● 好き、とか。愛してる、だとか。履いて捨てる程吐いた言葉だった。 愛情と言う名前の欲だとか劣情に身を任せて囁く言葉は何時だって空虚で空々しく。残るものなど何一つない営みの中でそれでも何度それを囁いたのか。 ひどくありきたりでつまらないあいのことば。わざとらしくふっくらと色付けた唇にとっては何より馴染んだ安っぽい言葉の筈なのに。 「……なぁ、喩え話をしようか。あたしが男で糾未が女。そしたら、あたしは糾未を好きになったよ」 「そう、きっと私もよ」 囁いた声は何故だか少しだけ震えを帯びていた気がした。もしも性別が違っていたなら。愛おしくて憎らしいばかりのこの案内人が男であったなら。背伸びをしないで済んだのだろうか。夢見る様に笑える幸せなお姫様にでもなれたのだろうか。 あり得もしないもしも話はけれど、この寄添い合う様で傷つけ合う関係を端的に表しているようだった。欲が伴うには美しすぎて、けれど抱くだけにするには重すぎる劣情。 だから、きっと言いたくなかったのだ。あんまりにも唇に馴染んだそれはきっとどれ程の気持ちで吐き出しても重さを帯びてはくれないから。ただただ彼女を傷付けるばかりの言葉を、女はそっと呑み込む。 きっともう変わってしまったのだ。傷つくことに、死ぬことに怯えた自分はもう何処にも居なかった。臆病で泣いてばかりの自分から少しだけ離れた筈なのに、心はこれっぽっちも晴れてはくれなかった。 自己同一性の要。自分を傷付けながら何より自分を守ってくれた普通と言う名前のドレスを捨てた女は、酷く乾いた笑い声を立てて目の前のあおいろを見詰めた。 彼女の様に、なりたいと思ったのだ。自分よりずっと幼くけれど自分よりも『黄泉ヶ辻』に相応しい狂気を持つ彼女が愛おしかった。憎かった。傍に置いた。 きっと他の誰よりも自分に忠実であった彼女の願いから目を背けて。この手は歯車を回したのだ。噛み合わない儘に回るそれは自分と彼女の様で、寄添っていた筈の距離が、離れて。それでももう、止まれなかった。 「――ねえ、縁破」 自分の唇から溢れるけたたましい笑い声の後に、小さく囁いた五文字は二つ。煌めきを失わない瞳から、透明なものが転がり落ちた。 結局もう何も残っていないのだ。逆凪にも、六道にも、恐山にも、剣林にも、裏野部にも、三尋木にも似合いやしない。目指した黄泉ヶ辻にさえなれないなりそこない。 そこには諦めと、けれどそれでも伸ばす手しかなかった。見て欲しいものは自分なのに。舞台の上で被り続けるのは『黄泉ヶ辻の妹』の仮面。哀れだと、哂うのなら哂えば良いと目を細めた。 全て夢であったらいいのに何て目を瞑れる時はもうとっくに過ぎていた。 嗚呼けれど言わずにはいられないのだ。 「『さあ糾未、可愛らしく唄って頂戴。貴女の望むとびきりの狂想曲を!』」 「ええそうね、――楽しく歌いましょう、愛おしくて憎らしいこの世界の為に」 ――それじゃあまた、おやすみなさい。目が覚めたらすべて悪い夢でありますように。 ● 「どーも。今日の『運命』。……聞いて頂戴ね」 ひらひらと手を振って。『導唄』月隠・響希(nBNE000225)はモニターを背景にリベリスタの前に立った。赤銅の瞳が僅かに緊張を含んで伏せられる。 「少し前。逆貫おじさまと、望月チャンが予知したものがあった。『何もない』場所に『何かがある』事。黄泉ヶ辻のフィクサードが其処に居る事。勿論、アークは其処にリベリスタを派遣したわ。 その結果、分かったのはそこがあの黄泉ヶ辻糾未の拠点となる場所だったこと。……其処に住んでいたんだろう一般人を助ける関係上、それ以上を得る事は出来なかったけど……それは大きな意味を持っていたわ」 去年の秋。密やかに動き出した黄泉ヶ辻の『血濡れの薊』のお遊戯はまるで台本をなぞる様な退屈な狂気と共に続いていたのだ。力の弱いものを殺さずに痛めつければ、今度は其れに飽きたかの様に悪戯に世界に爪弾きにされたノーフェイスを量産し。 何も遺せぬ徒花の様に咲きながら、光何て何処にも見えない晦冥の道を進んだ女は声を持たぬ歌姫と言う名の、あの『ウィルモフ・ペリーシュ』のアーティファクトを手に入れ、遂にその足を自ら、踏み外したのだ。 ただ只管に、兄の様になる為に。兄の、誰かの視線を何の飾りも無い自分自身と言うものに向ける為に。 「酷い矛盾ね。愛しているのに憎い。自分自身を見て欲しいのに兄の様になる事しか考えられない。救いようがないとでも言えば良いのかしらね。……彼女は、『憧憬瑕疵<こえなしローレライ>』の目を覚まさせたわ。 今の彼女は存在を喰らうわ。その瞳と、彼女の中に寄り添う漆黒の蝶々――アザーバイド『禍ツ妃』の力で。この二つは切っても切れない。恐らく憧憬瑕疵を壊せばアザーバイドは消えるでしょうね。 逆は、……あれだけ飛んでる蝶々を全滅出来る、って言うなら可能性はあるかもしれないけど。まぁ無理だと思う方が無難かしら。まぁそれは置いておくとしても、『お姫様のお城』を知る事が出来たのは、とても重要な事だわ」 3月の戦闘で歌姫を目覚めさせた女の行方は、それ以降以降完全に知れなくなっていた。探そうにも手掛かり1つ無かった状況を打破した事は恐らく何よりの収穫だったのだろう。 「『憧憬瑕疵』は看過出来ないものよ。目覚めちゃったアレは、本当に世界を壊しかねない。糾未の目的がそうであるかは別にしたって、置いておいて良いものではないわ。暴走したら目も当てられない。 