●Ein Unglück kommt selten allein. 「此度の好機、『偶然』であれど――いえ、偶然であるからして活かさないではおけません」 「えぇ、えぇ、存じておりますよクリスティナ中尉」 耳ざわりの良い、けれど何処か温度に欠けた声が凛、と響いた。それに返る何時も通りのへらへらと笑う声と、鈍色の煌めき。 それを目の端で捉えながら、男は声も立てずに小さく笑った。偶然。嗚呼なんと都合の良い偶然か。皮肉にも似た言葉はけれど上官の前では決して音になどしない。 ――これ以上の面倒事は御免だと、男、アルトマイヤー少尉は肩を竦める。 「……だからこそ俺は、いつだってナイフをピッカピカのキラッキラに研ぎ澄ませてるんですよ」 「無論、果たすべき責務であれば幾らでもこの手を尽くしましょう――所で中尉殿、進言がひとつ。我が親愛なる部下からの提案についてなのですが」 ぎらつく視線。殺意にも似た闘争意欲を感じながら、差し出したのは一綴りの資料。遠隔操作兵器及びその発展による自律式――そんな言葉の羅列は自身も一度目を通したものだった。 「これは……」 「彼の研究の発展に、この公園に満ちる気配と言う物は実に大きな影響を与える様でして。以前お話した通りです、ご協力を願えますか、中尉殿。成功すれば我々にとっての戦力になる事はこのアルトマイヤーが保証致しましょう」 「成程。では、成果を期待しましょう。良い報告を待ってます」 女の手が魔道書をしかと抱き、その端正な美貌を歪めて嗤う。きらきらと光を反射し続ける刃を見詰めていた隣の男が、その声に漸くその意識を此方に戻してへらりと笑った。 「此度のバックアップは私が行いましょう。任せますよ――くれぐれも、失敗せぬ様」 「Jawohl,クリスティナ中尉殿! まぁ、お任せ下さいよ。やる時はキチンとやるのが俺の信条ですから」 「Jawohl,我が親愛なる中尉殿。ご期待に添えるだけの『戦果』は持ち帰りましょう、それ以上は私の気分次第と言う事で」 各々の返事を聞き、女の瞳は一度伏せられた後、開かれる。 「作戦名はCerberus――それでは各自、配置へ。御武運を。Sieg Heil」 黒服の翻る音がした。ぴんと伸びる背筋。身体に教え込まれたその所作。短く息を吸いこんだ。 「「――Sieg Heil!!」」 ●Ritterkreuz Bajonett アルトマイヤー・ベーレンドルフと言う男は恐らく自他ともに認める合理主義者であった。 無駄は嫌いだ。悪戯に労力を割く事も部下を失う事も好まない。展望の無い策程の愚策は存在しない。だからこそ、今回のこの『戦争』は男にとって実に好ましいそれであった。 「素晴らしい。敵の主戦力は陽動され、けれど彼らは動かざるを得ない。嗚呼実に愉快だ。それ程までにして守らなければならないものが多いとは、これはこれは恐れ入った」 低く笑った。三ツ池公園制圧。神秘的特異点である『穴』は此方の革醒新兵器を高めるには御誂え向きの場所なのだと誰かが言っていた。そうでなくても、あの方舟を疲弊させるのならば恐らくこれ以上の策は無いだろう。 主流七派。この国の悪と呼んでも良いそれの、トップが一様に動いたのだ。それに対応しない訳にはいかない方舟はけれど、此方の動きを見過ごす事も出来やしない。 「嗚呼実に不憫だな。武器の重さも命の重さもまだわからぬ新兵を放り込む事も出来ず。けれど精鋭の数は限られる。どう出るのかね、楽しみで仕方がない」 まるで時計の針の逆回し。武力を増やし個の力を高めて。この手が引き寄せるのだ。自分達の望む『秩序の崩壊』を。その為の好機であり、その為に研ぎ澄ませ続けた牙だった。肩に負う銃身をそっと撫でる。 決して好ましくはない、鉄の錆びたにおいが鼻をついた。纏わりつくそれを浴びる事は男にとって決して多い事ではないけれど。戦場に居る限り否応なしに感じ続けるそれの気配に僅かに眉を寄せる。 「あぁ、格好良いなあ。やっぱ派手なのはいいですね。でも……大型兵器も浪漫ですけど、やっぱ戦争なら! 歩兵がいないと締まりませんよねえ!」 ねっ、少尉。いつも以上に楽しげな声に、僅かに笑う。決して気分の良くなる様な環境ではないけれど。こうも楽しげな声を聞いて居れば気分が晴れもするだろう。 「ただ派手なのではなく、整えられた枠組みに一つ一つピースを嵌めていく様な戦場が私は好ましいのだが――その点において少佐殿の采配は実に素晴らしい」 雑多なようで揃った軍靴の音。己に続く部下達の様子を時折振り返りながら。随分と馴染んだ戦の気配に満ちた空気にその目を細めた。切れてしまいそうな程に張り詰めた緊張感。 痛みと熱と絶望と、喪われゆく命と。全て目の当たりにしても狙撃手の手が鈍る事は一度も無く。きっとこの先にも起こりえないのだろう。 取り乱す暇があるのなら己の全てを尽くせ。痛みにのたうつだなんて醜態を晒す前に一人でも多くの敵の頭を吹き飛ばせ。やられる前にやれ。己の命とプライドの為に。 「少尉、少尉、アルトマイヤー少尉。わくわくしますね。どんな事が起きるんでしょうね」 「そうだな、きっと君の大好きな闘争が山ほど待っている事だろう。……今日この戦場も、そしてこの先に思い描かれているのであろう作戦の先にも」 「ははは! そりゃあ、ああ、素敵だ。随分と素敵な事で!」 嗚呼本当に楽しくて仕方ないのだろう。闘争狂いのこの男は何時だって勝利の為に手段を選ばぬ冷静さを持ち得ながら誰より血と闘争に酔っている。美学狂いと言われれば頷くしか出来ない自分を慕うこの『狂犬』の牙は何時自分に向いても可笑しくは無いのだ。 けれどそれでもアルトマイヤーはこの男が好ましい。その在り様は美しい。己が負けぬ限り此方を見続けるであろう曹長の顔にまた浮かんだのは笑顔。「あぁ俺、この戦いが終わったら……」紡がれる冗談に眉を跳ね上げて見せた。 「君、縁起でも無い事を言うのは止めたまえよ」 「冗句ですよ、冗句。で……こっちのDonnergott作戦、順風満帆ですよ。そちらは如何なもんで?」 「幸いにも有能な部下のお陰で私は一切『面倒事』を請け負う必要がない。