●空っぽ風船空に舞う ざああああ。 私は洗面台に凭れ掛かったまま、水の流れる音を聞いていた。くらくらと眩暈がする。 唐突に吐き気を催したのは、いつだっただろう。分からない。差し込む日差しが赤い。今は夕方のようだ。何時からか忘れてしまったが、襲い繰る衝動に抗えず、ずっと嘔吐を続けている。不思議なのは、最早胃の中には水分を含めて何も入っていないだろうに、吐くものがある事だ。内臓ごと引っ繰り返って出てきてもおかしくない程に吐いているというのに。また、何かが競りあがってくる。ごぼごぼ。ようやく流れた洗面台に向けて、また吐いた。暫く前から吐き出す液体は赤かった。血なのだろうか。痛みはない。ごぼ。吐き出す赤の中に、塊が混じる。肉片だ。けれど肉を食べた記憶はない。何だろう。これは何だろう。赤いなあ。一回吐くごとに、色々なことが分からなくなっていく気がした。ごぼ、ごぼ、ごぼぼぼぼ、べちゃ。あ。呆然と洗面台を眺める。そこに落ちたのは、舌だった。根元からぽろりと取れた舌。誰のだろう。私のだ。でも痛くない。何でだろう。病院に行かないと。取れた舌は付けてもらえるんだろうか。電話で聞いてみよう。ああ、でも、私、喋れない。誰かに助けて貰わなきゃ。あれ、そういえば頭がさっきより全然すっきりしている。吐き気も消えた。何でだろう。でも舌がない。誰かに電話で聞いて貰おう。落ちた舌を掴めば、唾液か胃液でぬるりとしていた。歩き出す。体が軽い。まるで要らないものを全部捨てて風船になったみたいだ。たん、たん、たん。舌を持ったまま外に出る。けれど、寂しくなった。空っぽだ。私の中は空っぽだ。寂しい。急に心細くなって立ち止まったら、黒い影が掛かった。見上げれば、黒い女の人が黒い傘をさして笑っている。 「大丈夫」 真っ黒な服に白い肌、赤い口紅を引いた唇がそう言った。細い綺麗な指が、私の顎をすくう。近付いてきた女の人の顔は、ベールで隠されていて口以外見えなかった。触れ合わせた唇をゆっくり開かせて、舌のない私の口の中に女の人の舌が入ってきた。思い出した。確か少し前にもこの人がいて、そして。細くて長い舌が、喉の、奥まで。またえずきそうになった私の頬を押さえて、女の人はキスを続ける。ぽた。ぽたぽたぼたぼたぼた。女の人の舌から、何かが滴ってきた。空っぽの体に、溜まっていく。段々と気持ち良くなってきて、私はうっとり目を閉じた。何かを落とした気がする。何を持っていたんだっけ。忘れてしまった。空っぽの体に染み渡るキスをした女の人は、暫くしてから顔を放す。長い舌が、赤い唇の中に納まった。 「良い子。そのまま熟成までお待ちなさい。ロデリアと一緒にお待ちなさい」 意味は分からなかったけれど、私は頷いた。すっかり満たされた私は、空っぽじゃない寂しくない。この女の人と一緒に居ればいいんだ。ふらり、ふらり。 場に残るのは、砂に塗れた舌。 ●水入り風船地面に堕つ 「さて、水風船で遊んだ記憶はありますか? ……例えは良くないかも知れませんが、そんな感じのお話を皆さんのお口の恋人断頭台ギロチンからさせて貰います」 首を振って、『スピーカー内臓』断頭台・ギロチン(nBNE000215)は話し出す。 映し出されたのは女。黒に包まれた蝋のように白い肌、赤い唇。 女に見えるもの。 「アザーバイド『ロデリア』、これが個体名なのか種族名なのかは知りませんが、本人が名乗ってたのでそれでいいでしょう。人に似ていますが全く異なる生物であり、ぼくらには明らかに有害です」 フェイトを持たないのもそうだが、ロデリアは――人を別のものに作り変えている。 一瞬の静止画、赤い唇から零れた長い黒い舌。 「これはぼくらが持つ舌とは別の器官です。消化液……と言うのが近いんでしょうかね、粘膜や内臓、柔らかい所をズタズタにして排出させる効果を持つ液体を分泌する器官の様子です」 モニターが変わる。