●痩せた月の下で 薄暗い、天然の青白い光だけが降りた路地裏に、一人の少女が腰を抜かしてしゃがみこんでいる。 彼女の他に人はいなかった。より深く言及すれば、『かつて人だったもの』が数個あるのみだ。 限りなく人間に近いそれ――男達の死骸が散らばる光景を前にして、少女は呆然とするしかなかった。 暖かく、粘ついた感触が、衣服の布地越しにひしひしと伝わってくる。 それが血液であることは、直視せずとも判断できた。今も尚、澱んだ血の濁流は収まることなく、アスファルトの路面を濡らし続けている。 段々と、少女の頭の芯が鮮明になり始めた。握り締めたフォールディング・ナイフの柄の冷たさが、無理矢理に少女を現実世界へと引き戻していた。 ああ、きっと自分は、このナイフで彼らを刺し殺してしまったのだろう。 けれど記憶の類は一切無かった。数人組の男達に因縁を付けられ、身の危険を察したたところまでは覚えている。その先がすっかり欠落しているのだ。 ナイフは恐らく、脅迫で突きつけられたものを奪ったのだろうが、そんな大それた芸当が果たして自分に可能なのか。殺害の瞬間を知らない彼女からしてみれば、何故そのような行動を無心の間に取れたのか不思議で仕方なかった。 だからこそ、余計に恐ろしかった。何が起きたのかも分からないのに、その原因は紛れもなく自分自身にあると考えただけで、震えが止まらなくなる。 何よりも――血糊と死臭に満ちたこの場面が、未だ癒えない心の傷を疼かせて、堪らなく苦しい。 仰ぎ見た三日月は、波打った形に滲んでいた。 ●傷 あるところに、路上を転々と彷徨う、一言も喋らない少女がいました。 娘は、生まれつき声を持たなかった訳ではありません。 およそ一年程前。自宅での出来事。 何処からか現れた得体の知れない化物に、彼女の両親は、彼女の目の前で惨殺されました。 自身はなんとか逃げ延びたものの、その様子を息を潜めて眺めていた経験が心的外傷となって、言葉を発することに恐怖心を覚えてしまったのです。何かを口にすると、あの時の化物に気付かれるかも知れない、自分の所にもやってくるかも知れない――そんな強迫観念に囚われて、喉を震わせることはどうしても出来ませんでした。 以降、流浪の日々が続きました。不思議と腹は空かず、眠気もほとんど感じませんでした。 ただ『生きていく』とは、生命活動の維持のみにありません。彷徨い歩いた先の町には、当然治安の悪い区域もあるわけで、ゴロツキに絡まれることもしばしばでした。 抵抗の声も上げられない彼女は、視線を逸らし、隙を見て逃げ出すことでやり過ごしてきましたが、つい先日、不運にも、特別性質の悪い連中と出くわしてしまいました。 「ぶらぶら歩いてないで、俺らと遊ぼうぜェ」 現れた暴漢達は平気で刃物を向ける無法者でした。 夜分遅くゆえに、辺りに人の気配もなく。逃げ出そうにも足が竦んで、後退りさえ出来ませんでした。 「動くんじゃねェぞ」 首筋に硬い金属片が触れた途端、記憶に空白が生まれました。 意識が戻ったのは、既に死体の山が築かれた後でした。 無我夢中の出来事でしたので、何一つ覚えていることはありません。ただ、眼前に結果だけが、生々しい赤黒さを伴って突きつけられるばかり。 殺した。殺した。自分が。殺してしまった。 両親の命を奪ったあの怪異な生物のように、自分自身もまた、人殺しを犯した化物になってしまったのではないか。震える娘の心を満たしていたのはそれだけでした。 しかし、彼女にとって一番の不運は――手に掛けた相手がフィクサードであったことでしょう。 報復の毒牙が伸ばされるのは、そう遠い未来ではありませんでした 「このアホガキめが。