● 「そうですねぇ。貴女に利用価値があるとすれば、方舟との繋がりがあることぐらいですか」 黒いコートから伸びる脚が、地面に転がっている白衣の少女を踏みつけていた。 躰の重心である胴体を容赦の無い力で押し付けられれば起き上がることすら困難である。 「ここまで追いかけてきた事には敬意を評しますが、もうそろそろ限界なんじゃないですか?」 ぜぇぜぇと呼吸をしている少女の瞳はパキラート・グリーン。 「うるさいですぅ! それを返せ! ぐぁっ!」 心臓の辺りから突き抜ける幾千のもの針を刺したような激痛が白衣の少女、元六道、現ラセットバルディッシュのユラを襲う。 この痛みは踏みつけられているからではない。体内に施された時限爆弾の様な毒のせいだ。 「っぐ! 返せぇ! 海音寺、政人!」 ユラは自分の胸に乗っている相手の脚を掴んで、片方の手を上に持ち上げる。 リッド・ブルーの瞳をした男が持つ『先輩』の形見。煙草型のアーティファクト。 「……苦しいですよね? 今、貴女の身体を少しずつ犯してるのは私が作った特製のウイルスです」 相手へ見せつけるように煙草型アーティファクトを掲げる海音寺。その表情は今までにない、少年の様な楽しげなもの。ダスク・グレーの裏路地の隙間から見える蒼穹の空へと昇っていく紫煙。 「ラセットバルディッシュにとって、私がこれから提示する対価よりも貴女の価値が勝るならその苦しみから開放してあげても構いません」 「どういう、意味」 ユラを踏みつけながら海音寺は声を張り上げる。 「そこで監視しているラセットの皆さん、ごきげんよう。突然ですが、貴方達の大事な職員は体内に死毒を抱えています。昨年、私が施してさし上げたクリスマスプレゼントです。まさかこんなに長く楽しんで貰えるとは思ってなかったんですが、彼女は本当に頑張り屋さんのようです。こんな健気で可愛い彼女を救いたければ後日指定する時間と場所に対価を持ってきて下さい」 裏路地の片隅に居るネズミやカラスの眼球は少し離れた場所に居るラセットのメンバーと繋がっているのだろう。仲間の窮地にどう出るかと伺っていたのだ。 「私が求める対価は、アークに在籍する『海音寺なぎさ』です」 「といっても本人を差し出す事はしないでしょうから、百歩譲って遺伝子情報で構いませんよ。新鮮な血でも抜いた髪の毛一本でも構いません。非力な貴方達なら簡単でしょう。泣いて縋ればいいんですよ。アークは正義の味方ですから喜んで手を差し伸べてくれるでしょうね。仲間の命か血・髪の毛かなんて比べ物にならないですよね」 海音寺の声だけがダスク・グレーの空間に響く。 ――――カツン、カツン。 しばしの沈黙の後、静けさを割いたのは一つの足音だった。 「……もし、アークがその『対価』を拒否した場合はどうなる」 低い声と共に現れたのはラセットバルディッシュのリーダー、レオ・マクベインだった。 短く刈り込まれた金髪と碧い瞳。海音寺と比べれば頭一つ分程大柄の男だ。 「貴方の大事な仲間は死にますね。その場で殺しても構いませんが、生かしておいて長く苦しめる方が好みでしたそちらでも良いですよ」 レオのスカイ・ブルーの瞳が鋭さを増して海音寺を睨みつける。 「分かった。どうなるかは現段階では分からないが方舟に掛けあってみる。なのでユラを返してくれないか」 威厳のある声で海音寺へ言葉を紡ぐレオだったがリッド・ブルーの瞳は、否。 「いいえ、これは人質ですから。指定日時まで預からせてもらいますよ」 「何だと!」 「あ、それと私の背後に居る部下たちも下げた方がいいですよ。今の私を殺しても彼女は救えません。今、貴方達の目の前に居る私は『本物』じゃありません。遺伝子情報はまぁ大体同じですが」 右手でユラの身体を猫を摘むように持ち上げた海音寺は左手で紫煙を燻らせる。 