嘔吐する少女。 吐血のように吐き出すものは赤く、所々肉のようなものが混じっている。 なのに少女は動じない。ぼんやりとそれを眺めながら、吐いて上の空を繰り返す。 「……内臓を吐き出せば、当然人は生きていられません。彼女が生きている、というか動いているのもこの液体の影響で強制的に別の存在に書き換えられているからに過ぎません。ぼくらの世界で言うとE・アンデッドになりかけている状態、ですかね」 熱を持ち、肉の柔らかさを保ち、自ら動く力を持ちながら、ロデリアに蕩かされた少女はもはや生きた人間とはいえない『何か』になってしまった。 「ロデリアの台詞から推察するに、彼女にとって人間はワインの皮袋と似たようなものなのでしょう。肉ごと喰らうのか中で、……まあ、『熟成』させた液体を嗜むのかまでは知りませんし別に聞きたくもない所です」 形は似通えど、ロデリアは捕食者。 こちらに対し情など持たないだろうし期待もすべきではない。 「ロデリアは郊外の小さなログハウスに捕まえた少女や少年を集め、熟成を待っている様子です。付近には彼女が出てきたゲートが存在します。知能の類は人と同じ、或いはそれ以上と考えられますので、うまくこちらを脅威と思わせれば必要以上に『熟成待ち』には拘らないとは思いますが……逃がすか討つかは皆さんにお任せで」 幸いながら、ロデリアは即座にゲートを開く芸当は持ち合わせてはいない様子だ。ただ、その場合はロデリアが強力なアザーバイドである事も踏まえて抵抗が激しくなる危険性を考えねばならない。ただでさえアークが抱える案件は多く、被害は抑えることに越した事はないのだから。 「それで、ロデリアを討つにしても逃がすにしても、『熟成待ち』の彼らはその場で終わらせてください。彼らはぼくらの世界の神秘や医学ではもう助けられません。アンデッドと化せば本格的に世界の敵となります」 今の内に、殺してください。 薄ら笑ったギロチンは、首を振る。 「良い天気ですね。こんな良い天気ですから、全部嘘になれば良いんですけれど。ぼくが嘘にして貰えるのは、ロデリアがこれ以上の被害を齎すことだけです。……ぼくを嘘吐きにしてください」 宜しくお願いします。 そう、フォーチュナは小さく頭を下げた。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:黒歌鳥 | ||||
■難易度:HARD | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年12月31日(水)22:25 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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● 真っ青な青空の下に、影の女は座っていた。 いかにも自然なように。本も開かず、日向ぼっこを楽しむように。ただ、黒い日傘がそれを否定する。 そして赤い唇が笑みを描いていても、リベリスタにはそれが世界の異物だと分かってしまう。 「あんたがロデリアさんってのか?」 問い掛けに明確な返事はない。『はみ出るぞ!』結城 ”Dragon” 竜一(BNE000210)は間を詰めながら言葉を重ねた。 「ただの戯れなんだろ? あんたみたいなヤツにとってはさ。そうなら、悪いが、おうちに帰ってくれないかな」 言葉の中身は友好的に、それで帰ってくれるなら手っ取り早くていいのだが、生憎そうはいかないだろうと知っている。微かな笑みを浮かべた女の顔の下半分は整っていた。作り物にも似た白い肌、赤い唇。 