● 石田隆志が身を屈めたのと、高原流の耳が不快な羽音を捕えたのはほぼ同時だった。 「大丈夫ですよ、石田先生。蜂じゃありません」 流は手を振って顔の回りを飛ぶ小さな害虫を追い払った。薄闇にまぎれてしまってもう姿は見えないが、隆志を脅したのは蜂ではなくハエだ。おそらくはクロバエだろう。 ≪しっかし、到着がくそ早えな。アーク並だぜ≫ ぎゃはは、と笑ったのは流が左手にはめた牛のパペットだ。丸い黒ボタンの目が西日を弾いて橙色に光っている。 細い獣道を下った先、木々の向こうに点在する家には早くも明かりが灯り始めていた。葉を揺らす風の筋に少しひんやりとしたものが混じっている。 「モーモーさんは笑いましたが、ハエの到着はシャレになりません。さっさと始末を終えて帰りましょう」 「そうですね。二次災害が怖い。薬物汚染された死体を食べたウジが成長したら覚醒ハエに……」 隆志は太った体とぽってりとした尻尾を大げさなほど震わせた。 覚醒したからといって即習性が変わるとは限らない。死肉好みが生肉好みになるかどうかは未知数だ。が、そうなってしまえば厄介なことになる。山で野生動物を襲って腹を満たしているうちはいいが、じきに近くの町で人を襲って騒ぎを起こすだろう。アークが害虫退治に乗りだしてくるのは確実だ。いまいましい万華鏡は元凶である六道の研究所――表向きは重度精神病患者のための閉鎖静養施設――の位置まで探りだしてしまうに違いない。 それは困る。 流がさっと手を振ると、研究助手たちがバイオハザードのマークが描かれた黄色い死体袋を開いて巨大なザクロのようになったノーフェイスの死体を詰め込んだ。前後の見分けがつかなくなるほど切り刻まれてなお、動きを止めなかったのだ。流は携帯スコップでノーフェイスが倒れていた場所の土もすくい取って袋へ入れるように指示を出した。 高階聡子のほうは、と斜面を見上げると、女医はすでに引き上げ始めていた。山に似合わない赤いピンヒールが空を踏み蹴るようにして遠ざかっていく。木が邪魔をして翼が思うように広げられず、うまく飛べないせいだろう。死体の回収はとっくに済ませているらしく、聡子の下についている研究助手たちは周辺の化学洗浄を始めていた。 隆志がハンカチで首の汗をぬぐいながら斜面を上がってきた。 「それにしても管理が杜撰すぎますね。これで2回目ですよ。しかも一度に3人も脱走とは。たまたまボクたちが来ていたからいいようなものの、ここに駐在している連中だけじゃ町に出られる前に取り押さえられたかどうか。ねえ、高原先生。上に掛けあって、矢吹医院長の更迭を含め早急に警備体勢の強化を図るべきじゃないでしょうか?」 ≪ンなこと、テメーが気にするこっちゃねぇ≫ 「いや~、そうは言うけどね、モーモーさん――」 隆志の丸く柔らかい笑顔が強張った。 次の瞬間、流は胸を突き飛ばされて、柔らかい斜面に尻もちをついていた。 「い、石田先生!?」 体を横にして倒れた隆志が、声に反応するようにぴくぴくっと体を震わせる。芋虫がもがくようにして体をくねらせると、ゆっくり斜面を滑り落ちはじめた。 あわてて腰をあげ、白衣の端へ手を伸ばす。 こめかみに固いものが突きつけられた。 ゆるゆると顔を上げて辺りを見回す。いつの間にか、銃口を向けた数名の助手と人相の悪い――流曰く、頭の悪そうな男たちに囲まれていた。 ● 「結論から言えば高出力エネルギー発生装置さえ爆発しなければいいんです。ええ、ですから助ける必要はありません。みなさんはそこに『壊すと危険』があるって六道の連中に教えてやるだけでいい。簡単でしょ?」 至極あっさり言い放つと、『まだまだ修行中』佐田 健一(nBNE000270)は串を手に取りみたらし団子にかぶりついた。