左手の薬指にあるはずの青く光る指輪が無い。 「ま、さか、お前ぇ」 ぜぇぜぇと息を切らすユラが忌々しそうな声を吐き出す。 「ああ、そういえば昔は貴女と同じ道を歩んでいた事も有ったんですよね。お察しの通りですよ。いや、苦労しましたよ。此処までの完成度に仕上げるのは。外を出歩くときとか便利なんですよね。本物より頑丈ですし」 いつもより饒舌に言葉を揺らす海音寺。否、いつもというのは別個体と比べての話だ。 「あっと、少し喋りすぎだと叱られてしまいました。申し訳ありませんが指定日時については後日お知らせしますので今日はここで失礼致しますね」 にっこりと微笑んだとびきりの笑顔はかつて家族に向けていたものと同じなのだろうか。 スモーキィ・パープルの煙に包まれて海音寺とユラはその場から忽然と消え失せた。 ● 「…………」 ブリーフィングルームの画面に映しだされた幾らかの写真資料を『碧色の便り』海音寺 なぎさ(nBNE000244)は海色の瞳で見つめていた。 そこに在るのはかつて幼い頃、父の日のプレゼントに涙を浮かべながら喜んでいた父親の笑顔そのものだったからだ。 失踪して行方が分からなくなっていた父親が見つかったのは去年のクリスマス頃だっただろうか。フィクサード海音寺政人とフォーチュナ海音寺なぎさは実の親子だ。 胸にペール・グレーの暗雲が立ち込めて苦しくなってくる。 けれど、今現在重要な事は自分自身の感傷ではない。命を救う為のブリーフィングだ。 「今回の依頼はラセットバルディッシュからのものです」 その聞きなれない名前はエストニアに拠点を置くバルト三国のリベリスタ組織のもの。 オルクス・パラストやアークに比べればその数や実力はかなり劣る規模であるが故に、己の実力以上の敵に対して方舟に助けを乞うてきたのだろう。 元はと言えば日本のフィクサード事件が鍵になっても居るのだから、オルクス・パラストよりアーク向きと言った所なのかもしれないが。 それより何よりも―― 「目的はリベリスタの救出。相手が求めているものは私の……」 他人の命と自分の血や髪の毛が等価だという事が怖くて言葉に詰まる。同時に、 「……遺伝子情報です。ごめんなさい」 謝罪の言葉が口を吐く。命を救ってくれたリベリスタ達の役に立ちたい思いでこの場所に居るというのに、窮地に追いやる原因を自分の父親が作り出している。 だから、申し訳無さが後から後から湧き出てくるのだ。 「資料の中にある通り、敵はラセットのメンバーを人質に取ってその時間に現れます。なので、私の髪の毛が入ったアーティファクトを渡して下さい」 「それって、髪の毛を渡した後のリスクは大丈夫なのか?」 海音寺政人は元々、六道紫杏の傘下にいたキマイラ作成のプロである。再度表立って出てきたのは去年の倫敦事変の時であったが、膨大な報告書の中から撮み出せば彼が関わったであろう実験の片鱗が見え隠れしているのだ。キマイラ、兵器、アーティファクト。 時を経る事に知能を高めていく彼の実験体。 そこに、なぎさの遺伝子情報が加わる事のリスク。 不確定な被害の増大も有り得る話だ。 選択肢はどのようなものだろう。 リスクを承知でなぎさの髪の毛を渡し、人質の命を救う。 この要請を拒否して髪の毛を渡さず人質を見殺しにする。 なぎさの髪の毛を渡さず、人質も救う。 或いは別の方法を考える。 「でも、私の髪の毛ぐらいで人の命が救えるなら」 イングリッシュフローライトの髪の毛を一本ぷちりと抜いて経過を止めるアーティファクトの中へと収めるなぎさ。 「お願いします。救って下さい」 ここで見殺しにしてしまえば、なぎさの精神に歪みが生じてしまうのは明白だ。 誰しも自分のせいで他人が死ぬのは見たくないだろう。 