● 生徒達が言っていたのだ。 あそこにはムラサキババアが出る、と。 今の子も昔の子も変わらないな、と微かに笑ったのを覚えている。 教師という職業をやっていれば、意識しなくてもその手の話は耳に入ってくる。 少し不思議だったのは、それが学校でもトイレでもなかった事だ。 数十年前……私たちの子供の頃や、そうでなくてももう少し前にはトイレに出るのが定番だったのに。 これも時代か、と思いながら、件の高架下へ。 この辺は飲み屋が多く、昼間は暗いのも原因かもな、と思う。 遅くなったらここは通らないように。 防犯上の理由から、そんな事を学校で教えていたのも原因か。 子供の想像力というものはつくづく凄いものだから、それも納得が――。 考えながら、足を止めていた。視線の先にいたのは、紫色の和服を着た……恐らくは老婆だ。 一瞬焦ったが、もしかしたらこの老婆がムラサキババアの噂の原因になったのかも知れない。 少し見慣れない人や物があれば、子供達は警戒するものだから。 足はある。幽霊には見えない。あんまり見るのも失礼だと視線を外して動き出そうとした。 が、再びその足が止まってしまう。 老婆が振り返ったのだ。 その顔は、顔は……暗くてよく見えないが、紫に彩られた唇は耳まで裂けてはいないか。 紫に塗られた爪は、異様に長く鋭くないか。 その目は――塗りつぶしたかのように、紫ではないか。 人間では、ない。 思わず数歩退いて、肩に掛けていたカーディガンを握る。 ラベンダー色。紫。ムラサキババアへの対抗の呪文。 ムラサキ、ムラサキ。 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、口の中で小さく呟いた。 すると老婆の顔は、驚愕や恐怖ではなく怒りに染まり――私の前から掻き消える。 安堵よりも早く。 身を屈めた老婆が、自分の胸を爪で貫く姿を、見た。 歯を剥き出して、ギリギリと噛み締めながら睨むその姿の、姿の、……。 意識が遠くなる。 耳に聞こえたのは、掠れた声だ。 「大丈夫だよ、先生」 「これは悪い夢だ。Fも見てる悪い夢だ」 小さな笑い。 獏お爺ちゃんも、見てたら喜びそうだったのにね。掠れた笑いの言葉が、遠くなる。 ● 「はいこんにちは、皆さんのお口の恋人断頭台ギロチンです。紫色って好きですか。まあ紫って一口に言っても色々ありますけどねえ、女の人の方がそういう差異には敏感でしょうか。ああいや、紫色の講釈をしたい訳ではなくてですね」 笑って『スピーカー内臓』断頭台・ギロチン(nBNE000215)は赤ペンを振った。 「今回皆さんにお相手して頂くのは『ムラサキババア』です。聞いた事がある人もいます? 怪談ですよ。トイレや鏡の前に出てくるお婆さん。出てきて殺すだとか呪うだとか手足を奪うとか色々ありますが――まあ、これは幽霊でも妖怪でもなくE・フォース、となります」 ペンを振る手を止めて、向き直る。 「昨年夏から『子供の噂話から発生したE・フォース』の案件が散発しているんです。怪異の噂から発生するE・フォース自体は珍しくもないですが、これは特定の地域でだけ。何件か関わってくれた方もいらっしゃるんですがね、犯人が先日正確に割れまして」 映し出されたのは、ノイズ交じりの画像。目を細めて笑う、老人。 外見だけ見れば、人の良さそうにも見えるそれ。 「黄泉ヶ辻の『エフ・オア・エフ』……を名乗る男です。何の企みがあるのか、それとも愉快犯なのか。ともかく彼は人を害する怪談を『悪い夢』と称しこの地域にバラまいている様子で」 だが、それはうまく行かなかった。 彼の悪い夢は、アークのリベリスタが現実になる前に今の所全てを討ち取っている。 