一番早いのは、彼女自身を始末する事。若しくは、何らかの方法で目を奪う事だけど……そんな簡単にはいかない。でもまぁ、打開策が無いわけじゃないのよ。 うちには居るでしょ、バロックナイツの魔女様が。……彼女が、一つだけ策をくれたわ。『あははー、これくらいで貸しひとつなんて言ったりしませんから快く使ってくださいね!』何て言って」 僅かに眉を寄せて。けれど緩やかに首を振った予見者は手元の資料を一枚、リベリスタへと差し出す。三角形と、綴られた術式。高位の魔術であろうそれこそが、彼女の差し出した策だと告げた。これを実行するのだ。 「要するに、対象を3点で囲むのよ。各点で術式を組み上げて、互いに結びつける。1つでも欠ければ効力は激減。でも、成功すれば恐らくあのアーティファクトは大幅にその力を減退させるわ。 タイミングと、防衛が全ての鍵を握ってるとしか言いようがない。勿論3点すべてが成功する事が一番だけれど……糾未の逃亡だって考えられる。見極めが重要になるわ。 その上、戦場は万華鏡を使用しての予知が上手く行かない。……前にも居たわね。『禍ツ妃』が飛んでる所為。精度が高すぎてあれに反応しちゃうのよ。その上、この場所は『存在しない』事になってる。 ……極端な話、真っ暗な部屋にライター一つ持って飛び込むようなものよ。かなり、危険な仕事になると思う。でも、此方から仕掛けられるチャンスを逃す訳にはいかないのよ」 此処まで大丈夫かしら、と。確認するように視線が動く。頷くリベリスタを確認してから、じゃあ、次ね、と予見者は言葉を続けた。 「黄泉ヶ辻糾未を、儀式範囲内に留める事。加えて、分かる範囲で良い。彼女の戦力についての情報を得てくる事。……当然情報を持ち帰る事も仕事なんで、帰還が望ましいわ。 おじさまや望月チャン達のお陰で、糾未が拠点としている場所は分かってる。現在の彼女の居場所は……多分、屋上。さっき視えたから間違いはないと思う。 あんたらは学校の屋上まで上がって、糾未を其処に留めなきゃいけない。儀式は、世恋とメルちゃん、数史おじさまが対応してくれてるから」 言葉が途切れる。じゃあ、次に行くわ。と、予見者はもう一枚の資料を取り出した。 「分かってる限りの戦力情報。黄泉ヶ辻糾未は勿論だけど、それ以外ね。恐らく、黄泉ヶ辻フィクサードが4人。ハッピードールが6体。ヘブンズも居る。ノーフェイス化の儀式が行われた事もあるみたいだから、ノーフェイスも居ると思う。 糾未はヘテロクロミアを所持してるとみて間違いない。……これ以上は何もわからないから、気を付けて。現状、話せる事はこれだけね」 資料が伏せられる。赤銅の瞳が幾度か瞬いて、緩々と視線が上げられる。言葉を探す様に彷徨ったそれが、リベリスタを見詰め直した。 「危険な任務になると思う。どうか、気を付けて。……無事の帰還を待ってるわ」 いってらっしゃい、と告げる声は硬く、緊張を孕んでいた。 |
■シナリオの詳細■ | ||||
■ストーリーテラー:麻子 | ||||
■難易度:HARD | ■ ノーマルシナリオ EXタイプ | |||
■参加人数制限: 10人 | ■サポーター参加人数制限: 0人 |
■シナリオ終了日時 2013年05月16日(木)22:50 |
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■メイン参加者 10人■ | |||||
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● 欲しかったものは力では無くて、なりたかったものは同じでは無かったのかもしれなかった。 けれどもう、それを後悔するにはあんまりにも遅すぎるのだ。目を開かねばならなかった。見開いて、現実を見詰めなくてはならなかった。 それは嫌だと駄々をこねて泣いたのだとしても。この身を満たし始めた闇はもう消えてはくれないのだ。 「――居なくなっちゃうのかしらね」 吐き出した声は、誰に届くでもなく夕焼け空へと溶けていく。 近いものを。己を愛しているかもしれないものを。喪っていっているのを知っていた。 でも、それでも、もう何もかも間違っているのだとしても。 この足を、退くつもりは何処にも残っていなかったのだ。 ● 感じたのは酷い不快感と違和感だった。目に入るもの。舗装の甘い道に、家に、今さっき潜ったのは昇降口。名前を知っている筈の其れはけれど、何故か己の知るそれと結びついてはくれない。 存在しているのに其処には無い。外枠だけを遺して綺麗に喪われたのであろうこの村と言う存在に眉を寄せながらも、『墓掘』ランディ・益母(BNE001403)の手は止まらなかった。数多の血を、戦いの証を織り込んで鍛え上げ直した黒金が唸りを上げる。 圧倒的暴力と、練り上げた魔力が織りなす烈風と言う名の暴威。上階からふらふらと降りて来た人間だったものを一気に切り裂いて、浅く、溜息を吐き出した。視えていない敵の存在は、ある意味で予想の範疇だった。 「熾喜多、次は」 「反対の階段から上がった方が敵は少ないね~☆ あともう少しだから頑張って!」 紅の瞳が、何処までも先を見通す様に細められる。『殺人鬼』熾喜多 葬識(BNE003492)の的確なルート探索は、間違いなくリベリスタの消耗を押さえていた。ふらふらと、屋上の女が持つヘテロクロミアに惹かれるように集まるノーフェイスは酷く弱く、けれど肉壁としては十分に邪魔な存在だった。 