傘を持つ白い指先が喉から滑って己の顎を留め、口付けを授ける光景は何となく悪いものではないような気もするが――何しろこの女の様なものが見せているのは半分だけ。上がどうなっているかは分かったものではない。アザーバイドである事自体は忌避する理由ではないのだが……いや、あれだ、女のようでこの世界の女とは違う存在とは言え、彼女がいる前で他の女から容易くキスを受ける訳には竜一とはいえいけない。容易く受けてはいけないのだ。 ログハウスの前、小さな椅子からロデリアはまるで本を閉じて立ち上がるような自然な仕草で立ち上がった。 「グルメなことだな?」 知ってか知らずか竜一の決意を新たにさせている彼女、『普通の少女』ユーヌ・プロメース(BNE001086)の眉は動かない。光景に何を覚えるでもなく、異物の存在に怯えるわけでもなく。 「樽を作り熟成させて、痴呆の群れを作っていい趣味だな」 口から吐き出される言葉に毒は含まれど、飲んで悶えた所でユーヌの表情は変わるまい。お前が勝手に飲んだのだ、と事実を告げる唇で並べるだけだ。 「人間は熟成用の樫樽じゃありません!!」 応えるように二人の横から駆け抜けたのは、『ハッピーエンド』鴉魔・終(BNE002283)。これは美食と例えていいのか、人の美食も極めれば大衆一般の感性からは悪趣味にしか見えないとも聞くが、悪趣味さえ越え有害ならば速やかに排除するのが己の役目。 呼吸の音も、この女からは聞こえない。この世界には、要らないもの。 「大丈夫。怖くはないの。大丈夫」 ロデリアはリベリスタの接近を待つように微笑んでいた。微笑んでいるように見える。 熟成待ちはログハウスの中か。ここからは見えない。閉ざされた扉の向こうで笑っていることだろう、幸せそうに。別に彼らが幸福であろうがそうでなかろうが『アウィスラパクス』天城・櫻霞(BNE000469)には大して興味のない事だとしても。 「死亡通知決定の人間を好きに扱っているだけならば、現状の実害はないのかも知れんがな」 「生きるためには食事を取らねばなりませんもの。ロデリアはそれがたまたま人間、と言う事なのですよね」 愛しい彼の姿は常に視界に入れながら、『梟姫』二階堂 櫻子(BNE000438)は黒衣の異形からどうにか良い距離を取ろうと目測する。生きる為に食べる。それはこの世界でも変わらぬ理だ。 自分が死にたくないからお前は飢えて死ね、と言っても誰も聞いてはくれないだろう。ましてや、櫻子も含めたほとんどの人々は、同族を食べないというだけで食べられない訳ではないのだ。 だとしても。 「連中がこぞってアンデッドになれば崩界は加速する。おまけに真っ当な人間に手を出す可能性も否定できない」 「これ以上は、我々の世界で被害を増やすというのは止めて頂きましょう」 淡々と告げる櫻霞の言葉に同情の響きはなく、構える櫻子の目にも躊躇いはない。 そうなれば、もう結論など決まっていた。 共生は不可能、敵対は必須。だとしたら、残るのは互いに排除しあう未来だけだ。 「実に簡単だな?」 「ええ。これが我々の仕事ですわ、参りましょう」 櫻霞の持つ白と黒が月の淡い加護を受け、巡る魔力に櫻子の目が細められた。 「ハァイ。ご機嫌如何かね、倉庫番」 ログハウスの前に座っていたロデリアをそう揶揄し、緒形 腥(BNE004852)はおどけた悪意を以って軽く右手を振ってみた。 「早速だが、お前の仕事を台無しにしてやるぞう」 笑う女の顔がフルフェイスの前面に映り込む。人を攫って人を溶かして人を殺して人を食べて。そんな仕事は今日この日中に強制終了。世界に有害? ご尤も、とは言え腥にとってはそんな事自体はどうでもいい事に過ぎないのだけど。 「ああ。ついでだ、サービスで『お前』もバラして殺ろうじゃないか」 フルフェイスの中は空っぽだから、表情なんて見えやしない。存在しない。 上を覆われた女の顔も、分からない。 