● まるで、世界が全て夜になったようだった。 さざめく水面が通した灯りは遥か遠く星屑のようで。夜のいろを吸い込んだそれは音さえも消してしまいそうで。 けれど。ふわりと灯る煌きが、ひとつふたつ。遠くで近くで揺らめくそれが、夜に色をつけていく。 夜の海中散歩は如何ですか、と。 もう夏の定番となった島へ向かう船の中で、男は薄水色の風鈴を差し出し微笑んだ。 神秘の力を一時与えられた特別な音色は、持主に夜闇を照らす煌きを与え、何一つ不自由ない海中散歩を約束してくれる。 悠々と泳ぐ魚を眺める事も、美しく広がる珊瑚の森を見て歩くのもいいだろう。 一人で静かに過ごす事も勿論可能だ。遠くに行こうと、帰り道はその音色が教えてくれる。 また神秘に触れる夏ですね、と笑った男の声に重なって、硝子の音が小さく鳴った。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:麻子 | ||||
■難易度:VERY EASY | ■ イベントシナリオ | |||
■参加人数制限: なし | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年09月20日(土)22:16 |
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● 確りと絡めた指先は温かくて。二人だけの海の底は酷く静かだった。こうして寄り添い合う事も、この海の中なら誰の目にも止まらない。否、魚以外の目は無い、という方が相応しいのだろうか。 「しかし、これ、沖の方を越えていくとどうなるのかね」 先が見えない暗闇というものは、どうにも怖い。そう呟きながら、竜一は己から離れれば離れるほどその色を暗く、濃くしていく海の向こうを見つめる。けれどもしもユーヌがこの先に行きたいというのなら話は別だ。 「見えない先も其処にいると解ってれば上等だ」 ちらり、と視線を投げた彼女は何時も通り薄く笑って居て。そんな彼女の肩を抱き寄せて、頬を寄せた。彼女となら何処でも、何処まででも行くと決めていた。確りと抱き締める身体は細くも温かい。 「ユーヌたんがいてくれるから、俺は、戦えるんだから」 彼女が居なくては、きっと自分は今生き残れて居ない。抱き締める力を強めれば、腕の中のユーヌが緩く首を傾ける。 「別に私が居なくても十分生き残れている気がするが」 彼が思っている以上に、竜一という人物は強いのだ。少なくともユーヌはそう思っていた。彼ならどんな戦場も切り抜け生き残る。そうは思っていても、竜一の気持ちは嬉しいものだった。そっと、己に回る腕に触れる。前に言っただろう、と囁いた。 「竜一が望むのならば傍にいる。求められるなら寄り添おう。欲するならば与えよう。――私はお前に求められることを求めて居るぞ?」 伸ばした腕で抱き締め返した身体は温かい。海が冷たいから、余計にそれを感じるのだろうか。そっと寄り添えば心臓の音まで良く聞こえて、緩やかに目を伏せる。 「そうは言っても今日は奥にいくのはやめておこうね!」 「まぁ、このまま竜一とのんびり海を眺めるのも良いけどな」 静かで冷たい此処で二人きり。心臓の音を感じながら、思いつくままに話す時間が過ぎていく。 「……何だかもどかしいな、水中ってのは」 どうにも不自然な感覚だけれど、それもまた楽しみだろうか。全身を包む水の感触は確かなのに呼吸も何も不自由の無い世界に、鷲祐は落ち着かなさげに周囲を見回す。それを眺めながら、スピカもまた何処か落ち着かぬ気持ちを飲み込んだ。憧れの相手が、水着で傍に。そんな状況に慣れるにはまだ時間が必要で、思わず逸らしそうになる視線を彷徨わせて。ふと、首を傾ける。 「トカゲって水中で生きられたかしら。貴方だからこそできる事だったりして」 「そりゃあ爬虫類なんだから、水中はダメに決まってる。少しはそわそわしてるさ。……それでも」 それよりも強く、心を満たす感情がある。海の下から世界を見上げる事。この海に色を与える空を見上げられること。それは、まさしく自分達が戦ってきた証なのだ。戦い守り生き抜いたからこそ、見る事が叶う景色なのだ。 「……小さい時にね、夢見ていたの」 世界の中心にインディゴブルーの水彩絵具を溶かして。その中に魚を放してみたらきっと綺麗、なんて。子供らしい夢の光景は今目の前に広がっていた。自分を包む蒼い世界。綺麗で、けれど非現実的だった。 「随分と洒落た夢を見ている様な心地になるわ」 「わた子、俺が言える言葉はいくつもない。だが、たった一つだけ言えるのは、これが紛れもない、現実だってことだけだ」 この光景も、彼がすぐ傍に居る事さえも非現実的なのに、彼はそれを現実だと認めてくれる。彼は何時だってスピカの心を救ってくれる。その手の煌きで未来を切り開いて、進んでいくのだ。目を伏せる。この世界の行く末、歩いた道のりの先。まだ見えない、これから開かれる未来というものは、どんなものなのだろうか。何が、待っているのだろうか。想いを馳せながらも、緩やかに開かれた瞳は夢のような一時を見つめていた。 混じり合う蒼は同じようで、何処か異なる色に見えた。さらさら、と鳴る硝子の音色を聞きながら、ミュゼーヌはそっと開けた海底に足をつける。踊れちゃいそうね、なんて言葉に瞳を輝かせてくれた三千の為に少しだけ。幼い頃から習っていた新体操のような舞は軽やかに美しく。夜の海に馴染む黒と、鮮やかに明かりを跳ね返す金の髪。透き通る青い瞳さえも海の一部のようで。 「すごくきれいです……まるで、水の妖精みたいです」 習っていた、と聞いてはいたけれど。その舞はこれまで見たどんな体操選手よりも綺麗で、まさに水の妖精と呼ぶに相応しかった。ふわり、と地に降りた足が止まる。凛とした表情は緩々とはにかんだ笑顔に変わって、そのまま一礼。所作はどこまでも優雅に、けれど恋人を前にした可愛らしい表情を浮かべるミュゼーヌの前で、三千は嬉しそうにその笑みを深める。 「またひとつ、ミュゼーヌさんの魅力的なところを教えていただいちゃいましたね」 「ふぅ……三千さんの前でしっかり披露した事ってなかったかもね」 少し気恥ずかしいけれど、こんなにも喜んでくれるならそれも悪くない。新たな一面を知っていくことは、互いの仲を深めていくことでもあるのだから。三千の手が、ミュゼーヌの手へと伸びて。そっと、重なる掌。 「これからも、ミュゼーヌさんのことを、もっと知っていきたいな……と思うのです……」 「ふふ、もっといろんな私を見つけて……もっともっと好きになっていってね」 柔らかな蒼が混じり合う。優しく、温かく。まるで重ねた掌のように。揺らめき鳴る風鈴の音は耳に心地よかった。 ● 見上げる水面は仄かに白かった。本物の星は遠くて見えなくて、けれどたゆたう海月は光を透かして綺麗で。繋いだ手を確かめるように握り直しながら、ミカサはそっと手元に視線を落とす。 重なる音は異なるけれど、何処か優しくて。気付けば柔らかな夜の色に変わった風鈴に、隣の響希の表情が緩むのが見える。少し泳げるようになったか、なんて雑談で微かに笑いあって。ふと。落ちた沈黙に重ねるように吐き出したのは、過去に行ったという短い報告だった。 「……崩壊を防ぐなんて建前でね。ただ、……一目でいいから、写真も無いあの人に会えたらと思った」 口に出しても何も変わらない。けれど言いたくて、彼女にしか言えなくて。情けない、と僅かに口角を上げる。もう母が恋しい年でもないだろうに、なんて軽口を吐き出す声は無感動なのに、何かを感じるように響希の手が頬へと伸びる。そこにそっと手を重ねて、額へと唇を寄せた。 