よくもまあ、うちの沽券に泥を塗ってくれやがったな。そんな細っちょろい体でよ」 深夜、人気のない裏道。威圧的な態度を取る醜く肥えた男性を筆頭に、数人が娘を取り囲みました。 全員が全員、手に武器を構えています。 「きっちり落とし前は付けさせてもらうぜ。へっ、それに中々、可愛い顔をしてるじゃねぇか――」 男は強引に娘の手首を掴みます。敵愾心に加えて、良からぬ考えがあることは明白でした。 このまま無抵抗でいるか、それとも歯向かうべきか。 岐路に立たされた娘は覚悟を決め、内に巣食う恐怖を振り払い――力の限り叫んで助けを求めました。 それは鼓膜を裂くように喧しく、甲高く、罅割れた、 化物の鳴き声でした。 ●壊れもの 「あの事件に生き残りがこんなところにいたとはなぁ。数奇な運命を感じるぜ」 後ろ手で頭を掻きながら万華鏡の予知を語る『駆ける黒猫』将門伸暁(nBNE000006)の口ぶりは、どこか物寂しげな響きを含んでいた。 「藍宮いつき――昨年起きたエリューションの殺傷事件で被害に遭った夫婦の娘さんだ。この子は今、事件の余波を受けてノーフェイスへと革醒し、方々をうろついている」 集合を掛けたリベリスタ達に説明しながら、調査書をめくる手を進める。 「事後観測によればこの娘さんは、数日前の夜、襲ってきたフィクサードどもを返り討ちにしちまったみたいだ。本人に自覚はないんだろうが、ノーフェイスとしての潜在的な力が齎した結果に違いない。ま、正当防衛だがね、こんなのは」 伸暁の語調が強くなる。 「だがこの程度は物事の一端でしかない。彼女の真の武器は『声』だ。その叫び声を耳にしようものなら、耐性を持たない一般人ならば即死、E能力者であってもかなりのダメージを負うと予測されている」 現状は声を発した形跡はないらしい。 「恐怖を感じた時に、初めて大声を上げるみたいだからな」 伸暁はそう付け加える。 「さて、だ。厄介なことに、殺されたフィクサード連中の親玉がリベンジを目論んでるみたいでね。奴らはこの声のことなんか知りやしないから、下手を打てばとんでもない大惨事を招きかねない」 で、だ。 「皆には、フィクサード達よりも先に藍宮いつきに接触して――そして、ひっそりと殺してもらいたい」 察しはつく内容ではあったが、こうして口頭で直接に伝えられるとまた違った感触を受ける。 「彼女は人通りの多い街道を歩いていると予見されてる。そこで交戦しようものなら一般人の死者が続出するだろうし、神秘の隠匿も難しい。なるべく人気のない場所を選んで始末して欲しい、って話さ。一応、人払いの心配がない工業地帯の空き倉庫を内緒で抑えてるんだが、相手に警戒させずにそこまで連れ込むのはそれなりにハードだ。フィクサードもその間行動するだろうしな。臨機応変に頼むぜ」 伸暁の指令はいつものような軽い口調ではあったが、眼差しは真剣そのものだった。 事件の生存者を、殺さなくてはならない。 何とも皮肉な話だ。 「放っておいても、いずれは彼女の声によるデストラクションは起きるだろう。アーク側の見解としても、そうなる前に対処しなくちゃならない。身も蓋もない言い方だが、着弾式の爆弾処理、みたいなもんだ」 運命の代弁者はそこで、ひとつ溜息を吐いた。 「どこまでもどこまでもセンシティブな爆弾だよ。導火線が怯えの感情なんだから」 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:深鷹 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年09月13日(土)22:15 |
