● 手も指も、耳たぶも。何もかも凍えて痺れてじんじん痛んでいても、不思議とあたちは自分が死ぬとは思えない。なぜなら、あたちのすぐ隣には世界一頼れる人が悠然と座っているから。 後部の座席でしきりに上がっていた呻き声も小さくなり、回りを囲んだ神父たちの祈りの声と機体を揺らす風の音と相まって、眠りを誘うような音楽を奏ででいる。 ここに墜ちてから何時間たったのだろう。お腹が空いた。そろそろ救助隊が現れてもいい頃だ。 何かが起こることを期待して、クラッカーの最後のひと欠片を口にいれる。ほう、と白い息を一つ吐きだして、小さな楕円形の窓に顔を向けた。 相変わらず景色は白と灰。晴れていればヒマラヤ山脈の神々しいまでに美しい山肌を目にすることができたのだろうか。 もぞもぞと尻を動かして自分の顔を窓から外すし、ガラスにうっすらと映り込む伯爵の横顔を鑑賞することにした。薄い影は口の端をわずかに持ち上げて、膝の上に目を落としている。白く長い指が、本のページを優雅にめくる音がした。 本は数時間前、空港の書店で買い求めたものだろう。米国作家の冒険小説だが、伯爵は世界中の言葉に通じている。タワー・オブ・バベルによるものではなく、語学はすべて自力で習得されたものだ。長い年月を生きていれば自然と身につくものだよ、と伯爵は謙遜するが、やはり人よりも長く生きている自分はといえば、母国語の他に英語がかろうじてできるぐらいなのだから、やはりこの人は大したものだと思う。 「窓の外に何か見えるかね、ユディト?」 ビロードのようになめらかで柔らかい声。だけど、小さくともはっきりと耳の奥に届く鋭さも持っている。あたちは伯爵の声がたまらなく好きだ。 「ユディト?」 「あ、はい。雪以外、何も見えません。命のサファイアの青炎どころか――」 とうに感覚を失くした指先で目をこすった。やはり見間違いではない。暗い灰色のコブのような影が一つ、二つ……ううん、二十は軽くこえている。 「あは、やっと救助隊が来たようですよぅ」 「どれ?」 伯爵はあたちの上に体を乗り出して、窓へ顔を近づけた。 「ふむ。救助隊にしてはかなり目つきが悪い……おや、あれは十二位配下の者たちだよ。間違いない」 バロックナイツの大部分が死んで十二位もなにもないものだが、あたちの伯爵さまはもともとそう言う順位づけに頓着しないたちだ。フォン・ティーレマンの誘いを受けてバロックナイツに加わったのも、断るとあとが面倒だから、というごく消極的な理由に過ぎない。 「彼らの目当ては後ろで死にかけている司教さまかな。やれ、面倒くさいことになりそうだ」 先ほどまでの良機嫌はどこへ行ったのやら。席に身を戻した伯爵は口をヘの字に曲げてすっかり不機嫌になってしまわれた。 「どうしますぅ?」 「どうもこうもないよ。彼らが死んだふりで騙されてくれるとは思えないからね」 外に出て隠れよう、と伯爵はごくあっさり言い放った。まるで近所のカフェにお茶でもしに行こうと誘うかのような気軽さで。 あたちはうんと素直に頷けずにいた。これ以上寒くなるのは嫌だ。 「素直に名乗りを上げられたらどうですか?」 「余計に面倒くさいことになるだろうね。彼らと彼らの主はわたしがこの機に乗り合わせた理由をしつこく知りたがるだろう。カトマンズ行のこの機になぜ、と」 かちり、と音をたててシートベルトが外された。伯爵は立ち上がると棚戸を開けて、手にしていた本をカバンの中にしまわれた。 あたちも慌ててシートベルトを外す。 「彼らが去ったらギャレーの中を覗いてみよう。まさか飛行機ごと潰す手間はかけないだろうから、何か残っているはずだよ。食べ物と飲み物を持ったら山下りだ。いや、せっかく近くにまで来ているんだ。ひとつ、秘宝を求めて山登りと洒落込むかね?」 「えー。それはいやですぅ。またにしましょうよぅ」 ● 「本件はヴァチカンのある筋から要請です」 険しい雪山を映す巨大モニターの前に立った『まだまだ修行中』佐田 健一(nBNE000270)は複雑な顔をしていた。 「人命救助のお願いなんですが、受けるかどうか、ご自身の判断に任せます。まあ、まずは話を聞いてください」 アークを頼ったのは、ヴァチカンのある派閥だった。 異教徒と結び、聖座を瓦解させんとする危険人物――ボージア枢機卿にそう断定されたある司教の救助と保護を求めて来たのだ。うかつに手持ちの覚醒者を動かせば、大事になる。彼らの代表は『ヴァチカン異端抹消機関』とは対立したくない、と健一にいった。 「ボージア枢機卿は何か勘違いをされておられるようだ、というのが先方の見解です。嘘か誠か。本音はともあれ、誤解がもとで争いが起きるのはとても悲しい、と。ええ、本当のところはどうなのか、誰にも分かりません。ああいうところでは権力争いが熾烈ですしね」 健一はここで思い出したようにテーブルの上の湯呑に手を伸ばした。ゆっくりと茶を啜る。 「現在、全力で誤解を解く為の物証を集めているところなんだそうです。そんな中、当の司教が自ら無実を証明するといって、かねてより交際のあったヒンドゥー教の僧侶のところへ向かいました。これ幸いと、『ヴァチカン異端抹消機関』が航空機事故を計画し……我々アークが間に入って上手く立ち回る事で、悲劇的結果が防げれば一番いいのですが。なんといってもボージア枢機卿は親アーク派の筆頭です。これからもいろいろと力になってもらわなくてはなりませんので、些細な誤解がもとで枢機卿に悪評が立つのはアークにとってもよろしくない……と上は言っています」 だが、いまからでは計画の完全阻止は無理だ、と健一は言った。せいぜいやれて邪魔をする程度、と苦い顔で続ける。 「先方のほうで手を回して爆薬の一部を手に入らなくしたそうです。