それからゆっくりと湯呑を持ち上げて、萌黄色した茶をすすった。 「そこに至るまでの詳しい事情なんて分かりません。知りません。しかし、六道のフィクサードを数名拉致したうえに拷問にかけるなんてよほどの事なんでしょうね」 健一の未来視では、いまから6時間後、六道のフィクサード(高原、石田、高階)3名が正体不明のフィクサードたちに拉致されるという。その2時間後には、六道フィクサードの1人が反撃に放った攻撃によりさる薬剤メーカーの研究所にある研究用の高出力エネルギー発生装置が重大なダメージを受けて爆発するらしい。熱出力は商業用の1%未満と小さいが、研究所自体は住宅街のど真ん中にあるため周辺地域の被害は甚大だ。 「断片だしおぼろだし……で、はっきり分からないんですが、どうも高原の独自技、重力を操るEXみたいですね。なんかべこん、と床というか空間と言うか、広い範囲が凹んで一気にぎゅっと縮こまっていくんです。それを高出力エネルギー発生装置の真上にある部屋でやっちゃったもんだから……ね。まあ、高原は自分たちが連れ込まれた場所にそんなものがあるなんて知らなかったわけですが」 健一は湯呑をテーブルに置くと資料を引き寄せた。 「召集をかける前にちょっと調査部に頼んで誘拐犯たちの背景を大至急で調べました。5ページを見てください。ずらりと並んだ人相の悪い顔写真は、すべてフリーのフィクサードです。アークが把握している限りでは、彼らは過去に一度もチームを組んだことはありません。誰かに雇われて集まった、急ごしらえのチームみたいですね。雇い主はたぶん、この製薬会社の会長、坂上 巌(さかがみ いわお)です。孫の志寿馬(しずま)が半年ほど前に大きな交通事故を起こして六道系列の総合病院に運び込まれています。今回の一件と何か関係があるのかもしれませんが、分かったのはここまで」 卓から一斉に不満の声が上がった。 無視を決め込んで、健一は呑気な声で続ける。 「あ、次のページは六道側の裏切り者たちです。はっきりいって金で買収された雑魚。なんちゃって覚醒者。なんで無視してください。はい、では、ページを戻して」 巨大モニターに建物の配置図が映されると、健一はみたらしの串を持って立ち上がった。 「高原たちが連れ込まれたのはこの3階建てのC棟。正面ゲートから一番離れた建物で、裏手は川です。正面ゲートには警備所がありますので、無駄な騒ぎを起こしたくなければそこからの侵入はあきらめた方がいいでしょう。研究所の敷地は高さ5メートルの鉄条網で囲まれています。7.5メートル置きに監視カメラ付きの照明が立っており、犬とガードマン2人が定期的に鉄条網の回りを巡回しています。カメラと犬を何とかしてしまえば、侵入自体は難しくありません。C棟内部の大まかな敵配置は資料の8と9ページをご覧ください」 ・地下……予備電力室、備品庫、薬品庫など。 ※人はいません。 ・1階……入口にクリミナルスタア(Rank2)2名のみ。 『高出力エネルギー発生装置』、実験動物管理棟併設。 ※クリミナルスタアの二人は通信機をもっています。 1人はたばこ休憩中、ぼんやりと向かいのB棟を眺めています。 1人は高原から取り上げたパペット人形で遊んでいます。 ※『高出力エネルギー発生装置』のある部屋には入口から直接入れません。 2階からのみ出入り可。 ・2階……研究チーム単位のノンテリトリアルオフィス、実験域。 ※雇われフィクサード(全員Rank2までのスキル使用可) デュランダル2名、マグメイガス1名、覇界闘士1名、インヤンマスター1名 雑魚研究者6名(全員プロアデプトRank1スキルのみ使用可) ※高原たちは建物中央の実験域に監禁されています。 ※石田は手足を縛られて床に転がされており、意識が戻ったところです。 ※高階は実験動物用の檻に入れられています。強力な麻酔で意識を失っています。 ※実験域へは各研究チームのオフィースを通らなくては入れません。 ・3階……研究チーム単位のノンテリトリアルオフィス、実験域。 ※一般の研究者が5名ほど仕事をしています。 ・屋上……給水施設 ※人はいません。 ※立ち入り禁止のため、ドアに電子ロック他、でかい南京鍵もかかっています。 「建物の2階と3階外観はアクリルガラス張りでオシャレですが、ぶち破るのは大変ですよ。外から丸見えの廊下がコの字型に部屋を囲んでいる感じです。ドアはすべて二重になっており、電子ロックがかかっています。部屋ごとに承認パスワードが違いますのでご注意を。あ、向かいにあるB棟も全面ガラス張りでC棟の廊下がばっちり映っています」 健一は指示棒がわりに振り回していた串を皿に戻すと、指についたタレをなめとった。 「それではよろしくお願いいたします。いってらっしゃい」 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:そうすけ | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年09月12日(金)22:43 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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● 『普通の少女』ユーヌ・プロメース(BNE001086)は、風に乱される髪を右手で軽く抑えながら仲間たちの準備が整うのを待っていた。 「馬鹿同士が勝手に潰し合うのは構わないが、迂闊な間抜けが災害起こしても面倒だ」 感情を交えぬ平淡な声がユーヌの形のいい唇から零れ落ちた。 「そうだね。早めにケリをつけよう」 柚木 キリエ(BNE002649)は両手を上着のポケットに入れたまま、対岸に建つ坂上ヘルスケアの研究所を睨んでいた。 キリエはさらわれた高原流と石田隆志の2人を知っていた。ユーヌとは違った意味で、まったく馬鹿な連中だ、と思う。ひとつため息をつくと、目深にかぶったキャスケットの下で目を伏せた。 「住宅街の真ん中での爆発は、ちょっと勘弁して欲しいなぁ……」 土手から平穏そのものの町を見下ろして、はははっ、と乾いた笑い声を上げたのは『ニケー(勝利の翼齎す者)』内薙・智夫(BNE001581)だ。 「じゃあ、やるよ。人目につかないように、あっちまでは低空飛行でね」 智夫が小さな槍を蒼く沈んだ空へ突きあげると、天が破れて星が砂のごとく零れ落ちた。神秘の光がリベリスタたちの体を包み込み、その背に白い翼が現れる。 『他力本願』御厨 麻奈(BNE003642)は、とん、とん、と軽くステップを踏んでから翼を広げた。 (ろくでもない人間引っ張って、どうせまたろくでもない事考えとるんやろな)、とぼんやり思う。フィクサードたちが考えるろくでもない事を阻止するのがリベリスタの仕事、とはいえ、際限なく続く事件には時々ウンザリする。 「ま、被害が出る言うんやったら止めるだけや。洒落にならんみたいやし、ちょいと気合入れていこか」 「おう! さっさと終わらせようぜ」 麻奈の気合に負けじ、と奥州 一悟(BNE004854は固く握りしめた右手を左手に打ちつけた。 「高原さんたちを助けたらすぐ帰ろう」 そう言って腕をぐるりと回した一悟も、キリエと同じく流たちのことを知っていた。ふたりとの出会いが事件絡みではなかっただけに、一悟はどこか流たちを悪党と思っていないふしがある。 麻奈は一悟へ冷めた視線を向けて、「ま、入れ込み過ぎて怪我せんようにな」、と警告めいた言葉を投げた。