「母はこの世界が好きだったのだろうか。……君は、この世界が好きだろうか?」 「世界が好きだったのかどうか、なんてことはわからないけど」 好きな人が居るから、世界が大事なんじゃないかしら、と。目の前の瞳が伏せられる。 「海ん中を歩くとか、なんか変な感じだよなー。あ、足元とか貝とか踏まないように気をつけなよ」 「普段はこの様な事は滅多ありませんからね。はい、ありがとうございます」 何ならエスコートを、なんて気障な夏栖斗の差し出す手に手を重ねて、紫月はくすりと笑みを漏らす。光を跳ね返す水面は遠く。そこを目指すように泳ぐ海月は遠い明かりを透かすように美しい。まさに字のごとく月みたいだ、と目を細めた夏栖斗の横で、紫月も興味深げに首を傾ける。柔らかそうなそれは、触れたらどうなるのだろうか。 「触ったら、とりあえず怪我しちゃうね……っと、となりにもっと綺麗な海中の月がいるのに失礼だった?」 「何だか今日の御厨さんは気障ですね。お褒めに預かり光栄です」 ほんのり染まる頬。折角女の子をデートに誘うのだ、少しぐらいは気障でないといけない。喜ばせるのが男の仕事なのだから。当然と言うように笑う彼に紫月もつられて笑う。 「でも、私は何時ものちょっとヘタレた感じの御厨さんも嫌いじゃないですよ?」 「僕のデフォがヘタレなの?! いや、反論できないけど」 くすくす、と重なり合う笑い声。互いに互いが嬉しそうな顔を見られるのが嬉しくて、安心して。もう少しだけでも、こんな時間をこのまま過ごせたらと願うのは贅沢ではないだろう。 「すごーい! 普通に喋れる……あ、見て! 魚もびっくりしてるかな?」 「そりゃあ壱也がこんだけハイテンションだったら向こうもびっくりするだろう」 息ができるかな、なんて怯えたのも束の間。視界いっぱいに広がった景色に瞳を輝かせた壱也の横で、虎鐵もまた中々の絶景だと目を細めた。風鈴を受け取った時は如何したものかと思っていたが、来てみればこうして二人で海中散歩も悪くはない。何処か表情が和らいだ彼を見遣って、壱也は少しだけ安心したように笑みを浮かべた。見かけた彼はどこか思いつめたような顔をしているように思えて。気分転換をしよう、と声をかけたが、悪くはない選択だったのかもしれない。 「向こうの方とか光ってるからすごくきれいだよね……みんなの光でさらに海が神秘的になってる!!」 「あー……他の奴も居るからこんな明るいのか」 蛍か何かかと思ったけれど、ここは海の底。代わりに漂うのは全て、誰かの存在なのだ。美しい明かりに照らされた自然の水族館を見る事が出来るのはきっと神秘に愛されたリベリスタだけだ。特権だね、なんて笑った壱也は、その可愛らしい笑顔のまま、そういえば、と虎鐵を見上げる。 「彼氏でもできた?」 「……」 「なんだできてないの。できたらいつでも報告してね」 「いいか? 壱也。俺はホモじゃねぇんだ。NOホモだ。所謂ノーマルって奴だ」 「詳しく話してくれると、ほら、わたしが夏と冬に困らないですむじゃん。初のおじさん本になるかもよ? おじさん……いいね!」 さあさあ早く新しいネタを。嬉々とした笑顔は此方の話を聞いてはくれない。ちりん、と鳴った風鈴に視線を落として、虎鐵は深い溜息を漏らした。 ● 手を繋いで、静かに入った海中は、淡い明かりに満ちていた。微かな水の音。時折聞こえる気泡の音。そして、繋いだ手と、此方に合わせてゆっくりと進む足。怖いかもしれない、と思っていた世界は、彼の存在だけでこんなにも安心できる場所に変わっていた。 「まるで天然の水族館みたいだね。ってそのまますぎるか。……けれども、静寂の海の中では俺とキミしかいないみたいだ」 「綺麗だね。そして、本当に静か。世界に二人、取り残されちゃったみたい」 気障だったかな、なんて笑う涼にアリステアも笑顔を返す。視線を流せば魚も海月も仄かな明かりに照らされて、珊瑚礁の道を美しく彩っていた。本当に綺麗、と微笑む表情を確りと目に焼き付けながら、涼は終わり行く夏の気配にそっと目を細めた。 「こうやってキミと今日こうやって夏の思い出、て奴を作れて良かったな、なんて改めて思う」 「うん。今年も一緒の思い出が作れて嬉しい。これからも、沢山増やして行けたら素敵だよね」 そんな台詞は年寄りくさいだろうか。苦笑混じりに肩を竦めた彼にそんな事無い、と首を振れば、宿題は終わった?なんて軽い話題逸らしの台詞。一瞬、言葉に詰まって。けれどアリステアは少しだけ照れたように、終わってないと告げた。 「涼のお部屋で片づけちゃうもん。見張っててくれたら、早く終わると思うし」 本当は、一緒に居たいだけなのだけれど。それは内緒。夏の思い出をもう一つ増やす約束を交わしながら、その足は広い海中を歩いていく。 傷を負った身体はまだ少し重かった。ゆっくり休まなくては、と海へと足を進めたシンシアは、改めてその手で揺れる風鈴、そしてその力の元となる神秘の凄さに嘆息する。 「うーん……凄いな。まさしく天然の水族館」 そういえば、魚大好きな月k……フォーチュナが居た気がするが、それは置いておこう。ふらふらと視線を彷徨わせれば、ふと目に止まるのは何時か言葉を交わした女だった。 「お久しぶりです。一度しかあった事ないから忘れてるかもですけど」 「覚えてるわよ、怪我は大丈夫?」 そもそもしばらく見かけなかった、と言えば仕事が忙しくてねと竦められる肩。そのままなんとなく歩きながら、シンシアは僅かに首を傾けた。 「月隠さんって魚詳しいです? 私、全然わかんなくて……」 「いやあ、あんまり……生物好きじゃなかったしねえ……」 なら、狩生にでも尋ねればいいだろうか。そんな提案にはそれもそうね、と同意が返る。さっきあっちで見たから、と歩き出した二人の傍を、銀色の魚が通り過ぎていった。 見上げる先に月も星も見えない夜。不思議ね、と目を細めたエレオノーラは隣を歩く狩生を見上げる。 「幻想的で素敵。でも静かで、何だか世界に一人きりみたい」 勿論今は二人きりだけど。そんな言葉で笑い合って、ふと思い出した様に告げたのは、先日再会した父親のことだった。手紙を送り合う事になるだなんて思っても見なかったけれど、隔たれていた距離は少しずつ縮まっていると言えば狩生は嬉しそうに笑みを浮かべる。 「また会う機会があれば、狩生君も紹介していい? えーと、その……親友です、って」 「勿論です。……此方に来られるのでしたら、出来る限りのおもてなしもさせてください」 迷惑じゃなければ、なんて言う間もない返答。気恥ずかしさは拭えないけれど嫌ではない。不思議な感覚だった。彼と居ると、子供のフリも大人の気負いもいらなかった。ただの自分のままで居られるのだ。それは、とても幸せなことで。子の幸せを彼にも返したくて。でも、そんなことが出来るのか、と小さく呟いた。答えはわからない。首を傾げた狩生に首を振る。いつか、その方法がわかればいい。 「……何でもない、ただの独り言よ」 「……幸福ですね。私には親友が居て、こうしてまだ、過ぎ行く時間を誰かと二人で愛おしむ事が、出来るのですから」 そう、この上なく幸福そうに笑う彼と、共に過ごしていく間に。 海中を歩ける日が来るなんて。夜空柄の風鈴と、黒犬柄の風鈴を隣り合わせて、海中に足を踏み入れた真澄とコヨーテは興味深げに周囲を見つめた。まさか煙草も吸えるなんて、と楽しげな真澄を横目に、そういえば、とコヨーテは遠い記憶の中の兄と呼ぶ人物を振り返る。よく、海で泳いだ事も会った。そう告げれば興味深げに真澄が首を傾げる。どんな人なのか、と問う声に、血は繋がっていなかったのだと答えた。 