なぎさは海色の瞳で小さなアーティファクトをリベリスタに託したのだ。 ● 「いや、でも、この解毒剤単純に渡すだけじゃ面白くないでしょう?」 蛍光灯の光にヘイゼルの綺麗な色が見える。指先で掲げたアンプルだ。 「少し遊んでも構いませんよね。まだまだ吸収したいことがいっぱいあるんですよ。私はまだ生まれたての子鹿みたいなものですしね。貴方以外の人ともおしゃべりしてみたいんですよ」 「好きにしろ。だが、対価は必ず持ち帰れ」 室内で全く同じ容姿を持った男が向かい合わせに存在している。片方は楽しげに、片方は不機嫌そうに。 「分かりましたよ。私だって娘に会いたいです。……貴方と一緒でね」 「黙れ」 一方は陽気に一方は短気に。取って返して。波のように。ノイズがゆっくりと押し寄せて。 ザザザザ……。ザザザザ……。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:もみじ | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 6人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年10月06日(月)22:30 |
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■メイン参加者 6人■ | |||||
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● クレッセントゴールドの月がインディペンデンス・ネイビーの空に浮かんでいた。 日の入りから5時間程が経過した今は、辺りは真っ暗と行っていいだろう。これが夏であればまだ空は仄かに明るいのだろうか。 『謳紡ぎのムルゲン』水守 せおり(BNE004984)は三高平高校の制服の上から腕を擦る。 日本人の感覚から言えばエストニアのこの時節は肌寒いぐらいであった。 「そろそろ冬服が必要かな?」 零れた音色は透き通るNorth Seaの旋律だ。 「悪いことを止めなくちゃって、見得を切りたいけど、なぎさちゃんのお父さんかぁ……やりづらいなあ」 せおりの言葉は郊外の広い敷地に霧散して消えていく。 彼女の本当の父親はフィクサードに近い思想を持っているのだろう。 そも、フィクサードの定義とは革醒し得た能力を自分の私利私欲の為に使うという事だ。 さりとて、それが他人を救う行為に当てはまるならその者はリベリスタになるのだろう。 せおりの後ろに立つのはシュネーの白を全身に纏った『グラファイトの黒』山田・珍粘(BNE002078)那由他・エカテリーナだ。彼女はエメラルドの瞳で嗤う。 「さて、私はどちらなんでしょうかね?」 健気で儚い少女の心が傷つく様を見るのはとても楽しいものだ。月の座も碧の少女も那由他の三日月の唇から出た言葉で簡単に傷つく。 その胸中に広がる感情的な慟哭や冷たさを想像するだけで肌が震えてしまう。 ―――― ―― 「だいじょうぶだよ。謝らなくたっていーんだよ」 ブリーフィングルームに『囀ることり』喜多川・旭(BNE004015)の優しげな声が通る。 クリストローゼの聖母はアーティファクトを手渡したなぎさの頭をぽんぽんと撫でた。 薄暗い建物の壁を突き破って現れた彼女の姿は、今でもよく思い出せる。 その時から変わらぬ優しさが此処にあった。 ――ユラさんの命も、なぎささんのこころも、壊させたりなんてしない。 「わたしたちが、ぜったいまもるから」 旭のキャンパスグリーンの瞳が細められる。なぎさには気取られぬ様に心の中で惟る。 ……ぜったい、なんて言うのは、ほんとはちょっとこわい。 さりとて、それを言葉に出してしまえばそちらへと向いてしまうかもしれない。 