なにに、と真顔で問い返す一悟を無視してゆっくりと土手を下り始める。足を速めて勢いをつけると、麻奈は広げた翼いっぱいに風を受けて体を浮かせた。 「低空飛行はいいけれど、突入前に水没とかいくら夏でもちょっと厳しいわよ」 暗いし水面に接触しないように気をつけてね、と『狐のお姉さん』月草・文佳(BNE005014)が後ろを振り返る。 「うんだ。気をつけて行くべ」と『かぼちゃ』廻 ぐるぐ(BNE004595)が愛らしい声で答えれば、続けて『いや名前は「と」じゃない』錦衛門 と ロブスター(BNE003801)の右手にはまった豚のパペットが口を開いた。 『こちとらガキの使いじゃねーんだ。余計な世話だぜ。な、錦衛門』 「おうとも。いくぜ、お嬢!」 左手にはめられた兎のパペットの口をパカパカさせながら、繰り手である『お嬢』こと少女は土手を駆けおりた。続いて文佳も駆けだす。 「あ、待ってけろー!」 ● つま先で川面をバシャバシャと叩きながら飛ぶぐるぐを、文佳が水没しないようにフォローしながらゆっくり渡っている頃。 ユーヌは急勾配の斜面に伏せて耳をそばだてていた。草むらに潜む虫たちの鳴き声が邪魔といえば邪魔だが、それはまだ許せる範囲だ。しかし、あのバシャバシャという水音は頂けない。特別スキルを発動させなくとも、耳のよい、たとえば犬には五月蠅く聞こえるだろう。注意しようにもぐるぐたちはまだ川の真ん中だ。 しばらく息をつめた後、ユーヌは音による周辺情報の収集をあきらめて天を仰いだ。 「そっちはどう?」とキリエに問いかける。 「ん……もう少しかな。いま、録画した画像を順次ループ再生させようとしているところ」 「それ、いつの画像? オレたち映っていない?」と一悟。 智夫の『超幻影』で自分たちを草や岩などに見せかけていた。人の目は欺けても、カメラのレンズはどうなのか。機械を通じてみる画像でも効果があるのか。 キリエは淡々とした口調で大丈夫と答えた。 「運よく数分前の録画映像があったから。それを使わせてもらった」 「しっ!」 智夫は口の前に指を一本立てると、斜面を上がってきた錦衛門たちにも同じように静粛を求めた。それからごくごく潜めた声で、千里眼で得たことを報告した。 「右手から来ているよ。情報通り、犬一匹とガードマン2人。そのほか近辺に人影はなし」 麻奈はすぐフェンスを飛び越せるように体を起こした。隣でまだ身を伏せたままの一悟に「犬は任せたで」と囁きかける。 その途端、上でちょっとした騒ぎが起こった。 「お、おい。急にどうした? どうしてこんなところで座り込むんだ」 タバコの吸い過ぎだろうか。やけにざらついた声が聞こえて来た。 「まいったな。こいつ、ぴくりとも動きませんよ」 先ほどの声よりもいくぶん若い声に続けて大げさにため息をつく音。 「いまです。ガードマンたちが犬に気を取られているうちに!」 智夫の合図でまずユーヌと麻奈がフェンスを飛び越した。 「え? お、おい。お前たちど――」 ユーヌは最後まで言わせなかった。スキルを発動させてガードマンたちから身の自由を奪う。すばやく太ったほうに近づき、固めた拳をその突き出た腹に撃ち込んだ。くぽ、と喉から空気の塊を吐き出して、ガードマンの体が膝から崩れ落ちる。 「ラッキーやで。ちょうどええ感じの縄があるわ。これで縛ってころがしとこか」 麻奈は気絶した細身のガードマンを一悟に預けると、特殊警棒の横から束ねたロープを拝借した。ロープをほどいて手際よく2人を縛っていく。最後に声を張り上げられないように、手ぬぐいとタオルを口に噛ませた。これもまた彼らから拝借したものだ。 ほどなく意識を取り戻したガードマンに、兎のパペット・錦衛門が因果を含める。 「たまには仕事を休むのも大事だぞ。