●山中に添えた一片の 地を蹴った素足がひしめき生える青草を、枯葉を、地を突き破る根や枯れ枝を踏み付ける。八つ脚の虫が有する剛毛に覆われた足裏はその程度では傷さえも寄せ付けないものの、その事実が九重雲居にとっては疎ましいものでもあった。 蜘蛛そのものに愛着している面はあるものの、獣の破片のように人ならざる姿には、真に人なれば容易に負うであろう怪我が寄せ付けられない。例え、どれだけそれを望んでも。そして雲居には、その事実こそが疎ましい。 他者もそうであれとは思わない。自分自身がそう思っているだけだ。現に誇らしげに獣の、或いは人ならざる部位を晒してみせる人々にはそのものに対する、僅かならぬ憧憬すらも覚えるほどに。 だが、例えそうであったとしても、今ばかりはその身体に感謝していた。尖った石の一つも踏み締めたところで容易には傷付けられない為に、獣道すらも見当たらない山中を疾駆することに躊躇いはない。 地に近く生える釘のような枝に、突き出た槍のような枝先に絡め取られた着物を無理に引っ張れば布地に鉤裂きが出来、千切れた布だけを残して尚も走る。 腕の中できゅう、と鼠のようにか細い鳴き声がして、雲居は視線を下ろした。睫毛に溜まった汗を瞬くことで弾く。 「大丈、夫」 抱くされこうべごと、その上にしがみつくふかりとした蜘蛛を撫でて小さな八つ目に頬擦りする。 「お前のことは、ちゃんと――いいえ…………」 疲労が溜まり止まり掛けた脚に鞭打って、一足飛びに前方に聳える樹木の影に飛び込んだ。それと同時にカカッと鋭い音が枯葉を掻き分ける音と共に耳を打った。 立ち止まって確かめる暇も惜しくちらと横目に視線を移ろわせ、すぐさま木陰を飛び出して次の木の影に飛び込む。再び同じ音を立て、刃のように研ぎ澄まされた鋏が――金物のそれではない、虫こそが持つ紫がかった鈍色の……そして虫というには余りに巨大な鋏が、先程まで雲居の居た場所に突き立てられる。 きゅきゅ、と怯えたような鳴き声を上げる小蜘蛛に再び頬を摺り寄せて、力の抜けそうな口元に無理矢理と笑みを浮かべた。 「あの子、も……きっと。大丈夫、今は知らない場所に放り出されて……不安なだけ、ね」 袖が重く纏わり付いてくる腕を持ち上げて小蜘蛛諸共にされこうべを撫で、雲居は抱える荷の重さに痺れた腕で抱き締め直す。疾く駆ける心臓の鼓動が身体を打ち壊しそうだった。汗が全身に纏わり付き、呼吸の一つも満足に吐き出せない。自身の言葉がただの希望に過ぎないことも承知しながらも、不意に苦笑を滲ませて雲居は目元を細めた。 「それに――小事の災厄であろうと、きっと、そうそう見限りはしないものでしょう?」 正義の味方と、或いはそれに他ならぬ役割を担うのならば。 ●希望とさえも言えぬとて 「果たして人間というのは、何をどう考えているのか実に分かりにくいものじゃあないかい?」 いつもと変わらない口調で、いつもと同じように紙切れを束ねた資料を集うリベリスタ達へと配りながら、『直情型好奇心』伊柄木・リオ・五月女(nBNE000273)は少しばかり首を傾げた。 「敵であろうがそれ以下の存在であろうが、そうして真逆の立場に立つものの力を望むのは――或いはそれが屈辱を上回るのは、どういう状況なのか。と、そこで現状の話だ」 傾げていた首を戻し、白衣のフォーチュナは唐突に話を切り替える。 手元に残した資料を軽く丸め、それで己の肩をぽんぽんと叩きながら「人里近くの山中にディメンション・ホールが出現した」、と簡潔に口をした。 「そこから出てきたアザーバイドが手近な村を襲う未来が予知されたから、それを阻止してほしい……というだけの仕事なら、ことはもう少し簡単なんだがな」 淡々と普段通りに仕事の内容を告げていた口調を不意に濁らせて、溜息交じりに五月女が肩を落とした。 丸めていた資料を解き、行儀悪くテーブルの縁に直に腰を下ろす。 「どういう訳か、そのアザーバイドと共にフィクサードが行動してる。