● 子供っぽい我儘を言うのなら難しくなかった。 すきとか、あいしてるとか。甘ったるいあいのことばを重ねるのだって。 時計の秒針がこすれる音がした。窓の外はもう少し白み始めていて。朝が来たのかと、少し笑った。 とくべつな何かがほしかったのではないと、自分では思っていた。思っている。 あれがほしい、これをしてと強請るのはきらいだった。 素直じゃなくて可愛くないと言われても。これが私だと唇を噛んだ。 精一杯背伸びして笑って好きだと言ってけれどそれでもボタンを掛け違えたような違和感は消えなくて。 濁る感情はけれど言葉にしても伝わらない。ただただやだやだと駄々を捏ねる子供の様にしか見えない自分に辟易して。 呆れた様な声を聞くのは、もうたくさんだった。 「――すき、だよ?」 誰も居ない部屋で囁いた。僅かに反響したようなおとが溶け消えるのは一瞬で。 残ったのは、名前を知らない感情だけだった。 膝を抱えた。少しだけ目を閉じて、小さく、震えそうになる息を吐き出した。 あまく、かわいく、これだけは素直に紡げるあいのことば。 重ねて重ねて、違和感を拭う様に繰り返して、けれどそれは安息をくれやしなかった。 言えば言う程に覚えるこのさみしさにも似た感情はいったい何なのか。 分からなくて、見えなくて。目を閉じた。くらり、と感じた、眩暈にも寝た眠気と共に意識が落ちていく。 もうこのまま、目何て醒めなければいいのに、と。 口をついて出た筈の言葉が音になったのかは、分からなかった。 ● ぱらぱらと、手慰みの様に捲られていく紙の音。ぼんやりとそこに視線を投げていた『導唄』月隠・響希 (nBNE000225)は不意に、素直な方が可愛いのかしらね、と呟いた。 「良く笑い良く泣き、みたいな、漫画のヒロイン系のお手本女子ってやつ? ……ま、あたしには縁がないけどね。どーも、今日の『運命』よ」 座り直して、差し出される資料。目が覚めなくなった女の子がいるの、とフォーチュナは短く告げた。 「速水詩織。ごく普通の一般人。……とあるアザーバイドに、心の中にある不安と言うか、まぁそう言う暗い部分に付け入られて、眠ったまま目を覚まさなくなっちゃったのよ。 目を覚まさせるにはアザーバイドを片付けてもらうしかないんだけど……まぁ、ちょっと面倒でね。とりあえず詳細ね」 資料を捲る紙擦れの音。モニターに触れた指先が開いたのは、一枚の写真だった。 「アザーバイド『夢の通い路』。見ての通り、ドアみたいな形をしてる。……まぁ、実際に如何見えるかは行った人によって違うんだけどね。 これは、人の暗い部分から生じる、本当の願い、って奴を叶える事で寄生先を得ようとするの。寄生された対象は、望むままの夢を見て眠り続ける代わりに、その命を削られていく。 ……まぁ、しあわせなのかもしれないけどね、それも。でも、誰かが死ぬのをみすみす見逃す訳にもいかない。だから、あんたらに行って貰うわ」 目を覚まさせる方法はひとつだけ。夢の中で微睡む彼女の手を取ればいい。けれど、それを為すには『自らが超えなければいけない』のだと、予見者は首を傾ける。 「望むもの、あるでしょう。喪ったものでも欲しいものでも良い。あんたらを形作るもので、どうしても捨てられなくてけれど叶わないもの。それと、見つめ合って、振り切って貰わないといけない。 ……彼女の部屋に繋がる扉を潜れば、もうそこはあんたら個人の世界。如何抗っても良い、先に進んで、その欲しいものを捨てて、その先の扉を開けばいい。 彼女は、あんたらの答えを無意識に聞くわ。幾つかの答えを聞いて、手を取ってあげれば多分目を覚ませる。……彼女が目を覚ました時点で、アザーバイドは消滅するから。 あんたらがやる事は、自分の答えを見せる事。その決断に至る理由を、彼女に伝えたい事を強く持てばいい。単純なようだけど、簡単では無いかもしれないわね」 モニターの電源が落ちる。白い指先が操作盤から離れて、小さく、溜息を漏らした。 「人の心に絶対なんて無いし、完全な理解何て有り得ない。それを埋める為に言葉ってあるんだけどね、如何にも、人間って奴はそれを上手く使えないんでしょう。 ……難しい、仕事になると思う。気を付けて行って来て頂戴ね、いってらっしゃい」 後は宜しくね、と、少しだけ困った様に笑ったフォーチュナは其の儘ブリーフィングルームを後にした。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:麻子 | ||||