命を失っては金も受け取れまい」 文佳が取り上げた無線機をフェンスの向こうへ投げ捨てた。 「帰りのことを考えていまのうちにフェンス破っておく?」 『必要ねぇ。帰りも飛び越しゃいい』 少女はなおもフェンスを前に考え込む文佳から目を離すと、ロブスターを警備犬――ドーベルマンの頭をなでているぐるぐに向けた。 『で? お前はさっきから何をしている』 ぐるぐはもう一方の手で口を覆っていた。指の隙間からもごもごと声が漏る。 「手を離してしゃべれ」とこれは錦衛門。 「なにって。しずかーにしないといけないべな。口を抑えて皆についていくだ。あっ」 犬がぐるぐの手の下から走りだした。向かった先に一悟がいる。おとなしく横に並んで歩きだしたところをみると、一悟はまだ犬を支配したままでいるらしい。 「行くわよ」 文佳に背を押され、ぐるぐたちもC棟へ向かった。 追いついた先ではすでに見張りのフィクサードたちとの戦闘が始まっていた。 まず通信機を破壊するため、一悟が警備犬に見張りの気を引かせた。警備犬が一匹で、しかも鼻を悲しく鳴らしながらよたよたと歩いて来れば、誰だって異常を感じるものだ。果たして見張りのひとりは火がついたままのタバコを投げ捨てると、背広を割って内に吊るした通信機を取りだそうとした。 「――っ?!」 黄色い火花とともに赤い血の滴が飛び散った。 麻奈は男の手の甲と背広に穴をあけたのを確認すると、すぐに体を横へずらした。空いたところで一悟が男との距離を一気に詰めた。反撃の隙も与えず突きだした拳が男の体を吹き飛ばす。倒れたところへ文佳が魔法陣から放った銀弾でトドメを刺した。 ててて、と走り込んできたぐるぐがタバコを踏みつけて火を消しとめる。 牛のパペットで遊んでいた男が心底驚いた様子で腰を上げた。無理もない。不意を突いたとはいえ、ここまでは完全にアークの一方的な攻撃だ。 男が人形を捨てて腰の右へ手を伸ばしたところに智夫が閃光を放つ。男は口を開いたまま動きを止めた。今度もまた、麻奈の正確無比な弾丸が男の腰に下げられた通信機を砕く。 『いまだ、お嬢。早く』 少女が素早く男に駆け寄ると、ロブスターが“無敵”と書かれたTシャツに頭突きをくれた。膝を曲げてしゃがみ込み、地面に落ちた牛のパペットをロブスターが咥えて拾い上げる。 「パペットでない者には解るまい。中身の抜けた虚無感など」 怒りで黒く長い耳を揺らすと、錦衛門の口からはもう言葉は出て来なかった。代わりに無数の魔弾が男に向けて次々と吐きだされた。 「だ……」 「アークだ。休憩中だったか。すまなかったな、そのまま永遠に休め」 見下ろす目も冷ややかに、ユーヌは不吉の影で覆った弾丸で男の額を撃ちぬいた。 男の亡骸が跳ねて落ちたあと、再び虫の鳴き声が戻ってきた。倒したフィクサードの亡骸をさも休んでいるかのように壁を背にして座らせる。 「おめー、えらいな。いい子だ」 ぐるぐはドーベルマンの耳の後ろをかいてやった。このまま犬と遊んでいようか、と思ったが、文佳がしきりに手招きするので犬とともに仲間たちが集まる入口の扉へ向かう。 「だども、ここまで随分と簡単だったべ。なにかあるんじゃないかと思うべな?」 「僕たちが来るとはこれっぽっちも考えてなかったんだと思うよ」 智夫は『ガラスに何も映っていない廊下の像』を建物の壁面に写して、B棟からC棟を隠した。 「フィクサード同士の揉め事だからね。爆発事故なんて起こさなければ、万華鏡には引っ掛からなかったんじゃないかな」 「ところで。ここに結界、張っておく?」 会話を断ち切るように口をはさんだ一悟に対し、ユーヌは首を横に振った。 「人が来るまでここにいるつもりはない」 巡回に出た者たちの戻りが遅いことに警備室が気づくのはいつだろう。ユーヌは腕を組んだ。