といっても呼び出した張本人だとかいう訳でもなく、単体でアザーバイドをホールに誘導しようとしてるらしい。これから至急現状に出向いてもらっても、既に状況は展開されている筈だ」 アザーバイドとフィクサードの接触を意味して告げながら、五月女は紙片にプリントアウトされたアザーバイドの姿を指先で突く。 紫がかった茶色の、巨大なアザーバイドの姿は何処から見ても蜘蛛そのものだ。 「彼女、じゃなかった。今はこのフィクサードが大蜘蛛を引き付けているが……それも時間の問題だな。怪我によるダメージか体力か、どちらが先に尽きるかといったところか」 どうにもアザーバイドに攻撃する意思はないらしいから、と推測に基づいた意見を述べながら、白衣のフォーチュナは更に数枚、束ねた資料を捲っていく。 「問題は彼女が倒れた後だ。被害者が彼女だけで済むなら良いが、生憎とすぐ近くに村がある。過疎化しているとはいえ住民がいるのが厄介で、フィクサードを始末してから村に下りた奴はそのまま住民の殺戮に走る――と、そこまでが予知された未来になる」 そこまでは流石に許容出来ない、と一言挟んだ五月女が少しばかり眉を顰めたものの、結局は軽く肩を竦めただけだ。 「あぁそうだ、今回の仕事でフィクサードの扱いについては特に決められていない。討ち取ろうが――リベリスタとしては些か迷うところだが、ま、放置するのも自由ってことだ。勿論彼女がやられるのを待って、大蜘蛛の相手に出ても良い」 その辺りの裁量は諸君に任せる、と淡々とした口調で告げながらも、些か思案気に首を傾げた五月女が傍らの天板から資料を取り上げた。 コピー用紙を束ねた資料を捲りながら、目当ての記述を探す。 「ええと、確か……と、あったあった。フィクサードの名前は九重雲居、通り名は『八ツ目の姫君』、だったか?」 資料から顔を上げた五月女は小さな疑問符と共に捲っていた薄い紙切れを戻し、ともあれよろしく頼む、と、やはりいつものように告げたのだった。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:猫弥七 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2014年06月17日(火)22:46 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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● 日は暮れゆく。 腕の中でぴう、とか細く鳴き声を上げた小蜘蛛を撫でて、九重は背後から草を掻き分ける音に耳を澄ます。 獲物を探すように近付いてくるその音に、木陰から飛び出そうとした瞬間――不意に視界を過ぎって滑り込んだ影に、フィクサードの肩がぴくりと跳ねた。 そんな九重を一瞥して、『神速』司馬 鷲祐(BNE000288)はすぐに視線をずらした。木々の奥から猛り狂ったように鋏を打ち鳴らして迫る大蜘蛛へと目を向ける。 「特務機関アーク、状況へ介入する」 「! ――感謝します」 は、と目を瞠った九重が、その言葉に安堵の色濃く吐息を零した。 「綺麗なお姉さんと小蜘蛛さん、うみ達が守るからもう少し頑張って」 もう一人、やはり大蜘蛛との間に滑り込んできた小柄な少女の高い声に、九重は少し目を瞠る。 「まだ子供……いえ……」 『Nameless Raven』害獣谷 羽海(BNE004957)の華奢な身体は、小柄というよりもただ幼い。動揺を抑えようとする九重へと、先に間へと割って入った青年が問いを発した。 「穴の位置は?」 「あ――はい、北東へ。此処から100メートル程の位置にあります」 短く尋ねた鷲祐へと、我に返ったフィクサードが山を少し登る方向に腕を伸ばして答える。 「もぅ、色々とこんがらがって何がなにやらの状況だよ……」 木々の間を追い付いて、ぼやくように呟いた四条・理央(BNE000319)だったが、すぐさま符を広げて三体の影人を作り上げた。