人を喰らう異形なんて、困った事に神秘界隈ではさほど珍しい訳でもない。とは言え、その手段が惨ければ覚える感覚も違ってくる。 「ギリシアの女怪のように、石像にして飾っておくほうがまだ典雅だろうに」 命を絶つ事に変わりはなくとも、意識も体も蕩かして喰らうその手口が、『プリンツ・フロイライン』ターシャ・メルジーネ・ヴィルデフラウ(BNE003860)には眉を潜める代物だ。 故に、彼女は迷わず己を駒へと変えた。 可憐さを残す姫ではなく、絶対として君臨する蛇の女王へ。逃すものか、お前の届く距離は私の届く距離と変わりがない。 「美味しくいただきたい、という気持ちは分からないでもないですが」 育ちは違えど年頃の近い『聖闇の堕天使』七海 紫月(BNE004712)も、ターシャと抱く感想は同じようなもの。血液を嗜む紫月からしたら、熟成させた深みよりも新鮮さが命と思うのだが、あの中に入っているのが血液かも定かではない。 「知ってます? 美食家には短命な方が多いですよ」 食を極めて美食を求めれば、往々にして健康との両立は難しい。とは言え、この場合ロデリアを短命とするのは紫月らリベリスタだ。 女と対照的な白い衣装を真昼の太陽の下に翻し、紫月はその血の味を思い小さく微笑んだ。 ロデリアは広げた傘の下、薄い影を受けながら笑っている。 笑っていた。 「ロデリアと一緒に参りましょう」 次の瞬間、夜になった。暗闇に閉ざされた。 ただそれは一瞬、範囲から外れていたものはミルククラウンのように広がった黒いドレスの裾が仲間を打ち付けたのだと気付いただろう。暗転にも似た黒い訪れ、瞬く間もなく女は赤い唇を小さく開いていた。 目の前で。 「良い子で少し、お待ちなさいな」 ああ、人が獣の子供の肉は柔らかく食べ易いと感じるように、この女もそう感じるのだろうか。 『若い皮袋』である紫月に、女は恍惚のキスをした。 無数の針を飲み込んだような痛みは一瞬で、蕩けるような柔らかさと、包まれていく幸福感。 喉から競りあがってくるこの味が『紫月』の味なのだろうか。 捕食者に囚われる被捕食者の気分は、紫月が思うよりもずっとずっと――甘く感じた。 ● 前衛が弾かれる。ロデリアが間を詰める。或いは二度、柔らかな唇が降らされる。 「怖いことなど、何もない」 ユーヌに施された処置も一瞬、噛み切るにもゴムより硬いその黒い舌のようなものは歯を通してはくれやしない。ずるんと舌の上を滑って食道を抉る、嘔吐く間もなく腹が重くなった。 ぐらりと頭を揺らしたユーヌは、それでも耐えた方だろう。唇に紅の赤は残らない。あれは紅を刷いているのではない、きっと元からそういう色なのだ。赤くて、赤くて、赤くて、真っ赤。 赤がユーヌの気を引いた。鮮やかな色。鮮烈なイマジネーション。幸いをくれる色。 力がうまく入らない。それでも覚えた事のない幸福感。腹部に残留する不快感。 赤と白と黒に渦巻く視界の幸福。満たされる幸福。作り変えられる幸福。 口を押さえた。隙間から漏れてきた色も赤だ。これはきっと要らないもの。ごぼっと吐き出した。赤を吐き出した。痛みはなくてただ体の中すべてを吐き出したい空っぽ。 「ユーヌたん! ダーリンはこっちだよこっち!」 声を掛けてはみるけれど、囚われたなら厄介だという事は竜一も既に身をもって知っていた。 ユーヌの符が白い指先から離れ、無数の翼となりターシャへと襲い来る。 「悪食にくれてやるのは鉛玉で十分だ」 加護を宿した弾丸、猛禽の嘴の照準は違わずロデリアへと定められ、体ごと壊すかのような激しい瞬きと共に撃ち込まれる。ドレスに穴が開く。それでも直る。世界の理が通じない輩に、櫻霞は驚くでもなく眉を上げた。 「さっさと自分の世界に帰れば良かったものを」 提案は竜一がしてやった、従わなかったのはロデリアの方。