あと5分か、せいぜいもって10分。あまり時間はなさそうだ。 ピッ、と電子音がなった。 キリエが立ち上がる。 「よし、解除した。これで2階まですんなり上がれる。ただ、研究域に入るためにはまた同じことを繰り返さないといけない」 「どのぐらい時間がかかりそう?」と文佳。 「1分、いや30秒欲しい」 「けっこう時間取られるな。ほな、急ごうか」 麻奈はカフェにでも入るような気楽さで扉を押し開いた。 ● 「――完成させたとして、肝心の患者がここにいなければ意味がありませんよ。ああ、でも、もう死んでいるかもしれませんねぇ」 口を動かすたびに頬の内側が痛んだ。目蓋も頬も腫れて左の目は完全に潰れている。もう片方の目も似たようなものだ。先程の台詞でモニターに映る坂上老人がどんな顔をしたのか、よく見られなかったのが至極残念。 六道フィクサード、高原流はせいぜい胸を張った。血だまりの中に両膝をつかされた状態では恰好がついていないだろうが。人質さえいなければ、と思う。先ほどから隆志にテレパスを送っているが、まだ気づいた様子がない。聡子に関しては生死すら分からなかった。 『心配及ばん。すでに手配しておる。夜明け前には手の者が志寿馬をそこへ連れてくるだろう』 六道の研究所を襲う? 流は唇の切れた口で薄く笑った。内部に手引きするものがいたとしても、さすがにそれは無理というものだ。少なくともこの程度の連中では。 『事前に薬の入ったアンプルを手に入れておいた。先生たちがいつも志寿馬に使っているやつだ。向かわせた者たちに1本ずつ持たせてある。時間制限付とはいえ、普通の人間を覚醒状態にする薬だ。覚醒者が使えばどうなるかな?』 馬鹿どもが。罵りは坂上ではなくアンプルを盗み出した助手たちへ向けられた。薬が切れた後、どうなるか知っていながら―― 視界が飛んでさっと白くなった。キレる直前のサインだ。一旦、キレてしまえば制御不可能。怒りを燃やしつくが噴き出しきるまで止まらない。制御弁であるモーモーさんを取り上げたことを、あの世で後悔させてやる。 流が立ち上がりかけたところで西側のスライドドアが勢いよく開け放たれた。なま暖かいオフィースの空気が実験域の中へ流れ込んでくる。 「そこまでだ! 話は聞かせてもらったぜ」 室内の注目が、にやりと笑う一悟に集中した。 「ほらよ、土産だ」 先に倒しておいた覇界闘士の体を投げ入れると、フィクサードたちが殺気立った。 タイミングを捉えてユーヌとキリエ、智夫の三名が東の扉から、錦衛門たちとぐるぐが南のドアから一斉に実験域へなだれ込んだ。 ユーヌが素早く印を結び、いち早く振り返ったチャイナ服の男から自由を奪う。続けざま智夫がまばゆい光を放ち場の時を止めた。 「邪魔っ」 文佳は肩で一悟を押しのけた。雑魚は後回し。すばやく得物を定めると、展開した高位魔方陣を小さな光る弾に変えて腕を振りぬく。撃たれて体をのけ反らせたのはメイスを持ったマグメイガスだ。 「あんじょうよろしゅうしたってやー」 後から麻奈がひょうひょうと指揮を執る。 一悟は床に倒れている石田に駆け寄った。 「石田さん、何してんだよ!? しゃんとしろよ」 隆志が掛け声に反応して呻いたところで肩に担ぎあげた。 「お、重っ」 出口に向かう一悟の邪魔をしようとした白衣たちを、ドーベルマンが牙をむいて威嚇する。 キリエは部屋の隅に大きな檻の箱を見つけると、攻撃に巻き込まれないよう頭を低くして向かった。あの中に高階とかいう六道のフィクサードが捕らわれているに違いない。 「おい、兄弟を頼む! そっちは任せな」 錦衛門に呼び止められて振り返ると、ロブスターが口にくわえていた牛のパペットを投げてよこした。 