それを八つ脚で巨体を疾く運ぶ大蜘蛛の周囲、D・ホールの方向を空けた三方へと配置する。 「九重君、あなた、何かを守り愛することができるんじゃない」 「……懐かしい顔だこと」 名を紡ぐ声に顔を上げ、九重は微かに眉を顰めた。そんな態度は気にもかけず、『ヴァルプルギスナハト』海依音・レヒニッツ・神裂(BNE004230)はまじまじと彼女を眺める。 「それにしてもひどい格好ね。仮にも姫君なんですからもっとちゃんとしなさいな」 「なっ」 「着なさいな、男性もいるんですから目の毒だわ。――何か言いたいことでも?」 「…………いいえ……恩に着ます」 言い返そうとした口を塞いで海依音がストールを投げ渡すと、悔しげながらも厚みのある布を広げて、九重が着物の上から大判のそれを身体に巻き付けた。 あからさまに渋々とした態度に肩を竦め、修道服に身を包むリベリスタはフィクサードを眼下に収める。 「素直に助けを求めたのなら可愛げもあるというのに……」 「わたくしはフィクサードです。容易に頼ると思えて?」 「そうでしょうね」 深い溜息を吐いた修道女に、ピンと眉を跳ね上げた九重が口を開く前に苦笑を含んだ声が混じった。 「まったく相変わらずっつーか、自分を攻撃する相手すら守ろうとする、か」 その声に顔を上げた九重が、されこうべと小蜘蛛を纏めて抱き締めて軽く会釈をする。 「やあ雲居さん、お久しぶりだね。俺の事覚えてるかい?」 「ええ……御機嫌よう、エルヴィン」 小蜘蛛を指先で撫でる九重へと、『ディフェンシブハーフ』エルヴィン・ガーネット(BNE002792)は僅かに呆れた気配の雑じる苦笑を滲ませる。 「……君もなかなか無茶する人だね。そういう所もまた、魅力的ではあるんだが」 「そちらは……相変わらずのようですね」 ほんの少しばかり言葉を迷わせる素振りを見せて、九重がそっと微笑んだ。 大蜘蛛との間に足止めを兼ねて割って入った『もそもそそ』荒苦那・まお(BNE003202)が、そうしたやり取りを見届けてから九重へと声をかける。 「はじめまして、九重様と楪芦様。蜘蛛混じりのまおです」 「蜘蛛混じり? ……まあ」 挨拶よりもそちらに気を取られた九重へと、まおはマスクをずらしてその下に隠していた口元を露わにした。 「……もしかしたら、ブラウンシアーズ様にお怪我をさせたりもっと酷い事になるかもしれません。その時は、まお達をたっぷり憎んだり怒ったりしていいですから」 すぐに再びマスクで口許を隠したまおがそう告げるところに、九重は微笑んで首を横に振った。 「いいえ……我儘を望んだのはわたくしの方。そうなった時は――不愉快な思いをさせること、わたくしの方こそ罵倒されて然るべきです」 小蜘蛛から手を持ち上げた九重が、少し躊躇うように指先を空中で彷徨わせて、それからそうっと指先で、少女の頬を撫でたのだった。 ● 一度は真っ向から対峙した女の、それでいて仄かな安堵を漂わせた気配を見て海依音が目を細める。 「……あの大蜘蛛、貴方はどうしたいの? もとの世界に返したいの?」 「無論です」 海依音の投げかけた疑問に、九重が真っ直ぐに顔を上げた。 「でも、この報酬は安くはないわ」 海依音の言葉に、九重は少しだけ眉を顰める。 「何かお望みが?」 「そうね……――報酬は成功。それ以上でもそれ以下でもないわ」 その言葉にフィクサードは目を瞠った。口を開き掛けたところで、会話の糸を断ち切るように赤い覆面がぬう、と二人の間に割って入る」 「九重君はお久しぶりと」 「あ……ええ、お久し振りです。あなたも見た顔……顔? いえ、その、見覚えがあります」 『足らずの』晦 烏(BNE002858)の言葉に頷いた九重だったが、顔、と言葉にしてから首を捻って、まじまじと赤いとんがりを凝視する。その末に適した表現が思い付かなかったのか、言葉そのものを言い換えた。 