それでも飛行機の墜落は免れませんが、爆発は小規模に抑えられるためパイロットの腕が確かなら……司教たちも、他の乗客も、乗務員たちも、生存の可能性があります」 予想される爆破のタイミングと規模から、司教たちを乗せた飛行機はヒマラヤ山脈の北側で消息を絶つことになるだろう。 「あちらから先ほど連絡があり、『異端抹消機関』のエージェント数名がヴァチカンを立ったそうです。テロ工作の隠滅はもちろんのこと、司祭だけでなく、生き残った人々も口封じのためにすべて殺すつもりで。今すぐ向かえば、彼らに追いつくことができるでしょう。 話し合いで虐殺を思いとどまらせるか、力ずくで阻止するか、司祭だけを連れて逃げるか。この依頼を受ける、受けないを含めてすべてみなさんの判断にお任せします」 ● 高みから半ば雪に埋もれ、黒い煙を吐き出す巨大な鳥を見下ろすものがいた。 奇声を発して空を飛ぶ、銀色に輝く巨大な鳥のことは時々見て知っていたが、こうして地に降りたところを見るのは初めてだった。 はたしてあれは食えるのか―― 随分傷ついているようだから、自分だけで仕留められるだろう。跡形もなく捌いて集落に運べば、残りの冬を楽に越せる。血の痕と臭いはいつもどおり雪が消してくれるはずだ。 得物をもっとよく観察するためにそれは崖から身を乗り出した。 とたん、巨大な鳥の近くに人の子らが現れたのを見て、それ――イエティは驚いた。巨大な鳥の中から人の子が出てきたのを見てイエティはさらに驚いた。 なんということだ。 あの人の子らは我らの宝を盗みに来たに違いない。 不吉な予感に身を震わせながら、イエティは仲間たちの元へ走り帰った。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:そうすけ | ||||
■難易度:HARD | ■ ノーマルシナリオ EXタイプ | |||
■参加人数制限: 10人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2015年01月25日(日)22:44 |
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■メイン参加者 10人■ | |||||
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●死亡率40% ――ンゴ あわてて手で鼻と口を覆ったがもう遅い。 後ろで微かに身じろぎする気配。下品な音に伯爵さまが顔をしかめたに違いなかった。 ああ、恥ずかしい。でも、だって……聞くんじゃなかった。 「随分下へ流されたからね。ここからではK2の頂きは見えないよ。頂上付近で条件がすべて揃っていても、だ。よほど目がよくなければ無理だね。距離的に」 せめて南側に落ちていれば、もしかしたらチョモランマの頂きが見えたかも。なんて言葉、慰めにもならない。第一、南に落ちていればあの連中だって、救助隊を装ってまでここへは来なかっただろう。救助どころか登ること自体が困難なのだから。 ううん、落ちたのが北側だって変わらない。むしろ更に生き残り条件が悪くなっている。 墜落、そして滑落。 全員、ここまで生きていたことが稀なる奇跡。でも神さまは意地悪だ。祈るだけ祈らせて、最後に笑って手を引く。 あたちはそんな神さまが大嫌い。 「何をそんなに怯えているのかね、ユディト。そもそもわたしたちは『雪崩』の原因の半分に会いに来たのだよ?」 「は、ははは、半分しか……って、き、聞いてませんよぅ。あたちはてっきり――」 目的地はチョモランマだと思っていた。 すると伯爵は声にだして笑った。観光地化された山に彼らはいないよ、と。 「引きこもりのオタクくんが死んだ今、わざわざ、と思ったのだけどね。うん、カトマンズ行きはわたしに向けられた好奇の目を誤魔化すためさ」 ――ここは魔の山、アンナプルナ。 ●ABC アークの救助隊はアンナプルナベースキャンプ、通称ABCに直接ヘリで乗り込んだ。ABCは近い村から歩いて1週間の距離である。人によっては五日、あるいは四日で着く場合もあるが、リベリスタたちにのんびりと景色を楽しみながらトレッキングしている時間はなかった。 『覇界闘士<アンブレイカブル>』御厨・夏栖斗(BNE000004)はヘリから降りてすぐ、重い荷とともに先んじてキャンプ入りしていたシェルパたちをロッジの外に集めた。 騒ぎは救助計画を打ち明けたとたんに始まった。 「いや、ノーマルルートの北だからマシってことはない。そこは雪崩の絶えないヌプツェ北面だよ。あんたたち、頭おかしいよ」 通常、膨大な費用をかけた遭難救助は困難を極め、しばしば死体は回収されずにそのままの姿で山に残された。下手に助けようとすると、今度は救助者が命を落としてしまうからだ。 「そこに助けを求める人がいるのなら、雪山だって駆けつけます。それがリベリスタ、それがアークなのですから!」 防寒着の下に翼を隠した『エンジェルナイト』セラフィーナ・ハーシェル(BNE003738)は、憤るシェルパたちを前にどうどう胸を張った。 「リベリスタ、アーク? 何かしらんが、ずいぶんと立派な心がけだ。だけどな、お嬢さん。ここは――」 まあまあ、と夏栖斗が間に割って入る。セラフィーナを背の後ろに隠すようにして立ち、両腕を広げてシェルパたちに下がるよう頼んだ。 「落ち着いて。一緒に墜落現場までっていうんじゃなくて、途中でキャンプを張って待っていて欲しいって話だから」 『謳紡ぎのムルゲン』水守 せおり(BNE004984)が夏栖斗の言葉をバベルで通訳してシェルパたちに聞かせる。 危ないと判断したら撤退して構わない。二次災害を起こさないためにも、むしろそうして欲しい。そういってようやく、渋々ではあるがシェルパたちは納得した。 