●残らない話 夏の終わり、秋の手前。 青から茶へと移り変わる林は、子供達にとっては勝手知ったる手頃な遊び場だ。 未だ声も賑わうもの達を捕まえようとの、虫取り網や籠、本や細々とした玩具。そうしたものを手にとりながらも、木々の合間には専ら楽しげな声が響くばかりである。 しかし如何に勝手を知る林であろうと、深く進めば次第に薄暗く枝葉も茂ってくるものだ。 「あれ、ねぇ、見て……」 誰かが不意に声を潜めて、その一角を指差した。 其処にはただぽっかりと、黒々と、深く深く底も見えぬ深淵へと深く――穿たれた、穴。 直径にして5メートルはあるだろうか。まるで穴というよりも別の世界にでも通じて居そうな黒い“何か”に、子供達が好奇心を寄せるのは当然のことだった。 すぐに手にする玩具を放り捨てて、それぞれに穴の縁に膝をついて覗き込む。 「でっけー、こんな穴開いてたっけ?」 「ううん、初めて見た。こないだ来た時はなかった気がするけど……」 「底が全然見えないな、どのくらい深いんだろ」 三人の子供達は口々に、その見知らぬ『穴』を覗き込みつつ声を弾けさせる。 故に、気付かなかった。否――見えなかった。 深淵から「ぞぶり」、と浮かび上がる、巨大な黒い二本の腕が。 その腕がまるで幼子を撫でるかのごとく優しく、さりげなく、子供らの頭を押さえ付け――声もなく、昏き穴へと叩き込む。 時間にして、数分と経ちはしなかったろう。深く深く底の見えない深淵は、子供達を呑み込んだまま、鳴き声の一つも上げはしなかった。 やがて黒い腕に押し上げられた子供らの身体が、転がるようにして穴の縁で蹈鞴を踏み、或いは転がって膝をつく。 そうしてはっとしたかのように辺りを見回して、最初に転んだ子供が声を上げた。 「いったた……あれ、俺達何でこんな所に居るんだっけ?」 「虫取りに行こうって言ったじゃん!」 「こんな奥まで来たって言ったら、母ちゃんに叱られねえかな……」 子供達は何事もなかったように、陽気に声を弾ませながら楽しげに、心配そうに笑い合う。 ――まるで穴に落ちた事実そのもの、若しくはその背にしている巨大な穴の存在そのものが、彼らの中から欠落してしまったかのように。 そうして子供達は、穴の存在など気付きもしなかったように放り出した玩具の類を手にとって、もと来た道を辿りはじめる。 笑い合い、はしゃぎ合い、日が暮れるまで楽しげに遊び呆けてからそれぞれの家へと帰って行った。 その夜、悲鳴は何処からも上がらなかった。 翌朝となって三つの家庭に血と肉片と臓腑が撒き散らされた光景を、誰かしらが見付けるまでは。 家族を貪り喰らった三人の子供らの死体の存在は終ぞ表立ちニュースに取り上げられることさえもなく、風の噂となってやがて話は多くの噂の遥か下方へと埋もれ、押し流されていったのだった。 ●一つの思案 「駄目ねぇ、駄目だわ。やっぱりお日様がいけないのかしら……」 暗い暗い穴倉の其処で膝を抱えて、黒衣の女は首を傾げた。 その風貌は、まるで現代に蘇った魔女だ。もっとも古い絵画や本の挿絵に添えられた魔女とは、大きく異なっていることは否めないだろう。 年の頃は三十路に満たない程度であろうか。唾の広い黒の三角帽と、同じ色のスリットの深く入った長いドレスは、コスプレでもなくばとても彼女の年齢に似合っているとは言い難い。 魔女めく衣装に身を包んだ女は、手にする節くれ立った枝――否、身の丈も優に超える、数匹の蛇を固めて作ったかのような杖を、詰まらなさそうにゆらゆらと揺らす。 女の目の前では、巨大な“闇”が蠢いていた。 しかし彼女はその存在をまるで意に介した素振りもなく、ゴギリ、ぐちゃ、ずちゅ……耳障りな音が立て続けに立つその暗がりを、退屈そうに見詰めるだけだ。 「種を植え付けるまでは上手く行くのよね。羽化も問題ないんだわ」 それなのに、と不満げに、細い眉を寄せて女は深々と溜息を吐き出す。 「折角羽化しても、朝が来れば皆死んじゃうんだわ。お日様の届かない場所に隠しておけば良いのかしら……?」 