「綺麗で、頭も良くて、「革命」って言葉が大スキで、冷たくて……強いんだ」 「コヨーテは随分懐いてたんだね」 何時も殺すつもりで喧嘩をしていたけれど、寧ろ半殺しにされるばかりだった。そう告げれば、真澄も自分の兄を思い返す。彼とはまた違うストイックさを持った人物なのだろうか、なんて考えている最中に、コヨーテが思い出した様に、以前つかった理想の相手を呼び出すアーティファクトの名を呟く。 「あの時、オレはお兄ちゃんに会ったけど、真澄は……オレ? だったよな?」 「そ、そうだね、そんな事もあった、か」 明らかに動揺した彼女を見つめて、コヨーテは少し首を傾ける。彼女がそう考えてくれているのなら、自分もその気持ちになって、ちゃんと、真剣に考えなければいけない。そう首を捻る彼に気にしなくてもいい、と言えなくなった辺り、自分も女々しくなった、と笑えば、コヨーテはそんな彼女を真っ直ぐに見つめるのだ。 「……「スキ」って、フクザツで、難しいけど、次には答え出すからさ、ちょっと待っててくれなッ!」 「あぁ、待たせておくれ」 あの時は誤魔化したけれど、自分もちゃんとこの気持ちに向き合わねばならない。こんなにもイイ男の彼と、お互いの気持ちを交わす為に。 ● 赤と青。同じ柄の色違いの風鈴が元気よく音を立てる。機械の身体故縁遠かった海だけれど、これなら遊べると喜ぶモヨタの隣で、ナユタは楽しそうに笑う。 「よかったね、これならカナヅチのにーちゃんでも海の中を見られるもんね」 「すげぇ、キレイだなー……お、クラゲ発見!」 ふよふよと漂う半透明は、近づけば手の中の赤い煌めきを透かして、綺麗で。きらきらと目を輝かせる兄の傍に、刺されたら大変だから触らないように、なんて言いながらナユタも近づく。りん、と鳴る風鈴。色違いのそれが明滅を繰り返して、緩やかに混ざる赤と青。優しい薄紫へと色を変えたそれが、楽しげに音を立てる。 「これが干渉ってやつかな?」 「こっちの色も優しい感じできれいだね……あ、向こうにすごい魚の群れ!」 きらきら、光を弾く鱗が見える。遠くに行ってしまう前に早く見に行かなくては、と急かす弟は、普段よりずっと弟らしくて。モヨタも笑顔でその背を追う。折角の時間を、少しでも無駄にしないように。 重ねた掌は、海の中でも温かい。美しい光景は穏やかな日常が戻ってきたことを教えてくれるようで、櫻子の唇にも穏やかな微笑が浮かぶ。そんな彼女を隣において、もう3年。長いようであっという間の期間を思いながら、櫻霞は目を細める。胸を焼く憎悪にも似た感情を向ける相手への溜飲は、完全では無くとも下げられた。ならば、そろそろ頃合いなのだろう。名前を呼べば振り向く彼女と向き合った。これは、節目だ。 「遊びは無しだ、正直な気持ちを聞かせて欲しい。……俺はお前を、櫻子を愛している」 「……私も、私も櫻霞様を愛していますわ」 照れながらも迷わずに返る愛の言葉。優しく、やわらかな声音は何時だって櫻霞だけを思っている。それは誰より、櫻霞自身が知っていた。だからこれも、答えなんて見えた問い。けれど、とても大切な問い。 「神秘に関わっている以上未来は解らない。それでも一緒にいる気はあるか?」 「未来は変わらずとも、ずっと櫻子は櫻霞様と一緒です。……だって、最後まで共に在ると櫻霞様に誓いましたもの」 嗚呼。その愛に迷いはない。何処までも真っ直ぐでひたむきな想い。それを受け止めて、手を伸ばした。細い肩を、腕に簡単に収まってしまう身体を、しっかりと抱き寄せる。最後に見た瞳が僅かに潤んでいたのはきっと気のせいでは無いだろう。銀の髪を優しく撫でて、後悔はさせない、と囁いた。 「だから、俺と結婚してくれ」 「……もうっ、私が断るわけ無いってご存知ですのにっ……」 背に回る腕はやはり温かい。たまにはこんなサプライズも悪くないだろう、と問えば、涙が零れる面差しが笑顔に変わる。世界一、幸せなお嫁さんにして下さいね、と。背伸びした櫻子の唇が櫻霞のそれと重なった。 「暗視も使っちゃダメなのかな? ちょっぴり暗くて、こわ……危ないかも。杏、置いてかないでね?」 「大丈夫よまこにゃん。手を離さないでね?」 不安そうな顔は、けれどすぐに嬉しそうな笑顔に塗り替えられる。月光も海月も凄く綺麗で。指先で触れられそうな距離に居ても逃げない魚は鮮やかな色の熱帯魚。可愛い、と楽しそうに此方を振り向く真独楽を見つめながら、杏はそっと息を吐き出す。状況は過酷になって来ていた。こんな風に、幸福な日常を過ごす事が出来るのもいつまでなのだろうか。 「そうそう、ずっと渡したかったの。お揃いの指輪よ」 互いの風鈴の色と音色を興味深げに確かめていた真独楽へと、差し出されたのはケースに入ったシンプルな指輪。裏側の刻印は二人の名前を示す大事なものだ。それを見つめて、気にしなくていいのに、なんて呟いた真独楽はけれど嬉しさを隠せない。 「はいまこにゃん、つけてあげるわね。……アタシにもつけて?」 「超かわいい! 大事にするね♪ 付けっこしよ、杏も手出して~」 そっと指に通す煌めきは、これから先もずっと一緒と言う約束だ。ずっとずっと親友でいよう、と杏の指に触れた真独楽は笑った。 お目当ては海月と、彼と一緒の時間。指先を絡めて、寄り添って。ひよりは機嫌よさげに笑みを浮かべる。そんな彼女の手を確りと握り返した雪佳は、周囲の魚に感嘆の息を漏らしながらも、時折その視線をひよりに向けては逸らしていた。水着。とても可愛らしくて、けれど胸の高鳴りは煩くて。頬が熱くなるのを感じる。それを知ってか知らずか、逸らした視線を合わせるように此方を見上げる彼女。どうしたんだ、と問えば、うん、と優しく笑う顔。 「ちゅーしたいなあと思って」 「ちち、ち、ちゅー……!?」 近寄れば、淡い紫と白が重なり合い溶け合う。優しい光が、2人きりの今を照らして守ってくれているようだった。誰も見てないよ、と囁けばこれ以上ないほど真っ赤に染まった顔が真っ直ぐ此方を向く。気持ちは同じだった。ずっと前から、そうしたいと思っていた。 「背伸びじゃ届かないから、後はゆきよしさん次第なの」 羽ばたきは星導の灯りを掻き消してしまうかもしれない。緩々と瞼が伏せられる。それを、見つめて。手が震えるような気がするのは羞恥なのか高揚なのか。それでも嫌ではなくて、軽く身を屈めて。顔を寄せて。初めて触れる唇は柔らかくて、温かくて。嗚呼。まるで重なり合う煌きのようだった。気持ちが、融け合っていく。ぎこちなく離せば、吐息が混じるほどの距離でひよりが笑う。しちゃった、と呟くこえは嬉しそうで。気恥ずかしげで。ぎゅう、と抱き付く身体を大事に大事に抱き締め返す。今日は、特別な日になりそうだった。 ● 「海の中って不思議ね、リンシード」 繋いだ手と手。飲み込まれてしまいそうな夜の海は怖いとも思ったけれど、神秘のきらめきが彩る其処はとても美しかった。目を細める糾華の隣で、リンシードもそっと息をつく。海は何故か落ち着くのだ。生命の母なんて呼び名もあるくらいだから、何か理由があるのだろうけれど。そして、同時に隣の彼女のように、怖いとも思うものだ。先の見通せぬ其処は、未知で溢れているのだから。 「でも、こうして足をつけて、落ち着いて見渡せば……素晴らしいでしょう……?」 「ええ、不思議な光景ね……海中に光が浮かんでるみたい。不思議……綺麗」 海月も、遠い月も星も、手元の柔らかな明かりも。全てが海を色付けていく。また一つ素敵な思い出が増えた、と笑い合うその笑顔も大切な一瞬。また色々な場所に行こうと言う糾華を見つめながら、リンシードは首を傾げる。 「私……お姉様の笑顔がもっとたくさん見たいです……」 どうしたらもっと見られるのか。