が、それもつかの間の事。今度は子供――『きゅうけつおやさい』チコーリア・プンタレッラ(BNE004832)を連れて行くことに反対しだした。あまりにも危険だと。常識に照らし合わせれば、それは至極まっとうでもっともな意見だった。 少し離れたところで、『誰が為の力』新城・拓真(BNE000644)たちは黙々と現地に運ぶ荷を点検し、60リットルのザックに詰め直していた。 背後のやり取りに耳をそばだてながら、拓真は胸の内に音にならない声をこぼす。 (真偽はどうあれ、要請があるのであれば無碍に断りは出来まい。多少の事は目を瞑ろうさ) 多少どころか、重大なことなのだが。事実は事実として、あえて軽く流さなければやっていられなかった。 フォーチュナから山の名を聞いたときにはピンとこなかった。ネット検索した途端、騙された、と思った。それはプロの登山家が五人に二人の割合で命を落としている山だった。 (力の限りを尽くして任務を遂行する。ただそれだけだ) 覚醒者だからこそ、持てる覚悟である。 だが、荷を運ぶシェルパたちは全員が一般人だ。 故に、苦情も出る。心配もされる。 拓真の横にいて、『現の月』風宮 悠月(BNE001450)は不安に陰る目を夏栖斗へ向けた。 「これが普通の反応なんでしょうね」 「でしょうね」、と短く応じたのは『境界の戦女医』氷河・凛子(BNE003330)。騒ぎには目もくれず、てきぱきと手を動かし続けている。 すべてをアクセスファンダズム(AF)の中にしまえば身軽になっていいのだが、さすがに一般人たちの手前、荷なしで山を登るわけにはいかなかった。とはいうものの、スノーモービルなどの大きくてかさ張るものは中に入れてある。 奥州 倫護(BNE005117)がロッジの巡回から戻ってきた。 「異端抹消機関の人たちはここに立ち寄らなかったみたいだよ。みんな見ていないって」 ABCに四つあるロッジには、トレッキング客が十名ほど滞在していた。ロッジのオーナーと合わせて十四名全員が、アークが雇ったシェルパたちより先にベースキャンプに来た者はいないと証言したらしい。 「飛行機のことも知らないみたい。みんな驚いていたよ」 飛行機が墜落したのは山を回り込んだ北側だ。仮に音を聞いていたとしても、雪崩が頻発する山である。飛行機の墜落音だとは思わなかっただろう。 「では、彼らは別ルート……どのロッジにも立ち寄らず現場に直行したのか。すごいな」 『芽華』御厨・幸蓮が異端抹消機関のエージェントたちの行動力に感心する。 自分の分の荷造りを終えて、凛子が立ち上がった。 「裏側にあるノース・ベースキャンプまでヘリを使ったのでしょう。彼らが麓から地道に登ったとは思えません。私たちは救助した人たちを無事連れ帰らなくてはならない……だから、ロッジの建つ最後の地点、ここに立ち寄る必要がどうしてもあった。時間差が生まれてしまうのは仕方のないことです」 しかし、これ以上時間の開きを作るのはまずいですね。そういうと、凛子はまだ手がつけられていない、チコーリアの二回りほど小さなザックを手に取った。 悠月が荷の中から赤い布の束を見つけ出した。戦闘になった場合、混乱する戦場で味方を確実に見分けるため用意されたものである。 (必要なければいいのだけれど) 一枚抜きとって、幸蓮に手渡す。 「はい、これ。腕に巻いて」 「残りも預かろう。兄たちに渡してくる」 シェルパたちとの話し合いがどうにか進みだすと、『原罪の仔』フェイスレス・ディ・クライスト(BNE005122)は静かにその場を離れた。 見晴らしのいい丘に立ち、白く煙る息を風に流しながら、辺りを囲む7000、8000m級の峰を仰ぎ見る。 「悪名高い異端抹消機関を25名も投入して、今だ老人一人殺せないで居る。その要害たるや実に興味深い」 フェイスレスは口の端に笑みを浮かべた。これはただの救出任務にあらず。もっと大きなものが動いている。ああ、そんな予感がする。 「フェイスレスさーん!」 振り返るとチコーリアが上り坂の途中で手を振っていた。 その後ろでセラフィーナが朝日に輝くアナプルナの頂きを睨んでいる。さきほどのシェルパたちとの言い争いがまだ後を引いているようだ。 「戻ってくるのだ。もうすぐ出発なのだ!」 わかった、と手を上げて二人を帰すと、フェイスレスは今一度丘の端に立ち、アンナプルナの頂きへ目を向けた。 ――幕は上がった、簒奪を始めよう ●NBCからヌプツェへ 凛子の予想は当たっていた。 ノース・ベースキャンプにまだ真新しい、人がいた痕跡が残されていた。さすがにヘリの姿はどこにも見当たらなかったが、異端抹消機関たちはここにテントを張って夜明けまでの数時間を過ごしたに間違いない。 凛子の指示でシェルパたちが運んできた荷をおろし、救急治療が可能なキャンプの設置が始まった。 救助要請でネパール軍のヘリを呼ぶにしても、ここでできるだけ手当をしていれば助かる確率が高くなる。神秘の力だけで癒しきることはできるが、のちに疑惑を作らないためにも技の使用は極力抑える方針だった。 幸蓮は倫護の通訳でベースキャンプへの近道及び車両が通行可能な道をシェルパに聞いてまわった。 「このあたりにそんなものは無いよ。天国か地獄への近道ならあるがね」 シェルパたちの間でどっと笑いが沸き起こる。 なんとなく予想していた答えだったが、実際に聞かされるとがっかりした。 「……車は厳しそうですね。この傾斜ですし」 「仕方がないな。できるだけスノーモービルを使って距離を稼ごう」 幸蓮はところどころ黒い肌を見せる山に目を向けた。 「さすがに寒くなってきたな。大丈夫か、悠月?」 防寒着のチャックを顎の下まで引き上げる拓真に、「まだ平気」と悠月が答える。ふたりは肩を並べて山肌に飛行機の残骸を探していた。 