持つべきものは良い部下だな――曹長、皺になる」 「おっと失礼、貴方の肩の位置って手が置きやすいものでして」 けらけらと。投げ合う言葉のキャッチボール。ひどく他愛無い世間話にも似たそれ。笑いが混じり、時折部下の声が混じり。場所さえ違えばただの団欒の様なそれ。 けれどその瞳にあるのは既に獲物を待ち受ける猟犬の『本能』とも言うべきいろだった。ぎらつく闘争心。何処までも冷静に冷静に冷静にけれど貪欲に。 ――さて、作戦は単純明快。東西に分かれ電撃戦を仕掛け、一気に制圧すれば良いだけ。もっと分かりやすく言えばこの下士官と再会すればいいだけだ。サポートは『美人の上官』がやってくれる。 邪魔立てするような奴は片っ端からその頭蓋ごと吹き飛ばしてやれば良い。片方が苦戦していても片方が突破し到達出来ればそれで良い。 「Sieg Heil Viktoria! 全ては勝利の為に、ってね」 「Viel Feind, viel Ehr'――敵は数多だ、悪くない」 大胆不敵に貪欲に。弱さなど捨てろ。捨てられぬのなら全て身の内に抱えて見せるな。此処は戦場。背筋を伸ばせ。何処までも誇り高く美しく。無駄無い咆哮を轟かせろ。 「じゃ、少尉。ご命令をどうぞ」 「『戦果』を。君のその妄執が行き着く先を私に見せてくれたまえ。足掻いて足掻いて外聞など構わぬその手が掴み取るであろうものを――なんて、同じ『犬』の私が言うのも可笑しな話なのだがね」 手を差し出した。その意図を察したように、迷わず押し付けられる刃。ブレーメ・ゾエと言う男の魂とも言うべきそれを握って、己の掌を深く裂いた。溢れる紅。気高く誇らしい、最も優れた証の色。それを、曹長の首――否、其処を飾る首輪へと押し付けた。 滲むそれが真鉄を染める。血で繋いだ首輪と鎖。熱を持つそれを感じながら、手を離した。 「Jawohl,Mein Lieblingsleutnant! ――では、往ってまいります」 「精々上手くやりたまえよ。君との無事の再会を祈ろう――では後ほど、Seinem lieben Brehme」 何処か遠くで、鉛玉がばら撒かれる破裂音が聞こえた。 嗚呼闘争の足音は気付けばすぐ近くに迫っている。偶には『面倒事』も引き受けてみるものだと、狙撃手は哂う。さあ急ごう。狩りの時間に遅刻するだなんて折角の機会が台無しだ――なんて、考えて。 「――これはこれは、曹長の癖がうつったかな」 けれどどうも楽しくて仕方ない。漏れた笑いも其の儘に。狙撃手は静かに、開戦の気配を待っていた。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:麻子 | ||||
■難易度:HARD | ■ ノーマルシナリオ EXタイプ | |||
■参加人数制限: 10人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2013年07月04日(木)23:46 |
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■メイン参加者 10人■ | |||||
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●死するならば何時だって己の為に 負ける事は死ぬ事と同義だった。だと思っていた。惨めに負けて命だけ救われるだなんて有り得ない。戦争に負けたのならその場で死ねばいい。惨めで苦しく痛みばかりで地面を這いずり生きるだなんてごめんだと、確かに思っていた筈だった。 けれど何故か、生きていた。戦いに負け戦争に負け誇りも尊厳も牙さえ土足で踏まれ砕かれ手には何も残らず傷と屈辱ばかりが己を苛みそれでも未だこの身は生きている。自慢の銃でこの頭を吹き飛ばした筈なのに死ねなかった理由は、あの日の自分には知れなかったけれど。 今は知っている。もう二度と負けない為だ。負ける事が死ぬ事と同義であるのならば。死ぬ事もまた負ける事と同義なのだ。負けを認める位ならば。生きて苦渋を舐めようとも耐えて耐えて誇りと勝利の為にもう一度その牙を剥こう。 きっとその為の生で。その為の運命であるのだろうから。 ● 握り締めた銀時計が、規則正しく時を刻む音を感じた。二つを結ぶ同じ時。馳せた想いごと、ポケットの中へと滑り込ませて。最前線へと飛び込んだ『ガントレット』設楽 悠里(BNE001610)の手で、紫電が爆ぜる。 邪魔な敵を飛び越えた先。真白い篭手が更にその白さを増す様に輝いて。酷く軽やかな足取りからは想像も出来ない『全力』が最も厄介な黄の人形を、前線に出ていた親衛隊へと叩き込まれる。 回線の焼切れる様な焦げた臭い。それを感じながら、硝子越しの瞳が前を見る。第三帝国の狙撃手。きっと、誇るだけの腕は持っているのだろうけれど。己の背後。それぞれの相棒を握り、相対する時を待っている仲間を思う。彼らだって、負けちゃいない。 「……僕に出来るのは仲間を信じて戦う事だけだ」 振り返らない。足を止めない。ただただ只管に、護るべき境界線に立ち続けて拳を振るうのが自分の仕事だ。此処から先は、一歩だって進ませない事が。そんな彼の横合いで、じわり、と。意志持たぬはずの漆黒が蠢く。 大好きなやもりの形のそれを従えて。『もそもぞ』荒苦那・まお(BNE003202)の大きな瞳が、戦場を見渡す。狙うべき敵は未だ先だった。黒光りする重機関銃が、此方を捉えているのが見えた。放たれた弾丸が開くのは異界の扉。生臭ささえ覚える風は死を運ぶそれだ。 手当たり次第に近くの物を飲み下し蝕む病魔の気配に眉を寄せて。それでも少女はその瞳を背けない。夜闇に紛れる糸と影が、攻撃を辛うじて防ぎながら、その足を前へと進めるのだ。 「まおのお仕事はこの先です。だから、これくらい大丈夫だってまおは思いました」 足を止めてなど居られない。そんな彼女の声に重なる様に。痛みさえ感じる程一気に空気が水分を失いゆく気配。空へと向けられた、手入れの行き届いた銃口が轟音を鳴り響かせた。直後、降り注いだのは火。敵全てを焼き払う神の火が地面へと叩き付けられ、激しく爆ぜる。 温度を上げた戦場を、表情一つ動かさぬまま睥睨して。