校内を駆け上る、外側から回る。メリットとデメリットどちらも存在する選択肢から前者を選んだこの状況で、最も的確に己の能力を生かした葬識は酷くつまらないと言いたげに喉奥で笑い声を立てた。 「俺様ちゃん、甘い物は嫌いなんだよねえ」 可愛い可愛いお姫様の御飯事は、本物を知る者にとっては余りに陳腐なのだろう。そんな彼の横合いから、ひらり、と舞ったのはかの漆黒の蝶々よりも艶やかな、夜のいろを帯びた揚羽蝶。雨の様に降り注ぐ翅が敵を撃ち抜き叩き伏せるのを確認しながらも、『告死の蝶』斬風 糾華(BNE000390)の足は止まらない。 冴え冴えと煌めく星が帯びた仄かな熱。それに似たものを抱えて、少女は物言わずただそっと、己の指先に舞い戻った蝶々を撫でた。夕方とは言え薄暗い校内を駆け上がるリベリスタにとって、光源もまた重要な存在だった。暗闇は視界を遮る。警戒心の隅を突く。 けれど、それもまた補う者がいた。己から零す煌めきで道程を照らしながら、『てるてる坊主』焦燥院 フツ(BNE001054)の握る槍が勢いよく道を遮ったモノへと突き出される。まるで木端の様に跳ね飛ばされたそれが壁に叩き付けられ、空いた空間に滑り込む様に入る漆黒の髪。 何処までも真っ直ぐに、けれどその拳に込めるのはまさしく全力。飛び込み勢いの儘に叩き付けた拳を受け止めたヒトガタが冷たい廊下に叩き付けられ其の儘物言わぬ死体へと変わる。拳に纏わる滑る紅を振り払っても『ザミエルの弾丸』坂本 瀬恋(BNE002749)の胸にある苛立ちは欠片も薄れてはくれなかった。 もう幾度目だろうか。本当に心の底から苛々させてくれる相手だと舌を打って、また上階を目指す。もう、すぐ其処だった。最前列を走るランディの手が、錆びた屋上のドアを勢い任せに引き開ける。開けた視界一杯に、広がるオレンジと黒い蝶々。 「――御機嫌よう、リベリスタ。もてなしは如何だったかしら?」 少しだけ高い、女の声だった。即座に消耗の見える仲間に己の精神力を分け与えた『it』坂本 ミカサ(BNE000314)がその声を追うように、視線を上げて。ぱちり、と。交わった先の紅に、覚えたのは怖気と、仄かな哀しみだった。哂っていた。何時かの様に。けれど、まるで泣いているようにも見えるそれに、想う事はあって。 けれど、未だその言葉は飲み込む。愛と憎しみ。覚えているのは何方なのか。物言わず引き出した紫の爪先を、何時もの様に前へと差し出した。 「語り合う言葉は持ちません。私には、貴女が理解出来ない」 初めての邂逅から、もうどれ程の月日が流れたのだろうか。心の在り様も、その力も。きっと形を変えたのだろうとリリは知っている。自分が、そうであるように。そして、その上で。分かり合う事はきっともう永遠に無いのだと言う事も理解していたのだ。 分かり合えない事も美徳だと、口癖の様に言う少女が居た。人と人が全てを理解し合うなんて事は、きっと不可能なのだろう。己の抱く矜持があり、信仰があり、願いがあり。譲れないものと失くせないものの狭間で理解し触れ合える者などほんの一握り。 祈りは狂信にも似て、裁きは何時か己が身も焼くのだろう。それでも。何処までも敬虔な信仰者『蒼き祈りの魔弾』リリ・シュヴァイヤー(BNE000742)は、遥か遠き父の為の魔弾である事を厭わない。押し込まれた引金が吐き出す蒼い焔。一気に水分を奪われた空気が、肌を舐める。降り注ぐ蒼は神罰だ。 目前の敵全てを巻き込む焔の中で、それでも女は哂っていた。美徳ね、と。囁いた声は酷く愉悦に満ちていて。紅の瞳がすうっと細められる。 「きっと、貴女と私の間に差なんて無いわ。見ているものが違うだけで」 敬虔な信仰は、ある意味で女の抱くそれとよく似たものではないのかと。答えを求めない問いだった。差し出された白い手に合わせて、敵が動き出す。全力を、尽くさねばならなかった。 ● 手段は無数にあって。けれど求められている結果は一つだけだったのだろう。予見者は告げていた。『儀式を行う事』が、今打てる最善の手なのだと。女自身を始末する事も、あの『目』を壊す事も示唆した上で儀式と言う手段が選ばれた理由など、言わずとも明白だったはずなのだ。 『今の黄泉ヶ辻糾未は余りにも危険』。特別なものを手に入れたそれを『倒す』為の弱体化儀式に於いて、リベリスタに出されたオーダーは『足止め』。兎に角この場を耐え切る事だった筈なのだ。他の仲間が、準備を整えるまで。 求められるのは継続力。倒すよりも凌ぐ事を。始末するよりも削り取る事を。癒しを切らさず、如何に数を減らし此方の消耗を防ぐのか。それを念頭に置いていたリベリスタは決して多くは無かった。 鮮血が散った。甘くけれど痛みを伴う歌声が、リベリスタを惑わせる。物言わぬまま来栖・小夜香(BNE000038)が放った魔力が傷付けたのは仲間である筈の『運命狂』宵咲 氷璃(BNE002401)。どろり、と濁った瞳が仲間を見詰める。唯一であり欠いてはならない癒し手を、庇う手は未だ無かったのだ。 リリや葬識が注意を払った庇う為の位置取りはけれど、この状況では機能しない。手の届く位置には存在したものの攻勢に徹していた為に、その手はあと一歩届かなかったのだ。痛みを飲み込んで。氷璃が紡いだのは黒のまじない。舞い上がったのは漆黒のレースと、白雪色。そして、まだ色鮮やかな紅。 「ごきげんよう。