近頃ようやく姿を見せたものの、ヒントまがいを投げて行くなど、その内は未だ知れない。 「今回も近辺に姿は見せているみたいですが――現在彼は自ら直接的に誰かに害を加える事はしていません。ですので、優先順位としては即時に害となる『ムラサキババア』の討伐が上です」 ムラサキババアは、暗い高架下に現れる。 その呪文を唱える人を怨んでいる。その色を怨んでいる。 その言葉は口にしちゃいけない。その色は持っちゃいけない。 そうしないと、殺される。 「……紫色を持ってなかったとして、『ムラサキ』と唱えなかったとして、殺されないとは明言されていない。故に、放置しておけば結局誰彼構わず襲う存在となると思われます」 ムラサキババアは、新しい怪談として子供達に語られる。 子供達の恐怖が、ムラサキババアを強くする。 だから殺すならば、早い内に。 「今回、回避の呪文はトラップです。唱えた人が、その色を纏う人が狙われる。けど、これはぼくらに取ってはよくも働くと思います。……まあ難点としては、ターゲットが複数になった場合にムラサキババアが狙うのは恐らくランダムだという事ですけど」 それでも皆さんなら、どうにかできるんじゃないでしょうか。 フォーチュナは笑って、資料を差し出した。 「では。この噂を嘘にして下さい。高架下にムラサキババアなんていなかった。人を襲うお化けなんていなかった。そう、ぼくを嘘吐きにして下さい。お願いします」 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:黒歌鳥 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 8人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2013年08月18日(日)22:50 |
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■メイン参加者 8人■ | |||||
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●ムラサキババアって、知ってる? ムラサキババアはね、前は学校に出たんだよ。 けれど、紫色とか『ムラサキ』って言葉が嫌いだったんだ。 皆がそれを知ったから、ムラサキババアは人を襲えなくなった。 けどね、今度は自分が嫌いなものを押し付けてくる人を殺すようになったんだ。 学校から出て、暗い場所で、ムラサキババアは待っている。 今度その色を持ってきた人間は殺してやる。 今度その色を唱えた人間は殺してやる。 そう思っている。 だから、ね、学校の外でムラサキババアを見たらその色を隠さないといけない。 その色を唱えちゃいけない。 そんな事したら、殺されちゃうよ。 ● 夏の夕暮れ時は、じっとりと湿っていた。 昼間の暑さが抜けない。涼やかな風が望めない。 去年に『みつこさん』と出会ったのも、丁度こんな時期だった。 紺色に姿を変えていく空を仰ぎながら、『薄明』東雲 未明(BNE000340)は小さく溜息を吐く。肉色の、顔のない顔をした異形。噂話から発生したE・フォース。嗚呼、思い出してしまった。 家の階段を曲がった先にいる彼女の、酷く不愉快にさせる、その顔を。 未明が首元に巻いた色と似たグラデーションが、空にかかっている。美しい、夕から宵へと変わる色。けれど、風は吹いてくれなかった。 『刹那の刻』浅葱 琥珀(BNE004276) のマントも風にはそよがない。アスファルトに残った熱気が、じわじわと体へと染み渡る。人払いの結界を張りながら、琥珀は名と同じいろの瞳を瞬かせた。