「転ばぬ先の杖という言葉はまずビジネスで大切な心得になりましょうな」 空調の効いた自らのオフィスで糸を繰り続ける老人は含み笑いを交えながらモニターに大映しになった同じく威厳のある老人を眺めていた。 「石橋を叩いても渡らない人間の言う事か? 恐山斎翁」 「とんでもない。渡る必要があればそうするまでの事。例えば此度のように、ですな。恐山は効率的な投資とビジネスを他派よりは心得ているだけのこと」 モニター越しにトップ会談を行っているのは今日本の神秘界隈を騒がせる『親衛隊』のスポンサーである大田剛伝と、国内フィクサード主流七派の中でも異色を放つ『バランサー』恐山の首領、恐山斎翁の二人であった。旧知の二人は挨拶もそこそこに昨今の日本を取り巻く情勢を話し合い、『ビジネス』の話を展開していた。 「恐山が提供する『商品』の確認は要りますかな?」 「長口上を程々にするならばな、聞かぬでもない」 「結構。つまり、本日の商品は『保険』ですとも」 この会談を申し込んだのは恐山側である。意図を簡単に察する事が難しい斎翁の言葉に剛伝の眉が顰められた。手短に説明しろと要言った以上、言葉が不親切なのは責められまい。 「恐山が提供せんとしているのは『転ばぬ先の杖』だ、大田老。 大田老は現在『親衛隊』に肩入れしている。彼等は世界に名だたる札付きの悪で……まぁ一定にビジネスの信頼はおける連中でしょうがな。全ての皮算用は彼等の勝利を前提にしたものになっている。大田の商売も、この国の神秘勢力への介入力の獲得も、ですな」 剛伝は頷いた。時村に遅れをとった以上、大きくこれを挽回する為の手段は多くは無い。『親衛隊』は劇薬だがそれは承知。財力の一部を『運用』する事で得るものがあるならば大田にとっては大した支払いではない。されど、投資は彼等の成功で報いられる他は無い。 「可能性の問題だが、万が一彼等が敗れたとしたらば。大田老は危ういバランスの上に立つ現況を把握しておいでかな?」 「……その結果は予測か? 聞き捨てならぬ」 「とんでもない。『親衛隊』は精強。アークの不利は目に見えている。 しかし、可能性の問題は簡単に否めるものではない。万が一『親衛隊』が敗れれば大田がアークの追撃を受ける可能性もある。神秘勢力の構築に一日の長があるアークに大田が単独対抗するのは困難になりましょうや」 「――それで『保険』か」 合点が入った剛伝に「然り」と斎翁が頷いた。 「我等ならば『万が一』の時、大田のバックアップに動けますぞ。蛇蝎の巣の如き七派の調整も、対アークの牽制も。つまる所、『保険契約』が成れば恐山は大田の味方という事になる」 斎翁は内心でほくそ笑んでいた。黒覇のトーンダウンを見れば潮目が変わったのは簡単に読める。状況の全てを斎翁に報告するような男では無いが、この変化は見過ごせない。恐山は戦争を得手にしている勢力ではないが、伊達に何十年も『蛇蝎の巣』を泳いでいる訳ではないのだ。『お人よし』のアークの牽制も千堂を使えば難しくは無いという読みがある。否、斎翁の読みはそれ以上だ。連中は当面動き出せるような余裕が無いと確信している。 「……ふむ。次善のプランと考えれば恐山と組むのも手の一つではあるが」 「七派随一『話せる』のは我々なのは間違いありますまいよ」 剛伝の様子に斎翁は目を細めた。どれ程の自信家であろうとも乾坤一滴の勝負に出た時はプレッシャーを感じるものだ。恐山が売るのは『安心』に過ぎず、アークが動かぬならば――『動かさぬ』ならば『保険料』は丸得だ。そしてそれより何より、斎翁には一本気な剛伝が『万が一』を考え得る理由を知っていた。 「大田老程、時村の底力をご存知の方もおりますまい」 「全く、忌々しい男だった」 剛伝は溜息を吐いて十年と少し前の出来事を思い出していた。 日本に現れた未曾有の悪夢(ナイトメア・ダウン)による混乱の影響で時村内閣が総辞職した日の事。本来、剛伝自身が首を取る筈だった男はそれで政界を辞してしまった。 だが、やり合った『戦争』の日々は老人の記憶にも生々しい。 煮え湯を飲まされたのは何時も暑い日だった。今日のように、何時も暑い日。 「忌々しい男だ。だが、故に話を聞く余地はあろう。 恐山斎翁。ビジネスに相応しいプランは持っているのだろうな?」 |