貴女は今も糾未かしら? それとも――」 「ご心配ありがとう、私は未だ、貴女達を大好きな黄泉ヶ辻糾未の儘よ?」 くすくすと、哂う声。彼女の末路はきっと、他の『所有者』と同じ様に破滅なのだろう。黄泉ヶ辻糾未と言う存在はきっとこの世界にはもう残らない。運命と言う名前の歯車は回り出してしまったのだ。けれど。 氷雪の運命論者は、その歯車が回り切るのを待つつもり等これっぽっちも無かった。例えこの姿が消えたのだとしても、犯した罪は、犠牲者は、何一つ無かった事にはならないのだから。 傷口から。指先から。舞い上がった紅は漆黒の呪縛に姿を変えていた。一気に戦場を駆け抜けるそれが、巻き込める限りの敵を絡め取るのを視界に収めて。続け様に戦場に走ったのは、まさしく破邪の閃光。 「気を確かに持て!」 絶望的状況を裂く様な、『T-34』ウラジミール・ヴォロシロフ(BNE000680)の声。仲間を苛む呪縛を完全に払ったそれを齎した彼は、それ以上を語らず己の敵へと対峙する。強大な、気味の悪い笑みを浮かべたそれが、楽しくて仕方ないと言うように奇声を上げる。 存在しないものを、もう増やす訳にはいかなかった。儀式を成功させる。この元凶を必ず仕留める。それだけを心に決める兵士の後ろで。吹き荒れたのはやはり、何処までも圧倒的な暴威。ドールを、前衛と思しきソードミラージュをずたずたに裂いた一撃を齎したランディが零したのは、やはり、溜息にも似た何かだった。 「何度も女の泣き笑いなんざ見るのは嫌いなんだよ……」 小さく、零した声はきっと女には届いていなかった。あんな、悲壮感しかない笑み等見たくはなかったのだ。どうせなら安らかに、幸福そうに笑っているのが似合うだろうに、なんて。思って、微かに自嘲した。こんな時に何を考えているのだろうか。 もう、戻らない事は分かっていたのだ。彼女だって分かっていたのだろう。こうなる事くらい。だから、齎すのは同情では無く終わりだ。斧を握る指先に僅かに力を込める。 ひらり、と。戦場を裂いた一枚のカード。けたけたと哂う道化は糾未に届く前に飛び出した人形に遮られたけれど。攻撃の手を減らすには最善の其れを放った糾華は、落ちかかる長い髪を払ってその首を傾けた。 「終わりの見えないオワリを歩くのはどのような気持ちかしら? お姫様。いえ、黄泉ヶ辻の糾未さん」 欲しかったものは逸脱では無かった。求めたものは力では無かった。それが、糾華には見えていた。けれど、それでも彼女が戻れなかった事も、分かっていた。知っていて、けれど何かに突き動かされて進んで進んでこの有様。完全に戻れなくなって、それでも後ろを振り向けない彼女。 意地っ張りなのね、と首を振った。言葉は上手く出て来なく、形にさえ出来ず。目指す物の為に『踏み外した』結果だけが違ってしまって。何処までも哀れでみじめで。 「『普通』の貴女を愛してくれたオトモダチに言うべきだったわね、「助けて欲しい」と」 「さあ、如何かしら。あの子は本当に、此の侭の私が良かったのかしらね?」 笑いながら傾げられる首。そうであって欲しいと願うようで、そんな事は有り得ないと嘲笑うようだった。何一つ見えてなど居ないのだろう。自己憐憫を零す女に、可笑しくて仕方ないと言いたげな乾いた笑いを漏らして。しゃきん、と、微かな軋みと共に音を鳴らす首切り鋏。 下らないくらいに滑稽だった。滲み出した漆黒が、目の前の敵に無差別絡み付き呑み込み崩していく。砂糖菓子の様だと、思った。見た目ばかり取り繕って食べてみれば甘いばかりで飽きてしまう様な大した面白味も無い存在。御飾り以外に殆ど価値なんて存在しないそれ。 狂っているとか狂っていないとか。どちらだって同じなのだ。崩してしまえば中身は結局みんな同じ。箱舟では異質とも言うべき、殺人鬼の精神を持つ彼にとって、その感覚は理解しがたくつまらない、甘ったるいものだったのだろう。 「糾未ちゃん、人形遊びだなんて普通の可愛い女の子だよね、俺様ちゃんも御飯事に混ざってイイ? もちろんお兄ちゃん役~☆」 「あら、残念だわ。私のお兄ちゃんは一人だけなの。それとも――代わりになれる程、貴方強いの?」 私一人倒せないかもしれないのに、なんて。笑う声。どれだけ狂った様な笑みを浮かべたって。其処にあるのは紛い物だ。狂気と言う名前の仮面を被っているにすぎない。嗚呼、本当に反吐が出そうだった。胸焼けしそうに甘いものなんて、これっぽっちも欲しくない。 やだやだ、と肩を竦めて見せた。黒い蝶々がふわりと、戦場に舞い降りる。振り抜かれた、ソードミラージュのナイフが一枚、その翅を千切って行った。 ● くるくると、深緋の槍が回る。組み上げられた印と唇から零すまじない。フツの編み上げた術式が展開され、楽しげに回復を振りまく女へと襲い掛かる。動きを止めんと蠢いたそれを、辛うじてかわした女をちらりと見遣って、けれどその瞳に迷いは存在しない。 多くを救う為ならば。斬り捨てるべきものは幾らでも存在した。それが悪人であるのならば尚の事。何もかもを救う事は叶わないのだから。 「絶対に逃がしやしねえ、俺が立ってる限りな!」 捕縛も、仲間のフォローも、全てをこなして見せる彼の視線は常に全体を確りと見据えていた。支えるものが居るからこその攻勢は、けれど必ずしも上手く行っているとは言い難かった。氷璃の瞳が見通した敵の構成はホーリーメイガスにクロスイージス、プロアデプトにソードミラージュ。 