ムラサキババア。人口に膾炙する噂の『原因』と語られる内の一つは、誤解が元の悲しい話。 怪談として語られるだけならばまだしも、人の手で利用されるというならば――そんな負の念は、断ち切るべきだろう。 「怪談は愉しい作り話、夢は朝になれば自ずと覚めるもの」 未明と並んで進入防止の看板と鎖を張りながら、『哀憐』六鳥・ゆき(BNE004056)が呟く。上げた白い顔が、沈みゆく夕日の赤に照らされた。怪談は現実に非ず。現実は夢に非ず。 それが世界の道理であれば、ムラサキババアも悪い夢も、現実には存在しない。 「これは現実だものね」 わるいゆめ。そう笑った男を思い出し『逆月ギニョール』エレオノーラ・カムィシンスキー(BNE002203)は首を振った。夢は荒唐無稽で時に残酷かも知れない。けれど夢はいつか覚めるもの。これはいつまでも覚めない現実だ。夢よりよっぽど厳しくて、辛い現実の世界だ。 「僕は『悪い夢』なんか嫌いだよ。しょっちゅう見るから」 軽く頭を抑えて、『いとうさん』伊藤 サン(BNE004012)は首を振った。現実はこんなに辛い事や怖い事に溢れているのに、夢の中までそんなものが追いかけて来るなんて嗚呼、嫌だ嫌だ。夢の中くらい何の憂いもなく楽しくいたいのに。 醒めない夢はない。誰かの言ったそんな言葉を信じるから、悪夢も乗り切れるけど。 この現実を、誰かが夢だと嘯くならば。 「嘘にしてあげるわ。これは夢なんかじゃないって」 暑さで首筋に張り付く金糸の髪を纏めて払い、嘘吐きは翼を一度羽ばたかせる。 その横で皆の服装と持ち物に目を光らせるのは、『夜翔け鳩』犬束・うさぎ(BNE000189)だ。手に持った黒の油性マジックとペンキが不穏である。だがこれは大切な事なのだ。ムラサキババアは紫色に反応する。『ついうっかり』、引き付け担当以外が紫色を持っていました、なんて事があっては問題なのだ。だから。 「さあ、脱げ。良いから」 「えええええもう十分見えないでしょう!? ほら目も黒のカラーコンタクト入ってますし!」 見て見て! とばかりに黒のロングコートを着てその場で回ってみせる『リコール』ヘルマン・バルシュミーデ(BNE000166)にとってもそれは死活問題だった。何しろ彼が日頃纏う色は紫だ。でも今回は引き付け役じゃない。つまり見えたらヤバい。 「あ、ほらでも首筋が」 「マフラーセット!」 「機械化部分の耳は?」 「耳あてスタンバイ!」 「今の季節は?」 「夏ですけどわーすごいわたくしだけ真冬みたーい!」 真顔で尋ねるうさぎに若干やけ気味に叫んだヘルマンは、戦闘前から額に汗をかいていた。暑いのだ。 そんな冗談のような、けれど入念な準備を行う仲間を横に『飛常識』歪崎 行方(BNE001422)は高架下を見てかくりと首を傾げる。ムラサキババア。学校の怪談。街に巣食う都市伝説。 「先輩デスネ」 宵へと変わる光のない色の目を細めて、都市伝説を願う少女は、一つ笑った。 足元から、長い影が伸びている。 ああ。夕暮れだ。 魔の時間だ。 高架下の空気だけ、何故か冷えていた。 ● それ、が現れた瞬間を、誰も見ていなかった。 誰もが見ていたはずなのに、老婆は気付いたらそこにいた。 薄暗がりに、よく見なければ分からない程の紫色の靄がかかる。あれが、『ムラサキ』か。 老婆が振り返る。ムラサキババアがこっちを見る。紫の目が、こちらを。 ひっ、とヘルマンが声を押し殺した。伊藤の呼吸が荒くなった。人の形をしていても、あれは人じゃない。 紫に彩られた、耳まで裂けた唇が笑う。憎悪を押し殺して笑う。た、たん。そんな風に、地を蹴る音がした気がした。それも、幻聴だったかも知れない。 