『八咫烏』雑賀 龍治(BNE002797)は浅く、溜息を零す。狙撃手の誉れ。腕を誇示する事を是とはしない龍治とて、己の腕に誇りを持たぬ訳では無く。同時に、同じ道を究めるものの技量に興味を持たぬ訳でもない。 戦場の最奥。悠然と武器を握るだけの男と視線が交わったのを感じた。似て非なるものだ。誇りと言う言葉は同じであるとしても。敵のそれは、あまりに時代錯誤の妄執に塗れすぎて居る。 「……それがどういうものなのか、見せて貰うとしよう」 そんな彼と少し距離を離して。細い手が、黒鉄のリボルバーを握り締める。唇が紡ぐ術式に、己の運命さえも織り込む様に。幾重にも重ねて練り上げたそれが生み出す、精巧な影の写し人形。短い指示を飛ばせば、音も無く歩き出したそれが放つ銃弾が、敵を撃ち抜くのが視界の端で見えた。 鮮やかな桜色の瞳に浮かぶのは、絶望では無かった。『さくらふぶき』桜田 京子(BNE003066)はその唇に笑みさえ浮かべて首を傾ける。同時に動いた首領対応に動かねばならなかった方舟の精鋭は、50名。 「全然足りなかったんじゃないですか? 私の知ってる精鋭と言ってもいい人、ここにだってまだ居ますよ」 「勿論、君達もまた優れた方舟の兵士なのだろう。それを知った上で叩き潰すのが、今此処にいる私の仕事だ。全力を以てお相手させて頂く事にしよう」 方舟を甘く見て貰っては困る。手が足りないのならば伸ばそうと、足掻き、戦い続ける姿は幾つだって存在するのだから。そんな京子の声に、指揮官は酷く芝居がかった動作で肩を竦めて見せる。言われるまでも無い。何処の誰が来ようとも。少しだって手を抜かないのが軍人だ。 勿論それは今だって。指示に合わせて動くレイザータクトによる最適化。前衛は敵を通さぬよう。後衛ならば支援を切らすな。持ちうる限りの最大火力で大胆かつ無駄無く。まさしく定石通りの采配は、けれど支援の手が十分にあるのであれば最も有効な手段だった。 かちり、と。身体の何処かで、留め金が外れる様な音がする。己が身さえ傷つける全力を、理性の奥から引き摺り出してレディゲットセット。触れるだけで切れそうな程に滾る闘争心の儘に目を細めて笑って、『トランシェ』十凪・創太(BNE000002)はその大振りな刃を肩へと背負い上げる。 この公園は自分、否、きっと方舟の誰もにとって大きな意味を持つ場所だった。此処で好き勝手なんかさせない。数多の血を吸い込ませ、それでも守り抜いた場所だ。誰かの願いと、祈りと、決意と覚悟と、そして、まさしく誇りと言うべきものが積み重ねられた場所だった。 「テメェらが軍人の誇りなら、俺様達は方舟の誇りだ……プライド勝負と行こうや」 「実に面白い。君の誇りを見せてくれ。胸を張れる何かがあるのならば、それを私は歓迎しよう!」 どうせやるならとことん派手に。獲物を求める様にぎらつく瞳の先には、酷く楽しげに笑う軍人達の姿が変わらず立っていた。 ● 決して楽な戦場では無かった。数は当然敵の方が勝り。支援の手だって多い。けれど、その状況でも、何処か気分は高揚していた。まさしく風車の羽の如く。回転するアヴァラブレイカー。明けない夜を思わせるそれと同じ色がじわりと滲んで。 誰にも等しく訪れる夜の畏怖が与えるのはもう醒めない眠りだ。出来る限りを巻き込んだ一撃に機能を停止した人形を一瞥して、『黒き風車』フランシスカ・バーナード・ヘリックス(BNE003537)は僅かにその唇を笑みの形に歪めた。 「道を空けろ! 黒き風車のお通りだ!」 名乗りを上げる。ぴんと伸びた背筋。悪くなかった。こんなにも早く、再戦の機会が来たのだから。今度は彼らに退いて貰おうじゃないか。勿論、存分に戦いを頼んでから、だが。視線を感じて其方を見れば、此方を真っ直ぐに見つめる少女と目が合う。 磨き上げられた断頭台の刃はやはり、その小柄な背には不似合いで。少女の身をした狂犬が、まるで久し振りの再会を喜ぶ様にその表情を綻ばせる。 「この前は素敵なお土産をありがとう! マリーにお返しさせ……っ」 踏み出しかけた足。けれど、それを遮るように、立ちはだかった姿があった。握り締められた盾と槍。防御の煌めきを纏った『鋼鉄の戦巫女』村上 真琴(BNE002654)と、ハイデマリーの視線がかち合う。通さない、と言葉なく訴える姿に、小さな舌打ち。 軽やかな踏み込みは、けれど酷く強引に間合いを奪う。短い呼気と共に、全力を込めて振り上げられた両刃が叩き付けられる。澄んだ音を立てて叩き割られる癒しと防御の術。重たいそれに鈍く咳こんで。けれど、それでも真琴は其処から足を動かさなかった。 次々とやってくる、歪夜の住人達。楽団の次は親衛隊だなんて忙しない事この上なく。けれど、それでも負ける訳にはいかないのだ。負ければ被害が及ぶのは自分達だけではない。 「……他の世界へも波及するこの場所を守り抜くことに死力を尽くします」 「そうだね、その為にも――早々にお引き取り願おうか、時代錯誤の亡霊だなんて舞台違いだ」 凛、と。耳を擽る声。掲げられた魔導の粋が激しくはためく。捲られる頁。唇が紡ぎうたう神聖術。全てを癒し、全ての脅威を打ち払う。高位存在の癒しを含む烈風を齎した『祈花の導鴉』宇賀神・遥紀(BNE003750)の色違いの瞳にあるのは、冷やかな色だけだった。 慈しみも深い愛情も、優しさも今は其処には無い。ただただ只管に。硝煙燻る亡霊を退ける為だけの冷静さ。敵の行動を見極め仲間を癒そうとする彼が、僅かに抱くのは焦りだった。 戦場の奥。本来自分が立つ位置から出は届かない程先で、機関銃抱える少年と戦うまおの小さな背があった。最前線まで回復が届く位置。それを果たすには彼自身が危険へと踏み込む事は必須で。己を護る影人は狙われれば容易く消え、そうすればもう壁は無い。 それを理解して。けれど、それでも彼は下がらない。打ち倒す術は持たないのなら、せめて全ての仲間を癒し支え戦う力を与え続けよう。それが、この戦場における自分の役割であるのだから。支援を一手に請け負う彼の首筋を、冷たい汗が伝って落ちる。 その視線の先で、不意に爆ぜる視界を、耳を、三半規管さえも狂わせるような閃光。