まるで昆虫の生態観察かのような言葉を零しながらも、手袋に覆われたほっそりとした手を頬に当て、さも困惑したかのような吐息を洩らす。 そしてそうすることが容易に叶わないことを知っているからこそ、彼女の口振りは何処か冗談めいた響きを宿していた。 「ああ、けど……」 不意に思案を止めた女が吐息に混ぜ込んだ口調は、明かなる酩酊に酔う。 自己陶酔に陥るかのように稚さを思わせるふっくらとした唇、然し毒婦のようにぬらぬらと赤い紅を引いた唇をぺろりと舐って、唾の広い帽子の下、大きな瞳がすう、と細められる。 「けど、あの子達はどんなにか幸せなんじゃないかしら……本当に愛する人達を、例え短い時間でも――自分の胃袋で独占出来るんだもの」 あの夜、最初の加害者と犠牲者が同時に生まれた夜。三つの家庭からは、確かに悲鳴は上がらなかった。 しかし、女は知らない。知りたいとも思わない。 異形と化した子供らが、理性も思考も押し流され捨て去られた子供らが、愛し家族の血を浴び肉を喰らい臓腑を噛み切った子供らが、その眦を濡らしていたことを。 或いはそれは、浴びた返り血が顔を濡らしただけかもしれない。“羽化”と共に壊された感情に、何らかの胸を揺さぶるものなどないのかもしれない。 それが彼らの流した涙であった証はなく、ましてやそれだけの感情が残っていた保証もなく、しかして眦を濡らし家族を貪った子供らを思って彼女は哂う。 「今宵はパーティ……素敵、素敵なパーティね」 山間から密やかにその姿を現し始めた白い月は、深い穴倉の底からは見えもしない。 徐々に色を変えていく高い空の刳り貫きを頭上に見上げながら、女はうっとりと囁いた。耳障りな音を立てる闇へとそっと寄り添い、愛おしげに指先で撫でて頬を摺り寄せる。 くす。 くすくす、くす。 くすくす。 深く深く穿たれた穴の底。密やかに楽しげな笑声が、何処までも微かに反響していた。 ●祭りの賑わい前にして 然るに、情報が伝えられたのは祭り――女曰くの“パーティ”が執り行われるその日であった。 曰く、危険なアザーバイドが出現したこと。ディメンション・ホールは既に消失していること。 曰く、そのアザーバイドが人に『種』を植え付けること。植え付けられた者は、それが羽化した時点で理性を失すること。 曰く、羽化した『種』は日昇と共に死亡するものの、その際に宿主を道連れにすること。 以上の話を以てして、リベリスタ達は現場へと送り込まれた。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:猫弥七 | ||||
■難易度:HARD | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年09月28日(日)22:12 |
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■メイン参加者 7人■ | |||||
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● 祭囃子で賑わう夜を、男は足早に駆けていく。 風船を手に歩く子供等が、雑木林の内から生み出されたものだとは誰も気付かないだろう。人々は見慣れぬ子供達をちらりと見遣るだけで、すぐにまた心浮かれる世界に戻っていく。 何処かで小さな喧騒が生じたものの、それもすぐに掻き消えた。祭りは終盤、間もなく静かで暗い夜がやってくる。 夜は刻一刻と迫り、祭りの終わりをひたひたと止まらぬ足で出迎えに行く。拍子木はからからと響き渡り、下駄の足音は合の手のように賑やかだ。 「県警の者ですが人を探していまして。お話お伺いさせていただけませんか」 祭りを楽しむ客達へとそう声を掛けて、『ウワサの刑事』柴崎 遥平(BNE005033)が警察手帳を出した。その少し後ろで、如何にも新人といった様子の青年も手帳を出す。 本物に見紛う事を目的として作られたそれを下ろし、戸惑う二人組を静かに見詰める。