人形を庇い手に割かせ、糾未も回復に専念させようとすれば当然此方のダメージは減るけれど。それはすなわち、強力な回復を常に敵に与え続けるのと同義だった。長期戦にも短期決戦にも足りない作戦の中で、漸く倒れた人形を見遣って。 集中を高めた瀬恋の指先が、目にも止まらぬ速度で動く。撃ち出される瞬間など見せもしない正確無比な神速の抜き撃ちが狙う先は、女の手首で煌めく鮮やかなブルー。 「相変わらずシケた面してるな? 初めて見た時の方がまだ楽しそうだったかもな」 きんっ、と。澄んだ音を立てて、鎖が千切れる。先日の戦闘でも狙われ続けたそれの限界は、思いの外呆気無く訪れた。千切れたそれに、女が目を見開いたのは一瞬。凄まじい、咆哮が響き渡った。躊躇いなくガラスを踏み砕く音が駆け上り、屋上へと昇り来る。 叩き落された巨体が、屋上の縁から顔を出す。にたあ、と笑った様に見えたそれが、他の人形もフィクサードを巻き込む事を厭わず放つ絶対零度。絶叫が響いた。狙われた瀬恋の傷口が、血を流す間もなく凍てつき痛みを発する。運命が飛んだ。 血反吐を吐き出して。その身は崩れない。残量など知らぬ運命が、もしかしたら次の瞬間にも己を愛さなくなるかもしれなくて。けれどそれでも、その瞳が俯く事は無いのだ。生きようと、手を伸ばす限り。 「後先だぁ? 後なんて最初からねぇし、進まねえと先だってねぇんだよ!」 ただ只管に今だけを。一歩でも踏み出し先を目指せ。強い心根だけでその足を支えた瀬恋の目の前に広がるのは、阿鼻叫喚としか言いようのない状況だった。統率を失った人形が、無差別に襲い掛かる。敵味方を問わないそれはけれど、決してリベリスタに優位になるとは言い難かった。 即座に、糾未の回復が己の配下のみに絞られる。困っちゃうわ、と苦く笑ったその視線の先で、暴れ狂う人形が向かったのは小夜香の下。目を見開いた彼女を庇った、長い髪が一房、千切れて飛んだ。大量の鮮血が濡らして行くのは、信仰の証。常にリリと共にあり続けたロザリオと同じ様に、血濡れた身体が僅かに傾ぐ。 駄目だ、と手を伸ばした。自分は神の武器だった。世界を護る為の存在だった。生まれながらの信仰者。生まれたその時からリベリスタ。只々神が愛するであろう世界の為に。その相手が、黄泉ヶ辻の娘であろうとそうでなかろうと関係ない。 「――逃がしません、貴女が、守るべき世界に仇為す限り」 硬く硬く。握り締めた銃の持ち手は既に血で滑って。それでも離さない。膝を折らない。純粋過ぎる程に神へと祈り続ける修道女は、彼女が齎す神罰と同じいろの瞳を、その惨劇から逸らさない。 「貴女が誰であれ、その狂気がどんなものであれ、全て否定します。……私も狂っているのかも知れませんが、それでも」 「やっぱり、貴女は私と大差無いわ。そうやって、目を瞑ろうとする所もそっくりね」 くつくつと、絶叫に混じって響く笑い声。それを耳にしながら、その漆黒を細めたミカサは迷わず小夜香へと魔力を分け与える。今、回復を切らせる訳にはいかなかった。血のにおいばかりが満ちる戦場で、その先は到底見えやしなかった。 ● 濃い、血のにおいしかしなかった。無差別に動き回る人形たちは確かに互いを喰らい、数を減らしたけれど。守勢に一切回らぬ状況はリベリスタにとって大きな負担を強いられる事に繋がったのだ。 べったりと、血に染まったコンクリート。広がった真っ赤な水溜りを広げるのは、敵だけではない。手から離れたロザリオと、血に塗れた白い手。それを見遣りながら、辛うじて己を愛す運命の気まぐれで立ち上がった瀬恋が、苛立ちを露わに糾未を睨み据える。 激情があった。吐き出さずにはいられない程の。それを叫ぶことがどれ程危険であるのだとしても、彼女は言わずにはいられない。もう何度も何度も目の前で見てきたのだ。ただの、何も知らない人間を犠牲にして、それでもめそめそ泣く女が大嫌いだった。 「アタシはテメェのやってることも殺してやりてぇぐれぇムカつくけどな。煮え切らねえ態度がいっちばんムカつくんだよ!」 纏わりついて来る人形を、強引に振り切った。血の誓いを幾度も幾度も立てつづけた胸を叩く。殺してみろと、彼女は言うのだ。狂いたい狂いたいと叫びながら、誰一人殺そうと出来ない、殺そうともしない女。 何もかも中途半端で泣いてばかり。ふざけるなと、滾る瞳が叫んでいた。 「殺す気で来いよ。そしたらムカつく敵として黄泉ヶ辻糾未を覚えといてやる」 そんな事も出来ないのなら、記憶の片隅にも残らずそのまま死ね。手を向けた。自身の痛みさえ力に変える断罪の弾丸は糾未を傷付ける前に融け消えるけれど。齎された呪いはその身を確かに苛むようだった。糾未は応える様に、その唐傘を向けた。 「覚えていてくれるのなら。私は貴女を殺そうかしら。でも、残念ね。貴女が死んだら覚えているかどうか分からなくなっちゃうじゃない」 浮かび上がる、熱を伴わぬ灼熱の激痛。運命は笑わない。ぐらり、と傾いだ身体にぶつかる暴れまわるばかりの人形。諸共壁にぶつかって、ずるずると。紅のラインを描いて身動きさえしない瀬恋は辛うじて、その鼓動を止めては居なかった。完全に意識を失ったリリや瀬恋が何時、標的になるのかなんて誰にも分らない。 前衛後衛等とうの昔に瓦解していた。そんな中で、何処までも冷静に状況を見据え続けた氷璃の判断は早かった。自身とて決して打たれ強くはないけれど。少しでも敵を遮るように小夜香の前に立って、くるり、と血に濡れた傘が回る。