一緒に歩くだけではもう満足出来なかった。もっと、と求める気持ちを、糾華はちゃんと受け止めてくれる。嬉しそうに綻ぶ顔。もっと我儘を言ってもいい、と優しく言ってくれるのだ。 「私を困らせても良いの。貴女の笑顔をもっと見たいわ――なんて、我儘かしら?」 我儘を我儘で返すなんて、やはり彼女には適わない。けれど、自分の笑顔の分だけ、彼女が笑ってくれるなら。自然と口角が上がった。幸福そうに目を細めて、リンシードは笑う。心の底から何度だって笑うから、見逃さないで欲しい。そんな言葉に糾華も笑った。 「……ふふ、素敵だ。一度こうして海の中を自分の足で散歩してみたかったんだよ」 雨柄の風鈴が音を立てる。とんでもないものばかり齎す神秘だけれど、こんなにも不思議な力を持つ事もあるなんて。不思議だ、と目を細めるよもぎの横で、狩生も興味深げに風鈴を見つめる。周囲は静かで、それを破るように、彼の名を呼んだ。視線を合わせて、此処から帰ったら、と呟く。 「本来の自分の性別として生きてみようと思う」 すぐに完全なそれに戻るなんて無理だろうけれど、ゆっくりと時間をかけて。本当の自分に戻ろうと決めたのだ。隣の彼に、きちんと向き合いたいから。そして、何より。 「死んだ妹…きくの事を受け入れた時、偽りを持って生きたくないと感じたんだ」 「選択とは、何時だって尊いものです。……それが、君の心に深く根付くものであるのなら尚の事」 君は強いひとだ、と銀の瞳が笑う。それに少し笑って、よもぎは頬を掻く。そうは言ったものの、時を止めた身体はずっとどちらにもつかぬままだ。戻して生きても、結局殆ど変わらないのかもしれない。そう呟けば、男は首を傾ける。君と言う人間を作るものがまた増えるのだから、きっと変わるでしょう、と。囁く声は優しかった。 誘いに乗って現れた女がひらひらと手を振るのをみて、遥紀が覚えたのは安堵だった。幾許か息を吐き出して、緩々と首を振る。 「……壮健の様で何よりだよ、月隠。いけないね、此の業界が長いとどうも後ろ向きになって」 「お互い様よ。……無事で良かった、元気にやってる?」 そんな言葉を交わしながら向かうのは月の沈み隠れる海の底。浮くようで沈むような感覚さえ笑って共有出来るのは、付き合いが長くなってきたからだろうか。周囲を囲む水の気配。鮮やかな珊瑚の森を歩いて行くのだ。水音が、泡立つ空気が耳を肌を撫でていく。冷たい流れさえ楽しい。頭上を泳ぎ去る魚の鱗の煌めきを、そのさらに上、波間に揺れる星月の儚い光を、目に焼き付けて。視線を戻した。 何処か荒涼とした堅い音色を奏でていた風鈴の音が、酷く優しい響きに変わる。互いの愛しいひとの名を呟いて、日々の事を話して。その度に柔らかに鳴る音。嗚呼。この幸福が、彼女の幸福が続くように。そんな願いさえも内包するように、また風鈴がりん、と鳴った。 初デート。響きだけなら最高に甘酸っぱい青春の一ページだが、それを達成する本人達にとって最初に感じる感情は緊張以外の何物でもないのだろう。もちろん、風斗とアンナも例に漏れず非常にぎこちなく、その手を繋いでいた。 「ええと、せっかくだし、で、で、で、デートっぽいことをだな……」 アンナも女の子、ロマンチックな状況は嫌いではないはず。頑張れ自分。そう励まして、ふと景色に目をやれば、所々に見える風鈴の煌き。嗚呼、神秘もこういうものばかりなら悪くないのだけれど、と思わず思考に沈みかけて、慌てて首を振る。話題だ、話題が必要なのだ。デートなのだから気の利いたトークをしなくてはなるまい。例えば今目の前を行き過ぎた魚の名前とか。遠い空を彩る星の名前とか、そういうの! とは思ってもいきなりそんなものが出てくるはずも無い。 なんて悩んでいる風斗の横に立つアンナもまた、何も聞こえないほどに精一杯だった。付き合う前から押していたとはいえ、実際こういう関係になってみると、なかなかクるものが有る。頬が熱くて、けれど手は離さない。状況はわかっている。ロマンチックだ。風斗が頑張って喋っているのも解っている。けれど何も入ってこない。あんまりにも2人で歩いているという状況が強すぎるのだ。前にも遊んだことくらいあるのに、それとは全然違う。なんて思っていたら、不意に絡む指先。所謂恋人繋ぎ、と言うやつだ。風斗の勇気の産物である。僅かに、視線を交えて。 「ええと……これからも末永くよろしく……」 「……あー……今回はこんな感じでいさせて。今度埋め合わせするから」 ああもう、上手くいかなかったけれど思わずにやけてしまうくらいには幸せだから。今日はもう、こんな感じでいいのだ。所謂デートを楽しめるようになるまでの時間は、まだまだあるのだから。 ● 足元には珊瑚礁。岩に腰掛けたアティリオと幽華は、互いの風鈴を見せ合い楽しげに笑い合っていた。お互いを思わせるそれの音を聞きながら交わす会話は楽しいけれど。アティリオが、人の気配のない、静かな場所を2人の場所として選んだのにはちゃんと理由があったのだ。視線を合わせて、一つ深呼吸。こういう気持ちはよく知らないのだけれど、と前置いて、そっと、幽華の手を取った。彼女といると、とても気分が安らぐのだ。これからも、傍に居たいと思えるほどに。 「幽華さんにはそういう事は……ないでありましょうか?」 「私も……アティリオさんと一緒にいると……とても安心できると言うか……暖かい気持ちになるんです」 こんな気持ちは初めてで、どういえばいいのか判らないのだけれど。きっと、これは2人とも同じ気持ちなのだろう。そっと、触れる手を握り返す幽華と見詰め合う。よく知らない感情。相手を思う気持ち。これはきっと、愛しい、と呼ぶものなのだと、アティリオは感じていた。空いた手が、そっと天使の彫られた水色のカメオを差し出す。 「もし……もしも、同じ気持ちならこれを受け取ってくれませんか?」 「あの、その……ずっと、傍に居たいです。離れたくないです。その、ですから……」 ずっと、傍に置いてください。願うような声だった。細い指先が、自分でいいのならとカメオを受け取る。愛しい、と言う気持ちをよく知らないもの同士。結ばれた関係を深めるように、触れ合う手がそっと絡められた。 デートをしたい、と誘ったまおに、ヘンリエッタは笑顔で同行していた。色々、話を聞いてほしい、なんて言う願いへの答えは勿論了承。エスコートだと言って繋いだ手と一緒に、適度に深く静かな場所へと沈んでいく。ちりんちりんと風鈴の音が耳をくすぐるのを聞きながら、まおが呟いたのは、怖くて強かった人のことだった。ずっと届かなかった相手。ぽつぽつ、話し出せば止まらなくて、過去へ行ったことも口に出て。その一つ一つに優しく相槌を打ってくれる彼女を見つめた。 「えっと、まおはちゃんとお仕事できたのかなって不安になりました。……もっともっと頑張らないとってまおは思います」 呟くほどに視線は下がる。ついには俯いてしまったまおを見つめて、ヘンリエッタはそっと、屈み込んで目線を合わせる。彼女は頑張っている。確り勤めを果たしていると、自分は思っていると告げた。不安そうな瞳を、真っ直ぐに見つめなおす。 「贔屓目なんかじゃない。 いつだって懸命に頑張っているまおさんを、オレは知っている」 そうやって頑張るのは良い事で、それは彼女のいいところでもあるけれど。思い詰めすぎてはいけない。そんな言葉に、まおは少しだけ表情を緩ませる。こんな話ばかりでごめんなさい、と告げれば、ヘンリエッタは優しく首を振った。もっと、胸を張っていい。そう呟くのは本心だ。健気で控えめな彼女はとても可愛らしい。