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■メイン参加者 4人■ | |||||
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●黒 「やるせねえ話だな……俺達の仕事はいつだって、後手、後手だ」 賃借車両のリクライニングシートに体重を預けて、馴染みの警官達に集めさせた資料を眺める『ウワサの刑事』柴崎 遥平(BNE005033)が零した言葉には、苦々しげな感情が滲んでいた。 続けて溜息。 書面に目を通す速度をやや鈍らせる。 「せめて救う道があれば、な」 それが都合のいい仮定に過ぎないことは、幾度となく世知辛い不条理をその身に刻んできた彼自身が重々承知している。 掲げた資料に記されているのは、藍宮いつきの目撃情報。 これから殺す少女に関してだ。 賑やかな表街道には西日が照っていた。 既に夕方に差し掛かろうかという時刻にも関わらず、大通りを行き交う人の数は一向に減る気配がない。その群集に紛れるかのように、虚ろな瞳をしたノーフェイス――藍宮いつきが彷徨い歩く姿が見える。 当てもなく、ただふらふらと。 覚束ない足取りに加えて、身なりも薄汚れているものだから、放り出されて弱った雛のようであった。 「ごめん、ちょっと」 そんな彼女を不意に呼び止めた声の主は、帽子を目深に被った『覇界闘士<アンブレイカブル>』御厨・夏栖斗(BNE000004)。 接触した当初、いつきはやや萎縮したような素振りも見せていたが、気さくな夏栖斗の態度に、次第にそうした緊張は解けていった。 「カーナビ壊れて道に迷っちゃって……ちょっと教えてもらいたいんだけどいいかな? 地図を車に置いてあって、よかったら一緒に来てくれる?」 突然の申し出に対しても猜疑心を抱かないほどに。 いつきは頷くと、夏栖斗の先導に従って駐車してある裏街道へと向かうことになった。 「可愛い子に道を聞きたかったってナンパっぽいけど」 道中、夏栖斗は少し眉を寄せて笑ってみせる。冗句めいた口ぶりに、無言を貫く少女もまた微かにではあるが目元を綻ばせた。 だが夏栖斗からしてみれば、自分が本当に上手く笑えているかは定かではなかった。 内心では、暗い色をした嫌な気分が渦巻いている。 振り撒いた愛想は本心を隠す仮面。誘い掛けた言葉は虚構の罠。そして警戒心をほぐしているのは、結局のところ活性化させたE能力の効果でしかない。 尽くしてきた行動の全てが、彼女を殺すという結末に繋がる。 仕方ないことだとは分かっている。世界を崩壊から守るために、ノーフェイスは排除しなくてはならない。 けれど、その世界の輪の中に、彼女を含められないということが、運命という名の理不尽に屈したくない夏栖斗にとっては殊更に堪える現実だった。 この場には偽りしかない。 彩る何もかもが嘘で。 自分の気持ちさえ騙していた。 人気が薄れ始めた夕刻の裏道。 「遅い」 誘導役である夏栖斗の到着を『普通の少女』ユーヌ・プロメース(BNE001086)は待ち侘びていた。長い黒髪をアップに纏めて変装し、小柄な体躯なりに大人びた雰囲気を演出している。 無論、ただ待機しているだけでなく、周辺警戒も怠らない。 「柴崎のおっちゃん、何とかしてくれてるかなぁ」 同じく夏栖斗を待つ『ノットサポーター』テテロ ミスト(BNE004973)は、遥平が持つ多様なコネクションに感服しつつも、若干の懸念も抱いていた。フィクサードの襲撃を未然にどれだけ防げるかは、結果として現れるまでは分からない。 やがて、遠目にではあるが、夏栖斗が無事に少女を連れて歩いてきた姿を確認すると、ミストは満を持して強結界を張った。