一気に展開される魔法陣は、この場では彼女以外持ち得ぬ特別な魔術。 指し示した指の先。足を縫い止められた敵が、其の儘完全に動きを止める。頬に付いた血を、そっと拭った。どれ程苦境に立たされようと。氷璃がその手を緩めるつもりなど無かった。運命に抗う事を是とする彼女であろうとも。 糾未が抗う事は、許さない。 「さぁ、目を開けなさい。無い物強請りのお姫様。悪い夢では終わらせない。その身で裁きを受けなさい!」 「醒めない夢だなんて、私が一番知っているわ! 裁きなら下して見せて、出来るのならね!」 余裕の無い、強い声が跳ね返る。それを聞きながら、ただ只管に戻ってきた巨体を相手取るウラジミールは殴りかかってきた丸太の様な腕を、がっちりと受け止める。兵士の手の名を冠すそれはまさしく彼の手に馴染み、攻撃を跳ね飛ばすのだ。 暴走した中で最も恐ろしいこの敵が、これ以上の被害を齎さないのはひとえに彼の尽力故だった。何時かと同じ様に。身に降りかかる呪いなど厭わず縛られず痛みも全て飲み込み両手を広げ続けるその姿はまさしく鉄壁。 「なんとしてもここで食い止めるのだ!」 声を張り上げる。其処まで防御に秀でた彼が、己の余力を常に考え攻防を入れ替えていたからこそ。その身は崩れなかったのだ。己の魔力の限界を、体力の限界を。見極めていたものはそう多くはない。 握り締めたКАРАТЕЛЬが、眩い程に煌めいた。其の儘勢い良く一刀両断。振り落した特異なブレードラインの其れが、敵の翼の如き腕を其の儘断ち切る。絶叫と、鮮血の雨が降った。血腥さばかりに満たされていく戦場を裂く、全てを包む癒しの旋風。 小夜香は、浅くなる呼吸を整えながら、もう幾度も視線を交えた女を見据えた。持つ力は同じで。けれど何処までも相容れなかった価値観。漆黒の瞳が映したのは、僅かな後悔だった。 身の丈に合わない背伸びが、悲惨さしか生まない事を小夜香は知っていたのだ。知っていて、止める事は出来なくて。けれど。それを悔いる時間はもうなかったのだ。今出来るのは、せめて彼女を止める事だけ。全員が笑って帰れるように。この力を尽くす事だけ。 それでも、紡ぎたい言葉は止められない。 「今日も貴女を見せてもらいに来たわ。……私、自分を捨ててまで理想に近づこうとした姿勢は嫌いじゃなかったわよ」 覚えたのはむしろ憧れだったのかもしれなかった。誰一人失わない為に、自分は自分を捨てられるのだろうか。そう問うた事が無い訳では無かった。幾度も幾度も問いかけて。手を伸ばして。今日も問うのだ。自分は、もしも今此処で誰かが死に瀕した時。 この命を擲つ事は、出来るのだろうか。言葉を飲み込む。人形の狭間から、此方を見た瞳が凄絶に笑った。 「私も、貴女が嫌いじゃないわ。その手が何にも零さないで済む事を、せめてお祈りしてあげる」 「『まぁ、失ったら食べちゃえばいいんじゃない? 何にも無かった事になるものね!』」 けたけたと、同じ声が笑った。それを聞きながら、敵を掻い潜り糾未に迫ったのは鬼を思わせるほどの気迫を纏ったランディだった。がん、とコンクリートを踏み砕く程の勢いで踏み込んで。間合いを奪われた糾未が防ぐ間もなく、叩き付ける大斧。勢いと気迫に僅かに身を強張らせた女を包んでいた魔力の障壁が、澄んだ音を立てて崩れ落ちる。 鈍く、咳き込む音。裂けた肩口を押さえてよろめいた女を見詰めて。ランディが覚えるのはやはり、僅かな憐れみだった。 「お前のその技は確かにエゲつないが……殺せない。それが、お前、糾未って人間の本質だ」 「……そうよ、私は何にも殺せない! 欲しかったのは違うのに、こうじゃないのに、如何して、――っどうして、私は違うものになれないの!」 「『大丈夫よ糾未、私がいればなーんにも困った事は無いわ。貴女はもう特別なの。人とは違うの。何か辛いの? 私がみんな――』」 がつん、と。言葉を遮るようにコンクリートへと叩き付けられた大斧。跳ねたグレイが、強靭な異世界の獣の甲羅を叩いて、軽い音を立てる。射殺さんとする程の視線が、真っ直ぐにその片目だけを見据えていた。 「邪魔すんな『憧憬瑕疵』、もう終わらせるんだよ! 俺が戦ったのは、黄泉ヶ辻の妹じゃねえ。糾未って言う人間だ!」 泣いてばかりの女の涙を止められない事は、もう知っていたから。焼ける様な憎悪の視線の先で、僅かに濁った紅の瞳が、酷く楽しげにその目を細めていた。 ● 何処までも静かで、けれど鮮やかな煌めきが散る。夜の色が、敵の只中へと飛び込んだ。手の中の揚羽の翅が、目の前の敵を見境なく全て巻き込み裂いて行く。艶やかな蝶々のダンス・マカーブルは、一度だけでは終わらない。 もう一度。ダンスは時計の逆回り。ひらひらと、舞う糾華の姿こそまるで蝶々の様だった。それも、生と死の境を示す美しく残酷な。 「気をしっかり持って、まだやれるでしょう……!」 支える様に、声を張り上げた彼女とて無事ではない。痛み軋む身体を押して、それでも足を止めなかった。暴走を続けた人形も、ヘブンズを除けばあと二体。フィクサードも、厄介な癒し手と庇い手は沈んでいた。 あと少し。もう少し耐えれば良いのだ。仲間が、儀式を終えるまで。その想いだけで身体を支える仲間達と共にその力を振るいながら、葬識は嗚呼やはりつまらない、とその目を細める。 「ねえ、糾未ちゃん、君の狂気を見せてよ。そしたら俺様ちゃんも君の無意味(ラプソディ)を教えてあげる」 「あら、これが私の全力よ。