■難易度:NORMAL | ■ ノーマルシナリオ 通常タイプ | |||
■参加人数制限: 6人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2013年06月26日(水)23:07 |
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■メイン参加者 6人■ | |||||
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● 触れた扉は、ありふれた何処かの家の其れだった。『お祈り』を。小さな声で囁いて、『蒼き祈りの魔弾』リリ・シュヴァイヤー(BNE000742)はそれを押し開ける。 見えたのは、真白いレース。幸せそうな笑い声と、自分を見詰めて笑うひと。永遠を誓って近づく顔に瞳を伏せれば、重なる優しい温度。緩々瞼を開けて、次に見えたのは光差し込むリビング。 庭で揺れる洗濯物、かたかた音を立てる鍋。玄関の鍵が回って、愛しい声がリリを呼ぶのだ。今、帰ったと。 「こんな、未来もあったのでしょうか」 囁いた。戻れない過去と繋がらない未来。ひやり、と冷たい指環が唄う満ちる愛。途切れた紅い糸はけれど指から離れてくれなくて。この足を、手を、心を縛るのだ。 人を想う事。誰かと共にある事。リリをリリ・シュヴァイヤーと言う名の人間にしてくれたあのひとはもういなくて。なのに、得た心は無くならない。一人では無いと知っていても。満たされる幸福は失われて、行き場を失った愛が常に空虚な心を引っ掻いて、前が見えなくて、歩けなくて。 重ねた日々が痛いだけなら良かったのに。すれ違い、不安、我儘になり切れない辛さ。幸福の裏には痛みがあって、けれどそれを補って余りある程優しくいとおしい日々だったのだ。 「――ただの武器に心など、要らなかったのでしょうか」 どうせもう満たされやしないのなら。捨ててしまいたかった。想い出も感情も全て凍り付かせて眠りたかった。優しい微睡みが手招く。嗚呼、もうこのまま目覚めない様に―― ――ふわり、と。感じたのは暖かさだった。無意識に握った手を包むのは、柔らかで優しいひとのぬくもり。話すのは上手くないからと手を繋いでくれた人がいた。 何か特別な慰めを投げるのではなく。ただ、おかえりを言おうと彼女は言ってくれたのだ。何をするでもなく傍にいると、言ってくれた人がいる。優しく自分の周りに居てくれる人がいる。一人ではない。この痛みを聞いてくれる人がいるのだ。 未だ立ち直れてなんかいなくて。涙は止まらないだろう。けれど。 「泣く場所も……帰る、場所も」 此処ではなくて、ちゃんと存在しているから。優しく、名を呼ぶいとおしい声がした。唇に乗せかけた五文字は、もうあのひとには届かないから。この優しくて優しい夢とのお別れは、 「――ありがとう」 少しずつでも、過去を力に。この指環が繋ぐ愛しい日々を、優しい記憶に変えていくための、五文字で締めくくろう。小さく、何処かで鍵の外れる音がした。 ● 嗚呼実にらしくない。目の前に用意されたパソコンには、自分に対する期待のコメントで溢れる掲示板と、書きかけのプログラム。それを見詰めながら、『クオンタムデーモン』鳩目・ラプラース・あばた(BNE004018)は肩を竦めた。 自覚がある。なんてらしくない依頼に志願したのだろう。この世界は最高の安楽死装置だ。放っておけば幸福な夢の中で勝手に死ぬ。死にたくなければ幻さえ乗り越えればいい。量産すれば――なんて、考えて。椅子に座った。 「……人は二番目に大事な物の為に一番大事な物を捨ててしまえる」 或いは二番目に大事なことの為に一番大事なことを捨てて、一生気づきもしない。自分の師が言っていた言葉を、反芻した。大切なこと。自分にとってのそれはなんなのか。一番大切なこととは。目を伏せる。望むものは幾つもある気がした。 神秘と無縁の生活。神秘の力で仕事をした時の悪趣味な悦びの永遠。それとも、この地球上から神秘が駆逐された未来だろうか。指折り数えてみて、けれどどれも馴染まず。けれど、無意識に開いた唇が、音を発する。 「わたしはきっと、真っ当な人間になりたい」 人間だ。エリューションでは無くて。誰も殺さなくてよくて。