言霊というものは自身への暗示・鼓吹だ。口に出すなら好い言葉の方が良いに決まってる。 だから、ぜったい助けるの! 「……そうですね。海音寺さん少し良いですか?」 凛々しい面持ちでフレッシュグリーンの瞳を向けた『蜜蜂卿』メリッサ・グランツェ(BNE004834)。 「あ、はい。父と被るのでなぎさで構いませんよ」 「ではなぎささん、この紙に彼宛のメッセージを書いて下さい」 「え?」 メリッサが差し出した小さな便箋になぎさは困惑する。 「届くのかも分かりませんが、人の心というのは、ほんの少しのキッカケが支えにも棘にも変わります」 メリッサとなぎさとの間に深い関わりというものはない。顔見知り程度の関係だ。 だが、この作戦に赴いてくれるリベリスタ達になぎさは感謝せざるおえないだろう。 「取り戻したいと思うならば、漣へ一石投じてみませんか?」 メリッサの言う『取り戻す』とは優しかった父親を復元させるということだろうか。 もし、本当にその様な事が出来るのなら―― 「書いてみますね」 リベリスタ達なら。あの地獄絵図の戦場から自分を救い出してくれた人達だから。 もしかしたら、その奇跡すら起こせるかもと、願いを込めて。 くすくす。 自分には関係ないと、割り切れば楽なのに。 なぎささんは、やっぱり優しいですねー。 そんな貴女の事が、私も大好きなんですよ? 那由他の声は静けさが支配するエストニアの広大な空へゆるりと昇っていく。 ● 「一先ず『海音寺政人』とお呼びしておきますが……『貴方の事』は何とお呼びすれば?」 三世を見通す『現の月』風宮 悠月(BNE001450)は目の前に現れた同位体に問うた。 「そうですね。識別名は2014EETa.mask-0151Mですが。『人』という字は私には相応しくないのでしょう。一文字で『政』<セイ>とでも呼んで下さい。風宮悠月」 リッド・ブルーとカテドラルの瞳が交わり、離れる。 エストニアの地を選んだ事に意味があるとすれば情報収集を行うに適正があったということだろう。 アークの知名度は国外に居ても轟いているのだ。 「ご要望の物はお持ちしました。なぎささんの……毛髪、ですけれど」 悠月は振り返り、那由他へと頷いてみせる。 赤い小さな箱を持ったグラファイトの黒が月明かりの下にその身を現した。 「おや、髪の毛の色が違いますね。山田・珍粘」 「どうぞ、那由他とお呼びください。なゆなゆでも結構ですよ」 一歩ずつゆっくりと近づいていく那由他の髪はシュネーの白に染まっている。 勿体振っている訳ではない。 この一秒で得られる状況の感知を行う者がいるのだ。 光り輝く太陽を冠する『ホリゾン・ブルーの光』綿谷 光介(BNE003658)の瞳が知覚を境界線まで広げていく。 ――表の彼は仮初。家族を歪め狂いゆく者同士なんかじゃなかった。 だから勝手な共感はもうおしまい。 「おしまいですが……ここからは延長戦です」 小さく口元で呟いた言霊。自身が大切に想う人の気持ち。それらを潰さない為にもこの戦場での情報が一つでもほしいのだ。 ひとまずの敵影を得なかった光介は隣に待機させていたラセットのレオへ指示を下す。 「回収した解毒剤はレオさんが引き継いで下さい」 「部下達はどうする?」 高く見上げた青い瞳と真摯に受け止める強い眼差し。 「クロスイージスを庇いにつけ、安全圏まで後退。アンプルが壊れないよう周囲含め厳重警戒を行って下さい。ユラさんが確保された際も残りの面子で身柄を受け取り、護りつつ戦域外へ」 素早く交わされる言葉を聞き逃さない様に頷くレオ。 「分かった。すまないな」 「……大丈夫ですよ。とにかくアンプルを守りきりましょう」 「任せたよ。少年」 差し出された拳に光介はコツンと己のそれを当てた。 