男の目に映るのは、睦まじげな恋人達の背にへばり付く塊だ。脈動というのか微かに蠢きながら、羽化の時を待つ異形から視線を剥がす。 「有難うございます。纏めてお話しを窺いたいので、此方の方で待っていてもらえますか」 戸惑いながら頷いた二人にそう告げた『縞パンマイスター竜』結城 ”Dragon” 竜一(BNE000210)が、遥平に目配せして彼と別れた。 二人を先導する先には、既に集められた者達が屯している。新たに案内した二人組を『無銘』熾竜 ”Seraph” 伊吹(BNE004197)に引き渡し、竜一もまた、足取りも早く駆けていった。 一方で新たな種を目視で数えながら、伊吹は彼らへと近付いていく。 「安全確認までこちらでお待ちください。また、混乱を避ける為にこの件は他言無用に願います」 そう告げながらにも、こんな場合だからこそか、警官に扮す制服はその威力を強靭に発揮していた。 一角で、種を持たない者達への対処も行われていく。 祭りの賑わいが気を高ぶらせているのか、神社を外れた一角で屯する若者のグループに種が植え付けられていないことを確認し、近付いていった。 「先ほど、不審な人物の集団がいるのを見かけました。大変申し訳ありませんが、今日のところはお帰りください」 楽しみに水を差されて苛立った顔が振り向いたが、若者達は『てるてる坊主』焦燥院 ”Buddha” フツ(BNE001054)の制服に気付いて顔色を変えた。 散らかしたゴミを集め始める一団の内、先程騒いでいた若者をリーダー格と判断して顔を向ける。一瞬肩を揺らした青年が、戸惑った顔でフツを振り返った。 目に移らぬ改変は、洗脳の類ではない。捻じ曲げられた寸前の記憶は、フツの言葉への信頼と帰宅への欲求を植え付ける。 記憶を改竄された青年が、仲間達へと「帰ろうぜ」と声を掛けた。やはりリーダー格だったらしく、誰も然したる文句は言わずに腰を浮かせる。神社の出口へと向かう若者達の賑やかな声を聞きながら、フツはまた、足早に歩き出した。 会場も外れへと向かい、人の気配の欠けた一角は何処となく情緒の漂う静けさに満ちている。 それだけにデートスポットの穴場でもあるのか、肩を寄せ合う恋人達を警官姿と警察手帳で致し方なく追い払い、静寂を取り戻した所で『足らずの』晦 烏(BNE002858)は苦々しく煙草を揉み消した。神社へと続く道は緩やかに上り坂を描いており、その為に会場全体に対して見通しが良い。 「皆が楽しむ祭りの場に災厄を撒き散らすたぁな」 消音器を装着した得物を幻想纏いから取り出して手に馴染ませ、些かに距離のある祭り会場の只中へと視線を向ける。何処か閑散として見えるのは、一般人達が総じて何処かへと引き摺られているからだ。 何処かでまた、賑わいが湧いた。その瞬間に素早く照準を合わせ、銃口は屋台に照らされる通りを向く。男の手のひらが一つの形を選び取ったかと思えば、音もなく放たれた一撃は不可視の塊をその根から削ぎ落とした。肩の上を擦り抜けるような風圧を感じた青年が周囲を見回したものの、その原因には見当も付かずに肩を竦めるのを視認して、次の種を銃口に狙わせ男の指が更なる引き金を引いた。 「そんなに怒るなって」 一方で、烏からの連絡を受けて会場中を駆け回っていた『覇界闘士<アンブレイカブル>』御厨・夏栖斗(BNE000004)は嘲弄とも取れる笑み交じりに両手を上げた。当然それは激昂する若者達を煽る結果に他ならず、その内の数名が拳を振り上げて掴み掛ろうとする。 それを正面に見ながらもちらりと視線を移して確かめるのが、その場所が予定した“待機場所”から離れている事を確かめる為だ。喧嘩を装って引き寄せるのは種を持たぬ一般人ばかりだが、それが血の気の多い結果をもたらしているのは、やはり祭りという場所柄若者が多い所為かも知れない。 喧嘩に加わるものと、その騒ぎを何事かと振り返る客達。足止めは上々であり、故に『普通の少女』ユーヌ・プロメース(BNE001086)が放つ光は彼らの目には止まらなかった。 