誰にも迷惑をかけず、今目の前に広がっている電子の狭い世界の人たちに褒められて、少しだけ、世の中を良くしてくれるプログラムを書いて。 神秘なんて関係ない。否、『自分と同じクソ野郎の』エリューション共を殺してやりたいだなんて思いもせず思う必要も無い、そんな生活を送れる人間に。叶いそうな気がして、キーに手を添えて。けれど、自嘲するように低く笑った。 ――それは、無理な話だった。 例えエリューションじゃなくなったとしても、自分はただの引きこもり。何を如何突き詰めたって結局同属嫌悪を最大の糧にする、苛められっ子気質のひきこもりなのだ。そんなの変えようがない。神秘が云々なんて関係ない。 愛される喜びみたいな、そう言う健全な物は学ばないまま想像もできない儘に育った、鳩目・あばたなのだ。変えようがない。自分の中には無いのだ。自分が、本当に与えられるべきものなんてやつは、これっぽっちも。 「……だからお前には無理だ」 小さく、誰に言うでも無く呟いた。自分に一番必要なものは、自分が想像も出来ず、学ぶこともなかったもので。けれどそれ以上に、なによりも。 この身この心は既に、『今』に最適化してしまったのだから! 指先がキーを叩いて。強制的にシャットダウン。漆黒に変わった画面を、力一杯殴りつけた。 ● 目を開けた。ひどく、穏やかな空気と楽しげな笑い声。おかえりなさいと自分を呼ぶ声を聞いて、『アウィスラパクス』天城・櫻霞(BNE000469)は小さくただいまと呟いた。 何も変わっていなかった。リフレインする記憶の中にあるまま。戦いなどせず、神秘など存在せず、ただただ只管に穏やかで安らかな日常。当たり前でけれどだからこそもう二度と手には戻らない筈のそれ。 紛い物だ。理解していた。もしも話なんて詮無き事。もう時間は進んだ。もしも何て起こらない。知っている。分かっている。けれどそれでも、揺らぐのはこの意志の弱さか。拳を握った。窓硝子に映る自分の髪は黒くて、瞳は何方も紫で。 嗚呼。どれ程理解していようとも。もしもに、喪ったものに、未練がないだなんて言える筈もないのだ。あの日が無ければと思わない筈がない。繰り返し繰り返し、死と隣り合わせの世界で命を、精神をすり減らして。 傷付いて疲れ切ってそれでも遠い日を恋わない人間が居るのか。いや、きっと何処にも存在しないのだろう。しあわせだった日々を、全て壊された日。櫻霞の足は其処から、動けないのだ。 「今も昔も、変わらない。俺の時間は止まったままだ」 また。名前を呼ぶ声がした。幸せに笑っている両親が居る。この世界はきっと自分に優しいのだろう。戦わなくてもいい。苦しむ事も無い。血など見なくても良い。憎悪で塗り固めてけれどそれでも心は護り切れない。 軋みを上げる胸の何処かから目を逸らして似合いもしないリベリスタとして戦い続ける必要などこの世界には無いのだ。そして何より。もう、喪わないで済む。あの日手から零れてしまったものを。 血に塗れているだろう。幾度も幾度もこの手は命を奪って切り捨てて骸を踏み躙ろうと前に進んだのだから。けれど、けれどそんな血濡れた息子だろうと、彼らなら。父と母ならば、褒めてくれるのだ。良くやったと。優しい声で。 吐き出した息は震えを帯びている気がした。それでも。櫻霞の手は確りと、銃を握り締める。皮肉なくらい、手に馴染んだ重みだった。真っ直ぐに、目の前の両親へと銃口を向ける。 未練を、振り払わねばならない。この安らかな日々はもう二度と戻らないものだ。それでいいのだ。だから。此処で、もう一度。自分の手で両親を殺さねば。 「痛みしかない世界で、血を吐いてでも生きていくと、決めたのは俺だ」 誓いがあった。この先も手を離さないと、愛をかわしたひとがいた。その手を離す訳にはいかなかった。どれだけ痛くとも。その手だけは。引金に指をかける。櫻霞様、と呼ぶ愛らしい声が何処かで聞こえる気がする。 悪夢を超えねばならない。そして、止まった足を、この心の時を、先に進めなければいけないのだ。もう、立ち止まってはいられない。 「――ありがとう。さようならだ……父さん、母さん」 引金を押し込んだ。僅かに跳ね上がる腕と、硝煙の向こう側で。優しい顔が、もう一度笑った気がした。 ● 見詰めて押し開いた扉の先に居たのは、やはり、美しいとも言うべき蒼だった。嗚呼、と。『運び屋わたこ』綿雪・スピカ(BNE001104)は溜息にも似た吐息を漏らして、その目を伏せる。 