瞬いた未明の目前に、老婆の爪が迫る。歯を剥きだして、憎悪を紫で塗りつぶした瞳に浮かべて睨み付けてくるムラサキババアの姿に鳥肌が立った。おぞましい。ずぶりと爪が減り込んでくる。肩に食い込んだ。蒸し暑い夏の、悪夢。 けれど嫌悪を押し殺し、間近に迫った顔を見る。己の瞳に、相手の顔を映しこむ。紫と紫。 「ムラサキは嫌い? ならまず自分を消しなさいな」 そんな、紫だらけの格好をして。紫が嫌いだなんて。都市伝説はこれだから、矛盾と嫌悪の塊だ。 た、たん。重力を無視して、ムラサキババアは天井に立つ。 「和服の淑女は、おしとやかなイメージだったのにねえ」 着物の裾を振り乱して駆ける老婆の姿は、おしとやかとは程遠い。逆さまに見る彼女の爪は長く折れ曲がり、毒々しい紫の色が滑りを帯びて滴っていた。その動きを逃さぬように、エレオノーラは体内の歯車を組み替える。風のない高架下で、己の足が、翼が、最適に立ち回れるようにと。 「まずは強化されねーように、ムラサキをとっとと片付けなきゃな!」 琥珀の体から、E・フォースよりも濃い瘴気が滲み出し、最も近くのそれへと叩きつけられた。普段よりも、手応えがない――それは最初から分かっていた事。だから仲間と攻撃を重ね、確実に、そして迅速に潰していかねばなるまい。 咄嗟の時にゆきのカバーに回れる位置を確保しながら、息を吸って、吐いて、深呼吸。怖いのに違いはない。ムラサキババアは怖い。けれど泣いて怖いと喚く訳にはいかないのだ。 「僕は男の子だから、女の子を護らないといけないし」 男女平等云々ではない。プライドの問題だ。イイカッコしいなのは男の子だから仕方ない。息を落ち着けて、ド鉄拳を打ち鳴らす。両手を挙げて宙に向けて放った弾丸が、分かたれて炎の雨霰。 高架下が、一瞬染まる。赤い色。赤は嫌いじゃない。そこそこ好き。紫もそう。好き嫌いはよくないから、一番好きな色も一番嫌いな色もない。けど。 「君達は嫌い! 怖いから!」 明確だ。 「限界が来る前に交代してくださいね!」 ムラサキババアへと目標を定めた未明とエレオノーラに声を掛け、うさぎは琥珀の狙ったムラサキを含み、より多くを巻き込める位置を探して駆けた。11人の鬼(のぞみせんせい)が、切り裂き抉り刻んで散らす。 おばあさんはぎょろりと睨んでいた。おばあさんはその皺だらけの顔一杯に憎悪を浮かべていた。一年前の夏、己を切り裂いた血塗れの少年の顔が脳裏にチラついてヘルマンは瞬間ぎゅっと目を閉じる。今回怪異を引き付けるのは自分の役目ではない、その点は安堵できるけれど、怖いものは怖い。ぞわりと背筋を何かが這う。 だが、その感覚に立ちすくんではいられない。すう、と息を吸って。いつもと違う履き心地のブーツに装着した脚甲の重みが導く勢いと、鍛錬の速度を乗せて放つ真空の刃。ムラサキが乱れる。 その、色は嫌いではないのに。 赤と青、昼と夜、夜と朝。狭間に描かれる色。大人の姿をした子供、子供のままの大人。どちらでもない自分を描く、灰よりも鮮やかに彩られた境界。 おばあさんは、どうして紫を嫌いになってしまったのだろう。 ふと、そんな問いが、浮かんだ。噂話なのは分かってはいるけれど。それでも。 ムラサキが、震えた。 薄い色が一層薄くなり、消えるかと思ったそれが濃霧の如く、高架下を包む。 ただの人であれば、それは致命傷にも繋がったであろう。肺を腐らせ臓腑を焼く、致死の毒。 唯一それをものともしないゆきが目を細め、ムラサキババアに対抗する為に翼を下ろした。 「皆様どうぞ、存分に跳ねて下さいまし」 天井も空中も、飛べば防げぬ道理はない。微笑んで、傷の深いものがいないかどうか油断なく目を走らせた。ついでにトンネルの奥にも、後ろにも。 