――アーク・ブリーフィングルーム。 「それで被害は?」 「最悪さ。『放送』以降全国で発生した殺人事件の数は飛躍的に上昇。 頭のおかしいフィクサード連中だけじゃない。おかしな気に当てられてその気になった馬鹿の事件も混ざってるけどね」 貴樹の問いに沙織は溜息交じりの答えを返した。 「人間ってのは現金だな。社会を社会たらしめる制約がきちんと働いている間は大人しくても、いざたがが外れたと思えば本性が簡単に現れる。あのジャックが言ってた『雑魚』ってのはそういう事なんだろうが」 沙織は資料を机の上に投げ出して小さく肩を竦めた。 朝のお茶の間を『ジャック』した戦慄の放送から暫く時間が経っている。状況的に最悪だったのはあの後、緊急出動した警官隊百数十名と――アーク部外のリベリスタ二十名程が皆殺しの目にあった事である。表の世界の悪を抑制する警察と、裏の世界の悪を抑制を機能させるリベリスタ達。血に塗れた時間はジャック・ザ・リッパーの存在がその双方を麻痺させる事を周囲に理解させてしまう傍迷惑なデモンストレーションとなってしまったのだ。 「バロックナイツのジャックに……後宮シンヤか」 唸るような貴樹の声に沙織は頷く。 事件の下手人は二人とされている。一人は言わずと知れたジャック・ザ・リッパー。もう一人は先の蝮事件の時、時村貴樹暗殺計画にも顔を出したフィクサード・後宮シンヤである。ジャックが『政見放送』を始めた頃、彼をサポートする形で放送機能を制圧したのがシンヤであったらしい。 「……何か、悔しい」 思わずぽつりと漏らしたイヴの頭に智親の大きな手が乗った。 万華鏡が事件を正確に感知していない以上、先の二人に加えて『塔の魔女』の影もちらついている……と考えるのが妥当な所。 「随分と大立ち回りしたみたいじゃねぇか、あのシンヤも。 ……しかし、ヤツはあんなに強かったか?」 報告書をぺらぺらとめくりながら智親は怪訝そうに呟いた。 確かにシンヤは強力なフィクサードだった。しかしアークのメンバーも幾度かの戦いでは彼に遅れを取る事は無く、彼を撃退ないしは阻んだのだからその力は『常識的範囲』であった事には間違いが無い。『元より非常識』なジャックと並べて考える種別では無いのだ。 「第一、何でアイツはジャックとつるんでるんだか」 「……さて、ね」 沙織は智親の言葉に気の無い返事をした。 「重要なのは現状の正確な把握と、今後どう対処を取るかだ」 「見解を述べてみろ、沙織」 促す貴樹に小さく頷いた沙織は眼鏡を軽く持ち上げた。 「対処を取る上での第一の問題点。万華鏡機能の喪失。或る意味でこれが一番厄介な点だが……状況から考えてこれは『塔の魔女』アシュレイの仕業だろう。正直、コイツが一番厄介だが……これまでの事件から考えればコイツにはある程度の予測が立つ」 「予測?」 イヴは小さく首を傾げる。 「ああ。完璧じゃないのさ。隠蔽出来る事件の規模に限度があるのか、それとも隠蔽自体に成功率があるのか……アシュレイ自身に全てを隠す心算が無いのか。確実な事は言えないがね。限度があると考える方が自然。万華鏡がヤツに劣っていると考えるよりは、万華鏡がヤツに五分であると考える方が正しいだろう。もしアシュレイの力に制約が無いとするならば、万華鏡に何を見せようともしないだろうよ。思惑であっても同じ事」 ジャックの事件の際――万華鏡は『事件が起きる直前に』その発生を感知していた。到底阻止に間に合うタイミングでは無かったが、『直前に事件を知らせる意味は無い』以上、それはイヴとアシュレイの鬩ぎ合いの結果であるとも取れなくは無い。 「何せうちの室長の最高傑作・神の目だ。 まぁ、断言まではしかねるが、万華鏡の出力向上を現在研究開発室に指示してある。何時までも紙一重の隠蔽を通用はさせないさ。 ……それはそれとして第二点。問題点と言うよりは状況の確認だな。ジャックには恐らく蝮の時の組織のような正確な目的が無い」 「ああ。万華鏡の調整は任せとけ……って、目的が無い?」 聞き返す智親に沙織は頷く。 「アイツは自分の力に絶対的な自信を持ってる。 それこそ『黄色い猿』に助力を求めるタイプじゃねぇよ。 アシュレイが居る以上自分の存在を大っぴらにアピールして敵の警戒を引き上げる理由も本来は無いんだ。 なのに、どうしてあんな真似をしたか。 ……専門外でプロファイリングの真似事をするがね。 風聞で聞くジャック・ザ・リッパーにしろ、あのジャックにしろ。存在する材料で考察するならテンションのおかしい異常者には違いないが一種の冷静さを併せ持っているのも事実だ。 アイツは冷静に――何も期待せず演説したのさ。自分の名を1888年と同じように世界中に轟かせたいだけだ。全国の殺人鬼(ばか)に呼びかけてもそれは協力しろという意味じゃない。この国を滅茶苦茶にしてゲラゲラ笑いたいだけって所だろうよ」 ――求むるは戦略利益でも己に従う戦力でも無く、全て快楽。 唯、日本という国を悪魔に棲み易い無秩序へと変えたいだけ―― まさに無軌道なる暴挙である。 ジャックが憎むのは平穏であり、安定なのだろう。 リベリスタ達は言うまでもなく、明確な利益の為に動き、組織を形成するフィクサード達ですら彼の目的に異を唱えるだろう。 だがジャックという男は頓着しない。ジャックが狙うのは一般人であり、リベリスタであり、フィクサードですら在るという事だ。潰すと言ったその一言は果たしてアークやリベリスタ達のみを向いたものだったのか、どうなのか。 「何か本当の狙いがあるのは間違いないんだろうがよ。 三流組織はぶっ潰す、って言ったよな? あの野郎」 あの安い挑発を思い出したのか、何時になく荒い調子の沙織は薄い嘲りの笑みをその端正な顔に乗せて呟いた。 「面白ぇじゃねぇか。何処の使徒様だろうと最後にゃピエロにしてやるぜ」 |