最初に反応を見せるのは最も顕著に挑発をされた――或いはそんな心理状況に陥らせられていた、夏栖斗の襟首を掴む若者達だ。些か間抜けにも見える程に、余りにあっけなく彼等の目からは怒りが消えていく。当然だ、何故暴力的な手段に出掛かったのかも分からなくなっているのだから。 「何をしているんだ」 「あ、ユーヌ」 場に横たわる動揺の隙を付いて夏栖斗に歩み寄ったユーヌが、さりげない会話の糸口を装ってちらと周囲の面々を見た。 「祭りの所為か、警察も巡回しているらしい。喧嘩が見付かる前に早く帰った方が良いだろう」 程近い神社の鳥居を振り返って示唆するユーヌの言葉で我に返ったように、血気盛んらしき若者達が散っていく。祭りが終盤に向かっている為か、彼等が素直に祭り会場を後にすることを横目で確かめながら、ユーヌが時刻を確かめた。 「残りは――」 会場中を駆けずったつもりだが、どうしてもあと一つ、植え付けられた筈の種は見付からない。 迫るリミットに、密やかに柳眉は顰められた。 然るに、残る二体が見付かったのは他の全ての種が狩られた後だった。 場所にして、祭りに携わる巫女らの更衣室だった。暗がりの中、凄惨な血の池に眠るのは、道連れにされた娘と餌食となった娘の二人だという。 ● 振り下ろされた二本の腕、その黒々と淀むような色合いは、背後が微かに透き通って見える為に黒い水を湛えた袋のようでもある。 二本腕が鋭く地を叩き付けた瞬間に大地は揺らぎ、確かに足元を不安定にさせた。 不気味に影を抱く穴は、骨を噛み砕く時に生じる音に似た響きを鳴らしながらリベリスタ達を待ち受けていた。近付いてくる獲物を捕らえようと伸びた腕は、そこで恐らく初めてであろう反撃を受けたのだ。 銃声が密やかに夜を咲き、その度に長く伸びる二本の腕から黒い飛沫が滴った。 長さに見合う手のひらがリベリスタ達を叩き潰さんと振り下ろされる度に地を揺らし、その隙を突いて反動等は意にも介さず、その全身から湯気を噴き上げた竜一の一撃が、黒い腕を拉げさせる。 フツの頭上で陀羅尼は渦を描くように広がりその触手を伸ばし、言の葉は鞭の如くにしなり巨大な腕が地を揺らがせたその瞬間に、一絡げに手首を捉えて横に引き摺った。 それが足ならば、明らかにバランスを崩して横へと雪崩れる黒の塊に銃口がいとも軽やかに発砲音を響かせると、またも発砲音と同じだけ、巨大な的からは細く血のような黒い液体が噴き出す。 怪物は何も叫ばない。吼える事も無い。その様子からは痛みを感じているのか否か、それすら分からない。 しかして――一つ目の腕は、水風船が弾けるように溶け落ちた。手首を穿ち肘を穿つ銃弾が音もなく吸い込まれ、 から後追いの一撃を喰らいその身体を歪な方向へとしならせたかと思いきや、まるで水を詰めた袋が裂けるように赤みを帯びた黒がどばっと噴き出した。 地面の上に滂沱と流れ落ちた黒い血潮めく水は、跳ね返り渦を巻き川のように幾重に別れ、しかし然程広がることも、地面を濡らすこともなく土壌に呑み込まれて消える。 そこで初めて巨大な腕は、或いは穴倉の底に潜むアザーバイドは激昂したかのように、残る一本の腕を地に叩き付けた。小さな地震にも似た震動が小石を弾かせ、木々はその枝葉を揺らす。 地面の上に寝かされた腕が、木々も薙ぎ倒さん勢いで地表を擦り大きく横薙ぎに振るわれた。擦れる地面から鈍い地響きめく音さえも響かせ、まるで人が虫けらを厭う様子にも似て、確と襲撃者達を狙う。 「ぐ――!!」 直撃ではない。距離は遠く、けれど敵は、その剛腕に触れた異物もまた同様である。偶然に触れた掌に比べれば礫に等しき石は爪先に触れて弾かれ、その大きさに見合わぬ勢いで伊吹の身体を容易に吹き飛ばす。 一対であった黒い巨木は、片割れを失った事で理性を始めて得たかのように、その指の届く限り、腕の伸びる限りの異物を敵対者達に放ち続ける。 そんな振り回される腕の隙をついて穴の縁にまでにじり寄った少年は、穴の縁に身を隠すようにしゃがんで様子を窺った。 夏栖斗の眼前で、深い穴倉はその底に黒く淀んだ影を抱いて蠢いていた。