まだ、新入りだった頃。目に焼き付いたのだ。圧倒的な力の差と、鈍く煌めいた鱗。目に映る全てが魅力的にしか見えなくて。あの日、自分は彼に恋をしたのだろう。 傍に居られる事が嬉しかった。妹として扱ってくれて、近付く距離が胸を高鳴らせて恋はこんなにも幸せかと微笑んで。けれど、知ってしまったのだ。彼に、寄添う存在を。将来を誓い合い微笑み交わす二人の姿を。 叶わないと知ってしまった。けれどそれでも願い続けてしまった。幼い恋心はけれど、罪でもあったのだろう。叶ってしまえば泣く誰かが、居ると言うのに。 一抹の夢だ。追いかけて追いかけてけれど掴めない虚像。叶っても叶わなくてもしあわせになれない、ひとりぼっちの恋。痛くて苦しくて傍にいる事が幸福だなんて感情は簡単に塗り替えられて、でも。 「……それでも、一緒に居たかった」 思い悩んで苦しんで。選んだのは、逃げる事だった。想いを封じ込めて。誰も苦しまない様にと目を閉じて。これで良かったのだと、信じていた。大好きなひとの手が頭に乗る。暖かくて優しくて、此の侭甘えたかった。 嗚呼、けれど。逃げた自分を引き戻したのもまた、彼だったのだ。激化した戦場。己の限界を超えて戦い続ける後姿。ああ、もう逃げて居てはいけないのだと思った。自分に何ができるのか。考えて、考えて。 強くなろうと、想ったのだ。隣に並んで闘う為に。己の名に恥じぬように。全てを、導く星になろうと。だからこそ。封じ込めた想いが足元を掬う事をスピカは誰より知っていた。決断しなくてはいけなかった。だから。 あの日。真っ直ぐに告げた言葉。彼は確かに、この心に存在した迷いを払ってくれたのだ。誰の影ももう追わない。自分らしく生きる。もう、迷わない。そう決めた。だから。 「わたしは――幸せの運び屋、綿雪スピカ」 もう行かなくちゃ。扉の向こうで眠る少女に、目覚めの光を届ける為に。離れた蒼が掻き消えていくのが見えた。 ● 願う幸福。方舟に来て、戦いながらも幸福そうに笑う彼らを見るまで考えた事も無かったそれを復唱して、『禍を斬る緋き剣』衣通姫・霧音(BNE004298)は、玄関扉を押し開けた。 広がるのは、普通の、本当に普通の玄関だった。廊下を進めばリビングがあって。二階には自分の部屋がある。両親が居て、年相応に制服を着て。そんな自分を鏡で見て、嗚呼、と首を振った。 真っ当な生き方なんてしたことが無かった。習ったの何て人を殺す方法だけ。その為だけに生きてきた。それこそ、年端もいかぬ頃からただ只管に、奪う為の刃であったのだ。 けれど。今になって。欲しくなってしまった。当たり前の幸福が。当たり前の、日常が。今の歳なら高校に行っていて、休日には友達と遊んで、恋をして、付き合ってみたりして。時には喧嘩だってしてみたい。 誰かと繋がって、笑い合って、励まし合って。ごく普通で血腥さの欠片も無い、当たり前の日常。平和で平凡で暖かな平穏だけがある、そんな世界で生き続けたいと、夢見てしまったのだ。 これは自分が望んだ世界だ。血霞で汚れて行く着物は無い。痛みも無い。刃を握る事も無い。笑ってしまうけれど、これが自分の欲しい夢だ。この夢の中で死ぬまで眠り続けられるのなら、それはある意味で幸せかも、しれないけれど。 「これは……決して『夢』じゃない」 ほんの数か月だ。けれど、その中で自分は確かに笑った。経験した事の無い、優しい記憶が確かに此処に存在する。望む夢は今からだって作る事が出来るものだった。幸福は何時だって、目の前にあるのだから。 きっと、気付けないだけなのだろう。確かにそこにある幸福は心を暖めてくれる。だから。幸せな夢なんて、必要ないのだ。残酷な現実だろうと、その中に一粒でも暖かな幸福があったのなら。 「それは己の心次第で幾らでも大きく出来る。――幾らでも生きる力に変えられる」 だから。手を伸ばせばいい。それをしないで嘆くだなんて、まだあんまりにも早すぎる。気付けば纏う衣装は何時もの紅の着物に戻っていた。目覚めよう。優しい夢は何処までもやさしいけれど。何時までも、こんな微温湯の安寧に浸ってはいられないのだ。 生きる場所は此処じゃない。痛くても苦しくても、現実の中で、しあわせを掴もうと生きているのが自分なのだから。其処に、光を見出さなければ。 「――そうして人は生きていくの」 そうでしょう、と。鏡の中の制服姿の自分に囁いた。唇に笑みが乗る。ぐらり、と視界が暗転した。 ● 目が覚めた。ベッドを抜け出て、鏡の前で顔を洗って。服を着替える。キャミソールは淡いピンクが良い。スカートも今日は揃えよう。白いニットを着て、今日もばっちり。 おはよう、と『ビタースイート ビースト』五十嵐 真独楽(BNE000967)が笑えば、兄が遅いぞ、と笑ってくれる。お父さんは新聞を読んでいて、お母さんは朝ごはんを作ってくれて。確り食べてから、用意を済ませていってきますと家を出た。 自然と軽くなる足取り。当然だ。だって今日はデートだから。大好きで大好きで仕方ないあのひとと! ペットに手を振って、けれどそこでふと、真独楽の足は止まる。そう、これは『夢』なのだ。目覚めなくてはいけない、優しい夢。 ほしいものがあった。生まれた瞬間なくして、もう二度と手に入らないと分かっているもの。憧れて、止まないもの。自分は本物の女の子だった。幸せな家庭に育っていて――嗚呼、勿論今の家庭が嫌だなんて事はひとつもない――苗字は、五十嵐では無い。 大好きな大好きなあのひと。自分の『パパ』とは他人で、自分が本当の女の子だったら。もしかしたら、彼と結ばれる事もあったのだろうか。俯いた。緩やかに膨らんだ胸元と、細いウエスト。本当の自分には無いものだった。 誰も、変わってるなんて言わないだろう。女の子らしい体型に馴染む下着と服。どうやって着よう、何て悩まなくてよくて。大好きな人を、そのまま大好きになって良くて。でもそれは、生まれた瞬間からもう、有り得ない世界だった。 「……いいなあ」 小さく、漏れた声。こうだったらいいのに。思って、けれど、少しだけ笑った。でも、きっとこうだったら。今の自分はいないのだ。だって、自分が「ちょっと違う女のコ」として自分を見失わないで済んだのは、他でも無い大好きな父のお陰だ。 生まれた時からずっと一緒の大好きなひとが、自分を「特別な女のコ」だと教えてくれたからだ。嫌な思いだってした。傷つきもしたし悩みもした。如何してと、嘆いた事だって何度もある。 けれどだからこそ、知ったのだ。人を傷付けてしまう言葉を、行動を。それは、きっとそう簡単には培えなかったものだ。だから、仕方ないのだ。大好きなパパを諦めるのはちょっとだけ悔しいけれど。 「……まこを特別な女のコとして受け入れてくれる、パパみたいに素敵な人、きっと見つけるよ」 踵を返した。向かう場所は大好きな父と言う名の恋人の下でも、幸せそうな一軒家でもない。背筋を伸ばす。これで良いのだ。無理して世界に合わせる必要なんて無くて、自分に嘘なんかつく必要もない。 本物の自分は、此処に確かにいるのだ。五十嵐 真独楽は、世界にたった一人の「特別な女のコ」だ。この世界で手に入れられるものがどれ程素敵でも、それは偽物だ。忘れちゃいけない。それが本物になってくれる事なんか絶対にない。 自分は自分だ。自分らしくあればいい。この、自分らしさには今の自分が持っているもの、経験した事、何か一つでも欠けたら簡単に失われてしまう。だから。 「――一緒に帰ろ」 ちょっぴり辛い、でも、嘘のない世界に。大好きなパパが、きっと待っていてくれるから。伸ばした手が、少しだけ冷たい少女の手を、確かに掴んだ。 ● 少女の泣き声がした。そっと、近寄って。霧音は未だ目を伏せる少女に囁く。目を開けて、と。真っ直ぐに前を見れば、きっとしあわせはそこにあるから。帰ろうと呼んで、けれど怖いと首を振った少女の前に。 現れたリリは出来る限り優しく、その手を取った。自分がしてもらった様に。温度を分ける様に。握って、額を寄せて。伝わりますか、と囁く。 「帰る場所、泣く場所があるのなら。辛い想いを、流した涙を支えに歩いていける日が来ると……そう、言って頂いたのです」 あの言葉は自分を確かに支えてくれたから。少女の眦から零れる涙を見詰めて、リリはもう一度囁く。帰るのが怖いのなら。一人きりが嫌なのなら。貴女の帰る場所を、此処に作っておきます、と。 緩々と、黒い瞳が此方を見た。涙の膜がいっぱいに張って、ゆらゆら揺れて零れ落ちる。言葉は無かった。鈍い音と共に壊れゆくせかいのなかで、もう開かない夢の扉が静かに消えて行った。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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