「……どうやら、色好い返事は頂けなかったようじゃ」 「そのようですね」 男は美しい髭を指で軽く扱いて、少し罰が悪そうな女を一瞥した。 「失敗じゃ。思いのほか、彼等も強情でな」 「……仕方ありません。どちらの交渉に利があったかは必ずしも最大の争点ではない。 彼等は、多くの勝利と結果を積み重ねている。互いのプライドに折り合いがつかない事もあるでしょう」 ロシア正教会の黒いカソックを身につけた威厳ある聖職者はその外見を裏切らぬ鷹揚さ、寛大さをもって『失敗した』部下を労うように微笑みかけた。 「結論は『止むを得ない』です。貴方の仕事は十分ですよ――エイミル」 大凡、この世にはこのグレゴリー・ラスプーチン程胡散臭い人物は居ないのかも知れない。 『風光明媚な人食い沼』のような彼の笑顔にエイミルは何とも言えない苦笑を浮かべている。 「しかし、思った以上に肝の据わった連中じゃ。危うく首を獲られる所かと思った位じゃぞ」 表情を変えないエイミルは、敵地(アーク)に流れる不穏当な空気を幾らかは察していた。彼女が厳密に知り及ぶ事では無いが、アークのリベリスタの一部には強硬な意見を唱える者も居たのは事実だ。敵地の交渉が常にそうであるのは言うまでも無いが、彼女の仕事は命がけだったと言えるだろう。 「それとも、主が甘く見られているのか」 「……さあ、それはどうでしょうね?」 穏やかな月光のような微笑を崩さずにラスプーチンはその言葉を受け流した。 エイミルの言葉にはささやかな意趣返しが含まれていたが、ロシアの怪物は微動だにしていない。 「それに、エイミル。貴方は失敗と言ったが――それは自覚が無いだけです」 「……?」 「貴方の仕事は成功していますよ。少なからず意味はあった。私が期待する程度には」 当を得ない主の言葉にエイミルは首を傾げた。 元々、誰よりも腹芸を好むような人物だ。その深淵を覗くのは容易い作業では無いのだが――幸いにこの日の彼は、余り結論に勿体をつける気はないようだった。 「つまり、貴方の仕事は貴方が『グレゴリー・ラスプーチンの特使』として赴いた時点で一定の成果を納めている、と言う訳です」 「……異な事を言う。主は、交渉の結実を望んでいたのじゃろ?」 「勿論、その通りです。しかし、同時にそれが高い確率でなるものと信じ切ってはいなかった。 不可能とは思っていませんでしたが、確実かと言えば別だ。 少なくとも魔女(アシュレイ)は、彼等と数年を過ごしている。どれだけの欺瞞に満ちていたとしても!」 アシュレイに言及する時だけ、烈火のように盛る主の感情にエイミルは怖気立つものを抑えられない。 そこに存在する何処までも深い怒りと憎悪は、他ならぬ彼以外の何者にも理解出来まいと確信した。 成る程、閨を共に過ごせば男と女には色々な事があるのだろう。 「……ですが、物事には色々なやり方がある。 狡猾な狐は、余りにも狡猾であるが故に読み易い事もあるという事です。 賢しい彼女は貴方(わたしのししゃ)が三高平を来訪した事を知っていたでしょう。 アークが私の提案を否決してくれる可能性も検討した筈だ。まぁ、六対四位の可能性で『友人達』が自分を庇護し続けてくれる、と考えたに違いありません。ですが――」 ニィ、と唇を歪めたラスプーチンはやや早口になってその先を続けた。 「――確率の問題ではないのですよ。あの女にとっては。 あの女は、そこに危険がある事自体を厭う。手が伸びた事それそのものを嫌う。 その位に、慎重で――その位に抜け目無いからこそ、あの女は魔女なのです。 ソウシの襲撃とエイミルの交渉で、彼女はきっと考えるでしょう。 『三高平』という最も安全だった寝床が、そうでなくなるという可能性を!」 少なくない数がアシュレイの切り捨てに票を投じたのは純然たる事実だ。 様々なアスタリスクを帯びていたとしても、それは彼女の置かれた不安定な立場を意味している。 「……そういう事、か」 ラスプーチンが至極断定的にアシュレイを語る様をエイミルは内心で嘆息した。頭脳明晰なる主の分析は恐らく正しい。彼の知性と深謀は些かも損なわれていない。だが、そこには冷静が無い。形こそ歪んでいても、情熱だけが燻っている。 「交渉が成立すれば最良。さりとて、不調に終わってもそれもまた良し。 私の悲願にアレが不可欠ならば、あの魔女がアークに居る程の不都合はありませんから。 さて……果たして、あの魔女は『どうする』のでしょうね……?」 かくて。笑うラスプーチンは、彼の中では分かり切った問いだけを口にした。 1、ラスプーチンの提案を承諾する 2、ラスプーチンの提案を固辞する 二択の内、『2、ラスプーチンの提案を固辞する』が可決されました! |