不気味にしておぞましい、闇の淀むような光景から顔を上げて黒々と伸びる腕とその向かう先にいる、良く知る仲間達をちらりと見る。 迷いは無かった。誰が止める暇もなく、少年の足は穴倉の縁を蹴り付けていた。迷う余地すら無いとばかりに飛び込んで、その腕に及ぶ限りの覇気と力を込め、拳を握る。 「……せっ――――らァッ!!」 穴にも底があるのなら、さながらそれに叩き付けんばかりの勢い。如何様に、それは頭上の蜂にも等しかった事だろう。 腕を介さず頭上から襲い来る一撃に、一瞬動きを止めたかと思えばアザーバイドの残る片腕が激しく戦慄く。声というものを持ち合わせていれば、恐らく悲鳴を轟かせたに違いない。 周囲の存在など忘れたかのように穴の中に素早く腕が飛び込んで行く。ガキリ、ゴキン。暗がりに隠れる本体への一撃を巻き添えにして、骨が噛み砕かれるような音が周囲のに鳴り響いた。 逃げ場すらもあるとは言えぬ穴の中、黒い腕は容赦も躊躇もなく夏栖斗の身体を掴み穴の外へと投げ付けた。受け身を取る猶予すらも与えぬとばかりに振り上げられた黒い腕は、躊躇いなく少年の上に振り降ろされ――それを受け止めたのは、この場では一見頼りなげにも見える小振りなリボルダーがただ一つ。 「……効かんな」 遥平の顔は険しく、その中で腕を見上げながらに眼光は嗤う。不可視なる魔に類する壁は、余りにも明確にアザーバイドと男とを分かつ。その陰で、ユーヌの紡ぐ一つの式が密やかに地を這い空を泳いで展開し、陰陽に通ず呪いは柔らかに夏栖斗の身体を包み込んだ。 果たして腕は、異なる世界の影は何を思うのか。 「おっと、逃がすかよ」 怯むかの如くに浮かびかけた片腕は、時既に遅く鎖ならぬ言の葉に硬く繋ぎ止められていた。幾重にも重なる陀羅尼の呪いは、ぎしぎしと軋む腕に後れを取ることもない。大木のようにそびえる影の塊に、銃口が向いた。 残る腕は一本、そしてそれは抑えられた。残るは穴倉の底に潜む、得体の知れない影が一つ。 穴の縁に立った時、伊吹の靴底で削られた土塊はぱらぱらと零れ落ちたが、やはり微かな物音すらしなかった。 見下ろす影が蠢いて、塊の中へと子供のように頼りなげな顔を見た気がする。その錯覚を嘲弄し、躊躇い無く引き金を引く。一つならず、二つならず。凄まじい速度で確実にその弱点を削る銃弾の数だけ黒い飛沫があがり、塊は揺らぐ。――そして。 地の底で放たれたろう声無き影の絶叫は、地の上で弾けた腕の崩れる音に呑まれて、消えた。 ● 賽銭箱に腰を下ろした女は、月明かりを浴びて輝かんばかりの太腿を晒しながら悠然と脚を組んでいた。豊満な容姿を見せ付けるような黒い衣装は、奇妙さを思わせぬ程に似合っている。 歩み寄るリベリスタを前にして、女は細い腕に長い杖を引っ掛け、手袋に覆われた両手を打ち鳴らした。何かの攻撃表示かと一瞬足を止める覚醒者達の警戒とは裏腹に、ぱちぱち、ぱちぱち。そう緩やかにして涼しげな拍手を称賛のように送り付ける。 「おめでとう、リベリスタさん。私の可愛いベイビィを倒す雄姿は、しっかりと拝見させて頂いたわ」 「ベイビィ……?」 「そう、私の子。ブラックレディの可愛いベイビィ。ウフフ、なんてね。あなた達のような存在が居るなら、これからは厄介になりそうだわ」 呟いたユーヌへとそう微笑みかける。楽しげに口元を指で隠す仕草は如何にも女性めいており、ユーヌはその無表情を崩さぬ程度にごく微かに眉を寄せた。 そんな中で一歩、足を踏み出した夏栖斗が軽く首を傾げる。 「どーもご機嫌麗しゅう、黒き紅ちゃん。状況は見てたからわかると思うけど、やりあって怪我をするのは嫌でしょ」 「あら、気遣ってくれるのね。嬉しいわ」 口振りは軽く、まるで世間話でも交わすようだ。一見警戒心など無いかのような表情で、女は涼やかに微笑む。 「うん、だからできたら素直に、一緒に来てもらえたら嬉しいな」 「それと、虐殺そのものが目的ではなさそうだ。何故こんな事をしたのか聞かせてもらいたい」 付け足すように声を発した伊吹へとその眼差しを映して、女の唇が返答を紡ぐべく動き――しかし、それは音にならない。 