「『ユラの未来』との交換、させていただきます」 悠月の言葉に続くのは旭の声だ。 「わたしたちは解毒剤を先に要求するよ。ただ、その渡し方は直接ユラさんに投与してもらう……てゆー形じゃダメかなあ?」 一刻も早く苦しみから開放してやりたい。アンプルが本物かどうかの証明にもなるだろう。 クリストローゼのフリルドレスが風に靡く。沈黙は肯定か否定か。もしかしたら『本物』と交信しているのかもしれない。 もうひと押し何かあればと旭が見渡せば、メリッサが前へと進み出た。 「中身だけ渡しても構いませんが、研究者にとって、その箱は対価の一つに値しませんか?」 経過を止めるとされる赤い箱。政<セイ>が持っているアンプルならば入る大きさだろう。 リッド・ブルーの瞳が少し伏せられて、ため息の様に息を吐く。 「ご要望が多い方たちだ。生憎と今は注射器を持っていないので投与は出来ませんよ。しかし、そういう風に交渉を曲げてしまうというのは人間の在り方なのでしょうか?」 「交渉を曲げている訳ではないでしょう? 渡し方を変えただけで結果は同じになるのですから」 セイの疑問に応えるのは悠月だ。 「ふむ。んー……そう、かもしれません。貴方達の方がやはり賢いですね」 記憶や知識を『コピー&ペースト』されたとしても経験がある訳ではないのだ。 そこに起こる事象を例えるならば姉の記憶を持ったせおりと同じという事だろうか。 悠月の表情は険しい。 セイはきっと正にこの瞬間、一瞬の事柄を貪欲に吸収している。 リベリスタの一挙一動を余すこと無く。 それは、奇しくも悠月がセイに掛けているエネミースキャンと同じ意味合いを持っていた。 敵の情報を読み解く。状況を把握し整理し次の手立てを打つ。 リベリスタがこの戦場で行う事全部を食べているのだ。 「くすくす。政人さんに会えるかと思ったら、何時もの彼とは、少し違うみたいですね。それとも、漣と呼んだ方が良いでしょうか?」 那由他が三日月の唇を浮かべれば、セイも真似する様に笑みを返す 「くすくす。どうなんでしょう? 那由他さん。漣であったほうが良いですか?」 本物と同じ記憶を持って居ても、未だ不安定で確立しない。 もしかしたら、この戦場で行われる全ての事柄でセイの礎が出来上がるのかもしれない。 そんな予感がしている。 「まあ折角の機会ですし。会話を楽しむのも良いのでは? 貴方と話したい方は、たくさん居るみたいですよ」 「では、このアンプルをどうぞ」 赤い小箱が開けられ、セイの手になぎさの青い髪が乗せられる。 静けさの中で行われる『交換』の瞬間。 緊張。 光介のホリゾンブルーが、悠月のカテドラルが、旭のキャンパスグリーンが、那由他のエメラルドグリーンが、せおりのパライブルーが、メリッサのフレッシュグリーンがその瞬間を待っている。 那由他の掌に解毒剤のアンプルが置かれた。 「――ところで。貴方、今『詰まらない』等と思っていらっしゃいる?」 静謐に滴の波紋を投げ込んだのはカテドラルの黒だった。 ● 滞り無く終わった交換に、面白みが無い、とするセイの精神構造を読んだ上で悠月は言葉を投げかけた。 (……さて、どう出てくるでしょうね) メリッサの提示したアーティファクトとユラの交換にセイは応じるか。 箱の中に入っていた紙を彼は認識していただろう。 それが娘からの手紙だと明かせば人質に興味も失せて手放す可能性だってある。 少なくとも、解毒剤を入手出来た今、どう転んだとしてもユラ救出の目はあると悠月は踏んだのだ。 「此方としても『貴方』には少々興味がありまして。ユラの身柄を無事に確保した後なら、出来ればお話でもなんでも、等と思っては居るのですが……」 セイが吸収したいと思う事柄を餌に。戦闘でも構わない。利害は一致する。 「……如何でしょう?」 「そうですね。