全く馬鹿馬鹿しい位に世界は何時だって盲しいている。 変哲の無い日々。朝、眠気を噛み殺しながら起き上がり、牛乳を一杯飲んでパンを咥えながら間に合うか微妙なバスに向けて駆け出すとか。毎日の試練のように待つ満員電車に揺られる時間を少し憂鬱に思ってみるとか。朝の慌しい時間を終えて、洗濯の前に一服しようと考えるとか―― 学生であろうと、会社員であろうと、主婦であろうと。 人は何時だってルーティーンに生きている。自分の居ない世界に何が起きようと誰だって関知しない。例え気に留めていたとしても、遠い遠い異国で起きる内乱だとか。宗教闘争だとか、凄惨な殺人事件だとか。大凡自分の人生と関係ない『運命』を我が身の事と捉える事等到底出来はしないだろう。 ……全く、世界は盲しいている。 だからこそ。ブラウン管の中という距離は同じにしても、日常が壊れるまでは誰一人気付かないのだ。すぐ傍に闇が横たわっている事に。目前に深くて覗き込んでも見えない奈落が広がっている事に。日常をハッキリとした形で侵され、眠り込んでいる所を引っ叩かれでもしない限りは――遠い真実には届かないのだ。 必ず来ると信じられていた繰り返しの朝はもう来ない。 「キャ――――!」 誰の者とも知れない甲高い金切り声が日本中の朝の時間を異質なものに変えていた。モニターの中でほのぼのとした子犬のニュースを伝えていた見慣れた朝のスタジオは見るも無残な惨劇の現場へと変わり果てていた。 「だ、誰か警備員、いや警察を……!」 「ひ、ひいいいい――!?」 日本中のお茶の間に親しまれた名物司会者がもう何も喋らない。口数が多すぎる位に多かった彼がもう何一つ喋らない。 去年の春に入社した細身のスタイル抜群で人気の女子アナが喋らない。彼女を彼女と教えてくれる材料がなくなっていた。首が無い。 ズバッとモーニングの現場に広がる光景は、血、血、血…… 平静なのは唯一人。カメラの前で血塗れたナイフを舐め回す外国人の男だけだった。 ――よお、いい朝だな。黄色い猿共! 男の声は良く通った。 不躾な――この現場に、この男に不躾も何も無いモノだが――言葉は流暢な日本語で吐き出されていた。 「ああ、見える。見えるぜ。どいつもこいつもピーチク囀ってやがるのが。怖ぇか? 怖ぇだろうな。俺が狂って見えるか? 安心しろよ、俺は最初から至極冷静に狂ってる!」 男の姿は時々靄がかり、逃げ惑うスタッフ達を血に染める。力ある者以外には何が起きたかも分からないであろうそれは、色濃い――余りにも凶悪過ぎる神秘の力を帯びていた。 「良く聞け、猿共! 俺は、ジャック・ザ・リッパーだ!」 人々には冗談にしか聞こえないであろう――その言葉。 男が公然と口にするのは十九世紀最大のミステリー。 信じる者は居ない。二十代半ばそこそこにしか見えない男がそんな存在であろうとは。信じる理由が無い。誰も、神秘を知らなかったならば。 「楽しいぜェ。今度のイベントは最高さ。 殺してやる。殺してやる。子供も殺す。女も殺す。男なんて言うまでもねぇ! 怯えるな、雑魚共! 殺したくても殺せねェ雑魚共! テメェ等の本能を剥き出しにしろ! テメェ等に最高のショーを見せてやる。俺の伝説を見せてやる。参加させてやる! こそこそ隠れてる馬鹿共、暴れろよ! 殻も破れねえヒヨコ共、俺が新しいやり方を教えてやる! リベリスタ何ぞにビビる必要はねぇ! 三流組織の雑魚共なんざ、この俺が全て片付けてやる! 俺がジャック・ザ・リッパーだ! バロックナイツのジャック様だ! つまらねぇルールを踏み躙れ、本能に覚醒してみせやがれ! さあ――さあ、パーティの始まりだぜ!」 日本中が凍り付く。 唯の数分の惨劇に凍り付く。 言葉の意味を知る者は誰も等しく戦慄し、嫌悪し、歓喜する―― 姿を見せた新たなる衝撃は……何時にも増して血の匂いが、した。 |