物足りないならごめんなさい、私は所詮『普通』だから」 楽しげに笑う声。全てを睥睨する紅の瞳が、ばちりと瞬く。一気に何もかもを食らい尽くされるような。存在を覆されるような感覚に押し殺した悲鳴が聞こえた。純白の六枚羽根が、其の儘血溜まりへと沈んでいく。意識を失った氷璃に迫った生き残りの人形へと、突き立てられる暗い紫。 すらりと伸びた漆黒の背が、即座に崩れた身体を小夜香の方へと寄せる。戦線を支え続けながら、ミカサは眩暈さえ覚える程に疲弊した精神力を取り戻さんとする様に、浅く、その息を吐き出した。 視線の先で。相変わらず笑みを保つ女へと。逸脱者のススメを突きつけた葬識は、無意味を教えてあげる、と薄ら笑いを浮かべて見せた。 「誰かに狂っていると言われないと保たれないなんて、ただ狂ったフリをしてるだけだよ」 「? それがどうしたの? ずっと言ってるじゃない、私は、おかしくなれないんだって」 定義付け。狂っているのかいないのか。その問答はもう数え切れないほど箱舟の面々と繰り返した事だった。誰に狂っていると言われようと、それを認められなかった女にとってその言葉は至極当たり前のことで。それに何かを感じるには、時はあまりに流れすぎていた。 逸脱何て誰もが出来る事では無く。ある意味で『兄』に良く似た彼と女は恐らく到底理解し合えない存在だったのだろう。視線が外れる。つまらない、と鋏を鳴らした葬識はけれど、迫り来る人形の腕に膝が折れかかる。続け様。迫ったソードミラージュの刃は、受け切るにはもうあまりに余力が足りなかった。 ぐらり、と其の儘膝が崩れ落ちる。これで3人。段々と血だまりに沈んでいく仲間を気遣う余裕などもうなかった。袈裟が舞う。全力を以て突き込まれた大槍が、勢いのままに蠢いていた人形を屋上から弾き落とす。 「まだやれるよな! もうちょっとだ、頑張ろうぜ……!」 振り返って、笑う顔は誰よりも別の場所で戦い続ける仲間を信じているからこその眩さを持っていた。この身に満ちるは衆生の想い。この身が願うは衆生の救い。この身が纏うは衆生の誓い。どれ程傷つき苦しみ背負うものが重くなっても。 折れてはいけないのだと、知っていた。楽土は未だ遠い。視線を上げた、その先で。 真っ青な光が、暗くなっていく空を染め上げる。それは、合図だった。目的を同じとする仲間全員に届く様にと、一人の修道女が撃った希望の光。 リベリスタの瞳に、力が戻る。あと少し。此処にこの黄泉ヶ辻糾未を留めれば、この戦いは『勝ち』なのだから。 ● 80秒。短い様で、けれど今のリベリスタにとっては余りに長い時間だった。糾未の逃亡こそ見えないけれど。立つリベリスタは余りに疲弊し切っていたのだ。眩暈がした。辛うじて、身につけた術で魔力を回復した小夜香が齎すのはそれでも仲間一人を癒す清らかな微風のみ。 無限の力など存在しないのだ。傷を癒す術を持つ小夜香と、魔力を癒す術を持つミカサ。両方が万全であったからこその攻撃態勢は、長引けば長引いただけ容易く瓦解するものだった。ぜ、と荒い息を吐き出して。蝶々を舞わせる糾華とフツ、そして小夜香を巻き込んだのは怖気さえ感じる絶対零度。 ぐらり、と眩暈を感じた。運命が燃え飛ぶ音がする。限界を超えたフツが崩れ落ちるその横で、凍てつき軋みを上げる身体が地に伏せることを、けれど少女達はよしとはしなかった。紅の血が、足元を染める。白い髪を濡らす。震える指先が、そっと握り締めるのは胸元に煌めくもの。 「ねえ、黄泉ヶ辻の糾未さん。未だ糾えずと嘆くだけではつまらないでしょう?」 助けてさえ言えなかった彼女は、本当は寄添えていた筈のものをきっともう永遠に失ってしまうのだろうけれど。それを気遣ってやるつもりなんて、一つも無かった。彼女の後ろで、伸ばされる白い手。デッドラインを超えてしまった。けれど、あと一歩なのだ。あと少しだけ。此処に彼女を留め置けさえすれば。 死と隣り合わせの、死のにおいしかない其処で、癒し手は願うのだ。『誰も』失わない奇跡を。糾未でさえ、救おうと言う余りに白すぎる祈りをかけるのだ。 「笑顔で終われる奇跡ならなんだっていい、運命を投げ捨ててでも護るって決めたのよ!」 理想の為に全てを捨てようとした女の様に。自分だって身を捨ててやる。強く強く。願う気持ちはけれど、気まぐれな運命の女神の指先を掴む事は叶わなかったけれど。其の声に応える様に、伸びた手があった。 握った手首は、やはり酷く細かった。足止めと言うよりはただ、伝えたい言葉が其処にあったから。迷う事無くその手を掴んだミカサは、交わる視線へ小さく、心配しなくても忘れない、と囁いた。 「それは愛じゃないけれど、心に深く刻んであるのは本当だ」 言葉も声も受けた傷も痛みも全て。あの日、返せなかった問いの答え。愛し合う事等出来ないのだ。彼女が望むものが自分では無い様に。自分が望むものも彼女ではない。 ただ只管に『優しい事』をしたいと願うミカサの差し出す手にあるのは、何処までも愛と呼ぶには優しすぎる、他のものだった。紅の瞳が瞬く。何か言おうと、開いた唇はけれど微かに笑った。 「『嫌だわ、糾未。この人の話を聞いては駄目』」 「……今は俺の声だけを聞いて。思い違いなら笑えばいいから」 僅かに焦りを含む声を遮れば、少しだけ震えたなあに、という声。なんでまだ泣いているの、と問えば、紅の瞳は大きく見開かれた。疑問だったのだ。 