音を伴わない銃声は密やかに夜を裂くとほぼ同時に、長手袋に覆われた女の左腕が吹き飛んだ。 袖の切れ目から赤黒い液体を滴らせる様は、まるでそんなところまで人間を演じているかのようだ。もっともその割には、女の表情はきょとんとした、ただそれだけのものだったが。 「……酷いわ。意地悪ね」 落ち着いた素振りの女が、右手で吹き飛んだ左腕の切断面に触れる。 その遠方より、得物を構え。 「――二人、取り零した」 烏が呟くも距離は遠く、女にその言葉が聞こえたとは思わない。 しかして、アザーバイド。異なる世界より訪れる何某かが真っ直ぐに黒の瞳を向けてくるのを、照準を合わせた先に捉えながら男の表情はいたく険しい。 「悪辣が過ぎたなお嬢さん、容赦も逃がす気も毛頭無い」 女は笑う。艶やかに唇の両端を吊り上げて、可愛らしく小首を傾げた。 嫌だわ、お嬢さんだなんて。 そう紡いだかは定かではないが、尚も変わらず楽しげな呟きを以てして。女の音持たぬ囁きが、停滞する状況に引き金を引いた。 アザーバイドは素早く地を蹴り上げて賽銭箱の上に飛び乗るものの、それを逃すまいとする伊吹が即座に彼女の足場を蹴り付ける。安定を欠いた女へと、フツの唱える陀羅尼がその頭上に巻き上がるに鋭くしなり、豊満な身体に巻き付かんとした。それを残る右腕にて鋭く杖を薙ぎ振り払って、囲う輪の外側へと飛び降りる。 「逃がすかッ!」 地の上を更に蹴り付けようとした瞬間に、竜一が鋭く腕を振り抜いた。通常なれば、届く距離ではない。しかし形無き、溜め込まれた呼気と共に発するエネルギーの塊は、物理的な距離を無視して女の身体を吹き飛ばす。寺の周囲に植わり立つ木々はどちらの味方か、その内の一本に背を打ち付けて黒き紅を名乗る女がたたらを踏んだ。 「黒き紅ちゃん――」 「嗚呼、無理はしないで坊や。さっき、酷く無茶をしたでしょう?」 殺害という行為を厭うがゆえか、夏栖斗の腕を交わして女はさも楽しげに笑った。また一つ放たれた形無き弾丸が、失った腕を更に削るように左肩から胸に掛けて巨大な穴を穿とうとも、笑みはちらとも翳らない。勢いに負けた身体だけが、片足を軸にキリキリと回る。それでも尚握った杖を振るった所から、手品のように火が噴き上がり壁を設けようとした。しかし。 「そこまでだ……!」 「あんっ……痛いわ、おじさまったら」 燃え上がる火の壁が途絶えた瞬間に横合いから伸ばされた腕に掴まれ地へと引き倒されて、痛みを知らぬような顔を歪めた女の手から杖が吹き飛び、藪の内へと飛び込んだ。 微かに息を乱す女を見下ろしながら、遥平が肉の削れ欠け落ちた胸に膝を乗せて体重をかけて地へと押し付けた。とある銃口の為に道を作る余裕を見せながら、その警戒は絶やさない。 「“これから”は無い」 遥平の言葉をすぐ真上から受けながら、しかし女は最早抵抗を見せなかった。 唇の両端を艶やかに吊り、欠けた身に反し血の一滴もその唇から漏らす事無く、女はやはり変わらず笑う。 「嗚呼……酷いわ。意地悪――」 ね、と。 繰り返された最後の音の寸前に、やはり音を闇に潜めた銃声は、遠く微かに夜を揺らした。 散弾銃のなりから放たれる形無き弾丸は、寸前で身を躱す遥平を掠りもせずになよやかな肉体に突き刺さる。 女の唇は最期まで微笑んだまま、歪な穴を幾つもその体躯に開けて。 赤黒い血がただしとしとと、地面に呑み込まれていった。 ● 嗚呼、酷いわ。 静寂を取り戻した藪の中、そう声もなく呟いたのは美しい緑の蛇だった。 縋り付いていた杖はとても居心地が良かったけれど、こうなってしまっては仕方がない。 “これから”は、気を付けなくちゃね。 そんな呟きを零したかは定かではないが、緑の蛇は林の中へと消えていったのだった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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