有効範囲を考えれば十分に人払いが済む。 「これであとはフィクサードに見つからなければいんだけど……」 ひとまずの段階を終えて一息吐く赤毛の少年をよそに、研ぎ澄ませたユーヌの聴覚が異変を告げる。 微妙な顔つきの変化にミストが何事かと尋ねると。 「準備しておけ。荒事になるかも知れんぞ」 そうとだけ小声で囁いた。 ●裏通りの支配者 謀られた。出鱈目な情報を掴まされた。 「あのインチキ情報屋め……次会ったらタダじゃおかねぇぞ」 厳つい面構えのフィクサード三人は苛立ちを隠しもせず、露骨に不機嫌な表情を浮かべていた。 身内の人間を殺害した女の在り処を突き止めるべく、大枚叩いてタレコミを買ったというのに、まさか詐欺に遭うとは。住宅街方面にいると聞かされていたが、とんだ嘘っぱちだった。 今まさに、件の女が裏街道を堂々歩いているではないか。 幸い待機を命じられていた自分達はその事実に気付けたが、中心核である雨村は既に、残る仲間を率いて街の居住区にまで向かっていることだろう。 「男連れとは大したタマじゃねぇか。おい、追跡すっぞ」 「言われずとも分かってらぁ」 と、彼らが身を隠していた路地から飛び出そうとした矢先のことだ。 「三高平署の柴崎刑事です……こんな所で何やってんだぁ? ちょいとお話聞かせてもらいたいね」 背後から浴びせられた声に振り返ると、警察手帳を翳した壮年の男が、牽制気味に鋭い眼光を放ちながら立っていた。 語るまでもなく三高平署員の遥平である。 任意同行を求められたフィクサード達は一瞬だけ狼狽する様子を見せたが、すぐさま各々の得物を取り出して誇示。破界器をこれ見よがしに突きつけて反抗を主張する。 遥平は詮方ないといった表情で懐のリボルバーに手を伸ばすが。 「雑音の出所はここか」 抜き撃つ必要はなかった。騒動を聞きつけて参じたユーヌが辛辣な言葉をフィクサード連中に投じて挑発すると、続けざまに呪印を結んでそのうちの一人の動きを封じる。 「なんだ、てめぇは!?」 敵方も相手がカタギの類ではないことを察したらしく、語調を強めて闘争心を剥き出しにする。 注目がユーヌに集まったところに。 「お前達の相手はボクだぁぁーーー!!」 威勢溢れる掛け声と共に突進してきたのは、『魔力剣』の光輝な刃を勇ましく掲げたミストだった。疾駆の勢いそのままに敵陣に突っ込むと、中央で大きく暴れ回り、戦線を掻き乱す。 自然、矛先は全てミストへと向くことになるが、微塵も怯まない。凶刃を前にしても決して竦まない。 互いの武技が交錯する。 「出来る限り引きつけて……あとは任せるねっ!」 囮役を買って出たミストの意気に応えるかのように、ユーヌが連続して残る二人にも呪印を刻みつける。敏捷性と技の連動性こそ、彼女がもっとも得手とする分野だ。 「生憎構ってやるほど暇じゃないんでな。そこで熨されてろ」 時間は有限。そろそろ夏栖斗が車を停めた地点まで辿り着く頃だろう。自分達も備えておかねば。 「ああ、そうだ」 去り際、思い出したかのように話しかける遥平。 「お前達は情報の売人をインチキ呼ばわりしていたが、それは大変な錯誤だ。あれほど仕事の出来る男はそうそういない。何せドブネズミの居所が手を取るように分かったんだからな」 風説が流されたのも、所在が密かに掴まれていたのも、元を辿れば一人の刑事の手腕に行き着く。 人材を通じた情報戦でフィクサードが上に行けるはずもなかった。 ●些細な破裂 リベリスタ達はいつきと共に車両へと乗り込んだ。その際も、これといって不審がる所作はなかった。 「工業地帯から先の道を教えて欲しいんだ」 快調に飛ばす車内の後部座席で、地図を片手に夏栖斗が問い掛ける。