「君の求めた物は全て「それ」がくれただろ。なのに何で、その笑顔は泣き顔のままなんだ」 その心は本当に、この歌姫を望んでいるのか。力を与えてくれて、特別に引き上げてくれて。兄とお揃いにしてくれて。彼女が望むものはもう全てそこにある筈なのに。 「――欲しかったのって、多分これじゃなかったの」 例えば愛何て名前の陳腐で、けれど愛おしいものだとか。糾未と言う存在を見てくれる、誰かだとか。そう言うものだった筈なのに。何処で間違えたのかももう分からない。甘やかに笑ったはずの紅から滲み零れた涙が、血塗れたミカサの頬へと滴り落ちる。手首を握り締める指先を、そうっと解いた。風も無いのに、漆黒の髪が舞い上がる。 何も見えない、と思った。真っ暗闇で目を瞑ってしまったようで。声さえ消す様な、魔力の奔流を感じた。煌めきに触れる黒い蝶々が溶け落ちる。ぼたぼたと、滴り落ちる涙に滲んだ真っ赤な色。引き攣れた悲鳴が聞こえた。霞みかける意識の先で、表情さえ窺えぬ女の指先がミカサの手に重なる。 「愛でなくていいから、お願いよ。おねがい、ねえ、私のこと、」 わすれないで。耳元に寄せられた唇から零れた、泣き出しそうに震えた声は一瞬だった。ばちん、と。何かが断ち切れるような音がして。圧迫感を齎す魔力が収束する。ぐらり、と揺らぎかけた身体はけれど、不意に力を取り戻した様に、確りとその足で地面を踏みしめた。 流れ落ちる黒。緩々、開いた瞳はどろりと濁った、あか。 「『残念ねぇ、こんなに弱っちゃったら、幾ら可愛い糾未でも食べちゃうわ!』」 何もかもを嘲笑うようなこえだった。指先が振り払われる。儀式は成功したのだろう。声無き歌姫は間違いなく危機に瀕し、打てる最善手を打ったのだ。そう、少しでも逃れる為の、『逃げ場所』を作ると言う、一手を。 戦うべきだと、誰かが言った。けれどそれはもう無理だと誰かが言った。半数は倒れ、残った者の傷も浅くはない。もし仮に此処で追いすがったとして、戦い続けるだけの余力は、もうほとんどリベリスタには残っていないのだ。 「……任務は遂行途中だ。帰還して初めて、この任務は完了する」 酷く冷静な声が撤退を促す。足を一歩引きかけたリベリスタの前で、黄泉ヶ辻糾未の姿をしたそれは楽しくて仕方ないと言いたげに両手を広げて、くるくると回って見せる。 「『ふふ、あは、あははははははっ! 最低最悪で最高の気分だわ、とっても素敵なプレゼントを有難う。今日の舞台はそろそろ幕引きね』」 それじゃあまた、悪い夢が醒めない様に。おやすみなさいと哂った女の足が、コンクリートを蹴る。 ふわり、と舞い上がった血染めの白と濡れた黒。揺らぐ蝶々とそれが、共に宙にあったのは一瞬。其の儘重力に従う様に。笑い声だけを遺した姿は、真下へと消えていく。 言葉は無かった。疲弊し切ったリベリスタの傍を、変わらず黒い蝶々が飛んでいく。未だ終わらないのだと、それは謡っているようだった。 ● 最後に見たのは、夜の色に染まっていく空と、幾つかの顔だった。そして、次に目を開けた時に見たのは。 何処までも鮮やかな、あおいろだった。 「あざ、み?」 細い手が自分を抱えていた。壊れ物を扱う様に。けれど、離したくないと言うように。ひどく、不安げな瞳にあるのはけれど安堵で。 愛おしむように、その、生を確認する様に。頬に触れた手に思わずくすくすと笑ってしまった。 「『……御機嫌よう! 貴女達のお姫様はとってもおいしかったわ!』」 あおいろの瞳に浮かんだ色は何だったのだろう。嗚呼酷く滑稽だと、笑いが止まらなかった。人とはなんと哀れで滑稽で愛おしい生き物なのだろうか。 愛しているのにそれさえ言えず。繋がっていた筈の糸を解いて切って捨ててからでないとその大切さに気付けない。 ぐらり、と。己を支える手が力を失って崩れ落ちる。それに薄ら笑いを浮かべて。女は一人立ち上がった。小さな身体を受け止める、白髪の女を見遣って。また、酷く楽しげにそれは笑う。 「『ねえ、ほら、早く帰りましょう? カヤちゃんはその子を連れて行ってね、阿国ちゃん達も、きっともうおうちでしょ?』」 貴女達のお姫様の門出を、皆で祝って頂戴と。それは哂った。力は明らかに減退し。けれどそれでも、よりどころを得たソレは未だ動き続けるのだ。 普通を捨てたがる女を想う者の気持ちも何もかもを踏み躙って。只々、その快楽的嗜好を満たす為だけに。 「『大丈夫よ、糾未。貴女のお願いは代わりにみーんなちゃんと叶えてあげる』」 今日、彼女は死んだのだ。明日はまたきっと、誰かが死ぬのだろう。此処は黄泉ヶ辻。死へと誘うただ只管な狂気の道程。 けたたましい笑い声が響いた。気を失った小さな手を撫でて。それは薄らと笑う。 あいしてる、と。囁く声は毒の様で。同時に、さようならを告げる様だった。 欲しいものは力では無かったのだ。 なりたいものは、彼では無かったのだ。 もっと大切で失ってはいけないものと繋いでいた筈の指先はもう離れてしまった。夢では無かった現実は、醒めない悪夢に塗り替えられた。 それじゃあまた、おやすみなさい。今度の夢はきっともう醒めない、何も叶わない悪夢だった。 |
■シナリオ結果■ | |||
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■あとがき■ | |||
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