励ましたくて、伸ばした手で優しく頭を撫でれば、ありがとうございました、とまおの顔に笑顔が戻るのが見えた。 「まおはとても嬉しいです。……あの、これからも、まおとずっとお友達でいてくれますか?」 「……それこそ、勿論。ずっとずっと友達だよ」 折角のデートを楽しもう、とその手は静かな海底の先、魚の泳ぐ世界を示す。互いの笑顔を確かめながら、少女2人の海中散歩は続いていく。 呼吸も会話も可能。アーティファクトと言うものは本当に何でもありだ、と葬識は目を細める。神秘とは人の望みをかなえる願望機でもあるのだろうか。自分は鬼だけれど、人気分も悪くはない。そんな思考に沈みながらふと魅零に視線を投げれば、明らかに動揺と怯えが見える表情の彼女が周囲を見回していた。暗い。暗いのは怖い。それで一杯一杯らしい彼女を眺めるのは面白そうだ、と姿を消してみれば、明らかに息を呑む気配。 「せ……せぱっ、せんっ、ぱっ、ぱっいっ、待ッ!!」 「俺様ちゃんいるよー」 後ろから声をかければ、悪い悪戯だと潤む瞳。嗚呼、せめてちょっとでもぬくもりがあれば、誰かいるとわかれば怖くないと思えるのに。思わず手を伸ばして。手、と言えば傾げられる首。 「手っ、手ぇぇ! おててぇ!!」 「手? 手をどうしてほしいの? 言わないとわかんないよ」 言葉は出てこない。ひらひらと彷徨う手を見つめて、まあいっかと葬識はそれを掴んだ。何時もならからかう所だけれど、今日は機嫌が良い。安心した表情を横目に、そのまま気の向くままに歩き出す。手は温かい。自分も、彼女も。 「人のような温もりはないけれど、鬼のような温もりでは過不足あっちゃう?」 「先輩の手でいいんです、先輩の手がいいんです……」 静かに、その手を握り締める。視線を流せば泳ぐ魚。嗚呼、可哀相と目を伏せる。此処でしか生きられない。外はこんなにも、広いのに。まるで檻の中。暗くて冷たい、檻の。ふるふると、長い髪を振る。 「……先輩、今日の夜だけは傍にいてくれませんか?」 感情を飲み込んだ。こうやって、繋いで居てくれれば、寂しいのも忘れられるから。そんな願いを、鬼を名乗る彼は聞いてくれるのだろうか。 差し出した手に重なる手。素敵な夜だと囁き合って、イシュフェーンとアガーテは水底の世界を歩いていた。幾ら歩けるとは言っても足場は不安定。紳士的なエスコートもいいだろうと思ったけれど、アガーテのくすぐったげな、けれど嬉しそうな顔を見ればそれは間違いではなかったと感じられる。 「あそこ。お魚が泳いでますわ!」 「あれは熱帯魚かな? 泳いでるというより、眠っているみたいだね」 ほんのり明るくて、幻想的で。あれこれと反応し楽しげな彼女は、落ち着いて見えるのにやはり実に若々しい。それにしても不思議な光景だった。夜の海は静かで、落ち着いている。魚達も今は静けさを保っているけれど、昼の海中はもっと騒がしいのだろうか。そんな風に思いを馳せれば、はしゃぎ過ぎただろうかと不安げな表情を浮かべていたアガーテが思い出した様に視線を上げる。 「あの時はココアをありがとうございました。今日はアイスティーを準備して参りました」 「いいね、アイスティー。お礼は必要ないよ。僕がやりたい事をやっただけさ」 その延長線上で彼女が喜んだなら何よりだ、と笑って。そう言えば、海の中では折角のアイスティーが飲めない事に思い当たる。勿論、アガーテはそれも分かっていたのだろう。後で、と彼女は微笑む。 「後でご一緒しませんか?」 「いいね。夜はまだまだ長いんだし、ね」 戻ってすぐにお別れは少し寂しい、と言う彼女にまた笑みを浮かべる。海の星を堪能した後は、星の海を一緒に眺めればいい。勿論、アイスティー片手に。 ● 緑の傍で揺らめく銀は、月の輝きのようだった。それぞれの在り様を示すような音を立てる風鈴を片手に、拓真と悠月は静かに海底散歩を楽しんでいた。 「空に輝く月明かりもそうだが、海底にある珊瑚礁なども綺麗な物だな」 「滅多にない経験ですね……」 こうして広がるものを、自分の目で、しかも海底から見るなんて。じっくりと眺めて、合間を泳ぐ魚を目で追って。傷つけぬよう優しい足取りで歩く彼女の横、同じく珊瑚や海月を眺める拓真は、そう言えばと思い返す。珊瑚を使ったアクセサリー、なんて物もあるらしいから、何れ彼女に贈るのもいいかもしれない。そんな思考を遮る様に、目の前を魚が通り過ぎていく。 「以前、水族館で見た事があったが……やはり場所が違うだけで随分と雰囲気が変わるな」 「水族館は隔離した空間を観る場所ですからね。ここは言うならば『隔離された側』」 この世界では自分達が常と違うものだ。魚が泳ぎ過ぎていく。遥か遠い海面で揺らめく月の光はいつもと違うけれど美しい。嗚呼。やはりこの光景を形容するのならば、幻想的と言う言葉が相応しいのだろうか。同じ事を思ったらしい拓真も微笑む。水族館は水族館で日常的な良さがあるけれど、やはりこれは美しい。 「……水中の散歩もこなしたし、何れは空の散歩も行ってみたいものだ」 「空ですか。……空をゆっくり飛ぶというのも、良いかもしれませんね」 何時の日かだろうけれど。二人でならば、何処へ行ってもきっといい思い出になるだろうから。 海の底がこんなにも美しく見えるのは、普段から眺めてはいない、真新しい空間だからなのだろうか。時よ止まれ、お前は美しい、なんて隣の劫と重ねて呟いてしまったリリは、少しだけ笑って。そう言えば、と視線を投げる。 「先日のカリ=ユガの影響は……もう大丈夫ですか?」 「少なくとも自分に忘れたって意識は無いよ。完全に忘れてるんなら、意識することすら無いだろうし」 一応心配しているのだ。それを伝えても、劫の飄々とした様子は崩れない。問題ないんじゃない、なんて肩を竦める彼を、けれどリリは心配せずにはいられなかった。忘れられない。彼が、友達を喪ったのなら。それは引きずっても当然の事だ。けれど、それさえも劫は薄く笑って首を振るのだ。傍から見れば、自分は痛々しい限りでこの上ない構ってちゃんだ。自覚がある。困った奴だとも思っている。そして、だからこそ救いようのない馬鹿なのだとも知っている。ずっと、引きずり続けることを格好悪いと思う自分も居るけれど、それほどまでに、あの時間は自分にとって最高の時間だったのだ。遠くを見るような瞳に、リリは少し視線を下げて。けれど緩々と首を振る。 「失った方の代わりにはなれませんが、貴方が嫌がっても構いますから」 彼は自分は一人だとか空っぽだとか言って、自分を大事にしなくて、危なっかしくて。放っておけなかった。どうしてと言われたら困るけれど、彼がそんな悲しい事を言うのが嫌だった。随分と変わり者だとは思うけれど、彼は良い人だから。そんなリリに、劫は少し口角を上げて。 「まあ、でも最近は今の時間も悪くないと思ってる」 生きていく以上は区切り付けなきゃならない問題なのだから。今も見なくてはいけないと知っている少年は、そっと溜息を漏らした。 そういえば去年は星降る夜にこうして歩いた。何かしらの縁でもあるのだろうか、なんて笑いながら、シュスタイナと悠里は海中を歩く。ゆらゆら、差し込む月明かりは綺麗で。それを追うように視線を動かせば、少女の横顔が目に入る。否、もう少女、なんて呼べないのかもしれなかった。その面差しはあまりにも綺麗で、思わず覚えた胸の高鳴りを飲み込む。ずっと子供な筈が無いのだ。彼女ももう、女性と呼べる歳になるのか、と改めて感じて。そこでふと、視線が交わる。 「どうしたの?さっきからこっち見て。……私の事好きにでもなった?」 「いや、何でもない。何でもないよ!」 いやいや何を考えているのか。設楽悠里といえばエンジェルだ。