出発時、ABCの気温はマイナス二度。このぐらいなら、まだ北海道の方がよほど寒い。歩いていると汗が出たぐらいである。 それが山を回り込んで影に入り込んだ途端、ぐっと気温が下がっていた。ここより上は更に気温が低くなり、空気ももっと薄くなる。 「ブリーフィングではまだ火が燃えている、と言っていましたが……それはもう昨日の話だし心配です」 そうだな、と受けて拓真が続ける。 「とにかく救助を急ごう」 墜落事故が発生したのはもう一昨日のことになる。だが、拓真はあえてそのことを口にしなかった。 「それにしても、旅客機諸共爆殺とは派手な事です。実に俗っぽい手段ですが、まあ有効なのは確か」 どうと地鳴りがして、ふたりのすぐ目の前を雪煙が滑り落ちて行った。 リベリスタたちは全員が手を止めて身を強張らせたが、シェルパたちは雪崩など日常事と首を回して確認することすらしない。曰く、まだまだ小規模。すごいのは人の背丈ほどある氷塊がゴロゴロ転がり落ちてくる、と。 「やっぱりちょっと寒いかも」 拓真は身を寄せてきた悠月の肩を抱いた。 そんなふたりの後ろで、せおりは石を蹴ってわざと音をたてた。 「寒いねえ、南海の生き物には割と堪えるよ……」 などと振り返ったふたりに言いつつ、ガチガチと尖る歯を鳴らす。 「そろそろ行くよ。あとはシェルパたちに任せても大丈夫だろう、ってフェイスレス君がいうし。私もそう思うしー」 あ、と零してせおりが唐突に顔を上げた。 いつのまにか、底の乱れた黒い雲が空を覆い隠していた。 「吹雪になりそうだね」 せおりは広げた手にひとひらの雪を受けた。 ノース・ベースキャンプを出て数時間後、風がぴたりと止んだ。相変わらず空から雪が落ちてきていたが、風がやんだおかげでリベリスタたちは細い黒煙の筋を発見することができた。目の前の沢を越えた尾根の向こう側に墜落機があるに違いない。 焦る気持ちを押さえて、慎重にルートを決めながら進んだ。一般人よりも体力、精神力、運動能力、その他もろもろ優れているとはいえ、全員が登山は素人の域である。目的地を前に遭難したら本末転倒だ。 息が上がりかけた頃、ようやく尾根を越えてヴァチカンたちの背後に出ることができた。 先頭を歩いていた拓真は岩陰に身を寄せると、腕をあげてみんなを立ち止まらせた。タロットカードを模したAFを取りだして着信を確認する。 ――着信なし。 「さて、どうする?」 異端抹消機関をどう扱うか。まだ明確な結論が出ていなかった。 AFに着信がないということは、現時点ではまだ両派閥の和解には至っていない。ヴァチカンで政治工作が続いているということだ。 拓真はAFをしまうと岩から頭を出した。グローブをはめた手で覆いを作り、また吹き始めた風から目を守る。 ここから一番近いところに立っているヴァチカンまでおよそ百五十メートル、司教たちがいる飛行機まで百八十メートル。見積もった距離を報告する。 「まず彼らと話をしてみましょう。元が誤解であれば……戦いは無益どころか有害です」 「そうだな。やはりそれがいい」 凛子の意見に幸蓮が同意を示す。 「向こうが仕掛けて来たらどうするの?」 悠月が問いを投げかける。 「その時はその時。でも、僕たちの目的は司教の、ううん遭難者の救出だ。ヴァチカンたちも僕たちが守らなきゃならない大事な命に違いない」 「夏栖斗のいう通りだな。だが、悠月の懸念ももっとも。彼らは任務でここに来ている。はい、そうですか、とあっさり聞き入れるとは思えん」 「どっちだよ、拓真」 んもう、じれったいな。そういってうなるせおりの脇腹を、倫護が横から肘で軽くつつく。 「せおりさん、押さえて」 「余はどちらでも構わぬ。しかし、こちらからの話しかけは悪くないアイデアだ。何かあったときの言い訳にもなる。仕掛けたのはあちらから、と」 そういうつもりで言ったのではありません、と凛子がフェイスレスに抗議した。なぜか、せおりがフェイスレスに向けて尖った歯を見せる。うー。 「せおりさんてば」 倫護がせおりの袖をひいて下がらせた。 チコーリアは一連のやり取りを、少し離れたところから冷ややかに見つめていた。 数では異端抹消機関数がこちらを圧倒している。しかも相手は世界最強を誇る組織の覚醒者たちだ。 先制攻撃を相手に許した時点で負け、とチコーリアは考えていた。全員が殺されてしまうだろう。説得できればいいのだが、それも望みが薄い。 「どうした。大丈夫か?」 幸蓮に声をかけられてチコーリアは体をびくつかせた。 「な、なんでもないのだ。ただ、あっちに――」 「あっちになんだ?」 何か動くものが、と誤魔化すつもりが、チコーリアは本当に動く何かを見つけてしまった。 横でしゃがみ込んだ幸蓮もそれに気がついたようだ。 (あれはもしかして、三尋木の言っていた……) 吹雪に遮られて上手く距離が掴めないが、それは明らかに人よりも大きかった。白い毛に覆われており、顔が黒い。雪の白と岩肌の黒。動きがなければ完全に山肌に溶け込んで見分けがつかないだろう。 「イエティ?」 「雪男、本当にいたんだ……」 せおりと倫護、そしてセラフィーナがやって来ていた。 あとから拓真たちも加わって、チコーリアが指さす方角へ顔を向けた。ただ一人、フェイスレスだけが岩の傍から離れず、ヴァチカンたちの動きを目で追っている。 「こんな時にエリューションか。まずいな。両方を相手にできないぞ」 「傷つけちゃダメなのだ。イエティさんたちは関係ないのだ」 「見たところフェイトは得ているようですね。珍しいことですが」と凛子。 「だったら、僕たちの敵じゃない。ないけど……」 イエティらしき者たちは確実に近づいてきている。 「ふむ、実に興味深い。状況は予想していたよりも複雑怪奇。