簡単に渡してしまうなんて『詰まらない』です」 悠月の誘いにセイが返した答えは、応。 乗って来たということだった。 アンプルは那由他の判断でラセットのソードミラージュに託された。 その後は光介の指示通りレオとクロスイージスが戦闘域外まで運んで行くだろう。 セイは地面に伏していたユラを抱え上げて声を上げる。 「こっちはどうします? そこの少女が言う様にアーティファクトとの交換にします? それとも……もっと苦しむようにした方が好みですか?」 セイがユラの頬に手をかけた。ゆっくりなぞる指先は顎を滑り唇を這う。 旭とせおりが同時に戦闘体勢に入った。 「待ってください」 フレッシュグリーンの強い眼差しがセイに向けられている。メリッサの声で静止した敵に彼女は近づき、那由他の持つ赤い小箱を指さした。 「この中にはなぎささんからのメッセージが入っています」 「本当ですか? どの様なものですか? とても興味があります」 この戦場で行ってきたやり取りの中でセイが一番感情を露わにしたのは此処だろう。 ユラの引き渡しを決定づけたのは、なぎさからの手紙というカードを切ったメリッサだった。 セイの幼稚性故のぶれ幅――人質、弱者を痛めつけるという性質を上手く逸らしたのだ。 「では、ユラさんをこちらへ渡して下さい」 「良いですよ。どうぞ。……ふむふむ。貴女のように対価を上乗せすると相手も嬉しくなるんですね。このメッセージに金銭的価値なんて皆無です。しかし、私の中の価値は金銭より大きい」 赤い小箱を胸に抱き、瞳を伏せるセイ。嬉しげで無邪気な子供の様だ。 ユラを引き受けたラセットのメンバーは悠月、光介の元まで引き上げる。 「倫敦で見かけたという話は聞いてましたが……、エストニアに居るとは思いませんでした」 「うぅ」 かつて戦場を共に戦ったユラと悠月。彼女は少女の頭を撫でながら様子を伺っていた。 「1人で動いたのは新しい仲間を巻き込まない為、ですか? 相変わらず無茶のし過ぎです、ユラ」 「ごめん、ですぅ。また、心配かけたの、ぇす……」 安堵からか気を失ったユラをラセットのメンバーに託し、戦線を離脱させる。 これで、憂いは無くなった。 思う存分戦うことが出来るだろう。 娘からの手紙と髪の毛を赤いアーティファクトに仕舞い、懐へ忍ばせるセイ。 「さて、お相手願えますか? 方舟の皆さん」 ● 「アークのリベリスタの親御さんがフィクサードであることは否定しないけど、やってることが酷すぎるよ」 せおりの旋律は広大な群青色の空へ響く。 交渉の一部始終をパライブルーの瞳でじっと見つめていた人魚はその脚を地に着け飛び出した。 人質と敵との間、射線を遮るように存在していた彼女が居たからこそ、セイはラセットのメンバーを攻撃出来なかったのだろう。 「そうですか? 自分の研究の為に力を使う事は悪いことじゃないでしょう?」 「人質を取ったり、毒を盛ったりしてるじゃない」 「髪の毛を手に入れる手段としては最良だったと思うのですが……おっと!」 せおりとの会話に集中していた敵の頬をメリッサのTempero au Eternecoが掠めて耳を削いで行く。 「外界を知らぬさまは、まさにフラスコの中の小人ですね。決して本物にはなれない哀れな失敗作」 メリッサの挑発は的を得ていた。 それをセイ自身も自覚しているからこそ、貪欲に『自分だけ』の経験を積み上げている。 「貴女のお名前を教えていただけませんか?」 「メリッサ・グランツェ」 「メリッサ……」 オモチャを見つけた子供のように。名前を反芻するセイ。 目の前にいる彼女を包み込む様に両側から吹き出した水の奔流。息も吐けない程の流れに足元を掬われ地面を転がるメリッサ。もし、彼女が水中呼吸を出来ていなければ運命の色を消費していたかもしれない程のダメージ。 