アイラブマイエンジェルフォーエバー、オーケイ? 大げさな反応に驚いた様子のシュスタイナを見つめ直して、咳払い。彼女だってわかっている。万に一つもありえない、エンジェル命の悠里なのだから。 「本当は、綺麗になったなってちょっとビックリしたから」 「……あ、ありがとう……」 予想外の返事に、からかう調子だったシュスタイナの返答が僅かに詰まる。驚いたけれど、その言葉は素直に喜ぶべきなのだろう。もう少し歩こう、と先を歩く少女は何処か嬉しそうで、それを見遣りながら悠里は一度深呼吸。大丈夫。彼女は年下の可愛い友達で、それだけだ。だから浮気じゃないよ、なんて、誰に言うでもない弁明が微かに水を揺らした。 「……お前ホント友達いねぇの?この数年何してたん!?」 「いやあ、R-typeは強敵でしたねえ。今年の夏も実に大変でした……」 黎子の指先で泳いでいた海月が払われる。それを見ながら、黎子はふらふらと珊瑚礁へと腰掛ける。過去を帰られるような話になった時、覚えたのは焦りだった、とその唇が呟く。変えたいものも変えたくないものも多すぎた。そう続く言葉からするに、どうにも真面目な話らしい。火車は何も言わず、続きを促すように視線を合わせる。 「しかし、過去も今もあるべくしてあって、世は全て事もなしと」 「んん~…難しい事ぁ良く解らんが そうだな 世は事もなしだ」 「未来も決まってるんでしょうかねえ。それもそれでなんだか嫌ですけど」 その問いに答えは出しようが無かった。自分達の知る過去自体が、そもそもこの未来あってのものだった。それが決まっていた事だと言うのならばそうなのだろうか。考える間もなく、飲みすぎたようだ、と告げた黎子がその身体を火車へと預ける。僅かに肩が動いて、けれど火車は狼狽を飲み込んだ。幾ら自らの嫁によく似ていようとも。そもそも出会った時は酷く苛立ったし想像以上にドジな所もそっくりで、肝心な所で間抜けで思っていた以上に内面は脆く弱弱しく何時も近くでぐずぐずしているような、こんな女に狼狽なんてするはず無いのだ。その気持ちを知ってか知らずか、黎子が小さく、先に決めちゃいましょう、と呟いた。去年もそんな事を言った気がするけれど。 「来年もここに来ましょう。そしてこんな風に遊んだり、しんみりしたり、色々しましょう」 「そうだな。ずっと、……な」 狼狽なんてしないはずだったのに。滑り落ちるように出た答えは、とても優しかった。 ● 珊瑚礁は森のようで。海月は仄かに光っていて。肌を撫でる水のきらめきは美しい。海の生物はいつもこんな景色を見ているのか、とプレインフェザーは嘆息する。すぐ傍を通った魚はそう言えばこの間共に行った水族館で見たものだ。暗がりではこんな風に見えるのか、と瞳を瞬かせて。あれが可愛い、これが格好いいと楽しむ彼女を見つめる喜平は僅かに笑みを浮かべた。神秘は、物騒なばかりではない。それは何処か彼に安堵を与えてくれる。鱗のきらめきが遠くに見えて。海には不思議が満載だった。浮くでもなく、漂うでもないこの感覚も、今目にしてる景色もきっともう一度はないものだ。そして、それを此方の視線に気づいて照れたように視線を逸らす彼女と共有できるなんて。今に感謝しなくてはいけないな、と涼やかに鳴る紫苑に視線を落とす。 「……何だか、世界にあたしたち2人だけしかいないみたい」 呟く声音と、風鈴の音色は似ている気がした。心地よい響きに静かに息を吐く。緑色の煌めきを灯した風鈴を差し出すプレインフェザーが、覚えて、と囁くのが聞こえた。この色を覚えて。どうか暗闇の中でも、見失わないでほしい。願う声に反応するように、混じり合う煌めきは柔らかな白を零す。優しい未来を示すようなそれに目を細めた。 「あたしも喜平を見失わない。どこに居たって見つけてあげる」 結ぶ指先に力が籠る。何時か。海の近くの自分の故郷に一緒に行こう、と誘う少女の髪を撫でて、喜平は勿論と頷いた。 夜の海は深くて暗くて、本当なら不安になるけれど。今のあひるはそんな事少しも思わなかった。優しく回るフツの腕。温かくて、頼りがいのあるそれが自分を支えてくれる。そして、大好きな声が安心させてくれるのだ。 「夜の海だろうが闇だろうが、オレがいつでも照らしてやるぜ! そしてオレのことは、これからずっとあひるが照らしておくれ」 「フツは頭もぴかぴかだけど、心も明るいもんね。あひるもつられて明るくなるから……しっかり照らすよ! えへへ」 灯台下暗し何て言うけれど、フツには何の心配もない。あひるが何時だって彼を照らしてくれるから、怖いなんて思いもしなかった。腕の中で彼女が笑う。今年も素敵な思い出が増えた、と夢見るように呟いて。あひるはそっと、本当に夢みたいだと目を細める。ずっと憧れていたフツの傍にいられて、一緒にいることが自然になって、心地よくて、何だか変な感じだった。それさえ受け止めるように、フツも笑う。夢じゃない、と抱きしめなおした。けれど、夢みたいだと思ってくれるならそれもいい。何時だって、彼女に幸福な夢を見せるのは自分だ。二人で見る事が出来る、二人だけの夢を。 「来年は2人で、再来年も2人で。10年くらいしたら、子供と一緒にいようぜ!」 「! 絶対、絶対に叶えてね……! 誓ってくれる、かな……?」 すごく幸せな、将来の夢。約束だよ、と小指を結んで、2人はもう一度笑い合う。 黄緑と桃の光は、海底を春の色に染めていた。手を繋いで歩くのはもう何度目か。出会ってから、もう何年経ったのか。思い返すだけで楽しい記憶が溢れてきて、ルアは嬉しそうに目を細める。隣の彼を見上げて、見慣れた仮面に手を伸ばす、ふりをした。 「喧嘩したこともあったよね、こうやって仮面に手を伸ばして……大丈夫、取らないよ」 素顔を見られるのは嫌だと知っている。そっと引こうとした手はけれど、スケキヨのそれが確りと捕まえていた。驚いたような瞳を見つめて。少しだけ、ぎこちなく笑って。 「……君の手で外してくれるかな、ボクの仮面(うそ)を」 戦いを乗り越えて。改めて感じたのだ。こんなにも、自分を想ってくれる人が居る。大好きだと笑ってくれる人が居る。ならば、その想いに心から応える為に、自分は向き合わなくてはならないのだ。一番の敵に。本当の、自分に。いいの? と震えた声にうなずく。そっと指先が触れて、視界が開けて。真っ赤になった彼女の顔がよく見えて。伸ばされた指先が、頬を撫でる。異国の血の混じった、日本人離れした顔。透き通る緑の瞳。右目を潰すほどの傷。それを、愛しげに撫でる指先。目の前の瞳が涙を零すのが見えた。 「ルアくん、僕は卑屈で嫉妬深くて後ろ向きで……そんな自分が嫌いで、本当の自分を隠していた」 でも。こんなにも強く、優しい彼女に見合う人間を目指したくて。これからも、彼女と生きていたくて。曝け出すと決めたのだ。零れ落ちる涙を、優しく指先で拭う。だから。 「ずっと好きでいることを、赦してくれますか?」 「赦すも何もないの。今までもこれからも私はスケキヨさんが好き」 ずっと、見たかった。ずっと触れたかった。やっと届いた指先で撫でた素顔も、中に隠れた本当の彼も、全てを受け入れるのだ。彼が嫌いだといっても、余すところ無く。微笑み合って。そっと、唇を重ねる。緩々、瞼を上げれば交わる視線。嗚呼、初めてだと泣きそうな顔で笑った。吐息が交わりそうな距離で、愛してると囁いて。もう一度だけ触れ合った唇は温かかった。 歩く度、浴衣の様な水着の裾が揺れる。手を繋いで、提灯の中に風鈴を吊るして。共に歩くランディと旭は互いの提灯を近づける。ふわり、と交じり合う優しい色。高い音色も優しくて、二人と一緒だなとランディが囁いた。 