痛んで傷付いてそれで死ぬ、櫻霞の鋭い目にはその未来しか見えていない。 ほぼ全ての不利益を身に受けない腥は、ドレスによって弾き飛ばされる以外の悪影響は存在しない。 ただただロデリアと向かい合い、その身を殺、じゃなくて膾、でもなくて、『話し合い』と言う名の物理交渉を行うばかりだ。 「ドレスも体の一部なのか? 中身はじっくり観察させてもらうよ」 研ぎ澄まされた刃の足が首筋狙って煌いた。ドレスを越えて肉の様なものを切り裂いて、ぱっくり開いた傷口は白く――すぐに黒に覆われる。指先からぱたぱたと落ち始めるようになった透明な雫が、この女の『血』に当たるものなのか。 「痛みを癒し……その枷を外しましょう……」 同じくロデリアの攻撃に心を左右されない櫻子は、赤と黒と白に囚われた仲間の傷を塞ぎ解放すべく、異世界の存在を辿り癒しの力を顕現させる。 優れた回復を持つ櫻子であっても、惑わされた仲間の解放は決して簡単なことではなかったけれど……分の悪い賭けも一度で抜いて櫻子を振り返った櫻霞という存在がいれば、彼女が諦める事は絶対にない。 「蛇睨みだ、崩れてしまえ!!」 女王たるターシャの紅玉の瞳が細められ、放たれるのは絶対零度の冷たい視線。蛙のように凍りつき、食われるがいい世界の異物! 彼女が持てる最高の一撃によって葬り去るべく、メルジーネの動きは止まらない。 笑い続ける女の唇。 赤の上。 竜一が狙うのは、その頭部。何があるのかは知らないが、隠されているという事は見せたくないに違いない。 「中に何が詰まってんのか知らないが、てめえの中身、暴いて捌いて晒してやるぜ!」 ベールが飛んだ。竜一の渾身の一撃に切り裂かれた。覗いたのは、ああいや、覗かなければ良かった。人ならば頭部であるそこ。髪があるかないかは置いても、凡そは丸みを帯びた弧線を描くはずのそこ。 細かい柄の細いリボンが、ぼこぼことした血管の様に巻かれている。違った。模様に見えたのは、虫の複眼の様な玉虫の光を照り返す無数の何か。リボンではない。肉なのか何なのか分からない。デタラメに巻かれたラッピングボックス、肉のリボンの掛かっていない場所はただ不安を煽るように抉れている。中身が見える訳ではない、ただ、黒と赤の中間のような色で抉れていた。 「――あら、はしたない」 軽い言葉と共に女が指先を額に走らせる。切り裂かれたはずのベールが一瞬にして戻り、女のおぞましい頭部を覆い隠した。隠してくれた。 竜一が、ヒトが一般に思い描くような頭部ではなく、目すら存在せず。 人には在らず。分かっていても、似通った姿の一部だけがこうも違うと違和感が酷い。 「黒の中にある白、白の中にある黒こそ際立つ美が故に――惑わされず、どうぞ手を取りくださいまし!」 回復もだが、魅了されたユーヌを救うのがこの場での急務。そう判断した紫月が呼ぶのは、一人に降り注ぐ大天使の癒し。こぽこぽと口の端から零れ続けていた血が止まる。 歪んだらしき視界に一瞬だけ眉を寄せたユーヌだが、口から手を離せばいつも通りの表情で、少しばかり掠れた声で首を振った。 「全く、きつい口臭ほど嫌なものはないな? 内蔵やられたおっさん並だな」 恋人の甘い口付けならまだしも、気軽に唇を預けてやる趣味はユーヌにはない。 内臓の変わりに吐き出される言葉にも、女は全く頓着しなかった。 「良い子。どうぞ大人しくお待ちなさい」 タワー・オブ・バベルと似た能力なのだろうか。ロデリアの言葉は淀みなく一定のトーンを崩さぬまま紡がれた。ただ、その様子はよくよく見れば違和感がある。 子供に言い聞かせる調子ではない。諭す調子でもない。『そうなる』のが決まっている事実を口にしているだけに過ぎない。野菜に『大きく育ちなさい』と言うのと変わらないように。 「此方の言葉を理解もしないか。