最も敵が巻き込める位置へと正確に放られた神秘の閃光弾が、無数に動く人形の足を縫い止める。 「ごきげんよう、少尉殿。日本の飯には慣れたかい?」 「御機嫌よう、烏。悪くないな、どこぞの片田舎よりはずっとましな料理ばかりだ」 ライ麦パンとブルストばかりじゃ飽きるだろうなんて『足らずの』晦 烏(BNE002858)が手をひらつかせれば、少尉が低く笑って紡ぐ皮肉。嗚呼けれど口に合わないものもあるな、なんて呟きを耳にしながら、燃え尽きかけた煙草を放って新しいそれを咥え直した。 話せるようで、その実全く以てその考えは折り合えない。理性的な仮面を被るだけでこの敵もまた亡霊なのだ。過去を諦め切れない、時代錯誤の。動きを止めた人形の間。光さえ届かぬ暗黒が纏わり付く爪もまた限り無く黒。 その身を削り齎したそれを、指先一つで従え敵を喰らい。『it』坂本 ミカサ(BNE000314)はその唇を笑みの形に歪めた。 「どうも、アークの中堅です──とでも名乗れば良い? ……陽動なんて人が悪いね」 「人聞きが悪いな、君達方舟が何に困っているかは知らないが──『偶然』じゃないのかね?」 お望み通りやってきた『残り物』が、どれほどやれるのかどうぞ御覧下さいませ。皮肉混じりに竦められた肩。其れに応じた少尉の唇に乗るのもまた、からかい混じりの皮肉だった。光を映さぬ漆黒が、珍しく浮かべたのは嘲笑にも似たそれだった。差し出される手。月灯りに晒された爪が、偏光で鈍く紫を灯す。 「ご期待に沿えると良いけれど。……さ、やろうか」 満足いくまで。向かって来た敵のナイフを受けとめて。ミカサはやはり、酷く冷ややかにその瞳を細めた。 ● 放られた炸裂弾が、すぐ傍で爆ぜ割れるのを感じた。耳を劈く轟音と熱。肌を傷つける破片。爆風。けれどそれにも足を止めず、怯まず、悠里の拳が灯したのは、もう幾度目かもしれぬ雷撃だった。 傷を恐れず飛び込んで。視界に収めるのは随分と目減りした『蟻』の姿。此方を阻む黒を、爆弾抱える赤を。収められるだけ視界に収めて、一歩、二歩。叩き込まれる掌と拳と、そのたび爆ぜる高圧の雷撃。 背後に回らんと迫り来る黒を振り向きざまに殴り倒して。あと一体、伸びた手が流れる様に、けれど強かに機械の身体を吹き飛ばす。動くものなど残らない。紫電の踏破のその先で。 血と、泥に汚れた境界線の制服を纏った彼は背を伸ばす。罅割れたレンズに、視界を染める紅い色。誰より蟻の兵隊にとって、否、敵にとっての脅威になり得るだけの力を持って。けれどそれでも伸ばす手を緩めぬ悠里の瞳にあるのは、常の優しさでは無く覚悟だ。 「……渡せないよ。この場所は、色んな人達が命がけで守った場所なんだ」 この場所は特別だった。失われたものを知っている。喪いかけた恐怖を知っている。得たものがあってもう戻らないものがあって。決して離さないと決めたものがある。生と死の境界線を駆け抜ける覚悟のはじまり。手を覆う手甲を撫でた。 「僕の力は、仲間を護る為のものだ! だからこの場所は渡せない、進歩しない亡霊になんか渡せるもんか!」 剣でも無く盾でも無く。他でも無いその使い手を、己の周囲でその役割を担うものを護る為の存在に。決意を込めた手甲が淡く月明かりを弾く。これで、手が奥の親衛隊まで届く。それを確認して。立ち位置を変えたのは、龍治と烏。 スコープなど必要ない。頼るのは己の感覚と、手に馴染んだこの重みだけ。兵隊を、そして、その奥に立つアルトマイヤーまで。狙いすました光弾が、戦場を駆け抜け炸裂する。 「――晦に穿てるものを、俺が穿てぬはずがあるまい」 「流石流石、アークの狙撃手は伊達じゃないなあ。おじさんも吃驚だぜ」 腕を誇示する趣味は無くとも、目的の為ならば。無表情にその比類なき腕を示した龍治の横で、飄々と肩を竦める烏の下へと飛んで来たのは敵を追い続ける精密な魔弾。敵味方の間を縫って飛んで来たそれを受けて、返しとばかりに手元の銃の引金を引いた。 全く同じ軌跡を描いて。どんな的さえ射抜く弾丸が未だ遠い少尉の頬を掠める。ぱっと散った紅と、僅かに見開いた蒼い瞳。もう一度と、飄々とその手を振って見せた。 「互いに銃撃で穿つ時節の挨拶さな」 「風情があるとでも言えばいいかね? 嗚呼けれど、これはこれは。烏だけでは無く、方舟の八咫烏の腕まで直々に拝める機会はそう無いな、是非とも見せてくれたまえ!」 無論負けるつもりなどこれっぽちもないのだけれど。傷付いた頬の血を拭って。酷く楽しげに少尉が笑う。その声を聞きながら、まおはふらつく足になんとか、力を込め直していた。 息を吐いた。熱くて、震えている気がした。己を蝕む毒は重くて。それでもまおを支える様に、吹き抜ける癒しの風がある。足さえつけるのならば道がある。道があるのならその足は止まらない。さながら蜘蛛の如く戦場を駆け抜けエルンストと相対したまおは、その瞳を僅かに困った様に揺らした。 まおの立ち位置に、癒しが届く。それは間違い無く、遥紀が危険に晒されていると言う事に他ならない。けれど、その助力を拒むだけの余裕も、そもそもそれを知らせるだけの余裕も、今のまおには存在しなかった。 「頑張るなー、無理する事無いんだよ?」 どうせ最後にはみんな死ぬんだし。軽やかに、纏わりつき続けるまおに辟易しながらも。その手を休めないエルンストが溜息交じりに首を傾げる。兎に角視界を、取り回しの悪い銃の動きの阻害を。それだけを念頭に置いた彼女の動きは、確かにエルンストが攻撃をばら撒く事を阻止していた。 けれど、代償は軽くない。既に飛んだ運命と共に。従えた影は気付けば獰猛な大蜘蛛へと姿を変えている。満身創痍。痛くて苦しくて、それでも少女は囁かれる皮肉に首を縦には振らない。無理の一つや二つ、こなして見せようと決めていた。 だって。自分だけでは無いのだ。戦っている仲間が居る。声が枯れても癒しを呼び続ける仲間が。どれだけ血に塗れても剣を引かない仲間が。だから、やらなくちゃいけないのだ。 「……っ、今日のまおはとってもしつこいって、まおは思いました」 纏わりつく様に、機関銃の上へと昇って。舌を打った少年の顔をした男を縛り上げる幾重もの気糸。