あちらはあちらで――どうやら別の覚醒者を探しているようだ」 フェイスレスの言葉に全員が振り返った。 多少吹雪いていても、この距離であればヴァチカンの誰かがこちらに気付くはずである。それがいまだに見つかっていなかった。 おかしい。直感が働いたフェイスレスは輪に加わらず、ひとり監視を続けた。 大部分のヴァチカンが周囲を警戒して動き回っている最中、三人だけ動かずに何かを囲んでいた。 彼らの足元、白い雪の上に散る鮮やかな赤色を見つけた直後のことだ。一人が身を屈めて、雪の中から人の腕らしきものを拾い上げた。やがて他の二人もバラバラになった肉片を拾い上げては離れた場所へ運び、せっせと人の形を作りだした。 「五人分あるようだ。余には彼らが仲間割れを起こしたとは思えぬ。乗客の中に敵性の覚醒者がいた、と考えるのが無難であろう。はっきりとしたことは分からぬがな」 ヴァチカンたちがこちらに気づかないのは、逃亡した謎の敵を探しているためではないか、とフェイスレスは結論づけた。 「逃亡者はかなりの手練れ、と思われるが、さて……時間がない。いかがする?」 ●接触 「アークです! 武器を降ろして話を聞いてください」 セラフィーナは雪の上に足を降ろした。向けられた剣先にひるまず、かわりに笑顔を向ける。 飛行機の中からでも見えるように、とセラフィーナはできるだけ翼を大きく広げたままにしていた。一番外側に着ていた防寒ジャケットは丸めてザックに括りつけ、他の仲間たちに預けている。寒暖耐性を得ているおかげで、あまり寒さを感じない。 神秘を知らない一般人たちから見れば、天使が助けにきてくれたように見えるはずだ。動けぬ司教にかわって司祭の誰かがセラフィーナの姿を見れば、やはり――天使ではなく覚醒者と解ったうえで、助けが来てくれた、と勇気づけられるに違いない。もちろん、計算づくの行動だ。 「あちらから来るのは私の仲間たち、アークのリベリスタです。敵ではありません」 「アーク? 何の用かな。日本の外、しかも神秘が絡む事件ではないというのに。誰の指図かね?」 淡い金髪の、顔に深い皺を刻んだ男が近づいてきた。剣先は下げられてはいたが、鞘には収まっていない。 男はステファン・ノーデと名乗った。50歳ぐらいだろうか。四角い顔を太いもみあげが縁取っている。 「セラフィーナ・ハーシェルです。誰って……もちろん、ヴァチカンの……ええっと、私としたことが名前を忘れてしまいました」 のらりくらりと時間を稼いでいるうちに、やっと夏栖斗たちがやってきた。 交渉のバトンを引き渡して後ろへ下がると、悠月とフェイスレスがそれぞれ独自にEスキャンによる異端抹消機関の観察を始めていた。その隣ではせおりが、気高き神の山の云々、とブツブツつぶやいている。 セラフィーナはできるだけ全体がカバーできる位置へ移動した。 「どーも、アークでっす」 それはもう聞いた、と少しイラついた声が夏栖斗に返される。 うん、と笑顔で受けて飛行機の方へ視線を向ければ、他のヴァチカンたちに動きはなく、ただじっとこちらを見つめている。その様子から、夏栖斗はこの男が司令塔だろうと当たりをつけた。 「もしかしたらもうすぐそっちにも連絡が入るかもだけど、先に結論を言っておく。司教は無実。で、僕たちは作戦の中止を伝えに来た」 「ほう?」 とても信じられないな、とステファンは呆れたように笑いながら首を振る。 「直接、枢機卿から中止を命じられるまでは作戦に変更はない。邪魔をするようであれば誰であろうと排除する。帰りたまえ」 「……随分な相手にやられた物だな。俺には真似の出来ん芸当だ」 拓真がばらばら遺体のほうへ親指を向けた。 「何があった?」 ヴァチカンの聖騎士は細めた目の奥でこちらの真意を推し量っているらしく、強く唇を結んだまま動かない。 しばらくして結論が出たのか、ステファンは口を開いた。 「二人。我々が到着してすぐ、飛行機から出て来たものがいた。逃がすわけにはいかなかったのでね、五人に命じて囲ませた」 「それで?」 ステファンは口をヘの字に曲げると、大げさなしぐさで肩をすくめた。 「二人は姿を消した。五人はバラバラになった。以上だ」 「もう少し詳しく説明してもらえないだろうか」 そう思ったのは幸蓮だけでなかった。誰もが同じことを考えていたらしく、口々に説明を求めた。 「これ以上詳しく説明できん。こちらに油断があったのは確かだが……なにぶん一瞬の事だったのでな。ただ、五人を倒したのは赤毛の少女だった。連れの男のほうは一切動いていない」 「それが本当ならその女の子、とんでもない強さですね」 さりげなく飛行機へ足を向けつつ、倫護が呟いた。 ステファンの意識をそらすため、夏栖斗がとっさの思いつきで言葉を継ぐ。 「任務を続行するなら、その二人の素性も名簿と照らし合わせる必要があるだろ? 名簿は持ってきてる」 「駄目だ。取引はしない。我々は――」 いきなりステファンの顔つきが変わった。剣を構えて頂の方へ体を回す。見ればヴァチカンたちは一斉に行動を起こしていた。 ●イエティ襲撃 雪崩。 雪が流れてくるというよりも、氷の塊のようなものが煙をあげながらものすごい勢いで押し寄せてきていた。ほぼ球形の塊が五つ。雪崩の中腹を転がっている。イエティたちだ。 幸いにも雪崩の幅は狭かった。 問題はどちらへ逃げるか。流れはコントロールされており、まるで飛行機を避けるかのように細かく向きを変え…… 答えに気づいて、はっとしたのは倫護だった。 「飛行機の側へ!」 イエティたちの目的は飛行機だ。おそらく人間社会と関わりを持たない彼らは、飛行機を巨大な鳥だと思ったのではないか。彼らにとって危険な人間は排除して、飛行機は残す。食料として確保するために。だから雪崩は飛行機を飲み込まない――はず。 「早く!」 