「こんなふうに珊瑚見るなんて、はじめて。すごいねぇ……」 「しかし明かりを灯していても暗いな……そうだ」 この珊瑚の中に、光を灯すのはどうか。そんなランディの提案に旭は嬉しそうに頷いて。そっと、珊瑚を壊さないように灯りを燈していく。まるでクリスマスみたい、なんて笑ったけれど、その光景は綺麗で。こんな提案を彼がして来るなんて少し以外だとは想いながらも、旭は零れる笑顔を抑え切れなかった。そんな彼女の笑顔は、幻想的な灯りに照らされてたまらなく美しくて。無意識に伸びたランディの腕が、その華奢な体を抱き寄せていた。 「わ……っ。ど、どしたの……?」 「やっぱり俺は旭のことが愛しいと思ってる、どうにもならないほどに」 確りと己を抱き締める腕の力は強い。それを感じながら、旭はそっとランディの髪を撫でた。何か、不安なのだろうか。最近の彼を想いながら、少しでも安心できるようにと触れて。旭もまた、彼の耳へと唇を寄せる。 「……ん。わたしもらんでぃさん、だいすきだよ」 だから大丈夫、と二人で作った景色の中で抱き締めあう。 ● 投げたのは付き合い給え、と短い用件のみ。怪訝そうな顔をしながらついてくる男の気配を感じながら、朔は己の胸を染める感情に苛立つように眉を寄せる。自分は不機嫌なのだ。それも極めて。それだけでもらしくないのに。 「理由が君にわかるか? ……そもそも約束を覚えているか?」 神秘の遊園地。美しい景色を見せる、と交わした約束を示せば勿論と男は頷き――漸く、気付いた様に視線を逸らす。桜を見せる、と言ったのだ。幼少期から常に見続けたものを。けれど、今はもう夏の終わり。 「その約束を果たすのに私に来年の春を待てというのか?」 「あー、それは……」 歯切れの悪い返事を聞きながら距離を詰めて。目前の、星色色の瞳を見据える。悪かった、なんて言葉はまだ聞いてやらない。そもそも別に楽しみにしていたとかそう言う話では無いのだ。 「……それは多少なりとも楽しみにしていたがそれはどうでもいい。私は待たされるのは嫌いだ」 待たせるのは女の特権だ。其処まで告げて、だが、と朔は細く息を吐く。過ぎた事を言い続ける程自分は子供ではなかった。事情もあったのだろう。だから。エスコートをしろ、と金の瞳が細められる。 「それでチャラにしてやろう。……言っておくが二度目はないぞ」 「お前それどうでもよくな……ああくそ、悪かったよ。ほらさっさと手貸せ」 今日は好きなだけ言う事聞いてやる。ばつが悪そうに、けれど何処か機嫌よさげに。伊月の手が差し出された。 「ふぉーーー! きれいっ! ほしがいっぱい!」 ちりんちりん、と鳴り響く風鈴。星と月と、どこかで揺らめく同じ風鈴の煌めきに彩られた風景はとても美しかった。嬉しそうにそれを眺めるミーノの横で、リュミエールは自分を落ち着かせるように息を吸う。しりとりをしよう、と言葉を交わして、ミーノがけ、で終わる言葉を言うのを待って。もう一度深呼吸。 「結婚しよ、うナ?」 「けっこん……?? よくわからないけどずっといっしょってことだよねっ」 ふわり、と周囲を照らす柔らかなピンクの中で、差し出される指輪。同性婚も大丈夫、なんて言葉に僅かにミーノは首を傾ける。恋愛も、結婚も、幼さを残すミーノには難しくて。その意味はわからなくて。けれど、一緒に居て楽しい、という気持ちはよく知っていた。満面の笑みで頷く。これからもずっと仲良くいられるように、今以上に皆を支えなくてはいけないのだ。 「よっし! そうときまったらしゅぎょーしないとっ! リュミエールももっともっとはやくならないとっ!!」 楽しい毎日を続けるために一生懸命頑張るのだ。そんな、無垢な笑顔に目を細めて。そっと、リュミエールは指輪を取り出す。小さな手を取って。頬が熱いけれど気のせいだ。赤いのは、周囲を照らす明かりのせい。そっと指輪を通して、そのまま抱き寄せる。大事な大事な彼女を見つめて、思わず漏れた笑みの先は2人だけの秘密だ。 すでに酔った身体には、潮風が何処か心地よかった。上物のウィスキー片手に杏樹を誘った伊吹は、静かな砂浜に腰を下ろして隣の彼女へとグラスを渡す。誘っておいて情けない為体だ、と微かに笑いながら、微かな音を立ててグラスを合わせる。 「さしで呑むのは初めてだな。それなりに『長い』付き合いであるのに」 「呑む機会はそれなりだけど、そうだな。こうして静かに呑むのは初めてだ」 海のさざめきが遠い。よく知っているようでまだ付き合いが浅いようで。不思議な感覚に陥る関係性。それを振り返るように、伊吹は小さく、記憶の話だと呟いた。最期の時。背中合わせに別れたあの日。自分の中の彼は一度も振り返らなかったのだ。 「未練を断ち切るため? それもある。だが何より、そなたの背中を信じていたからだと思うのだ」 彼女ならば、自分が行かずとも少年の命を託せる。それは絶対の信頼だった。その気持ちを、神と見えた時に思い出したのだと告げた伊吹が目を細めれば、杏樹も遠い記憶を振り返る様にグラスへと視線を落とす。 「引き留めても無駄だっただろうし、今あの時に戻っても、同じように送り出しただろう。……分かってても、その背中の覚悟は止めれなかった」 きっと。あの日の、ゆるぎない覚悟と信頼のおかげで、自分は一つの命を、託されたものを守れたのだ。そんな彼女の面差しはどこか父を思い出させた。追い続けて、気付けば肩を並べるほどになったからこそ色濃く感じるそれに、杏樹は笑う。追い続けた背の先を見られなかったけれど、今はもう見ることができる。穏やかなその笑みに、そっとグラスを置いた。 「これからも背を預けて良いだろうか。その代り、俺はそなたの背を全力で守ろう」 「もちろん、どんと来いだ。だけど、守ろうなんて気負わなくていい。……私も伊吹に背中を預けるだけだ」 向き合って、拳を突き合わせて。互いに笑みを浮かべれば、懐かしさと新たな繋がりへの喜びが胸を満たす。この手を、この背を信じよう。もう失わないように。失わせないように。強くなった自分の力を使えばいい。 「預けたなら、簡単には死なせないからな。覚悟しとけ」 ちりん、と重なる音。透明な硝子に描かれたのは、狼と鹿。愛しい彼と自分を思わせるそれに笑みを深めて、木蓮は機嫌よさげに浜辺を歩く。時折足をくすぐる波の先。光に彩られた海中はきっととても綺麗だろう。楽しみで、自然とその足取りは早まっていく。 「あ、アーティファクトの効果が切れたら、持ち帰らせてもらってもいいか訊いてみよっと!」 折角なのだ、この後家に飾るのも悪くない。歩く度鳴る涼やかな音に耳を澄ませながら、ふと思い出すのは島に着いたばかりの事。例の事件では彼に大きな迷惑をかけてしまったが、そのお礼もしなくてはならなかった。彼のお陰で落ち着くことが出来たのだし、海中散歩ではそのお礼もしなくてはならないだろう。 「……うん、楽しみだな」 自分にとっても彼にとっても、素敵な思い出になればいい。もう一度笑みを深めてその足は愛しい人の下へと歩いていく。 岩に腰掛けて。晒した足に時折跳ねる波。気付けば外気は既に秋の気配を含んでいた。小さな硝子の音がする。白とも紫とも言えぬ光が周囲を照らしていて。イーゼリットは静かに、遠くを見つめる。姉が死んだ。神と刃を交える為の礎となった。好きでもなんでもない、寧ろ嫌いだったはずの存在なのに、胸を満たす喪失感はあまりに大きくて。それだけでもどうにもならないのに、妹はその死を気にも留めていないのだ。強くなる、なんて馬鹿の一つ覚えのように繰り返すだけ。理解できない。どうにかなりそうだった。考えていても、仕方ないのに。先程からずっと異なる音を立てる風鈴は無視しつつ、イーゼリットは深い溜息を吐き出した。