とりあえずの目的地として示したのは、アークが手配した空き倉庫。 「子供達も話し相手を欲しがっててな。重ね重ね有難いことだよ」 運転席でハンドルを握る遥平も、子連れの父親を装った台詞を続ける。 相変わらずいつきは言葉を発することはなかったが、表情や首の振る方向などで精一杯意思を伝える努力をしていた。歳の近いミストが同席しているためか、緊張も見当たらない。 ふと、いつきが自分達に羨望に似た眼差しを送っていることに夏栖斗は気付く。 偽りの家族に向けられた、空虚でしかない感情。 実態がそうであることは、謀略の当事者である夏栖斗は理解している。 だが家族を失った彼女からしてみれば、今こうして湧き出ている感情は、紛れも無く本心なのであろう。 事前にユーヌが通るルートを調査していた甲斐もあり、横槍が入ることなく倉庫へは到着した。 いつきが怪訝に思い始めたのは、倉庫の戸を遥平が徐に開けてからだった。不安の色を込めた視線で皆を見渡すと、一貫して無表情のユーヌ以外は気まずそうな空気を出しているだけで、何も言わない。 流れる沈黙。 ――静けさを無遠慮に引き裂いたのは、タイヤとアスファルトの激しい摩擦音だった。 「追手か。野良犬も嗅覚だけは一級品だぜ、ったく」 道交法を丸きり無視した速度で走るセダンが迫っていることに、遥平を始め全員が気が付く。恐らく待機組から連絡を受けた後全速力で引き返してきたのであろう。 一度同行者全員が倉庫の中に身を隠すが、既に気取られた後。 扉は乱雑に開けられた。雨村と思しき恰幅のいい男を先頭に、フィクサード四人が侵入してくる。 「リベリスタに妨害されたとか言ってたが……何やら、よその組織で噂になってる奴も混じってんな」 褐色の覇界闘士を睨めつけながら武器を装着する雨村。 「おい、そこをどいてろ! 俺たちゃそこのアマに用があるんだ。邪魔立てするってんなら纏めてぶっ潰しても構わないんだぜ。若い連中がてめぇらの世話になった借りもあるんだからよぉ」 「邪魔くさいな。風船並みの空頭、メンツだ何だの馬鹿らしい」 心底くだらなそうに呟くユーヌに苛立ったのかスパイク付きの手甲をかちゃかちゃと鳴らして威嚇する雨村だったが、夏栖斗はそれを制した。 「僕らの任務に君たちの撃破は入ってないよ。君たちと僕らの目的は同じだ。わざわざ、お互いに痛い目あう必要なんかないよね」 「ああん? そりゃどういう……」 理解が追いつかないのはいつきも同様だった。困惑するばかりで、立ち往生のままだ。 「彼女はノーフェイスだ。僕はリベリスタとして、最大多数の幸福のために、彼女を始末するつもりだ」 幻想纏いから呼び寄せた旋棍の先端を、フィクサードではなく、いつきへと向ける。 ようやく自分の置かれた状況を把握した少女は大いに驚愕した。 殺される。 殺される。 のみならず、表街道からここに連れて来られるまでに過ごした時間を思い返し、二重に衝撃を受けた。 「騙してごめんね。世界の為だからって殺されることに納得なんて出来るわけないよ。だから、君は君の思うように抵抗して」 例え非を認めたところで詭弁でしかないことは分かっている。 歯を強く噛み合わせる夏栖斗。覚悟とは一方通行ではない。全てを受け止める決意も固めている。 フィクサードも事情を汲んだらしく、銃口や剣先をリベリスタではなくいつきへと集中させる。 殺される。 殺される。 ――殺される! いつきが強く恐怖を感じた瞬間、大気が震えた。 彼女の開かれた口からは、この世のものとは思えない『声』が放射されていた。 醜く砕けた叫び声は鼓膜だけでなく、脳さえも振動させる。さながら超音波が炸裂したかの如く。 ミストはアウトサイドの特徴的な耳を塞いだが、手の平さえ突き抜けてくるのだから堪ったものではない。