倫護の号令で全員が飛行機側へ逃げていた。 ヴァチカンたちも感づいて大部分が飛行機側へ動いたが、三人が逃げきれず雪崩に飲み込まれてしまった。 雪崩が行き過ぎたあと、雪煙の中で立ち上がる影があった。 牙を剥き吼えるイエティに対し、ヴァチカンたちも武器を掲げて叫び返す。 「救出班は急いで飛行機の中へ!」 凛子が叫ぶと同時にセラフィーナがアッパーを放ち、イエティたちへ向かったヴァチカンたちの注意を引きつけた。 「ここからは私の時間です。さあ、素敵なダンスを踊りましょう」 怒声が飛び交う中を、幸蓮と倫護がわき目もふらず飛行機へ走り向かう。 凛子もまた二人の後を追った。 ヒポクラテスの誓いを立てた一人の医師として、死に瀕している一般人の手当が何よりも急務だったから。 開け放たれた飛行機のドアから、倫護の声が聞こえて来た。 「キリンバリ司教様、アークです。助けに参りました。ボクたちと一緒に来てください」 戦闘が始まると、せおりはまっすぐイエティたちの元へ向かった。 岩場の話し合いで、急遽、イエティたちの襲撃を利用することになったのだが、どうにかしてこちらの意図を相手に伝えなければ激突は免れない。 ならばバベルを持つ私が、とせおりは危険を承知で進んでイエティ説得の役目を引き受けていた。 「ぐっ……」 イエティの丸太のような太い腕を太刀の鞘で受けとめた。 「気高き神の山の、勇猛なる戦士の皆様。我ら人の子、貴方がたと牙を交えるつもりはございませぬ!」 言いながら受けた毛むくじゃらの腕を、鞘を斜めに倒して落とす。 「海の眷属として、山の眷属たる貴方がたに重ねてお願いします! 赤い布を腕に巻いている戦士は、貴方がたの味方です!」 イエティたちは言葉の喋れる人の子の出現に驚き、戸惑った。 いや、よく見ればこの人の子、すこし変わっている。海の眷属、といったか。海が何であるか分からないが、どうやら自分たちと同じ仲間だといいたいらしい。そういえば少し前、鳥の翼を背に生やした人の子も見かけた。一体、何がどうなっているのか。 「のちほど食料を差し上げます。ここは危険故あまり近づきませぬよう……」 せおりに腕を振り下したイエティが、のそりと立ち上がった。決して背の低くないせおりの頭の上に覆いかぶさるようにして、長い腕を後ろへ伸ばす。 「うわぁぁ」 骨が握りつぶされる嫌な音がした。影の下で振り返ると、そこに銃を落としたクリミナルスタアがいた。 「海の子よ。今の言葉に嘘はないな? 友好の証に食べ物も用意して来ている?」 不思議とイエティには匂いがなかった。低温で菌が繁殖しないためなのか、彼らがエリューションだからなのか。 すぐ目の前で白い毛が風に揺れている。 せおりは誘惑に抗いきれず、腕を広げてイエティの体に抱き着いた。うーん、もふもふ。 「私、嘘なんてつかないよ」 せおりはそのままイエティに抱きかかえられると、とともにクリミナルスタアにトドメを刺した。 「魔術師はクロスイージスとホーリーメイガスを封じよ。余は前衛を崩す」 フェイスレスと悠月は、雪崩の発生とともに仲間たちに敵の構成を伝えていた。誰が何の職であるか。特にふたりが意識して探したのは回復のできるクロスイージスとホーリーメイガスだ。 「悠月、左のクロスイージスは任せろ」 拓真が闘気で膨れ上がった。黄金の剣を煌めかせて、二足飛びに盾を構えたクロスイージスとの距離を詰める。 雪に踏み込んで煙を上げると同時に、渾身の力を込めて剣を上から斜め下へ振った。 呪いの歌声さえ美しく。 拓真の真後ろで悠月が呪葬の歌を雪山に響かせる。癒し手とイージス、司令塔を意識して、されど手心を加えた攻撃は、相手の命まで奪わなかったものの苦痛の叫びをあげさるだけの威力があった。 ヴァチカンのホーリーメイガスが仲間の回復を行おうと杖を掲げる。 「させるか!」 察した夏栖斗が、やはりアッパーを放ってホーリーメイガスを怒らせ、行動を阻害した。 「チコもがんばるのだ!」 白い雪の上に赤い血が落ちて散った。直後、チコーリアの指先から真っ黒な鎖が迸り出て、ホーリーメイガスとその後ろにいたクロスイージス、スターサジタリーらに次々と絡みついた。 「ふむ、素晴らしい。全員、見事な働きだ。では次の手を示そう」 フェイスレスは細身の剣を構えたソードミラージュと目を合わせると、その心へ魔手を伸ばし意識を掴み取った。 ソードミラージュに膝をつかせておいて、「ソミラかプロアを狙いたまえ」と鷹揚に仲間へ指示を出す。 「勝っているつもりか、いい気になるな!」 突風纏って司令官ステファンが切りかかってきた。かわしきれず、フェイスレスは脇腹をえぐられて血を流した。 司令官の動きを援護するように、マグメイガスが天から星々を呼び降ろしてアークの反撃を封じる。間髪入れず、まだ息のあったホーリーメイガスが大いなる存在に祈りかけ、現世にその御姿を呼び出した。 「さすがね。そう簡単にはやらせてくれない」 立ち上がった敵の姿を見て、セラフィーナは唇を噛む。 こちらの回復手はいまだ飛行機の中。 ●逃走 「いけない! 助けに行かないと。御厨さん、奥州さんは早くキリンバリ司教を連れて逃げてください」 言ったとたんに機体が攻撃を受けて大きく揺れた。一度、二度と立て続けに衝撃が走る。その都度、飛行機がずる、ずるっ、と動いたが分かった。また衝撃が走る。まさか、このまま谷に落とす気か? 状況を再度確認しようと小さな窓の外へ目を向けると、夏栖斗が憤怒の形相で駆けていくところだった。 しばらくして衝撃が収まった。 凛子は救命具で包んだ子供に、「いい子にしててね、すぐ戻ってくるから」と懐炉を手渡した。ノーノー、と泣きすがる幼子の手を断腸の思いで救命具の中へ押し込むと、すぐに立ち上がって狭い通路を走った。 ドアから飛び出す。 