冷た気なドイツ女の玲瓏たるその美貌に辛うじて浮かんだ微笑を多くの人は恐らく『愛想笑い』と呼ぶのだろう。日本、埼玉――敷地面積が如何程あるのかも一目には分からない素晴らしい日本邸宅は地元で『御殿』と呼ばれる特別な場所の一つだった。 「それでは、中尉。例の話をして貰おうか」 生命力に溢れた恰幅のいい老人――大田剛伝はそんな風に切り出した。 一昔前、政財界にその名を轟かせた大田本邸はその名に恥じぬ程度には物々しい。集まっている人間が『より特別』ならばそれが尚更の事になるのは余りにも当然の帰結だったのである。『圧倒的な資産と権力を有した彼』は普通の人間の身でありながら、この国の裏側の領域にも相応の影響力を持っている。『現役時代』鎬を削り、押しも押されぬライバルだった時村貴樹がそうであるのと同じように。 「此度、我々は『交渉』のプランを用意して参りました」 「……成る程、アプローチの仕方を変えてきたのは評価に値するが」 乱れも無く整えられた前髪を気障にはね、呟いたのは誰あろう、『この国の闇の王の一人』とされる大物フィクサード逆凪黒覇である。 『七派の名代』としてこの場にある彼は『何時も以上』の重鎮に違いないのだ。 「互いの利益、不利益は正しく算出されるべきですから」 不遜な極東の悪の態度にも気分を害した風は無く。女は――亡霊を思わせる黒い軍服に身を包んだクリスティナ中尉は静かに答えた。 「改めて申し上げるならば、我々の目的はヘル大田と組んで『商売』をする事です。 この国が皆様の『マーケット』である事は承知の上。しかし、我々にはそれを理解した上でこの国で行わねばならぬ事があり、理由がある」 「あの、穴か」 「はい。我々の大望は現在、この国と切り離せない。 しかし我々にとってこの国自体はそれ以上に重要なものではありません。『商売』の先にある『ターゲット』は日本ではない。いえ、厳密に言うならば『この国』は魅力的な『マーケット』である事は認めますが、事後、不干渉の方針とする事を明確に約束いたします」 「信じるに値すると? レディ、貴方方の『お友達』は些かやり過ぎている」 「誤解を恐れずに申し上げさせて頂くならば我が主――リヒャルト・ユルゲン・アウフシュナイター少佐は元よりこの国を重要視していないのです。我々が真に復讐したい相手が何処にいるかは言わずとも分かっていただけるものと確信しておりますが」 「白人至上主義も裏を返せば理由にはなるか」 クリスティナの言葉に黒覇は皮肉に唇を歪めた。 この日本を『極東の空白地帯』と侮った二人のバロックナイツは既に居ない。クリスティナ等『親衛隊』とて『彼等と自身等を比して自身等が劣っている等とは毛程にも思っていないのだが』。彼女等が軍人である以上、ウィルモフ・ペリーシュの唯傲慢な意よりはジェイムズ・モリアーティの唱えた『合理的判断』を重んじるのはある種の当然だった。無論、その腹の底で取引相手をどう考えているかはお互い様の別物ではあるのだが―― 「従っての当提案です。我々は無用な損耗を嫌っている。 それはかのケイオス氏の『公演』で痛手を生じたであろう皆様も同じでしょう。我々は『利益』の一部を皆様に供与する用意もある。そして、それはこのヘル大田より保証を頂ける部分もであります。利害が一致するならば我々の交戦は無為の極みかと」 口では何とでも言える何とも空虚な会談であった。さりとて上座に座する老人の存在感は神秘界隈に悪名を轟かせる彼等にとっても一定の楔に働くだろう。暴力だけでは金は生まれぬ。組織は十分なバックアップがあるからこそより効率的に働くものなのだから。 「その『商売』については追って少し聞かせて貰いたいものだな」 「……それは、お約束が成るならば勿論」 「これは――貴方の責任下の話と受け止めるが、構いませんね? 大田老」 「尋ねる事か、逆凪黒覇」 肩を竦めた黒覇はレンズの奥の蛇の瞳を細めて美女中尉を伺った。 彼の眼力をしても、何を考えているか読めない女は大抵危険な女である。経験則と実地からそれを重々に理解している彼は額面通り話を受け止める気は無い。しかし、『逆凪』に利が生まれるならばそれは大変結構な事である。 (さて……) 問題はシンプルだ。沈没する船は『あちら』がいい。 全てはあくまで『逆凪に』利益が生まれるならば、の話であった。 |