音量、音程、共に桁外れの凄まじさで、頭が割れそうになる。 叫びが一時停止する。続いた時間は十秒にも満たなかったが、実寸よりも遥かに長く感じられた。『声』の存在を知らない雨村らフィクサードは身構えが不十分だったのか、皆して倒れ込み気を失っている。いや、もしかしたら、ショックによる突発性の心臓疾患を引き起こしているかも知れない。 決死のいつき自身も、その皮膚は反動で傷ついて裂け、赤い血が滲んでいる。 「それがお前の痛みか。いいだろう、それもこの身に刻みこむ」 二度目の絶叫にも遥平は避けることなく、全身で甘受した。 脳髄が揺れ、三半規管が歪む。麻痺した末梢神経に疼痛が駆け巡る。しかしこの程度の苦難くらい、これから彼女を待ち受ける過酷な宿命に比べれば、大した問題ではない。 息継ぎの合間に、愛銃を介して魔術師の弾丸を撃ち込む。肩口に命中し、鮮血が噴き上がる。 「不運だな。恨み言なら聞いてやる。精々怨んで祟って死に絶えろ」 ユーヌは動作を封じる呪いの印を結ぶ。揺らぐことの無い無感情な仕草で。 幾重にも張られた陰陽の式術に縛り付けられるいつき。 態勢を崩した今なら。 「もう、沢山だ。終わりにしよう。ケジメをつけなきゃダメなんだ」 踏み締めた地面を力強く蹴り上げて、拳を突き合わせた夏栖斗は瞬間的に飛翔した。 想念が去来する。 助かったはずなのに、生き延びれたはずなのに―― だからって他に手段があるのか! 無いだろう! あるならば今すぐに示してみろ! ありもしない奇跡をちらつかせて、人を苦しめるだけ苦しめておいて! こっちは誰かの命だけでなく、自らの気持ちまで押し殺しているというのに! 何度も、何度も、何度も! 思考と行動を鈍らせる一切合財を振り払って、強固に結んだ鋼の決意の下、夏栖斗は双腕をあらん限りの膂力で投げ打つ。 頭上から降り注ぐ一対の旋棍。咄嗟の防御も及ばず、直撃によって貫かれたノーフェイスの小さな体は、驚くほど呆気なく生命力を失い、そして、流れる血液に引き摺られるかのように膝を折った。 無残に砕け散ってしまわないよう、夏栖斗は力の抜けたいつきの身体を支える。 何も言えなかった。死にゆく彼女に何を言えようか。 悲鳴は止み、瞳孔に影が落ちる。 化物の時間は終わった。 「どうして」 藍宮いつきが最期に発した声で紡がれたのは、どこまでもどこまでも生々しい、人間の言葉だった。 倉庫の冷たいコンクリート床に横たわる遺体は、血には塗れていたが、驚くほど損傷が少なかった。 喉と声帯の異様なまでの強靭さに比べて、その身体のなんと壊れやすいことか。声が擢んでて人間離れしていただけで、些細な衝撃で死に至ってしまうほど、少女の矮躯は脆弱だったのだろう。 行き場の無い虚脱感が漂っていた。 「もしも、もしもボクにもっと力があれば、ノーフェイスを救う事も出来るようになるのかな……」 ミストはどこか寂しげに俯きながらも、一層強くなることを誓う。 力を得て、何時の日か、運命を引き寄せてみせる。 先は未だ見えないし、実現可能かどうかも分からない。それでも、今はただ、淡い希望に縋りたい気分だった。せめて心だけでも強く保っていたかった。 「ったく、苦い煙草だぜ……」 人生の酸いも甘いも噛み分けただなんて、気軽に口にされがちだが、贅沢な自慢話でしかないと遥平は思う。 世界には苦味走った出来事がこんなにも溢れているのだから。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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