世界でも有数の歴史と繁栄を誇るこの大都市で起きる悪事の半分が、ほぼ全ての迷宮入り事件が彼の手によるものだ―― ある種の敬意さえ払った名探偵が彼を『犯罪界のナポレオン』と称してから随分と長い時間が経っていた。倫敦の霧よりも深い神秘の迷宮を科学の明かりが照らし出し、犯罪者界隈の状況が若干変わった事実には隔世の感は否めないが―― 「……まるで上等な数理パズルのようだ」 ――『ホームズが宿敵と認めた男を名乗る』その魔人は人々が謎を忘れたこの現代においても未だに倫敦の犯罪の中央に確かに存在していたのである。 「一つの始まりから、こうもするりと解けていく。かくて時代は動き出すか」 自身は軽々に手を下す事はなく、『まるで千本の糸を張り出した蜘蛛の巣の中央に座っているよう』な彼は深い闇の中に座したまま。報告した部下にも顔を見せる事は無く、後ろを向いたまま静かに答えた彼は、腹心であるモラン大佐の動き、又は同輩となる魔術結社(バロックナイツ)の動きの一つ一つに小さく頷きながら事実を自分の中に落とし込んでいる。 「『黒騎士』、『白騎士』がベルリンに移動した模様。 『盟主殿』の意向自体は現在の所不明ですが――」 「腰の重い彼も幾らかの興味を禁じ得ないといった所か。尤もバロックナイツがこれだけの動きを見せるのも初めての事ならば、それも当然とも思うがね」 「ミス六道からは正式な援軍要請が届いております」 「分かっている」 まさに灰色の脳細胞と呼ぶに相応しい彼の頭脳は静やかなその姿、落ち着きのある口調からは信じられない程に忙しなく、総ゆる可能性を探り、総ゆる状況に対応する為の『計算式』を叩き出すべく猛烈なまでの回転を始めていた。 「『倫敦の蜘蛛の巣』は日本に部隊を? ミス六道の『計画』はかなりのリスクを伴います。ケイオス・“コンダクター”・カントーリオ及び『楽団』と動きがバッティングする可能性が高いと思われますが……」 部下の言葉に老教授は「ふむ」とだけ答えた。 バロックナイツ最大の敵はバロックナイツ自身であるとされる。普段は一応『仲間』という形を保持してはいる構成員も一度利益や目的がぶつかるならば苛烈な敵になるのは事実である。己の自尊心を疑うような人間はそもバロックナイツ足り得ないのだから、状況の混乱――不測の事態は常に否めまい。 されど、どんな『不測の事態』も『分かっていれば不測では無い』のである。 「無論。可愛い教え子の頼みとあらば、断る理由はあるまい」 状況を御し切る術を、『最終的に状況を利益とする術を確信していれば』その経緯なぞは些少な問題と言わんばかりである。 「しかし面白い。糸が縺れるほどに『プラン』は弄り甲斐もあろう」 膝の上の猫を何となく撫でながら老教授は却って楽しそうにそう言った。姿を決して見せる事は無く、黒幕として全てを支配する『完全悪』のその姿は数多の物語が綴った像の原型とさえ言えるだろう。まさに誰にも見劣らぬ威厳の声は彼の存在自体から漲る圧倒的なまでの余裕とインテリジェンスの作り出す『現実』であった。 「誰に遠慮をする必要もない。『倫敦の蜘蛛の巣』はやがて世界に根を張る悪のコネクションにも届こう。時は移ろい、世界は変わる。栄光の大英帝国の姿も今は遠く、世は多様性を手に入れた。『物語の私』がなし得なかった事をこの現代に刻み付ける。それはそれで楽しみで、対決も一興ではないかね?」 老教授の――ジェームズ・モリアーティの言葉は幾ばくかの洒落っ気を含んでいる。 「とは言え、私も前に出るのは骨身に染みた。 ライヘンバッハの二の舞、焼き直しは勘弁願いたくは思うのだが――」 |