益々以って存在価値のない事だ」 「大丈夫。怖いことなんてない」 ユーヌが目を細めて毒を吐いても、異形の声は揺るがない。捌くのに慣れた人間が俎板の上にいる魚の喘ぎを気に留めることがないように、この化け物は人間の言葉など一切合財聞いていない。 大人しくしててね。今おいしく食べてあげるから。 獲物が暴れようが拒否しようが、ロデリアにはそんなことは『ないも同然』なのだろう。 赤い唇に見えるそれだって、本当は口ではないに違いない。舌に見える黒い器官だって、そうではないに違いない。 ただ、ヒトの姿に似てるから、その差異がおぞましい。 「美味しく頂かれる訳には、いかないんだよね」 どうせ死ぬしか未来がないのなら、美味しく食べて貰おう。そんな結論に、終は至らない。 食べられてしまう前に、この世界で幕引きを。正しい終わりと弔いを。 キスを受けた時の幸福感は、確かにこのまま終っても良い程の酩酊に似た満ち足りた感覚ではあったけれど――それは終が望む終焉ではない。 そしてロデリアの動きは流石に終よりは一歩遅く、軽やかな切り替えにより叩き込む攻撃達も女の専売特許ではないのだ。 戦場を吹き抜ける風よりも遥かに早く踏み込んだ終の刃が、女の体を切り刻んだ。 「逃がさないよ」 一つの目が、存在しないロデリアの目を捉える。 この世界を侵した存在を、リベリスタはそう簡単に見送らない。 ● 最期の瞬間は、弾ける音だった。 振り下ろした竜一の刃がロデリアの体を抉り切り裂いて、今までと同じように白い肉のようなものが見えて、ぱちん。 弾けた液体をマトモにかぶった竜一は急いで拭うが、微かな甘い香りもすぐに薄れて消えてしまった。 「……ありゃ、何もないの?」 気の抜けたように首を傾げた腥の視線の先には、弾けた風船の欠片のような黒いものが残っているだけだ。笑う赤い唇も、白い肌も、そこにはない。 「末期の水を差し上げる間もありませんでしたわね」 喉の奥に蘇ってきた味を思い返し、紫月は目を細めた。体は酷く痛んではいるけれど、陶酔の恍惚にも似た甘さはまあ――悪くなかったかも知れない。死に到るまで浸るのは望まないにしても。 そうだ、死に至るこの恍惚を味わった者達がまだ残っている。 ログハウスの扉を開けば、カーテンを閉ざされたその部屋の中心で、誰も彼もが薄ぼんやりと笑っていた。 ハンカチで口元を押さえた櫻子の肩を抱き、櫻霞が肩を竦める。 「ご愁傷様、と言った所かな」 「……ゲートも閉じて参りましょう」 哀れむ視線を一度送った櫻子が、ロデリアの出てきた穴を閉じる為に裏手に回れば――後は彼らの処理だけだ。 「……ボクがやるよ」 「一人でやる必要はないさ、手伝うよ」 「……ヘア・オガタ、すごくワクワクしてない?」 「いやいやそんな事はあ、いやないね!」 「死者の尊厳を踏みにじるような事はダメだからね??」 終が一応首を傾げるも、熟練のリベリスタにとって抵抗もしない一般人の成れの果てなど、命を止める事は造作もない。 息の根を止める為に首を切り、中身を流すために腹を開けば流れ出すのは血でも内臓でもなく、微かな甘い香りの漂う液体ばかり。 笑みさえ浮かべて死んでいく彼らに残るのは、緩やかに溶けて行くばかりであった肉と脂肪の塊。 それに思わず目を閉じてしまったターシャは、まだ己が『お姫様』である事に息を吐いた。 「さて、竜一。口直しのキスは必要か?」 「口直し! じゃなくてもいつだって歓迎だけどね!」 小柄な恋人が首を傾げたのを抱き上げて竜一が落とした口付けは――甘くはないけれど、酷く幸福なものだった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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