皆無なのだ。強いて言うならば『自然に解けるのを待つ』、或いは『アークと共に手を取ってアシュレイを撃滅せしめる』……それ位しか方法が無いが、徒に時間を浪費しかねない判断は、もはや彼には難しい。せめて何十年か前ならば、アシュレイの口車を断固として拒否する暇もあっただろうが……情報がフェイクという可能性もあるが……いや、そんなすぐ判る嘘をわざわざ伝えに来る意味も無いだろう。 彼女は周到だ。自分とのコンタクトにリスクがあった以上、恐らく仕掛け自体は本当のものだ。 「……遠からず、この精神も擦り切れて闇に消えましょう。その前に紅涙を取り戻すには、致し方ないのでしょうね」 嘆息。 彼の前で実に多くの革醒者は『死んで』いった。肉体の破滅ならぬ精神の破滅は永遠に健常なる肉体だけを用意した所で人間に限界を作っているのだ。身近な証左が――現実を教えている。あの女(アシュレイ)は何歳だ。そして、彼女はまともか。否、相当の昔に情を交わした時にさえ、彼女は閨で呟いた。「時間が無い」と。 個人差こそあるだろうが、ラスプーチンは己の事を理解している。兎にも角にも猶予はそう長くはない筈だ。 不快。 腹の底を煮え滾らせるような不快感に彼はギリ、と奥歯を噛んだ。 だが、彼とて名の知れたフィクサード。戦いが避けられないとなれば、後は勝つための手を尽くすだけである。たとえそれが、魔女の掌の上で踊るに過ぎないとしても。 ああ。 いつかと同じ。いつもと同じ。裏切りの魔女は、世界全てに牙を剥く。 ――封印解除の方法は、かの『万華鏡』の開発者、真白智親様がお亡くなりになることです! 条件不問。わあ! とってもかんたんですね☆ ※『閉じない穴』(キース遅延状態)の影響で崩界度が1上昇しました! |