「私が傷つけ、私が癒す」 願いを込めて吹かせるは、聖神の息吹。 「これより全力で支援します。みく……夏栖斗さん、こちらへ。ここで倒れては助かる命も助かりません! すぐ手当を!」 凛子が出ていったあとも説得は続けられていた。 「異端抹消機関の狙いは司教様です。いまはご自身ことだけを考えてください」 「ここにいれば、みんなを巻き込んでしまう。彼らのことを思うならば、私たちと一緒に来てほしい」 ようやく、司教にうんと顎を引かせることができた。先程の機体の揺れも、大きく効いたのだろう。 倫護はAFから使い捨てカイロを取りだすと、司教様の両脇と尾てい骨、首筋に張って防寒着を着せた。 それから司祭たちにも手伝わせて、司教をおぶった。 「行きましょう」 幸蓮を前にして通路を進む。後ろから無事を願う司祭たちの祈りが追いかけてきた。対照的に通路の両側、座席に座った人々からはなんの反応も返ってこない。恐怖と寒さにやられて感情を失ったか。 倫護はドアの前で機内を振り返った。最後にもう一度だけ、バイタルフォースを―― 「よせ」 止めたのは幸蓮だった。 「兄たちを信じろ。その力は追手をかわすために取っておくべきだ」 幸蓮はドアから顔だけを出すと、戦闘の場が飛行機から離れたことを確認した。AFからスノーモービルを取りだす。 またがってハンドルを手に取ると、後ろに司教を乗せた。落ちないように倫護にしっかりと縄で体を結えさせる。 「おい、待て!」 マグメイガスに見つかった。 倫護も慌ててスノーモービルを取りだす。 声を上げて応援を呼んだところを見ると、どうやらチコーリアがジャミングを発動したらしい。おかげでこちらに向かってくる追手の数が少なくなりそうだ。 「行くぞ!」 それでも三人が追いかけてきていた。 スロットを全開にして斜面を下る。 (一悟にいちゃん、ボクがんばるよ。力を貸してね) 勢いつけて飛び出したものの、すぐにスピードを落とす羽目になった。 ――怖い。 ほとんどが45度以上の急傾斜である。しかも平らではなく隆起している。たまに雪の薄いところがあり、底を取られてひっくり返りそうになることもあった。 それでも確実に追っ手たちとの間に距離をあけて、二台のスノーモービルは山を下る。 倫護は危険を承知で後ろをふり返った。 ――あれ、二人? 人数が減っているのは幸いだった。おそらく、追手の近くにいたチコーリアが一人倒してくれたのだろう。 だが、倫護は同時に良くないことも見つけていた。 追手の二人がいつの間にかクロスカントリー用の短いスキー板を履いて迫ってきていたのだ。 振り返って再度確認すると、開いていた距離が少しずつ縮まってきていた。 (やるしかない) 奥歯をかみしめてスピードを上げた。 幸蓮のスノーモービルに並ぶと、倫護は斜め前方の隆起を指さした。 「幸蓮さん、あそこで仕掛けましょう!」 ●謎のふたり 時々、伯爵はさりげないしぐさであたちたちに圧倒的な力の差を再確認させる。 「じっとしていなさい、ユディト。これ以上、話を面倒にしないでくれないか」 「あい」 指一本。 たった指一本、つむじの上に置かれただけで、あたいは体を動かせなくなっていた。 まるで虫ピンで標本に留められた蝶みたいに。 「あの五人は私を守るためとして、正当防衛が成り立つだろう。いきなり刃物を向けて来たのはあちらだからね。必要ならあのヒゲ――枢機卿――あまり会って話をしたくない御仁だが、まあ仕方がない。ヴァチカンまで謝りに出向くさ」 「ご、ごめんなちゃい……」 ついつい。相手の殺気に反応して、体が勝手に動いてしまった。なによりも、あたいの伯爵さまに剣を向けたのが気に入らなかった。雑魚のくせしてなんたる不敬、畏れ多いやつらだって。うん、そっちのほうが大きかったかも。 「――だが、あれは頂けないね。都合六人か。やれやれだよ」 「あ、あれは……よ、妖精さんのしわざですよぅ。あたいじゃないですぅ」 伯爵のため息が後れ毛を揺らす。くすぐったい。 「そうか。妖精さんがやったことなら仕方がないね。だけど今度妖精さんが出てきて箱舟の諸君らを助けたら……」 助けたら? 「殺すよ」 ひえぇ。微笑含みの声がおっかない。 こんな時の伯爵は本気だ。 指がつむじから離れたというのに、あたいはやっぱり動けないままだった。 ●戦いも終盤にさしかかり 奇襲に耐えて全体回復を果たしたヴァチカンが、戦いで優勢に立つのはごく自然な成り行きだろう。 妨害によりテレパスによる意思の疎通は困難。司令官ステファンはそう悟るなり、ハンドサインによる命令の伝達に切り替えた。部下たちも心得たもので、臨機応変に出されるサインに応えて欠員の穴を埋め、完璧な戦闘戦術フォーメーションでアークたちを翻弄した。 が、それもせおりが五体のイエティたちとともに参戦するまでのこと。一体が並の覚醒者二人、いや三人分の働きを見せて、戦況はあっさり逆転した。 そこへ幸蓮が帰還すれば、もうアークたちの勝ちが決まったようなものである。 だが、そこはさすがといおうか――。 数を三人に減らしてなお、異端抹消機関の戦士たちはアークを相手に勇猛果敢に戦い続けていた。 「今回のは魔眼で記憶操作したら忘れるようなことだ。全員殺す必要はないんじゃない?」 倫護から無事の知らせを受けた夏栖斗が、先ほどから拓真と一緒になって撤退を呼びかけ続けている。 「神秘界隈の裏側に潜む人間ならば……引き際も弁えていると思うのだがな」 「そうだよ。ボージア卿にはうまくいっとくから引いてよ!」 戦いの場から大きく離れた場所にいて、チコーリアは思った。 そのボージア卿を狂信しているがゆえに、彼らは逃げない。いや、逃げられないのだと。それがどうして分からぬか? (枢機卿はヴァチカンだけどバロックナイツなのだ。