呪縛し傷付けるその糸を操る姿はさながら人形遣いの様で。血で滑りかけた黒糸を引き寄せて、まおは只管に、エルンストの手を阻み続けていた。 ● 「……マリー、彼を」 短く告げられた指示に、真琴と相対していた少女の瞳が動く。視線の先、立つのは遙紀だった。烏や龍治と相対しながらもその引き金を引かぬ上官の目的。 即座に察したのだろう、振り上げられた刃に膂力と、高められた魔力が乗せられて。そのまま一気に振り抜かれたそこから迸る暴威の砲撃。それは、真琴ではなく真っ直ぐに遙紀を狙い──けれど、目前で京子の影人に遮られる。 溶け消えた式神。届かぬ攻撃。其れが意味する所を察した京子が目を見開く。万能ではないのだ。庇ったとしても影人は精々持って一度か二度。通して護り続けるには、たった一人の手では余りに足りない。壁がなかった。他の式をあてがおうとして、けれど、もう間に合わない。 「君は少々優秀過ぎる。癒しの術においても、その立ち回りにおいてもだ。生命線に等しいだろう。けれどそれは裏を返せば、」 君さえ片付ければ問題無い。己の手番を最後に回した少尉が、薄く笑う。No.13。防護等物ともせず、正確無比に命を撃ち抜く魔弾が一直線に駆け抜け遙紀を穿つ。大量の鮮血が溢れ落ちて。その身体がぐらつく。明滅する意識と冷えていく末端。倒れるのかと思って、けれど、嫌だと手を伸ばした。 謳え。声が枯れても。福音を望め。祝福を願え。届かぬならば届くまで。叶わぬのならその手で叶えろ。叫べ。求めろ。血に塗れても救いたいものがあるのなら── 「――膝を折ってなんか、居られないな」 運命の残滓が、傷口から鮮血と共に零れていく気がした。咳き込んで、血を吐き出して。痛む胸元を押さえながら、またその唇は癒しを乞う。吹き抜ける癒しの風を感じながら、鮮血で濡れた魔導書が再び目の前へと掲げられた。 けれど。その祈りが全てを救えるとは限らない。ぜ、と荒い息を吐き出すまおの目前で。自由を取り戻したエルンストが苛立ちを露わにその銃口を向ける。 「お遊びは終わりにしようか、お嬢さん。あんまり手こずってると少尉に怒られちゃうからね……!」 「まおにとっては、お遊びなんかじゃありません。これは、まおのお仕事です……っ」 放たれた弾丸に乗せられたのは己の痛みを苦しみを混ぜ込んだ紛う事なき呪詛。撃ち抜かれた傷口から広がるそれが、容赦無く膿んで、痛んで。たった一人で善戦し続けたまおの身を遂に地面へと伏せさせる。軽い音を立てて己の血の海に沈む彼女を、気遣う余裕はリベリスタには無かった。 正しく前衛後衛、人間同士の戦争。一方的な蹂躙では無く何処までも互角で鎬を削り合う喧嘩にも似たそれ。嗚呼、悪くない。好ましい。只々何も考えずに殴って切って切られて血反吐を吐いて嗚呼それでもやめられない。視界を汚す紅を雑に拭って、創太は笑った。 「かかってこいよ! まだまだ、俺様は死んじゃいねえぞ!」 振り上げた刃が、その全身が。帯びる激しい雷撃。己の闘争心を、ともすればその身さえも。削って力に変えて、目の前の敵へ勢い任せに叩き込む。この上なく単純明快で、けれど最もデュランダルらしいその攻め手に応じる様に返された肉厚の刃。軽やかにかわして、睨み合って、また笑った。 フランシスカが、真琴が、己の手の届く限りの敵を殴り、切り、喰らい尽くす。出来る限りの火力を。徹底的な攻勢を。持てる限りの全力をぶつけながら、リベリスタは死闘を演じていた。 きん、と。高い音が響いた。爆ぜた弾丸と、僅かに傷付いた鷹のバッジ。少尉の誇りの具現であるそれを、再び狙い撃った烏は、此方を向いた蒼い瞳の前でゆらゆらと加えた煙草を上下に揺らして見せる。 ――狙ってみせろ。明確な挑発だった。無駄を嫌う完璧主義者かつ合理主義者だとは言うけれど。誇りを重んじる彼ならば、この煙草の火のついた部分だけ吹き飛ばす、何て芸当をやって見せてくれやしないか。 そんな思惑を、知ってか知らずか。遥紀を狙って以降、その指先は決して引金にはかからない。此方を見る瞳が、酷く不満げに細められた。 「そんな安い挑発に乗ると。私はそんなに安い人間に見えるのかね? 嗚呼、それは実に不愉快だ――公の為に自分を殺す事等ありえないが、自分の為に為すべき行動を見誤る程私は落ちぶれた『軍人』では無いのでね」 不快げに。けれど、撃ちはしない。その動作を、一度見た人間は知っていた。『待って』いるのだ。己の最高精度をぶつけるタイミングを。そして、高めているのだ。己が持ちうる狙撃の腕の限界まで、その集中を。 誇りを刺激し煽り苛立ちを引き出し、確かに攻撃の手を逸らす事には成功しているけれど。予感にも似た、背筋の冷える感覚に、表情の窺い知れぬ烏は煙と共に溜息を吐き出した。 「あーもう、やっぱり鬱陶しいからマリーもうやだ!」 じゃり、と刃と刃が擦れ合う音。片刃の穴が、狙いすました様に真琴の肩へと通る。捻りを加えてもう片方。断頭台で刃が落ちるのを待つかのように。縫い止められた其処へと叩き付けられる肉厚のそれが、骨まで砕く凄まじい音がした。 ぼたぼたと、血が落ちていく。白いものが見えていた。肩は抜けて、力は入らず。眩暈にも似た感覚と共に落ちかけた意識を、けれど辛うじて運命を燃やす事で堪えられたのは、ひとえに真琴の堅牢さ故。それでも限界ぎりぎりの彼女が、青白い顔を上げた。 「まだ、私はやれます……っお相手、願いましょうか」 「嗚呼もう、なんで方舟ってこういう奴ばっかなのよ! マリー少尉に褒めてもらいたいのに……いいわ、さっさとあんたを片付ける事にする!」 明らかな苛立ちをぶつける様な声。そんな彼女の視界の端で、向かってきた兵に切り伏せられた影人が消える。満身創痍。回復と、仲間の精神力どちらも癒す遥紀への対策は既にどの兵にも回っていた。まおが倒れ下がろうとも、庇う手が足りない事に変わりはない。 兵の一人の放った弾丸が、遥紀を撃ち抜く。もう限界だった。ぐらり、と傾ぎかけた身体を支えようとして、けれどもう運命は笑ってはくれず。それでも足掻く様に、その唇がさいごの癒しをうたう。ばしゃり、と。出来て居た血溜まりに沈んだ身体。髪が、服が、赤黒く染まっていく。 均衡が崩れるのを感じた。