幸い、飲むには時間帯がまだ早いせいか酔客は見えなかった。注意すべきは、ここを通って帰る住人の方であろう。戦場から注意は離さぬまま、ゆきは時折視線を走らせるのを忘れない。 ムラサキが分かれて取り付く。取り憑く。癒しを許さぬ致命の呪い。 纏わり憑かれながら、行方は笑って切り払った。追い出された都市伝説に、今を生きる都市伝説が負ける道理はない。 逆さの老婆に向けて、未明が刃を振りかぶる。 舞い散る老婆の血もまた、紫だった。 ● 紫、むらさき、ムラサキ、ムラサキ。 厄介であったのは、纏わり憑いてゆきの回復を拒むその色。 より大きな被害の拡散を防ぐ為にリベリスタはムラサキババアの動きを阻まない。ムラサキに纏わり憑かれて癒しの届かぬ未明が目配せをしたのを見て、エレオノーラはその手を伸ばす。 白い手から白い手へ、移り変わる夕闇の色。渡す瞬間未明は目を閉じ、全ての紫を遮断する。 一押しに、エレオノーラは微笑んだ。 「ねえ、何故ムラサキに憤るの?」 小さな舌に乗せた言葉、老婆の気を引く紫の色。これが夢だというならば、そこに確たる意味なんてないのだろうけれど。悪い夢に支配された噂話は、時計仕掛けの鳩の如く、決められた条件に反応する。ざくり。ムラサキババアの紫の爪が、赤紫に。 些か当たりの悪い老婆へ効率的な攻撃を繰り出すべく集中していたエレオノーラの横から飛び出したのは、伊藤。 「う」 詰まる声。 「うわばばばば! アッチいけぇー!」 引っつかんで、叩きつける。掴んだ髪の毛は僅かで、手応えも悪かったけれど。指先からぞわぞわと嫌な感覚が襲ってくる。掌に髪のごわごわした感触が残っている。ああ。怖い。怖い怖い。どうしてこんなに怖いのだろうか。怖いからか。なるほど。僕は天才か。 「怖いものはなくしてしまえばきっと世界は平和だよね!」 結論はいつだって簡潔に。ごめんなさい、貴女に恨みは……あるかも知れない。怖かったから。 「しっかし、おばあちゃん速ぇな!」 未明とエレオノーラの刃の直撃を避け、未だ立って攻撃を続ける老婆に琥珀が笑う。その身は毒に汚されていて、喉の奥に血の味は滲んでいたけれど。掌に転がすのは、魔力の賽。 あくまでトンネルを巻き込まぬように、同時に派手に弾けるよう、ギャンブラーの細やかな注意は鮮やかに爆花となってムラサキババアを彩った。 その空気が冷め遣らぬ内に、細い褐色の手が伸びて老婆の首元を辿る。描かれた印。うさぎの記す、蕩ける甘やかな死の刻印。 「ムラサキオバアサン! ずいぶんと紫色がお嫌いなようで!」 片手でボタンを弾いて、暑苦しいコートを脱ぎ落とす。耳当てを叩いて落とし、ヘルマンは蹴りを放った。紫色が舞い散ったのを見ながら、軽く首に締まったマフラーを剥いで取る。 もう偽装は必要ない、来るなら来い。 慣れぬカラーコンタクトで少しだけ視界の濁るまま、ヘルマンは一張羅を翻した。 「随分とお達者でいらっしゃいますが……年貢の納め時というものもありますのよ」 引き所の分からぬお方は、お可哀想に。ゆきはそう呟いて、僅かな間に一気に気温の上がった高架下へと涼やかな風を呼び込んだ。 抉られ赤い肉が、白い骨が、黄色い脂肪が見える傷口を、風は優しく撫でて塞いで行く。 まだ固まらぬ血で少しだけ重くなった袖の下、白い肌を晒しながら未明が鶏鳴を振り上げた。 朝を告げる、鶏の声。未明から続く明けの時。 未明が床を蹴った。壁を蹴った。天井を蹴った。た、たん、たん。トンネルの中を跳ねるボールのように、素早く軽やかに。 紫の瞳一杯に、自分の刃が映ったのを見ながら、未明はムラサキババアの額と胸を貫いた。 ばしゃりと跳ね返った紫の血は――怖気がする程、冷たかった。 ●逢魔の刻に、御機嫌よう 霧散する。 今までいたはずのムラサキババアは、まるで何もなかったかのように消えていた。 落ちているのは、リベリスタの流した血だけ。 けれど――未明は安堵の息もそこそこに、トンネルの周囲へと目を走らす。 その視界に移る、トンネルの向こう。 道を一本。あちらとこちらに隔たれて、老人が一人立っていた。 手に持ったメモが、手袋の中で一枚燃える。先ほどまでのヘルマンと似た、冬の様相をした老人。 「また、悪い夢は貴方と方舟の間だけで終わっちゃったわね」 「そうだね。君達は夢を覚ますのが上手みたいだ」 未明の声に、老人は応える。掠れた声で、落ち着いて。けれど、人の良さそうな顔で、じっと見詰めるその姿自体が夕闇に浮かんだ怪異にも似て……一瞬びくりとしたヘルマンが、それでもきっと睨み付ける。 「ぜっ、ぜんぜん怖くなんてなかったんですからねっ、バーカ!」 「そ、そうだそうだ、やーい、お前の母ちゃんエクトプラズマー!」 便乗して伊藤もよく分からないがとりあえず罵倒っぽい言葉を吐く。二十歳を超えた男達の煽りにしては余りにも幼いそれに生ぬるい笑みを零し、けれど目線は冷ややかに、エレオノーラの顔も老人……『エフ・オア・エフ』へと向いた。 「趣味の悪い見物客は満足した?」 「満足。満足になるのかな。悪い夢は悪い夢でなくなってしまったのかな」 「悪い夢、ね。人に害をなすと解ってやってんなら見逃し続ける訳にはいかねーぜ?」 にこり。琥珀の言葉には答えない。笑って僅か、首を傾げる。 交戦意思は、ないらしい。確認したうさぎは、どうも、と名乗りを上げながら一歩進み出て問い掛ける。 「宜しければ、二つお聞きしても宜しいですか? ……一つは、其々のエフの意味」 「……意味?」 「ええ。フォークロアでも何でも。意味があるならば」 「Fは誰でもない誰かになってしまったから、Fなだけだよ。全部でFだ」 要領を得ない。これは嘘か。真か。或いは、名の捉え方の違いか。エフ・オア・エフ。 表情は変えず、もう一つ。首を傾げて。 「悪夢、お好きなんですか?」 「ううん。Fの悪い夢はずっと覚めてないから。でも悪い夢は作れるから、これは夢だよ」 ノー。ノー。笑みを浮かべて横に首を振る。それは真意か。 そのやり取りに、エレオノーラが笑う。 「現実を認めず己の所業を夢と嘯くなんて、子供じゃあるまいし」 「…………」 エレオノーラの言葉に、目が細まった。薄らと笑みを描く唇。見詰める暗い目。 ――ああ。もしかしたら。エレオノーラが『同じように』目を細め、何か口を開くより早く。 「全部、悪い夢だよ」 掠れた声が、微かな生ぬるい風に乗って高架下に響いた。 「早く皆これが悪い夢だって気付いて覚めれば良いのに」 笑みを消した。口を閉ざした。一歩下がる。 会話の時間は終わりらしい。最後だ、と未明が口を開いた。 「まだ、諦めないで新しい夢を撒くつもり?」 首肯。 引く気はどうやら、ないらしい。 けれどああ。ムラサキババアに似た皺のある顔を、Fは再び笑みに変えた。 「ああ、でも、君達がもし、夢を覚ましてくれるなら――」 Fは口を閉じた。笑った顔を、トンネルの横の道を通過した大型トラックが覆い隠す。 高架下の空気は、いつの間にか、他と同じ生ぬるいものに変わっていた。 ただ――紫、そして紺へと変わる空は、既に日光を沈めている。 吹き抜けた一陣の風が、リベリスタの髪と頬を少しだけ冷たく、撫でた。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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