「なるほど、よく判りました。『The Terror』を倒すことはこの次元の誰にも不可能でしょうが――異界の力を借りたとて、あの化け物に一杯食わせたというのは僥倖です」 ぎい、と肘掛け椅子の背を鳴らし、その男は漆喰の天井を仰ぐ。もし自分なら、あの最悪のミラーミスをどう相手取るだろう。正面から立ち向かうのは無謀だ。周到なる準備を重ねれば一矢を報いる程度の自負はあるが――すぐには妙手が思い浮かばない。 「箱舟、ですか。願わくば、戦いたくはないものですが」 「あいつらも大概お人よしだからなぁ。アシュレイに首根っこ掴まれてるってのも、嘘じゃないだろうぜ」 そう応えたのは全身を黒く染め、トレードマークの丸サングラスをかけたもう一人の男。アークとも幾度か交戦し、春先にはアシュレイの工房を急襲したその男の名を、土御門・ソウシという。 「で、どうするね、大将。選択肢は三つ。力押しするか、交渉してみるか、泣き寝入りするか」 「……交渉以外の選択肢があるのですか?」 髭の奥の唇を歪め、男は苦く笑んだ。理性は、あの箱舟と事を構えるべきではないと言っている。彼らを過小評価した自分は全く愚かであった。今から思えば、そう断じるより他にない。 「ええ、交渉です。彼らにはお願いを聞いていただかなくてはなりません――是が非でも」 「あいつらが簡単に踊るとは思えないがねぇ? おトモダチは渡せない、なんて言い出したらどうするよ」 サングラスで隠した瞳には、疑問よりも面白がる色が強かったろう。どんな相手の前でもふてぶてしい態度を隠すことのないソウシは、この時も『彼らしい』挑発めいた問いを投げる。 だが。 「――言ったでしょう。言うことを聞いていただかなくてはなりません、と」 ソウシの背をぞくりとした感触が走った。 彼に向けられた口調は、先ほどまでと同じ、抑えられた理性的なもの。だが、その中に籠められた熱量は、それまでとは桁の異なるものだった。男の細められた目が、爛、と光を放つ。 いや、その熱量は、たった今ソウシの挑発によって生み出されたものではないだろう。 このもの静かな男の中でぐつぐつと煮立っていたモノが、ふとした片鱗で姿を覗かせたに過ぎないのだ。 「不死の徒にとっては短い間かもしれませんが――私は、随分待ちました」 そうだ。男は確かにアークを軽んじていた。だが、ソウシやエイミル・マクレガーに攻撃を命じたのはそれだけが理由ではない。 男の精神は、長い時を経て迎えた好機に快哉を叫び、今こそその熱を溢れさせんとしていたのだから。相手が誰だろうと構うものか。どんな手段だろうと構うものか。 だからこそ、彼ら箱舟が色よい返事を返さないならば、覚悟を決めなければなるまい。 何を? 血を流す覚悟を。求めた果てを掴むため、あらゆる犠牲を払う覚悟を。 「いずれにせよ、一度は彼らに詫びなければなりません。ソウシ、アークが貴方の言うような者達の集いであるならば、何よりもまずそれが必要でしょうから」 「……あいよ。んじゃ、俺が行くってことでいいか?」 気圧されながらも、どこまでも軽く返すソウシ。それに一瞥を投げ、男は立ち上がって首を横に振る。黒いロシア正教の聖衣が、柔らかく流れて仮の足下までを隠した。 ――彼らが十分に賢明であればいいのですが。 滾るマグマの片鱗を精神のヴェールの向こうへと隠しながら、男は鈴を鳴らして隣の部屋に控えた小姓を呼び、エイミルをここへ、と命じる。 その男こそ、グレゴリー・ラスプーチン。神秘業界に今なお名を残す、ビッグネームの一人であった。 |