たった一人で回復を担い続けた遥紀が倒れるのは、まさしく生命線を失う事と同義。この先一切の癒しは無い。背水の陣と言うべき状況に、けれどリベリスタは足を止める事を許されなかった。 ● 振り上げた漆黒の大剣が、振り下ろされると同時に生まれた闇は、凄まじい怨嗟の呻きを上げていた。そのまま何もかもを呑み込んで一直線。後方のエルンストまで巻き込んだ一撃が、敵を弱らせ数を削る。 一人の兵が、唐突に取り出した手榴弾が視界の端に収まった。みっともない姿を見せる位なら死ね。その指示が持つ意味は、ある意味で慈悲だったのだろう。己のプライドを、もしかすればその身を。蹂躙されるくらいならばその前に。 それを体現するかのように駆け出した彼はけれど、敵を巻き込む前に振り抜かれた悠里の手が齎した絶対零度によって動きを止める。そのまま、勢いに任せて叩き込まれた足がその身を敵陣へと蹴り入れて。鋭い爆発音。 「そんなに優しい顔をして、君は中々に非情だな、設楽悠里」 「…………僕が護るのは仲間だけだ」 低い呟きは、狙撃手まで届いたかは分からない。振り切る様に次の敵に目を向けた彼の横で、ふわりと揺れたインバネスから覗く紫。指先が齎す澱み無き連撃は、一度だけでは終わらない。其の儘踏み込んでもう一度。大量の血と共に命を失いゆく敵に、ミカサは僅かに視線を落とす。 命を奪うのならばこの手で。それが、礼儀であり敬意であると思うから。血濡れた手を払う事もせず、痛む傷を押さえる事もせず。鈍く咳込んだ彼の視線がただ真っ直ぐに指揮官を見遣る。 「――俺は足りていないから」 だからこそ。足掻いてでも示したい。誰が無様だと笑おうと、泥に塗れようと膝をつこうとただ、目的を果たすだけ。このいけ好かない男の作戦とやらを妨害する事にこの全力を注ぐだけ。色を濃くしたスーツから、じわり、とまた紅が零れ落ちる。 対峙したエルンストを見遣る。既に半数の兵を落としているのだから。此処から先は、此処に立って彼を始末する事が自分の仕事。真白い唇を彩る血を拭って、背を伸ばした。 「足掻くのを止めない。それが『足りない』俺の意地で、誇りだ」 「……悪くない。君がその身を以て示すのならば、それは確かに君の誇りだ。私はそれに敬意を払おう。だからこそ見せてくれたまえ」 その誇りで何処まで足掻けるのかを。視線が交わる。それを、まるで引き戻すかのように。轟いたのは一発の銃声。何処までも正確に少尉を撃ち抜いたそれから感じたのは、冷気だった。もう幾度も浴びた攻撃によってじわじわと手首を締め付け続ける鎖が、そのきつさを増した気がした。 「八咫烏、今何を――」 『少尉、少尉少尉アルトマイヤー少尉ぃー! 寒いよ冷たいよ動けないよ死んじまうよう!』 尋ねるより早く。ノイズを交えて耳を劈いた声。まさか、と見開かれた瞳に、やはり龍治は表情一つ動かさず。烏がまるで面白がるように肩を竦めた。――この上ない『嫌がらせ』だ。 「……『それ』は厄介だ。けれど、幾ら火力を増強しようが、動けねば意味がない」 実に簡単なことだ。けれど、誰もが真似できる芸当ではない。ただ、己の技量のみで敵に攻撃を当て、かつ、間違い無くそれの齎す絶対零度を与えなくてはいけない。恐らくは龍治だからこそ出来た芸当に、少尉は素直に感嘆の息をつく。 つまらん、と首を振った。どれだけ誇ろうとも、その誇りに奢れば技量は曇るのだ。ただ只管に、研ぎ澄ませて研ぎ澄ませて。それは技術だけでは無く、その精神も同じだ。冷やかに見遣れば、男は静かにそのライフルを構え直していた。 ぴり、と痛みを感じる程に空気が張り詰めるのを感じた。限界まで高めた集中力。徹底的で絶対的な命中イメージ。それを、この一撃に。 「君が私を、そしてその先の曹長を狙う様に、私も『面倒な敵』から始末するのが信条でね。あんな精度で火の矢を撃たれるだなんてもうそれだけで十分面倒だったのだが――こんな芸当をされては叶わない。さっさと退場願おう」 曹長も泣きついて来た事だ。遥紀を狙ってから一度も指をかけなかった引き金に、その指先が触れる。一気に押されたそれから放たれる一撃。以前とは比べ物にならぬほどに高められたそれが、避ける事を許さず龍治を撃ち抜く。 内側から爆ぜる音がした。どろり、と零れ落ちそうになる内臓。腹部を押さえる間も無く、その意識が奪われる。一気に凍り付いた戦場で、誰より早く龍治の生死を確認した烏がひらひらと手を振った。――生きては、いる。 「私にその策を向けたのならば、自分もまた同じ様に狙われるとは思わないかね。――間合いに入ったんだ、君ほど厄介な人間を見逃すはずもあるまい」 低く笑う声。嫌がらせは確かに、ブレーメに影響を与えたようだったが、その代償に此方側が失ったものは、あまりに大きいのかもしれなかった。 駆け抜けた弾丸が、烏の喉元を撃ち抜く。ひゅ、と聞こえた高い音と、せり上がった鉄錆味。吐き出す間もなく目眩がして、力を失った身体が地面へと沈む。血と、倒れ伏す影と、鉄と火薬のにおい。呻き声と銃声と。戦場は、余りにも死の気配に満ちていた。 状況は、恐らく親衛隊に傾いていた。ぎりぎりまで数を減らしたリベリスタにはもう癒しの手はない。例え彼らがどれほど化け物じみた運命の申し子なのだとしても、その寵愛には限度がある。愛すべき上官の作戦は達成に至らなかったようだが──其れが齎す影響も、恐らくは此方を負けには導かない。元より、強化を目的とするものだったのだから当然ではあるのだが。 「総員、現状を保て。犠牲を減らす努力をしたまえ、勝っても被害とイコールでは釣り合わんからな!」 「……なんで」 小さな声だった。震える程に握り締められた運命喰らい。京子の顔が上がる。護る為に影人を呼び続けて呼び続けて。その精神力はもう限界に近かったけれど。それでも戦う事を諦めない彼女は、悔しさと、理解出来なさを叩き付ける様に声を張った。 「なんでそうやって笑って戦争できるの? 余裕? 戦争やってる人は皆そうなの?」 「そうだな、その問いに答えを贈るなら――楽しい、と思わねば頭がどうにかなりそうだから、だ」 低く返る言葉。其処に含まれる意味を、京子は理解しない。