あっちについたり、こっちについたり。ふらふらする悪いコウモリなのだ。間違いないのだ) そんな男だ。成果なしに生き恥晒して戻ってきた部下をねぎらうとは思えなかった。 なるほど、全員死んでくれたほうが枢機卿、依頼主ともにとぼけやすい。 ステファンらにしても、主らが行っている政治謀略はよくよく心得ているはずである。 彼らを生きたまま捕えたいのであれば、死ぬ一歩手前で身動きできなくなるほど痛めつけるしかない。 なまじ相手が強いだけに、果たして甘さの抜けぬ夏栖斗たちに微妙な手加減ができるかどうか……。 チコーリアは唇を尖らせると、雪の上の肉塊を見下ろした。 それは幸蓮たちを追いかけた三人のうちの一人だった。 (それに、全員倒してしまったほうが、彼らも出てきやすいとチコは思うのだ) 司教を連れて逃げる幸蓮たちを援護するため、チコーリアはすぐさま頭上に死に神の鎌を呼び出した。最後尾の追手であるデュランダルに狙いを定め、鎌を降ろした瞬間―― デュランダルが爆発した。 実際には四方からの鋭い斬撃で肉をえぐり飛ばされ、骨を刻まれていた。それがあまりに素早くおこなわれたので、まるで爆発してしまったかのように見えたのだ。 この近くで逃げた二人が息をひそめている。 ヴァチカン最後の一人、ステファンがついに倒れた。が、どうやらまだ生きているらしい。最後の最後で、夏栖斗たちは「殺さず」を果たしたようだ。 ボロボロになった仲間たちを見て、次にただ一人の生き残りを見て、チコーリアは呟いた。 (死にかけたョックで記憶が飛ぶことはよくあることなのだ。チコもそうなのだ。思い出が旅行に出てしまったのだ) くす、と笑う少女の声。 時間旅行なら任せ給え、という耳に心地よい男性の声を聞いて、チコーリアは大きく声を上げた。 「もう大丈夫なのだ。出てきてくださーい。一緒に山を下りましょうなのだ!」 いままで何もなかったところに影がふたつ、立っていた。 チコーリアは影たちににっこりと笑いかけた。 すると―― “お初にお目に掛かる。推察するに、卿らが司教殺害の要害か” 後ろから声がした。 フェイスレスだった。 ●その名は フェイスレスの物言いに男は苦笑を返した。 ちなみにドイツ語だ。だからよけいに堅苦しく聞こえる。 “余はフェイスレス・ディ・クライスト。黒い太陽を辿る者” 男は片眉を高く上げた。訛りのない流暢なドイツ語で応じる。 “それは、それは。箱舟にもあのオタクくんにファンがいたのだね。面白い。そうそう、彼の熱烈な信者と言えばディディエくんは惜しいことをした。私が拾おうと思っていたのに横から――そう言えばあの時、オタクくんはどうしてヴァルミーにいたのだろうね?“ 男は横にいた少女に顔を向けた。 “知りませんよぅ。あたちはその時まだ伯爵にお仕えしていませんから” “ああ、そうだったね。あの時は確か、ゲーテくんと一緒だったな” 男は仕立てのいい服を着ていた。使われている生地は見るからに上等で、ぴったりと体にあっている。おそらくはオーダーメイド。 そう、男はコートを羽織っていたものの、ビニール製の防寒着は身につけていなかった。にもかかわらず、震えていない。寒暖耐性があるのか、またはほかの能力を持っているのか。 一方で、赤毛の少女は可哀想なぐらいブルブルと震えていた。 少女は横手からセラフィーナが差し出した防寒着を素直に受け取ると、袖に腕を通した。 “……卿らが如何なる人間かは存じ得ないが、一緒に食事でも如何かな” “ありがとう。喜んでご相伴にあずかろう。ついてきなさい、ユディト” フェイスレスはチコーリアとともに謎の二人を、炊き出しを始めていた悠月たちの元へ連れて行った。 “ところで――” 「わたしは日本語も話せるし、この子はバベルを持っている。このまま君だけに分かるドイツ語で続けるかね、フェイスレスくん? せっかくだから、みなさん全員にご挨拶申し上げたいのだが」 男は人を食った微笑みでフェイスレスを鼻白ませた。 「伯爵さまぁ、ご挨拶は後にして冷めないうちに頂きましょうよぅ」 「そうだ、ユディト。それを飲み終えたらイエティたちに伝言を頼むよ。アレをもっと奥に隠したまえ、と伝えてくれないか」 凛子が、「アレとは、もしや青い光の事ですか」と聞く。 「その通り。光を見たのかね?」 「いえ。三尋木……アークと協力関係にある組織から得た情報です。何なのです、青い光とは?」 男は、知らないほうがいいこともあるのだよ、と言った。 「だか、ここだけの秘密にできるのなら教えてあげよう。通称、生命の青い炎。生命寄与、光を浴びたものの寿命を格段に伸ばす性質を持つ巨大な石。賢者の石の変わり種だ。強欲で自制の効かない馬鹿な人間が手にしたらこの世界の悲劇だからね。イエティたちにはこれからも隠し守ってもらわねば」 「一体、何者だ」と拓真。 「サンジェルマン伯爵。君たちにはバロックナイツ第三位といったほうがいいかね?」 ● 倫護はお茶の用意をして、仲間と遭難者たちの帰りを待っていた。 「遅いなぁ。みんな、何をしているんだろう?」 司教はすでにネパール軍のヘリで麓へ輸送されていた。もう何度、湯を沸かし直したことか。 AFに夏栖斗から着信が入ったのは、また山を登ろうと決意した矢先のことだった。 ――先に二人、下山するよ。 そっけない言葉のあとに続いた報告を聞いて、倫護は絶句した。 ――ところで、倫護。 ――司令官のステファンがそこへ来なかったかい? ――いないんだ、どこにも……。手当がまだで、死にかけていたのに…… |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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