無視の理由? 怖いからだ。さっきから気配をずっと感じているけれど見ない。見てはいけない。と、不意に風鈴が音を変える。視線を上げれば、見慣れた銀の髪。一瞬目を逸らして、戻して繰り返せば、何だよと苦笑交じりの声がした。 「べ、べつに会いに来たとかそんなじゃないし!」 「はいはい、偶然ですねー。……ひでえ顔。相変わらず一人で無理ばっかしてんのか」 風邪引くぞ、と放られる上着。その姿を眺めながら、ちんn……那由他はにこにことその笑みを深める。色々とショックな出来事が重なっているだろう彼女を温かく見守るのが今日の目的である。慰め? 不要である。きっと彼女は良い感じに歪……立ち直ってくれると信じているのだから。 「イーゼリットさん、がんばれー。応援してますよー。ふふ、ふふふふ……」 僅かに肩が跳ねたのが見える。嗚呼可愛いなあ。そんな呟きが漏れた。あの心の在り方、愛おしくて仕方がない。自分のものにしたい。駄目なのか。世の中は難しい。残念だ、と溜息を漏らしつつ、今日の所は諦めて。何時かの依頼で石像にした彼女の顔を思い浮かべる。うん、やっぱり可愛い。ある意味歪んだ愛情をじわじわと送りながら、那由他の夏は終わっていく。 「夜の海を眺めながら、ゆっくりするのも悪くは無いな」 「落ち着きますね。相変わらず、良い所です」 重なり合う音色は異なるのに、耳に心地よく感じるのは何故だろうか。互いの音色に耳を澄ませながら、猛とリセリアは静かに浜辺から海を眺めていた。月の光を照らし返す波。潮騒さえも、優しい音色に色を添えるようで。言葉もなく風景を眺めていながらも、猛の唇が僅かに開く。 「R-typeを撃退して……次は一体誰が俺達の相手になるんだろうな」 「大きなフィクサードで言えば、七派やバロックナイツとは戦いが避けられないでしょうけど……」 数えればきりがない。倒すべき敵は多かった。国内外に散らばる敵を、そして、退けたとはいえまだ確実に生き残っているかの憤怒のアザーバイドを、倒さねばならない。名だたるそれを相手取ることは、気付けば当たり前になっていた。けれど、それに不安はない。負ける心算はない、と猛は笑った。それは勿論リセリアも同じだ。負けられない。負けたりしない。 「これからも宜しく頼むぜ。例え誰が相手になろうが俺達ならきっと勝ち抜ける」 「宜しくお願いします。……ええ、必ず」 迷わない。大切な日常の為なら、何時だってこの拳に迷いなどないのだから。リセリアの笑みを見つめながら、猛の決意はまた新たになるのだろう。 ● どんな綺麗な景色も、最愛の彼と共に過ごす時間も、今のレイチェルには何処か遠かった。不安が、脳裏を占めるのだ。あの戦いで背負った重圧は、重かった。 神威の射手として、過去のリベリスタ達を殺した。イヴの、智親の、そして、この隣に立つ最愛の夜鷹のかけがえのないひとたちを、塵さえ残さずに。それは予測できることだった。覚悟は出来ていた。レイチェルはリベリスタだ。躊躇ってはいけないと知っていた。けれど。その指先が引いた引金が奪った命に繋がる人々の恨みを背負う覚悟は、出来ていなかったのだ。ゆらゆらと月が揺れていた。見上げて、静かに隣に立つ彼に僅かに視線を投げようとして、でも、目を合わせられなくて。 「……夜鷹さんは、私を恨まないの?」 「全く」 抑えきれず零れ落ちた問いは、即座に返る夜鷹の返事が掻き消す。驚いたように顔を上げれば、彼は穏やかに笑う。理解していた。背負ったものの重さを。確かに、あの日自分は喪った。でも、今こうして生きていられるのは、あの介入があったからこそなのだと思っていた。幸せは確かに奪われた。自分の抱える不幸はあそこから始まった。でも、それがあるからこそ。 「何でもない事が、本当に幸せに感じられる。……レイの声を聞いて、笑って、泣いて」 それが、今の自分にとっての一番の幸せだ。だから、恨みなんて微塵もなかった。その言葉に、レイチェルの瞳は僅かに細められて。 「まったく、夜鷹さんらしいね。……ありがとう」 少しだけ。吐き出された安堵にも似た呼気が、ふわりと昇っていく。道を飾る珊瑚礁はさざめき合う光に照らされて、とても綺麗で。神秘の持つ優しく幻想的な一面に、雷音はその表情を僅かに和らげる。そんな彼女を見つめながら、共に歩いていた快は不意にその足を止めた。振り向き不思議そうに此方を見る瞳。大切な存在だった。この感情に名前をつけるのなら、それはきっと今なのだろう。手を取って、見つめて。話があるのだと呟いた。 「俺、君が好きだよ。相棒の妹とかじゃなくて、一人の女の子として」 此方を見上げる瞳が驚きに染まる。手が震えて、頬は赤くて。嬉しそうでけれど何処か切ないような表情で、雷音は首を振った。自分はまだ子供で、とぎこちなく紡ぐ言葉。それをかき消すように、快は小さく息を吐き出す。 「今、言わなきゃと思ったんだ。これが……最後の夏になるかもしれないから」 「――君にはボクよりもずっといい人がいる……と、思う」 じわり、と視界が滲んでいくのは此処が水底だからだろうか。目の奥が熱かった。貰えるなんて思わなかった言葉がうまく呑み込めなくて、嬉しくて、けれど自分の口から零れるのは否定で。 「ボクは、君にふさわしくない。……最後なんて言うな」 いなくなってしまいそうで嫌だ。そんな言葉と共に涙が零れて。拒むはずなのに指先はその手を離せない。それを感じ取って。快の手が、華奢な雷音の身体を引き寄せる。相応しい人。僅かに頭を過ぎる誰かの顔に、痛みを覚えないわけではないけれど。離れた手に、選ばなかった可能性に別れを告げて。零れる涙ごと、目の前の少女を抱きしめた。視線が交わって、微かに鳴る風鈴の音。間近に迫る翡翠色が、滲んで見えた。 静かで光も淡い海中はミステリアス、と呼ぶのが相応しい気がした。泳ぐのが苦手な恋人が嬉しそうに周囲を見回すのを感じながら、俊介は沖へ沖へと足を進めていく。人の気配は気付けばなかった。周囲を確かめて、此方を不思議そうに見つめる羽音を見返して。そっと、膝をついた。 「な、羽音。あのさ、あのさ……その、さ、お、俺と」 言いたい事があった。本当ならもっと雰囲気を作ったりするものなのかもしれないけれど、今更だ。何時だって突然なのだから、今回だって同じ事。けれど言葉が続かなくて。飲み込みそうになって、首を振った。ここは頑張るところだ。言わねばならない。言いたいのだから。 「俺と、結婚し、してくれ……!!!」 紡いだ言葉はやけに大きく響いた気がした。それを、受け止めて。羽音は幾度か瞬きを繰り返す。年下でいつも落ち着きのない彼から、こんな言葉が飛び出すなんて。驚いて、でも嬉しくて。言葉が上手く出てこない。言葉にならない。震えた息を吐き出した。答えは決まっているのだ。心を交わした日から、喧嘩をして、泣いて、笑って。その中でずっと変わらなかった想いがこみ上げる。 「……はい。喜んで」 決めていた。体も心も猛り狂う刃もこれから先の、未来も。全て、彼に捧げるのだと。言葉にし切れない思いは涙に変わって、視界が滲んで。拭おうとしたけれど、すぐに海水に溶けていく涙の雫に少し笑った。 「こ、こんな俺でも良いのか……ってうあー!? どうした羽音!? 泣くほど嫌なんか!?」 「ふふ、違うよ。その逆だよ」 嬉しいんだよ、と笑う彼女の眦から零れた涙がまた海に溶ける。嬉し涙は止まりそうになかった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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