理解しようとも思わない。人を殺して笑う理由なんて。それがどんなものであったって、受け入れられるものなんかじゃない。小さく深呼吸。もう一度。頭痛を伴う程の集中で生み出した影人を従えた。 「……私は本気であなたを凹ませてあげたくなった」 作戦を失敗させてもこの男は笑って居られるのだろうか。見物だ、と。ぎりぎりの状況を知りながら、京子は諦める事無くその目を前へと向けた。 ● 戦闘は、熾烈を極めていた。兵を減らした彼らは、最も脆く動きの悪いエルンストにその全力を注いでいたけれど。向こうもそれを容易く許してくれはしない。 痛みを分け与える様に。真っ直ぐに放たれた呪詛の弾丸が、ミカサのこめかみを抉る。飛び散る鮮血と、内側から爆ぜる悍ましい呪詛。一気に紅に染まる視界と激痛が、意識を奪いかけて。 それでも、痛みさえ呑み込むようにその膝は折れない。からん、と軽い音を立てて眼鏡が落ちた。滴り落ちる血を押さえて。目は、逸らさない。 「嗚呼もう、なんでそんなに頑張るんだよ……っ、面倒臭いなあ!」 「悪いね、君の上司が言ったんだ。『見せてくれ』ってね」 合流阻止の為、任務成功の為、人を殺しに来たのだ。命を奪ったのだから、相応の痛みは当然だった。耐えてみせる。此処に立つと決めたのだから。浅くなる呼気を吐き出す。満身創痍だった。 戦って戦って、けれど、リベリスタがぎりぎりである事を知る敵は引こうとしない。舌を打って、フランシスカがその刃を振り上げた。怨嗟の絶叫と、恨みを募らす啜り泣き。渦を巻く暗黒を、其の儘目の前の敵へと一閃した。 ぼたぼたと、血が零れる。ついに限界を迎えたのだろう、その意識を失ったエルンストが、機関銃へと倒れ込む。やった、と安堵の息をつこうとしたその時。ざり、と重いものを引き摺る音がした。 「手こずっちゃった。ごめんなさい、少尉。マリー駄目な子。でも――」 軽々と。リベリスタの中へ放り込まれたのは意識を失い血塗れた真琴。同じく血に塗れたハイデマリーが、その表情を笑みの形に歪める。 「――ここから挽回すればいいってマリー知ってるわ。ほら、リベリスタ、マリーと殺し合って頂戴」 その首をくれ、と。少女が笑う。けれど、これ以上戦う余裕はリベリスタには存在しなかった。半数が、もう倒れ伏している。デッドラインだ。これ以上の戦闘は、恐らく間違い無く戦果以上の犠牲を払う。 誰ともなく、その足を下げる。近くの仲間を引き寄せて。撤退に走ろうとするリベリスタをけれど、呼び止める様に微かな金属音。 「悪いが、今回は逃がさない。前回の様に頭蓋の一つも吹き飛ばせないのでは狙撃手の名が廃るのでね――そうやすやすと、帰ってくれるなよ」 沈黙していた少尉の銃口が、此方を真っ直ぐ向いていた。集中は十分ではないけれど。今日も、未だ一発も外して居ない筈だ。ならば、精度は十分。微かに笑う唇。蒼い瞳が、リベリスタの誰かへと狙いをつけ。 ぐ、と。引金が力一杯押し込まれた。 ● ――銃声は、ひとつだけだった。 ばしゃり、と。 ペンキをひっくり返したかのような紅が、地面を、倒れ伏していた仲間を濡らす。 ただただ、あつかった。力の入らなくなった片足を支える代わりにその翼で宙を打って。その身を以て凶弾を遮った創太が、刃を握り直す。 眩暈がした。指の先から熱がどんどん引いて行くようで、けれど痛みが熱を持って脈打つようで。熱くて寒くて、けれど、それでも、真白くなる程に握り締められた手は剣を離そうとは思わなかった。戦場に背を向けようとは、思わなかったのだ。 「……行け」 短く告げた。息を呑む気配。その決断が意味する事など、この場に居る誰もが容易く理解出来た。半数が倒れ彼らの一人も失わずに逃げるには、残った敵は余りに『最悪』だったのだ。 エルンストこそ地に伏せさせたものの。此方を『逃がすつもりが無い』彼らから逃げるには、タイミングはあまりにも遅すぎた。方舟の構成員の命はまさしく『戦果』だ。前回得られなかったそれを求める彼らが、逃げる相手を追撃しない筈もない。 そして。その追撃は恐らく、そうそう距離を置こうと止みはしないのだ。自分達が相手取ったのは、狙撃手であるのだから。その手を止める方法はたった一つだけ。その足を、この場に縫い付ける以外有り得ない。それが、例え死の可能性を伴うとしても。 理解していた。だからこそ。創太は己を愛す運命にさえ手を差し出した。運命の女神は笑わず、その手を取ってはくれなかったけれど。身体は動いたのだ。背筋を伸ばす。滴り落ちていく血は止まらない。殿として、撤退しようかと考えて。低く笑って首を振った。 「何言ってんの? 一緒に来なきゃ駄目だってば、ほら――」 「さっさと行けって言ってんだよ! ――問題ねえよ、俺様の仕事は敵をぶっ倒す事だぜ?」 冷たい、けれど有無を言わせぬ程の力を持った掌が、フランシスカの背を押す。血が滲むほどに握り締められた拳。言葉は出ず。振り切る様に仲間を背負って、駆け出した。 遠ざかる足音を、けれど少尉は追わなかった。部下をも制し、蒼い瞳はただ真っ直ぐに目の前の彼を見遣る。 「それが、何を意味するのか分かっているのかね、君。私は間違いなく君を逃がさない。逃がすつもりもない。それが――」 「うるせえな、やるって言ったらやるんだよ! 悪いがこの公園は数多の仲間達の想いが籠ってるもんでな!」 例え死んだってこの先には一歩も通しやしない。刃を背負い上げて、手を広げて見せた。精々派手にやろうじゃないか。大好きな喧嘩だ。色を失い始めた顔に笑みを乗せた創太に、アルトマイヤーは僅かにその目を細め、其の儘その足を前へ出す。 嗚呼全く以てらしくない。部下に護らせ一撃で仕留めればいいと言うのに。如何してこうも、方舟は――否、今は、この目の前の青年が、だ――この心を掻き乱し引き付けるのか。狙撃体勢では無く。即座に動けるようにライフルを抱え直した。 「ならば、最後の最後までこの私が相手をしよう。――名前は?」 「創太だ。十凪・創太。弱きを護る――じゃねえ。互角の戦が好きなだけの、デュランダルだ!」 駆け出した。放たれた銃弾は、まさしく紙一重でかわす。研鑽し、これからも磨く筈だった身のこなしが今真価を発揮していた。