「んでと、君には選ぶ権利がある。お姫様抱っことおんぶどっちがいい?」 言い直したフィクサードを見下ろす烏の表情は、覆面に隠されて一切が謎だった。 ぽかんとした顔の九重へと、烏は淡々と言葉を続ける。 「重傷だし走るのも辛いだろ。配慮出来るおじさんのこの優しさ」 「あ……、いえお気持ちは」 「なお拒否権は存在しない」 「え? きゃ――きゃっ! きゃー!?」 拒否も遠慮もするだけの余地はなく、実にあっさりと横抱きに抱き上げられた九重が、素っ頓狂な悲鳴を上げる。 「おっと。ああ、楪芦君はこっちに」 抱き上げた拍子に転がり落ちたされこうべを拾い上げて九重に抱かせ、ついでに逸れないようにと言い足して、小蜘蛛を赤い覆面にしがみ付かせた。ボトムの言葉を理解しているのかどうかは分からないが、抵抗もせずにしっかりと八つの脚を覆面に回す。 「このままとんずらと行きたいが送還の為に協力してくれ」 人一人分の身体を抱えて簡単に立ち上がった烏が声をかけると、腕の中で硬直していた九重がはっとした様子で顔を上げた。 「万が一は討伐もありうるが、九重君達の協力があれば送還も可能なはずだ」 「協力は無論です! わたくし達に出来ることでしたら……!」 「……ブラウンへの説得などを宜しく頼むよ」 勢い込んで答えた九重が、リベリスタ達に足止めされるアザーバイドを真っ直ぐに見据えて深く頷いた。 「あ、あの、ですが少しゆっくり行って頂けると――!」 ふと現状に気付いたフィクサードがそう言い添えるよりも早く、状況はその姿を変える。 懇願が終わる前にリベリスタ達は作戦を開始し、恐らく最も状況を理解していない小さなアザーバイドだけが烏の覆面にしがみ付いたまま、九重を見下ろしきゅう、と小さな鳴き声を上げた。 ● 踏み締めた草か、降り注ぐ枯葉か。靴の底で、ざらりと鳴った。 「迷子の蜘蛛か。知らない世界はさぞ不安でしょうね」 赤い双眸を僅かに細めて、『まつろわぬ古き民の末裔』結崎 藍那(BNE004532)はその巨体を見上げた。 「おいで、可愛い蜘蛛ちゃん。貴方を元の世界に戻してあげる。……って言っても私の言葉なんて通じないんだろうけど」 生まれ落ちた世界も違えば、耳に聞き馴染む言葉も恐らく違うだろう。怒りに任せてか、混乱に惑わされてか、振り下ろされる鋏を軽やかなステップで交わして藍那は感情の見えない八つ目を見上げる。 「もし、誰かが……」 ボトムへと落ち込んだ巨躯が人里へとその矛先を変えないように影人達に道に塞がせながら、理央の唇から小さな呟きが零れ落ちた。 「誰かが、誰もが不幸せになる結末を回避出来るなら……全力で行くしかないよね」 密やかな決意だ。だからこそ彼女は此処に来て、異界からの迷い子の前に立ち塞がる。 振り下ろされた鋏を交わし、鋭く音を立てて噛み合わされる牙を掻い潜り、理央を写し取る影の従者が猛る蜘蛛の戻るべき道へとさりげなく引き付けていた。 「そっちには行かせないよ!」 四方を囲まれる状況から逃れようとしてか、人里の方向へと向きを転じようとした大蜘蛛の前に影人を跳び込ませて行き先を封じる。 「怒らないで、俺達は、敵じゃない」 大蜘蛛の世界の響き、アザーバイドへと通じる言葉。敵ではない、傷付ける意思はないことを、エルヴィンは幾度も繰り返した。 先手先手を封じられることが厭わしいのか、鋏を打ち鳴らして上体を起こしたアザーバイドが振り下ろした脚は影人を捉えることはなく、ガギン、と木の幹に抉り込む。 「――さて、異文化交流と行こうか」 鷲祐の全身を雷光が包み込んだ。波打つ光の波が弾け、小さな閃光がぶつかり合う。究極なまでに反応速度を高めた男は、躊躇わず巨躯の前に立ち塞がった。 「開いた穴を見て、そこへ入れ。もしかすると見えないのなら、俺達に続け」 異なる世界に属す巨躯の、その八つ目が映す光景は、恐らくその大蜘蛛にしか分からないものだろう。 「小さな蜘蛛たちはお前を傷つけない。