「ぶら下がっているのは南京錠だろ? ならロブの出番だ」 『俺の手腕を見せてやるぜェ』 「じゃあ、任せるよ」 テーブル台の上を滑って大柄な男が頭から落ちて来た。反対側でユーヌにぶっとばされたらしい。致命傷は受けていないらしく、もう立ち上がりかけていた。加えて通路を血走った目をした男がこちらへ向かってくる。 キリエは硬く練られた気糸を放った。男2人をぎりぎりと縛り上げたところへどこからともなくマジックミサイルが飛んできてトドメを刺した。角からぐるぐがひょいっと顔を出して手招きする。 「こっちだべ」 テーブル台の角を曲がったところにぐるぐと流がいた。 「この下高エネルギーなんとかがあって重力さ使うとあぶねーだよ」 「……ああ、それで」 流はそれだけでアーク介入の理由を察したらしい。キリエは牛のパペットを返してやった。 「仲間を連れて脱出するよ、戦えるなら援護して。でも電力を断つような激しい戦い方は絶対にしないで。吹っ飛びたくないでしょ」 「わかった。……ありがとう。モーモーさんを助けてくれて」 智夫の歌声が流の傷を癒していく。顔の腫れがとれて、キリエは流が嬉しそうに笑っていることに気づいた。 「よし、撤退や!」 六道フィクサード身柄確保を確認した麻奈が、高らかに撤退を宣言する。 文佳はまだ老人の顔を映し出しているモニターへ顔を向けた。 「坂上さん、追撃を仕掛けてくるつもりなら……ああ、これ以上は不要かしら? アークにとって貴方を拉致することなんて、貴方達が六道のフィクサード拉致ってくるより簡単よぉ?」 ウィンクを飛ばして身を翻すと、通路に倒れた男の腹をぐっと踏んで実験域を出た。 ● 「だどもおらも引力さ操るっつー魔法が気になんだ。独学じゃやっぱ出来ねっけど……おらの知識は通用するだか?」 好奇心できらきらと目を輝かせるぐるぐ。 流は柔らかく笑いかける。 「実際に見ないとラーニングできないんじゃないかな? いくら理論を積み重ねても得られないものがあるからね」 文佳と麻奈が顔を見合わせて肩をすくめた。2人もぐるぐと同じく、チャンスがあれば技を盗むつもりだったのだ。 「ねえ、六道やめてアークに来ない? アークでも医者やれますよ?」 一悟の誘いに流は首を横に振った。 「じゃあ、いい加減、変な実験やめたら? 犠牲が増えるだけで、成功しても失敗しても誰かが報われる未来は無さそう……」 ≪帽子のバーカ。流たちの研究を無駄と決めつけるんじゃねぇ!≫ 流の左手にいつの間にか牛のパペットがはめられていた。右手に黒い玉のようなものを乗せている。どこで拾ったのだろう、と思っていると、流れが少しずつ後ろ歩きでリベリスタたちと距離を取り始めた。聡子の肩に腕を回し、腰を抱いた隆志も同じく距離を取り始める。 「それではこの辺で失礼するよ。お礼は……そうだな」 ――ゴッ 奇妙な音とともにいきなり川がへこんだ。渦ができている。ものすごい勢いで水と空気が吸い寄せられていく。研究所側の土手がずるずると崩れ始めた。フェンスがぐにゃ、と歪んで倒れた。 「あっ! ずるいだよ。最初を見てなかったべ! もう一度やってみせてけろっ」 「そんなこと言っている場合じゃない! ほら、あそこ! 助けに行くわよ」 文佳が指さした先に縛られたままのガードマンたちがいた。ドーベルマンが肥った方のガードマンを噛んで引き戻そうとしているが、いまにも土手を転がり落ちてしまいそうになっている。 智夫はあわてて『翼の加護』を唱えた。 「急げっ」 ガードマンたちを助け終えたときには、もう対岸に六道フィクサードたちの姿はなかった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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