振り上げた刃が月灯りを弾いて。鋭い音と共に、文字通り命懸けの喧嘩は始まったのだ。 ● 耳慣れた声が酷く高揚した声で自分を呼ぶのが聞こえる。ノイズ交じりの通信音。少尉? と確かめる声。けれど、それに応える暇を男は持ち合わせてはいなかった。 振り下ろされた剣を辛うじて銃身で受け止める。返しとばかりに飛ばした弾丸が、寸での所で掠める程度に留まった。死を覚悟し、その限界を超えようとする者が起こす『偶然』。かわす度に疲弊し、血は止まらず、それでも膝さえつかない創太に、覚えるのは感嘆ばかりだった。 「創太。君は如何して其処までする? 君が命を賭けるに値するのかね、彼らは」 「つまんねえ事聞くなよ……っ、自分が信じる仲間達の為に、どんな事だろうが……貫き通してやんのがデュランダルなんだよ!」 ぜ、と吐き出す息は荒く熱く。時折混じる咳と共に吐き出されるまだ紅い血。肺に穴が開いたのだろうか。それとも折れた骨でも刺さったか。どこもかしこも痛んで、重くて。けれどそれ以上に、其処には高揚感があった。 ただただ只管に。戦う事が楽しかった。自分が此処に立ち、相手も自分を見て、自分だけを相手取っている。それが強者であるのならば尚の事。ただただ楽しくて、そして、嬉しかった。 この手が剣を握る事が出来るのなら。この身体が少しでも動くのなら。自分はこの男を此処に縫い止められるのだ。其れこそこの命全てを使い切るまで。 自分は、間違いなく、この手で仲間を守り抜く事が出来るのだ。柄じゃないかもしれなかった。飛んで来た銃弾に肩を撃ち抜かれて。片手が上がらなくて。それでも強引に剣を振る。 笑った。笑って笑って、ああもっとだと手を伸ばした。もっと戦いを。自分の為に。仲間の為に。信じたものの為に。この命の最期の最期まで。戦わせてくれと手を伸ばす。 もう、ろくに景色が見えなかった。運命何てとっくに飛んでいた。音も聞こえなくて、真っ直ぐ立っているのかもわからなくて。嗚呼。未だ終わりたくない。剣を、振り上げて。 ――こつん、と。 胸元に、冷たいものが当たるのを感じた。振り下ろした刃が何かとぶつかる気配。肩口が裂けていた。血が溢れて。それを厭う事も無く、目の前に立つ狙撃手が創太を見据える。 「誇ると良い。その生き様に敬意を表そう。――このアルトマイヤー・ベーレンドルフに返り血を浴びせるのは君が最初で最後だ」 嗚呼。彼には勝てないのだと。アルトマイヤーは何処かで思った。彼は負けてなど居ないのだ。そして、もう二度と負ける事も無い。ある意味で、その命は勝ったのだ。 その命はこの先の『勝ち』へと繋げる為に差し出された。目の前の顔が笑う。未だやろうぜ、と。掠れた声を聞きながら。一発の銃声が、広場中に響き渡った。 ●御機嫌ようと照準合わせ ぼたぼたと、滴る血が銃身を、己の血に塗れた銀鎖を、そして、親衛隊の証明とも言うべき黒服を、染めていく。人の血とはこんなにも生温いものだったか。狙撃手としての誇りを持って以来触れた記憶の無いそれを感じながら、崩れ落ちた青年を見下ろした。 最期の最後まで、その手は刃を離さなかった。己の顔さえも濡らす血を拭う事無く、伸びた手がもう動かない青年の頬の血を拭って。 「――アルトマイヤー少尉ぃいーーーッ!!」 耳を劈く程の声。そう言えば先ほど通信があったような。振り向く間もなく、急速に近づいた足音と荒い呼吸音。何をそんなに焦っているのかと振り向けば、肩を弾ませた曹長がただ真っ直ぐに此方を見上げていた。その瞳が、恐らくは返り血に濡れた己を、そして傷の無い姿を確認する様に彷徨って。 不意に、寄った顔が何かを確かめる様に動く。僅かに寄せられた眉と、責める様な視線。嗚呼、全くこの飼い犬は。 「取り敢えずアンタが『負けて<死んで>なかった事』に俺ぁ一安心ですが……傷に、返り血だなんて。一体全体何が?」 「大したことでは……いや、素晴らしいものを見てな。柄にも無く遣り合った結果がこれだ」 運命と手を取り合う事が叶わなくとも。最期まで仲間の為に戦い死する。揺るぎない覚悟は美しい。感嘆交じりの吐息を漏らせば、微かに聞こえる衣擦れの音。其方に視線を投げれば、不意に顔を覆ったのは白――否、やはり『知らない誰か』の紅に濡れた、斑なそれ。掴み取れば見覚えのある手触りに、微かに肩を竦めた。 「血被りの貴方を見たら、誰も彼も肝を冷やしますよ。その手、ちゃんと使えます?」 「問題無い。君にだけは言われたくないな、……珍しい、それは返り血ばかりでは無いだろう?」 深々と残る刺し傷。殴打痕。火傷に鼻血、切れて腫れた唇にあちこち残る浅い弾痕。終いには軍服など焦げだらけ。随分な有様だと細められた視線が、一際赤黒く汚れたその首元へと動く。 今もじわじわと。血を滴らせ続ける真鉄。目の前の唇が、酷く楽しげに口角を釣り上げる。 「さっ、それじゃアルトマイヤー少尉。――この『鉄牙狂犬』にご命令を下さいな」 ぎらつく瞳。血のにおい。硝煙の残り香。命を奪い合い得た戦果はまだまだ到底足りやしない。目指すのは勝利。敵の殲滅。何よりも勝る存在である自分達の価値の証明。それを終えたなら先に何があるのだろうか、だなんて。巡らせかけた『余計な』思索を振り切るように首を振って、ずれた制帽を被り直した。 「――君の思う儘に。勝利を望め。その飽くなき欲望を私に見せ続けてくれたまえ。それが恐らくは最も、望む『戦果』に近付く術だろう」 「Jawohl,Mein Lieblingsleutnant! 往きましょう、生きましょう、全ては全ては『勝利』の為に!」 あはははははははは。犬の様に舌を出して、狼の様に狂い笑う。それに応じる様に薄く笑って、何時もの様に銃を背負い上げた。赤黒く濡れて光るそれが、鈍く月明かりを弾く。戦いの結末は、未だ知らなくて。だからこそ我々は幾度でも、この牙を敵へと突き立てよう。 ――災難は、滅多に一つで来てくれやしない。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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