損をさせん」 鷲祐の用いる言語はボトムのものだ。その響きも、意味するところも、異界の住民たる大蜘蛛に通じると必ずしも思っている訳ではない。だが、しかし。 「無駄だろうがなんだろうが、伝えるだけだ。……恥も外聞もあるものかよ!」 如何様、それが鷲祐にとっての意思だ。だからこそその言葉通りに恥もなく外聞もなく、この世界の言葉で訴えているのだ。 「あの子は君の敵じゃないよ。ほら、あんなに怯えてる。今の君と一緒だよ」 近くはない、さりとても遠いとも言い切れない。一定の距離を保ちながらホールの場所へと誘導する烏の、その覆面にしがみ付く小さなアザーバイドを振り返って羽海が大蜘蛛へと訴える。 エルヴィンもまた、幾度目とも知れず、一つの意思を繰り返した。 「彼女も、俺達も、君を傷つける気はない」 あるべき場所に送り返したいだけだと、八つ目の巨躯へと願いを告げる。 楪芦と呼ばれる小蜘蛛の位置が遠い為か、大蜘蛛はすぐに猛る様子はなく不穏に鋏を鳴らしただけだ。 そこに説得の糸口を見て、羽海が身を乗り出すようにして言い募る。 「あの子にはもう帰れる場所はないけど、君はまだ自分の世界に帰れるんだ」 巨躯に見合った八つの瞳は、何処を見ているのか分からない。それでも尚、羽海は訴える。 「だから、帰ろう。うみが連れて行ってあげるから」 カチカチ、と大蜘蛛の鋏が何かを考え込むかのように打ち鳴らされる。そこに暴れる意思は既にないのを聞き取って、エルヴィンは肩から力を抜いた。 「……ありがとう、良い子だね」 異界の大蜘蛛が、威圧を示すかのように持ち上げていた上体をゆっくりと地に戻したのは、それからすぐのことだった。 ただ一つ、難点があるとすれば。 「……入らないね」 中空にぽっかりと開いた巨大な穴の周りを、大蜘蛛が落ち着かなくうろつき回る。 酷く疑り深い性格なのか、自分がそこからボトムに落ちたこと自体を納得していないのか、鋏の先端でホールの表面を引っ掻いてばかりいるアザーバイドを見ながら、理央がぽつりと呟いた。 どれだけ説明しても納得した素振りがなく、理央の影人が力尽くで押し込もうとすれば、威嚇するように鋏を打ち鳴らす。 放っておくとホールが消えるまで疑っていそうなアザーバイドがホールの正面に立った時、まおがひっそりと大蜘蛛の後ろに回った。 衝撃波を球状に集め、隙を見計らって巨躯の真後ろにぽいっと放り投げる。 地面に弾けた衝撃波にノックバックされた大蜘蛛の身体がふわりと浮かび上がり、そのままホールの向こう側へと押し込まれた。慌てふためいてがちがちと鋏を打ち合わせる音が、悲鳴のように遠ざかって行く。 「お帰りはそっちです。ごめんなさい」 淡々とした声でまおが告げた目の前で、D・ホールは静かにその門を閉ざしたのだった。 ● 理央の唇から艶やかに流暢な詠唱が漏れ、柔らかな微風が九重の身体を優しく嬲る。 「これで大丈夫、かな」 「ええ、もう……平気です。……有難う」 その穏やかな気配と癒されていく傷への慈悲に仄かな吐息を零して、九重がややぎこちなく笑みを浮かべて礼を告げた。 「これで満足かい?」 「ええ……とても」 「それはなにより。はは、君みたいな娘になら利用されてもいいさ」 頷いた九重へと晴れやかに笑ったエルヴィンが、常と変らない気軽な口調で告げる。 「蜘蛛女、頼りたいなら、今度は真正面から頭を下げに来るんだな」 「……心得ておきます。だからこそ、此方から声をかけた訳でもないにも拘らず……来て頂けたことに感謝します」 返す言葉もなく、九重は鷲祐に頷いた。微かな苦笑と共に、しみじみとした口振りで呟く。 「あの小蜘蛛のことだけど」 烏の覆面に張り付く小さな蜘蛛を見上げていた藍那が、視線を九重へと移して声をかけた。 「アザーバイドよね。どこから来たの? ――何故一緒にいるの?」 「分かりません」 「……分からない?」 言い淀みもせずに即答した九重へと、藍那が少し眉を寄せた。 