悠月は攻撃の為に編んでいた魔術式を組み替えて自身を護る守護陣を展開する。 ――本人の記憶まで受け継ぐ同位体。その存在には確かに興味があります。 「漣を身に付けていない貴方は家族の事を覚えているのですか?」 「記憶が在ることを覚えていると解釈するならYesです。経験を伴う事を前提にするのならNoと」 那由他のシュネーのドレスが漆黒に染まっていく。メリッサの代わりに敵の前へと躍り出た。 「それは覚えていると言えるんですか? 感触も匂いも暖かさも貴方は知らないのに?」 「そうですね。けれど、那由他。貴女の匂いは覚えていますよ」 長い髪を引きつけて鼻腔を潜る香りを肺へと落としこむ。 黒と青の蜜月を引き裂いたのは旭の赤いドレスだった。 「光介さん、回復おねがいね!」 「はい!」 後衛の位置から勢い良く飛び込んで来た赤き聖母は那由他諸共、敵を巻き込み拳を振るう。 「どうして? あなた達には、なぎささんを。娘さんを悲しませてでも成したいことがあるの!?」 「家族団欒って素敵な言葉だと思いませんか?」 光り輝く暖かな場所。美味しいご飯。笑顔とお話。そんな、記憶。 確かに在ったはずなのに。一度は手に入れた筈なのに。 「どうして、無くしてしまったんでしょうか?」 「そんなの知らないよ」 せおりの声は心地よい音色となって世界楽譜の音符を越えていく。 瀬織津姫を振り掲げ上段からたたき落とすその様は海に、落ちる雷のように薄紫の閃光を帯びていた。 「――っ!」 肩口から切り開かれた黒いコートに染み出す血は、人間と同じ赤色だ。 せおり程の威力があればたとえ防御力の高いキマイラの肉体にも傷が付くということか。 「ねえおじさん。まだ見てるんでしょ? 娘さん、泣くよ?」 彼女の声はセイの後ろに居る海音寺への言葉だ。 「泣く姿がこの目で見られるなら、それはそれで良いんですよ」 「そんなのおかしいよ」 泣く姿を見たいだなんてやはり壊れているのだろうとせおりは思った。 流れ行くパライブルーの燐光は敵が攻撃を仕掛ける前にその場から飛び退いている。 魔法が奔流が剣戟が飛び交い、せおりの耳には旋律として木霊して、幾許の時間が流れただろうか。 強敵の前に立ち続けたメリッサが運命を消費し、光介の後方まで下げられていた。 「すみません。光介」 下の名で呼ぶようになったのは夏の日からか。 「大丈夫ですよ。ボクが守りますから」 『家族』というもの暖かな幻想を歪め、それでも誰かの役に立ちたい思いで今まで力を使ってきたのだ。それが友人であるならば尚更、己の技量を持ってして守らなければならない。 弱い羊が唯一得るのとの出来た、強き力を友人の為に。 深淵を覗きこんで踏み入れた彼等だから、この道を後戻りすることなんて出来やしないのだ。 ホリゾン・ブルーの瞳はセイを強い眼差しで捕らえる。 「光介はやはり、まさやに似ていますね。優しい強さをあの子も持っていたんです」 ――同位体の幼稚性と残虐性。本体の衝動に「歪な形で率直」ということだろうか。 光介はリッド・ブルーの瞳の其の向こう側にいる可能性へと言霊を残す。 生まれくる少女の同位体へ。 「待ってますから。早くおいで」 絆が囮。一年前に差し出したのと同じように。この身を晒して呼ぶのだ。 己と同じものが他人を弑して行く様を長く見せずにすむのならと。 「ボクを、ボクらを殺しに。永遠に貴方だけのものにしに」 海音寺政人の同位体は光介の言葉に満足した様に笑い。 対価を持って紫煙の中にゆるりと消えたのだ。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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