「わたくしが現場に到着した時には、既にホールは閉じた後でしたから」 元の世界が何処かも、返す方法があるのかも分からないと九重は首を横に振った。 「何故わたくしと居るかは……それも、あの場に赴いたのがわたくしだからです。フェイトを得ているようでしたし、あの小さな姿を放置するのも躊躇われて……」 「そこはアークに頼ろうとは思わなかったのね」 悩ましげに言う九重に、藍那が溜息交じりに肩を竦めた。 「それにしても、こんなにも――蜘蛛を持ち、抱く者達に会おうとは思いませんでした」 視線をリベリスタ達へと移ろわせたフィクサードが、まおの姿を視界に捉えて呟いた。 その呟きを拾い上げたまおが、九重を見上げてマスクの下で言葉を紡ぐ。 「まおはリベリスタのお仕事でここに来ました。でも、まおは九重様の事もとても気になったのでこのお仕事を選びました」 「わたくしに?」 「アザーバイト様に懐かれるくらい優しい方ですから」 少し目を瞠った九重が、ほんの少しの困惑を混ぜた苦笑を浮かべて首を横に振る。 「いいえ……きっと、懐いているのはわたくしの方、よ。けれど……有難う」 黒い双眸を小蜘蛛へと移して、九重が微かな声で囁いた。そんなフィクサードを一瞥した海依音が、一つの感想のように言葉を紡いだ。 「貴方、根性はすわってるのね。別に見直してなんかないけど」 「……光栄だこと」 小蜘蛛から目を離した九重が、必ずしも皮肉ではない響きで笑う。 「わたくしは少し意外……」 ぽつりと小さな声で紡いでから、修道女の身なりをしたリベリスタを見た。 「わたくしを嫌いと言ったお前が、まさかこうして……来てくれるとは、思いませんでした」 「だからこそ来たとは思わないの?」 「……さあ」 九重は答えず、海依音もまた答えない。どちらともなくほんの僅かに、緩やかに唇を綻ばせただけだ。 「それはそうと、だ。改めてアークにどうだい、九重君」 とんがりに張り付く小蜘蛛を覆面から下ろし、九重の抱くされこうべの上に乗せながら、烏が何時かと同じ誘いを口にした。 「おじさん含めておかしな奴らばっかりだがね」 「うみは……難しい大人の話はわからないけど、九重さんは寂しい人なのかなって思ったよ」 首を傾げた羽海が、考え考えにそう口にする。 「三高平に来てみない? きっと人にも自分にも優しくなれると思うよ」 同じように誘いを口にする羽海に少しだけ躊躇ってから、柔らかな癖のある黒髪をそっと撫でた。 「有難う……。そう言って頂けることには感謝します。でも……」 ふと言葉を途切れさせた九重が、ちらりと海依音を見る。その視線に気付いた修道女が、追いやるようにして手を振った。 「ああ、貴方とその小蜘蛛の討伐は今回の任務にはないのよ。ワタシ無駄働きみたいな余計なことはしたくないから、さっさと帰りなさいな」 「……あのように言う者もいますから」 微かな笑みを唇に宿した九重が、そう答えながら「それに」ともうひとつ理由を添える。 「今はまだ……この……有様から、離れられない理由があります」 静かにそれだけを言い切って、九重がされこうべごと小さな蜘蛛を抱き締めた。 「此度のご恩は忘れません。感謝致します」 リベリスタ達へと頭を下げたフィクサードが、改めて感謝の念を告げた。 「それと、お前も……」 身体を起こした九重が、海依音の方を向いて身体に巻き付けたストールを引き寄せる。 「……これは、次に会った時に返します。それまでは……」 言葉を途中で断ち切った九重が、集ってくれたリベリスタ達へと今一度頭を下げてから、小蜘蛛と共に山中へと姿を消した。 季節は夏に迫ろうかという頃合いか。 日没後の涼しさに覆われた山林は、密やかに人知れず、今宵も小さな秘密を覆い隠していった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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